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2012-01-08

物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・お腹から悟る
     ・身体革命
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト

 氏家〈うじけ〉さんのツイートで青木勇気というライターの存在を知った。


多数派か少数派かによって変わる“確からしさ”について | アゴラ 言論プラットフォーム

 BLOGOSは私の趣味に合わないため殆ど見ることがない。何て言うんでしょうな。インチキ臭い(笑)。多分、編集方針がないためだろう。雑多というよりは、まとまりを欠いているというべきか。

 早速、本人のブログを読んだ。

Write Between The Lines.

 先の記事もそうだがとにかく文章がいい。読んでいて気持ちがよくなってくる。その上、箴言力(コピーライティングのセンス)があるのだから侮れない。

 で、注目に値する記事を発見した。

「物語」とは何であるか

 私の専門分野だ(ニヤリ)。ケチをつけようと思えばどんな角度からもつけることが可能だ(笑)。しかし、私が「物語」に気づいたのは4年前のことである。青木は私より一回り以上も若い。ならば援護射撃をすべきだろう。

 私が「物語」を悟ったのは、上杉隆著『官邸崩壊 安倍政権迷走の一年』を読んだことに始まる。それ以前から「思想とは物語である」という持論があったのだが、上杉を通して「物語を編む」営みに初めて気づいた。

 私は文筆家ではなく古本屋のため、ここはやはり読書の水先案内としておこう。

 その頃、私が吹聴していた「物語論」は、岸田唯幻論の幻想とは違った。世界の構造・結構としての物語性であった。生きることが物語なのではない。我々は物語を生きるのだ。

唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀

 森達也の『A』はカメラの位置をオウム信者側にしただけで物語を反転させてみせた。

森達也インタビュー

 その意味で私の小さな思いつきが完全な形で表現されたのが、野家啓一〈のえ・けいいち〉著『物語の哲学』であった。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一

 もうね、ぐうの音も出なかったよ。当時は野家啓一が神様に思えたほどだ。きちんと書評を書いていないので一両日中にアップする予定。

 ここからが私の本領を発揮する地点だ。まずは歴史。理想的年代記が物語を紡げないのであれば、物語を編むのは歴史家の仕事となる。つまり歴史トピックの取捨選択に物語性が込められているのだ。ここでわかるように物語性の本質とは「因果関係」(=起承転結)である。

 そこでまず世界史という物語の枠組みを知る必要がある。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 次に歴史という概念を学ぶ。

読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘

 本気で勉強するなら、ここで野家本を再読するのが望ましい。

 で、先ほど申し上げた因果関係を木っ端微塵に粉砕するのがこれ。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 ここからの急降下はジェットコースター級となる。諸君、振り落とされるなよ(笑)。

 まずは岸田唯幻論を踏まえた上で脳機能を知っておこう。

唯脳論宣言/『唯脳論』養老孟司

 で、「負の物語」ともいうべき迷信・誤信について書かれたのが以下。

怨霊の祟り/『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎
誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 人類が創作した最大の物語は「神」であろう。

脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 ここで振り出しに戻って物語を見つめる。

必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー

 次は変化球になってしまうが、「相関関係=因果関係ではない」ことを学ぶのに欠かせない。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 医療や製薬会社を取り巻く「業界の物語」と置き換えることも可能だ。

 そろそろ最終コーナーに差し掛かる。

比較トラップ/『予想どおりに不合理 行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」』ダン・アリエリー

 更に加速しよう。ラストスパートだ。

エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

 これで大体、「物語の本質」は征服できる。あとは止(とど)めの2冊だ。

服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 物語の正体は確証バイアスであり、確証バイアスから宗教が生まれた。一言で書いてしまうと身も蓋もないように思えるだろうがそうではない。人間の「錯覚できる能力」が物語を紡ぎ出すのだ。

 ゆえに困難や危機が訪れるたびに「人類の物語」を更新してゆくことが正しい。個人においても同様である。

 ただし真の宗教性に立てば「物語=主役としての自我」から離れることが唯一の道となる。神という創造物は人類にとっての自我も同然であって、それ自体が物語にすぎない。今のところ真の宗教性として認められるのはブッダの初期経典とクリシュナムルティのみである。

 最後に青木の著作を紹介しておく。彼の勁草(けいそう)を思わせる柔らかな感性に期待したい。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
物語
虐待による睡眠障害/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

2011-12-11

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

 文明の発達は、存在を情報に変換した。いや、ちょっと違うな。文字の発明が存在を「記録されるもの」に変えた。存在はヒトという種に始まり、性別、年代、地域へと深まりを見せた。そして遂に1637年、ルネ・デカルトが「私」を発明した。「我思う、ゆえに我あり」(『方法序説』)と。それまで「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)。

 魔女狩りの嵐が吹き荒れ、ルターが宗教改革の火の手を上げ、ガリレオ・ガリレイが異端審問にかけられ、アメリカへ奴隷が輸入される中で、「私」は誕生した。4年後にはピューリタン革命が起こり、その後アイザック・ニュートンが科学を錬金術から学問へと引き上げた。120年後には産業革命が始まる。(世界史年表

 近代の扉を開いたのが「私」であったことは一目瞭然だ。そして世界はエゴ化へ向かって舵を切った。

 デカルトが至ったのは「我有り」であったと推察する。神学は二元論で貫かれている。「全ては偽である」と彼は懐疑し続けた。つまり偽に対して真を有する、という意味合いであろう。

 ここが仏教との根本的な違いである。仏法的な視座に立てば「我在り」となる。そしてブッダは「私」を解体した。「私」なんてものは、五感など様々な要素が絡み合っているだけで実体はないと斥(しりぞ)けた。またブッダのアプローチは「私」ではなく「苦」から始まった。目覚めた者(=ブッダ、覚者〈かくしゃ〉)の瞳に映ったのは「苦しんでいる生命」であった。

 貧病争はいつの時代もあったことだろう。苦しみや悲しみは「私」に基づいている。ブッダは苦悩を克服せよとは説かなかった。ただ「離れよ」と教えた。

 産業革命が資本主義を育てた。これ以降、「私」の経済化が進行する。一切が数値化され、幸不幸は所有で判断されるようになる。「私の人生」と言う時、人生は私の所有物と化す。だが、よく考えてみよう。生を所有することなどできるだろうか?

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 生の本質は反応(response)である。人間に自由意志が存在しない以上、選択という言葉に重みはない。

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
自由意志は解釈にすぎない

 人は自分の行為に色々な理由をつけるが、全て後解釈である。

 認知的不協和を低減する方法として、選択的情報接触というものもあげられている。
 たとえば、トヨタの車と日産の車を比較して、迷った後、かりにトヨタを買ったとする。買った後、「トヨタの車を買った」という認知と「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知は、不協和となる。認知的不協和は不愉快な状態なので、人は、認知の調整によってその不協和を低減しようとする。この場合、「トヨタの車を買った」というほうはどうにもならないから、「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知のほうを下げる工夫をすることになる。
 実際に、車を買った人の行動を調べてみたところ、車を買った後で、自分が買った車のパンフレットを見る時間が増えることがわかった。パンフレットは、通常、その車についてポジティブな情報が載せられている。したがって、自分の車のパンフレットを読むという行動は、自分の車が正しい選択肢で、買わなかったほうの車がまちがった選択肢であったという認知を自分に植え付ける行動だということになるわけである。認知的不協和理論の観点では、これは、行動後の認知的不協和低減のために、それに有利な情報を選択して接触する行動だと考えることができるわけである。このような行動を、選択的情報接触と言っている。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀
ギャンブラーは勝ち負けの記録を書き換える

 生命が反応に基づいている証拠をお見せしよう。


 時間軸を変えただけの微速度撮影動画である。まるで川のようだ。果たして実際に川を流れる一滴一滴の水は悩んだり苦しんだりしているのだろうか? 多分してないわな(笑)。では人間と水との違いは何であろう? それは思考である。思考とは意味に取りつかれた病である。我々は人生の意味を思うあまり、生を疎(おろそ)かにしているのだ。そして「私の思考」が人々を分断してしまったのだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 山本(七平)氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこには視覚の特徴が明瞭に出ているからである。「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。答えを言えば、それが長明の視覚であろう。『方丈記』の書き出しは、まさにそれを言っているのである。ここでは、運動と水という質料、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。形の背後には、視覚系がある。長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚-運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているではないか。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」(『方丈記』)。養老孟司恐るべし。養老こそはパンクだ。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

 ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 同じ川を流れながら我々は憎み合い、殴り合い、殺し合っているのだ。私の国家、私の領土、私の財産、私の所属を巡って。

 大衆消費社会において個々人はメディア化する。確かボードリヤールがそんなことを言っていたはずだ。

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 そしてボディすらデザインされる。

 ダイエット脅迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方。他人の注目を浴びたいというファッションの意識、つまり皮下脂肪が少なく、エクササイズによって鍛えられ、引き締まった身体というあのパーフェクト・ボディの幻想。ボディだってデザインできる、からだだって着替えられるというかたちで、じぶんの存在がじぶんのものであることを確認するしかもはや手がないという、追いつめられた自己破壊と自己救済の意識。他人に認められたい、異性にとっての「そそる」対象でありたいという切ない願望……。
 そして、ひょっとしたら数字フェティシズムも。意識的な減量はたしかに達成感をともなうが、それにのめりこむうちに数字そのものに関心が移動していって、ひとは数字の奴隷になる。数字が減ることじたいが楽しみになるのだ。同様のことは、病院での血液検査(GPTだのコレステロール値だの中性脂肪値だのといった数値)、学校での偏差値、競技でのスピード記録、会社での販売成績、わが家の貯金額……についても言えるだろう。あるいはもっと別の原因もあるかもしれないが、こういうことがぜんぶ重なって、ダイエットという脅迫観念が人びとの意識をがんじがらめにしている。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 バラバラになった人類が一つの運動状態となるためには宗教的感情を呼び覚ますしかない。思想・哲学ではない。思想・哲学は言葉に支配されているからだ。脳の表層を薄く覆う新皮質ではなく、脳幹から延髄脊髄を直撃する宗教性が求められよう。それは特定の教団によって行われるものではない。あらゆる差異を超越して普遍の地平を拓く教えでなければならない。

