ラベル 仏教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 仏教 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2012-09-21

ティク・ナット・ハン Q&A(2009年ニューヨーク)


 ティク・ナット・ハンは「ダライ・ラマ14世と並んで、20世紀から21世紀にかけて平和活動に従事する代表的な仏教者であり、行動する仏教または社会参画仏教(Engaged Buddhism)の命名者でもある」(Wikipedia)。動画を見るとわかるが、嘘や虚勢がひとつもない。これ自体驚くべきことである。





小説ブッダ―いにしえの道、白い雲 ブッダの〈気づき〉の瞑想 ブッダの〈呼吸〉の瞑想 あなたに平和が訪れる禅的生活のすすめ―心が安らかになる「気づき」の呼吸法・歩行法・瞑想法

2012-09-16

プラム・ビレッジ(フランス)のシスターが語る気づきと瞑想


 汚(けが)れなき瞳と慎ましい表情。そして美しい歌が信じられないほど心を揺さぶる。真の宗教性が宗派の差異を軽々と超える。プラム・ビレッジはティク・ナット・ハンを中心とするコミュニティである。シスターたちが10月に来日するようだ。


公式サイト
2012年10月シスター・ブラザー来日【総合】情報
ティク・ナット・ハンのきもち
歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

2012-09-14

クリシュナムルティは輪廻転生を信じない/『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ


 試みはいいのだが、あまりいい本ではない。仏教知識が中途半端な上、巻末にクリシュナムルティの質疑応答を録するコンセプトに疑問が残る。「仏教+クリシュナムルティ」という販売戦略であろうか。

 クリシュナムルティの応答を一つ紹介しよう。彼は常に聴衆から質問を募ったが、それは「何かを教えるため」ではなかった。その意味では決して解答ではなく、やはり応答とすべきだ。

クリシュナムルティ●あなたはこうたずねられるかも知れません。「あなたは輪廻転生を信じますか?」と。そういうことですね? 私は何も信じません。私が何も信じないというのは回避ではありません。そしてそれは私が無神論者であるとか、神を冒涜(ぼうとく)するとかいったことを意味するのではないのです。その中に入り込み、それが意味するものを見て下さい。それは精神が信念のあらゆるゴタゴタから自由になることを意味するのです。

【『仏教のまなざし 仏教から見た生死の問題』モーリス・オコンネル・ウォルシュ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2008年)】

 これはクリシュナムルティ流の無記といってよい。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

 クリシュナムルティは「輪廻転生がない」とは言っていない。ただ「信じない」と語っているだけだ。ブッダは沈黙をもって答えた。私なら「あると考えるべきではない」と応じる。

 日本の仏教は大半が大乗仏教であり、輪廻転生(りんねてんしょう)を説いている。このため輪廻転生が仏教思想だと誤解している人々が多い。しかし元々はバラモン教(古代ヒンドゥー教)の教えである。また世界各地に見られるアニミズムと「生まれ変わり」思想は親和性が高いと思われる。

 では一歩譲って「来世がある」と仮定してみよう。果たしてそれは「いつ」なのであろうか? 岡野潔によれば神々が回帰(輪廻)する時間は1(いっこう)=43億2000万年(ヒンドゥー教の計算法)となる。

 とすると1劫ごとに輪廻が繰り返されたとしても、我々の認識では「繰り返し」と見なすことが不可能だ。

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一

 さすがに輪廻転生を信じる諸君も気長に待つことはできないだろう。人間は一生という時間単位を前提にものを考える傾向が強いので、我々が思い浮かべる来世はせいぜい数十年後といったところだ。そうじゃないと自分の子や孫とも擦れ違ってしまう(笑)。

 そもそも鎌倉仏教の開祖が一人も再誕していないのだから、ま、800年は無理ってな話になりますわな。ブッダもお出ましになっていない以上、2500年は生まれてこない計算となる。

 鎌倉時代は天災と戦乱の時代であった。人々は飢饉に責められ、疫病(えきびょう)に苦しみ、高騰する物価に苛(さいな)まれた。浄土宗は「死んだら西方極楽浄土に往生できる」と教えた。生きる望みを失った人々が次々と首を括った。

 来世は神と似ている。誰一人確認したことがないにも関わらず、誰もが信じている。

 すべての人にそれぞれ現在があって、その現在においてのみ、その人の時があり、それが現在であるという。しかも、そこではいつでも現在が中心になっています。ですから、仏教では現在・過去と並称するときには決して「将来」ということばは使わない。「未来」ということばを使う。(三枝充悳〈さいぐさ・みつよし〉)

仏教的時間観は円環ではなく螺旋型の回帰/『仏教と精神分析』三枝充悳、岸田秀

 将来とは「将(まさ)に来る」で、未来とは「未だ来たらざる」である。希望の「望」には本来、野望の意味がある。中国では王や将が奪うべき敵地を視察する目的で高台に望台を築いた。

 望む、とは、ただ見ることとはちがう。呪(のろ)いをこめて見ることを望むという。望みとは、それゆえ、攻め取りたい欲望をいう。

【『楽毅(一)』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)】

 おわかりだろうか? 来世への「望み」が実は自我に基づく「渇愛」から発せられていることを。すなわち輪廻転生とは自我の延長戦であるといってよい。これ自体が死を忌避する思想であり、死という現実から逃避する行為ではあるまいか。我々は「自分が消失する事実」に耐えることができない。それゆえ多くの人々が認知症となることを恐れるのだろう。記憶の崩壊は自我の死を意味する。つまり自我の正体とは記憶なのだ。

「何かになろう」とする企て自体が現在を否定していることに気づくべきであろう。

努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ
理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一

