仏弁護士ジャック・ヴェルジェス、2011年7月7日。
・サルコジ
・ジャック・ヴェルジェス
Reading... 大川隆法・幸福の科学総裁は、金正日氏の霊と金正恩氏の守護霊を招霊し、金正日氏の死の真相を聞いた。守護霊は「注射を打てば死ぬでしょ」と薬物で殺したことを明らかにした。http://t.co/H7FTRJvO
— 深津 貴之 (@fladdict) 2011, 12月 23
諸法無我という言葉(キーワード)が、重苦しい閉塞感の先に光明を見出す切っ掛けとなるだろうか?
自我という実体が幻想なら、私という記号は人やモノとの関係性のなかで常に変化するのなら、
私は「自我の地獄」から解放される。
それは地球上のすべての生物種がそうであるように、
人も生命の循環のなかに組み込まれた一つの生物種であることの証明だろう。
人だけが自我という主体を持つ別個の存在という発想の方が歪に思えてくる。
その関係性は「縁起」であり「慈悲」へと辿り着くのなら、これは幸福のかたちではないだろうか?
【Landscape diary ランスケ ダイアリー】
ただし、私は縁起は人との関係性を含むと思います。世界との繋がりは、生けるもの全てを呑みこんだ連綿と続く循環だと信じたい。
【Landscape diary ランスケ ダイアリー:コメント欄】
生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。
【自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他】
最近になって気づいたのだが、ここで説かれる関係性とは「能動的な関わり」を勧めたものではない。ただ、「これがあれば、あれがある」としているだけである。すなわち教育的な上下関係ではなくして、存在の共時性を示したものと受け止めるべきだろう。
【クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ】
現在、自由というようなものはないし、私たちはそれがどのようなものかも知りません。自由にはなりたいけれども、気づいてみると、教師、親、弁護士、警察官、軍人、政治家、実業家と、あらゆる人がおのおのの小さな片隅で、その自由を阻むことをしています。自由であるとは単に好きなことをしたり、自分を縛る外の環境を離れるだけではなく、依存の問題全体を理解することなのです。依存とは何か、知っていますか。君たちは親に依存しているのでしょう。先生に依存して、コックさんや、郵便屋さん、牛乳を届けてくれる人に依存しています。このような依存はかなり簡単に理解できるのです。しかし、自由になる前に理解しなくてはならない、はるかに深い種類の依存があるのです。つまり、自分の幸せのための、他の人に対する依存です。自分の幸せのために誰かに依存するとはどういうことか、知っていますか。それほどに人を縛るのは他の人への単なる物理的な依存ではなくて、いわゆる幸せを招来するための、内面の心理的な依存です。というのは、誰かにそのような依存をしているときには、奴隷になってゆくからです。年をとるなかで、親や妻や夫や導師(グル)、ある考えに情緒的に依存しているなら、すでに束縛が始まっているのです。私たちのほとんどは、特に若いときには自由になりたいと思うけれども、このことを理解していないのです。
自由であるには、内的なすべての依存に対して反逆しなくてはなりません。そして、なぜ依存するのかを理解しなければ、反逆はできないでしょう。内的な依存のすべてを理解して、本当に離れてしまうまで、決して自由にはなれません。なぜなら、その理解の中にだけ自由はありうるからです。しかし、自由は単なる反動ではありません。反動とは何か、知っていますか。もし私が君を傷つけるようなことを言ったり、悪口を言うなら、君は私に対して怒るでしょう。それが反動で、依存から生まれた反動です。自立はさらに進んだ反動です。しかし、自由は反動ではありません。反動を理解して、それを超えるまで、決して自由ではないのです。