 上手くまとまらないが、長くなってしまったので今日はここまで。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)方丈記 (岩波文庫)悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
人間の問題 2/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ

2011-12-08

ホロコーストの真実を求めて


「しかしプールが見たければ、前もってそれが存在することを知っている必要がある。ガイドツアーでは見れないからだ。ガイドツアーには原則的に、ホロコーストの話をすでに信じ、それに対しておそらく何らかの感情を持つ観光客が参加する。選択的に編集されたガイドツアーで恐ろしい話を次から次へと聞かされた後、最後に最終駅のガス室に至る。この段階で、ツアーのグループは感情的にどんなことでも信じる準備ができている。ガス室は、観客を沸かせるための2時間の前座の後の主役に似ている」

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ










1960年以前はホロコーストに関する文献すらなかった/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン
「貧しいユダヤ人」だけがナチスに殺された/『新版 リウスのパレスチナ問題入門 さまよえるユダヤ人から血まよえるユダヤ人へ』エドワルド・デル・リウス
ガス室否定論者フォリソンを弁護したノーム・チョムスキー

2011-08-08

何が魔女狩りを終わらせたのか?


 何が魔女狩りを終わらせたかについては、いまだに決定的な学説がない。近代科学と言いたいところだが多分違う。私はキリスト教における「大覚醒」が魔女狩りを葬ったと考えている。つまり科学的合理性よりも、信仰に基づくプラグマティズムが人々の思考回路を変えたのだ。

 人間の脳は物語に支配されているため、集団力学に従うことを合理性と錯覚する癖がある。人間が科学的合理性を重んじるのであれば、近代科学の台頭が教会を滅ぼしていたはずだ。しかしながら脳を支配しているのは感情である。なぜなら言語機能は後になって獲得されたものであるからだ。

 こう考えると魔女狩り終焉からアメリカ支配の時代までが一本の線上に浮かんでくる。

 宗教次元ではプロテスタントが生まれたわけだが、世界構造としてはプラグマティズムに重きを置くべきだろう。すなわち、イギリス産業革命(1760年代)-ロスチャイルド家の金融基盤確立(ネイサンの逆売り、1815年)がプラグマティズムの端緒となり、魔女狩りを終わらせたのだ(と言い切ってしまうぞ)。

 近代の幕が開くと、金融という舞台で消費者が民主主義の劇を演じていた。監督:アメリカ合衆国、演出:ユダヤ資本、脚色:ルパート・マードック、協力:ハリウッド――そんなクレジットが浮かんでくる。

 問題は実利を重んじるプラグマティズムでさえ、キリスト教から脱却することができなかったという歴史的事実だ。多分、「働かざる者食うべからず」という価値観がマッチしたためだろう。

 プラグマティズムを打ち破る概念を探る必要がある。

プラグマティズム (岩波文庫)純粋経験の哲学 (岩波文庫)プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (岩波文庫)プラグマティズムの思想 (ちくま学芸文庫)

「キリスト教征服の時代」から脱却する方途を探る
魔女狩りの環境要因/『魔女狩り』森島恒雄
魔女は生木でゆっくりと焼かれた/『魔女狩り』森島恒雄
人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
視覚の謎を解く一書/『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
アニミズムという物語性の復権/『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス
黒人奴隷の生と死/『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫
ネイサン・ロスチャイルドの逆売りとワーテルローの戦い/『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵
化物世界誌と対蹠面存在否定説の崩壊/『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳

2011-07-29

必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー


 科学も宗教も突きつめると時間に行き当たる。人間が一生という時間に支配されている以上、それも当然か。ただ時間というのは概念であって実体はない。昨日の8時を持ってこいと言われても無理だ。

月並会第1回 「時間」その一
月並会第1回 「時間」その二

 とすると時間をどう解釈するかが問われる。人生の幸不幸は多くの場合錯覚であるといってよい。例えば「努力が実る」という言葉があるが、実際は実らない人の方が多い。成功者の発言が一人歩きしていると見ていいだろう。

 人間の脳は時系列に沿って因果という物語を仕立て上げる。我々にはよき出来事を必然と捉える癖がある。つまり「必然という物語」だ。

「起きたことだけのリストを見れば、まるで起こりそうもない一連の出来事のように思えます。でも、それは数霊術の世界の話。人は同じことだけを捜して、異なることをすべて無視する。(中略)
 こんなふうに類似性を探して、それについて想像を膨らませ、似ていることだけを数えあげるなら、誰であれ地球上の二人の間には、驚くほどたくさんの共通点を見つけられるでしょう」(イアン・スチュアート教授、イギリス)

【『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング:有沢善樹、他訳(アスペクト、2004年)以下同】

 このあたりについては既に検証されつつある。

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース

 その意味で体験はおしなべて擬似相関だといってよい。相関関係を因果関係と認識する誤謬(ごびゅう)だ。必然病。「為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」(上杉鷹山)。その意気込みやよし。だが人生や社会における出来事の因果を特定することは不可能だ。経済ですら予測が当たらない。

 本書では偶然と必然を天秤に載せ、これでもかと言わんばかりに偶然とは決して思えないエピソードを次々と紹介している。

 イギリス騎兵隊の将校メジャー・サマーフォードは、第一次世界大戦最後の年、フランドルの戦場において、稲妻に打たれて落馬した。それ以降、彼は腰から下がマヒしてしまう。6年後、メジャーはカナダのバンクーバーに移住する。そして、川釣りをしているときに、ふたたび落雷に遭い、右半身がマヒしてしまう。
 2年後、彼は地元の公園で散歩できるようにまでなった。ところが、1930年のある日、みたび稲妻が彼を襲った。それにより、彼の体は全身マヒになった。彼が死んだのは、それから2年後である。
 ゼウスはそれでもメジャー・サマーフォードを許さなかった。4年後、稲妻が彼の墓を直撃したのである。

 雷の祟(たた)りだ。人は不幸が続くと高価な壷を買わされる羽目になる。先祖の祟りも金次第。

 世界の人口からすれば三度も落雷に撃たれる人は存在しないに等しい。だが撃たれた人がいるとなると、今度は「なぜ撃たれたのか?」という理由探しを脳が始める。「原因は何か」と。

 起こってしまった出来事は書き換え不可能だ。必然志向の問題は別の可能性を封じてしまうところにある。メジャー・サマーフォードに雷が落ちたことは必然か偶然か? 例えばこう人もいる。

6回目の雷直撃も無事回復、なぜか数年の間に撃たれ続ける米国の男性
1分間で二度も雷に撃たれた人

 病気も同様である。遺伝要因と環境要因を特定するのは極めて困難だ。他にも進化医学では進化要因という見方がある。一つの事象には様々なことが複雑に絡み合っている。

 脳は退屈や平凡を嫌う。このため珍しいことや不思議なことに遭遇すると脳は活性化する。超並列で動く脳は色々な情報を結び合わせる。結果から起承転結を導き出すのは最も得意とするところだ。

 デレク・シャープはイギリス空軍のパイロットという職業柄、一般人より死の危険に直面する確率が高いが、それにしても多すぎる死の危険にこれまで直面してきた。しかも、ふつうなら死んで当然という状況から必ず生還した。これを単なる偶然の結果と片づけるのは無理というものだろう。(中略)
 彼が死と一戦まじえた経験は何度もあるが、最初のがいちばん劇的だったと言えるだろう。あれは1983年2月に起こった事故だった。レズ・ピアースという訓練中の航空士を同乗させ、ケンブリッジシャーの町や村の上空を時速1000キロで飛んでいたとき、二人が乗っていたイギリス空軍のホーク戦闘機にマガモが激突したのである。
 マガモは飛行機の風防を突き破り、デレクの顔を直撃した。衝撃で彼の左目が眼窩から飛び出し、首の骨が折れ、顔の骨と神経が大きな損傷を受けた。機上の二人にとって、死は確実かつ差しせまったものに思えた。
 シャープが覚えているのは「ドン!」という感じの衝撃だけである。「頭部全体を誰かに濡れた毛布で引っぱたかれた感じでした。ぼくは本能的に操縦桿を引き戻したんです。低空で緊急事態に陥ったときにはそうしろと訓練されていたからですよ。そうすれば、高度が上がって考える時間ができますからね」
「次の瞬間、意識を失いました。ぼくが意識を失っている間に飛行機がどこまで行ったか、誰にもわかりません。でも、最低2~3分は意識を失っていたはずです。気がついたときには、高度が1500メートルにまで堕ちていましたからね」
 しかも、恐ろしいことに目が見えない。「最初は、目に風防の破片が入ったのだと思いました……顔を拭ってそれを取り除こうとしたんですが、指にべたべたしたものが付着するじゃありませんか。じつのところ、私が拭い取ろうとしていたのは、自分の顔の〈破片〉だったんですよ。痛みはまったく感じませんでしたが、左目が眼窩から飛び出していたんです」

 飛行機はその後、管制官の指示で無事着陸できたという。まったく身の毛もよだつ話である。さすがに著者も脱帽している。

 9.11テロ以降この手の研究も進んでおり、危機的状況で英雄的行為をする人や生き延びる人(サバイバー)に共通性があることがわかりつつある。(英雄的人物の共通点/『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー

