2020-09-24

日本政府は破滅に向かって無駄な日々を過ごしていた/『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利


『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三
『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四

 ・日本政府は破滅に向かって無駄な日々を過ごしていた

『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

(※ポツダム宣言に対して)結局なにも発表しないのはやはりまずい。かといって、確たることはいえる状態ではない。あたらずさわらずでいこうということになった。発表はするが、とくに国民の戦意を低下させる心配のある文句は削除(さくじょ)する。政府の公式見解は発表しない。新聞にはできるだけ小さく調子をさげて取扱うように指導する。新聞側の観測として、政府はこの宣言を無視するらしいとつけ加えることはさしつかえない。これが政府の報道への方針となった。
 翌28日の新聞は、内閣情報局のこのような指令にしたがって編集され、国民の大多数には、さしたる衝撃もあたえなかった。
 この静観の方針には、はじめは軍部も賛成していた。だが、時間がたつとともに、第一線のまだ元気のいい部隊から「なぜ政府はポツダム宣言に対して、断乎たる反対決意を発表しないのか」という詰問(きつもん)電報がひっきりなしにとどきはじめた。やがて軍中央部も硬化し、このような状態では、とうてい前線の士気は維持できないと主張するようになった。
 なぜなら、内地にいる兵隊は一般国民と同様につんぼ桟敷(さじき)にいるわけだが、前線の将兵は作戦の必要上いろいろの通信機械、ラジオなどをもっているから、敵側の情報もそうとう的確につかんでいる。この降伏勧告を黙って放置したのでは、動揺はまぬがれない、というのであった。
 28日午前におこなわれた政府と大本営の情報交換会議の席上でも、政府はこの宣言に反対であることを明らかにすべきである、と軍部側から強く要望された。
 やむなく、政府は積極的には発表しないけれども、新聞記者の質問に答える形で、意志を表明しようということになった。
 28日午後4時、鈴木首相は記者会見で「ポツダム宣言はカイロ宣言の焼きなおしであるから重要視しない」と、のべた。ところが、重要視云々(うんぬん)をくりかえしているうちに「黙殺」という言葉がでてきてしまった。新聞は29日朝刊でこれを大きくとりあげ、対外放送網を通じて全世界に伝えられた。しかも、ノーコメントの意味であった「黙殺」が、外国に報道されたときに ignore (無視する)となり、さらに外国の新聞では“日本はポツダム宣言を reject (拒絶する)した”となってしまった。このため米国英国の新聞の態度は一変し、その論調は硬化した。これを後で知った東郷外相は激怒し、総理談話は閣議決定に反すると抗議した。しかし、もはや談話の撤回は不可能であった。
 日本は貴重な一日一日を無駄にすごしていたのであった。しかも、すくなくとも一日たてば一日と、日本にとって破滅の色は濃くなるばかりであった。では、このとき、政府はなにを信じて頑張っていたのだろうか。それは、いぜんとして、ソ連を仲介とする和平交渉であったのだ。

【『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利〈はんどう・かずとし〉(文春文庫、2006年/文藝春秋新社、1965年、大宅壮一〈おおや・そういち〉編『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日』/角川文庫、1973年/文藝春秋、1995年、半藤一利『日本のいちばん長い日 運命の八月十五日 決定版』)】

 元は文藝春秋の「戦史研究会」が企画、資料収集しまとめたものを大宅壮一のビッグネームで出版したもの。上記テキストは大宅編で半藤版はかなり手が入っている。読み比べるのも一興であろう。ただし角川文庫版は紙質が悪く活字も小さい。

「ともかく、これで戦争をやめる見通しがついたわけだね。それだけでもよしとしなければならないと思う。いろいろ議論の余地もあろうが、原則として受諾するほかはあるまいのではないか。受諾しないとすれば戦争を継続することになる。これ以上、国民を苦しめるわけにはいかない」(半藤一利版)

 この大御心(おおみごころ)が政府首脳には伝わらなかった。国体護持の熱誠ゆえに意見が割れた。『日本のいちばん長い日』とは昭和20年(1945年)8月15日を指す。正午の玉音放送に至るまでの24時間を綴る。その意味では元祖『24 -TWENTY FOUR-』と言っていいかもしれぬ。目次が秀逸だ。

