2021-12-08

悟りとは認識の転換/『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ


『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『無(最高の状態)』鈴木祐
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『左脳さん、右脳さん。 あなたにも体感できる意識変容の5ステップ』ネドじゅん
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

 ・「私」という幻想
 ・悟りとは認識の転換

ジム・キャリー「全てとつながる『一体感』は『自分』でいる時は得られないんだ」
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『すでに目覚めている』ネイサン・ギル
『今、永遠であること』フランシス・ルシール
『プレゼンス 第1巻 安らぎと幸福の技術』ルパート・スパイラ
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

悟りとは
必読書リスト その五

 実は、「悟り」とは、解脱でも、完成でもなんでもなく、認識の転換なのです。

【『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ〈なち・たけし〉(明窓出版、2011年)以下同】

「必読書」に入れた。なんとはなしに、この手の本を軽んじることが、あたかも知性的であるかのような思い込みがあった。

「認識の転換」とは見る(≒感じる)位置が変わることである。ただ、それだけのことだ。そこが凄い。世界とは、「私から見える世界」を意味する。「私が見る世界」と言ってもよい。見ているのは「私」だ。これをどうやって換えるのか? 例えば自分が映った鏡、写真、動画を見る時、我々の視点は外側に位置する。「離れて見る」のが瞑想のスタートだ。

 私は断言するのですが、もしも真に悟りの認識を得る――私は悟ったという言葉は使いたくありません。それは完成を意味するからです――ことができたら、その人の言葉は必ず、仏教とはかけ離れて感じられるような独自な響きを持つのです。独自な形式を持つのです。これだけは間違いのないことです。

 なぜなら、彼らは他人の言葉で語るのではなく、自分の体内から赤子を生み出すように、自分の身体感覚に基づいて、自分の言葉で表現せざるを得ないからです。
 その言葉は、仏教的枠組みを大きく踏み外し、時に矛盾するものであるかもしれない。しかし、彼らはそれを恐れないのです。(中略)
 学者や僧侶は、仏教において悟りとは何かを語ることはできるかもしれません。しかし、彼らの中に悟り体験があるかどうかはまったく別の話です。むしろ、彼らの蓄積された宗教的知識こそが、悟りの認識を邪魔している可能性の方が強いと私は感じています。
 私も仏教の入門書なり専門書めいたものに目を通すことはありますあ、その中に著者独自の悟り観のようなものが感じられるケースはほとんどありません。それどころか、仏教の叡智を切り売りして、世間知に貶めてしまっているものがほとんどという有様です。それらはもはや悟りについての書物ではなく、世の中をうまく生きるための処世術でしかないのです。
 マスメディアは、叡智を世間知に陥(ママ)しめました。人は変わるためではなく、世の中を巧妙に上手く生きるために、こうした本を手に取るのです。
 悟りの認識を得ていないものが仏法を問いても、伝わるのは2500年に亘って蓄積された絢爛豪華な知識の断片だけです。なぜ断片になってしまうかというと、悟りの根幹を語り手が理解していないからです。そうした人の書いた仏教の解説書はいずれも処世術であり、悟りとは何ら関係がありません。こうしたものは、ある種の知識欲を満足させるかもしれませんが、断片的知識と悟りの認識は相反するものなのです。

 那智タケシはクリシュナムルティを手掛かりにして、6年間の動的瞑想を経て悟りに至った。彼自身の言葉が創意に溢(あふ)れている。何かを書くというよりも、泉から湧き出る水のような勢いがある。

 真理は常識や道徳を無視してしまう。真理は世間に迎合しない。そして真理は光を放っている。

 教義は真理の一部であったとしても真理そのものではない。なぜなら真理は言葉で表現できるものではないからだ。そういう意味では仏教が神学さながらにテキスト主義に陥ったのは、悟りから大きく乖離する要因となった。経典を重視したのは悟る人が少なくなったためだろう。言葉は象徴に過ぎない。犬という言葉は犬そのものではない。

 悟りが様式や知識に堕すと言葉が重視されるようになる。印刷技術がなかった時代を思えば、経典を持っていること自体が一つの権威となったことだろう。だが、経典を何度読んだところで悟りを得られない事実が経典の限界を示している。悟りから離れたブッダの教えは学問となった。

