2009-11-18

自由の問題 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 クリシュナムルティは前回の部分で、「私達は安心したいがゆえに地位を欲し、肩書きによって自信や自尊心を手中にし、権力と権威を目指して生きている」。しかしながら、「何かに【なろう】という要求がある限り、自由はどこにもない」と語った。

 そして、「何かに【なろう】」――つまり、「理想」「模範」「目標」だ――としている姿勢を「模倣」であると鋭く糾弾する――

 そこで、教育の機能とは、君たちが子供のときから誰の模倣もせずに、いつのときにも君自身でいるように助けることなのです。これはたいへんに行いがたいことです。醜くても、美しくても、妬んでいても、嫉妬していても、いつもありのままの君でいて、それを理解する。ありのままでいることはとても困難です。なぜなら君は、ありのままは卑劣だし、ありのままを高尚なものに変えられさえしたらなんとすばらしいだろう、と考えるからです。しかし、そのようなことには決してなりません。ところが、実際のありのままを見つめて、理解するなら、まさにその理解の中に変革があるのです。それで、自由とは何か違ったものになろうとするところにも、何であろうとたまたましたくなったことをするところにも、伝統や親や導師(グル)の権威に従うところにもなく、ありのままの自分を刻々と理解するところにあるのです。
 君たちは、このための教育を受けていないでしょう。君たちの教育は、何かになるようにと励ましますが、それでは君自身を理解することにはなりません。君の「自己」はとても複雑なものなのです。それは単に学校に行ったり、けんかをしたり、ゲームをしたり、恐れている存在というだけではなく、隠れており明らかではないものでもあるのです。それは、君の考えるすべての思考だけではなく、他の人たちや新聞や指導者から心に入ったすべてのことからできています。そして、えらい人になりたがらないとき、模倣をしないとき、従わないときにだけ、そのすべてを理解することができるのです。それは本当は、何かになろうとする伝統のすべてに対して反逆しているとき、ということです。それが唯一の真の革命であり、とてつもない自由に通じています。この自由を涵養することが教育の本当の機能です。
 親や教師、そして君自身の欲望も、君が幸せで安全であるために何らかのものと一体化してほしいのです。しかし、智慧を持つには、これらの君を虜にし、潰してしまうすべての影響力は打ち破らなくてはならないでしょう。
 新しい世界の希望は、言葉だけではなくて実際に、何が偽りなのかを見て、それに対して反逆しはじめる君たちにあるのです。それで、正しい教育を求めなくてはならないわけです。というのは、伝統に基づいたり、ある思想家や理想家の体質にしたがって形作られたりしていない新しい世界を創造できるのは、自由の中で成長するときだけですから。しかし、君が単にえらい人になろうとしていたり、高尚なお手本を模倣しているかぎり、自由はありえません。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 ありのままの自分であれ、一切の伝統と権威に反逆せよ――まるでブッダ、まるで日蓮そのものである。違いを見つけることの方が難しそうだ。カーストという差別制度が社会に張り巡らされた後にブッダはインドに生まれ、武力に物を言わせる武家政治が台頭し、天変や地震が相次ぐ鎌倉時代に日蓮は登場した。双方ともそれまでの常識を徹底的にあげつらい、批判に批判を加え、人間という人間に語り抜いた。民の呻吟(しんぎん)に耳を傾け、苦悶をひたと見つめる中から真実の思想は生まれ出る。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)は「過去世(かこぜ)の業(ごう)」を持ち出して「今世の差別」を正当化した。そして鎌倉時代の念仏は「この世で幸せになることは決してできないが、死んだ後に西方十万億の彼方の極楽浄土へ往生(おうじょう)できる」と説いた。いずれも、我々が知覚・思考し得ない「前世」や「あの世」の論理をもって、人々を「現状維持」の方向へ誘導する邪論ともいうべき代物だ。こうした思想が結果的に権力を容認し、擁護し、強化していることを見逃してはならない。

 印刷技術、通信、マスメディアが発達した現代社会において、「条件づけ」はますます容易になっている。隠された広告戦略が大衆の欲望に火を点ける。そして、否応(いやおう)なく情報の受け手という立場に貶(おとし)められた視聴者は、テレビの前でどんどん卑小な存在と化してゆく。我々は毒性が高いことを知りながらも、五感が刺激されるために依存性から抜け出すことがかなわなくなっている。まるで、LSDや覚醒剤のようだ。

