2020-06-15

個と集団の利益相反/『感染症クライシス』洋泉社MOOK


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄
『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新
『感染症と文明 共生への道』山本太郎

 ・個と集団の利益相反

『病が語る日本史』酒井シヅ
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『土と内臓 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー

山本●つまり、人間社会がそこにもっとも適合し、流行する感染症を選んで招いているといえるわけです。古くは中世ヨーロッパの十字軍や民族大移動などによってもたらされたとされるハンセン病、18世紀の産業革命が引き起こした環境悪化によって広まった結核など、いずれもわれわれ人類が呼び込み、蔓延(まんえん)させた感染症です。(「人類とともに歩んできた感染症とどのように向き合うべきか?」山本太郎、以下同)

【『感染症クライシス』洋泉社MOOK(洋泉社、2015年)】

 出来の悪いムック本で読むに値するのは山本のインタビュー記事のみ。amazonの古書がべら棒な値となっているが読みたい人は図書館から借りればよい。

 上記テキストはエイズが売春宿から感染拡大した様子を語っている。過密な人口、物や人の移動、動物との接触が感染の原因となる。

山本●ウイルスが性質を変えて人間社会により適合するようになると感染症は一気に広がりますが、そのいっぽうで、燃え広がることなく消えていく感染症もあります。これまで感染症を起こすウイルスばかり注目されてきましたが、そもそも人間社会にどのくらいウイルスが入り込んでいて、そのうち、どんなウイルスがどう消えていくかについては、わかっていません。
 じつはこの消えていくウイルスの存在が、われわれ研究者のあいだで最近のホットトピックになっています。つまり、これまでは微生物が存在することが病気の原因であると考えられてきましたが、そうとばかりいえないのではないか――ある微生物が人体に存在しないことが、私たち人間の健康にマイナスになっているのではないか、と考えられはじめているわけです。人体には膨大な微生物が存在していますが、その個数は兆単位で、重さは5~10キログラム、その遺伝子の総数は人の遺伝子の30倍くらいといわれています。

 ヒトマイクロバイオーム(人体の微生物叢)が注目されるようになったのは2010年のことである。「人類のDNAは99.9%が同じだが、ヒトマイクロバイオームでは構成が同じ人はいない」(Wikipedia)というのだから一人ひとりの個性を支えているのは微生物叢なのだろう。細菌は人間を操ることもあるのだから(『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ)。

山本●どういうことかというと、そこに感染症を起こすウイルスが存在するかぎり、何パーセントかの人がそれによって亡くなる危険性はあるけれども、集団としては亡くなる人がいわば防波堤になってくれることで守られる。いっぽう、ウイルスを排除してしまえば、その感染症で亡くなる人はいなくなったとしても、次にその感染症が入ってきたときに大きな被害を出す危険性が高い。というように、個人個人は守られても、集団としては脆弱(ぜいじゃく)になってしまうわけです。
 このように個と集団の利益が相反するのは感染症の問題にかぎりません。経済も同じで、たとえば家計を健全にしようと各家庭が消費を抑えると、逆に日本経済は衰退してしまいます。マクロ経済はミクロ経済が積み重なってできているはずなのに、ミクロ経済をよくしようとするとマクロ経済がおかしくなってしまう。生命体の進化もそうで、細胞の分子が集まってひとつの個体ができているにもかかわらず、分子レベルの進化と個体レベルの進化はまったく違います。人間の健康もそうです。個人個人が健康増進に努めてみんなが長生きするようになれば、長寿社会ができあがる。しかし、それは平均年齢の高い高齢社会にほかならず、集団としては脆弱になる部分が出てくる。
 というように、つねに個の利益と集団の利益は相反するわけで、これをどうしたらいいのか? 感染症の問題においても個と集団のどちらを優先するかは容易に答えが出るものではなく、私たちに非常に難しい問題を投げかけています。

 結局凍傷のようなものと考えるしかないのだろう。人体のシステムは生命機能を司る内蔵を守るために手足の指先から犠牲にしてゆく。進化は自然淘汰とセットである。

 感染症は恐ろしい。だが我々は200万年の歴史を生き抜いてきた遺伝子の持ち主なのだ。そのことにもっと自信を持ってよい。ヒトという種全体からすれば私もまた微生物のような存在だろう。もちろんそれで構わない。

「個と集団の利益相反」とは言い得て妙だ。各人が自分以外の多くの人々を利する行動ができれば世の中は格段によくなることだろう。

古代インドが「祈り」を発明した/『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良


岡野潔「仏陀の永劫回帰信仰」に学ぶ

 ・古代インドが「祈り」を発明した

『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
『身心変容技法シリーズ① 身心変容の科学~瞑想の科学 マインドフルネスの脳科学から、共鳴する身体知まで、瞑想を科学する試み』鎌田東二編

