・『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
・『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
・短期的な報酬
・アヘンに似た天然の脳内物質の産生を活性化させる糖分
・『僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた』アダム・オルター
・『快感回路 なぜ気持ちいいのかなぜやめられないのか』デイヴィッド・J・リンデン
・『もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』ダニエル・Z・リーバーマン、マイケル・E・ロング
・『果糖中毒 19億人が太り過ぎの世界はどのように生まれたのか?』ロバート・H・ラスティグ
この傾向が人間にそなわっているわけは、そもそも人間の脳が、即座に手に入る短期的な報酬を求めるように進化してきたからだ。私たちの祖先は、高エネルギーの果実をその場でむさぼり食ったり、性的刺激にすぐ反応したりしなければならなかった。そうしていなければ、あなたも私も、今、この世にはいないだろう。
問題は、もはや身体的にも必要としておらず、種としての存続にも何の意味もないような報酬に満ちた環境を、私たちが築いてしまったことにある。たとえ必要のないものであっても、そういったものは報酬であるため――つまり、脳の中で期待感と快楽といった特定の感情を引きおこすため――私たちはつい手を伸ばさずにはいられない。
言いかえれば、私たちは「【すぐに気分をよくしてくれるもの=フィックス】」に手を出してしまうのだ。
【『依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実』デイミアン・トンプソン:中里京子訳(ダイヤモンド社、2014年)以下同】
生存率が低い環境であれば「短期的な報酬」に飛びつくことは生き延びる確率を上げることになる。肥満しやすいのも道理である。もしも明日から氷河期が訪れれば、痩せた人間から死んでゆくことは確実だ。
たぶん文明の急激な発達に進化が追いつかない状態なのだろう。それを今、人類はデバイスで補おうとしているのだ。視覚以外の五感情報をデバイスで感知できるようになれば、いよいよポスト・ヒューマンの時代が幕を開ける。
依存症について語る際には、たとえそれが取るに足らないことであっても、あるいは命に関わるたぐいの問題であっても、「欲望」というコンセプトが、「快楽」のコンセプトと同じぐらい重要になる、というより、たいていの場合、欲望は快楽より重要だ。なぜかと言うと、フィックスを手にすることへの期待感は、フィックスを消費した瞬間に得られる満足感に勝るからだ。消費したあとは、期待したほどではなかったという感覚がよく生まれ、そう感じると、心の中で子どもじみた怒りが爆発することがある。フィックスは私たちを幼児化する。ゆえに私たちは子どもたちと同じように、常に――そしてやっかいなことに――もっともっとほしいと求めつづけるのである。
信じてほしい。私は自らの経験に基づいて話しているのだから。
進化において欲望は肯定される。欲望こそが社会の原動力であり、文明発達のエンジンだ。『浪費をつくり出す人々』の原書刊行が1960年である。とすると第二次世界大戦の復興期には既に大衆をコントロールするための広告戦略やマインドコントロールテクニック、プロパガンダが行われていたのだ。資本主義世界を回す主役は戦争から「大衆消費」に変わったと考えられる。
依存には様々な形がある。何らかの穴を埋める行動なのだろう。私の場合だと読書と喫煙である。昔は○○中毒や○○キチと表現した。『釣りキチ三平』にその残滓(ざんし)が見える。中毒は「毒に中(あた)る」の意であると思われるが、依存症の方が適切な言葉だろう(「依存」の読みを[イゾン]に変更 | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所)。
人類全体を見回すと明らかに文明依存症であり、技術革新中毒の症状を露呈している。この加速度はシンギュラリティに至るまで止まることがないだろう。欲望は実現するごとに肥大し、破滅というブレーキしか選択肢は残されていない。
仏教は欲望を否定した。問題は人類が欲望から離れた時にどのような社会が出現するのかを巧みに提示し得なかった点にある。いや、本当はそんなことはどうでもいいことなんだが、大衆受けしない事実は残る。