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2014-06-28

先ず隗より始めよ/『楽毅』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『長城のかげ』宮城谷昌光

 ・マントラと漢字
 ・勝利を創造する
 ・気格
 ・第一巻のメモ
 ・将軍学
 ・王者とは弱者をいたわるもの
 ・外交とは戦いである
 ・第二巻のメモ
 ・先ず隗より始めよ
 ・大望をもつ者
 ・将は将を知る

『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

 即位した昭王が考えたことは、
 ――父と国の仇を討つ。
 ということであり、に勝つにはどうするか、ということであった。一貫して自分を援けてくれた郭隗(かくかい)にその問いをぶつけた。
「斉はわが国の乱れに乗じて襲ってきて、わが国を破った。わが国は小さく国力もとぼしい。斉に報復するには力不足であることを重々承知している。それでも真の賢士を得て、国事をともにし、先王の恥を雪(すす)ぐのが、わしの願いである。先生、それができる者をみつけてくれまいか。身をもってその者に仕えるであろう」
 それに対する郭隗の答えが、不朽の名言になった。

 王必ず士を致(いた)さんと欲せば、先(ま)ず隗(かい)より始めよ。

 王が賢士をどうしても招きたいと欲しておられるなら、この郭隗にまずお仕えなさい、といったのである。そういった郭隗自身、
「先従隗始」(せんしょうかいし)
 が、人口(じんこう)に膾炙(かいしゃ)し、東海中の島の民にも親しまれる語句になろうとはおもわなかったであろう。それはそれとして郭隗のことばにはつづきがある。
「そうすれば、隗より賢い者が、千里を通しとせずに燕(えん)にやってきましょう」
 ふしぎないいかたである。昭王は眉(まゆ)をひそめた。郭隗はたしかに賢者であるが、国政をあずけてもよいほどの大才ではない。他国にその賢名がきこえているとはおもわれない男である。その郭隗に仕えると、諸国より賢士がやってくるとは、どういうことであろう。
 それについて郭隗は懇々と述べた。(第二巻終了)

【『楽毅』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1997年/新潮文庫、2002年)以下同】

 対話の妙味が問答にあることと、答えには物語が不可欠であることを教える故事だ。歴史を学ぶ目的は温故知新にある。「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知れば、以って師と為るべし」(『論語』)。物語は未来を志向する。占いがその典型だ(占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光)。現状打開の智慧に物語の本質がある。郭隗の提言は「まず出来ることから始めよ」と受け止めることができよう。このエピソードは第三巻の冒頭で詳細が展開される。