 この大自然の同じ魔を逃れるのに、両文明地域とも、それぞれに神を発明したが、古代印度(先住民族;ドラヴィタ人、又はドラヴィタ言語使用民族グループ)はメソポタミアと違って、唯一絶対神の人格神に同化する立場をとらなかった。古代印度は、「魔」を「神」(「魔」神から「善」神へ)に転換(蘇生)する呪術、祈りを発明した。即ち、後に仏教で、「変毒為薬」、「煩悩即菩提」、「色即是空」などにも通じる思考である。その後、征服統治者のアーリア人(広義には、アーリア言語使用民族グループも含める。)も次第に同化し、この文化をその習慣的に受け入れた。

PDF『業妙態論(村上理論)、特に「依正不二」の視点から見た環境論その一』村上忠良

 実に興味深い指摘である。祈りが本来、自然災害などのマイナス要因を転換するために行われたであろうことは想像できる。呪術の「呪」には「祝う」意味もある(「祝」の字ができたのは後のこと)。確かに「災い転じて福となす」ためには悪鬼が善鬼となってもらわねば困る。人間万事塞翁が馬というように不幸の後で幸福が訪れたこともあっただろう。その触媒が祈りにあったと人々が信じれば宗教的体験が共有される。実際は不幸の連続であったとしても輝かしい奇蹟の記憶はそう簡単に消えたり、訂正されたりするものではない。

 メソポタミアの宗教については全く知識がないので何とも言いかねる。同じセム族から生まれたアブラハムの宗教は「神との同化」を説いていない。神の絶対性は予定説に極まり、祈りが現実に対して何らかの変化を及ぼすことはあり得ない。祈りはただ神を仰ぐことを意味する。神と人間は隔絶している。

 気候が寒く厳しい地域では教義もまた厳格になるという説がある。仏教の南伝と北伝が異質な教えになったようにメソポタミアの宗教もまた変化したのだろうか?

 いずれにせよ宗教も情報理論に収まる。外部情報をどう読み解くかという問題なのだ。17世紀科学革命以降、情報は観察とデータが優先され、古い神話や物語は葬られた。それでも尚、人類の脳はバイアスを払拭できない。

2020-06-14

生態系を支える微生物/『土と内蔵 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー


『脳はバカ、腸はかしこい』藤田紘一郎
『免疫の意味論』多田富雄
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『感染症の世界史』石弘之
『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
・『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー

 ・生態系を支える微生物

・『土 地球最後のナゾ 100億人を養う土壌を求めて』藤井一至
『野菜は小さい方を選びなさい』岡本よりたか
『ミミズの農業改革』金子信博
『土を育てる 自然をよみがえらせる土壌革命』ゲイブ・ブラウン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ

 結論から言えば、微生物は木の葉、枝、骨など地球上のありとあらゆる有機物をくり返し分解し、死せるものから新しい生命を創りだしてきた。それでも隠された自然の半分との私たちの関わり方は、その有益な面を理解して伸ばすのではなく、殺すことを基準としたままだ。過去1世紀にわたる微生物との戦いの中で、私たちは知らず知らずのうちに自分たちの足元を大きく掘り崩してしまった。
 そして、すばらしく革新的な新製品や微生物療法が、農業と医学の両分野に姿を現そうとしていること以外にも、隠された自然の半分に関心を持つべき実に単純な理由がある。それは私たちの一部であって、別のものではないのだ。微生物は人体の内側から健康を引き出す。その代謝の副産物は私たちの生命現象に欠かせない歯車となる。地球上でもっとも小さな生物たちは、地質学的時間の進化の試練を経て、すべての多細胞生物と長期的な協力関係を築いた。微生物は植物に必要な栄養素を岩から引き出し、炭素と窒素が地球を循環して、生命の車輪を回す触媒となり、まわりじゅう至るところで文字通り世界を動かしている。
 今こそ微生物が私たちの生命にとって欠かせない役割を果たしていることを、認識するときだ。微生物は人類の過去を形作った。そして微生物をどう扱うかで未来が決まり、それがどのような未来か私たちはわかり始めたばかりだ。なぜなら私たちは微生物というゆりかごから抜け出すことはないからだ。私たちは隠された自然の半分に深く埋め込まれており、同じくらい深くそれは私たちに埋め込まれている。

