2022-01-28

短期的な報酬/『依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実』デイミアン・トンプソン


『浪費をつくり出す人々 パッカード著作集3』ヴァンス・パッカード
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ

 ・短期的な報酬
 ・アヘンに似た天然の脳内物質の産生を活性化させる糖分

『僕らはそれに抵抗できない 「依存症ビジネス」のつくられかた』アダム・オルター
『快感回路 なぜ気持ちいいのかなぜやめられないのか』デイヴィッド・J・リンデン
『もっと! 愛と創造、支配と進歩をもたらすドーパミンの最新脳科学』ダニエル・Z・リーバーマン、マイケル・E・ロング
『果糖中毒 19億人が太り過ぎの世界はどのように生まれたのか?』ロバート・H・ラスティグ

 この傾向が人間にそなわっているわけは、そもそも人間の脳が、即座に手に入る短期的な報酬を求めるように進化してきたからだ。私たちの祖先は、高エネルギーの果実をその場でむさぼり食ったり、性的刺激にすぐ反応したりしなければならなかった。そうしていなければ、あなたも私も、今、この世にはいないだろう。
 問題は、もはや身体的にも必要としておらず、種としての存続にも何の意味もないような報酬に満ちた環境を、私たちが築いてしまったことにある。たとえ必要のないものであっても、そういったものは報酬であるため――つまり、脳の中で期待感と快楽といった特定の感情を引きおこすため――私たちはつい手を伸ばさずにはいられない。
 言いかえれば、私たちは「【すぐに気分をよくしてくれるもの=フィックス】」に手を出してしまうのだ。

【『依存症ビジネス 「廃人」製造社会の真実』デイミアン・トンプソン:中里京子訳(ダイヤモンド社、2014年)以下同】

 生存率が低い環境であれば「短期的な報酬」に飛びつくことは生き延びる確率を上げることになる。肥満しやすいのも道理である。もしも明日から氷河期が訪れれば、痩せた人間から死んでゆくことは確実だ。

 たぶん文明の急激な発達に進化が追いつかない状態なのだろう。それを今、人類はデバイスで補おうとしているのだ。視覚以外の五感情報をデバイスで感知できるようになれば、いよいよポスト・ヒューマンの時代が幕を開ける。

 依存症について語る際には、たとえそれが取るに足らないことであっても、あるいは命に関わるたぐいの問題であっても、「欲望」というコンセプトが、「快楽」のコンセプトと同じぐらい重要になる、というより、たいていの場合、欲望は快楽より重要だ。なぜかと言うと、フィックスを手にすることへの期待感は、フィックスを消費した瞬間に得られる満足感に勝るからだ。消費したあとは、期待したほどではなかったという感覚がよく生まれ、そう感じると、心の中で子どもじみた怒りが爆発することがある。フィックスは私たちを幼児化する。ゆえに私たちは子どもたちと同じように、常に――そしてやっかいなことに――もっともっとほしいと求めつづけるのである。
 信じてほしい。私は自らの経験に基づいて話しているのだから。

 進化において欲望は肯定される。欲望こそが社会の原動力であり、文明発達のエンジンだ。『浪費をつくり出す人々』の原書刊行が1960年である。とすると第二次世界大戦の復興期には既に大衆をコントロールするための広告戦略やマインドコントロールテクニック、プロパガンダが行われていたのだ。資本主義世界を回す主役は戦争から「大衆消費」に変わったと考えられる。

 依存には様々な形がある。何らかの穴を埋める行動なのだろう。私の場合だと読書と喫煙である。昔は○○中毒や○○キチと表現した。『釣りキチ三平』にその残滓(ざんし)が見える。中毒は「毒に中(あた)る」の意であると思われるが、依存症の方が適切な言葉だろう(「依存」の読みを[イゾン]に変更 | ことば(放送用語) - 放送現場の疑問・視聴者の疑問 | NHK放送文化研究所)。

 人類全体を見回すと明らかに文明依存症であり、技術革新中毒の症状を露呈している。この加速度はシンギュラリティに至るまで止まることがないだろう。欲望は実現するごとに肥大し、破滅というブレーキしか選択肢は残されていない。

 仏教は欲望を否定した。問題は人類が欲望から離れた時にどのような社会が出現するのかを巧みに提示し得なかった点にある。いや、本当はそんなことはどうでもいいことなんだが、大衆受けしない事実は残る。