 郭隗は昭王に問われて、つぎのように答えた。
「帝者は師とともに処(お)り、王者は友とともに処り、覇者は臣とともに処り、亡国の主は役(えき)とともに処ります」
 人君として至上の帝者には師があり、その下の王者には友があり、その下の覇者には臣があり、国を滅亡させる者には僕隷(ぼくれい)があるだけである。まずそういった郭隗は、つづいて、
「指を屈して師に仕え、北面して学を受ければ、自分より百倍も才能の豊かな者がやってきます。それより劣る礼ですが、敬意をあらわすために、その人のまえを趨(はし)り、その人よりおくれて息(いこ)い、はじめに問うてのちに黙ってその人の教えをきくようにすれば、自分より十倍もまさる人がやってきます。そうではなく、たがいに趨って礼をやりとりするのでは、自分にひとしい才徳の者しかきません。まして几(き)や杖(つえ)によりかかって、人を眄視指使(べんししし)するようであったら、不浄の者である厠役(しえき)の人しかこないでしょう。もっとも悪いのは、わがままに相手を睨(にら)み、打ちすえ、大声で叱(しか)ることで、それでくるのは奴隷ばかりでしょう」
 と、いい、人君を五種類にわけた。
 もっともすぐれた人君とは、自分が人君であることを忘れるほどの謙虚をしめす人である。これはまさに逆説といえる。王侯は自分の存在がその国でもっとも重く大きなものでなくてはならない。人は自分が存在していることをさまざまな手段をもちいて表現する。さらに、その表現の受け手である相手の反応をみて、異聞の存在を計算する。はやい話が、自分にたいして頭をさげる者が多ければ多いほど尊貴もますのである。だが郭隗の考えでは、自分の存在を無に近づける者のほうが偉いということになる。すなわち人は自分の存在を最小にすることによって最大を得ることができる。ことばをかえていえば、ひとりの師を得ることは百万の奴隷を得ることにまさる。いま全盛を誇っている斉に勝つほどの富国強兵をなしとげるためには、王としての誇りをなげすてて、賢人に指を屈し身を屈して教えを仰がねばならない。
「いま申し上げたことが、古来賢人を招致するやりかたです。王がほんとうに広く国中の賢人を求めて、その門をたずねたら、天下に評判が立ち、天下の賢人はかならず燕に馳(は)せてきましょう」
「なるほど。では、わしはいったいたれをたずねたらよいのか」
 この昭王の問いにたいして郭隗は逸話をもって答えた。
 こういう話である。
 むかし、ある君主が千金をだしてでも千里の馬を手にいれようとしていた。千里の馬とは、むろん、一日に千里(約400キロメートル)も走ることのできる馬をいう。
 が、3年たっても入手できなかった。宦官(かんがん)のなかでも宮中の掃除をおこなう者を涓人(けんじん)というが、その涓人が君主に、
「どうかその役目をわたしにお命じください。かならず千里の馬をさがしあててまいります」
 と、自信ありげにいった。
「かならずだぞ」
 念を押した君主は涓人に任務をさずけた。涓人は各地を歩き、3か月後に、ついに千里の馬をみつけた。が、不運なことに、その名馬は死んでいた。
「死んでいようが千里の馬は千里の馬だ。その首をわたしに売ってくれ」
 涓人はなんと五百金という大金をだして、馬の首を買いとると、帰国し、復命した。君主が激怒したことはいうまでもない。
「わしが欲しいのは生きている馬だ。どうして死んだ馬を大事にして五百金を捐(す)ててきたのか」
 そうなじられても涓人はいささかも萎縮(いしゅく)せず、
「君は千里の馬であれば死馬でさえ五百金でお買いになったわけです。生馬では、どうか、と世間でとりざたしている者たちは、君が馬の値うちのよくわかるかたであるとおもっておりましょう。まもなく千里の馬を売りにくる者があらわれるでしょう」
 と、いった。はたして1年もたたぬうちに、千里の馬が3頭もやってきたという。
 どこの国の逸話であるかはわからない。話のなかにあった千里の馬が、昭王の求める賢人にあたることはあきらかである。すなわち昭王が賢人を求めるために国中をさがしまわっても、おそらくむだであり、それより身近な者をつかって賢人をさがさせたほうがよいということであろう。郭隗は容(かたち)を端(ただ)して、
「いま王がほんとうに賢人を招きたいとおもっておられるなら、まず隗より始めるべきです。隗のような者でも王に仕えてもらえる。隗よりすぐれている者ならなおさらです。その者にとって千里の道など遠いことがありましょうか」
 と、強い語気でいった。
 遠くにいる賢人をさがすまえに、まぢかにいる賢人に師事しなさい。
 自薦である。
 が、これほどみごとな自薦はほかにない。
 昭王は器量の大きな人である。
 ――いままでの話は、自分を売りこむためのものであったのか。
 とは、おもわなかった。
 郭隗の説述に理を認めた。なるほどむかしから聖王や名君にはみな師がいた。湯王(とうおう)の師である伊尹(いいん)、武王(ぶおう)の師である太公望(たいこうぼう)は在野の賢人である。君主が君主として威張っていては、けっしてみつけることのできない大才である。そのひとりをみつけたことにより、天下がころがりこんできた。とkろが伊尹や太公望は民間人なので、諸侯のたれもがかれらを招く機会を平等にあたえられていたのである。歴史のおもしろさであり、恐ろしさでもある。
 ――頭をさげ、腰をかがめ、指を屈し、辞を低くする者が勝つのか。
 いや、勝利の条件とは、それだけではあるまい。大才をみつめるための姿勢、目の位置、志の高さが問題となろう。とにかく昭王にわかったことは、
 ――おのれを棄てなければ、人はみえぬ。
 ということである。
「郭隗先生」
 昭王は晴れやかな声を発し、郭隗にむかって拝手した。これから自分は郭隗を師と仰ぎ、北面して仕えるであろう、と昭王はいい、実際、郭隗のために黄金台という宮殿を建てた。燕人(えんひと)ばかりでなく、燕をおとずれた他国の者の目をおどろかすに充分な輝きをもった高■(木偏+射/こうしゃ)であり、そのまばゆい光が千里の馬を招きつづけているといえた。