【『土と内蔵 微生物がつくる世界』デイビッド・モントゴメリー、アン・ビクレー:片岡夏実〈かたおか・なつみ〉訳(築地書館、2016年)】

 関連書を辿ってゆくうちに、腸~細菌~ウイルス~土という流れになったわけだが意外なほど知的刺戟(しげき)に満ちている。

 人体のスケールは約2メートルだが視力を踏まえれば我々が認識できるのは1mmから数千メートル、つまり山の大きさ程度だろう。科学が発達するに連れてマクロ(天体物理学)やミクロ(量子力学)の世界は我々の常識とは異質な作用が働いている。生態系を支える微生物の世界を知ると、とてもじゃないが人間が地球に君臨しているとは言い難い。本気で戦えば多分ヒトは昆虫や微生物に敗れることだろう。否、植物すらヒトよりも強い可能性がある。

 仏教に依正不二(えしょうふに)という言葉がある。湛然(たんねん/妙楽大師)が立てた解釈である十不二門(じっぷにもん)の一つだ。依報(えほう/環境)正報(しょうほう/主体)は密接不可分にして一体不二であることを説いたものだ。ここで私が注目したいのは「報」の字である。環境も自己も過去の業(ごう/行為)によって形成されており、それを「報い」として受け取る。因縁果報(いんねんかほう)のサイクルは瞬間瞬間織り成してとどまることがない。それでも尚、環境から感受する情報は「報い」となり、受け取る生命主体の感覚や判断は過去の業に引きずられて、これまた「報い」となる。

 ともすると環境とは自己の外部と考えがちだが、意識からすれば肉体もまた環境である。普段は自分の意思で好き勝手に動かしているつもりになっているが、病気や怪我をすればその不自由さにたじろぐ。「体は自然である」と養老孟司が常々言っている通りだ。そう考えると脳すら環境なのかもしれない。

 結局、自我は意識から生まれているわけだが意識なんぞは当てにならない。一日の中で意識が立ち上がっている時間は意外と短い。何か上手く行かなかったり、頭に来たり、褒められたり、威張ったりする時にしか意識は芽生えない。クルマの運転も初心者の時は一つ一つの操作を強く意識するが、慣れてしまえば完全に無意識である。生活の実態は「ただ反応している時間」が最も長い。

 トール・ノーレットランダーシュは意識を「ユーザーイリュージョン」(使用者の幻影)と名づけた。脳は理性・感情・本能を駆使して生き延びるための計算をしているわけだが、一朝(いっちょう)事がある時は命を空しくすることは決して珍しくはない。英雄的な行為は自己犠牲とセットだ(『生き残る判断 生き残れない行動 大災害・テロの生存者たちの証言で判明』アマンダ・リプリー)。人助けは常に条件反射で行われる。

 意識が幻影だとすれば私は環境であり世界だ。それが証拠に私もまた多くの微生物によって成り立っている。

2020-06-12

サンセベリアの用土はこれで決まり


サンセベリアの土を考える
サンセベリアの根腐れ

 ・サンセベリアの用土はこれで決まり

サンセベリアの裸苗

 緑化委員の小野です。関東甲信は昨日梅雨入り。観葉植物を愛する緑太郎(りょくたろう→今思いついた名称だ)や緑子(みどりこ)にとって5~6月は最重要の時期で植え替えシーズンである。それでは試行錯誤の報告をば。

 実に三度目の正直である。5号(15cm)と6号(18cm)の鉢の水はけが悪い。鉢が大きくなると水はけが悪くなることを後で知った。「主な原産地はアフリカ(ナイジェリア・コンゴ民主共和国)の乾燥地帯である」(Wikipedia)。そこで自生環境を調べるべく検索したのだが、中々これという情報が見つからない。諦(あきら)めかけた頃にやっと見つけた。

用土の知識:サンセベリアの館

 これは凄い。完璧な情報といってよい。ph7ということは中性である。で、用土は、

  矢作砂   2~4mm   35 %
  日向土 小粒      35 %
  赤玉土(硬質)小粒  20 %
  腐葉土          10 %

 である。印象としてはスカスカの状態である。

 私は貧乏性のため元の鉢に入っていた土も一緒に混ぜて使っていた。台所のザルを犠牲にして土をふるってみた。予想以上に微塵(みじん)が多かった。全体の1/3ほどである。これは観葉植物用培養土のヤシガラ繊維(ココピート)と思われる。保水性が高いので除去した方がよい。で、ひゅうが土小粒と矢作砂(やはぎずな/ビバホームでは矢作川砂)を加えた。矢作砂は花崗岩質で他の川砂とは異なる。どちらも栄養はない。

 更に珪酸塩白土(けいさんえんはくど)を少し入れた。ソフト・シリカ株式会社の珪酸塩白土が一番有名だが種類が七つあるので注意されよ。作物栽培向けが3種類と家庭園芸向けが4種類(ミリオン、ミリオンA、スーパーミリオンA、ハイフレッシュ)である。園芸用ソフトシリカ(ナチュラル)20kgミリオンの違いがよくわからない。amazonレビューによれば「質に関しては、ミリオンみたいに白くは無いです。微妙に青みのある薄い灰色のものが混じっています。ミリオンは真っ白だけど高く、これは質より量なんでしょうね」(質より量で)とある。粒の大きさが変わらないようなのでたくさん使う人はミリオンよりもソフトシリカの方がいいだろう(最安値は楽天)。