 結論――来世を信じる人は今世を軽んじる人である。

仏教のまなざし―仏教から見た生死の問題

2012-05-21

孤なる魂をもつ者/『千日の瑠璃』丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

 ・20世紀の神話
 ・風は変化の象徴
 ・オオルリと世一
 ・孤なる魂をもつ者

『見よ 月が後を追う』 丸山健二

必読書リスト その一

 私は野良犬だ。
 昼夜の別なくまほろ町をうろつくせいで、少年世一と出くわすことがどこの誰よりも多い野良犬だ。躰は小さく、従って餌代も安くつき、無駄吠えも少ないというのに、結局私は飼い犬になれなかった。つらつら惟るに、白と黒という毛の配色が、どうしても不吉な印象を与えてしまうのだろう。もっともそのおかげで私は、人間に飼われている犬や、犬を飼っている人間の何倍もの自由を手に入れることができたのだ。
 そうはいっても、私の自由の大きさを真底わかってくれているのは、世一ただひとりでしかなかった。少なくとも私のほうは、世一のそれを充分理解しているつもりだった。ほかの人間は皆人間以外の何者でもなかったが、しかし世一だけは違って見えた。彼は人間でありながら、同時に人間以外のすべてでもあった。そして私たちはいつも、互いに意識するあまり、無言ですれ違っていた。たまに眼と眼が合ったりすると、私たちは眩いばかりの自由な身の上にあらためて気づき、大いに照れてしまい、卑下さえもしたくなり、足早に立ち去るのだった。
 ところがきょうの私たちは、葉越しに見える月の力を借りて、声を交した。私は、所詮見限られた者同士ではないかという意味をこめて、「わん」とひと声吠えた。すると世一はぴたっと歩みをとめ、振り向きざまにこう言った。「されど孤にあらず
(11・5・土)

【『千日の瑠璃』丸山健二(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年)】

 数日前から何となく手にとってはパラパラとページをめくっている。初めて読んだのは1998年のこと。丸山のエッセイは数冊読んでいたものの小説は初めてだった。物語性には欠けるが濃密な文体と千の視点に圧倒された。私は仏法で説かれる一念三千の法理が何となくわかったような気になった。智ギ(天台)によれば、己心の一念に三千の諸法が具(そな)わっているという。

 まほろ町という小宇宙を千の視点から物語る。その中心に位置するのは身体の不自由な少年・世一〈よいち〉である。丸山は田舎町を嘲笑し、作家という職業をも愚弄(ぐろう)する。世一の役回りは神ではなく鏡だ。本書で名前を付与されているのは世一ただ一人である。つまり世一以外は類型(モデル)にすぎない。

 知的障害をもつ世一が時折、言葉を放つ。ひょっとしたら我々の周囲にいる障害者や病人はそうした役を演じているだけなのかもしれない。私はいささか介護の経験があるのだが、本当に力がある人間はボディビルダーのような人々ではなく、身体障害者であると思っている。腕や脚、はたまた半身が鉛のような重さとなっているのだ。リハビリの苦しさは筋肉トレーニングの比ではないという話も聞いたことがある。

 仏法では人間が生きる世界を「世間」と名づける。出世とは「出世間」の略である。世間の本質は差別だ。社会は必ずヒエラルキーを形成し、大半の人々は部下・奴隷・兵士の役目を押しつけられる。そして出自・学歴・スキルによって報酬が異なる。

 我々は人間の価値を「いくら稼いでいるか」で判断する。だが野良犬と世一は違う。

【付記】久々に『千日の瑠璃』を調べたところ、何とガジェット通信で全文が配信されることを知った。

ガジェット通信:丸山健二
丸山健二

 
 

2012-05-10

カーティス・フェイス、中村元、田辺祥二


 1冊挫折、1冊読了。

伝説のトレーダー集団 タートル流 投資の黄金律』カーティス・フェイス:飯尾博信+常盤洋二監修、楡井浩一〈にれい・こういち〉訳(徳間書店、2009年)/前著『伝説のトレーダー集団 タートル流投資の魔術』とは打って変わって完全なビジネス書となっている。タイトルに難あり。徳間書店の下劣な営業姿勢が窺える。挫けたものの4分の3以上は読んだ。良書である。ただし読み手の資質が問われる。『リスクマネジメントの黄金率』にすれば、確実に売れたことだろう。

 28冊目『ブッダの人と思想』中村元〈なかむら・はじめ〉、田辺祥二、大村次郷・写真(NHKブックス、1998年)/中村がNHKテレビで話した内容を田辺が編んだ作品。初期経典に手をつけようと思いながら中々進んでいないのだが、本書から開始しようと決意した次第である。秀逸なテキスト。ブッダの内省と中村の内省が響き合っているのだろう。時折、違和感を覚える言い回しがあるのだが特筆すべきほどでもない。ただし、時間論的視点を欠いている。仏教の思想性は時間論で捉えるのが手っ取り早いというのが私の持論だ。

2012-05-05

湯殿川を眺める


川はどこにあるのか?
阿呆陀羅經さん 死後に関する無記のタターガタは衆生 2004,6,13,
湯殿川

 ・湯殿川を眺める

『川と人類の文明史』 ローレンス・C・スミス
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート

 天気がよかったので湯殿川(ゆどのがわ)を見にゆく。川岸のコンクリートで結跏趺坐(けっかふざ)を組み、全身を耳と化す。

 右手の下流からせせらぎが聴こえる。金色の風が静かにたなびく。生え放題の雑草を風が撫でているが音はしない。ただ気配だけが動いている。耳を澄ますと左側の上流からもせせらぎの低い音がする。遠くで雀が鳴き、どこかのベランダで何かがカタンと音を立てた。二つ向こうにある橋から自動車の騒音がかすかに流れてくる。

 あらん限りの注意を払う。しかしパレスチナ人の叫び声は聞こえない。「なぜだろう?」といつも思う。

 昨日の土砂降りのせいか、豊かな水量が澱(よど)みなく流れる。水はまさに来たり、間髪を入れずに去りゆく。

 仏の別名を如来(にょらい/タターガタ)という。真如(=真理)より来(きた)りし者との意である。これに対して如去(にょこ)あるいは好去(こうこ)という呼称(スガタ)もある。十号の善逝(ぜんぜい)がこの意であろう。「善く逝く」とは輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)を表す。

 因(ちな)みにティク・ナット・ハンが仏典に基づいて描いた傑作『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』では「タターガタ」を両方の意味で使っている。

「来る」という語は何となく来迎(らいごう)を思わせる。Wikipediaに「如去は向上自利であり、如来は向下利他である」とあるが、如来にはやはり大乗的な臭みがある。

 川を真横から見る。我々は未来を知る術(すべ)をもたない。川上に向かって立てば水は如来と感じるかもしれないが、実際に確認できるのは流れた後だけである。つまり水は流れ去り、時もまた流れ去るものとして知覚される。諸行無常という変化相を思えば、やはり「滅び去る」という実感が湧く。

 涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)とは煩悩(ぼんのう)を吹き消した状態である。すなわち煩悩から離れ去るのだ。私という自我から離れる行為でもある。