 郭隗はすかさず根拠となる例を示した。これに対する昭王の振る舞いはまさしく「君子豹変」(『中国古典 リーダーの心得帖 名著から選んだ一〇〇の至言』守屋洋)に相応しいものだ。人を求める心の本気が窺える。

 国家や組織の行き詰まりはリーダーに起因する場合が多い。意のままになる者を好み、自分の物差しに合わない人を遠ざけるところから組織は澱(よど)み停滞を始める。巨大組織は腐敗することを避けられない。同族、閨閥(けいばつ)、学閥などが流動化を阻み、社会をタコツボ化する。

 企業が真剣に人材を求めているかどうかは面接態度を見ればわかる。求職者に対して値踏みするような視線を送る企業が大半だろう。圧迫面接というカルト的手法もあるようだが、かような企業が淘汰される運命にあることは間違いない。

 そもそもこの国のエリート選抜システムは受験制度においてペーパーテストを採用している時点で誤っている。教育は私塾レベルの単位で行い、もっと自由な競争をするべきだろう。広く門戸を開けば必ず人材は訪れる。

   


先づ隗より始めよ 十八史略 漢文 i think; therefore i am!
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事/『晏子』宮城谷昌光

2014-09-16

必読書リスト その一


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・クリシュナムルティ著作リスト
     ・必読書リスト その一
     ・必読書リスト その二
     ・必読書リスト その三
     ・必読書リスト その四
     ・必読書リスト その五

『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫
『たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易
『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平
『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『証拠調査士は見た! すぐ隣にいる悪辣非道な面々』平塚俊樹
『臓器の急所 生活習慣と戦う60の健康法則』吉田たかよし
『医学常識はウソだらけ 分子生物学が明かす「生命の法則」』三石巌
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二
『免疫力が10割 腸内環境と自律神経を整えれば病気知らず』小林弘幸、玉谷卓也監修
『調子いい!がずっとつづく カラダの使い方』仲野孝明
『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子
『将棋の子』大崎善生
『地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
『通りすぎた奴』眉村卓
『13階段』高野和明
『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー
『鷲は舞い降りた』ジャック・ヒギンズ
『女王陛下のユリシーズ号』アリステア・マクリーン
『狂気のモザイク』ロバート・ラドラム
『生か、死か』マイケル・ロボサム
『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ
『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック
『日日平安』山本周五郎
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰
『鳥 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア
『廃市・飛ぶ男』福永武彦
『中島敦 ちくま日本文学12』中島敦
『雷電本紀』飯嶋和一
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『千日の瑠璃』丸山健二
『人生論ノート』三木清
『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編
『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳
『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー
『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎
『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪
『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三
『知的好奇心』波多野誼余夫、稲垣佳世子
『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『山びこ学校』無着成恭編

2014-10-25

和氏の璧/『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 呂不韋〈りょふい〉が拝礼して、数歩すすみ、ゆっくりすわった。うしろの鮮乙〈せんいつ〉は呂不韋よりおくれてすわった。
「ここにあります物を入手した事情は何も申し上げません。人を殺したり、盗んだりしたというやましい行為を経た物でないことだけは申しておきます。もしも黄氏に褒章のお気持ちがおありでしたら、そのすべてを、うしろにおります鮮乙にたまわりとう存じます」
 呂不韋は黄歇〈こうけつ〉にむかってからだを折り、頭をゆかにつけた。
「おお、これがまことに和氏(かし)の璧(へき)であったら、わが家財の半分をさずけてもよい」
 黄歇の声がうわずっている。呂不韋は口もとをほころばせ、
「黄氏、商人は信義を重んじます。いちどとりきめたことは守らねばなりません。その信義からみれば、貴家の財の半分をさげわたすとは、虚言にひとしく、そういう虚言を弄されるかたが国の存亡にかかわる大任を果たせるはずがありません。この和氏の璧があろうがなかろうが、あなたさまは、ご自分の虚言によって身を滅ぼされるでしょう」
 と、激しくいい放ち、絹布をつかんで立とうとした。
「待て」
 黄歇の手が呂不韋の腕をつかんだ。
 呂不韋は黄歇をにらみかえした。おとなしく楚(そ)の使者に和氏の璧を献上するだけだとおもっていた鮮乙は、呂不韋の激しい態度に仰天するおもいで事態を見守っている。鮮芳〈せんほう〉も、ひごろおとなしい呂不韋が、楚の貴族に恐れ気もなく直言したことで、
 ――この童子はただものではない。
 と、認識をあらたにした。
「ゆるせ。喜びのあまり、おもわぬことを口走った。あらためていう。もしもこれが和氏の璧であったら、黄金百鎰(いつ)を鮮乙につかわそう。それでどうか」
 黄歇はのちに楚の国政をあずかる男である。肚は太く、智に冴えがあり、人を観(み)る目はもっている。呂不韋という少年がいったことに道理があると認めれば、おのれの非を払い、ことばに真情をそえることにやぶさかではない。