  序(大宅壮一)

  プロローグ
正午――午後一時 “わが屍を越えてゆけ”  阿南陸相はいった
午後一時――二時 “録音放送にきまった”  下村総裁はいった
午後二時――三時 “軍は自分が責任をもってまとめる”  米内海相はいった
午後三時――四時 “永田鉄山の二の舞だぞ”  田中軍司令官はいった
午後四時――五時 “どうせ明日は死ぬ身だ”  井田中佐はいった
午後五時――六時 “近衛師団に不穏の計画があるが”  近衛公爵はいった
午後六時――七時 “時が時だから自重せねばいかん”  蓮沼武官長はいった
午後七時――八時 “軍の決定になんら裏はない”  荒尾軍事課長はいった
午後八時――九時 “小官は断乎抗戦を継続する”  小薗司令はいった
午後九時――十時 “師団命令を書いてくれ”  芳賀連隊長はいった
午後十時――十一時 “斬る覚悟でなければ成功しない”  畑中少佐はいった
午後十一時――十二時 “とにかく無事にすべては終わった”  東郷外相はいった
十五日零時――午前一時 “それでも貴様たちは男か”  佐々木大尉はいった
午前一時――二時 “東部軍に何をせよというのか”  高嶋参謀長はいった
午前二時――三時 “二・二六のときと同じだね”  石渡宮相はいった
午前三時――四時 “いまになって騒いでなんになる”  木戸内府はいった
午前四時――五時 “斬っても何もならんだろう”  徳川侍従はいった
午前五時――六時 “御文庫に兵隊が入ってくる”  戸田侍従はいった
午前六時――七時 “兵に私の心をいってきかせよう”  天皇はいわれた
午前七時――八時 “謹んで玉音を拝しますよう”  館野放送員はいった
午前八時――九時 “これからは老人の出る幕ではないな”  鈴木首相はいった
午前九時――十時 “その二人を至急取押さえろ!”  塚本憲兵中佐はいった
午前十時――十一時 “これから放送局へ行きます”  加藤局長はいった
午前十一時――正午 “ただいまより重大な放送があります”  和田放送員はいった
  エピローグ

  あとがき

 白眉はポツダム宣言受諾の御聖断と宮城事件である。

 明治・大正で青年に育った近代日本は昭和に入り分裂症(統合失調症)状態となる。右脳と左脳の均衡が崩れ、右脳から天の声が聞こえるような有り様だった。その要因は会津戦争(1868年/明治元年)にあったと私は考える。そもそも尊皇の総本山ともいうべき会津藩が逆賊になることがおかしいのだ。あの悲惨が近代化のために不可欠であったとは到底思えない(『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人)。戊辰戦争の負け組は欧州で虐げられたユダヤ人のような感情を抱いたことだろう。大正デモクラシー~社会主義思想~昭和維新の流れは抑圧された東北のエスと言ってよい。小室直樹は三島理論から「阿頼耶(アーラヤ)識」としたが、フロイト理論のエスの方が相応しいように思う。抑圧された感情が消えることはない。娘の身売りが多かった東北で一気に心理的抑圧が噴出したのだろう。

 大東亜戦争の印象を一言でいえば「ズルズル行ってダラダラ終わった」ことになろうか。欧米の帝国主義を打ち破り、世界中の植民地解放に道を拓いた世界史的功績を否定するつもりは毛頭ないが、負けた戦争をきちんと振り返らなければ日本の再生はないだろう。東京裁判を否定する声は多いが、本気で戦争責任を追求する人は皆無だ。切腹した人々は立派であった。

 岡部伸〈おかべ・のぶる〉著『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』を先に読めば、断腸の思いに駆られる。ヤルタ会談(1945年〈昭和20年〉2月4~11日)では、ドイツ降伏から3ヶ月後にソ連が対日戦に加わる密約が交わされた。小野寺信は直後の2月半ばにこの情報を本国に打電した。ところがソ連の仲介による和平工作に傾いていた参謀本部は小野寺情報を握り潰した。その事実を小野寺本人が知ったのは実に38年後のことである。

