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自由の問題 1
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自由の問題 2
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自由の問題 3
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欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
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教育の機能 1
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教育の機能 2
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教育の機能 3
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教育の機能 4
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縁起と人間関係についての考察
・宗教とは何か?
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無垢の自信
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真の学びとは
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「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
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時のない状態
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生とは
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習慣のわだち
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生の不思議
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宗教とは何か?
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クリシュナムルティ著作リスト
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必読書リスト その五
宗教は人を救い、人を悩ます。教団は人々に希望を与え、そして人々をコントロールする。
大抵の場合、信仰は知性を眠らせることで維持される。何らかのやり甲斐や張り合いを信者は自己実現と錯覚する。エキストラから端役(はやく)に昇進したようなものだろう。そして懐疑の刀を抜いた者は教団内で居場所を失う。コミュニケーションが拙いためだ。中途半端な視線の高さは背伸びした位置と変わりがない。もどかしい言葉が相手に伝わらないため、懐疑が智慧に至らず疑心暗鬼にとどまることも多い。その孤独に耐えられず再び中途半端な信仰で惰性のレールを歩む。
そもそも宗教とは何か?
Q――神の崇拝が真の宗教ではないでしょうか。
最初に、何が宗教では【ない】のかを見出しましょう。それが正しいアプローチではないですか。何が宗教では【ない】のかを理解できるなら、そのときはたぶん他の何かを知覚しはじめるでしょう。それは汚れた窓を拭き清めるのに似ています。そこからとても明確に見えはじめます。では、宗教ではないものを理解して、心から拭き取りましょう。「考えてみよう」とか言って、ただ言葉をもてあそぶだけではいけません。たぶん君にはできるでしょう。しかし、大人たちのほとんどはすでに囚われています。宗教ではないものに安楽に納まって、動揺したくはないのです。
それで、何が宗教ではないのでしょう。考えたことがありますか。宗教とみなされているもの――神や他のたくさんのものへの信仰については何度も何度も言われてきたでしょう。しかし、何が宗教では【ない】のかを見出すようにとは誰も言ったことがありません。そして、今、君と私は自分自身で見出してゆきましょう。
