2011年1月1日00:00~10月15日00:00に日本周辺で発生したM3.0以上の地震まとめ
この分布図は個人が作成した非公式な情報です。気象庁が公表した資料を参照しています。M3.0以上の地震をまとめています。
私は、バッハにおけるキリスト教の役割を軽視する考えには、絶対に反対である。バッハにとってこれほど大切だったものを尊重し、その内容を知り、その影響を考えることは、正しいバッハ理解のための不可欠の条件であると思う。その意味では、聖書の勉強がたいへん役に立つ。
だが、だからといってバッハを、キリスト教に閉じ込めてはならない。バッハを教会で聴くのはいいものだが、演奏の場を教会に限るべきではないだろう。それと同じように、バッハのメッセージも、当時の教会の教えにすべて還元されるべきではない。むしろわれわれは、バッハがその教えの上に立ちながら、いかに国境と時代を超えた作品を作り出したかに、目を注ぐべきである。
バッハの人間理解に深さが感じられるのは、彼が人間の概念を、いつも人間を超えたものとの関係においてとらえているからではないだろうか。
【『J・S・バッハ』礒山雅〈いそやま・ただし〉(講談社現代新書、1990年)】
不覚にも笑った(笑)【名作のタイトルに一文字足すとよく分からなくなる】
キャプテン右翼。
天空の茨城ラピュタ。
鳥人間失格。
吾輩は猫耳である。
マッチョ売りの少女。
面白い巨塔。
海辺のフカフカ。
一休許さん。
老人と海苔。
ローマの定休日。
ああ無表情。
はしょれメロス。
— 猫縞 (@neko_666) 2011, 12月 11
最も命を狙われた男:16日読売「カストロが、最も命を狙われた男でギネスブックに掲載」「暗殺未遂は計638回。CIAによるもの大半で、葉巻に毒物を混ぜたり、野球のボールに爆発物を仕込んだりなど、様々な手法」、日本の政治家は対象になったことあるか、読売さん教えて下さい。
— 孫崎 享 (@magosaki_ukeru) 2011, 12月 17
野田佳彦首相は16日、政府の原子力災害対策本部の会合で、東京電力福島第一原発で原子炉を安定して冷却する「冷温停止状態」を達成し、事故収束に向けた工程表「ステップ2」が完了できたとして「事故そのものは収束に至った」と宣言した。
【TOKYO Web 2011-12-17】
「冷温停止状態」を通り越し「事故収束」にまで踏み込んだ首相発言に、福島第一原発の現場で働く作業員たちからは、「言っている意味が理解できない」「ろくに建屋にも入れず、どう核燃料を取り出すかも分からないのに」などと、あきれと憤りの入り交じった声が上がった。
作業を終え、首相会見をテレビで見た男性作業員は「俺は日本語の意味がわからなくなったのか。言っていることがわからない。毎日見ている原発の状態からみてあり得ない。これから何十年もかかるのに、何を焦って年内にこだわったのか」とあきれ返った。
汚染水の浄化システムを担当してきた作業員は「本当かよ、と思った。収束のわけがない。今は大量の汚染水を生みだしながら、核燃料を冷やしているから温度が保たれているだけ。安定状態とは程遠い」と話した。
ベテラン作業員も「どう理解していいのか分からない。収束作業はこれから。今も被ばくと闘いながら作業をしている」。
原子炉が冷えたとはいえ、そのシステムは応急処置的なもの。このベテランは「また地震が起きたり、冷やせなくなったら終わり。核燃料が取り出せる状況でもない。大量のゴミはどうするのか。状況を軽く見ているとしか思えない」と憤った。
別の作業員も「政府はウソばっかりだ。誰が核燃料を取り出しに行くのか。被害は甚大なのに、たいしたことないように言って。本当の状況をなぜ言わないのか」と話した。
【TOKYO Web 2011-12-17】
彼は彼女に理解させようとした。「これはまずめったにないことなんだ。単に誰かが殺されるという問題じゃない。分かるだろう、昨日を起点としてはるか続く過去が現に抹消されているんだ。過去がどこかで生き延びるとしたら、それは何のことばもついていない数少ない確固たる物体のなかでしかない。例えば、そこにあるガラスの塊のようなもののなかとかね。すでにぼくたちは、革命について、そして革命前の時代について、文字通り何の手がかりもなくなっていると言っていい。記録は一つ残らず廃棄されたか捏造され、書物も全部書き換えられ、絵も全部描き直され、銅像も街も建物もすべて新しい名前を付けられ、日付まですっかり変えられてしまった。しかもその作業は毎日、分刻みで進行している。歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかでは党が常に正しいんだ。もちろん分かっているさ、過去が捏造されているって。でもぼくがそれを証明するなんて、とうてい無理な話、たとえ自分がその捏造に直接関わっていてもね。作業が終われば証拠は何も残らないのだから。唯一の証拠はぼくの頭のなかにあるだけ。そしてぼくの記憶を共有してくれる人間がはたして他にいるものやら、とても自信がないね」