 2発目の原子爆弾が長崎に落ちたまさにその時、日本の首脳は相変わらず結論の出ない会議を続けていた。

2020-09-19

人生の岐路/『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆


『政治を考える指標』辻清明
伊藤隆の藤岡信勝批判

 ・人生の岐路

『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

 6月15日、国会突入デモで樺美智子〈かんば・みちこ〉さんが亡くなった日のことはよく覚えています。
 樺さんは国史研究室の4年生でした。あの日、大学で樺さんに会った時、「卒論の準備は進んでいるか」と聞いたのです。あまり進んでいないようでした。
「何とかしなきゃな」と、私は言いました。
「でも伊藤さん、今日を最後にしますから、デモに行かせてください」と彼女は答えます。
「じゃあ、とにかくそれが終わったら卒論について話をしよう」
 そう言って、別れました。

【『歴史と私 史料と歩んだ歴史家の回想』伊藤隆〈いとう・たかし〉(中公新書、2015年)以下同】

 日常の何気ない選択が人生を決定的に変えることがある。もしもデモに参加していなければ樺美智子は長生きしたことだろう。ブントと訣別していた可能性もある。国史を研究していたわけだからひょっとすると保守論客になってもおかしくはない。今日の行き先次第では自分が死ぬこともあり得るのだ。

 その後、伊藤の提案で樺美智子合同慰霊祭が執り行われた。

 不謹慎な言い方かもしれませんが、60年安保の打ち上げとして最高のイベントになったと思いました。それで一切の政治活動をやめたのです。
 しばらくして佐藤(※誠三郎)君と、安保運動のイデオローグと言われた清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉氏(1907~88)に会う機会がありました。東大赤門隣の学士会分館で、学習院大学教授となった香山健一〈こうやま・けんいち〉君や、全学連書記長だった小野寺正臣〈おのでら・まさおみ〉君、評論家になった森田実〈もりた・みのる〉君など、清水と行動を共にした人たちも一緒でした。佐藤君と香山君の付き合いからそうなったのだと思います。
 この時、清水幾太郎氏は、日本共産党に裏切られたと言って泣きました。それを見て私は、がっくりきました。闘争というものは負けたからといって泣くものじゃないだろう。そこで何かをつかんで、もう一度相手をやっつけるならわかる。だが、泣くものではない。しかもわれわれ若い奴に向かって泣くとは、と思ったことを覚えています。

 伊藤は新しい歴史教科書をつくる会にも参加しているが左翼からの評価も高い学者である。司馬遼太郎をやり込めたエピソードも綴られているが、静かな気骨を感じさせる人物だ。

 会話調の文章が読みやすく、史料学の大変さがよくわかる。予算が足りなくて頓挫した企画も多いようだ。史料の乏しい昭和史の道をオーラル・ヒストリーの手法で切り拓いた人物といってよい。一般人でも取っつきやすい作品として岩畔豪雄〈いわくろ・ひでお〉にインタビューをした『昭和陸軍謀略秘史』(日本経済新聞出版、2015年/日本近代史料研究会、1977年『岩畔豪雄氏談話速記録』改題)がある。



樺美智子さんの「死の真相」 (60年安保の裏側で) ―60年安保闘争50周年 | ちきゅう座

二・二六事件を貫く空の論理/『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹


『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹

 ・日本人の致命的な曖昧さ
 ・二・二六事件の矛盾
 ・二・二六事件を貫く空の論理

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

  二・二六事件を貫いているのは、ギリシア以来の論理ではなく、まさしく、この空(くう)の論理である。
 決起軍は反乱軍である。ゆえに、政府の転覆を図った。それと同時に、決起軍は反乱軍ではない。ゆえに、政府軍の指揮下に入った。
 決起軍は反乱軍であると同時に反乱軍ではない。ゆえに討伐軍に対峙しつつ正式に討伐軍から糧食などの支給をうける。
 決起軍は反乱軍でもなく、反乱軍でないのでもない。ゆえに、天皇の為に尽くせば尽くすほど天皇の怒りを買うというパラドックスのために自壊した。
 二・二六事件における何とも説明不可能なことは、すべて右の空(くう)の「論理」であますところなく説明される。

