何ということか。そこにいる人々は全員が病人であった――病院のロビー。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 2月 3
2015-02-04
2015-01-15
目撃された人々 60
老夫婦と幼子が線路沿いの道を歩いていた。祖父が女児の手を、祖母が男児の手を引いていた。「あ!」と思った瞬間、私の目にはまざまざと十数年後の姿が見えた。中学生、高校生となった二人が祖父母の手を引いていた。同じ温もりを通わせながら。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2015, 1月 14
2014-10-20
戦争を問う/『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光
・『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
・『管仲』宮城谷昌光
・『重耳』宮城谷昌光
・『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
・『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
・『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
・『孟嘗君』宮城谷昌光
・『楽毅』宮城谷昌光
・『青雲はるかに』宮城谷昌光
・戦争を問う
・学びて問い、生きて答える
・和氏の璧
・荀子との出会い
・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
・孟嘗君の境地
・「蔽(おお)われた者」
・楚国の長城
・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
・徳には盛衰がない
・『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光
この少年の脳裡(のうり)には、目撃している兵馬の多さだけではなく、各国が出す兵馬の多さもあり、それらがまとまったとき、兵の数は100万をこえるのではないかという想像がつづき、それを迎え撃つ斉軍が50万をこえる大軍容であったら、どんなすさまじい戦いになるのか、という想像の連続がある。その果てにある死者の多さが、呂不韋〈りょふい〉の胸を悪くさせた。
――なにゆえ、人は殺しあうのか。
いつからそういう世になったのであろう。
急に呂不韋はしゃがんで土をなでた。
「どうなさいました」
鮮乙(せんいつ)がふりかえった。彭存〈ほうそん〉も少年の手もとをいぶかしげにながめた。
「土は毒を吐くのだろうか」
土が吐く毒を吸った者が兵士となり、狂って、人を殺す。呂不韋はそんな気がしてきた。
鮮乙(せんいつ)は困惑したように目をあげた。すると彭存(ほうそん)は目を細め、
「土に血を吸わせるからそうなるのだ。人が土のうえで血を流すことをやめ、和合して、土を祭り、酒をささげるようになれば、毒など吐かぬ」
と、おしえた。呂不韋は立った。自分が考えていることを、多くのことばをついやさず、人に通じさせたというおどろきをおぼえた。
【『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】
「奇貨(きか)居(お)くべし」は『史記』の「呂不韋伝」にある言葉で、珍しい品物であるから今買っておいて後日利益を得るがよいとの意と、得難い機会だから逃さず利用すべきだとの二意がある。呂不韋〈りょふい〉は中国戦国時代の人物で一介の商人から宰相(さいしょう)にまで上りつめた。始皇帝の実父という説もある。
少年の苦悩が思わず詩となって口を衝(つ)いて出た。それに応答した彭存〈ほうそん〉の言葉もまた詩であった。詩情の通う対話に本書のテーマがシンボリックに表現されている。呂不韋は後に民主主義を目指す政治家となるのだ。
「和合して、土を祭り、酒をささげる」――祭りと鎮魂(ちんこん)の儀式にコミュニティを調和させる鍵があることを示唆(しさ)しているようだ。文明の発達に伴って人々は自然に対する畏敬の念を忘れ、祭儀も形骸化していったのであろう。そもそも都市部では土が見えない。土を邪魔者のように扱う文化は必ず手痛いしっぺ返しを食らうことだろう。アスファルトに覆われ、陽に当たることのない土壌で悪しき菌が培養されているような気がする。
2014-08-17
目撃された人々 59
今朝拾い上げた蝉は、まるで電池切れの携帯電話のようにブーンと一度だけ振動して息絶えた。最後の力を振り絞ったのであろうが鳴き声を発することはかなわなかった。やつのバイブレーションはまだ私の魂を震わせている。生きるとは魂を震わせることなのだ。そんなメッセージを確かに受け取った。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 8月 17
2014-08-11
化物世界誌と対蹠面存在否定説の崩壊/『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳
・『科学史と新ヒューマニズム』サートン:森島恒雄訳
・権威者の過ちが進歩を阻む
・化物世界誌と対蹠面存在否定説の崩壊
・『時間の逆流する世界 時間・空間と宇宙の秘密』松田卓也、二間瀬敏史
・『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ:森島恒雄訳
・『魔女狩り』森島恒雄
・『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
・『世界史とヨーロッパ』岡崎勝世
・『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世
・キリスト教を知るための書籍
・必読書リスト その四
