2020-01-03
医療事故は防げない/『予期せぬ瞬間 医療の不完全さは乗り越えられるか』アトゥール・ガワンデ
・医療事故は防げない
・『医師は最善を尽くしているか 医療現場の常識を変えた11のエピソード』アトゥール・ガワンデ
・『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
・『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ
本書のタイトル Complications とは、治療によって思いがけないことが起きるという意味だけでなく、治療に伴う不確かさとジレンマも意味している。これは、教科書に書かれていない医学の世界について、そしてこの職業に就いてからというもの、私がずっと戸惑ったり悩んだり驚いたりしてきた医療について書かれた本である。
【『予期せぬ瞬間 医療の不完全さは乗り越えられるか』アトゥール・ガワンデ:古屋美登里・小田嶋由美子訳、石黒達昌監修(みすず書房、2017年/医学評論社、2004年『コード・ブルー 外科研修医救急コール』改題/原書は2002年)以下同】
柔らかな精神と透徹した眼差し、そして薫り高い文章が竹山道雄と似通っている。ガワンデのデビュー作だ。彼の著作は全部読んだが今のところ外れなし。
かつて日本語ラップの嚆矢(こうし)とされたのが佐野元春の「COMPLICATION SHAKEDOWN」(1984年)だった。ライナーノーツには「物事が複雑化してゆれ動いていること」とある。SHAKEDOWNには「間に合わせの寝床」という意味があるので性的な含みを持たせているのだろう。複雑系は complex system なのでコンプレックスでもよさそうなものだが、やはりニュアンスが違うようだ(「複雑」のcomplexとcomplicatedの違い | ネイティブと英語について話したこと)。
著者は研修医で一般外科での8年に及ぶ訓練を終える時期に差し掛かっていた。大いなる疑問が胸をよぎる。「8年?」。なんと8年を要しても一人前とは言えないのだ。医大を卒業して8年経てば30歳である。その間に培われる知識や技術を思えば医療を取り巻く複雑な様相が何となく見えてくる。
もちろん、患者は飛行機に比べてはるかに複雑で、それぞれがまったく違う体質を持っている。それに、医療は完成品を納品したり製品カタログを配布したりする仕事とはわけが違う。どんな分野の活動でも、医療ほど複雑ではないだろう。認知心理学、「人間」工学、あるいはスリーマイル島やボパールの事故などの研究から、私たちが過去20年に学んできたことだけをとっても、同じことがわかる。つまり、すべての人間が過ちを犯すだけでなく、われわれは予測可能なパターン化された方法で、頻繁に過ちを犯している。そして、この現実に対応できないシステムは、ミスを排除するどころかそれを増加させるのである。
英国の心理学者ジェームズ・リーズンは、著書『ヒューマンエラー』の中で、次のように主張している。激しく変化する状況で、入ってくる知覚情報を無駄なく切り替えるためには、直観的に考え行動する能力がなければならない。人間がある一定の間違いを犯してしまう性癖は、この優れた脳の能力と引き替えに支払わなければならない代償なのである。このため、人間の完全さを当てにしたシステムは、リーズンが呼ぶところの「潜在的ミス(起きることを待っているようなミス)」をもたらす。医学の現場はこの実例に満ちている。たとえば、処方箋を書くときのことを考えてみよう。記憶に頼る方法は当てにならない。医者は、誤った薬や誤った分量を処方してしまうかもしれないし、処方箋が正しく書かれていても、読み間違えることもある(コンピュータ化された発注システムでは、この種のミスはほとんど起こらないが、こうしたシステムを採用している病院はまだ一握りしかない)。また、人が使うことを十分に考慮して設計されている医療器具は少なく、それが原因で潜在的なミスを引き起こすことがある。医師が除細動器を使うときにたびたび問題が起こるのは、その装置に標準的な設計規格がないためである。また、煩雑な仕事内容、劣悪な作業環境、スタッフ間でのコミュニケーション不足といったことも潜在的ミスを引き起こす。
ジェームズ・リーズンは、もう一つ重要な意見を述べている。失敗はただ起こるのではなく波及する、ということだ。
例えば少し考えれば想像できることだが保険は多種多様な病気や怪我、複雑化する事故や災害を網羅することは難しい。既に保険会社の社員ですら保険でカバーできる範囲を認識できていない。医療の場合、病気の種類、薬の種類、人体の構造、医療器具の使い方、感染症の予防対策、患者と家族の病歴、そして個人情報など知っておかねばならない情報量は厖大なものとなる。しかも病気や薬は次々と増え続ける。
ガワンデは医療事故を防ぐことはできないと述べる。それは医師の単なる言いわけではない。現実問題として「防げる」と考えるのが間違っているのだ。医療現場の救急処置がドラマチックに描かれている。どのエピソードを読んでも判断の難しさがよく理解できる。世間は医療過誤に目くじらを立てるが、いくらミスを追求してもミスがなくなることはない。社会が折り合いをつけて許容するしかなさそうだ。ただし必要とされる代償はあまりにも大きい。生け贄(にえ)と言ってよかろう。何らかの補償制度が不可欠だ。
一方で医師には人間のクズが多い。世間の常識も知らないような輩が白衣をまとっている。しかも勉強不足だ。そして勉強不足を恥じることがない。私は医師の話をありがたがって拝聴するタイプの人間ではないので、あからさまに異論を述べ、反論し、「医学を利用する気はあるが医学の言いなりにはならない」との信条を披瀝する。