【『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳(ハヤカワepi文庫、2009年/吉田健一・龍口直太郎訳、文藝春秋新社、1950年/『世界SF全集 10 ハックスリイ オーウェル』村松達雄・新庄哲夫訳、早川書房、1968年/新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972年)以下同】
「しかし、いいかねウィンストン、現実は外部に存在しているのではない。現実は人間の精神のなかにだけ存在していて、それ以外の場所にはないのだよ」
「他人を支配する権力はどのように行使されるかね、ウィンストン?」
ウィンストンは考えた。「相手を苦しめることによって、です」と答えた。
「その通りだ。苦しめることによってはじめて行使される。服従だけでは十分でない。相手が苦しんでいなければ、はたして本当に自分の意志ではなくこちらの意思に従っているのかどうか、はっきりと分からないだろう。権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で改めて、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ」
これまでの時代を通じてずっと、人間は自分を超えるもの、物質的な幸福以上のもの――私たちが真理とか神、真実在(リアリティ)、不滅の状態と呼ぶもの――環境や思考、人間の腐敗によって妨害されることのないもの、を探し求めてきました。
人はいつも自問してきました。全体どういうことなのか? 人生にそもそも意味などあるのだろうか? 彼は生のひどい混乱を、残虐さ、反抗、戦争を、いつ果てるともない宗教やイデオロギー、国籍による分裂〔不和〕を見て、深い、終わることのない欲求不満の感覚と共にこうたずねるのです。人はどうすればよいのか、私たちが生と呼ぶこのものは何なのか、何かそれを超えるものがあるだろうか、と。
そして自分が探し求めてきた、無数の名をもつこの名づけ得ないものを見つけることができないので、彼は信仰――救世主または何らかの理想への信仰――を培(つちか)ってきのたですが、それは必然的に暴力を生み出すのです。
私たちが生と呼ぶこのたえまない闘争の中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動規範を作ろうとします。私たちは何らかの行動基準を受け入れますが、それはヒンズー教、イスラム教、キリスト教、あるいは何であれ自分がたまたまそこに生まれ合わせたものの伝統の一部をなすものです。私たちは誰かに頼って行動の善悪を、思想のよしあしを教えてもらおうとしますが、こうしたパターンに従ううちに、私たちの思考と行動は機械的になり、反応は自動的なものになります。このことは、自分自身を省みれば容易に理解されることです。
【『既知からの自由』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳、霞ケ関書房、1970年の新訳版)以下同】
あなたと私はそれで、どんな外部の影響もなしに、どんな説得〔persuasion:「確信・信仰」の意味もある〕もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中にもたらすことができるでしょうか――私たちの存在のまさにその精髄の中に、全的な革命、心理的な突然変異を。そうしてもはや残虐冷酷でも、暴力的でも、競争的でも、不安でもなく、恐怖に満ちてもおらず、貪欲でも、嫉妬深くもなくなって、私たちが日々の生活を生きているこの腐った社会を築き上げた、私たちの性質の諸々の現れから自由になれるでしょうか?
それこそが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことは可能でしょうか?