 ふと疑問が起こった。川はなぜ一定の水量で流れているのだろうか? 雨で多少の変化はあっても、目の前の流れは常に一定だ。「不思議だ、不思議だ」と目を丸くしながら私は川に見入った。

 少したってから気づいた。水量は一定ではないことに。一定に見えるのは1日を24時間と感じる私の感覚で捉えているからだ。例えば1000年という単位で見れば、川は次々と変化しているはずだ。

 私という存在も一定に見えて一定ではないはずだ。我々は一生という単位時間に支配されている。そして可能な限り生にしがみつき、朝露の如き存在となることを極端に恐れる。挙げ句の果てには墓石に名を刻んで、自我を末永くこの世に留(とど)め置こうとする。

 去ることは死ぬことだ。どう抗(あらが)ったところで死ぬことだけは避けようがない。生は流れ、過去も流れている。過去を死なせ、自我を滅した時、諸法無我が現れる。



来ては去っていくもの/『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン編

2012-03-25

キリスト教は仏教の影響を受けていた


2012-03-06

石原慎太郎と野口健 遺骨収集活動










 いやあ凄い。あの石原慎太郎が神妙な顔つきで耳を傾けている。生の本質に迫る言葉の数々が襟を正さずにはおかない。

 8000mを超えた世界には匂いや色、音がないとの指摘が興味深い。仏教では物質的存在を「色法」(しきほう)と名づける。野口の言葉に「いろは歌」を思い出した人も多いのではないか。

 色はにほへど 散りぬるを
 我が世たれぞ 常ならむ
 有為の奥山  今日越えて
 浅き夢見じ  酔ひもせず

 諸行無常がこの世の実相であれば、8000mから上は変化をも許さない「死の世界」なのだろう。地獄とは地の底にあると思い込んでいたが、どうやら違ったようだ。

 五感という知覚そのものが、縁起という相関関係を構成していることがわかる。

野口健が聞いた英霊の声なき声―戦没者遺骨収集のいま 自然と国家と人間と (日経プレミアシリーズ)

野口健が戦ってきたもの

2012-01-09

拈華微笑


You're in Good Hands


 偶然落ちた花か。あるいは誰かが供(そな)えたものか。ニヤリ、とせざるを得ない。

◎拈華微笑(ねんげみしょう)

2012-01-03

「なぜ入力するのか?」「そこに活字の山があるからだ」


「なぜ、そこまで入力するのですか?」という質問が寄せられた。

私はブック・キャッチャーである/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー

「そこに活字の山があるからだ」と返事をした。私はかねがねジョージ・マロリー卿に強い憧れを抱いている。

『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ヨッヘン・ヘムレブ、エリック・R・サイモンスン、ラリー・A・ジョンソン

 高峰へのアタックはルート選びで成否が決する。未踏の領域には何があるのか? そこには誰も経験していない「山との対話」があるのだ。対話とはコミュニケーションである。天に近い領域に縁起的世界が広がる。私は山であり、山は私である。

 高尾山くらいしか登れない私でも、そんなことは容易に想像がつく。多くの人々によって踏み固められたコースに感動はないかといえばそうでもない。初めて往く道には新鮮な出会いがある。通勤や通学コースがつまらないのは「先がわかっている」ためだ。

 話を元に戻そう。入力は相手の思索を辿る行為である。その意味で「思想のトレース」といってよい。実際にやってみるとわかるが、読んだ時は感動したものの、入力するとキータッチが重くなることがある。これは文体が悪いためだ。文体の生命はリズムである。つまり思想が身体性に至っていないためにアンバランスが生じるのだ。

 法華経の法師品第十で五種法師が説かれ、法師功徳品第十九では「受持、読、誦、解説、書写」という五種の修行の功徳が宣言される。

 書写の目的は情報のコピーではなく、思想のトレースにあったというのが私の見立てである。日本でも明治初期まではこれが普通であった。勝海舟や福澤諭吉が学問と取り組む姿勢にひ弱なところは全くない。むしろ格闘技に近い。

日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編
枕がないことに気づかぬほどの猛勉強/『福翁自伝』福澤諭吉

 彼らの時代は蘭書があると聞けば全国を渡り歩き、和紙を用意し、墨を磨(す)り、筆を振るって書き写した。その強靭な身体性が外国の思想に肉薄したことは間違いないだろう。

 だから本当であれば、やはり「書く」という行為が重要なのだ。また「声に出して読む」ことも大切であろう。テキストを演劇化すれば、もっと凄い領域に辿りつくはずだ。

 これはスポーツの世界においても同様で、徹底して基本の繰り返しが行われる。身体で「なぞる」のだ。例えば野球の素振りは100回を超えると無駄な力が抜けるといわれる。そして少しずつ理想のフォーム(型)が固まってゆくのだ。

「型にはまるな」という考えはここでは通用しない。型を身につけないと、型を超えることはできないからだ。名選手とはいずれも基本型から独自世界を生み出した人々の異名である。型を無視することは不自由につながる。

 悟りや知性は身体性を伴う。コンピュータが人間にかなわないのは身体性を欠いているためだ。我々は脳内ネットワークが言葉や思考で結ばれていると錯覚しているが、実際の反応を司っているのは五感の刺激であると思われる。つまり身体性を伴う刺激が脳を左右するのだ。

 私の直観が告げる。ここに呼吸が絡んでくる、と。呼吸法ではない。様々な呼吸の変化を見つめ、自覚するということだ。呼吸が生命のリズムを奏でる。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 生の本質は呼吸にある。自信のないまま断言してしまおう。今年も冴えてるぞ(笑)。

私のダメな読書法

2011-12-23

光の道


 湖であろうか。光の雫(しずく)が水面(みなも)に一筋の道をつくる。光があり、水があり、空気がある。これが縁起である。それは依存ではなく、互いが互いを照らし合う関係だ。フィルターの掛け具合がちょっとあざとく、ありのままの美しさを損なっている。

I believe in father Xmas...ON EXPLORE

2011-12-21

縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ


自由の問題 1
自由の問題 2
自由の問題 3
欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
教育の機能 1
教育の機能 2
教育の機能 3
教育の機能 4
・縁起と人間関係についての考察
宗教とは何か?
無垢の自信
真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

 ランスケさんとの出会いは、レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』によってであった。一冊の本を通して人と人とが邂逅(かいこう)する。何と不思議なことか。最初にコメントがあり、ランスケさんのブログで私の記事を紹介していただいた。

「ルワンダ大虐殺」及び「ルワンダの涙」

 我がブログは反応らしい反応が乏しいこともあって、大変ありがたかった。また私が綴る諸法無我についても敏感に応じてくださった。感受性の鋭い人は侮れない。彼の文章に私も思うところがあった。

 そこで議論、というよりは私自身の考えを確認する意味でこの一文を書いておこう。

 諸法無我という言葉(キーワード)が、重苦しい閉塞感の先に光明を見出す切っ掛けとなるだろうか?
 自我という実体が幻想なら、私という記号は人やモノとの関係性のなかで常に変化するのなら、
 私は「自我の地獄」から解放される。
 それは地球上のすべての生物種がそうであるように、
 人も生命の循環のなかに組み込まれた一つの生物種であることの証明だろう。
 人だけが自我という主体を持つ別個の存在という発想の方が歪に思えてくる。
 その関係性は「縁起」であり「慈悲」へと辿り着くのなら、これは幸福のかたちではないだろうか?