 仏弟子となった周利槃特〈しゅり・はんどく/チューラパンタカ〉は4ヶ月を経ても一偈(いちげ)すら覚えることができなかった。一説によれば自分の名すら記憶できなかったと伝えられる。ブッダは一枚の布を渡し、精舎(しょうじゃ)の清掃と比丘衆(びくしゅ)の履き物を拭かせた。唱えるのは「塵を除く、垢を除く」の一言である。やがて周利槃特は阿羅漢果を得る。

 ここで大事なのは行(ぎょう)がそのまま悟りにつながったのではなく、行を手掛かりにして悟りを開いたことだ。修行を重んじるのは悟れない人々である。鎌倉仏教に至っては悟りを離れ、「信」を説くようになってしまった。

心が弱くなるとオバケを創り出す/『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰


・『賢者の書』喜多川泰
・『君と会えたから……』喜多川泰
『手紙屋 僕の就職活動を変えた十通の手紙』喜多川泰
『心晴日和』喜多川泰
『「また、必ず会おう」と誰もが言った 偶然出会った、たくさんの必然』喜多川泰
『きみが来た場所 Where are you from? Where are you going?』喜多川泰
・『スタートライン』喜多川泰
・『ライフトラベラー』喜多川泰
『書斎の鍵 父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰

 ・心が弱くなるとオバケを創り出す

『ソバニイルヨ』喜多川泰
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰

「人間が創り出す新しいものというのは、なにも、世の中に役立つ素晴らしい発明品ばかりではないということだと、僕は思っています」
「というと?」
「オバケです。僕たちは、あまりにも想像力がたくましすぎるので、自分が経験したことを総合して、この世に存在しないオバケを創り出してしまうのです。あんなことになっちゃうんじゃないか、こうなったらどうしよう、きっとこう思っているはずだって、起こったこともない、ほとんど起こりもしない状況を頭の中で想像しては、それを怖がることに人生を費やす。社会全体がオバケを創り出す雰囲気になっている時代っていうのは、エネルギーを、新しい発明や発見を進めるほうに使うよりもむしろ、別の新しいものを創り出すことに使われたんじゃないかと思うんです。たとえば、ありもしないオバケを創るのに忙しい時代だったとか……。今の森川さんのように」

【『株式会社タイムカプセル社 十年前からやってきた使者』喜多川泰〈きたがわ・やすし〉(ディスカヴァー・トゥエンティワン、2015年)】

 バブル景気が弾けてからというもの日本全体をうっすらとした閉塞感が覆っている。雇用のあり方が変わったためと思われるが、努力が報われない・再チャレンジの機会が少ない・いつリストラされるかわからないといった心理情況と、非正規化や平均収入の低下に加えて増税の影響が大きい。つまり可処分所得が減り続けているわけだ。

 資本主義社会において「公務員の待遇を羨む」のは明らかにおかしい。まして小学生が将来「公務員になりたい」などと思うのは世も末と断言していい。今後、デジタルトランスフォーメーション(DX)によって雇用は縮小する。AIやロボットに仕事を奪われるのだ。経営者は人件費をコストと見なし、賃金を上げずに内部留保を溜め込んでいる。こうした動きや背景を踏まえると、世界の潮流は緩やかな社会民主主義を目指すように思われる。

 タイムカプセル社は10年後の自分に宛てた手紙を預かり、10年後にそれを届けることを業務にしている。人それぞれの10年がある。その変化が主題である。過去の自分と向き合った時、人は驚くほどたじろぎ、うろたえ、感慨の波に飲まれる。それを一つの結果ではなく、新たなスタートして描いているところに喜多川泰の技量がある。

聖書の間違いと矛盾/『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン


 ・聖書の間違いと矛盾

キリスト教を知るための書籍

 わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。
 平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。
(「マタイによる福音書」10章34節)

【『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン:白須英子訳(文藝春秋、2014年/文春文庫、2018年)以下同】

「一人の人物が四つの異なった『履歴書』を持っているとしたら、あなたは、その人物を信頼することが出来るでしょうか」(『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士)。できません(キッパリ)。聖書はその慈愛と暴力でもって読む者の精神を二つに切り裂く。このためクリスチャンには二重人格的な傾向が見られる。例えば十字軍救世軍など。帝国主義と社会福祉を両立させるのが彼らのやり方だ。「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)において各国に派遣された宣教師は、戦争準備段階における斥候(せっこう/スパイ)の役割を担っていた。聖書では神が人間を殺しまくる。

