「ペニーか微笑みを」と書かれた段ボールを持つホームレスの男性。1ペニーは1/100ポンドである。現在、円高が進んでおり1ポンドは120円だ。道行く人々は急いでいる。道端に座った男には目もくれないで歩く。少しばかりの善意も当てにできないような世界であれば、彼の心に犯罪の火が点(とも)ってもおかしくはない。見知らぬ人を助けることが、まるでリスクでもあるかのように我々は考えている。無残な世界で人々は、より残酷になることを奨励される。
・乞い人
・地に臥して乞う者
母の身体だけではなく、私の人生の歯車も狂いだしているとぼんやりと感じられもした。実際、その日(※母から国際電話があった日)を境に私の関心は、子どもたちから日本の母へと移らないわけにはいかなくなった。
【『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子〈かわぐち・ゆみこ〉(医学書院、2009年)以下同】
ロックトイン・シンドロームという名称は医学用語ではなく、状態を示す言葉である。なかでも、まったく意思伝達ができなくなる「完全な閉じ込め状態」はTLSという別名を与えられていた。
病いの物語に多数の伏線が生じるのは病人のせいばかりではないし、母ではなく私の物語りも始まってしまうのは仕方がないことなのだ。病人たちの傍らにいるうちに、私の物の見方が変化したために夫が離れていったのである。夫の専業主婦だった私が「変わった」のは間違いではないが、夫も妻の体験にはいっさい興味をもたなかった。
こうして思い返してみると、母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくはなかったのである。
「地底に沈み込むような感じ」
「体が湿った綿みたい」
「重力がつらい」
「首ががくんとする」
神経内科医のもっとも重要な仕事のひとつに、家族をいかにその気にさせられるか、ということがある。「できる」と思わせるか、それとも「できない」と思わせるかは、その医師の心掛けしだいなのだが。
それは予想をはるかに超えた重労働であった。介護疲れとは、スポーツの疲労のように解消されることなどない。この身に澱(おり)のように溜まるのである。
もっとも重要な変化は、私が病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた。
たとえ植物状態といわれるところまで病状が進んでいても、汗や表情で患者は心情を語ってくる。
汗だけでなく、顔色も語っている。
そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。
永遠不滅なるものを見出すためには、伝統や過去の経験や知識の集積である時間から、自由でなければならない。それは、何を信じるか信じないかといった、未熟でまったく子供じみた質問ではない。そんなことは、本質的な問題とはまったく関係ない。本当に発見したいと願っている真剣な心は、孤立した自己中心的な活動をすっかり放棄し、完全に独りである状態になるだろう。美しさ、永遠なるものの理解が実現されるのは、この、完全な独りである状態においてのみである。
言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではないので、危険なものである。言葉は意味、概念を運ぶが、しかし言葉はそれが指し示すものではない。したがって、わたしが永遠なるものに関して語るとき、もしわたしの言葉に影響されたり、その信仰に囚われたりするだけならば、それはとても子供じみていると理解しなければならない。
永遠なるものが存在するかどうかを発見するためには、時間とは何かを理解する必要がある。時間とは最も厄介な代物だ。年表的時間、時間ではかれる時間のことを言っているのではない。どちらも目に見え、必要なものである。ここで話しているのは、心理的継続としての時間である。この継続性なくして生活できるだろうか? 継続性を与えるものは、まさしく思考である。もし何かを絶えず考えるとすれば、それはひとつの継続性をもつ。もし妻の写真を毎日眺めるとすれば、それにある継続性を与えることになる。
この世で、行動に継続性を与えることなく生き、結果として、すべての行動にあらためて初めて出会うといったことが可能だろうか? すなわち、一日中のすべての行動のたびに精神的に死に、その結果、心は過去をけっして蓄積することも、過去から汚染されることもなく、つねに新しく、新鮮、無垢であることができるだろうか? そのようなことは可能であり、人はそのように生きることができる。しかし、それがあなたにとっても本当だという意味ではない。あなたは、自分自身で発見しなければならない。
【『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ:中川正生〈なかがわ・まさお〉訳(めるくまーる、2007年)以下同】