Landscape diary ランスケ ダイアリー

「自我の地獄」とは言い得て妙である。「地」は最低を意味し、「獄」には束縛の義がある。我々は生命を自我に閉じ込めてしまった。

 欲望を巡って幸不幸が位置する。大衆消費社会における幸福とは欲望の充足である。矢沢永吉は「愛も金で買える」と嘯(うそぶ)いてみせた(『成りあがり』)。

 で、欲望は「私」に基づいている。もう一歩踏み込もう。私とは「私の欲望」である。

 自我は版図(はんと)の拡大を目指す。我々がこれほど所有に執着するのは、所有物をもって自我を延長・拡大するためと考えられる。財産はもとより学歴、家柄、氏素性に至るまで他人との差別化を図れるものは全て自我に収束される。

 人が権力に憧れる理由もここにある。より多くの大衆を「手足のように」コントロールするところに権力の本質がある。男性にメカマニアが多いのも頷ける。機械は正確に応答するからだ。拳銃は機能性や様式美もさることながら、離れた場所に位置する人物の生殺与奪を決定する力が男の本能に強く訴えるのだろう。

 縁起=諸法無我とは具体的にいえば「コントロール性から離れる」ことを意味する。仏典では権力に潜む魔性を「第六天の魔王」と説く。これを略して天魔と称する。第六天とは有頂天のこと。天は人間界の上に位置する。別名を「他化自在天」(たけじざいてん)とも。他人を化すること自在というのが権力現象とってよい。

 これは本能に基づいたコミュニティがヒエラルキー構造を避けられないことを示していると思う。ブッダが生まれる以前からカースト制度は存在した。それゆえ弱肉強食からの超脱と考えることも可能だろう。

 もう一つ付け加えておくと、仏法が理解されにくいのは我々が幸福を求めるのに対して、ブッダは苦からの解放を説くという微妙な擦れ違いがあるためだ。厳密にいえばブッダが教えたのは幸福になる道というよりは、自由への直道(じきどう)であった。

 前置きが長すぎた。本論に入ろう。

 ただし、私は縁起は人との関係性を含むと思います。世界との繋がりは、生けるもの全てを呑みこんだ連綿と続く循環だと信じたい。

Landscape diary ランスケ ダイアリー:コメント欄

 私は次のように書いた。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 また次のようにも書いた。

 最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 大抵の人間関係は自我に基づいている。国家とは自我である。アイデンティティを規定するのは所属である。「私」が空虚であれば、最終的にしがみつくものは国家しかない。すなわち「私は日本人である」ということが自我の規定となる。

 大阪高等学校寮歌に「君が愁いに我は泣き 我が喜びに君は舞う」との美しい一節がある。かくの如き友情でありたいと私も願う。だが醒めた目で見つめると、その同一性、一体性が戦争の原因ともなり得ることに気づく。

 私が32歳の時、わずか半年の間で6人の後輩を喪ったことがある。文字通り涙が涸(か)れるまで泣いた。その後私は泣くことができなくなったほどである。それこそ身体の一部をもぎ取られるような感覚に陥った。ご家族の哀しみは想像にあまりある。私は彼らの死を力任せに引きずって生きてきた。彼らは私の胸で生き続けた。

「生きとし生けるものは必ず死ぬ」――そんな当たり前の真理に目をつぶりながら賃金を得るため身を粉にして働き、どうでもいいものに金をかけ、刺激を求めることに余念がなく、人の役にも立たない趣味にうつつを抜かし、のんべんだらりとブログを綴っているという寸法だ(※最後のは私のことね)。