 あまり熱心でないムスリムと、威勢のいい無神論者の入り交じる家庭で育った子供にとって、これは初めて聞く最高に偉大な物語だった。神の導きをこれほど身近に感じたことはそれまで一度もなかった。イランで生まれた私は、自分はペルシア人だからムスリムなのだという程度の自覚しかなかった。宗教と民族はたがいに相関関係にあるものだと思っていたのである。ある宗教的伝統の中に生まれた人の大半がそうであるように、自分の信仰は自分の肌の色と同じくらい生来のもので、とくに意識したこともなかった。イラン革命で家族が仕方なく故郷を脱出してからは、わが家では宗教全般、とりわけイスラームについての話題はタブーになった。(中略)通常の私たちの日常生活から、神の痕跡はほとんどかき消されてしまっていた。
 それは私にとって、むしろ好都合なことだった。1980年代のアメリカで、ムスリムであることは火星人みたいなものだったからである。

 距離があるからこそよく見えるものがある。イスラム教とキリスト教は同じ神を信じているわけだから「信じる土壌」は共通している。宗教とはフィルターのようなものだが、アブラハムの宗教は同系色だと考えてよかろう。

 少なくとも私が教わった福音派キリスト教の根底にあるのは、聖書の言葉の一つ一つが神の霊の導きのもとに真実を伝えるために書かれた、文字通りに呼んで間違いのないものであると無条件に信じることだった。ところがそう信じることは、どう見ても反駁の余地のないほど間違っており、聖書は数千年の間に大勢の人々によって書かれた文書であれば当然予想されるような、おびただしい明らかな間違いや矛盾が山のようにあることに突然気づいた私は、面食らい、精神的な拠りどころを見失ってしまったような気持ちになった。その結果、こういう経験をした多くの人々がそうであったように、私は騙されて高価な偽文書を買わされたような気分になって腹が立ち、キリスト教信仰を捨てた。

 レザー・アスランは宗教学者である。彼は聖書に出てくるイエスではなく、「ナザレのイエス」の生身に迫ろうとする。結論は――覚えていない。読んだのは5年前のことだ。興味のあることですら覚えていられないのに、さほど関心がないことを覚えるのは不可能だ。クリシュナムルティはかつて「イエスは実在したのか?」という質問に対して、「たぶん、いなかったでしょう」と答えた(『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン)。

 紀元前後はまだ紙がなかった時代である。情報の拡散は口コミによった。実在した「ナザレのイエス」を死後に脚色することは可能である。あるいは「ナザレのイエス」を「ドラえもん」のように創造することもできただろう。西洋哲学が存在や実存を巡る議論になるのもイエス実在の不安に根づいたものではあるまいか。

 しかしながら2000年を経た今、「いなかった」ことにはできない。「イエスという情報」が歴然としているからだ。キリスト教世界の歴史的合意を軽んじては差別の謗(そし)りを免れない。イエスという物語は脳神経と親和性があるのだろう。キリスト者は厖大な神学をもって大脳皮質をも制御した。

 西洋一神教と正反対に位置するのが日本の神道である。教祖も聖典も存在しない。つまり信徒を束縛するものが一つもないのだ。あるのは祭祀(さいし)と祈りだけだ。水のような淡白さであるが日本人にはしっかりと根づいている。

2021-12-07

エティ・ヒレスムの神 その二/『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック


『エロスと神と収容所 エティの日記』エティ・ヒレスム

 ・エティ・ヒレスムの神 その一
 ・エティ・ヒレスムの神 その二

キリスト教を知るための書籍

 オランダのユダヤ人女性エティ・ヒレスム[1914年生まれ。アムステルダム大学でスラブ学、法学を学んだ後、ナチ占領下のアムステルダムやヴェスターボルク収容所でユダヤ人のために活動。1943年11月、アウシュヴィッツで虐殺される。戦後、その手紙と日記が出版され大きな反響を呼んだ]はその日記に、彼女が探し求め、発見した「自分自身の神」の記録を残した。手書きの日記は1941年3月に始まり、1943年10月に終わっている。