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2022-01-25

アイコンとは/『コンピュータ妄語録』小田嶋隆


『我が心はICにあらず』小田嶋隆
『安全太郎の夜』小田嶋隆
『パソコンゲーマーは眠らない』小田嶋隆
『山手線膝栗毛』小田嶋隆
『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆

 ・アナログの意味
 ・アイコンとは

『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆
『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』小田嶋隆
『罵詈罵詈 11人の説教強盗へ』小田嶋隆
『かくかく私価時価 無資本主義商品論 1997-2003』小田嶋隆
『イン・ヒズ・オウン・サイト ネット巌窟王の電脳日記ワールド』小田嶋隆
『テレビ標本箱』小田嶋隆
『テレビ救急箱』小田嶋隆

【アイコン】Icon

(中略)このIconなる英語は、実は、「イコン」すなわち、ギリシア正教でいうところの「聖母像や殉教者の肖像画」と語源を同じくしている。
 つまり、キリスト教圏に住む英語国民にとって「アイコン」は、相当に宗教味を帯びた言葉なのである。
 であるからして、漢字および仏教文化圏に住む者の一人として、私は、思い切って「アイコン」を「曼陀羅」と訳してみたい衝動に駆られるのであるが、そういうことをして業界に宗教論争を持ち込んでも仕方がないので、このプランはあきらめよう。
 さて、「イコン」は、聖書主義者あるいはキリスト教原理主義者の立場からすると、卑しむべき「偶像」である。
 彼らは、イコンに向かってぬかづいたりする人間を「アイコノクラスト(偶像崇拝者)」と呼んで、ひどく軽蔑する。なぜなら、偶像崇拝者は、何物とも比べることのできない絶対至高の存在である神というものを、絵や彫像のような卑近な視覚対象として描写し、そうすることによって神を貶め、冒涜しているからだ。しかも、偶像崇拝者は、もっぱら神の形にだけ祈りを捧げ、神のみ言葉に耳を傾けようとしない愚かな人間たちだからだ。
 ……ってな調子で、融通のきかない原理主義の人々はコ難しいことを言っているが、一般人は、ばんばん偶像崇拝をしている。
 結局、偶像は、迷える仔羊たちに「神」を実感させる道具として有効なのだ。というよりも、形を持たないものに向かって祈ることは、並みの人間にはなかなかできないことなのである。

【『コンピュータ妄語録』小田嶋隆〈おだじま・たかし〉(ジャストシステム、1994年)】

 曼陀羅(※本来は曼荼羅と書くのが望ましい)よりも「御真影」の方が近いだろう。かつて昭和20年(1945年)の敗戦まで、学校には奉安殿(ほうあんでん)があり天皇・皇后両陛下の肖像写真が安置されていた。宮内庁から貸与されていたため、戦災や火事などで焼失させるわけにいかず焼け死んだ校長もいた。詳しい経緯は知らないのだが、たぶん教育勅語(1890年)の翌年あたりから貸与されたのだろう。

 仏教系の新興宗教でも曼陀羅や仏像に対して御真影同様に接する人々がいる。息が掛からないようにとか、お尻を向けないとか。

 曼荼羅は神仏が集う姿や、仏教の宇宙観を示したもの。悟りを図示することはできないため、こうした姿になったのだろう。

 図像はわかりやすいがゆえに情報の抽象度が低くなる。偶像は英語で「アイドル」と言う。そう。オタク連中が好むあの「アイドル」だ。頭のネジが1本緩んだ純粋な若者がいたとしよう。彼は大好きなアイドルのポスターに向かって今日一日の出来事を語り、軽く口づけをしてベッドに入る。朝食もポスターの前で食べる。もちろん食べるのはアイドルの好物だ。「じゃ、行ってくるね。今日は残業で少し遅くなるから」と言って彼はアパートのドアを閉める。こうなるとアイドルのポスターはただのポスターではなくなっている。彼にとっては確かな存在であり、実存として機能するのだ。

 そう考えると仏像や曼荼羅を拝むことのおかしさが見えてこよう。仮に生身のブッダを拝んだところで悟りは開けない。ま、当たり前の話だ。つまり、拝む・祈るという行為は「瞑想の割愛を肯定する」のである。自分の像が後世になって拝まれていることを知れば、ブッダは一笑に付したことだろう。

