・化儀
・『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット
・『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
しかし、このような結論へと急ぐことはやめなくてはならない。なぜなら、個別的な儀礼は、一定の場所にしか見出されないが、儀礼という一般的事実は、普遍的に存在するからである。むしろ、民族(ママ)学者の調査領域の中では、儀礼的なものを全く欠いた社会は、変則となろう。われわれにとって不合理に見えるものを、経験は、正常な、いつも存在する現象として示すのです。したがって、信仰を持つ者は、摂理の計画の中で、問題とされている儀礼は、もっと真実な原初的崇拝の堕落としての位置を持ってはいなかったか、あるいは、それらの儀礼は、むしろ、知的に啓蒙される以前に、救済に必要な宗教を求めた、人間のぎごちない努力を示すものではないかと自問することができよう。
【『儀礼 タブー・呪術・聖なるもの』ジャン・カズヌーヴ:宇波彰〈うなみ・あきら〉訳(三一書房、1973年)】
天台系の仏教用語に「化儀」(けぎ)というものがある。仏が説いた方を化法(けほう)といい、説く方式を化儀と名づける。つまり形式・儀式を指すわけだが実際は「社会の中に展開する様相」を意味する。ずっと心に引っ掛かっていた言葉で集中的に調べた時期がある。
人が集えば社会となる。社会には一定の形式が必要だ。例えば挨拶。礼儀、儀礼といってもよい。スタイルも様々で日本だとお辞儀、西洋だと握手。相手に対して「敵ではない」ことを意思表示しなくてはならない。ジャン・カズヌーヴは偉そうに御託を並べているが、私はもっと単純な本質があると考えている。形式とはスポーツや楽器演奏などのルールみたいなものだろう。
スポーツや芸術から得られる喜びは決して合理性で割り切れるものではない。「なぜ歌うのか?」と問われれば「だって楽しいから」としか答えようがない。この場合、喜ぶことが悟りで歌が化儀となる。
喜びが失せると化儀は形骸化し単なる儀式に堕落して葬式仏教ができあがる。スポーツや芸術も仕事となれば苦しみの方が多くなる。楽しむことではなく結果を出すことが目的と化すためだ。漁師と釣り人は同じ行為であっても心理状況が異なる。
化儀をゲーム化と置き換えるところまでは思索が進んだのだが、そこで興味が潰(つい)えてしまった(笑)。
儀礼―タブー・呪術・聖なるもの (1973年)
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J.カズヌーヴ
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