【『奇貨居くべし 春風篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1997年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 呂氏(りょし)は賈人(こじん=商人)で不韋〈ふい〉は養子であった。呂不韋が15歳の時、父から鉱山の視察へゆくよう命じられる。父が目に掛けていた店員の鮮乙〈せんいつ〉が旅に同行する。彭存〈ほうそん〉は山男である。

 呂不韋は偶然、和氏(かし)の璧(へき)を手に入れる。これは楚(そ)が趙(ちょう)に贈る途中で強奪されたものだった。黄歇〈こうけつ〉が楚の使者であり、後に春申君と呼ばれる。戦国四君の一人。鮮芳〈せんほう〉は鮮乙〈せんいつ〉の妹である。

 現在でいえば中学生が大臣に向かって話をしているようなものだろう。宮城谷作品にはこの手のエピソードが多いが、そのたびに私は「あ、晏子〈あんし〉だな」と胸が高鳴る。もちろん著者の想像が働いている。だが周囲に正しい言葉を吐く大人が存在すれば、その「気」を吸いながら子供が育つことはあり得るだろう。

 黄金百鎰は約32キログラム。10年間飲まず食わずで働いても手の届かぬ大金である。呂不韋は「そんなにもらえるのか」と内心で驚いた。

 楚の国宝であった和氏(かし)の璧(へき)が更なるドラマを生む。趙国(ちょうこく)に渡った壁(へき)を秦王(しんおう)が奪おうと目論み親書を遣(つか)わす。趙の恵文王〈けいぶんおう〉が秦への使者に選んだのが藺相如〈りんしょうじょ〉であった。秦王(しんおう)とのやり取りは「怒髪天を衝く」(『史記』では「怒髪上〈のぼ〉りて冠を衝〈つ〉く」)の言葉で現在にまで伝わる。「刎頸(ふんけい)の交わり」も藺相如〈りんしょうじょ〉に由来する。

 これだけでも豪華キャストだが、荀子と年老いた孟嘗君〈もうしょうくん〉まで登場する。呂不韋は一つひとつの出会いを通して成長してゆく。

    

2016-01-03

アウトサイダー/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 秦によって天下が統一されるまえは、地方の郷里には自治権があった。それが支配される者のゆとりであり、精神の自律というものであった。ところが、始皇帝の時代になると、全土の民が始皇帝に直属するようになったといってよく、皇帝と庶民のあいだにいる官吏は、人ではなく法律の化身である。この窒息しそうな現状を嫌う者は、自立したくなるのであるが、移住することや職業を変えることはたやすくゆるされず、けっきょくそういう制度と対立する者たちは、法外の徒となり、盗賊になってしまうということである。それゆえ、この時代に盗賊になっている者は、卑陋(ひろう)とはいえない、いわば革命思想をもった者もいたのである。

【『香乱記』宮城谷昌光(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年】

 アウトロー(無法者)とアウトサイダーの違いか。日本だと悪党傾奇者(かぶきもの)・浮浪人旗本奴(はたもとやっこ)・町奴(まちやっこ)というやくざ者の流れがあるが、徳川太平の世にあって権力の統制下に置かれていたような気がする。侠客と呼んだのも今は昔、任侠は東映のやくざ映画で完全に滅んだといってよい。既に亡(な)いから映画を見て懐かしむのである。

 法治国家には官僚をはびこらせるメカニズムが埋め込まれているのだろう。士業がそれに準じる。国家試験も法律から生まれる。そして法の仕組みを知る者がインナー・サークルを構成するのだ。貧富の差が激化する現状は派遣社員やパート労働者をアウトサイドすれすれにまで追い込んでいる。