 現代社会における偶像は、地位・名誉・財産・学歴・家柄などなど。不要に頭を下げさせるのが偶像の効用である。高級車や高級腕時計もアイコンの役割を果たす。男なら心意気で勝負しろってえんだ。



日露友好の土壌/『なぜ不死鳥のごとく蘇るのか 神国日本VS.ワンワールド支配者 バビロニア式独裁か日本式共生か 攻防正念場!』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄

2022-01-24

親子のふれあい/『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・幼少期の歪んだ価値観が肉体を破壊するほどのストレスと化す
 ・ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々
 ・ストレス依存
 ・急性ストレスと慢性ストレス
 ・親子のふれあい

『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『あなたはプラシーボ 思考を物質に変える』ジョー・ディスペンザ
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 2歳から13歳の喘息の子供たちと、健康な子供たちから成る対象群の呼吸パターンを調べた実験がある。子供たちはそれぞれ、自分の母親の声と他人の声を録音したものを聞かされた。「声の調子には関係なく、喘息の子供たちは他人の声よりも母親の声を聞いたときのほうが異常な呼吸パターンを多く示した。この興味深い結果から、子供が母親を安心できる存在と見ていれば当然予想されるはずの効果とは正反対の、ある種の感情的な効果が呼吸に作用したものと考えられる」
 ドイツの研究によると、喘息の子供は健康な対象群の子供より、長期的でしだいにエスカレートするネガティブな相互関係を父親とも母親とも築いているらしい。そのような子供たちの両親は他の子供たちの両親と比べ、子供に対してより批判的な行動を示すという。客観的に測定してみると、喘息の子供は、欲求不満を感じたり批判されたと感じたりすると肺からの空気の流れが悪くなった。これは気道が狭まったということである。このような現象は、喘息の子供に激しい怒りや恐怖を感じた出来事を思いださせたときにも見られた。

【『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ:伊藤はるみ訳(日本教文社、2005年)以下同】

 本書のアクセス数が増えているので、どんどん紹介しよう。

 少し古い本なので参考情報程度に受け止めておくべきだろう。喘息の原因が親子関係にあると早合点しないように。上記の実験の詳細も不明だ。どの地域で何人を調査したか書かれていない。擬似相関の可能性も否定できない。

 子供の世界観は、親子のふれあいの中で確立される。この世界が愛と信頼に満ちたものに映るか、要求を満たしてもらうためには必死で訴えねばならないような冷淡で無関心なものに映るか、あるいは最悪の場合、常に不安を感じて過剰に警戒していなければならないような敵意に満ちたものに映るかは、親子のふれあいによって決まるのである。最初の養育者との関係でできあがった神経回路は、将来の人間関係のあり方を決める鋳型になるのだ。私たちは、自分がこう理解されたと感じたように自分を理解し、最も深い無意識のレベルで感じた愛と同じ愛をもって自分を愛し、幼いころに心の奥底で受け取った思いやりと同じだけの思いやりをもって、自分に接するようになるのである。

 結局、人間をつくるのは人間ということなのだろう。特に母親の影響が強い。母親さえしっかりしていれば子供は育つ。

 まして少子化が進み、兄弟が少ないことを思えば、親の役割は増すことはあっても減ることはないだろう。

 私の場合、親の愛情は薄かったのだが、近所のオジサン、オバサンに見守れながら育ったことが大きい。更に小学3年の頃から人気者になりつつあった。体が大きくなり始め、球技が得意になった。声は生まれつきでかい。この頃から「小野っちょは面白い」と評価されるようになった。人は周囲から認められると張り合いが出てくる。

 今でもよく覚えている。私は小学校2年生の時に苫小牧から帯広、そして札幌へと転校を繰り返した。幼い私以上にうんざりした父親はケツをまくってサラリーマンの立場に見切りをつけて独立した。そんなこんなで私は常によそ者だった。特にいじめられたことはなかったが、なんとなく疎外感を抱いていた。ところが小学校3年で学級代表を選ぶ選挙があった際、私に2票が入ったのだ。心底驚いた。夜も眠られぬほどでもなかったが終日昂奮した。誰かはわからぬが私がリーダーに相応しいと考える同級生が二人もいたのだ。次にこれも3年生の時だがドッジボールでファインプレーをした。エンドラインいっぱいでジャンプをして相手チームのパスを奪ったのだ。一瞬後に歓声が上がった。私の球技における運動神経はあの瞬間につながったと確信している。それからというもの球技は何でもこなせるようになった。4年以降は卒業するまで学級代表を務めた。悪いことも随分やったが、とにかく皆、仲がよかった。札幌に転校して一番最初に家まで送ってくれたイガラシとはいまだに付き合いがある。