 必然という観点からみれば運命と宿命は同じものだ。過去が現在と未来を支配する構造になっている。必然は何となく自己実現と同じ匂いがする。自分という存在の正当化を図る目的がありそうだ。

 偶然主義になればニヒリズムとシニシズムの罠にはまり、必然主義になれば強い思い込みが他の可能性を見失わせる。とすれば、偶然からも必然からも離れて中道をゆくしかない。人生の出来事は「ただある」のだ。そして私も「ただある」というのが本質なのだろう。

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ユングは偶然の一致を「時間の創造行為」と呼んだ/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー、ブライアン・キング
歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答

2011-06-23

意味に取りつかれる脳~Meの正体はMeaning


善悪とは
目的論と自己実現

 上手くまとまっていないのだがメモしておこう。人間の脳、すなわち思考は意味に取りつかれている。この辺りが目的論の正体だと思う。つまり、Meの正体はMeaningってわけだ。しかもMeは「目的格」である。ざまあみやがれ、私の勝ちだ(笑)。脳は意味を明らかにする物語を必要とする。意味=物語性という図式になっている。

 実に面白い。主格、所有格、目的格を哲学的に読み解くことが可能かもしれない。主格=存在、所有格=欲望、目的格=目的論。

 ここから強引にカントの格律へ持ってゆき、Mine(独立所有格)とアニミズムを結びつけ、エスノメソドロジーから東洋と西洋の違いに切り込むだけの力量が、残念ながら私にはない(笑)。

 ポストモダンよりも、脱アリストテレスという視点が重要だと思われる。

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
唯幻論の衝撃/『ものぐさ精神分析』岸田秀
アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

2011-06-06

自閉症者の可能性/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・宗教の原型は確証バイアス
 ・自閉症者の可能性

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 順番だと、レイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を書くはずなのだが、今日はそれほどの体力がない。万全の体調でなければ歯が立たない代物だ。そこで『ポスト・ヒューマン誕生』と併読すべき本書を紹介することにした。

 実は全く畑違いの本ではあるが、知性という一点において恐るべき共通性がある。テンプル・グランディンは自閉症の動物学者だ。知能は優れていることから、アスペルガー障害と思われる。彼女は幼い頃から動物の気持ちを理解することができた。

 私は動物はどんなふうに考えているかわかるのだが、自閉症でない人は、それがわかった瞬間はどんな感じだったときまってたずねる。直感のようなものがひらめいたと思うらしい。(中略)
 子供のころは、自分が動物と特別な結びつきがあるとは思ってもいなかった。動物は好きだったが、小さい犬は猫ではないのだということを理解するだけでも苦労した。これは人生の一大事だった。私が知っていたいのはどれもみな、とても大きかったから、犬は体が大きいものだと思っていた。ところが近所の人がダックスフントを買ってきて、さっぱりわけがわからなくなった。「なんでこれが犬なの?」といいつづけ、謎を解こうとしてダックスフントをじっくり観察した。ダックスフントがうちのゴールデンレトリーバーと同じ種類の鼻をしていることに気づいて、ようやく納得した。

【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン:中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

 本書が凄いのは、自閉症と動物心理という別次元の話を何の違和感もなく縦横に織り込んでいるところだ。この文章からはカテゴリー化に苦労していることがわかる。つまり自閉傾向がある人は細部を中心に見るのだ。

 そのしかけが目にとまったとたんに、私はおばに車を停めてもらい、車から降りて見物した。締めつけ機の中にいる大きな牛から目がはなせなくなった。こんなに大きな金属製の工作物でいきなり体を締めつけられたら、牛はさぞかしおびえるだろうと思うかもしれないが、まったく逆だ。牛はじつにおとなしくなる。考えてみればわかるのだが、だいたい誰でもじわりと圧力をかけられると気持ちが落ち着く。マッサージが心地いいのも、じわりと圧力を感じるからだ。締めつけ機で締められると、新生児が産着(うぶぎ)に包まれたときやスキューバダイバーが水にもぐったときに感じる、おだやかな気持ちになるのだろう。牛は喜んでいた。

 少女時代のエピソードである。言われてみればなるほどとは思うものの、そこまで動物を観察することは難しい。羊水に浮かぶ胎児や抱っこされる赤ん坊を思えば、締めつけられることが心地いいというのは納得できる。

 馬はとりわけ10代の子どもに好ましい。マサチューセッツ州で精神科医をしている友人は、10代の患者をたくさん診(み)ているが、乗馬をする子には、かくべつの期待をかけている。同じ程度の障害で同じ問題をもつふたりの子供のうち、ひとりは定期的に乗馬をし、もうひとりは乗馬をしない場合、最後には、乗馬をする子のほうがしない子よりも改善が見られるというのだ。ひとつには、馬をあつかうときに大きな責任がともなうため、世話をしている子は好ましい性格を発達させるということがある。だが、もうひとつ、乗馬は見た目とちがって、人が鞍に腰かけて、手綱を引いて馬に命令するものではないということもある。ほんものの乗馬は、社交ダンスがてらのフィギュアスケートによく似ている。おたがいの関係で成り立っているのだ。

 これなんかは、自閉症のお子さんがいるならば試すべきだと思う。たぶん情愛ではなく、システマティックな関係となっているのだろう。それでも関係性を広げることは大切だ。

 マーク・ハッドン著『夜中に犬に起こった奇妙な事件』の主人公である少年もアスペルガー障害だが、彼は表情があらわすサインを読み解くことができない。人間関係のトラブルを防ぐために、感情別の顔マークが書かれたカードを持ち歩いていた。

 彼らは我々と異なる世界で生きているのだ。まずそれを認めることから始める必要があろう。異なる価値観ではなく異なる世界を認めること。そうすれば、無理に「こちらの世界」へ引きずり込もうとする努力も不要になる。

 自閉症をもつ人は動物が考えるように考えることができる。もちろん、人が考えるようにも考える――そこまでふつうの人とちがううわけではない。自閉症は、動物から人間へいたる道の途中にある駅のようなものだ。そのおかげで、私のような自閉症の人は「動物のおしゃべり」を通訳する絶後の立場にある。私は、動物の行動のわけを飼い主に説明できる。
 好きだからこそ、自閉症を抱えていながら成功できたのだと思う。

 とすると自閉症は前頭葉の機能障害なのかもしれない。「障害」というべきかのかどうかも微妙だ。なぜなら自閉傾向の強い人は増えていて、発達障害、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、更にはパーソナリティ障害などの症例で知られている。

 ってことはだよ、ひょっとすると進化している可能性もあるのだ。都市部の人口密度の高さ、満員電車、高速道路の渋滞、汚れた空気、ジャンクフードなどの環境リスクを回避するために、脳機能が変化したと考えても不思議ではない。

『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス

 動物はサヴァン自閉症の人に似ている。それどころか、動物は、じつはサヴァン自閉症だとさえいえるのではないだろうか。自閉症の人がふつうの人にはない特殊な才能をもっているのと同じように、動物もふつうの人にはない特殊な才能をもっている。たいていの場合、動物の才能は、自閉症の人の才能があらわれるのと同じ理由であらわれると私は考えている。自閉症の人と動物に共通してみられる脳のちがいだ。

九千冊の本を暗記する男 サヴァン症候群とは

 私は会話の中の特定の言葉や文章をほとんどおぼえていないから、なにをきかれたか記憶にない。自閉症の人は絵で考えるからだ。頭の中では、まったくといっていいほど、言葉はめぐっていない。次から次へとイメージが流れているだけだ。だから、質問の内容はおぼえていないが、質問をされたということだけはおぼえている。

 これを直観像記憶(映像記憶)という。手っ取り早く言ってしまおう。彼らはたぶん物語を必要としないのだ。だからこそ感情や意味を読み解くことができないのだろう。豊かな感情=善ではない。行き過ぎた恋愛感情が刃傷沙汰(にんじょうざた)に発展することは珍しくない。生真面目な人が精神疾患となりやすいのも、相手の感情を考えすぎることが原因になっているような気がする。ステップを相手に合わせよう合わせようと努力して主体性を喪失する羽目となる。

 テンプル・グランディンは自らの自閉症を通して、動物の世界を我々に見せてくれる。私は本書を読むまで少なからず、動物を知能の劣った人間みたいに考えていた。

 世界とは世界観を意味する。世界観とは何らかの情報に基づいたシステム(系)のことだ。それが直観像だろうと感情だろうと世界であることに変わりはないし、何の問題もない。ただ、一般人とのコミュニケーションに齟齬(そご)をきたすことがあるというだけの話だ。

 自閉症の世界は決して貧しい世界ではない。むしろ人間の別の可能性を示す豊かな世界であるといってよい。

 私が設計した「中央トラック制御システム」は北アメリカのおよそ半分の向上に設置されている。

 マクドナルドも彼女のシステムを導入している。動物の気持ちがわかる彼女ならではの見事な社会貢献だ。



テンプル・グランディン:世界はあらゆる頭脳を必要としている
自閉症者の苦悩
サヴァン症候群~脅威の記憶力
ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ
野生動物が家畜化を選んだ/『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2011-02-15

宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・宗教の原型は確証バイアス
 ・自閉症者の可能性

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

宗教とは何か?
必読書 その五

 正真正銘の神本(かみぼん/神の如く悟りを得られる本)だ。著者のテンプル・グランディンは、オリヴァー・サックス著『火星の人類学者 脳神経科医と7人の奇妙な患者』(吉田利子訳、早川書房、1997年)のタイトルになっている人物。自称「火星の人類学者」は自閉症(※アスペルガー症候群と思われる)の女性動物学者であった。