諸君は永久に生きられるかのように生きている/『人生の短さについて』セネカ

 そして自我に基づいた人間関係は必ず依存へと向かう。

 現在、自由というようなものはないし、私たちはそれがどのようなものかも知りません。自由にはなりたいけれども、気づいてみると、教師、親、弁護士、警察官、軍人、政治家、実業家と、あらゆる人がおのおのの小さな片隅で、その自由を阻むことをしています。自由であるとは単に好きなことをしたり、自分を縛る外の環境を離れるだけではなく、依存の問題全体を理解することなのです。依存とは何か、知っていますか。君たちは親に依存しているのでしょう。先生に依存して、コックさんや、郵便屋さん、牛乳を届けてくれる人に依存しています。このような依存はかなり簡単に理解できるのです。しかし、自由になる前に理解しなくてはならない、はるかに深い種類の依存があるのです。つまり、自分の幸せのための、他の人に対する依存です。自分の幸せのために誰かに依存するとはどういうことか、知っていますか。それほどに人を縛るのは他の人への単なる物理的な依存ではなくて、いわゆる幸せを招来するための、内面の心理的な依存です。というのは、誰かにそのような依存をしているときには、奴隷になってゆくからです。年をとるなかで、親や妻や夫や導師(グル)、ある考えに情緒的に依存しているなら、すでに束縛が始まっているのです。私たちのほとんどは、特に若いときには自由になりたいと思うけれども、このことを理解していないのです。
 自由であるには、内的なすべての依存に対して反逆しなくてはなりません。そして、なぜ依存するのかを理解しなければ、反逆はできないでしょう。内的な依存のすべてを理解して、本当に離れてしまうまで、決して自由にはなれません。なぜなら、その理解の中にだけ自由はありうるからです。しかし、自由は単なる反動ではありません。反動とは何か、知っていますか。もし私が君を傷つけるようなことを言ったり、悪口を言うなら、君は私に対して怒るでしょう。それが反動で、依存から生まれた反動です。自立はさらに進んだ反動です。しかし、自由は反動ではありません。反動を理解して、それを超えるまで、決して自由ではないのです。
 君たちは、人を愛するとはどういうことか、知っていますか。樹や鳥やペットの動物を愛するとはどういうことか、知っていますか。何も報いてくれないかもしれないし、木陰を作ってくれたり、ついてきたり、頼ってくれたりしないかもしれないけれども、世話をし、餌をやり、大事にするのです。私たちのほとんどはそのように愛していないし、私たちの愛はいつも心配や嫉妬や恐怖に閉ざされているために、それがどういうことかもまったく知りません。それは、私たちが内的に人に依存していて、愛されたがっているということを意味しています。私たちはただ愛して、放っておかず、何か報いを求めます。そして、まさにその求めることで、依存するのです。
 それで、自由と愛は伴います。愛は反動ではありません。君が愛してくれるから愛するのでは、単なる取り引きで、市場で買える物なのです。それでは愛ではありません。愛するとは、何の報いも求めないし、与えていることさえも思わないことなのです。そして、自由を知りうるのはそのような愛だけです。しかし、君たちはこのための教育を受けていないでしょう。君たちは数学や化学や地理や歴史の教育を受けて、それで終わりです。なぜなら、親の唯一の関心は、君たちがよい仕事を得て、人生で成功するように助けることですから。親がお金を持っているなら、君たちを外国に行かせてくれるかもしれません。しかし、親のすべての目的は世間と同じで、君が豊かになり、社会の中で立派な地位を得ることなのです。そして、上に昇れば昇るほど、君たちは他の人々にもっと多くの悲惨を引き起こします。なぜなら、そこにたどり着くために競争し、非情にならなくてはならないからです。それで、親は野心と競争があり、まったく愛のない学校に子供を送ります。そのために、私たちのところのように社会は絶えず腐敗してゆき、絶えまない闘いの中にあるわけです。そして、政治家や裁判官、いわゆる土地の貴族が平和について語っても、何の意味もないのです。
 そこで、君と私はこの自由の問題全体を理解しなくてはなりません。愛するとはどういうことかを自分自身で見出さなくてはなりません。なぜなら、愛していなければ、決して思慮深く、注意深くなることはできないからです。決して思いやることができないからです。思いやるとはどういうことか、知っていますか。大勢の素足が歩く道に尖った石が落ちているのを見たら、それをどけるのです。頼まれたからではなく、他の人を気づかうのです。その人が誰であろうと問題ではありません。その人にはまったく会わないかもしれません。木を植えて大事にしたり、河を見て地球の豊かさに歓喜する。飛んでいる鳥を観察し、その飛翔の美しさを見る。この生というとてつもない動きに敏感で、開いている――これらには自由がなくてはなりません。そして、自由であるには、愛さなくてはなりません。愛がなければ自由はありません。愛がなければ自由は単に、まったく価値のない考えにすぎません。それで、自由がありうるのは、内なる依存を理解して離れ、そのために愛とは何かを知る人だけなのです。そして、新しい文明、違う世界をもたらすのは、彼らだけでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 同一化とは依存であり、依存は形を変えた所有である。そして自我は蓄積物でいっぱいになる。

あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 2年前に父が死んだ。まともに会話をするようになったのは私が結婚してからのことだった。「もう少し……」という思いは確かにある。もう少し教えてもらいたかったこともあるし、もう少し親孝行もしたかった。だが父は死んだ。私は生きている。私は父と共に生きている。やがて私も死ぬ。

 我々は自分の周囲の死を嘆き悲しむ一方で、他人の死を深く心にかけることがない。世界が不幸に覆われている原因はその辺りにあるのだろう。



Krishnamurti with Students, Rishi Valley, India.

死者数が“一人の死”を見えなくする/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理

2011-12-11

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

 文明の発達は、存在を情報に変換した。いや、ちょっと違うな。文字の発明が存在を「記録されるもの」に変えた。存在はヒトという種に始まり、性別、年代、地域へと深まりを見せた。そして遂に1637年、ルネ・デカルトが「私」を発明した。「我思う、ゆえに我あり」(『方法序説』)と。それまで「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)。

 魔女狩りの嵐が吹き荒れ、ルターが宗教改革の火の手を上げ、ガリレオ・ガリレイが異端審問にかけられ、アメリカへ奴隷が輸入される中で、「私」は誕生した。4年後にはピューリタン革命が起こり、その後アイザック・ニュートンが科学を錬金術から学問へと引き上げた。120年後には産業革命が始まる。(世界史年表

 近代の扉を開いたのが「私」であったことは一目瞭然だ。そして世界はエゴ化へ向かって舵を切った。

 デカルトが至ったのは「我有り」であったと推察する。神学は二元論で貫かれている。「全ては偽である」と彼は懐疑し続けた。つまり偽に対して真を有する、という意味合いであろう。

 ここが仏教との根本的な違いである。仏法的な視座に立てば「我在り」となる。そしてブッダは「私」を解体した。「私」なんてものは、五感など様々な要素が絡み合っているだけで実体はないと斥(しりぞ)けた。またブッダのアプローチは「私」ではなく「苦」から始まった。目覚めた者(=ブッダ、覚者〈かくしゃ〉)の瞳に映ったのは「苦しんでいる生命」であった。

 貧病争はいつの時代もあったことだろう。苦しみや悲しみは「私」に基づいている。ブッダは苦悩を克服せよとは説かなかった。ただ「離れよ」と教えた。

 産業革命が資本主義を育てた。これ以降、「私」の経済化が進行する。一切が数値化され、幸不幸は所有で判断されるようになる。「私の人生」と言う時、人生は私の所有物と化す。だが、よく考えてみよう。生を所有することなどできるだろうか?

