2009-05-04

怠惰理論/『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ


『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ

 ・怠惰理論

『日本文化の歴史』尾藤正英
『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル

 現代の労働倫理からすれば「怠(なま)け者」にしか見えない人々を網羅した労働文化史。大冊だが闊達な文章と豊富な話題でぐいぐい読ませる。

 トム・ルッツの息子が朝から晩までカウチで寝転んでいるシーンから始まる。父親には怒りが込み上げてきた。ここで本書のテーマが読者に問いかけられる。「我々はなぜ、働かない人に対して怒りが湧くのか?」。

 労働は、神がアダムとイヴに与えた呪いだった。古代ギリシャ文化においては、死すべき人間(=奴隷)に課せられた罰だった。そして、宗教改革が「天職」という新しい概念をつくり出した。アウシュヴィッツ強制収容所のゲートには「働けば自由になれる」と書かれていた。

 18世紀、産業革命によって近代が幕を開けた。ベンジャミン・フランクリンが「時は金なり」と言い、サミュエル・ジョンソンは「すべての人間は、怠け者か、怠け者志願者である」と記した。ここに労働と怠惰が火花を散らして向かい合った。

 トム・ルッツはスラッカー(怠け者)こそ文化の担い手であるとして、様々な人物を取り上げている。いつの時代も、常識への抵抗から新しい文化は誕生した。

 怠惰という甘い蜜は、えも言われぬ濃厚な香りを放っている――

「怠惰理論」は、ある面ではかなりシンプルなものだ。「あらゆる生物は、生きていくために働かなければならない。なかには他の人間よりつらい労働をしなければならない者もいる。生存のために働く必要が少ない者は、よりつらく長い労働をしなければならない者よりも、困難な時代を生き抜く可能性が高い。」こうして進化とは「閑者生存」の法則に基づく、と(※クリス・)デイヴィスはサイト上に書いている。

【『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ:小澤英実〈おざわ・えいみ〉、篠儀直子〈しのぎ・なおこ〉(青土社、2006年)】

 何という説得力! 私は怠惰理論にあっさりと屈する。喜んで信奉者となろう。王様や貴族に怠惰は付き物だ。女王蜂が蜜を取るために外へ出ることはない。大体、「勤勉は美徳」と義務教育で叩き込まれるのも、それが権力者にとって都合がいいからだ。国家はいつだって奴隷を必要とする。労働者と兵士という名の奴隷を。それしても、「閑者生存」とは見事な翻訳。

 でも、そうじゃないんだよね(笑)。トム・ルッツが揺さぶろうと試みているのは、「義務としての労働」という価値観なのだ。

 動物という次元で考えれば、家族が食う分を確保すればいいわけだが、現代社会の構造はそれを許さない。労働価値は企業を維持する様々な経費を担わされ、流通によって搾取される。

 例えば、10世帯ほどのコミュニティをつくり、分担して食料を自給するとしよう。多分、1日8時間も働かなくていいような気がする。資本主義経済とは、資本の奴隷となることを合意した社会なのかも知れない。そして資本主義は、ヒエラルキーの上層に富を偏在させる。

 蛇足となるが、表紙の出来が素晴らしい。

2009-05-01

外情報/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ


『身体感覚で『論語』】を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

 ・ユーザーイリュージョンとは
 ・エントロピーを解明したボルツマン
 ・ポーカーにおける確率とエントロピー
 ・嘘つきのパラドックスとゲーデルの不完全性定理
 ・対話とはイマジネーションの共有
 ・論理ではなく無意識が行動を支えている
 ・外情報
 ・論理の限界
 ・意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる
 ・神経系は閉回路

『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン

必読書 その五

 世界一短い手紙(※正確には電報)はヴィクトル・ユゴーが書いたもので、「?」だけが記されていた。これに対する出版社の返事が振るっていて「!」のみ。発売されたばかりの『レ・ミゼラブル』の売れ行きをユゴーが尋ね、出版社が「売れ行き良好」と答えたもの。まさに阿吽(あうん)の呼吸だ。

 トール・ノーレットランダーシュは、意図的に省略された情報を〈外情報〉と名づける――

 ユゴーが書いた疑問符は、明白な形で情報を処分した結果だ。もっとも、ただの処分とは違う。彼はたんに全部忘れてしまったのではない。処分した情報を明確に指し示した。しかし、通信文という観点に立てば、その情報はやはり捨てられてしまっている。本書では、この明白な形で処分された情報を〈外情報〉と呼ぶことにしよう。

【『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(紀伊國屋書店、2002年)以下同】

 で、〈外情報〉にはどのような効果があるのか――

 多くの〈外情報〉を含んだメッセージには深さがある。ある人が最終的なメッセージを作り上げる過程で、意識にある大量の情報を処分し、メッセージから排除すれば、そこには〈外情報〉が生まれる。メッセージの情報量からだけでは、そのメッセージがどれだけの〈外情報〉を伴っているかはわからない。メッセージのコンテクストを理解して初めてそれがわかる。送り手は自分の頭にある情報を指し示すように、メッセージの情報を作り上げる。