 現代においては移住することも転職することも自由だ。もしもあなたが「窒息しそうな現状を嫌う者」であるならば、速やかにこの二つに着手することが正しい。「逃げる」のではなくして「離れる」のだ。簡単ではないかもしれぬが、自分の力で足が抜けるうちに行動を起こすべきだ。

 いじめを回避するために転校する小学生は珍しくない。大人だって一緒だ。何らかの重圧を回避せずして人生を輝かすことは難しいだろう。

 グローバリゼーションによって多国籍企業が平均的な国家を凌駕する力と富を手に入れた結果、革命はテロに格下げされた。実力行使の覚悟を欠いたデモはお祭り騒ぎに過ぎない。個別テーマへの反対はあっても「世直し」というムードが高まることはない。国内の治安が維持されればフラストレーションは外国に向かって吐き出される。反中・反韓感情の高まりはやがて国家的衝突という事態を招くことだろう。

   

2022-03-02

老子の思想には民主政の萌芽が/『香乱記』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光

 ・占いは未来への展望
 ・アウトサイダー
 ・シナの文化は滅んだ
 ・老子の思想には民主政の萌芽が
 ・君命をも受けざる所有り

・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 この学者は法家(ほうか)といってよいが、その教学の根底には老荘思想がある。たとえば戦国時代の大儒である孟子(もうし)は、
 ――春秋に義戦(ぎせん)無し。
 と、語ったように、孔子が著した『春秋』(しゅんじゅう)という歴史書のなかにひとつも義(ただ)しい戦いはなかったというのが儒者の共通する思想であり、要するに戦うことが悪であった。儒教は武術や兵略に関心をしめさず、それに長じた者を蔑視(べっし)した。したがって儒教を学んだ者から兵法家は出現せず、唯一(ゆいいつ)の例外は呉子(ごし)である。戦いにはひとつとしておなじ戦いはないと説く孫子(そんし)の兵法は、道の道とす可(べ)きは常の道に非(あら)ず、という老子の思想とかよいあうものがある。この老子の思想には支配をうける民衆こそがほんとうは主権者であるというひそかな主張をもち、民衆を守るための法という発想を胚胎(はいたい)していた。その法を支配者のための法に移しかえたのが商鞅(しょうおう)であり韓非子(かんぴし)でもあり、秦王朝の法治思想もそれであるが、法はもともと民衆のためにあり支配者のためにあるものではないことは忘れられた。

【『香乱記』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(毎日新聞社、2004年/新潮文庫、2006年)】

戦いて勝つは易く、守りて勝つは難し/『呉子』尾崎秀樹訳

 商鞅については『孟嘗君』を参照せよ。

 道家(どうか)といえば仙人である。近頃、仙人本を読んでいるのだが、どうも食指が鈍い。気は何となく理解できる。しかし房中術や仙人となると、支那文化特有の実利に傾きすぎているような嫌いがある。

 一方、儒家(じゅか)といえば礼であるが、形而下にとどまっていて人間の苦悩を解き放つほどの跳躍力がない。江戸時代の日本で論語が広く学ばれたのは語感のよさによるものだと私は考えている。更に官僚の道を説いた孔子の教えは、武士を制御するのに都合がよかった側面もあったことだろう。侍の語源は「従う」意味の「さぶらふ」(候ふ)である。つまりムスリムと変わらない。服従する相手が藩主か神かの違いがあるだけだ。

 儒家が革命を起こすことはないが、道家は天命を掲げて王朝を倒すことがある。私が道家に惹かれる所以(ゆえん)である。

   

2012-12-31

2012年に読んだ本ランキング


2011年に読んだ本ランキング

『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(下) 1901-2006年』と小室直樹著『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』を書いていなかったので、今年読了した本は72冊である。挫折本が異様に多いのは、いよいよ余生が残り少なくなっており取捨選択を厳しくしているためだ。なお昨年同様クリシュナムルティは入れていない。また小説も除いた。

奇貨居くべし』宮城谷昌光
楽毅』宮城谷昌光

黄金旅風』飯嶋和一
神無き月十番目の夜』飯嶋和一

とうに夜半を過ぎて』レイ・ブラッドベリ

 次に小室直樹と苫米地英人も除いた。

悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹

現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
利権の亡者を黙らせろ 日本連邦誕生論 ポスト3.11世代の新指針』苫米地英人