 これは凄い。とにかく凄い。本書とトール・ノーレットランダーシュ著『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』とレイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を合わせて、「科学本三種の神器」と私は名づけたい。

 網羅、渉猟、越境の度合いが生半可でないのだ。本物の知性は統合に向かうことがよく理解できる。緻密さや細部で勝負する知性はカミソリみたいなもので、切れ味は鋭いものの骨肉を断ち切るところまで及ばない。それに対して豊かな広がりをもつ知性は、専門領域を通して高い視点を示すことで世界の風景を変える。

 テンプル・グランディンは自閉症患者が動物の気持ちを理解できるとしている。彼女は幼い頃から動物の感情を知っていたのだ。大人になるまでそれが特殊な能力であることに気づかなかったという。ここから様々な動物の生態を通して人間との違いや人類の歴史を綴っている。

 まあ、一回こっきりの書評で紹介できる作品ではないため、時間が許す限り何度でも書いてみせるよ(笑)。数多(あまた)ある驚天動地の内容で最も驚かされたのがこれ──

 動物と人間は、「確証バイアス」と学者が呼ぶものを、生まれつきもっていることがわかっている。ふたつの事柄が短時間のあいだに起こると、偶然ではなくて、最初の事柄が2番目の事柄を引き起こしたと信じるようにつくられているのだ。
 たとえば、食べ物が出てくる直前に明かりがつくボタンつきのかごにハトを入れると、ハトはすぐに、食べ物を手に入れようとして、明かりがついたボタンをつつくようになる。これは、確証バイアスによって、最初のできごと(ボタンの明かりがつく)が2番目のできごと(食べ物が出てくる)を引き起こしていると考えるようになるからだ。ハトは、たまたま何回かボタンをつついて食べ物が出てくると(ボタンの明かりがついているときに、かならず食べ物が出てくるので)、こんどは、明かりがついているときにボタンをつつくから食べ物が出てくるという結論を出す。
 ハトの行動は、ウサギの足のお守り〔行為のまじないとして持ち歩くウサギの左の後ろ足〕を持っていたらチームが野球の試合に勝てると考える人に似ている。それで、B・F・スキナーはこういった行為を「動物の迷信」と呼んだ。ピッチャーがウサギの足を持っていたときに登板した試合で勝ったのは、ハトが明かりがついたボタンをつついたあとに何回が食べ物を手に入れたのと同じことだ。どちらの場合も、相関関係が原因だと考えた。

【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン:中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

確証バイアス confirmation bias

 既に何度も紹介済みだが、相関関係と因果関係の混同である。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 つまり脳というシステムは、相関関係を因果関係に仕立てることで物語を創造していると言い換えることも可能だ。例えば歴史は権力者のトピックにすぎない。それゆえ歴史の大半は戦争という糸で紡がれている。圧倒的に膨大な量がある一般人の日常が年表に記されることは、まずない。捨象、切り捨て、無視ってわけだ。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 確証バイアスが組みこまれているために生じる不都合は、根拠のない因果関係までたくさん作ってしまうことだ。迷信とは、そういうものだ。たいていの迷信は、実際には関係のないふたつの事柄が、偶然に結びつけられたところから出発している。数学の試験に合格した日に、たまたま青いシャツを着ていた。品評会で賞をとった日にも、たまたま青いシャツを着ていた。それからとは、青いシャツが縁起のいいシャツだと考える。
 動物は、確証バイアスのおかげで、いつも迷信をこしらえている。私は迷信を信じる豚を見たことがある。

 ここでいう「迷信」とは「非科学的」という意味であろう。だとすると殆どの宗教は迷信になる。なぜなら因果関係を証明することができないからだ。幸不幸の原因は神が下したものかも知れないし、家の方角の善し悪しかも知れないし、単なる偶然かもしれないのだ。

 たまたま朝一番でつけたテレビの番組で星座占いをしていたとしよう。あなたのラッキーカラーはピンクだ。ピンクのものさえ身につけておけば万事が上手く運ぶ。昨日、上司から叱られ、恋人と喧嘩をしたあなたの脳は敏感に反応することだろう。で、ピンクのネクタイを締め、颯爽と出社する。

 こうして一日の中の好ましい出来事は「ピンクのネクタイのおかげ」となるのだ。

予言の自己成就/『世界は感情で動く 行動経済学からみる脳のトラップ』マッテオ・モッテルリーニ
人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 占いを信じる人は、占いに沿った思考となり、占いに当てはまらない事実は印象に残らなくなる。このようにして「占い物語」という人生が進んでゆく。

 ところが、ほかの豚も、これまた確証バイアスにもとづいて、囲いの中の餌桶にまつわる迷信をこしらえる。私が見ていたときには、何頭かが餌用囲いまで歩いていって扉が開いているときに中に入り、それから餌桶に近づき、地面を踏み鳴らしはじめた。足を踏み鳴らしつづけていると、そのうち頭がたまたま囲いの中のスキャナーにじゅうぶんに近づいて、タグが読みとれ、餌が出てきた。どうやら豚は、たまたま足を踏みならしていたときに餌が出てきたことが何回かあって、餌にありつけたのは足を踏み鳴らしたからだという結論に達していたらしい。人間と動物はまったく同じやり方で迷信をこしらえる。わたしたちの脳は、偶然や思いがけないことではなく、関連や相互関係を見るようにしくまれている。しかも、相互関係を原因でもあると考えるようにしくまれている。わたしたちは生命を維持するうえで知っておく必要のあるものや、見つける必要があるもの学ばせる脳の同じ部分が、妄想じみた考えや、陰謀じみた説も生み出すのだ。

 これだ。多分ここから宗教が生まれたのだ。宗教という現象は人間特有のものではなかったのだ。とすると宗教感情がいかに脳の深い部分にあるか知れようというもの。動物にもあるわけだから新皮質より下部にあることだろう。きっと情動も絡んでいるはずだ。

 とはいうものの物語なしで我々は生きてゆけない。はっきりと書いておくが、かつて宗教が人類を救ったことは一度もなかった。聖書や仏典が伝えられてから2000年以上も経過しているが、今尚人類は争い合っている。

 混乱はバラバラの物語が衝突し合っている姿といってよい。同じ宗教を信じていても考え方は違うだろうし、それこそ人の数だけ思想や価値観が存在するのだ。

 まして高度な社会になればなるほど、幸不幸はヒエラルキーや経済性に依存してしまう。我々の幸不幸は比較の中にしかない。

 結局、情報と情報をどう結び合わせるかという問題なのだろう。「私」という情報をどう扱うか? エゴイズムと無縁の物語はあるのか? 人生からそんな宿題を与えられているような気がする。



テンプル・グランディン:世界はあらゆる頭脳を必要としている
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱/『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
合理性を阻む宗教的信念/『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳
脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
スロットマシンプレーヤーの視点/『ゾーン 最終章 トレーダーで成功するためのマーク・ダグラスからの最後のアドバイス』マーク・ダグラス、ポーラ・T・ウエッブ
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2010-10-16

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン


『複雑系 科学革命の震源地・サンタフェ研究所の天才たち』M・ミッチェル・ワールドロップ
『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ
『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン
『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル

 ・歴史を貫く物理法則
 ・歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?
 ・政治とは破滅と嫌悪との間の選択
 ・地震はまとまって起こる

必読書リスト その三

 歴史とは物語である。より多くの人々に影響を与えた出来事を恣意的につなぎ、現代へと至る道筋を解き明かす記述である。で、誰が書くのか? それが問題だ。

 歴史を綴るのは権力者の役目である。それは権力を正当化する目的で行われる。だから都合の悪い事柄は隠蔽(いんぺい)されてしまう。削除、割愛、塗りつぶし……。歴史は常に修正され、書き換えられる。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 果たして歴史が人を生むのか、それとも人が歴史をつくるのか? このテーマに複雑系をもって立ち向かったのが本書である。

 では第一次世界大戦を見てみよう。

 1914年6月28日午前11時、サラエボ。夏のよく晴れた日だった。二人の乗客を乗せた一台の車の運転手が、間違った角で曲った。車は期せずして大通りを離れ、抜け道のない路地で止まった。混雑した埃(ほこり)まみれの通りを走っているときには、それはよくある間違いだった。しかし、この日この運転手が犯した間違いは、何億という人々の命を奪い、そして世界の歴史を大きく変えることとなる。
 その車は、ボスニアに住む19歳のセルビア人学生、ガブリロ・プリンツィプの真正面で止まった。セルビア人テロリスト集団「ブラック・ハンド」の一員だったプリンツィプは、自分の身に起こった幸運を信じることができなかった。彼は歩を進め、車に近づいた。そしてポケットから小さな拳銃を取り出し、狙いを定めた。そして引き金を二度引いた。それから30分経たないうちに、車に乗っていたオーストリア=ハンガリー帝国の皇子フランツ・フェルディナンドと、その妻ソフィーは死んだ。それから数時間のうちに、ヨーロッパの政治地図は崩壊しはじめた。

【『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(ハヤカワ文庫、2009年/早川書房、2003年『歴史の方程式 科学は大事件を予知できるか』改題)以下同】

 一つの偶然と別の偶然とが出合って悲劇に至る。こうして第一次世界大戦が勃発する。1発の銃弾が1000万人の戦死者と800万人の行方不明者を生んだ。

 物事の因果関係はいつでも好き勝手に決められている。不幸や不運が続くとその原因を名前の画数や家の方角に求める人もいる。あるいは日頃の行いや何かの祟(たた)り、はたまた天罰・仏罰・神の怒り。