 こうなると、情報というよりは言葉の本源に関わってくる問題だ。つまり、我々は日常において言語を介して意思の疎通を図っているが、言語に対するイメージは人によって微妙に異なる。同じということはあり得ない。とすれば、ここに言葉の詐術がある。

 人が心の底から感動した時、「言葉にならない」と言う。本来、情感というものは言葉では表現し尽くせないものだ。それを、相手に何とか伝えようとして我々は言葉を駆使し、声に抑揚をつけ、目を丸くし、身振り手振りを交えて――つまり、身体的な言語をも活用して――表現するのだ。

 結局、意図的に言葉を省略することで、「言葉にならない思い」がメッセージとして放たれるわけだ。「見つめ合う恋人同士」に言葉は不要であろう。ま、数ヶ月もすれば互いに言葉尻を捉えて喧嘩するようになるんだけどさ。

 ここで聞き手に求められるのは、コンテクスト(文脈)を読み解く能力だ。心の深い人物は、おしなべて「声なき声」をすくい取ることができる。本当に耳を澄ませば、小さなため息一つからでも相手の悩みを感じ取ることはできる。

 コミュニケーションの上手な人は自分のことばかり考えたりしない。相手の頭に何があるかも考える。相手に送る情報が、送り手の頭にある何らかの情報を指し示していても、どうにかして受け手に正しい連想を引き起こさせなければ、それは明確さという点で十分とは言えない。情報伝達の目的は、送った情報に込められた〈外情報〉を通して、送り手の心の状態に相通ずる状態を、受け手の心に呼び起こすことだ。情報を送るときには、送り手の頭にある〈外情報〉に関連した何らかの内面的な情報が、受け手の心にもなければならない。伝えられた情報は、受け手に何かを連想させなければならない。

 一読すると、「フーン」以上、で終わりかねないが、実は凄いことを言っている。飯嶋和一著『汝ふたたび故郷へ帰れず』(河出書房新社、1989年)を読んで私は悟った。北朝鮮から帰ってきた曽我ひとみさんが、新潟で父上と再会した際のやり取りなんかが、まさにそうだ。

 仏法ではそれを「念」と名づけた。そして、今この瞬間の思いを「一念」と称し、三千の世間(※本質的な差異との意)を内包していると説かれている(一念三千)。

 言葉を圧縮すれば、当然重みが増す。地球を半径2cmまでに圧縮すれば、ブラックホールが出来上がる(ブライアン・グリーン著『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』草思社、2001年)ように。格言や名言が心に響くのも、省略された情報が多いためだと理解できる。そして、〈外情報〉が豊富になればなるほど、メッセージの抽象度は高くなってゆくのだ。



飯島和一作品の外情報

2009-04-27

時は金なり/『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ


 ・笑い飛ばす知性
 ・時は金なり
 ・

『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ
『ピーターの法則 創造的無能のすすめ』ローレンス・J・ピーター、レイモンド・ハル
『パーキンソンの法則 部下には読ませられぬ本』C・N・パーキンソン
『新版 人生を変える80対20の法則』リチャード・コッチ

必読書リスト その三

 インチキイタリア人(※翻訳者も見当たらないので多分、本当は日本人)と思われるパオロ・マッツァリーノだが、卓越した諧謔(かいぎゃく)を支えているのは広範な知識である。例えばこう――

 14世紀、ルネサンス期になると、アルベルティーなる人物が「時は金なり」というキャッチフレーズコピーを使い始めます(ただし「時は金なり」を本格的に広めたのは、元祖ベストセラービジネス書ライターでもあった、18世紀アメリカのフランクリンです)。神の所有物であった時間を、人間が労働のために売り買いするようになったのです。労働者が時間で管理されるようになりました。ルネサンスというのは、人間性の尊重、個性の解放などを目指した文化の革新運動だったはずです。でも、尊重・解放されたのは金持ちだけで、貧乏人は皮肉なことに、一層キビシク管理されるようになったのです。

【『反社会学講座』パオロ・マッツァリーノ(イースト・プレス、2004年/ちくま文庫、2007年)以下同】

 一般的に「時は金なり」はフランクリンの言葉として知られている。「くろご式 ことわざ辞典」でもそのように紹介している。こういった細かいところに目が行き届いているから、パオロ・マッツァリーノは侮ることができない。

 で、「くろご式」にはフランクリンのテキストが掲載されている――

 時は金なりということを忘れてはならない。自らの労働により1日10シリングを稼げる者が、半日出歩いたり、何もせず怠(なま)けていたりしたら、その気晴らしや怠惰に6ペンスしか使わなかったとしても、それだけが唯一の出費と考えるべきではない。彼はさらに5シリングを使った、というよりむしろ捨てたのである。