 更に今年最も大きな収穫ともいえるアルボムッレ・スマナサーラ長老も除いた。

怒らないこと 役立つ初期仏教法話 1』アルボムッレ・スマナサーラ
怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ
心は病気 役立つ初期仏教法話 2』アルボムッレ・スマナサーラ
苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話 3』アルボムッレ・スマナサーラ

 石原吉郎関連も除いた。

シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ではまず番外から紹介しよう。

拒否できない日本 アメリカの日本改造が進んでいる』関岡英之
地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
ストレス、パニックを消す! 最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
ブッダの人と思想』中村元
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(上) 1492-1901年』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史(下) 1901-2006年』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー
完全なる証明 100万ドルを拒否した天才数学者』マーシャ・ガッセン
複雑で単純な世界 不確実なできごとを複雑系で予測する』ニール・ジョンソン

 次にベスト10。判断が難しいため同立順位が複数あることをご了承願おう。

 10位 『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩
 9位 『史上最大の発明アルゴリズム 現代社会を造りあげた根本原理』デイヴィッド・バーリンスキ
 8位 『カウンセリングの技法』國分康孝
 7位 『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
 6位 『通貨戦争 影の支配者たちは世界統一通貨をめざす』宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉
 6位 『ロスチャイルド、通貨強奪の歴史とそのシナリオ 影の支配者たちがアジアを狙う』宋鴻兵〈ソン・ホンビン〉
 5位 『放浪の天才数学者エルデシュ』ポール・ホフマン
 5位 『My Brain is Open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記』ブルース・シェクター
 4位 『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
 3位 『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
 3位 『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
 2位 『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
 1位 『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2013年に読んだ本ランキング

2020-01-07

民の声/『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光


 ・桑の木は神木
 ・民の声

・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光

「生れつき姓があるということは、人の上に立ってゆくように定められていることなのだ。人の上に立つには――」
 と、ことばを切った摯は、足もとに目をおとし、
「たとえば、ここに植える菽(まめ)のいうことが、ききとれるようになることだ。天の気も地の気も、その葉や茎にうつり、やがて結びあって実となる。いくら故実(こじつ)を識(し)っても、名なし草にひとしい民の、声なき声を聴きとる耳はそだたぬ。【まめ】に教えてもらうがよい」

【『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(海越出版社、1990年/文春文庫、1993年)以下同】

 摯〈し〉は伊尹〈いいん〉の諱(いみな)である。豆から学んだ人にメンデル(1822-1884年)がいる。

 伊尹は一階の料理人から宰相(さいしょう)にまで登りつめた人物である。湯王〈とうおう/天乙〉を助け、〈けつ〉王を討って天下を平定。こうして(いん/商)が建国される。

 民と農こそ国家の基(もとい)であろう。次に防衛がくる。農業革命によってホモ・サピエンスは定住し、やがて都市が生まれた。食糧を他国に依存する日本は定住の基盤を失ってしまったように見える。

「湯のことではない。汝がどうするかだ」
 そう問われた摯はさらにしずまった声貌(せいぼう)で、
「人民の声に従うだけです」
「また、それか。遁辞(とんじ)をかまえるな。民草(たみくさ)に声なぞあろうか。強い風に靡(なび)くにすぎぬ」
「わたしには聞えます」
 と、摯はなぜか哀しげに眉をよせた。

 民衆が「自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)とすれば伊尹が聴いた「民の声」とは政治的要求ではなく、苦悩や呻吟(しんぎん)、溜息や悲鳴と考えられる。民情に思いを寄せるのが政治の出発点であり、庶民を圧迫すれば国は必ず滅びる。現在、中国や北朝鮮はたまたアラブ諸国で残酷非道な政治が行われているが、これを支えているのは情報統制である。人々の移動や交流あるいはインターネットの促進によって情報が行き交うようになれば一人が立ち上がり、二人、三人、百人と続いてゆくことだろう。

 ただし民草が「強い風に靡(なび)く」のもまた事実である。自由を望むのも民衆だが、支配を求めるのもまた民衆なのだ。全体主義やファシズム・ナチズムは形を変えて生き延びることだろう。