 尚、開封した腐葉土に白いカビのようなものが出てきたが有用菌のようだ(腐葉土)。開封した土袋の口は必ず閉めておくこと。

 もう一つ気づいたのだが緩効性肥料を与えたところ一番大きいハーニーの葉が内側に丸まってきた。たぶん肥料が効きすぎているのだろう。サンセベリアは痩せた土地に自生しているので過保護にしない方がいいようだ。

 最後になるが「サンセベリアの館」に心より感謝申し上げる。

 amazonリンクは参考情報である。お近くのホームセンターか、ネット通販であればモノタロウの方が安い。

文化人放送局【横田滋氏追悼SP】/「全身全霊で打ち込んだ」横田滋さん遺族会見 横田早紀江さんら家族が想いを語る













2020-06-11

根を通して助け合う植物=森という社会/『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』ペーター・ヴォールレーベン


『森のように生きる 森に身をゆだね、感じる力を取り戻す』山田博
・『植物はそこまで知っている 感覚に満ちた世界に生きる植物たち』ダニエル・チャモヴィッツ

 ・根を通して助け合う植物=森という社会

『宮脇昭、果てなき闘い 魂の森を行け』一志治夫

必読書リスト その三

 ここで一つの疑問が生じる。木の根は地中をやみくもに広がり、仲間の根に偶然出会ったときにだけ結ばれて、栄養の交換をしたり、コミュニティのようなものをつくったりするのだろうか? もしそうなら、森のなかの助け合い精神は――それはそれで生態系にとって有益であることには変わりないのだが――“偶然の産物”ということになる。
 しかし、自然はそれほど単純ではないと、たとえばトリノ大学のマッシモ・マッフェイが学術誌《マックスプランクフォルシュンク》(2007年3月号、65ページ)で証明している。それによると、樹木に限らず植物というものは、自分の根とほかの種類の植物の根、また同じ種類の植物であっても自分の根とほかの根をしっかりと区別しているらしい。
 では、樹木はなぜ、そんなふうに社会をつくるのだろう? どうして、自分と同じ種類だけでなく、ときにはライバルにも栄養を分け合うのだろう? その理由は、人間社会と同じく、協力することで生きやすくなることにある。木が1本しかなければ森はできない。森がなければ風や天候の変化から自分を守ることもできない。バランスのとれた環境もつくれない。
 逆に、たくさんの木が手を組んで生態系をつくりだせば、暑さや寒さに抵抗しやすくなり、たくさんの水を蓄え、空気を適度に湿らせることができる。木にとってとても棲みやすい環境ができ、長年生長を続けられるようになる。だからこそ、コミュニティを死守しなければならない。1本1本が自分のことばかり考えていたら、多くの木が大木になる前に朽ちていく。死んでしまう木が増えれば、森の木々はまばらになり、強風が吹き込みやすくなる。倒れる木も増える。そうなると夏の日差しが直接差し込むので土壌(どじょう)も乾燥してしまう。誰にとってもいいことはない。
 森林社会にとっては、どの木も例外なく貴重な存在で、死んでもらっては困る。だからこそ、病気で弱っている仲間に栄養を分け、その回復をサポートする。数年後には立場が逆転し、かつては健康だった木がほかの木の手助けを必要としているかもしれない。

【『樹木たちの知られざる生活 森林管理官が聴いた森の声』ペーター・ヴォールレーベン:長谷川圭訳(早川書房、2017年/ハヤカワ文庫、2018年/原書は2015年)】

 地上の「見える世界」では太陽光を巡って熾烈な争いを繰り広げる木々が、見えない地中では協力し合っているというのだから驚きだ。人間社会はといえば陰で足の引っ張り合いをするのが常だ。「支え合う」関係性は1990年代のリストラ(整理解雇)や派遣法改正(2004年)などを通して完全に廃(すた)れてしまった。

 世界的ベストセラーとなっているのも頷ける。本書を読むと樹木を見る目が一変する。彼らは意志する存在なのだ。人間の都合で植えられた街路樹や学校・公園などの木はやはり可哀想だ。日本の場合、森林といえばほぼ山を意味するが、里山文化を受け継いでゆくことが正しいと思う(新しい里山文化の創出に向けて - 全国町村会)。

 皆で森を育くめば、再び支え合う社会が構築できるかもしれない。そんな希望が湧いてくる一書である。