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 第一次世界大戦を起こしたのは運転手と考えることも可能だ。あるいは皇子のサラエボ行きを決定した人物や学生テロリストの両親とも考えられるし、サラエボの道路事情によるものだったのかもしれない。

「歴史とは偉人たちの伝記である」と初めて言ったのは、イギリスの有名な歴史学者トーマス・カーライルである。そのように考える歴史学者にとって、第二次世界大戦を引き起こしたのはアドルフ・ヒトラーであり、冷戦を終わらせたのはミハイル・ゴルバチョフであり、インドの独立を勝ち取ったのはマハトマ・ガンジーである。これが、歴史の「偉人理論」だ。この考え方は、特別な人間は歴史の本流の外に位置し、「その偉大さの力で」自分の意志を歴史に刻みこむ、というものである。
 このような歴史解釈の方法は、過去をある意味単純にとらえているために、確かに説得力をもっている。もしヒトラーの邪悪さが第二次世界大戦の根本原因だというなら、我々はなぜそれが起こり、誰に責任を押しつけたらよいかを知ることができる。もし誰かがヒトラーを赤ん坊のうちに絞め殺していたとしたら、戦争は起こらず、数え切れない命が救われていたかもしれない。このような見方を取れば、歴史は単純なものであり、歴史学者は、何人かの主役たちの行動を追いかけ、他のことを無視してしまえばいいことになる。
 しかし多くの歴史学者はそうは考えておらず、このような考え方は歴史の動きを異様な形で模倣(もほう)したにすぎないととらえている。アクトン卿は1863年に次のように記している。「歴史に対する見方のなかで、個人の性格に対する興味以上に、誤りと偏見を生み出すものはない」。カーもまた、歴史の「偉人理論」を、「子供じみたもの」で「歴史に対する施策の初歩的段階」に特徴的なものだとして斥けている。

 共産主義をカール・マルクスの「創作物」と決めつけてしまうのは、その起源と特徴を分析することより安易であり、ボルシェビキ革命の原因をニコライ2世の愚かさやダッチメタルに帰してしまうことは、その深遠な社会的原因を探ることより安易である。そして今世紀の二度の大戦をウィルヘルム2世やヒトラーの個人的邪悪さの結果としてしまうのは、その原因を国際関係システムの根深い崩壊に求めるよりも安易なことである。

 カーは、歴史において真に重要な力は社会的な動きの力であり、たとえそれが個人によって引き起こされたものであっても、それが大勢の人間を巻き込むからこそ重要なのだと考えていた。彼は、「歴史はかなりの程度、数の問題だ」と結論づけている。

 歴史がパーソナルな要素に還元できるとすれば、その他大勢の人類はビリヤードの球である。こうして歴史はビリヤード台の上に収まる──わけがない(笑)。

 1+1は2であるが、3になることだってある。例えば1.4+1.3がそうだ。幸福+不幸=ゼロではないし、太陽+ブラックホール=二つの星とはならない。多分。

 このような事実から歴史学者がどんな教訓を引き出したとしても、その個人にとっての意味はかなりあいまいだ。世界が臨界状態のような形に組織化されているとしたら、どんなに小さな力でも恐ろしい影響を与えられるからだ。我々の社会や文化のネットワークでは、孤立した行為というものは存在しえない。我々の世界は、わずかな行為でさえ大きく増幅され記憶されるような形に、(我々によってではなく)自然の力によって設計されているからだ。すると、個人が力をもったとしても、その力の性質は、個人の力の及ばない現実の状況に左右されることになる。もし個人個人の行動が最終的に大きな結果を及ぼすとしたら、それらの結果はほぼ完全に予測不可能なものとなるはずだ。

 臨界状態とは高圧状態における沸点のことで、ここではエネルギーが貯まってバランスが崩れそうな情況を表している。砂粒を一つひとつ積み上げてゆくと、どこかで雪崩(なだれ)現象が起こる。雪崩が起こる一つ手前が臨界状態だ。この実験についても本書で紹介されている。

 つまりこうだ。多くの人々に蓄えられたエネルギーが、一つの出来事をきっかけにして特定の方向へ社会が傾く。これが歴史の正体だ。山火事は火だけでは起こらない。乾燥した空気と風の為せる業(わざ)でもある。

 熱した天ぷら油は発火する可能性もあるし、冷める可能性もある。次のステップを決めるのは熱量なのだ。

 とすると19歳のテロリストが不在であっても第一次世界大戦は起こっていたであろうし、大量虐殺は一人の首謀者が行ったものではなく、大衆の怒りや暴力性に起因したものと考えられる。

 すべての歴史的事柄に対する「説明」は、必ずそれが起こった【後で】なされるものだということは、心に留めておく必要がある。

 人生における選択行為も全く同様で、トーマス・ギロビッチが心理的メカニズムを解き明かしている。

 宇宙は量子ゆらぎから生まれた。そして自由意志の正体は脳神経の電気信号のゆらぎであるとされている。物理的存在は超ひもの振動=ゆらぎによる現象なのだ。

 ゆらぎが方向性を形成すると世界は変わる。人類の歴史は戦争と平和の間でゆらいでいる。



「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一
コジェーヴ「語られたり書かれたりした記憶なしでは実在的歴史はない」
歴史とは何か/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
歴史とは「文体(スタイル)の積畳である」/『漢字がつくった東アジア』石川九楊
エントロピーを解明したボルツマン/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘
読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
若きパルチザンからの鮮烈なメッセージ/『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
無意味と有意味/『偶然とは何か 北欧神話で読む現代数学理論全6章』イーヴァル・エクランド
『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』武田知弘

2010-02-28

神は神経経路から現れる/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース


『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・脳は神秘を好む
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・言語概念連合野と宗教体験
 ・神は神経経路から現れる
 ・人工知能がトップダウン方式であるのに対し、動物の神経回路はボトムアップ方式

『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 キリスト教の啓示に代表される劇的な宗教体験は、非現実的というよりも超現実的な神秘性を帯びている。当人は雷に打たれたかの如く激しいショックを受けるのだが、果たしてそれがどこで起こっているのか? 第三者が確認できない以上、科学的検証は無理──これだと議論が進まない。本書では信仰者の主観世界が脳内で展開していることを解き明かしている。

アップルパイのリアリティー、神のリアリティー

 まずは、想像してみてほしい。あなたは今、大好物のアップルパイを食べている。あなたの複数の感覚器官に入ったアップルパイの情報は、神経インパルスに変換され、それぞれが脳の特定の領域で処理されて知覚が成立する。視覚中枢は金色がかった茶色をしたパイの像を、嗅覚中枢は食欲をそそるリンゴとシナモンの香りを、触覚中枢はパイの表面のサクサクした歯ごたえと中身のトロリとした舌触りとの複雑なハーモニーを、味覚領域は甘くて濃厚な味をそれぞれ知覚し、これらが統合されたときに、「アップルパイを食べる」というあなたの経験が生じてくる。
 ここで、あなたの脳で起きている神経活動を、SPECTスキャンで測定してみよう。コンピュータ・スクリーン上に表示された明るい色の斑点は、パイを食べるという経験が、文字通りあなたの「心の中にある」ことを示唆している。けれども、だからといって、パイが現実には存在しないとか、パイのおいしさがリアルではないという意味にはならないことは、皆さんもすぐに同意してくださるだろう。同じように、瞑想中の仏教徒や祈りをささげる尼僧たちの宗教的な神秘体験が、観察可能な神経活動と関連づけられることが分かったからといって、その体験がリアルでないことの証拠にはならないのだ。神はたしかに、概念としてもリアリティーとしても、脳の情報処理能力と心の認知能力を通じて経験され、心の中以外の場所に存在することはできない。けれども、アップルパイを食べるような日常的、形而下的な体験についても、それは同じなのだ。
 逆に、皿の上のアップルパイのように、神が実在し、あなたの前に顕現した場合にも、あなたは、「神経活動が作り出したリアリティーの解釈」以外のかたちで神を経験することはできない。神の顔を見るためには視覚情報処理が必要だし、恍惚状態になったり、畏怖の念に満たされたりするためには情動中枢のはたらきが必要だ。神の声を聞くためには聴覚情報処理が必要だし、メッセージを理解するためには認知情報処理が必要だ。神からのメッセージが、言葉ではなく、何らかの神秘的な方法で伝わってきたとしても、その内容を理解するためにはやはり認知情報処理が必要だ。ゆえに、神経学の立場からは、「神があなたを訪れるとき、その通り道は、あなたの神経経路以外にはあり得ない」と断言できる。

【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎〈もぎ・けんいちろう〉監訳、木村俊雄〈きむら・としお〉訳(PHP研究所、2003年)】

 アップルパイよりは幻肢痛(げんしつう)の方がわかりやすいだろう。手足を切断した患者が「既にない部分」の痛みを訴える症状だ(V・S・ラマチャンドラン『脳のなかの幽霊』が詳しい)。

 我々は普段は意識していないが、五官から入力された情報を知覚しているのは脳である。例えば私があな足の裏をくすぐったとしよう。この場合、足の裏が感じているわけではなく、神経経路を介してきた情報を脳が感じているのである。

 一つテストをしてみよう。今まで食べた梅干しの中で最もしょっぱかったものを思い出してみてほしい。そう。300年経っても腐らないほど塩まみれになったやつだ。どうですか? 口の中に唾(つば)が溜まってきたでしょう(笑)。これ自体、現実にあなたの脳が「しょっぱい」と感じた証拠である。

 更に決定的な証拠を挙げよう。我々は眠っている間に夢を見る。目をつぶっているにもかかわらず。世界の七不思議よりも不思議な話だ。つまり、目で見ていると思いきや実は脳の視覚野が知覚しているのだ。極端な話、生まれつき目が不自由であったとしても、聴覚や触覚で視覚野を働かせることができれば、その人は「見えている」といっていい。