2014-11-09

楚国の長城/『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


「呂氏、長城が気にいったか」
 勘ちがいをした向夷〈きょうい〉が、ぼんやりとたたずんでいる呂不韋の肩をたたいた。
「ああ、あきれるほど気にいったよ」
 そういういいかたしかできないほど長城は無益なものにみえた。為政者の見識の低さを如実にあらわしているのがこれであるといえる。おおげさにいえば、人類の成長をとめ、可能性をさまたげるのが長城である。とくに庶民は、いちどは長城を有益なものと信じたがゆえに、その存在が無益なものであることがわかった時点から、為政者にたいして不信をつのらせ、人の営為そのものにむかう意味を阻喪(そそう)したであろう。楚(そ)の崩壊も、秦(しん)の圧力に耐えきれなくなったというより、内なる崩れが原因なのではあるまいか。

【『奇貨居くべし 黄河篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1999年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)】

 以下2003年のニュースである。

「中国最古の長城は河南省の楚長城」専門家が指摘

  楚長城学術シンポジウムがこのほど、河南省魯山県で開かれた。参加した専門家と学者の見解は「紀元前688年に建設された楚国の長城が、中国最古の長城である」という意見で一致した。
河南省に現存する楚長城は、上部が丸まった形状をしており、西線、北線、東線の3つの部分に分かれている。平頂山市の魯山県と葉県、舞鋼市、南陽市の方城県と南召県にまたがり、全長にはおよそ800キロ。特に南召県板山坪鎮南部の周家寨楚長城は、全長20キロ以上が、ほぼ完全な形で残っている。

「人民網日本語版」2002年10月30日

 楚の国名は「四面楚歌」との言葉で現在にまで伝わる。

 作家のW・G・ゼーバルトは「途方もなく巨大な建築物は崩壊の影をすでにして地に投げかけ、廃墟としての後のありさまをもともと構想のうちに宿している」(『アウステルリッツ』)と指摘する。権勢を誇るための巨大な建物は「長城」と考えてよかろう。カトリック教会の麗々しさはその典型だ。

 それを嗤(わら)うのは簡単だ。だが、その一方で豪邸や高級車を羨む自分がいる。現代における欲望は金銭への執着という形で具体化される。欲望から離れるための修行に「喜捨」(きしゃ)がある。これが六波羅蜜布施行(ふせぎょう)となる。葬儀や法要で僧侶に渡すお布施の布施だ。

 自分で稼いだお金を惜しみなく捨てる。捨てるのが嫌なら使うでも構わない。何かを買う、ご馳走を食べる、映画やコンサートへゆく、書籍を購入する。もう少し頑張って慈善団体に寄付をする。あるいは困窮している友人に返ってこなくても困らない範囲でカネを貸してやる。何かをプレゼントするのもいいだろう。

 この国のシステムはきちんと税金が循環しないところに経済的な致命傷を抱えている。それを打開するには一人ひとりがお金を使うしかないのだ。皆がカネを使えば景気はあっと言う間に浮上する。

 中国戦国時代の大商人は社会や人々に投資をした。それによって社会を改革した。少ない額でも他人に投資してみると、驚くほど人生は豊かになる。

    

2014-10-29

荀子との出会い/『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
・『太公望』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光

 ・戦争を問う
 ・学びて問い、生きて答える
 ・和氏の璧
 ・荀子との出会い
 ・侈傲(しごう)の者は亡ぶ
 ・孟嘗君の境地
 ・「蔽(おお)われた者」
 ・楚国の長城
 ・深谿に臨まざれば地の厚きことを知らず
 ・徳には盛衰がない

『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光


 すでに呂不韋〈りょふい〉たちは、牛馬のごとく舟に積みこまれ、黄河をくだり、南岸に上陸し、稜に近づきつつあった。
 ――こういう現実がある。
 信じられぬおもいで、呂不韋は天を仰ぎ、地をみつめ、人をながめた。弱者とは、いやおうなくこうなるものか。では、強者とは、何であるのか。秦(しん)が強者で趙が弱者であるとすれば、何が秦を強くし、何が趙を弱くしたのか。この世にも貧富の差がある。その差はどこから生ずるのか。いま強国であっても太古から強国ではあるまい。富家も昔から富家ではあるまい。国も家も人も盛衰というものがあり、その盛衰をつかさどる力、あるいはその盛衰をあやつる法則などが、どこにあるのか。
 そういう問いをたれにもぶつけることのできぬ歩行のなかにいるのは、呂不韋ばかりではない。みな黙々とおのれの暗さのなかを歩いている。この500人というのは、いきなり悲運の淵につき落とされた者ばかりではなく、もともと私家の奴隷であった者が徴発された場合もふくまれており、かれらは悲運をひきずっているということになる。