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 生の本質は反応(response)である。人間に自由意志が存在しない以上、選択という言葉に重みはない。

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
自由意志は解釈にすぎない

 人は自分の行為に色々な理由をつけるが、全て後解釈である。

 認知的不協和を低減する方法として、選択的情報接触というものもあげられている。
 たとえば、トヨタの車と日産の車を比較して、迷った後、かりにトヨタを買ったとする。買った後、「トヨタの車を買った」という認知と「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知は、不協和となる。認知的不協和は不愉快な状態なので、人は、認知の調整によってその不協和を低減しようとする。この場合、「トヨタの車を買った」というほうはどうにもならないから、「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知のほうを下げる工夫をすることになる。
 実際に、車を買った人の行動を調べてみたところ、車を買った後で、自分が買った車のパンフレットを見る時間が増えることがわかった。パンフレットは、通常、その車についてポジティブな情報が載せられている。したがって、自分の車のパンフレットを読むという行動は、自分の車が正しい選択肢で、買わなかったほうの車がまちがった選択肢であったという認知を自分に植え付ける行動だということになるわけである。認知的不協和理論の観点では、これは、行動後の認知的不協和低減のために、それに有利な情報を選択して接触する行動だと考えることができるわけである。このような行動を、選択的情報接触と言っている。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀
ギャンブラーは勝ち負けの記録を書き換える

 生命が反応に基づいている証拠をお見せしよう。


 時間軸を変えただけの微速度撮影動画である。まるで川のようだ。果たして実際に川を流れる一滴一滴の水は悩んだり苦しんだりしているのだろうか? 多分してないわな(笑)。では人間と水との違いは何であろう? それは思考である。思考とは意味に取りつかれた病である。我々は人生の意味を思うあまり、生を疎(おろそ)かにしているのだ。そして「私の思考」が人々を分断してしまったのだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 山本(七平)氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこには視覚の特徴が明瞭に出ているからである。「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。答えを言えば、それが長明の視覚であろう。『方丈記』の書き出しは、まさにそれを言っているのである。ここでは、運動と水という質料、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。形の背後には、視覚系がある。長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚-運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているではないか。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」(『方丈記』)。養老孟司恐るべし。養老こそはパンクだ。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

 ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 同じ川を流れながら我々は憎み合い、殴り合い、殺し合っているのだ。私の国家、私の領土、私の財産、私の所属を巡って。

 大衆消費社会において個々人はメディア化する。確かボードリヤールがそんなことを言っていたはずだ。

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 そしてボディすらデザインされる。

 ダイエット脅迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方。他人の注目を浴びたいというファッションの意識、つまり皮下脂肪が少なく、エクササイズによって鍛えられ、引き締まった身体というあのパーフェクト・ボディの幻想。ボディだってデザインできる、からだだって着替えられるというかたちで、じぶんの存在がじぶんのものであることを確認するしかもはや手がないという、追いつめられた自己破壊と自己救済の意識。他人に認められたい、異性にとっての「そそる」対象でありたいという切ない願望……。
 そして、ひょっとしたら数字フェティシズムも。意識的な減量はたしかに達成感をともなうが、それにのめりこむうちに数字そのものに関心が移動していって、ひとは数字の奴隷になる。数字が減ることじたいが楽しみになるのだ。同様のことは、病院での血液検査(GPTだのコレステロール値だの中性脂肪値だのといった数値)、学校での偏差値、競技でのスピード記録、会社での販売成績、わが家の貯金額……についても言えるだろう。あるいはもっと別の原因もあるかもしれないが、こういうことがぜんぶ重なって、ダイエットという脅迫観念が人びとの意識をがんじがらめにしている。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 バラバラになった人類が一つの運動状態となるためには宗教的感情を呼び覚ますしかない。思想・哲学ではない。思想・哲学は言葉に支配されているからだ。脳の表層を薄く覆う新皮質ではなく、脳幹から延髄脊髄を直撃する宗教性が求められよう。それは特定の教団によって行われるものではない。あらゆる差異を超越して普遍の地平を拓く教えでなければならない。

 上手くまとまらないが、長くなってしまったので今日はここまで。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)方丈記 (岩波文庫)悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
人間の問題 2/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ

2011-12-06

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二


 ・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その一
 ・岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ その二

『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良

 結論を先に言えば、大乗の理論家たちは、三身説を発見することによって、仏伝の永遠反復が内包する不条理を克服した。仏伝の永遠反復説は、三身説の確立によって、より正確にいえば、仏陀の「報身」説の発見によって、消え失せたのである。
 仏伝の永遠反復説は、法身と生身という二仏身観を基にしている。この二仏身観は大衆部から初期大乗へと受け継がれた。仏陀を本体としては無時間的存在と見なし、過去仏や未来仏は時間の中に現われた顕現と見なす考えは、神話的思考に基づく二仏身観が支持される限り、常に当然の帰結であった。しかし仏陀を輪廻の世界に降りてきた「法界の顕現」と見做すと、個々の仏陀は個性を失って、単なる反復ということになる。すると個々の【十四】仏陀は修行の結果、仏陀に成った「人間」であるとは考えられなくなる。すると大乗における菩薩思想は崩壊せざるをえない。凡夫が発心して菩薩に成り、十地の階梯を経て仏に成るという道は形而上学の扉で永久に閉じられ、ただ仏陀のみが仏陀として現われてくるにすぎなくなる。菩薩たちすら、実は法身の仏陀が顕現した存在であるということになる。

岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」

 いくらか参考にはなるが、仏教の素養がない人にはチンプンカンプンなことだろう。専門家の言葉は大衆に届かない。ま、届けるつもりもないのだろう。「だから何なんだ?」「それがどうした?」と言われてしまえばそれまで。

 なぜ永遠に反復しなければならないのか、永遠反復する場合としない場合とでは何が違うのか、こういった点が非常にわかりにくい。精読していない立場でいうのも何だが、永劫回帰の焼き直しにしか見えない。

 大体、永遠に反復するのであれば、それ自体が六道輪廻の範疇となってしまう。法(真理)を表現する言葉は社会の変遷に伴って変わらざるを得ない。そこに言葉と知性の更新があるのだ。

 つまり仏陀を無始なるものとして崇める、新しい仏教の立場と、仏陀を人間がなったものと考える、オーソドックスな仏教の立場は、ここで絶対に矛盾するものとなる。
 仏陀観が発達したために必然的に生じた、この矛盾を乗り越えるために、新たに考え出されたのが三身説である。この三身説では、「法身」と「生身」の従来の二仏身の間に、中間的な仏身としての「報身」(受用身)を立てるのである。
「報身」は、修行の結果としての果を所有し、固有の名前をもつ仏陀である点で、無時間的な「法身」とは異なるが、しかし法界に存在して、ほとんど無限の寿命を持ち、多くの化身を地上に下すという点で、従来の「法身」に等しい超越性をもつ。
 この「報身」の成立によって、仏陀は八十歳で入滅する歴史的存在(生身)でもなく、何の具象性ももたない非・歴史的な存在(法身)でもなく、歴史を越えながら歴史性を回復した存在となる。(図式2を参照)
 この「報身」の理論的な成立は中期の大乗、特に唯識学派においてであるが、しかしそれ以前にも『法華経』などの大乗経典においては、「法身」という言葉で、普遍的で非・歴史的な仏を指すのではなく、久遠釈迦という、「報身」にあたる仏を意味してきた。つまり、二身説らしく見えながら実際は〈法界〉-〈久遠釈迦〉-〈肉【十五】身釈迦〉の三段階になっており、すでにこの時代において、純粋な二身説の仏陀の非歴史性に対して物足りなさを感じる、熱烈な釈迦信仰を持つ人々が、実質的に三身説にあたる仏身観に移行していたと考えられる。