「まだ殺されたわけではないから何とかなる」――甘いね。既に「生ける屍(しかばね)」だよ。あるいは、とっくに何度も死んでいる可能性すらある。

 偽りを見抜け。さもなければ、自分自身が偽りの存在となってしまうからだ。まなじりが裂けるほど目を見開いて、闇の向こう側にあるものをしかと捉えよとクリシュナムルティは教えている。

(※「自由の問題」は今回にて終了)

恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ




生存適合OS/『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子

2009-11-17

自由の問題 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

「深い洞察」とは、自分の思考・精神・生の過程を束縛している“鎖”を自覚することだとクリシュナムルティは語った。深海の如き深さに達した時、精神は波立つことがなくなる。すると、鏡に映し出されたように「己の歪(ゆが)んだ姿」が自覚されるのだ。そこに「気づくか」「気づかないか」の違いが人の運命を分かつ。

「君たちは恐れている」ともクリシュナムルティは語った。我々が人生で目指しているのは成功であり、地位であり、人々からの称賛である。「周囲の人々からよく思われたい」「願わくは羨望の的となりたい」と日々涙ぐましい努力を重ねている。全員が同じゴールを目指しているため、好むと好まざるとにかかわらず順位が定まる。少しばかり運のよかった者は「勝ち組」と呼ばれているが、彼等は数多く存在する「負け組」の労働力から搾取しているだけに過ぎない。資本主義社会の競争原理とは、「資本の奪い合い」のことなのだから。

 伝統的な価値観は人々を、なかんずく子供達を画一化する。あたかも、スーパーの商品棚に陳列されている商品のように。少しでも傷があれば不良品として棚から外され、捨てられる運命にある。だからこそ、我々は社会という名の棚に必死でしがみつく。外されてしまえば、親兄弟からも白い目で見られる。このようにして我々は「世間の目」にどう映るかという価値観しか持てなくなったのだ。

 安心を求めるのは、「恐怖」と「不安」の裏返しである。居心地のいいソファに座っていても、心が休まることは決してない。社会、集団、コミュニティから受ける圧力によって、心は常にささくれ立っている。そして、傷つき、万力のような力でもって変形させられるのだ。この「変形」に従わせることが、実は教育の目的となっている。

 私たちのほとんどは、安心したいのではないですか。なんてすばらしい人たちだ、なんて美しく見えるんだ、なんととてつもない智慧があるんだろう、と言われたいのではないですか。そうでなければ、名前の後に肩書きをつけたりしないでしょう。そのようなものはすべて、私たちに自信や自尊心を与えてくれます。私たちはみんな有名人になりたいのです。そして、何かに【なりたく】なったとたんに、もはや自由ではないのです。
 ここを見てください。それが自由の問題を理解する本当の手掛かりだからです。政治家、権力、地位、権威というこの世界でも、徳高く、高尚に、聖人らしくなろうと切望するいわゆる精神世界でも、えらい人になりたくなったとたんに、もはや自由ではないのです。しかし、これらすべてのことの愚かしさを見て、そのために心が無垢であり、えらい人になりたいという欲望によって動かない人――そのような人は自由です。この単純さが理解できるなら、そのとてつもない美しさと深みも見えるでしょう。
 というのも、試験はその目的のために、君に地位を与え、えらい人にするためにあるからです。肩書きと地位と知識は何かになることを励まします。君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。あるいは君たちは何かの英雄の手本を模倣したり、大師や聖人のようになろうとします。それで、君たちは決して自由ではないのです。大師や聖人や教師や親戚の手本に倣(なら)うにしても、特定の伝統を守るにしても、それはすべて君たちのほうの、何かに【なろう】という要求を意味しています。そして、自由があるのは、この事実を本当に理解するときだけなのです。(※強調点の箇所を【 】で括った)

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 我々が思い描いている自由は、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)に支配された世界だった。静かに振り返ってみよう。どのような綺麗事を吐いたところで、我々が望む自由は間違いなく欲得づくで好き勝手なことができる立場ではないのか? つまり、「欲望を発散する自由」だったってわけだよ。どうりで、醜さと底の浅さが蔓延しているわけだ。

 真の自由とは「状況」や「環境」を意味するものではない。「魂の自由」のみが真の自由であろう。自由な人は獄につながれていても尚自由である。ネルソン・マンデラは27年間に及ぶ獄中生活を経て自由になったわけではない。彼の精神は牢獄の中でも自由であったはずだ。魂の牢獄につながれていたのは、塀の外側にいる南アフリカ国民であった。

2009-11-16

自由の問題 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 私にとって「運命の一冊」となった。それまでに3冊読んできたが、本書から受けた衝撃とは比べるべくもない。心の奥からせり上がってくる何かがある。そして、どうしようもない勢いで奔流の如くほとばしる何かがある。やがて渦を巻き、上下に振り回され、螺旋(らせん)状に精神が拡散されるのだ。