私や他の誰かの話を聴くときでも、言われることを単に受け入れないで、よく聴いて、問題の真相を識別するのです。何が宗教でないのかをひとたび自分で知覚できるなら、そのときは宗教家や本も君を生涯欺けないし、恐怖感が幻想を生んで、幻を信じたり、幻に従ったりすることもないでしょう。何が宗教ではないのかを見出すには、日常のレベルから始めなくてはなりません。そこから登ってゆけるのです。千里の道も一歩からです。最初の一歩が最も重要な一歩です。それでは、何が宗教ではないのでしょうか。儀式は宗教でしょうか。何度も何度も礼拝(プージャ)を行う――それが宗教でしょうか。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】
インドは精神大国であり宗教大国でもある。経済発展を遂げる現代にあっても尚、苦行にいそしむ修行者が存在する。
インダス文明(紀元前2600年-紀元前1800年)の頃から瞑想が行われ、その後ヒンドゥー教と仏教がせめぎ合い、豊穣なる大地は混沌とした精神のジャングルを形成した。悠久の大河ガンジス川では沐浴する人々と流された遺体が行き交う。
10代の少年少女が繰り出す質問に対してクリシュナムルティは問い返す。「何が宗教では【ない】のか?」と。
背理法的なアプローチといってよい。疑うことは自立に支えられている。幼児は母親を疑うことを知らない。そして大いなる疑問が大いなる答えを導く。ゆえに「最初の一歩が最も重要な一歩」となる。エベレストを目指す一歩と近所を散歩する一歩は、同じ一歩でも中身が違うのだ。覚悟と決意を欠いた一歩は風雨をはねのけることができない。
クリシュナムルティは問う。「儀式は宗教でしょうか?」。儀式は形式である。形式は宗教ではない。民俗宗教においてはコミュニティを維持する目的で宗教性よりも儀式性が重んじられたと考えられているが、言葉と政治が発達すれば儀式は祭りに格下げされる。宗教と儀式がセットであるのは確かだが、儀式そのものは宗教ではない。
真実の教育とは、【何を】考えるのかではなく、【どのように】考えるのかを学ぶことなのです。どのように考えるのかを知って、本当にそうする力があるのなら、そのとき君は自由な人間で、教義や迷信や儀式から自由です。したがって、何が宗教かを見出すことができるのです。
宗教に束縛された精神は宗教を見出せない。何と鋭い指摘であろうか。ここでいう「自由」とは依存の不在をも意味している。
明らかに、儀式は宗教ではありません。なぜなら、儀式を執り行うときには、受け継がれてきたしきたりを単に反復しているだけですから。儀式を執り行うときには、ある種の楽しみは見つかるでしょう。ちょうど、他の人が酒やタバコにそれを見出すように、です。しかし、それが宗教でしょうか。儀式を執り行うとき、君は何も知らないことをしています。お父さん、おじいんさんがそうします。そのため君もそうします。しなければ彼らは叱りつけるでしょう。それでは宗教ではないでしょう。
クリシュナムルティの利剣が伝統と常識をバッサリと斬り捨てる。「儀式に込められた精神性」といえば聞こえはよいが、儀式という形式が精神性を失わせることもまた確かなのだ。儀式は過去に依存している。伝統は宗教ではない。芸能である。
そして、寺院には何があるのでしょう。人間が自分の想像に任せてこしらえた彫像です。その像は象徴なのかもしれません。しかし、それでも単なる像であり、本当のものではありません。象徴や言葉はそれが表現しているものではありません。「ドア」という言葉はドアではないでしょう。言葉はそのものではありません。寺院に行って、礼拝します。何をでしょう。象徴とされる像を、です。しかし、象徴は本当のものではありません。それなら、どうしてそこへ行くのでしょう。これらのことは事実です。私は非難していません。そして、これらが事実である以上、誰が寺院に行くのか、それが不可触民か、バラモンか非バラモンかということでどうして悩むのでしょう。誰が気にするでしょう。大人たちは象徴を宗教にし、そのためにけんかをし、闘って、虐殺しようとしていますね。しかし、そこには神はいないのです。象徴には決して神はありません。それで、象徴や像の崇拝は宗教ではないのです。
神学論争の瑣末さは微塵もない。骨太のテーマを次々と叩きつけることで、宗教の方が音(ね)を上げるのではないか。そんな気にさえなる。言葉は概念であって実体そのものではない。言葉はコミュニケーションのツールであって、双方が頭の中で翻訳しながら意味をまさぐっているのだ。だから時に誤解が生じる。
神という言葉は神そのものではなく、マンダラは宇宙そのものではない。ここはビックリマークを100個くらい付けたいところだ。