 僣越ながら私が一言で述べてしまおう。大日如来も阿弥陀如来も久遠元初(くおんがんじょ)自受用報身如来(じじゅゆうほうじんにょらい)も全部一緒だ。これらには仏を神格化する目的があったのだろう。仏なのに神を目指すのだから不思議な話だ。人類という種はよほど人格神が好きなのだろう。

 では神とは何か? 神とは偶像である。ここ、アンダーライン。キリスト教が偶像崇拝を戒めている(モーゼの十戒)のは、偶像は一つあれば十分だからだ。神が自分に似せて人間を創造したのではない。人間が自分に似せて神という偶像を想像したのだ。

 しかもこの作品は目に見えない。会った人もいなければ、言葉を交わした人もいない。啓示とは個々人の脳内に発現した妄想である。「いる」って言い張るのであれば俺の家に連れて来いよ。言いたいことが山ほどあるから(笑)。

 結論――人類は神様が大好き。「人智の及ばぬ」という言葉に象徴されているが、一人ひとりは部分情報としての人生を生きるしかない。そこで全体情報という視点として「神」という座標が想定されたのだろう。

人間は不完全な情報システムである/『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人

 ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。ブッダ以前にもブッダと呼ばれた人々はいた。そしてブッダはアルハット(阿羅漢/独覚〈どっかく〉=独りで悟りを開いた者)と呼ばれることをよしとした。ティク・ナット・ハンによれば、後年は「タターガタ」(真如から来たりし者=如来)と名乗ったようだ。

 日本の仏教は鎌倉時代のドグマに支配されている。だから800年近く経っても何の進歩も深化もない。これ自体、教義が知性を眠らせることを示している。

 仏教は小乗から大乗へと移り変わる中で教義を構造化した。寺院建築と似たようなもので、脳のネットワーク機能が進むと必ず様式化されてゆくのだ。情報のフィードバック構造が変化するためだ。そして悟りからどんどん離れてゆく結果となる。

 仏教における真理は、空=縁起=諸法無我であり、実相=中道であろう。仏の絶対視は諸法無我に反する。

 そんなわけで日本語の「仏」ってえのあ、もうダメだと思う。手垢まみれになっちまって神と見分けがつかないもの。敗戦後の日本では「神も仏もあるものか」と並び称されるようになってしまった。

 仏という言葉に隔絶感を覚えるのは、悟った人がいないためである。「仏教は凄い」と語る人は多いが、「仏教で悟った」人を見たことがない。

2011-11-15

教義、学問、知識、戒律、道徳

839 「教義によって、学問によって、知識によって、戒律や道徳によって清らかになることができる」とは私は説かない。「教義がなくても、学問がなくても、知識がなくても、戒律や道徳を守らないでも清らかになることができる」とも説かない(スッタニパータ)
Nov 15 via twittbot.netFavoriteRetweetReply


ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

2011-11-13

真実を真実と知り、真実でないものを真実でないと見る

真実を真実と知り、真実でないものを真実でないと見る人々は、正しい見方を持っているので、彼らは真実に到達できる。      ダンマパダ #Buddhism
Nov 26 10 via twittbot.netFavoriteRetweetReply


神秘時代のクリシュナムルティ/『大師のみ足のもとに/道の光』J・クリシュナムルティ、メイベル・コリンズ
うその中にうそを探すな  ほんとの中にうそを探せ

ブッダの真理のことば・感興のことば (岩波文庫)原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟『ダンマパダ』全詩解説―仏祖に学ぶひとすじの道

2011-11-01

縁起に関する私論/『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編


 ヴェーダウパニシャッド(ヴェーダの一部)を参照し、インド哲学から六派哲学六師外道に至り、輪廻解脱を確認し、梵我一如に辿りついたところで既に1時間以上を経過している。

 ものを書く行為には正確さが求められるが、書こうと思っていたことを失念しそうだ。大体、今更私がインド思想史を正確に記述したところで何の意味もない。少々の間違いがあったとしても独創的な見解を示すのが先だ。

 もう疲れてしまったのでメモ書き程度にとどめておく。

 まず現在の私の見解を述べておこう。日本の仏教はその殆どが鎌倉仏教といってよい。最大の問題はなにゆえ鎌倉時代から宗教的進化が見られないのかということに尽きる。本来であればニュートン力学や、アインシュタインの相対性理論、はたまたゲーデルの不完全性定理、ハイゼンベルクの不確定性原理量子力学超弦理論などに対して応答する必要があった。

 これを避けたことによって全ての宗教は文学レベルに堕したと私は考える。物語力は既に宗教よりも科学の方が上回っている。

 前置きが長くなってしまった。本書は仏教入門として非常に優れている。記述も正確だ。

 アーリヤ人のインド侵入以前にインダス河の流域に高度な文明が発達していたことが、インド考古学調査団の発掘調査によって判明した。ハラッパーモヘンジョダロを二大中心地として、紀元前2300年ころから1800年ころまでの間栄えていたとされる。
 その出土品によれば、シュメール文化との関係が深く、アーリヤ文化とはまったく性質が異なっている。この文明の担い手は現在南インドに居住するドラヴィダ人の祖先であったとする説が有力であるが、確実なことはいまだ不明である。

【『仏教とはなにか その思想を検証する』大正大学仏教学科編(大法輪閣、1999年)以下同】

インドに歴史文化がない理由

 インダス文明は、アーリア人が五河(パンジャブ)地方に侵入する以前に衰えてしまっていたといわれるが、現段階ではよくわかっていない。ともあれ、鉄器をもちいるアーリア人が、銅器をもちいていたムンダ人やドラヴィダ人などのインドの原住民たちを圧倒し、支配したことは事実である。
 紀元前1500年ごろ――あるいは紀元前13世紀ごろ――インド・ヨーロッパ語族に属するアーリア人たちは、ヒンドゥークシュ山脈を越えて五河地方を占拠した。これ以後、今日にいたるまで、インド文化の中核となっているのは、このインド・アーリア人である。彼らはギリシア人やゲルマン人と同じ祖先をもつ人種であり、インド人の思弁の中には、ギリシア哲学やドイツ哲学の思索の道筋と似たものが見出される。