 深い感動を及ぼすのは、その思想ではない。言葉でもない。それは、クリシュナムルティの「一念」としか言いようがないものだ。

 訳者の解説によれば、本書での質疑応答はいつどこで行われたものか明記されていないが、1950年代末から1960年代初めのものと推測され、その内容からインドのラジガートにあるクリシュナムルティ・スクールで行われた可能性が高いとのこと。27のテーマでまずクリシュナムルティが短い講話(本文ではいずれも4ページ前後となっている)をし、その後で子供達からの質問を受けている。

 次に紹介するのは「自由の問題」というテーマの講話であるが、少々長いので3回に分けて掲載する。クリシュナムルティ思想のエッセンスが凝縮している――

 君たちと自由の問題について話しあいたいと思います。これはとても複雑な問題なので、深い研究と理解が必要です。自由については信教の自由や自分のしたいことをする自由について、多くの話を聞くでしょう。これらについて学者は多くの書物を書いています。しかし、私たちはとても単純、率直にこの問題に迫れるし、たぶんそれによって本当の解決に到るだろうと思うのです。
 日が沈み、恥ずかしそうな新月がちょうど木立に掛かる頃、君たちは立ち止まり、西のすばらしい夕焼けを観察したことがあるのでしょうか。その時刻にはしばしば、河はとても穏やかですし、その国には橋や橋を渡る列車、優しい月、まもなく暗くなって星と、あらゆるものが河面に映っています。まったく美しいのです。そして、美しいものを眺め、観察し、注意のすべてを向けるには、心は心配事から自由でなくてはならないでしょう。問題や悩みや思考に囚われていてはなりません。本当に観察できるのは、心がとても静かなときだけです。そのとき、心はとてつもない美しさに敏感であるからです。そして、自由の問題への手掛かりは、たぶんここにあるでしょう。
 そこで、自由とはどういうことなのでしょう。自由とは、たまたま自分に合ったことをしたり、好きなところに行ったり、何であろうと好きなように考えるということなのでしょうか。このようなことはどちらにしてもするでしょう。単に自立していさえすれば、自由ということになるのでしょうか。世界の多くの人々は自立はしていますが、ほとんどが自由ではありません。自由とは大いなる智慧を意味しているでしょう。自由であるとは智慧があることなのですが、自由になりたいと願うだけでは智慧は生じません。それは、環境のすべて、絶えず自分に迫りくる社会、宗教、親と伝統の影響力を理解しはじめるときにだけ、生じてきます。しかし、さまざまな伝統の影響力――これらすべてを理解して、そこから自由になるには、深い洞察が必要です。しかし、君たちは内的に怯えているために、たいがいはそれらに屈してしまいます。人生で良い地位が得られるのか、と恐れています。宗教家が何と言うだろうかと恐れています。伝統に従っているのか、正しいことをしているのかと恐れています。しかし、自由とは本当は、恐怖や衝動がなく、安心したいという欲求のない心境です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 自信に満ちた言葉から始まり、あっと言う間に深い領域に辿り着いている。クリシュナムルティは自分の心の動きを観察することで、一切の答えは見つかるとしている。この他にも「敏感」「智慧」「愛」「条件づけ」などのキーワードがあるが、根本は「観察」「洞察」だ。それは明鏡止水の境地から為される。

「自由の問題への手掛かり」として、「心配事からの自由」「問題からの自由」「悩みからの自由」を説いている。いずれも「執着」している精神状態を指している。つまり、何かに囚(とら)われている心の様相といえる。「気になる」というのがその人の生命の境涯を示している。

 それにしても、何と美しい情景だろう。これこそクリシュナムルティの「内なる世界」なのだ。美しい何かは、美しい心にしか映らない。外なる美と内なる美との感応が、さざ波のように伝わってくる。

 大衆消費社会は幸福を「物の中」へ追いやってしまった。幸不幸の違いは、持てる者と持たざる者の違いでしかなくなってしまった。そして、金で買える幸福はいつだってはかないものだ。例えば新車を購入したとしよう。あなたは幸福だ。さぞかし幸福であろう。ところがその新車で死亡事故を起こしたらどうなるか? 幸福は不幸へと呆気(あっけ)なく反転する。むしろ、新車を購入したこと自体が不幸であったようにさえ思えてくる。