そして、信仰は宗教でしょうか。これはもっと複雑です。私たちは近くから始めました。今は、もう少し先に進みましょう。信仰は宗教でしょうか。キリスト教徒はある方法で信じ、ヒンドゥー教徒は他の方法で、イスラム教徒はさらに他の方法で、仏教徒もさらに他の方法で信じていて、みんな自分たちをとても宗教的な人間だとみなしています。みんなおのおのの寺院や神、象徴や信仰を持っています。それが宗教でしょうか。神やラーマ(※古代インドの国民的叙事詩『ラーマーヤナ』の主人公)やシーター(※前に同じ)やイーシュヴァラ(※自在天・自在主。ヒンドゥー教三大神の一つであるシヴァの異名)やそのようなものを信じているとき、それが宗教でしょうか。なぜそんな信仰を得たのでしょう。お父さんやおじいさんが信じているから、君も信じます。あるいは、シャンカラ(※紀元700-750年頃のインドの宗教哲学者。ヴェーダーンタ学派における不二一元論の開祖。宇宙の根本原理ブラフマンの知識による輪廻からの解脱を説いた)やブッダのような師の言ったとされる言葉を読み、それを信じて、真実だと言います。あなたたちのほとんどはギーター(※『バガヴァッド・ギーター』。古代インドの大叙事詩『マハーバーラタ』の一部をなす宗教哲学的詩篇)の言うことを信じているだけで、そのために他のどんな本でもするように、単純明快にそれを検討してみません。何が真実なのかを見出そうとしないのです。
信仰も宗教ではない。信じる行為が宗教であればマルチ商法も宗教たり得る。「わからない」から「信じる」のだ。大乗仏教では信解(しんげ)、智解(ちげ)などと使い分けているが、こんなものはまやかしだ。そんな専門用語は世間じゃ誰も使っていない。「理解」だけで十分だ。
1+1=2であることがわからなければ、信じることが正しいのだろうか? 社会機能としては正しいかもしれないが、それでは「反応を強いられる」ことになる。お手をさせられる犬と変わらない。信仰とは犬になることなのだろうか? 御意。神はエサを下さるのだから。
我々が信仰と考えていることの殆どは伝統と過去に依存するものだ。教義といっても所詮「他人の言葉」にすぎない。虎の威を借る狐と聖書を振りかざす牧師はよく似ている。既に示された通り、言葉が象徴である以上、教義は宗教そのものではあり得ない。真の宗教性はもっと深い位置に存在するのだ。
儀式は宗教ではなく、寺院に行くことは宗教ではなく、信仰は宗教ではないことはわかりました。信仰は人々を分断します。キリスト教徒は信仰を持ち、そのために他の信仰の人たちからも、自分たちの中でも分裂しています。ヒンドゥー教徒は自分たちをバラモンや非バラモン、ああだ、こうだと信じているために、永久(とわ)に憎しみでいっぱいです。それで、信仰は憎しみや分裂や破壊をもたらします。明らかにこれは宗教ではありません。
世界中の宗教指導者はクリシュナムルティの前に頭(こうべ)を垂れるべきだ。そして潔く信者の前で謝罪するのが当然ではないか。彼らがやってきたことは修行と称して仕事を与え、寄付金を要求し、他の宗教を憎悪させ、世界をバラバラにしただけだ。
それでは、宗教とは何なのでしょう。窓を磨き清めたなら、それは儀式を執り行うことを実際にやめ、すべての信仰を捨て、どんな指導者や導師(グル)に従うこともやめたということであり、そのとき心は窓のようにきれいに磨かれ、清らかです。そこから外がとても明確に見えるのです。像や儀式、信仰や象徴、すべての言葉、真言(マントラ)、反復、すべての恐怖心を心から拭き清めるとき、見えるものは本当のもの、時のないもの、永久(とわ)のものでしょう。それは神と呼べるかもしれません。しかし、そのためには非常に大きな洞察と理解と根気が必要です。これは、宗教とは何かを本当に探究し、それを日に日に終わりまで追及する人たちだけのものなのです。このような人たちだけが、真実の宗教とは何かを知るでしょう。残りは単に言葉を口にしているだけであり、彼らの装飾や装身具のすべて、礼拝(プージャ)や鐘を鳴らすこと――すべては何の意義もないただの迷信です。本当のものを見出すのは、いわゆる宗教のすべてに対して心が反逆しているときだけです。
常識が瞳を曇らせる。我々の思考は「こうあるべきだ」「かくあらねばならない」でいっぱいになっている。反逆とは時代や社会の重力に抗して自らの足で立つことだ。反逆とは
単独性(ただひとりあること)の異名であり、「
犀(さい)の角(つの)のようにただ独り歩む」者である。
手放した後でつまらない荷物だったことに気づく。今の自分が大切に思っている事柄が実は不要な荷物であったりする。捨てるべきものを全て捨て去って、身も軽やかに自分自身の旅路を歩むことが宗教性に通じる。そして最後に捨てるのは「自分」だ。