 脳内には松果体(しょうかたい)という内分泌器官があるが、これは「第三の眼」と考えられている。ヒンドゥー教の神シヴァ神には第三の眼が額に描かれている。

 また連合型視覚失認という症状があると、視覚は正常に機能しているが意味を読み取ることができなくなる。生まれつき目の不自由な人が、手術などによって見えるようになると同様の症状が起こることがわかっている。このため手で触って確認した上で見直す作業を繰り返す。

 もう一つ付け加えておくと、あなたが見ている赤と私が見ている赤は多分微妙に異なっている。

 つまり、「見る」という行為は網膜に映った光の点に意味を付与し、物語化することで成り立っているわけだ。

 言ってることわかるかな? 順番が逆だということ。世界があって、それを見るために目を発達させたんじゃなくて、目ができたから世界が世界としてはじめて意味を持った。

【『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二(朝日出版社、2004年/講談社ブルーバックス、2007年)】

 当然、目が不自由であれば音の世界や匂いの世界がある。つまり、我々の知覚が世界を形成しているのである。で、繰り返しになるが知覚を司っているのは脳だ。ということは、世界は脳だと言い換えることができる。

 眠っている間にあなたの脳味噌をそっくり取り出したと仮定する。脳は生きたまま培養液に浸(ひた)され、無数の電極を付けてコンピュータから様々な情報を入力できるようにしておく。起床時間になり、あなたは目覚め周囲を見渡す。いつもと変わらぬ自分の寝室だ。だが実はコンピュータによって視覚野に刺激を加えているだけだった。「そんなことはあり得ない」と思った人はいささか考えが浅い。これは「水槽の脳」という奥深いテーマなのだ。映画『マトリックス』のモチーフにもなっている。

 話を本に戻そう。神を見る人がいる一方で、幽霊を見る人もいる。後者の方が多そうですな(笑)。はたまたせん妄や幻覚という症状もある。いずれにせよ、「見えている」のだから脳が知覚していることは事実であろう。

霊界は「もちろんある」/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 では何が違うのか? それは「見えた後の行動」であろう。啓示を受けた人は崇高になり、幽霊を見た人は臆病になる。そんな単純な結果論でいいのか? 別に構いやしないさ。要は「世界が変わった」という事実が重要なのだ。

 我々は「高さ」に憧れる。アメリカの大統領選挙の殆どは背の高い候補が勝利を収めている。また、高い山を登ると高山病になるため、古(いにしえ)の人々は「神が住んでいて人間を近寄らせない」ものと考えていた。西洋文明は高さを支配する競争でもあった。飛行船、飛行機、ロケットと天にまします神に近づいた国家が世界を支配してきた。不況下にあっても尚、高層マンションが飛ぶように売れているのも同じ理由からだろう。我々は見下ろす──あるいは見下す──ことが好きなのだ。きっと本能が空なる世界を求めてやまないのだろう。

 中には守護霊やオーラが見える人もいる。あれはどうなんだろう? チト眉唾物だね。

 まとまらなくなってきたので結論を述べる。「脳は知覚からの刺激によってシステムが変わる」ことがある、という話だ。「見ることで変わる」と言ってもよい。天に瞬く星々や美しい夕焼けを見た瞬間、言葉にならない何かが胸の中を去来することがある。好意を寄せていれば、あばたもエクボに見えるのだ。

 そのように考えると、「何をどう見るか」でその人の世界は決まるといえよう。人は闇の中で光を見出すことも可能なのだ。

 
トーマス・ギロビッチ
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
合理性と再現可能性/『科学の方法』中谷宇吉郎
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2009-11-08

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二


『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 ・人間に自由意思はない

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』妹尾武治
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二


 脳科学の最新トピックを紹介する軽めの科学エッセイ。といっても、軽いのは文体であって内容はヘビー級だ。恐るべきスピードで進展する科学の世界は刺激に満ちていて昂奮させられる。

 では早速本題に入ろう――

 科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。

【『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(祥伝社、2006年/新潮文庫、2010年)以下同】

 マジっすか? ってこたあ、人間はただ反応しているだけなんスか? 池谷さんよ、証拠を出して下さいよ、証拠を!

 ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。神経細胞も全部で数万個しかありません。これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。この神経回路をしらみ潰(つぶ)しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。
 実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。

 神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。
 神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。
 そして、わかったことはこうだったのです。細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。実にそれだけのことだったのです。〈自由意思〉、〈選択〉をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。
 私たちの高度な〈選択〉もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。

 エ? ヒルと人間を一緒にするんですか? 確かに他人の生き血を啜(すす)っているような連中はいる。ヌラァーっとした性格の男も存在する。やっぱりヒルと遜色がないのか? ないね。違うとすれば記憶の量だけだろう。

 文化、価値観、善悪、損得、好き嫌い、欲望、願望、希望、理想、そして時間の概念――これらは全て記憶に依存しているのだ。決断とは、記憶の中から瞬間的に整合性を導き出す瞬発力を意味する。実は足し算引き算程度の関数しか働いていないように感じる。

 これがだ、脳内の電気信号による「ゆらぎ」に過ぎないとすれば、我々の人生――つまり選択の積み重ね――ってえのあ、風まかせということになる。「愛は風まかせ」なのは知っていたが、よもや脳まで風まかせだったとは……。

 でも、よく考えてみると自然界の一切がゆらめいている。光と風、雲や波、そして川……。何も気体と液体に限ったことではない。固体だって時間とともに風化するのだ。長大な時間軸から見ればやはり流動的なのだ。フーム、諸行無常か。そして万物は流転する。

 結構ショッキングな事実ではあるが、「なあんだ、ゆらぎだったのね」と安心するような気持ちにもなる。決断には責任が伴うが、ゆらぎだと思えば何度でもやり直しができそうな気になってくる(笑)。昨日のゆらぎで失敗したなら、今日反対方向に揺さぶればいいだけの話だ。

 ただ、こんな話を知ってしまうと選挙結果なんか、まるで信用できなくなる。日本人の脳がたまたま民主党にゆらいでしまったということなのだろう。

 どうやら、条件反射の能力を磨く必要がありそうだ。



自由意志は解釈にすぎない
瞑想の世界を見ることができる情報機器/『ひとりっ子』グレッグ・イーガン
意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2009-07-29

回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

必読書リスト その五

 回帰効果とは、不完全な相関関係における極端な数値に対して、もう一方の数値が平均へと回帰する現象をいう。エ、わかりにくい? 確かに。

 例えば、身長が195cmの父親から生まれた子供は、195cm未満である可能性が高いということ(※遺伝学者のフランシス・ゴルトンが実際に調べた)。あるいは、今月の交通事故死亡者数が極端に低下すれば、来月は上回ることが予想される。はたまた、今回の試験の平均点が90点であれば、次回は90点未満であること。そう。大きく振れた振り子は必ず戻ろうとする。

 ところが人間は往々にして回帰効果を無視して、勝手な物語を作り上げる傾向が強い――

 こうした予想を行なう際に回帰効果を無視してしまうという傾向は、偏りの錯誤と同様に、代表制にもとづく判断のせいであると考えられる。予想されるものと予想の根拠となるものは限りなく類似しているはずだという直観が人々の判断に影響して、両者の得点をほぼ同じものとさせてしまうのである。身長195センチの父親に対しては、身長195センチの子どもが最も代表的だと思われてしまうのである。(実際には、身長195センチの父親を持つ子どもの大半は、これより低い身長となる。)ここでもまた、代表性にもとづく判断が、過度の一般化を引き起こしている。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでこ〉訳(新曜社、1993年)以下同】

 ということは、だ。鳶(とび)が鷹を生み、今度はその鷹が鳶を生むことはあり得るが、鷹が鷲を生み、鷲が鳳(おおとり)を生むことはないってことだな。ここで重要なのは、極端にいい結果が出た後は、少々悪い結果が出やすいし、その逆もまた真なりってことだ。

 回帰効果を無視すると、今度は回帰の誤謬が生じる――

 回帰の概念を本当に理解できていないときに人々が直面する二つの問題点のうちのもうひとつは、「回帰の誤謬」として知られている。回帰の誤謬というのは、単なる統計学的な回帰現象にすぎないものに対して、複雑な因果関係を想定したりして余計な「説明」をしてしまうことを言う。素晴らしい成績の後、成績が落ち込むと怠けたせいであるとされたり、反対に、凶悪犯罪が頻発した後で犯罪件数の減少が見られると、新しい法律の施行が効を奏したためと考えられたりすることである。回帰の誤謬は、偏りの錯誤と似たところがある。どちらも、偶然に生じたできごとに人々が余計な意味づけをしてしまう現象だからである。統計学的な回帰の結果生じたにすぎない現象に、無理な説明づけをしようとするあまり、間違った信念が形成されることにさえなってしまう。

回帰の誤謬:Wikipedia

 政治の世界では常套手段といってよい。「相関関係と因果関係の混同」と言い換えることも可能だ。具体的な例も示されている――

 言い替えれば、回帰効果は、「ほめることを罰し、罰することをほめる」ことに一役買ってしまうのである。
 こうした現象を見事に示してみせた実験研究がある。この実験は、参加者に教師の役割を演じてもらい、コンピュータが演ずる架空の生徒たちをほめたり、叱ったりするものであった。コンピュータが演ずる生徒は、毎朝8時20分から8時40分までの間に登校し、その登校時刻がディスプレイに表示される。教師は、生徒が朝8時20分から8時30分までに登校して来るよう努めなければならない。生徒の登校時刻が表示されるごとに、参加者は、生徒をほめるか、叱るか、何もしないかのどれかを選択できる。そこで、生徒が8時30分より前に登校してきた時には、参加者は生徒をほめ、遅刻してきた時には叱るであろうと予想される。しかし、実際には、生徒の登校時刻は実験前にあらかじめ決められており、実験に参加した被験者がほめたり叱ったりしても、まったくその影響はない。それにもかかわらず、回帰効果があるために、生徒の登校時間は、遅刻して叱られた後では向上し(つまり、平均の8時30分の方に回帰し)、早く登校してほめられた後では悪くなる(つまり、ここでも平均の8時30分の方に回帰する)ことになる。さて、こうした実験の結果、参加者の7割が「叱ることの方が誉めることよりも登校時刻を守らせる効果がある」という結論を出した。回帰によって生じた、ほめることと叱ることの見かけの効果にだまされてしまったのである。