 人間は信頼されなければ生きてゆくことが難しい動物なのだろう。ところが資本主義になると信用は与信を意味する。我々は長ずるにつれて人間関係よりも資産や賃金を重んじるようになる。人生においては20代の人間関係が重要だと私は考える。ここで不可欠な友情を結んでおかないと人生は無味乾燥なものになる。異性を見る目も曇ってしまうことだろう。多様な関係性の中からしか相手の本当の姿は浮かんでこない。

 嫌なこと、間違ったことに対して「ノー」と言える心を養っておくことだ。それほど難しいことではない。周囲にそれができる人が必ず一人や二人はいるはずだ。そういう人に近づいて話を聞いてみるといい。弱い人間はモデルとなる人物を見つけるのが手っ取り早い。

日本のジャーナリズムはまだ死んでいなかった/『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・日本のジャーナリズムはまだ死んでいなかった

昭和の拷問王・紅林麻雄と袴田事件

必読書リスト その一

 男性は続ける。
「高知のマスコミは、どこも我々の話に耳を貸してくれないんです」
 一審判決後、地元のテレビ局がインタビュー取材を申し込んできたが、数時間待ちぼうけを食わされた末、連絡が取れなくなったという。

【『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平〈やました・ようへい〉(SBクリエイティブ、2009年)以下同】

 この一点だけでも事故が政治的な処理をされたことが窺える。テレビ・新聞といった大手メディアがこの国を戦後ミスリードし続けてきた。政官財の癒着ぶりを「鉄のトライアングル」と称するが、それを覆い隠す仕事をしているのが「報」と「放」なのだ。

 私が所属するKBS瀬戸内疱瘡は、香川県と岡山県を放送エリアとする放送局だ。同じ四国とはいえ、高知県には電波が届かず、放送は流れない。エリア向けに高知の行楽情報などを伝えることはあっても、そこで起きた事件や事故を取材することは、まずない。それでも、この男性は藁にもすがる思いで、かすかなつてを頼って私に連絡してきたのだろう。

 日本のジャーナリズムはまだ死んでいなかった。当然ではあるが警察側からの嫌がらせや意趣返しを覚悟しなければならない。有力政治家が動けばスポンサーにまで手を回すこともあり得るだろう。

 1年半前の事故について聞いた。
「バスは止まっていました。そこに横からすごい衝撃があって……」
「動いていたっていう感覚は全然ないです」
「急ブレーキをかけたということはないですね」
 取材を受ける戸惑いはあっただろう。ぽつりぽつりと、しかし確かな口調で生徒たちは語り始めた。皆、「中央分離帯付近で止まっていたバスに、白バイが横から突っ込んできた」と言うのだ。
 これに対し、高知地裁の判決は、「バスが右方向の安全確認を怠り、漫然と時速5キロないし10キロメートルで道路に進出し、白バイ隊員を跳ね飛ばした」と認定していた。バスは動いていたとされた。

「裁判では、僕たちが実体験した事故とは全く別ものになっている」
 一人の生徒はこう言い切る。この食い違いは何なのか。

 本書を読む限りでは裁判所も警察とグルであると言わざるを得ない。要は、速度違反でバスにぶつかり即死した白バイ隊員の保険金を詐取するために高知県警が証拠を捏造(ねつぞう)したのだ。加害責任ありとされたバス運転手は服役し、免許を失い、仕事も失った。まったく酷い話だ。テロが起きても不思議ではない。

 本書を読んでつくづく考えさせられたのだが、いつまで経っても左翼がなくならない理由がよくわかった。権力にブレーキをかける仕組みがこの国には存在しないのだ。裁判制度の抜本的変革が必要だ。裁判をネット公開するのは簡単にできると思う。裁判官と検事を裁く法整備も必要だ。もちろん司法の完全独立が前提となる。