すでに話したように、言葉、シンボルは、実在ではない。「木」という言葉は、実際の木ではない。したがって人は、言葉に捕らえられないように十分用心しなければならない。言葉、シンボルから自由なとき、心は驚くほど敏感になり、ものを発見する状態になる。
だが、石遠〈せきえん〉はちがう。
屋根をみあげて、草が腐ってきたかな、などという。甕(かめ)の破片を手にとり、土のこねかたが浅かったのだろう、などという。そういう感想のひとつひとつは、たとえば、
――形のあるものは、かならずこわれる。
というような、あきらめにも似た認識からは遠く、ものごとをかならず人の営為のなかでとらえ、人の工夫や努力の足りなさを訴えているようにきこえた。
おなじことばではないが、そのようなことを介推〈かいすい〉は母にいったことがある。すると母は、
「ああ、石〈せき〉さんは、人の限りということがわかっている人ですね」
と、即座にいった。
このこたえのほうが、介推にはむずかしかった。
【『介子推』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】
棒を手にした介推は、これまで感じたことのない不安をおぼえた。
虎と戦うことが怖いということではない。
棒がかるいのである。
その棒をつかむと、自分まで地から浮きあがりそうに感じる。棒から手をはなすと、自身の体重にもどる。その奇妙さが介推に大いに不安をあたえた。
あてはない。
あの老人があらわれるのを待つだけである。
介推は一昼夜を山中ですごした。
――わたしは耳がよくなったのか。
と、介推は耳に手をあててみた。物音がくっきりときこえる。耳をふさいでみても、物音が小さくなったという感じはしない。
――棒のせいであろうか。
と、おもい、棒をはなしてみても、その感覚に変化はない。
翌日も、山中をさまよっただけでおわった。
だが、介推は自身が新鮮に洗われたという感動をおぼえた。
生きている者は、音を発する。
風に揺れる木も草も、岩清水でさえも、生きている。山中で起居していると、山の呼吸と同化してゆく。その呼吸は、人だけがよりあつまっている里にはないもので、ゆったりと大きく、また深いものである。
――あの虎は、この調和を乱している。
いろいろなものがよりあつまって山はできている。山は和音そのものだといってよい。虎はその和音を破壊しているにちがいない。
舎(いえ)にむかう介推のからだのなかに、異常な高鳴りがある。
閻楚〈えんそ〉の剣を棒でうけたとき、
――重公子〈ちょうこうし〉とは、それほどの人か。
と、実感した。それほどの人というのは、このようなすさまじい剣で狙われる人、ということで、重耳〈ちょうじ〉が存在する尊さというものを、かえってその剣がおしえてくれた。
――重公子を守りぬいてやる。
介推のからだ全体がそう叫んでいた。
このやりとりを、たまたま介推は近くでみていた。
――公子はまだ君主になっていないのに、咎犯〈きゅうはん〉はもう賞をねだっている。
そうみえた。
下(しも)はその罪を義とし、上(かみ)はその姦(かん)を賞し、上下(しょうか)あい蒙(あざむ)く。
介推がそういったとき、母は、
――ああ、この子はまだ閻楚〈えんそ〉と戦っているのだ。
と、察した。下は臣下のことである。臣下は自分の罪を義にすりかえた。しかも上、すなわち君主はその姦邪(かんじゃ)を賞した。それでは臣下と君主とがあざむきあっていることになる。
「そういう人々がいるところに、わたしはいたくないのです」
口調は激しくないのだが、強いことばである。
【スティグマ】という言葉を用いたのは、明らかに、視覚の鋭かったギリシア人が最初であった。それは肉体上の徴(しるし)をいい表す言葉であり、その徴は、つけている者の徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人びとに告知するために考案されたものであった。徴は肉体に刻みつけられるか、焼きつけられて、その徴をつけた者は奴隷、犯罪者、謀叛人──すなわち、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者(とくに公共の場所では)であることを告知したのであった。
【『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン:石黒毅〈いしぐろ・たけし〉訳(せりか書房、2001年)以下同】
社会は、人びとをいくつかのカテゴリーに区分する手段と、それぞれのカテゴリーの成員に一般的で自然と感じられる属性のいっさいを画定している。さまざまの社会的場面(セッティング)が、そこで通常出会う人びとのカテゴリーをも決定している。状況のはっきりした場面では社会的交渉のきまった手順があるので、われわれはとくに注意したり頭を使わなくても、予想されている他者と交渉することができる。したがって未知の人が面前に現われても、われわれは普通、最初に目につく外見から、彼のカテゴリーとか属性、すなわち彼の〈社会的アイデンティティ〉を想定することができるのである。