 以下のリンク先も参照されよ――

やる気のない中学生の子を持つ親の心得

 病気で考えてみよう。いくつもの原因が重なって発症する病気を「多因子疾患」という。遺伝要因と環境要因とが複雑に絡み合っているため、治療をしても一定の効果が現れない場合が多い。ところがアメリカの製薬会社は、相関関係を因果関係に見立てて、「精神疾患は“脳の病気”であり、薬を服用することで治る」という物語を作ることに成功した。

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン

 こうした意図的なマーケティング手法にも、回帰の誤謬が含まれていると考えられる。というよりも、最初っから「誤謬の物語」を創作している節すら窺える。

 選挙においても回帰効果は見られる。以下はWikipediaのデータである――

1992年参院選
1993年/自民党223
1995年参院選
1996年/自民党239
1998年参院選
2000年/自民党233
2001年参院選
2003年/自民党237
2004年参院選
2005年/自民党296
2007年参院選

 定数の変化はあるものの、自民党が単独で衆議院の過半数を獲得したのは2005年だけとなっている。来る8月30日の投票において、自民激減は必至と予想されているが、民主党による回帰の誤謬は既に見受けられている。選挙結果を政争の具に利用するようなことがあれば、直ちに国民からそっぽを向かれることだろう。

 ただし、これは統計学の世界の話である。経済学的見地からすれば、金にものを言わせて、誤謬を真実にしてしまうことが多い。



回帰の虚偽
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル

2009-05-06

相関関係=因果関係ではない/『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン


 ・精神疾患は本当に脳の病気なのか?
 ・「ブードゥー教の呪いで人が死ぬ」ことは科学的に立証されている
 ・相関関係=因果関係ではない

『〈正常〉を救え 精神医学を混乱させるDSM-5への警告』アレン・フランセス
『うつ消しごはん タンパク質と鉄をたっぷり摂れば心と体はみるみる軽くなる!』藤川徳美
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『闇の脳科学 「完全な人間」をつくる』ローン・フランク

必読書リスト その二

 精神疾患を“脳の病”と仕立てることで、薬物治療に弾みがついた。製薬会社がどのようにして、この「仮説」を「既成事実」に変貌させたかを告発した一書。力作である。

 医薬品業界は巨大な利権である。日本のマーケット規模は6兆円を上回る(2006年)。一方、アメリカは2901億ドルで世界の医薬品市場の45%を占めている。

 日本の大手製薬メーカーが戦争犯罪に加担した事実を鑑みると、製薬会社の存在自体に国家権力の意思が働いていることは確かだと思われる。

 薬というものは元々は毒である。製薬会社が承認申請を提出し、厚生労働省の審議会が審査する。もうね、これだけで何か胡散臭くなってくる。厚生労働省が「よきに計らえ」なんて言ったら、後は広告戦略を練るだけだ。病院においてあるパンフレットの類いを見れば直ぐに気づくことだが、その殆どは製薬会社が作成しているものである。

 国民が監視できるシステムとしなければ、いつまで経っても許認可による薬害が後を絶たないことだろう。薬害エイズや薬害肝炎は、まだ記憶に新しい。

 では、薬品天国のアメリカで、どのようにして精神疾患の薬が認可されるのか――

 相関関係がいかに強くてもそれがそのまま因果関係とならないことを、たいていの人は知っている。ところがこの事実は容易に忘れられる。傘を携えているからといって雨が降るわけではないことを誰でも承知しているのに、脳の中の何らかの生物学的マーカーと精神障害の間に相関関係があることが発見されると、このマーカーを障害の原因だと信じこむという落とし穴に容易にはまってしまう。脳がすべての精神的な経験において中心的役割を担っていることが知られていることがその一つの理由なのだろうが、論理的には、この関係は傘と雨の関係と変わりがない。人の精神状態や経験は脳に影響を与えうるし、逆もありうる。二つの事柄に相関関係があるとき、どちらが原因でどちらが結果であるか、自分でわかっているつもりになってはいけない。「原因」と「影響」が混同されやすい。また、二つのものに因果関係がなくても、大きな相関関係はありうる。たとえば、ほとんどの国で、名前が母音で終わる人は名前が子音で終わる人より、平均でみると、背が低い傾向が見られる。しかし少し考えてみればわかるように、最後の母音子音と背の高さに因果関係を想定すべき道理はない。

【『精神疾患は脳の病気か? 向精神薬の化学と虚構』エリオット・S・ヴァレンスタイン:功刀浩〈くぬぎ・ひろし〉監訳、中塚公子訳(みすず書房、2008年/新装版、2018年)】

 つまり、臨床データの解釈によって新しい物語を創作するってわけだ。これを「使った、直った、効いた」の“三た式思考法”と呼ぶ(安斎育郎著『霊はあるか 科学の視点から』講談社ブルーバックス、2002年)。これがどれほど危険であるかは、少し考えれば誰でもわかる。例えば、腹痛を訴える人に梅干しを与えたとしよう。10人で実験したところ、その内6人が3時間後に腹痛が解消していた。では、梅干しに腹痛を癒やす効力があるといえるだろうか? 言えるわけがない。

 それどころかエリオット・S・ヴァレンスタインによれば、精神疾患患者に化学的なバランスの崩れがあるという確かな証拠は何ひとつなく、統合失調症患者にドーパミン受容体の異常があるという証拠を示した人も誰もいないという。ノルアドレナリンとセロトニンについても同様だ。

 企業が利益を追求する以上、当然、実験段階で「きっと効くだろう」「何らかの変化を起こすに違いない」との予断が働く。そこに一定額以上の予算がつぎ込まれていれば、何が何でも都合のいいデータを探し求めるはずだ。彼等にとって、医師や政治家は同じチームメイトだ。ちょっと目配せすれば、わかってくれる――とまあ、こんな具合なのだろう。

 エリオット・S・ヴァレンスタインは決して投薬治療を否定しているわけではない。患者を置き去りにした製薬業界のあり方を告発しているのだ。私も本書を読むまでは、「精神疾患は“心の病”から“脳の病”になった」とばかり思い込んでいた。多くの人々にそう思い込ませたこと自体、アメリカ製薬メーカーによるマーケティングの勝利だった。情報の力は恐ろしい。我々は何となく信じてしまって、医薬品に依存するようになっているのだ。

 世界には、これほどの悪意がはびこっている。



「三た」式思考法
回帰効果と回帰の誤謬/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
偶然性/『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
物語に添った恣意的なデータ選択/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
相関関係が因果関係を超える/『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ

2009-03-06

人間は偶然を物語化する/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


・『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

必読書リスト その五

 これはランダムウォーク理論といっていいだろう。ランダムとは無作為という意味で、ランダムウォークとは酔っ払いの千鳥足のこと――

 人は、偶然によるできごとがどのようなものであるかについて、間違った直観をもっていることが心理学者によって明らかにされている。たとえば、投げ上げたコインの裏表の出方は、一般に考えられているよりも裏や表が連続しやすい。そこで、裏表が交互に出やすいものだという直観に比べて、真にランダムな系列は、連続が起こりすぎているように見えることになる。コインの表が4回も5回も6回も連続して出ると、コインの裏表がランダムに出ていないように感じてしまう。しかし、コインを20回投げたとき、表が4回連続して出る確率は50%であり、5回連続することも25%の確立で起こりうる。表が6回連続する確率も10%はある。平均的なバスケットボールの選手は、ほぼ50%のショット成功率なので、1試合の間に20本のショットを試みるとすれば(実際、多くの選手はこれくらいショットを試みる)、あたかも「波に乗った」かのように、4本連続や、5本連続、あるいは6本連続でショットを決めるようなことは偶然でも充分起こりうることなのである。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでこ〉訳(新曜社、1993年)】

 人間は単調さに耐えられない。変化を好むのが人間の性分だ。例えばこんなことはないだろうか。信号待ちでウインカーを点灯する。カチッカチッとメトロノームのように規則正しい音が鳴る。すると、その音から微妙にずらしたリズムでハンドルを指で弾く。こうして独創的な音楽が誕生する。私の指が単調なリズムを破壊したのだ。

 株価のチャートを見てみよう。これは日経平均の9ヶ月間にわたる日足チャートだ。昨年8月上旬に底を打って揉み合いが続いている。2本の移動平均線を超えれば反転しそうだ。株価は上がるか下がるかのどちらかである。とすると、損得の確率は1/2となる(横ばい、手数料は無視して考える)。つまり、コインの裏表と確率的には一緒なのだ。もっとわかりやすく言おう。コインを放って出た裏表の結果を1と計算してチャートにすれば、株価と同じような山と谷ができるってわけだよ。コインを投げる回数はまったく問題ではない。1日1回だって構わない。それでも、チャートの山が形成される。

 人間は物語なしで生きてゆけない。不幸にも幸福にも物語がある。目に見えない運や不運で説明し、他人の実力を羨み、自分の非力を嘆き、昔よりも今の方がいいとか悪いとか言い募る。