337 時は金なり

「時は金なり」って時給のことだったんだね。この辺りの労働文化史については、トム・ルッツ著『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』(青土社、2006年)が詳しい。

 ベンジャミン・フランクリンが生きたのは、ちょうどイギリスで産業革命が起こった時代である。それまでは農業を営んでいた人々が、大量生産の担い手として新たな労働力となった。つまり、ここから「人生の切り売り」が始まったというわけだ。そして労働は、機械の一部となることを意味するようになった。上級奴隷――これは言い過ぎか。

 でも、現代にしたって、労働そのもので自己実現を可能にできる人は一握りしか存在しないことだろう。とすると、労働には人それぞれに何らかの強制力が働いていると考えられる。働く行為そのものが幸福感に包まれていなければ、「何かのために」働いていることになる。最も多い理由は「食うため」だろう。ほら、やっぱり上級奴隷だ。もちろん私だってそうだ。胸を張って答えるよ。

 人生の半分以上の時間を占める労働が、こんな状態でいいはずがない。一体全体、「自分の人生」はどこへ行ってしまったのだろう? 明日からでも探しに行こうと思う。「時は金なり」なんてえのあ、資本家を利するための虚言であろう。

2009-04-24

ランダムな報酬が“嬉しい驚き”となる/『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス


『デイトレード マーケットで勝ち続けるための発想術』オリバー・ベレス、グレッグ・カプラ
『ゾーン 最終章 トレーダーで成功するためのマーク・ダグラスからの最後のアドバイス』マーク・ダグラス、ポーラ・T・ウエッブ
『規律とトレーダー 相場心理分析入門』マーク・ダグラス

 ・ランダムな報酬が“嬉しい驚き”となる
 ・思想はエネルギーである

『タープ博士のトレード学校 ポジションサイジング入門 スーパートレーダーになるための自己改造計画』バン・K・タープ
『なぜ専門家の為替予想は外れるのか』富田公彦

 評価の高い投資本だ。ただし、翻訳が拙い。随分と損をしていることだろう。具体的な手法については何一つ書かれていない。リスク・テイカーとしての覚悟、心理、概念、思想とはどうあるべきかを追求している。

 売買の厳密なルールを決めていなければ、相場はギャンブルと変わりがない。「流れ」といったところで、いかなるスパンのチャートを見るかで、上げ下げは異なる。5分足チャートでは上がっていても、1時間足で下げていることなどザラにある。マーケットに参加する以上は、キャッシュポジションの比率と、ストップ(損切り)のポイントを決めておく必要がある。これができない人は、あっと言う間に丸裸にされる。というよりも、丸裸にされて当然だ。

 ギャンブルも相場もビギナーズラックというケースがある。ここで勘違いをして図に乗ると、必ず痛い目に遭う。また、儲けが大きくなるほどポジションを膨らませてしまう悪癖がつく。初めから損をしようと思っているプレイヤーは一人もいない。であるにもかかわらず、大半の人々が損をしている現状を重く受け止めねばなるまい。

 サルにランダムな報酬を与え、その心理学的効果を分析した研究が幾つかある。例えば、サルにある調教をし、それをするたびに褒美を与え続けた結果、サルはすぐにその努力が特別な褒美と結びついていると分かる。しかし今度はその作業をしても褒美を与えるのをやめてしまうと、非常に短期間のうちにサルはまったくその作業をしなくなる。褒美がもらえそうにもないのに、やるだけ労力が無駄だと分かるからだ。
 ところが褒美を一貫して与えるのではなく、完全にランダムなスケジュールで与えた場合、褒美がもらえなくなったサルの反応はまったく異なってくる。褒美を与えるのをやめても、その作業をしてももう二度ともらえないとは、サルにはわからない。そして褒美が与えられるたびに、その褒美はサルにとって嬉しい驚きとなる。その結果、サルの頭から仕事をサボる理由がなくなるのだ。たとえそれをしても褒美がもらえなくても、サルはひたすらその作業を続ける。場合によっては、永久的に続けるだろう。
 なぜランダムな褒美にのめり込みやすいのか、はっきりとは分からない。想像するに、予想外の嬉しい驚きがあったとき、脳内に自己陶酔をもたらす化学作用があるからではないだろうか。褒美がランダムだと、いつそれを受け取れるか、はっきり分からない。しかし素晴らしい喜びの感情を期待して、労力と能力を費やすのが苦にならない。事実、こうしたものにおぼれてしまいやすい人は多い。