医療リテラシーを充実させるべきだ。で、病院側はもっと修理屋としての自覚を持ち、「治るか治らないかはわかりません。失敗すれば死ぬこともあります」とはっきり告げた方がいいと思う。医療への過剰な信頼が患者の瞳を曇らせている側面がある。医療に万能を求めてはなるまい。我々は諦(あきら)める術(すべ)を身につけ、観念すべき時を見極める勇気を持つべきだ。
医療といえども需給関係が経済性を決める。我々が不老不死を求めれば医療費は無限に増え続けることだろう。それでも人は死ぬ。必ず死ぬ。死は恐るべきものではないという社会常識を構築できないものか。
2020-01-02
手段から目的への転換/『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット
・『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
・『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
・『あなたの歩き方が劇的に変わる! 驚異の大転子ウォーキング』みやすのんき
・『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
・『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
・『一流の頭脳』アンダース・ハンセン
・手段から目的への転換
・『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア
・『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』マイケル・クローリー
・『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
・『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
・『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
・『スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと』小田伸午
・『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
・『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
歩くこと、そのはじまりを思い描こう。筋肉に力が漲ってゆく。一本の脚は、柱になって体を大地と空の間に浮かべている。もう一本の脚が、振り子のように背後から振り出されてくる。踵が大地を掴む。全体重が転がるようにつま先へ繰り出されてゆく。親指が後ろへ蹴り上げると、あやういバランスを保ちながら重心が移動してゆく。そして脚は互いに役割を交代する。一歩にはじまり、さらに一歩、そしてさらに一歩と、打楽器を叩きはじめるように積み重なってゆく歩行のリズム。歩行はたやすくわたしたちを誘い出す。宗教、哲学、風景への眼差し、都市の政治、人体の解剖学、アレゴリー、そして癒やしがたく傷ついた心の奥へ。世のなかにこれほどありふれていて、これほど謎めいたものがあるだろうか。
歩行の歴史は書かれざる秘密の物語だ。書物に書き残された何げない断片の数々や、歌、街、そして誰もが胸に抱く冒険のうちにそれは潜んでいる。身体という点からみれば、歩行の歴史は二足歩行への進化と人体の解剖学の歴史だ。たいていの場合、歩行とは二つの地点を結ぶほとんど無意識的な移動手段でしかない。しかし思索や儀式や瞑想と重なることによって、歩くという行為には特殊な領域が形成されている。それは手紙を運ぶ郵便夫や列車に向かうオフィスワーカーの動作と生理学的には同じでも、哲学的には異なる。つまり、歩行という主題は、わたしたちがありふれた行為に賦与している特殊な意味を考えることともいえる。食事や呼吸がさまざまな意味を担っているように、歩行が担いうる文化的な意味には大きな幅がある。セックスから宗教、さらに革命から芸術まで。ゆえにその歴史は、想像力と文化の歴史の一隅を占める。さまざまな時代の多様な歩行者たちとその歩行は、いかなる歓びや自由や価値を追求するものだったのだろうか。
【『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット:東辻賢治郎〈とうつじ・けんじろう〉訳(左右社、2017年)】
左右社〈さゆうしゃ〉という出版社を初めて知った。
3年前から歩き始めた。それまでは仕事で階段を上ることが多かったのだがいつしか坐っている時間の方が長くなった。歩き方も自分なりに工夫したつもりであったが、やはり我流だと限界がある。10kmから20kmほどの距離は歩いたが疲労が濃かった。みやすのんきを読んで完全に蒙(もう)が啓(ひら)いた。
一昨年から自転車に乗り始め、自転車EDの症状が出てからまたぞろ歩くようになった。元々私の場合は歩くことが目的と化していたのだが本書を読んでからは歓びに変わった。歩くことが単なる移動手段であれば、その遅さと疲労は忌むべきものとなろう。いつか歩けなくなる日が来るかもしれない。その時を思えば歩けることは「大いなる歓び」であろう。
文章が思弁に傾きすぎて読み終えることができなかった。日本人の文化的なDNAは句歌や漢詩のような圧縮度の高さが好みであり、散文であればあっさりとした情感を志向する。西洋の言葉をこねくり回す思弁、形而上学、修辞法、合理性とは極めて相性が悪い。日本人は哲学者よりも詩人であろうとする。