【『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹(天山文庫、1990年/毎日コミュニケーションズ、1985年『三島由紀夫が復活する』に加筆し、改題・文庫化/毎日ワンズ、2019年)以下同】

 面白い結論だが衒学的に過ぎる。三島の遺作となった『豊饒の海』から逆算すればかような結果が導かれるのだろう。だが仏教の「空」を持ち出してしまえば、それこそ全てが「空」となってしまう。

 青年将校の蹶起(けっき)に対して上官は理解を示した。4年前に起きた五・一五事件では国民が喝采をあげた。ここに感情の共有を見て取れる。例えるならば腹を空かせた子供が泣きながら親に抗議をするような姿ではなかったか。その子供が天皇の赤子(せきし)であり、親が天皇であるところに問題の複雑さがあった。当時の閣僚は言ってみれば天皇が任命した家宰(かさい)である。怒りの矛先が天皇に向かえば革命となってしまう。それゆえ青年将校の凶刃は閣僚に振り下ろされた。

 唯識論によれば、すべては識のあらわれであり、その根底にあるのが阿頼耶(アーラヤ)識
 しかし、もし、識(しき)などという実体が存在するなどと考えたら、これは仏教ではない。
 識(しき)もまた空(くう)であり、相依(そうい/相互関係)のなかにあり、刹那(せつな)に生じ、刹那に滅する。確固不動の識などありえないのだ。ゆえに、識のあらわれたる外界(肉体、社会、自然)もまた諸行無常なのだ。
 二・二六事件の経過もまた、諸行無常そのものであった。
 決行部隊のリーダーたる青年将校たちの運命たるやまるで、平家物語の現代版である。
 名もなき青年将校が、一夜あければ日本の運命をにぎり、将軍たちはおびえて彼らの頤使(いし)にあまんずる。昭和維新も目前かと思いきや、あえなく没落。法廷闘争も空しく銃殺されてゆく。この間の世の動き、心の悩み、何生(なんしょう)も数日で生きた感がしたはずだ。
 将軍たちの無定見、うろたえぶり、変わり身の早さ、海の波にもよく似たり。
 この間、巨巌のごとく不動であったのは天皇だけであった。
 天皇という巨巌にくだけて散った波。これが三島理論による二・二六事件の分析である。

 小室の正確な仏教知識に舌を巻く。天台・日蓮系では九識を立て、真言系では十識を設けるが実存にとらわれた過ちである。識とは鏡に映る像と考えればよい。鏡の向きは自分の興味や関心でクルクルと動く。何をどう見るかは欲望や業(ごう)で決まる。しかも自分では鏡と思い込んでいるのだが実体は水面(みなも)で、死をもって水は雲のように散り霧の如く消え去る。像や鏡の存在が確かなものであることを追求したのが西洋哲学だ。神が存在すると考える彼らは実存の罠に陥ってしまう。

 一神教(アブラハムの宗教)が死後の天国を信じるのと、バラモン教が輪廻する主体(アートマン)を設定するのは同じ発想に基づいている。ブッダは輪廻そのものを苦と捉えて解脱の道を開いた。諸法無我とは存在の解体である。「ある」という錯覚が妄想を生んで物語を形成する。人類は認知革命によって虚構を語り信じる能力を身につけた(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ)。

 人は物語を生きる動物である(物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答)。合理性も感情も物語を彩る要素でしかない。我々が人生に求めるものは納得と感動である。異なる物語がぶつかると争いが起こる。国家や文化の違いが戦争へ向かい、敵を殺害することが正義となる。

 昭和維新は国家の物語と国民の物語が衝突した結果であったのだろう。しかし日本国にあって天皇という重石(おもし)が動くことはなかった。終戦の決断をしたのも天皇であり、戦後の日本人に希望を与えたのも天皇であった。戦争とは無縁な時代が長く続き、天皇陛下の存在は淡い霧のように見えなくなった。明治維新によって尊皇の精神から生まれた新生日本は、いつしか「無機的な、からつぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国」(「果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年」三島由紀夫)となっていた。