【『はじめてのインド哲学』立川武蔵〈たちかわ・むさし〉(講談社現代新書、1992年)】

インドのバラモン階級はアーリア人だった/『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士

 つまり東洋と西洋の文化が激しくぶつかり合い、アーリア人支配という政治的側面からヴェーダが作成された。

 ヴェーダとは本来「知識」を意味する。特に「宗教的知識」を意味し、神々への賛歌・神話・哲学的思惟・祭式の規定などを収載する聖典の総称となった。

 で、インドはカースト制度に束縛されていた。

 なお、四姓の原語はヴァルナといって「色」を意味し、もともとは白色のアーリヤ人とそうでない非アーリヤ人を区別するために用いられたことばである。

 社会の安寧秩序を守るための宗教といってよい。いまだにインドはカースト社会であることを踏まえると、人間の脳は簡単に数千年も縛られることが理解できる。強靭な物語力だ。

 ちょっと気になったのだが、「ヴァルナ」はひょっとすると色法(しきほう)と関係があるかもしれない。

 ウパニシャッドにおける重要な思想の一つに、輪廻(りんね)からの解脱(げだつ)がある。

 これは知らなかった。そうするとブッダが説いた解脱とどう違うのかね? 梵我一如の違いだけだとすれば、実にわかりにくい。

 こうしたテーマが厄介なのは、当時の人々が何に束縛されているかを知らなければ、ブッダの目指した自由がわからないことだ。

 またインド哲学でいうところの「我」と、デカルトが見出した「我」は似て非なるものだと思う。仏教が説く我(が)は当体や主体という意味で、自我とはニュアンスが異なるように感ずる。

 ことに『スッタニパータ』にみられる無我説は極めて数が多い。

 なにものかをわがものであると執着して動揺している人々を見よ。彼らのありさまはひからびた水の少ないところにいる魚のようなものである。(777)

 ここでは、なにものかを「わがもの」「われの所有である」と考えることを否定している。執着、我執、とらわれの否定、超越として無我が説かれている。
 また『律蔵』の中で、釈尊は五比丘(びく)に向かって次のように説いている。

 比丘たちよ、この色は我ではない。もし色が自己であるなら、この色が病いにかかることはないであろう。また、色について、わたしの色はかくあれ(健康であれ)、かくなることなかれ(老いないように、死なないように)といえるであろう。しかし、色は我ではないから、病いにかかるし、あれこれと(自由に)することはできない。……この受が我であろうか。……この想が……この行が……この識が我であろうか。

 このように、色(しき/肉体)及び四種の精神(受・想・行・識)の働きをあげ、そのどれもが我と呼べるものではないとしている。
 無我という語は主に初期仏教や部派仏教で用いられるが、大乗仏教ではこれを「空」の語で表現することが多くなった。

 これで一つわかった。諸法無我であるがゆえに、諸法実相は三諦(さんたい)における縁起となるのだ。大乗仏教は諸法無我=空としたため、中道実相に不要な付加価値を与えてしまったのだろう。

 釈尊の教説「四諦十二因縁八正道」をより深めていくと、その根底には空の論理、仮の論理、中の論理と言うものがある。これは龍樹の言う「縁起は即空、即仮、即中」であり、同じく天台大師智ギ(中国)はこれを「空仮中の三諦」と言った。

三諦説「空・仮・中」:日本タントラヨーガ協会

 つまり実体としては縁起しか存在しないのだ。

 縁起とは「縁(よ)りて起こること」である。「縁りて」とは条件によってということであり、あらゆるものは種々さまざまな条件に縁って(縁)、かりにそのようなものとして成り立っている(起)ことである。

 縁起とは人間関係といった意味での関係性ではない。生命次元の相互性・関連性を意味する。

 この縁起を特に法と名づけ、「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは縁起を見る」とも「縁起を見るものは法を見る。法を見るものは仏を見る」とも説かれている。そしてこの縁起の法則は、たとえ仏が世に出ても出てなくても永遠に変わることのない真理であるといわれる。

 縁起がダルマ(法)なのだ。

 私論を開陳させていただこう。大乗仏教は部派仏教に対抗するために、バラモン教的政治性を取り込んでしまったのだろう。また差別化を計る目的で教義も豊穣な――あるいは過剰な――論理構造を築かざるを得なかった。その過程で梵我一如の影響を受けてしまったのだ。これが一念三千であると考えられる。

 諸法無我は現代科学が証明しつつある。量子レベルで見れば我々の肉体は蜘蛛の巣や綿飴みたいにスカスカだ。そこに微弱な電気が流れ、なぜだかわからないが「私」が立ち上がるのだ。そして哲学的に吟味すれば、「私」とは世界から分断された存在に他ならない。

 鎌倉仏教は大乗と密教をミックスした日本オリジナルの宗教である。現代においては大乗から部派仏教、そして初期経典へとさかのぼり、ブッダ本来の教えを辿るべきだと私は考える。大乗仏教から政治性や運動性を除かないと、単純なプラグマティズムに堕す恐れがあるからだ。

仏教とはなにか―その思想を検証する

大法輪閣
売り上げランキング: 615,221

はじめてのインド哲学 (講談社現代新書)
立川 武蔵
講談社
売り上げランキング: 64,117

ブッダのことば―スッタニパータ (岩波文庫)

岩波書店
売り上げランキング: 2,362

無我なる縁起の「自己」とはいかなる現象か
無我に関するリンク集
ウパニシャッドの秘教主義/『ウパニシャッド』辻直四郎

2011-09-05

怒りは人生を破壊する炎


 怒りとは人生を破壊する炎です。炎を消すためには水が必要です。しかし、いったん怒りの炎が暴れ出してから、消化対策を考えたり、水を探しに行くようでは手遅れです。怒りは思わぬ、ささいなことで点火されるので、日頃から心の井戸に水を溜めておくことが賢明です。

【『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン:岡田直子訳(サンガ、2011年)】

怒り(心の炎の静め方)

自由と所有/『怒り 心の炎の静め方』ティク・ナット・ハン