・目黒真澄の名訳
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『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊
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『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
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日本の近代史を学ぶ
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必読書リスト その四
大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に非常な貢献(こうけん)をする人が、30年に一度か、60年に一度くらい出現することがある。そうした人物は、死後20~30年の間は、ただ功績をもって知られているのみであろうが、歳月の経(た)つにしたがって、功績そのものが、その人格に結びついて、ますます光りを放つ時がくる。たとえば軍人であるとすれば、その統率(とうそつ)した将士の遺骨が、墳墓(ふんぼ)の裡(うち)に朽(く)ちてしまい、その蹂躙(じゅうりん)した都城(とじょう)が、塵土(じんど)と化してしまった後までも、なおその人格と、人格より発する教訓とが、永遠に生ける力となってゆくからである。乃木大将は実にかくのごとき人であったのだ。
乃木大将は、日本古武士の典型であり、軍人にして愛国者であった。そして1912年(明治45年)9月、明治天皇の崩御(ほうぎょ)し給(たま)うと同時に、渾身(こんしん)の赤誠(せきせい)を捧(ささ)げ、畢生(ひっせい)の理想を纏綿(てんめん)させていた。その対象を失ってしまったため、この上はいたずらに生きながらえるより、むしろ白刃(はくじん)を取って、自(みずか)ら胸を貫(つらぬ)くにしかずと思い定めたのである。
【『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン:目黒真澄〈めぐろ・ますみ〉訳(講談社学術文庫、1980年/『乃木』目黒眞澄譯、創元社、1941年改題改訂/初訳は1924年、文興院/原書は1913年米国】
大正12年(1923年)、
幣原喜重郎〈しではら・きじゅうろう〉が原書を目黒に手渡した。幣原が外務大臣となる直前のことだから駐米大使時代か。翻訳当時、目黒真澄は東京高等商船学校(後の商船大学。現・東京海洋大学海洋工学部)の教授。100ページ足らずの小品でありながら乃木希典〈のぎ・まれすけ〉を見事に素描(そびょう)している。それを目黒が薫り高い名文で奏でる。
子供があれば本書や『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を素読させ、書写させるとよい。意味などわからずとも構わない。『万葉集』の時代から続く日本語の伝統の響きを感じ取れればそれでよい。日本人は一方では言の葉と軽んじ他方では言霊(ことだま)と重んじた。この両義性に言語の本質がある。言葉はサイン(象徴)であり事そのものを表しはしない。それでも人々は言葉を手掛かりにコミュニケーションを図る。ヒトの群れが国家にまで進化したのも言葉の成せる業(わざ)である。「始めに言葉ありき」(ヨハネによる福音書)というデマカセが西洋でまかり通るのも故(ゆえ)なきことではない。
若い頃に司馬遼太郎の『
殉死』を読んだがそれほど心を動かされることはなかった。ただ乃木が十文字に切腹したことだけが記憶に残っている。その後私が司馬遼太郎の小説を読むことはなかった。ウォシュバンはロンドン・タイムズの記者である。彼は従軍し乃木と親しく接することで「父」とまで仰ぐようになった。作家の想像力は特定の判断や評価に基づいている。いわば最初から色のついた人物像を見せつけられるわけだ。私が本書に注目するのは、世界で有色人種が劣った存在と見なされていた時代にあって白人記者を魅了してやまなかった武人が存在した事実である。
乃木希典〈のぎ・まれすけ〉は水師営の会見で敗軍の将ステッセルに示した配慮で世界的な英雄となった。
乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。
この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。
【「敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ」岡田幹彦】
本書は乃木の死後に書かれた。
明治大帝が 1912年〈明治45年/大正元年〉に7月30日崩御(ほうぎょ)。大喪の礼が行われた9月13日の午後8時頃、乃木は十文字に腹を切り、
静子夫人の自害を見届けてから自身の喉を突いた。
明治天皇の崩御と乃木の殉死は、国民に激しい衝撃を与え、それは小説など文化活動にも反映されて今に伝えられている。
中でも夏目漱石が代表作『こゝろ』につづった一節は、明治世代の日本人の心情を、表象しているといえよう。(中略)
このほか新渡戸稲造は乃木の殉死を「武士道といふものから見ては実に一分の余地も残さぬ実に立派なもの」と評し、森鴎外は「阿部一族」「興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」など殉死をモチーフにした秀作を残した。
だが一方、漱石が「時勢の推移から来る人間の相違」と書いたように、乃木の殉死を時代錯誤とみなし、むしろ茶化すような風潮が、とくに若い世代の一部に生まれていたのも事実だ。
学習院出身で白樺派の代表格だった志賀直哉は日記で、乃木の殉死を「『馬鹿な奴だ』といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」と突き放した。
芥川龍之介も小説「将軍」の中で乃木を茶化し、登場人物に「(乃木の)至誠が僕等には、どうもはつきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、尚更通じるとは思はれません」と語らせている。
【昭和天皇の87年 乃木希典の殉死 明治の精神は「天皇に始まつて天皇に終つた」/社会部編集委員 川瀬弘至:産経ニュース 2018年9月2日】
倉前盛通の志賀直哉に対する評価は決して的外れなものではなかったことがわかる。他人の死を嘲笑うことのできる人物は精神のどこかが病んでいる。三島由紀夫の自決を愚弄した人々も同様だ(『
昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介)。乃木の至誠がはっきりと飲み込めなかった芥川は「ぼんやりとした不安」に飲み込まれて服毒自殺をした。
乃木希典と
東郷平八郎を超える英雄を日本はいまだに輩出し得ないことを我々は深く思うべきである。最後に乃木の肉声を紹介しよう(
経緯)。