 翻って、動物には固有の人生が存在するのだろうか? あまり考えたことがない。「我が家の犬は幸せだ」と思っている飼い主は多いだろうが、それは一方的な幻想に過ぎない。

 大数の法則が恐ろしいのは、「人間の人生なんて、それほど変わるもんじゃないよ」と我々をたしなめているからだろう。

 それでも人は「自分だけの物語」を生きる。人間は、平均を個性に変える天才だ。



必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人

2009-01-13

脳は神秘を好む/『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・脳は神秘を好む
 ・言語概念連合野と宗教体験
 ・神は神経経路から現れる
 ・人工知能がトップダウン方式であるのに対し、動物の神経回路はボトムアップ方式

『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書 その五

 宗教的な神秘体験が側頭葉で起こっていることは、既に多くの脳科学本で指摘されている。てんかん患者と似た状態らしい。LSDを服用すると同様の体験ができるとも言われている。トリップ、旅、「そうだあの世へ逝こう」JR。

 いずれにせよ、人間という動物は「不思議」が大好きだ。これに異論を挟む者はあるまい。不思議は不可思議の略語で、大辞泉にはこうある――

1.どうしてなのか、普通では考えも想像もできないこと。説明のつかないこと。また、そのさま。
2.仏語。人間の認識・理解を越えていること。人知の遠く及ばないこと。
3.非常識なこと。とっぴなこと。また、そのさま。
4.怪しいこと。不審に思うこと。また、そのさま。

 4が凄いよね。ストレンジ(strange)ですな。思議とは「あれこれ思いはかること。考えをめぐらすこと」。つまり、「想像を絶する」物語や世界に我々は憧れ、魅了されてしまうのだ。というわけで早速、説明責任という言葉を私の辞書から削除することにしよう(笑)。

 西洋において宗教的な神秘体験は「神との邂逅(かいこう)」として現れることが多い。多分(←テキトー)。日本では「神がかり」と称される。お稲荷さんにはまると「狐憑き」。本当にピョンピョン跳ねるそうだよ。洋の東西に共通するということは、人間の本質に根差している証左といえよう。では、そこにどのような回路があるのか――

 われわれは、宗教的な神秘体験、儀式、脳科学についての膨大なデータの山をふるいにかけて、重要なものだけを選び出した。パズルの要領でこれらのピースを組み合わせているうちに、徐々に意味のあるパターンが見えてきて、やがて、一つの仮説が形成された。それが、「宗教的な神秘体験は、その最も深い部分において、ヒトの生物学的構造と密接に関係している」という仮説だった。別の言い方をするなら、「ヒトがスピリチュアリティーを追求せずにいられないのは、生物学的にそのような構造になっているからではないか」ということだ。

【『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎監訳、木村俊雄訳(PHP研究所、2003年)】

 つまり、「脳がそのような仕組みになっている」ってことだ。ってこたあ、脳そのものが神秘的と言わざるを得ない。脳は“物語としての神話”を求める。起承転結の「転」には不思議な展開が不可欠だ。モチーフは「奇蹟的な逆転」だ。

 そう考えると不思議とは希望の異名なのかも知れない。古来、人間は行き詰まるたびに起死回生を信じて、時には信じるあまり側頭葉をピコピコと点滅させ、“生の行き詰まり”を打開してきたのだろう。

 一つだけはっきりしているのは、古本屋という商売には何の神秘も存在しないことだ。



自我は秘密を求める/『伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術』カーティス・フェイス
江原啓之はヒンドゥー教的カルト/『スピリチュアリズム』苫米地英人
必然という物語/『本当にあった嘘のような話 「偶然の一致」のミステリーを探る』マーティン・プリマー
物語の本質〜青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
人間は世界を幻のように見る/『歴史的意識について』竹山道雄
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2008-11-30

迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

必読書リスト その五

 何も考えたくない時がある。どうにでもなれ、と捨て鉢になることもある。私はないけどね。壁にぶち当たって行き詰まると、人は思考を意図的に停止させる。ま、今時は普段から停止しっ放しという若者も多いが。きっと、脳内がエコ・モードとなっているのだろう。節電。

 考えることと考えないことの間には、知性と欲望の川が流れている。欲望に身を任せれば、あっと言う間に川下に流されてしまう。知性は明確な意思に基づいて川上を目指す。

 こんなことは誰でも考えつくことだ。もう一歩考えてみよう。欲望という言葉だと誰もが否定的になるが、これを熱狂と言い換えると妙な引力が働く。人は心のどこかで熱狂を求めている。そう。祭りだ。熱狂の坩堝(るつぼ)。リオのカーニバル。

 私が東京で暮らすようになってから最初に驚かされたのも祭りであった。北海道には御輿(みこし)を担ぐという文化がない。多分。日本人が住むようになってから1世紀あまりしか経ってないことが、先祖や土地への呪縛を薄めているのだろうと個人的に解釈している。

 元来は「祀(まつ)り」であった。それが、「祭り」となり「政(まつりごと)」と変化してきた。では、何を祀っていたのだろうか? そりゃあ、生き物に決まってるわな。何らかの犠牲を伴った方が、神仏からの見返りも大きいと考えるのが普通だよ。当然、若い人間を生贄(いけにえ)にした時代もあったことだろう。生と死は暴力を実感する中で自覚される。そして、熱狂と暴力は同じアパートに住んでいるのだ。

 例えば、ヒトラー支配下のナチス・ドイツ。あるいは、マッカーシズムが旋風を巻き起こしたアメリカ。はたまた、魔女狩りが横行した中世のヨーロッパ。いずれも熱狂と暴力が同居していた時代だ。「考えない」代償はこれほど大きい。

 誤信や迷信を許容していると、間接的にではあるが、別の被害を受けることになる。誤った考えを許容し続けることは、初めは安全に見えてもいつのまにかブレーキが効かなくなる「危険な坂道」なのである。誤った推論や間違った信念をわずかとはいえ許容し続けているかぎり、一般的な思考習慣にまでその影響が及ばないという保証が得られるだろうか? 世の中のものごとについて正しく考えることができることは、貴重で困難なことであり、注意深く育てていかなければならないものなのである。私たちの鋭い知性を、いたずらに正しく働かせたり働かせなかったりしていると、知性そのものを失くしてしまう恐れがあり、世の中を正しく見る能力を失くしてしまう危険がある。さらには、ものごとを批判的にみる能力をしっかり育てておかないと、善意にもとづくとは限らない多くの議論や警告にまったく無抵抗の状態になってしまう。S・J・グールドは、「人々が判断の道具を持つことを学ばずに、希望を追うことだけを学んだとき、政治的な操作の種が蒔かれたことになる」と述べている。個人個人が、そして社会全体が、迷信や誤信を排除するよう努めるべきである。そして、世の中を正しく見つめる「心の習慣」を育てるべく努力すべきであると私は考える。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでこ〉訳(新曜社、1993年)】

 祭りは「ハレ」の日だ。つまり非日常。現代の非日常といえば、そりゃあテレビに決まってるわな。そして、メディアは情報を加工・修正し、時に粉飾・デフォルメを加え、日常的な操作を行っている。

 一枚の木の葉にも光の鼓動が脈打っている。北極星の輝きは430年もの旅を経て我々の瞳に届けられたものだ。思議し難いが故に不思議。そして、不思議に魅了される内なる不思議。本物の感動はそこにある。

 メディア情報を鵜呑みにしているタコ野郎は、必ずやいつの日かヒトラーのような政治家に一票を投じることになるだろう。



カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

2008-08-19

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ


『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 ・誤った信念は合理性の欠如から生まれる
 ・迷信・誤信を許せば、“操作されやすい社会”となる
 ・人間は偶然を物語化する
 ・回帰効果と回帰の誤謬
 ・視覚的錯誤は見直すことでは解消されない
 ・物語に添った恣意的なデータ選択

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル

宗教とは何か?
必読書リスト その五

 迷信・誤信のメカニズムを微に入り細を穿(うが)って解き明かしている。思考回路に何らかの変化が訪れることは確実だ。情報化社会における迷信・誤信は、人生の舵取りを誤る可能性がある。人間心理を鋭く洞察した本格的な一冊である。

 以上から明らかなように、多くの誤った考えはもっぱら認知的な原因によって生じてくる。つまり、情報を処理したり結論を引き出したりする能力の不完全さによると考えられる。言い替えれば、「そう思いたい」というような心理的欲求を満足させるために誤った考えを持つのではなく、得られた事実に最もうまくあてはまる結論として導き出されたものが、結果的に誤った考えとなってしまうのである。ロバート・マートンの言葉を借りれば、人々がそうした信念を持つのは「自分自身の体験からこう結論せざるを得ない」と考えるからである。誤った信念は決して非合理性が生じるのではなく、合理性の欠陥から生じるのである。

【『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ:守一雄〈もり・かずお〉、守秀子〈もり・ひでお〉訳(新曜社、1993年)】

 全体的に訳文がよくないが、それを補ってあまりある内容。3分の1ほど進めば後は一気読みだ。このテキストのポイントは、「人間は合理性を求めるがゆえに、異形のジグソーピースであっても無理矢理はめ込む」ことである。つまり、“知識”という名の世界地図に余白があればあるほど、違う形のジグソーピースが紛れ込む可能性が高くなる。

 更に、情報の可塑性(かそせい)についても考えざるを得ない。同じ情報であっても受け手次第で変質することがよくある。人は、自分にとって都合のいい情報、都合のいい解釈、都合のいい関連づけをするからだ。

 悪質商法まがいの情報が氾濫する現在、我が身を守るためにも本書を精読すべきである。