君たちは、人を愛するとはどういうことか、知っていますか。樹や鳥やペットの動物を愛するとはどういうことか、知っていますか。何も報いてくれないかもしれないし、木陰を作ってくれたり、ついてきたり、頼ってくれたりしないかもしれないけれども、世話をし、餌をやり、大事にするのです。私たちのほとんどはそのように愛していないし、私たちの愛はいつも心配や嫉妬や恐怖に閉ざされているために、それがどういうことかもまったく知りません。それは、私たちが内的に人に依存していて、愛されたがっているということを意味しています。私たちはただ愛して、放っておかず、何か報いを求めます。そして、まさにその求めることで、依存するのです。
それで、自由と愛は伴います。愛は反動ではありません。君が愛してくれるから愛するのでは、単なる取り引きで、市場で買える物なのです。それでは愛ではありません。愛するとは、何の報いも求めないし、与えていることさえも思わないことなのです。そして、自由を知りうるのはそのような愛だけです。しかし、君たちはこのための教育を受けていないでしょう。君たちは数学や化学や地理や歴史の教育を受けて、それで終わりです。なぜなら、親の唯一の関心は、君たちがよい仕事を得て、人生で成功するように助けることですから。親がお金を持っているなら、君たちを外国に行かせてくれるかもしれません。しかし、親のすべての目的は世間と同じで、君が豊かになり、社会の中で立派な地位を得ることなのです。そして、上に昇れば昇るほど、君たちは他の人々にもっと多くの悲惨を引き起こします。なぜなら、そこにたどり着くために競争し、非情にならなくてはならないからです。それで、親は野心と競争があり、まったく愛のない学校に子供を送ります。そのために、私たちのところのように社会は絶えず腐敗してゆき、絶えまない闘いの中にあるわけです。そして、政治家や裁判官、いわゆる土地の貴族が平和について語っても、何の意味もないのです。
そこで、君と私はこの自由の問題全体を理解しなくてはなりません。愛するとはどういうことかを自分自身で見出さなくてはなりません。なぜなら、愛していなければ、決して思慮深く、注意深くなることはできないからです。決して思いやることができないからです。思いやるとはどういうことか、知っていますか。大勢の素足が歩く道に尖った石が落ちているのを見たら、それをどけるのです。頼まれたからではなく、他の人を気づかうのです。その人が誰であろうと問題ではありません。その人にはまったく会わないかもしれません。木を植えて大事にしたり、河を見て地球の豊かさに歓喜する。飛んでいる鳥を観察し、その飛翔の美しさを見る。この生というとてつもない動きに敏感で、開いている――これらには自由がなくてはなりません。そして、自由であるには、愛さなくてはなりません。愛がなければ自由はありません。愛がなければ自由は単に、まったく価値のない考えにすぎません。それで、自由がありうるのは、内なる依存を理解して離れ、そのために愛とは何かを知る人だけなのです。そして、新しい文明、違う世界をもたらすのは、彼らだけでしょう。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】
私は、バッハにおけるキリスト教の役割を軽視する考えには、絶対に反対である。バッハにとってこれほど大切だったものを尊重し、その内容を知り、その影響を考えることは、正しいバッハ理解のための不可欠の条件であると思う。その意味では、聖書の勉強がたいへん役に立つ。
だが、だからといってバッハを、キリスト教に閉じ込めてはならない。バッハを教会で聴くのはいいものだが、演奏の場を教会に限るべきではないだろう。それと同じように、バッハのメッセージも、当時の教会の教えにすべて還元されるべきではない。むしろわれわれは、バッハがその教えの上に立ちながら、いかに国境と時代を超えた作品を作り出したかに、目を注ぐべきである。
バッハの人間理解に深さが感じられるのは、彼が人間の概念を、いつも人間を超えたものとの関係においてとらえているからではないだろうか。
【『J・S・バッハ』礒山雅〈いそやま・ただし〉(講談社現代新書、1990年)】
不覚にも笑った(笑)【名作のタイトルに一文字足すとよく分からなくなる】
キャプテン右翼。
天空の茨城ラピュタ。
鳥人間失格。
吾輩は猫耳である。
マッチョ売りの少女。
面白い巨塔。
海辺のフカフカ。
一休許さん。
老人と海苔。
ローマの定休日。
ああ無表情。
はしょれメロス。
— 猫縞 (@neko_666) 2011, 12月 11