【『奇貨居くべし 火雲篇』宮城谷昌光(中央公論新社、1998年/中公文庫、2002年/中公文庫新装版、2020年)以下同】

 戦乱の中で呂不韋は囚われの身となる。待ち受けていたのは奴隷という立場であった。順境にあっても逆境にあっても彼は問い続けた。問うことと疑うことは似て非なるものだ。偉大な人物はおしなべて我が身の不遇を嘆き運命を疑うことがない。自分を含む世界を突き放して客観的に捉える。なぜなら不幸も幸福も移ろいゆくものであることを自覚しているためだ。万物は流転する。ゆえに流転する万物を達観し好機を待てばよい。

 呂不韋は雉〈ち〉という奴隷の少年と出会う。雉〈ち〉は生まれながらの奴隷であったが、呂不韋と出会い従者となる。

 呂不韋はかつて慎子〈しんし〉という師に学んだ。思想家の慎到〈しんとう〉である。呂不韋は雉〈ち〉に慎子の教えを授けた。ある時、昂然(こうぜん)と慎子を批判する男が現れた。30歳前後と見える男は難解な言葉をやすやすと操った。

 この男から呂不韋は顔つきを厳しく注意される。「逃げたい、逃げたい。かならず逃げてやる。かならず、かならず、と喋りつづけている。うるさいことだ。その声がきこえるのは、わしばかりではない。役人がなんじの貌(かお)をみれば、やはりその声をきき、なんじはもっと逃走しにくいところで働かされることになる。わかったか」。

 それは事実であった。呂不韋は脱走を考えていた。

 呂不韋はうつむき、地をみた。そこに自分の影がある。
 陽翟(ようてき)の実家でみつめていた影とおなじで、さびしく、楽しまない影である。
 呂不韋のまなざしがうつろになったのをみた孫〈そん〉は、
「すっかり萎(しお)れてしまったな。願いが浅いところにあるからだ。それだけ傷つきやすい。花をみよ。早く咲けば早く散らざるをえない。人目を惹(ひ)くほど咲き誇れば人に手折られやすい。人もそうだ。願いやこころざしは、秘すものだ。早くあらわれようとする願いはたいしたものではない。秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという。なんじには、まだ、こころざしがない」
 と、皮肉をまじえていった。おし黙った呂不韋をはげましているのか、怒らせているのか。とにかくこのことばは、多少、呂不韋の活力をうしなった心をゆすぶった。
「こころざしで穣(じょう)邑の門を破れますか。こころざしで穣邑の壁を崩せますか」
「たやすいことだ。こころざしによって、地に潜ることができ、天に昇ることもできる」
 孫はなんのためらいもみせずにいった。
 ――狂人かもしれぬ。
 呂不韋はそう疑った。

 これが荀子(※本書では孫子と表記される)その人であった。呂不韋はまだ十代か。名場面である。成功を望む人は多い。だがそこに「世を直す」「人々を助く」との志を持つ人は稀(まれ)だ。いたずらにランクアップを願う学校、ひたすら勢力拡大に奔走する教団。そのどこに志があるというのか。美しい言葉で理想を語りながら実際は自分たちの利益しか考えていない。

「秘蔵せざるをえない重さをもった願いをこころざしという」――ならば志は飽くまでも孤独の中で生まれ、鍛えられ、培(つちかわ)われてゆくのだろう。それを全体主義的に人民に強制したのが社会主義国家の「同志」なる言葉だ。同志でないと認定されればいとも簡単に粛清された。似た志を持つことはできても、志を同じくすることはできない。そして志は教えることも強いることもできない。なぜなら志とは生きるものであるからだ。

 後日、呂不韋は襟を正して教えを請う。荀子は「教鞭をとりたくても、わしには鞭(むち)がない。不韋〈ふい〉はおのれを鞭で打たねばならない。それを勉強という。それをやるか」と問い、呂不韋は「懸命に、いたします」と応じ、入門を許された。