環境問題が叫ばれるようになってからナチュラリストなる言葉が持て囃(はや)されるようになったが、日本人は生まれながらにしてナチュラリストであり、無神論者ですらアニミズムに支配されている。日本のアニメーションが世界的に評価されているのもアニミズムというバックボーンがあるためだ。どちらもラテン語のアニマに由来する言葉だ。アニマは生気と訳す。
そう考えると幽霊に足がないのも理解できよう。浮かばれない霊は淡い存在として漂っている。生者は足で大地を踏む。すなわち歩くことは生きることなのだ。
クラシック音楽で歩く速度をアンダンテという。適度な運動としてのウォーキングは1分間に100歩といわれるが(日本生活習慣病予防協会)、心拍数を考慮すれば1分間に60~100のリズムが最も心地よく感じられるのではあるまいか。また、この速度を超えると五感の情報量が下がると考えてよい。
生きるとは繁殖すること/『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー
・『生命とは何か 物理的にみた生細胞』シュレーディンガー
・『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博
・『生物と無生物のあいだ』福岡伸一
・『利己的な遺伝子』リチャード・ドーキンス
・生きるとは繁殖すること
・『生命とは何か 複雑系生命科学へ』金子邦彦
・『生命を進化させる究極のアルゴリズム』レスリー・ヴァリアント
しかしながら、生命がその種の定義によってしか規定できないということであれば、誰もが奇跡をひきおこすことができるし、それについては手間暇はかからない。タンクの中には、溶接密封された2~3センチばかりのガラスの小瓶(ヴァイアル)、つまり、アンプルが3万本ばかり収められており、その中には、活力を完全に封じ込められてしまった200万ばかりの生命体がスプーン一杯に満たないごく少量の溶液の中で冷凍されているので、そのうちの一つを取り出して体温まで温めてやればよい。ちっぽけな生命体は、冷凍による仮死状態から数分で復活する。今日、ほとんどすべての生物医学の研究室でごくあたりまえになってしまったこうした光景というものは、私たちが生きている年月という概念によっては想像することもできないのだが、これらの生命体は、「生命を取り戻す」のである。微細な有機体は、アンプルの表面を動きまわったり、這いまわったりするようになる。溶液に溶け込んでいる養分を吸収するようになる。私たちは、しばらくすると、こうした生命体がまぎれもなく生きている何よりの証拠を目にすることができる。生命体が繁殖を始めるようになるからだ。
【『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー:久保儀明〈くぼ・よしあき〉、楢崎靖人〈ならさき・やすと〉訳(青土社、1999年/原書は1996年)】
392ページ上下二段。価格を2800円に抑えたのは立派だ。さすが青土社〈せいどしゃ〉と言いたいところだが紙質の悪さが目立つ。更に著者・訳者のプロフィールがないのは手抜きが過ぎる。Webcat Plusで調べる羽目となった。
思考は人間の尺度に支配されている。時間的なスケールは数時間・1日・1年・一生という具合で100年に収まる。一方空間的なスケールが自分の移動距離を超えることが少ない。生きるとは動くことであるとの思い込みは人間の時間的スケールに基づくものだ。もっと長い尺度で見れば「生きるとは繁殖すること」と言えよう。
連綿とつながる子孫の流れを俯瞰すれば確かに「生物は遺伝子の乗り物に過ぎない」(リチャード・ドーキンス)と考えることも可能だ。ただしかつて我が世の春を誇った恐竜は滅んだ。原因は直径10キロ級の隕石衝突によるものと考えられているが(第2回 恐竜絶滅の原因は本当に隕石なのか | ナショナルジオグラフィック日本版サイト)、生物学的には神経伝達の速度が遅すぎることが挙げられる。
生命とは永続性を示す言葉なのだろう。あらゆる宗教が死と永遠を説く理由もそこにある。我々が自分の存在についてあれこれ悩むのも「生きている証し」を求めているからだ。
2055年には世界人口が100億人に達すると見込まれている。日本の人口は1億2808万人(2008年)がピークでそれ以降減少に転じた。人口問題は食糧とエネルギーの資源を巡るテーマとして論じられることが多いが、政治色が濃く国際問題というよりは国家エゴをきれいな言葉で表明しているだけで、発展途上国を貧しくした欧米の帝国主義や戦争の責任を完全に無視している。昨今話題の移民問題も戦争責任と合わせて考える必要がある。
天敵がいないからといって人間が無限に増え続けることはできない。そもそも100年後には今生きている人はほぼ全員が死んでるわけで、その時どんな世界が待ち受けているかは誰にもわからない。病気・戦争・自殺は人間の世界と細胞の世界に共通する歴史である。
マイクロバイオームから本書にまで辿り着いたのだが、私は貴族政から民主政に宗旨変えを迫られた。エリート主義は大脳を司令塔とする政治制度である。ところが人体は腸内細菌という市民が思いの外、全体に影響を与えているのだ。人間が多細胞生命体で一つの巨大なコロニーだとすれば、投票の有無にかかわらず一人ひとりの感情・行動・反応が国家や世界に及ぼす影響を軽視するべきではない。
暴飲暴食や過剰な運動は一種の帝国主義の表れだ。健康が持続可能性を示すのであれば粗衣粗食、適度な運動、瞑想(思考の停止)が秘訣となるだろう。
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