神が保障した法皇の《無過失性》によってこの古い神学的見解はあらためて再確認され、人間は地球の片側だけに存在するものだという説はこれまで以上に正統的となり、教会にとっていっそう尊重すべきものとなった。(8世紀)
【『科学と宗教との闘争』ホワイト:森島恒雄訳(岩波新書、1939年)以下同】
これを対蹠面(たいせきめん)存在否定説という。対蹠とは正反対の意で、対蹠地というと地球の裏側を指す。当時のヨーロッパではまだ地球が球形であるとの認識はなかった。そのため対蹠【面】との訳語になっているのだろう。ただしギリシャでは紀元前から地球は丸いと考えられていた。
神が万物を創造したとする思考において世界とは聖書を意味する。つまり聖書に世界のすべてがあますところなく記述されており、あらゆる学問を神の下(もと)に統合した。これが本来の世界観である。決して世界が目の前に開いているわけではなく、価値観によって見える外部世界は大きく変わるのだ。
当時、神の僕(しもべ)である人間はヨーロッパにしか存在しないものと考えられていた。そしてヨーロッパから離れれば離れるほど奇っ怪な姿をした化け物が棲息していると彼らは想像した。これを化物世界誌という(『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世)。
・ヘレフォード図(クリックで拡大)→化物世界誌を参照せよ
しかし、1519年にいたって、科学は圧倒的な勝利を博した。マゼランがあの有名な航海を行なったのである。彼は地球がまるいことを実証した。なぜなら、彼の遠征隊は地球を一周したからだ。彼は対蹠面存在説を実証した。なぜなら、彼の乗組員は対蹠面の住民を目撃したのだから。だが、これでも戦いは終らなかった。信心深い多くの人々は、それからさに200年の間この説に反対した。
これが世界観の恐ろしいところだ。ひとたび構築された物語があっさりと事実や合理性を拒絶するのだ。ただしマゼランの世界一周が化物世界誌と対蹠面存在否定説崩壊の端緒となったことは間違いない。
クリストファー・コロンブスがアメリカ大陸の島に上陸したのは1492年のこと。インディアンと遭遇した彼らが戸惑ったのは、インディアンの存在が聖書に書かれていなかったためであった。
信心深い人々は妄想を生きる。ニュートンを筆頭とする17世紀科学革命はまだ神の支配下にあった。しかし魔女狩りの終熄(しゅうそく)とともに、科学は神と肩を並べ、やがて神を超える(何が魔女狩りを終わらせたのか?)。
例外はアメリカで今尚ドグマに支配されている(『神と科学は共存できるか?』スティーヴン・ジェイ・グールド)。世界の警察を自認する国が妄想にとらわれているのだから、世界が混乱するのも当然だ。
・「エホバの証人」と進化論
2014-07-24
目撃された人々 58
猛暑の中100メートルを10分くらいで歩くおばあさんがいた。「お母さん、家は近いの?」と訊くと、「ここから15分くらいです」と。「そこにドラッグストアがあるから涼んでいきなよ」と伝えた。自宅に戻り、どうしても気になったのでクルマで送ってあげた。クルマで15分かかる距離だった。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 7月 24
しかも道すがら話をしてわかったのだが、初期の認知症であった。玄関まで荷物を持ってやって、別れ際に「暑い日は家に引っ込んでいなよ」と厳しく言っておいた。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 7月 24
今頃、私に送ってもらったことも忘れているかもしれないな。別に構わないけど。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 7月 24
2014-03-29
目撃された人々 57
昨日道を歩いていたところ、小学1年くらいの男の子が車の下を覗いて何かを取ろうとしていた。「どうした? オジサンが手伝おうか?」と声を掛けると、「ううん、大丈夫」と。少し先には兄と思しき少年が立っていた。私が歩き出すと兄が「あ、すいま…」と言った時、私のケツにゴムボールが当たった。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 3月 28
私が大袈裟に「やられたあ~」とずっこけてみせると、弟はケラケラと笑い声をあげた。本当にケラケラと笑った。神妙な顔つきをしていた兄も釣られて笑った。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 3月 28
2014-03-23
目撃された人々 56
近所に臆病な犬がいる。触れようとすると尻込みをして逃げるのだ。虐待された可能性がある。実に半年間をかけて少しずつ近寄り、一昨日接触に成功した。毎朝声を掛け、褒めちぎり、「ハイ、お手!」と言ったところ、目を逸らしながらも片足を上げた。が、私の手には乗せない。それを私が握った。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 3月 23
ま、条件反射を逆手にとった戦法だ。今日もお手をしてきた。それから静かに顎を撫で、頭にゆっくりと手を回した。我々は既に友人だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 3月 23
2014-03-04
目撃された人々 55
ヘルパーとクロネコヤマトの制服が物干し竿で揺れていた。冬の光がその清潔を照らす。私の手にギターがあったならば直ぐにでも歌ができたことだろう。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 3月 4
2014-02-19
目撃された人々 54
ふと目をやると同じ場所に再び雪だるまが登場した。この雪だるまは前の雪だるまとは別人なのか? それとも生まれ変わりなのか? 姿形はそっくりだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 18