 人々が飽くことなく競争する社会では、成功することが幸福の要件となる。すわわち「地位」だ。地位にはお金も名誉も付いている。学校教育の目的は「成功者」を輩出することだ。だから、小学校・中学校はいかに名門校に生徒を送り込んだかを競い、高校はといえば東大を始めとする一流大学に何人の合格者を出したかを争っているのだ。

 本当に確固たる地位を築けば幸せなのか? そんなことはない。地位があっても病気になればアウト。地位があっても家庭不和とかね。地位があるから強請(ゆす)られる場合もあるだろうし、地位があるために殺されるケースまである。

 それでも尚我々は地位の獲得に余念がない。なぜなら、それ以外の価値観を知らないからだ。

「安心への欲求」は恐怖の裏返しである。恐怖を感じればこそ安心したいと願う。今この瞬間、心に安心を抱いている人は多分何も望まないはずだ。そのような人は自分のことよりも、他人のために何ができるかを考えていることだろう。

 成功を欲するのは、我々が伝統的な価値観に「条件づけ」されている証拠に他ならない。つまり、幸不幸の尺度すら自由に持てなくなってしまっているということだ。

 今日はここまで。疲労で頭が回らないが、クリシュナムルティを紹介したいあまり意を決してキーを叩いた次第である。読みにくい部分はご容赦願いたい。



宗教とは何か?
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編
邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ

2009-11-08

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二


『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

 ・人間に自由意思はない

『未来は決まっており、自分の意志など存在しない。 心理学的決定論』妹尾武治
『できない脳ほど自信過剰 パテカトルの万脳薬』池谷裕二


 脳科学の最新トピックを紹介する軽めの科学エッセイ。といっても、軽いのは文体であって内容はヘビー級だ。恐るべきスピードで進展する科学の世界は刺激に満ちていて昂奮させられる。

 では早速本題に入ろう――

 科学的な見地としては、自由意思はおそらく“ない”だろうといわれています。

【『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二〈いけがや・ゆうじ〉(祥伝社、2006年/新潮文庫、2010年)以下同】

 マジっすか? ってこたあ、人間はただ反応しているだけなんスか? 池谷さんよ、証拠を出して下さいよ、証拠を!

 ヒトと違って、ヒルの脳は単純です。神経細胞も全部で数万個しかありません。これらの神経はどうネットワークを作っているのかもだいたいわかっています。つまり、実験のツールとして、ヒルというのは優れた標本なのです。この神経回路をしらみ潰(つぶ)しに調べていくと、泳いで逃げるか、這って逃げるかを、どの神経細胞が決定しているかがわかります。
 実際に、突き止められたのです。208番という番号のついた神経細胞がそれでした。

 神経細胞には、電気活動としての「ゆらぎ」があります。
 神経の細胞膜の電気が、ノイズとして、とくに理由なく「ゆらぐ」のです。空中の風と同じで、明確な原因があるというわけではなくて、システムというのは、そこに存在するだけでゆらいでいます。つまり、神経細胞の膜の電気が、たくさん溜まっているときと、少ないときとがあるわけです。
 そして、わかったことはこうだったのです。細胞膜の電気がたくさん溜まっているときに、刺激が来ると泳いで逃げる。逆に、溜まっていないときに刺激が来ると、今度は別の行動、つまり這って逃げたのです。実にそれだけのことだったのです。〈自由意思〉、〈選択〉をとことん突き詰めていくと、要は、「ゆらぎが決めていた」にすぎなかったのです。刺激がきたときに、たまたま神経細胞がどんな状態だったかによって行動が決まってくるわけです。
 私たちの高度な〈選択〉もよく考えてみると、絶対的な根拠なんてものはありません。

 エ? ヒルと人間を一緒にするんですか? 確かに他人の生き血を啜(すす)っているような連中はいる。ヌラァーっとした性格の男も存在する。やっぱりヒルと遜色がないのか? ないね。違うとすれば記憶の量だけだろう。

 文化、価値観、善悪、損得、好き嫌い、欲望、願望、希望、理想、そして時間の概念――これらは全て記憶に依存しているのだ。決断とは、記憶の中から瞬間的に整合性を導き出す瞬発力を意味する。実は足し算引き算程度の関数しか働いていないように感じる。

 これがだ、脳内の電気信号による「ゆらぎ」に過ぎないとすれば、我々の人生――つまり選択の積み重ね――ってえのあ、風まかせということになる。「愛は風まかせ」なのは知っていたが、よもや脳まで風まかせだったとは……。

 でも、よく考えてみると自然界の一切がゆらめいている。光と風、雲や波、そして川……。何も気体と液体に限ったことではない。固体だって時間とともに風化するのだ。長大な時間軸から見ればやはり流動的なのだ。フーム、諸行無常か。そして万物は流転する。