【『ゾーン 「勝つ」相場心理学入門』マーク・ダグラス:世良敬明(せら・たかあき)訳(パンローリング、2002年)】

 ここでいう「ランダムな報酬」とは、「相場で勝った」ことを意味する。「嬉しい驚き」が相場にのめり込ませる原因となる。そして、トータルでは損をしこたま抱える羽目になるのだ。

「ランダムな報酬」は、岡本浩一著『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』(PHP新書、2001年)に書かれている「ひかえ目な報酬」とよく似た概念だ。

 予測していなかった利益が期待値を高める。一度でもぼろ儲けした経験があると、その記憶に束縛される。中々利益を確定できずに、結局相場は戻してしまう。それどころかチャートは反転する。「ここまで下げれば、そろそろ戻すはずだ」と思ったところから、二段下げ、三段下げと続く。挙げ句の果てに、追証(おいしょう/追加証拠金)寸前で損切りに追い込まれる。で、決済した途端、まるで見計らったかのようにチャートが元に戻る。そんな経験をしたことのある人は多いことだろう。

 一般投資家の基本は中長期にわたる取引である。日計り(デイトレード)で稼ごうなんて思うのは100年早い。既に、頻繁な売買をすれば損をすることが科学的に証明されているのだ。中途半端な気持ちで飛び込めば、間違いなく大火傷する世界である。

 損得に微動だにすることなく、淡々と売買をする明鏡止水の境地を、本書では「ゾーン」と名づけている。素人からすれば神がかりとしか思えないが、マーク・ダグラスの説得力は確かにそうした領域があることを見事に示している。



ギャンブルは「国家が愚か者に課した税金」/『なぜ投資のプロはサルに負けるのか? あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』藤沢数希

2009-04-18

脆弱な良心は良心たり得ない/『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一


 ・脆弱な良心は良心たり得ない
 ・自我と反応に関する覚え書き

『権威主義の正体』岡本浩一
『服従の心理』スタンレー・ミルグラム
『権威の概念』アレクサンドル・コジェーヴ
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー
『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ

権威を知るための書籍

 組織のあるところには必ず「無責任の構造」が潜んでいる、と著者は説く。確かにそうだ。まず、責任を支えているのは能力である。そして次に正義感だろう。能力はあっても正義感を欠いた人物はおしなべて、“構造的な無責任”に遭遇しても見て見ぬふりを決め込む。真っ当な責任感は、一段高い位置から自分の業務を部分として捉えることができる。

 岡本浩一はJCO臨界事故の調査委員を務めた。事故の経緯に一章が費やされていて、断片的なニュースでは窺い知ることのできなかった貴重な記録となっている。

 このプロセス(※JCOの工程違反)で、「それは危険だ」と声をあげようとしてその勇気がなくてできなかった人や、声をあげたために地位や人間関係で不利益に耐えねばならなかった人たちが、幾人かいたことだろう。彼らが声をあげ、その声が聞かれていれば、あの不幸な事故は起こらなかったに違いない。彼らの圧殺された良心を思うとき、私は刺すような痛みを心に感じる。しかし、それでも酷なことを書くが、圧殺され表明されなかった良心は、究極のところ、存在しなかったのと同じである。
 脆弱な良心は良心たり得ない。

【『無責任の構造 モラルハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

「脆弱な良心」とは、思っただけで行動に移せなかった人々が後から口にする言いわけに過ぎない。なぜなら、勇気はいつの場合でも決意を生み、その決意が極まれば必死の行動に結びつくからだ。私はこれを「小さな革命」と名づける。小さな改革のさざ波なくして、偉大なる変革はなし得ない。惰性は「死」を象徴しているのだ。

 あらゆる組織がそれぞれの論理で運営されている。組織は常識や道徳で動いているわけではない。そこに社会とは異質な価値観が必ず存在している。はびこっていると言ってもいいだろう。若者や女性というだけの理由で軽んじられる場面も多い。営業の世界にあっては文字通りの弱肉強食であり、売れない営業マンに人権なんぞないに決まっている。

 組織はヒエラルキー(階級)で構成されている。職権を階層化したものが組織といえなくもない。サラリーマンは人事と給与で首根っこを押さえられている。上司に逆らうようなことがあれば、当然査定に影響する。こうして威勢のよい若者も牙を抜かれ、事なかれ主義の権化と変貌してゆく。

 結局のところ、“正義の実現”と“失業というリスク”を天秤に懸ける営みを強いられる。多くの場合は葛藤を経て、いかなる煮え湯にも耐え得る強靭かつ鈍感な神経を鍛えることとなる。やっぱり、正義感は安定した生活に勝てないってことだな。

 ってことはさ、同じ会社で何十年も働いている人々は、正義感が弱いのかもね。

 本書は好著なんだが如何せん文章がよくない。まるで、下手糞な翻訳ものを読んでいるような気にさせられる。同語反復も目に余る。特に最終章は読む価値なし。総体的な内容が素晴らしいだけにもったいない。