前の雪だるまは死んだ(溶けた)。ある人は「神の裁きだ」と言い、別の人は「宿命だ」と言い、私はといえばその早逝を悲しんだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 18
そして何ということだろう。新しい雪だるまも死んでしまった。運命なのか、それとも宿命なのか。「先祖の祟りだ」と言う人が出てきて、「家相が悪い」と言う人も出てきた。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 18
そこへ科学者が現れた。「日光に当たって雪が溶けただけのことですよ。でもH2Oであることに変わりはありません」。雪だるまが雪で作られているように、我々は五蘊によって形成されている。「ある」という存在感自体が錯覚なのかもしれない。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 18
雪だるまよ、安らかに眠れ。今年はもう出てくるなよ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 18
・「私」とは属性なのか?~空の思想と唯名論/『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
2014-02-11
目撃された人々 53
老婆の背中はほぼ90度に曲がっていた。覚束ない足取りでクルマが往き交う道路の脇を歩いていた。私は目を放すことができなかった。心の奥底で振動が起こった。哀しみと怒り。老婆は歩む。死へ向かって。そして老婆の足は現実という大地を踏みしめる。地球よ、お前も老婆の足下にある。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 10
目撃された人々 52
その短命を私は嘆く。雪だるまよ……。大きいのは2メートルを超えるものから、小さいのは雛人形サイズまであったのに、太陽が放つ情け容赦ない光によって無惨な姿をさらしている。雪だるまの存在は消え果てた。もう跡形もない。いつの日か私もまた。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 10
・目撃された人々 31
目撃された人々 51
昨日、子供たちが雪と戯れていた。擦れ違うたびに「寒くないの?」と声を掛けたが、皆の笑顔が返ってきた。10歳くらいの男の子は元気一杯に「ただ今、除雪作業の任務を遂行中であります!」と。自然と触れ合うことの少ない都会の子らにとって雪は天からの贈り物だ。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 2月 9
2014-01-10
目撃された人々 50
小雪が舞っていた。まだあどけなさを残した男子中学生3人組がぽっかりと口を開けて空を見上げていた。ちびっ子二人組は走りながら「ゆきー、ゆきー、ゆき~~~」と歌っていた。小節を回した瞬間、私の顔を見て首を揺らした。ベテランの演歌歌手さながらであった。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2014, 1月 10
2013-11-29
目撃された人々 49
バイクで丁字路(※T字路は誤り)に差し掛かった時、左手から5歳くらいの少女が歩いてきた。その子はちょうど真ん中でバイクを見て動けなくなり屈み込んだ。そして私の顔を見るなり、なんとニッコリ笑った。バイクもこの笑顔には負けたと見え、自然に減速した。私は手を振りながら右折した。
— 小野不一 (@fuitsuono) 2013, 11月 29
2013-11-08
目撃された人々 48
10歳くらいの少年が私に会釈もどきをした。まだ頭を下げることや目を伏せる意味を知らないのだろう。彼は顔面を水平に前に出してみせたのだ。私は「こんにちは」とにこやかに声を掛けた。そして「このまま横にも動かせるようになればマイケル・ジャクソン並だな」と思い至った。
— 小野不一 (@fuitsuono) November 8, 2013
2013-10-11
目撃された人々 47
明らかに空気が抜けていた。「いらっひゃいまへ」。ドラッグストアのレジにいたお嬢さんだ。年の頃は二十歳前後。私の手渡した小銭が間違っていた。「いやあ、この年になると足し算引き算も間違っちまうよ」といいわけをすると、「わたひもへふ」と応じてくれた。つい先程の出来事。
— 小野不一 (@fuitsuono) October 11, 2013
2013-10-02
目撃された人々 46
空の色がかすかに青みを帯びた時間であった。バイクで角を曲がると、ヘッドライトの向こうに老夫婦が散歩をしていた。ご主人がつないでいた手を自分の身体の後ろ側に引き寄せた。二人の手には白い杖があった。きっと周囲の迷惑にならぬよう、こんな時間を選んだのだろう。
— 小野不一 (@fuitsuono) October 2, 2013
老夫妻は再び手をつないで横に並び、反対側の手で杖を振りながら歩いていった。二人の手と手に通うものを思う。よいことがあっても悪いことがあっても、夫婦喧嘩をしても二人は手をつないで歩いてきたのだろう。厚情はやがてただの温もりとなる。だが掛け替えのない温もりだ。
— 小野不一 (@fuitsuono) October 2, 2013
2013-09-19
目撃された人々 45
たぶん小学校2年生の女の子だ。私のバイクが角を曲がって現れるや否や、彼女は隣にいた子の身体を勢いよく横に押した。何という危険察知能力であろうか。私は徐行しながら少女の顔に見入った。彼女は何事もなかったかのように友達と歩き去った。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 18, 2013
目撃された人々 44
閉じかけた扉から小さな手が出た。そして満身の力を込めて両手で扉を開いたのは肥満児の小学生であった。私の眼には彼がヘラクレスに見えた。自動ドアであった事実は伏せておきたい。
— 小野不一 (@fuitsuono) September 18, 2013