 結構ショッキングな事実ではあるが、「なあんだ、ゆらぎだったのね」と安心するような気持ちにもなる。決断には責任が伴うが、ゆらぎだと思えば何度でもやり直しができそうな気になってくる(笑)。昨日のゆらぎで失敗したなら、今日反対方向に揺さぶればいいだけの話だ。

 ただ、こんな話を知ってしまうと選挙結果なんか、まるで信用できなくなる。日本人の脳がたまたま民主党にゆらいでしまったということなのだろう。

 どうやら、条件反射の能力を磨く必要がありそうだ。



自由意志は解釈にすぎない
瞑想の世界を見ることができる情報機器/『ひとりっ子』グレッグ・イーガン
意識は膨大な情報を切り捨て、知覚は0.5秒遅れる/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
人間の脳はバイアス装置/『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
デカルト劇場と認知科学/『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー

2009-10-27

理性の開花が人間を神に近づけた/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志


 ・民主的な議員選出法とは?
 ・統治形態は王政、貴族政、民主政
 ・現在の議会制民主主義の実態は貴族政
 ・真の民主政とは
 ・理性の開花が人間を神に近づけた
 ・選挙と民主政
 ・貴族政=ミシュランガイド、民主政=ザガットサーベイ

『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹

 西洋史における中世は魔女狩り(15-17世紀/及び異端審問、12世紀-)という狂気で終焉を告げる。近代への扉を開けたのは、イタリア・ルネサンス(14-16世紀)と宗教改革(16世紀)であった。ただし注意が必要で、魔女狩りに関してはルター派の方が熱を上げていた。

 教会の権威が肥大化を極め、神の名の下で罪なき人々が火あぶりにされる中で(魔女は生木でゆっくりと焼かれた/『魔女狩り』森島恒雄)、科学・数学の大輪の花が次々と咲いた。まさに百花繚乱といったところ。この頃、グーテンベルクが活版技術を完成(1445年頃)させたが、印刷は宗教書に限られていた。

 つまり中世まで、学問・芸術は教会の管理下に置かれていたということだ。このため、学問をするためには教会関係者になる必要があった。中世の科学者のほぼ全員が神学を収めているのはこうした時代背景による。ただし、当時の科学者の殆どは魔女の存在を信じて疑わなかった。人間は時代の支配から免れない、ということだ。

 ただし、17世紀において、世界に冠する科学的な認識は、キリスト教的な枠組の外へ出ることはなかった。そこでは、神が支配する世界における人間の位置づけが変わっただけである。すなわち、神のみが全てを知るのではなく、人間もまた、理性によって、世界に関する知識を持ち得ると考えられるようになったのである。しかし、世界を知り得るようになっただけで、世界を創り、それを支配するのは神であるという前提は変わらなかった。実際、万有引力の法則で有名なニュートンにしても、科学者であったと同時に、熱心な聖書研究者でもあった。当時、世界を知るためには、神の教えを知らねばならないと考えられていたからである。

【『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志〈やくしいん・ひとし〉(PHP研究所、2008年)】

 神は全知全能だ。そこには人間の理想が込められていた。古代の人々はきっと「無知の知」を自覚していたのだろう。知の発見と遭遇するたびに、人間は世界の広さを知り、その調和に驚くあまり「創造者」を思い描いたとしても不思議ではない。

 フン、笑わせるじゃないか。全知全能だと? じゃあ私が昨日の夜食べたものを当ててみせろよ。アン? 数年前に買ったばかりの自転車で私が激しく転倒した場所を言ってみろよ。大体だな、あんたが本当に存在するなら、一度でも下界に降臨して姿を見せたらどうなんだ?

 西洋で総合的な学問が実ったのは他でもない。この世界が「神によって創られたこと」を証明するためだった。中世に至るまで教会はアリストテレスにしがみ続けた(チャールズ・サイフェ『異端の数ゼロ 数学・物理学が恐れるもっとも危険な概念』)。

 理性の開花が人間を神に近づけた。ゲーデルの不完全性定理は、神の姿を蜃気楼のように淡いものとしてしまった。しかしながら、西洋において神の影が薄くなった形跡はない。結局、理性と感情とは別物なのだ。

 アメリカ大統領は就任する際、聖書に手を置いて宣誓する。完全な政教一致だ。キリスト教が世界で幅を利かせている間は、十字軍や魔女狩りがなくなることはない。



魔女狩りの環境要因/『魔女狩り』森島恒雄