 畏(おそ)れ多いことではあるが日本の天皇は極めて優れた統治システムである。西洋の王や教皇は権力をほしいままにして戦争を繰り返した。天皇に権威はあるが権力はない。王政や共和政だと国家が亡ぶことも珍しくない。日本が世界最古の国家であるのは天皇が御座(おわ)しますゆえである。日本の左翼が誤ったのは天皇制打倒を掲げたことに尽きる。尊皇社会民主主義に舵を切ればそれ相応の支持を集めることができるだろう。

 最後に一言。天皇陛下が靖国参拝を控えた理由は「A旧戦犯の合祀に不快感を示された」ためと2006年に報じられたが(天皇の親拝問題)、二・二六事件での御聖断を思えばそれはあり得ないだろう。



誰のための靖国参拝

2020-09-17

大本営の情報遮断/『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三


 ・陸軍中将の見識
 ・大本営の情報遮断

『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ

 また『戦史叢書』レイテ決戦の311頁には、

「既述のように大本営海軍部と連合艦隊は、16日から台湾沖航空戦の戦果に疑問を生ずるや、鹿屋航空部隊と共に調査して19日結論を出した。大本営陸軍部第二部は、台湾沖航空戦の戦果を【客観的に正確に】見ているのは堀参謀のみであるとしていた」

 と記述している(この既述から、堀が新田原〈にゅうたばる〉から打った電報は、大本営陸軍部は承知していたと想像されるが、これが握り潰されたと判明するのは戦後の昭和33年夏だから、不思議この上ないことである。しかし大本営陸軍部の中のある一部に、今もって誰も覗いていない密室のような奥の院があったやに想像される)。

【『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三〈ほり・えいぞう〉(文藝春秋、1989年/文春文庫、1996年)以下同】

「奥の院」(※大本営作戦部作戦課)はブラックボックスである。誰がどう判断したかがわからないのだから責任を取らずに済む。ここで采配を振るい、情報の吟味をしたとされるのが瀬島龍三中佐である。軍の頭脳ともいうべき超エリート集団は目や耳から入ってくる情報を遮断し、実現不可能な計画をひたすら妄想していた。

 当時レイテ島への米軍の上陸可能正面は、実に40キロ以上もあって、いかに精鋭とはいえ、一個師団では一列に並べても、至るところ穴だらけであることは、机の上で計算してもわかる。大本営作戦課の捷一号作戦を計画した瀬島龍三参謀が、8月13日にレイテを視察しているが、本当にこれで大丈夫だと思ったのだろうか。

 机上の計画は8万人の死者を生んだ。その多くが餓死であった。堀栄三の報告が容れられれば彼らは死なずに済んだ。瀬島が戦後官僚のテンプレートとなったような気がする。彼は11年のシベリア抑留を経て、帰国後伊藤忠商事へ入社。4年で取締役にまで昇進した。その後会長となり中曽根政権のブレーンを務めた。

 第二は、ソ連の参戦であった。2月11日のヤルタ会談で、スターリンは「ドイツ降伏後3ヶ月で対日攻勢に出る」と明言したことは、スウェーデン駐在の小野寺武官の「ブ情報」の電報にもあったが、実際にはこの電報は、どうも大本営作戦課で握り潰されたようだ。しかし情報部ソ連課でも、スターリンの各種の演説の分析、20年4月15日の日ソ中立条約破棄の通告、クリエールにいった朝枝参謀の報告、浅井勇武官補佐官のシベリヤ鉄道視察報告などで、極東に輸送されるソ連の物資の中に防寒具の用意が少いという観察などから、ソ連は8、9月に参戦すると判断していたくらいだから、当然米国でもソ連の参戦のことを日本本土上陸時期の選定に噛み合せて考えていたであろう。