【『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック:鈴木直訳(岩波書店、2011年)以下同】

 反響を呼ぶのは理窟ではない。真理が散りばめられた言葉である。これが悟りの証(あかし)である。

 エティはまるで自分自身に語りかけるように、神に語りかけた。彼女は何のこだわりもなく、直接、神に話しかけた。そして自己発見と神の発見、自己探求と神の探求、自己創造と神の創造はまるで当然のことのように一体化していた。彼女「自身」の神は、シナゴーグの神でも、教会の神でも、あるいは「無信仰な者たち」と一線を画す「信者たち」の神でもなかった。「彼女」の神は異端を知らず、十字軍を知らず、言語を絶する異端審問の残忍さを知らず、宗教改革も反宗教改革も知らず、宗教の名による大量殺戮テロも知らなかった。彼女自身の神は神学から自由で、教義を持たず、歴史に無頓着で、おそらくそれゆえにこそ慈愛に満ち、弱々しかった。彼女はいう。「祈るとき、私は決して自分自身のためには祈らず、いつでも他者のために祈る。あるいは私の内なるいちばん奥深いものと、時にはばかげた、時には子供っぽい、時には大まじめな対話をする。そのいちばん奥深いものを、私は簡便のために神と呼んでいる」。
 必要とされるのは、宗教的なもののこういした主観的次元を適切に扱いうる宗教社会学的視点だ。

 いや、そんなもんは要らない。個人の悟りを学問の枠組みにはめ込もうとするのが西洋世界の教父的伝統なのだろう。私としては、ただ言葉を味わい、真理の光を見つめ、自己観察の一助にするのが適切だと思う。

 私はブッダとクリシュナムルティの言葉に心酔する一人であるが、実はまだ瞑想を実践していない。エティ・ヒレスムに敬意を表して、今日から瞑想を実行する。彼女への哀悼の念を込めて。

  

パウロと教父/『奇跡を考える 科学と宗教』村上陽一郎


 ・パウロと教父

キリスト教を知るための書籍

 初期教会の建設に最大の功績があったのはパウロであり、パウロはイエスの直接の弟子ではなく、それだけに、当時の関係者としてはほとんど唯一人、ユダヤ教の律法を熟知していたばかりか、ギリシャ的な教養や学問を身につけた人物だった。そして初期キリスト教会が自立し、目標に向かって活動する基盤の整備という仕事が、彼一人の肩にかかったことは、『新約聖書』の後半のほとんどがパウロの仕事であることからも言えるだろう。
 しかしパウロの仕事は、イエスの教えをどう理解し、人々の間にどうやって伝え、どうやって生きて行くことのなかで実践するか、という指針の提供に集中していた。言い換えれば、キリストの教えとは無縁のギリシャ哲学の伝統や、ローマの教養とのすり合わせを行った上で、そうした学問の伝統のなかでも、十分な説得性と合理性とをもってイエスの教えを理解することのできるような、纏まった神学大系を築く作業は、パウロのものではなかった。それは単に他の宗教的な体系に対して自らを守るという消極的な視点ばかりではなく、ヘレニズムの世界全体に通用する宗教的理念の確立という、積極的な意味を持った仕事だった。そしてその作業に、さまざまな形で取り組んだのが、教父と呼ばれる人々だった。

【『奇跡を考える 科学と宗教』村上陽一郎〈むらかみ・よういちろう〉(講談社学術文庫、2014年)】

 誠実な好著であるが、村上がカトリック信徒であることを考慮する必要あり。「ウーーーン」となる文章が目立つ。宗教は思考を束縛し、信仰は感情を支配する。宗教は六根(五感+意識)というフィードバック機能を教理でもって歪める。


 現在のイスラエルは地中海性気候である。比較的温暖だが雨が少ない。上記地図を見れば一目瞭然だがイスラエルを中心とした砂漠世界はイスラム教世界となっている。宗教の伝播(でんぱ)は気候の影響を強く受ける。仏教の場合、南伝北伝に分かれるが気候が厳しい地域では教義も厳しくなる傾向がある。ユダヤ教発祥のキリスト教とイスラム教にも適用可能だろう。またドイツからプロテスタントの火の手が上がったのも気候的な厳しさによるものと私は考えている。

 キリスト教はパウロ教とも言われるが、パウロの名は英語圏ではポール、スペイン語圏ではパブロである(『ニューステージ 世界史詳覧』浜島書店編集部編)。ポール・マッカートニーやパブロ・ピカソの名前はパウロ由来というわけだ。

 ギリシャ哲学(新プラトン主義)とキリスト教を理論的に統合したのがアウグスティヌスである。中世になるとトマス・アクィナスが『神学大全』を完成する。この人、日蓮とほぼ同世代というのも興味深いところである。

 壮大な後付理論だな。あるいは歴史的言いわけ。西洋の修辞学や論理学が胡散臭いのは説得が目的化しているためだ。相手を知る、理解する姿勢が欠けている。我々は『万葉集』民族である。ちょっと肌が合わないわな。