そのような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょう? あなたは言うかも知れません。「私は変わりたくない」そして大方の人はそうなのです。とりわけ社会的・経済的に安泰な人たち、ドグマ的な信念をもち、自分自身や事物の現状や、それをほんのわずか加工して満足している人たちの場合には。そのような人々に私たちは関わりません。あるいはあなたはもっと微妙なこういう言い方をするかも知れません。「まあ、それは少しばかり難しすぎるね。私には向かない」と。こういうケースでは、あなたはすでに自分自身をブロックしてしまっているのです。あなたは問うことをやめており、だからもうそれ以上進むことはないのです。
先に進む前に、人生におけるあなた方の根本的、永続的な関心は何なのか、おたずねしてみたいと思います。もって回った答はどけて、この問題にまっすぐ誠実に向き合うとすれば、あなたはどう考えますか? それが何かわかりますか?
それはあなた自身ではありませんか? いずれにせよ、正直に答えるとすれば、それが私たちの大部分が言うだろうことです(ママ)。私は自分の進歩に、仕事に、家族に、私が暮している小さな片隅に、自分のためのもっとよい地位、もっと多くの特権、もっと大きな権力を得ることに、他者への支配力を強化すること等々に、関心があるのです。あなた自身に対してそれが自分の第一の関心事だということ――「私」が何より大事なのだということを認めるのは理にかなったことだと思うのですが、いかがでしょう。
自分のことを第一に考えるのは間違ったことだと言う人もいるでしょう。しかし、私たちがきちんと正直に、それを認めることはめったにないということは別として、そのことのどこが悪いのでしょう? もし自分が何より大事だと認めるなら、私たちはそれをかなり恥ずかしく思うでしょう。それで、こういうことになります――人は基本的に自分自身に関心がある。そして様々なイデオロギー的、伝統的理由によって、人はそれを間違ったことだと考えるのだと。しかし人がどう【考える】かは重要ではありません。なぜ「それは間違っている」などという要素(ファクター)を持ち込むのですか? それは考え、観念です。【事実】は、人は根本的・永続的に自分自身に関心がある、ということです。
あなたは言うかも知れません。自分自身のことを考えるより、他の人を助ける方が満たされた気分になると。違いは何ですか? それは依然として自己関心です。他の人たちを助けることがあなたにより大きな満足感を与えるとすれば、あなたは自分により大きな満足を与えてくれるものに関心をもっているのです。なぜそこにイデオロギー的な観念を持ち込むのですか? どうしてこの二重思考があるのでしょう? なぜこう言わないのですか? 「私が本当にほしいのは満足感だ。セックスでも、人助けでも、偉大な聖人、科学者、政治家になるのでも〔それが目当てなのだ〕」と。それは同じプロセスではないでしょうか? あらゆる種類の満足、微妙なものでもあからさまなものでも、それが私たちが欲しているものなのです。私たちが自由になりたいと言うとき、それは私たちが自由は素晴らしい満足感を与えてくれると考えるからです。そしてもちろん、究極の満足は、この自己実現 self-realisation という殊更(ことさら)な考えです。私たちが本当に追い求めているものは、そこにどんな不満もないような満足感なのです。
暗殺されそうになった回数が世界一として、キューバのフィデル・カストロ前国家評議会議長が、ギネスブックに掲載されることになった。複数の同国メディアが伝えた。キューバ政府によると、米中央情報局(CIA)の文書に基づく記録で、暗殺の企ては2006年までに638回に上るという。
暗殺方法は、狙撃、葉巻への毒の注入、野球のボールに仕込まれた爆薬など様々だが、いずれも政府が事前に情報をキャッチし、失敗に終わった。
キューバの情報機関のトップを長年務めたファビアン・エスカランテ氏は昨年、前議長に対する暗殺の試みについての本を出版。最も深刻だったのは、61年にニューヨーク市内で企てられた爆弾計画だったと回想する。ミルクセーキに毒入りカプセルを入れられたこともあったが、幸運にものみ込まなかった。「フィデルは、待ち伏せを直感する能力がある」と話している。
【asahi.com 2011-12-16】