 ここを確認するために再読せざるを得なくなった。堀の筆致は淡々としていて通り一遍で読むだけでは情報の軽重が測りにくい。「ブ情報」とはポーランドのブジェスクフィンスキ少佐を指す。ポーランドは連合国であったが小野寺信〈おのでら・まこと〉というキーパーソンを軸に諜報活動では協力関係にあった。戦争は人間同様複雑なものである。

 再読してわかったが三読、四読にも耐える教科書本である。

2020-09-16

二・二六事件の矛盾/『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹


『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹

 ・日本人の致命的な曖昧さ
 ・二・二六事件の矛盾
 ・二・二六事件を貫く空の論理

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 決行部隊の主張(Cause)は、かくのごとくもおそろしい矛盾(ジレンマ)を内包している。
 あるいは、このジレンマには、はじから目をつぶって、天皇を傀儡(かいらい/あやつり人形)化し、ただ唯々諾々(いいだくだく)、彼らの違憲に盲従させるとでも考えていたのか。
 彼らの旗印(はたじるし)のひとつは、天下も知るごとく、天皇親政である。
 では質問す。彼らが主張する「天皇親政」とは天皇を彼らのロボットとして自由にあやつって勝手気ままなことをなすことであったのか。
 これこそまさに、彼らが攻撃してやまない奸臣の所為ではないか。いや、それ以上だ。二・二六事件、五・一五事件の青年将校たちが、軍官のトップや財閥を奸臣ときめつけ殺そうとする理由は、これらの「奸臣」が天皇と国民のあいだに立ちはだかって国政を壟断(ろうだん)しているとみたからである。
 しかるに、決行部隊のリーダーたる青年将校の思想と行動は、右にみたごとく、畢竟(ひっきょう)、天皇のロボット化にゆきつかざるをえないことになる。
 この根本問題について、誰も本気になって考えてみない。いや、意識にすらのぼらなかったと言ったほうがいいだろう。
 かれ(ママ)ら青年将校の「尊皇」は、結局、「大逆」にゆきつき、「天皇親政」は、「天皇のロボット化」にゆきつく。
 青年将校たちは、こんなこと、夢にも思ってはいなかっただろう。
 しかし、気の毒千万ながら、かれら青年将校たちが、生命をすてて、ただ誠心誠意行動すればするほど、そのゆきつく果ては、こういうことになってしまうのである。
 では、なぜ、そんなことになってしまうのか。
 これを説明しうるのは、三島哲学をおいてほかにない。

【『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹(天山文庫、1990年/毎日コミュニケーションズ、1985年『三島由紀夫が復活する』に加筆し、改題・文庫化/毎日ワンズ、2019年)】

 二・二六事件で気を吐いた将校は石原莞爾〈いしわら・かんじ〉ただ一人であった。現場に駆けつけるや否や誰何(すいか)してきた兵士を怒鳴りつけている。そして蹶起(けっき)将校に同調していた荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将を「こんなバカ大将がおって、勝手なまねをするもんだから、こんなことになるんです」罵倒した。

 事件後、帝国ホテルのロビーで三者会談が行われた。橋本欣五郎大佐、石原莞爾大佐、満井佐吉中佐の顔ぶれで、彼らは次の首相を誰にするかを相談した。橋本は建川美次〈たてかわ・よしつぐ〉中将、石原は東久邇宮、満井は真崎甚三郎大将を推した。利害絡みの思惑が一致することはなかった。

 青年将校を衝き動かしたのは止むに止まれぬ感情であった。論理は後付で北一輝が補強した。貧困は悲惨だ。人々から人間性を剥(は)ぎ取り獣性に追いやる。義侠心は暴力の温床となりやすい。不幸を目の当たりにすればムラムラと怒りが湧いてくるのは人間性の発露といってよい。

 小室は論理の陥穽(かんせい)を突く。義憤は視野を狭(せば)める。目的が暴力を正当化し、怒りはテロ行為へと飛躍する。天皇親政を目指した彼らの行為は共産革命そのものだった。

 そしてまた石原らの密謀は憲法に謳われた天皇の任免権を犯すものだった。小室の筆は矛盾を刺し貫く。昭和初期は天皇陛下を仰ぎながらも一方で神輿(みこし)のように上げ下げしようとした時代であった。