相手の人にわれわれが帰属させている性格は、予想された行為から顧みて(in potential retrospect)行なわれる性格付与──すなわち〈実効をもつ〉性格づけ、すなわち【対他的な社会的アイデンティティ】(a virtual sosial identity)とよぶのがよかろう。
未知の人が、われわれの面前にいる間に、彼に適合的と思われるカテゴリー所属の他の人びとと異なっていることを示す属性、それも望ましくない種類の属性──極端な場合はまったく悪人であるとか、危険人物であるとか、無能であるとかいう──をもっていることが証明されることもあり得る。このような場合彼はわれわれの心のなかで健全で正常な人から汚れた卑小な人に貶(おとし)められる。この種の属性がスティグマなのである。ことに人の信頼/面目を失わせる(discredit)働きが非常に広汎にわたるときに、この種の属性はスティグマなのである。この属性はまた欠点/瑕疵(かし)、短所、ハンディキャップともよばれる。スティグマは、対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの間のある特殊な乖離を構成している。
そこでスティグマという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性をいい表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなく関係を表現する言葉なのだ、ということである。
たとえば精神疾患の病歴がある人たちは、配偶者とか雇主と感情的に激しく衝突するのをまま恐れる。というのは、感情を表出すると、それが精神疾患の徴候とされるのではないかという懸念があるからである。精神的に障害のある者も同様の偶発的問題に直面する。
知的能力が低い者が何らかの面倒に巻き込まれると、その面倒は多かれ少なかれ自動的に〈知的障害〉に起因するものとされるが、〈通常の知能〉の人が似たような面倒に巻き込まれても、とくにこれといった原因の徴候とは見られないのである。
クリントン米国務長官は13日、パレスチナが目指している国連での国家承認についてパレスチナ側などと協議するため、先週中東を訪問したヘイル中東和平担当特使を再び同地域に派遣することを明らかにした。国務省で記者団に語った。
クリントン氏は「永続する解決に至る唯一の道は関係者間の直接交渉だ」と述べ、パレスチナが国連で国家承認を求めることを諦め、イスラエルとの交渉に戻るよう要求した。
ヌーランド国務省報道官によると、ヘイル氏は14日と15日にイスラエルのネタニヤフ首相やパレスチナ自治政府のアッバス議長とそれぞれ会談する。(ワシントン共同)
【毎日jp 2011-09-14】
タルキ・アル=ファイサル王子(元サウジ情報省長官)がNYtimes紙に寄稿。パレスチナの国連参加申請を支持せよと。さもなくばイスラエルの安全は低下しイランが勢いをつけて中東戦争の再開確率が増すと。サウジはもはや米国との協力関係を保てずと。 http://t.co/l4fCptC
— deepthroat (@gloomynews) September 12, 2011
苦しくったって 悲しくったって 京都の中では 平家なの
「だけど……涙が出ちゃう。壇ノ浦だもん」
坊主がうなると 公家が弾むわ
【アルファルファモザイク】
米国土安全保障省(Department of Homeland Security)は8日、9.11米同時多発テロ10年に合わせ「具体的で信頼できる、未確認の脅威の情報」があるとして、警戒を呼びかけた。
米ホワイトハウス(White House)も、バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領が「信頼できる未確認情報」を受け、既に強化している警戒態勢を一層強めるよう指示したと表明。また、ニューヨーク(New York)のマイケル・ブルームバーグ(Michael Bloomberg)も記者会見し、トンネルや橋などの要所に配置する警察官を増員していることを明らかにした。
米メディア報道によると、8月に3人の不信人物が米国に入国し、トラックか乗用車に積み込んだ爆発物による攻撃を計画しているとの情報があるという。米テレビABCは、3人の出発地はアフガニスタンで、空路で米国入りしたとみられ、うち1人は米市民権を保持しているとみられるとの米政府高官の発言を伝えた。
また、米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(Wall Street Journal、WSJ)は対テロ対策担当の政府高官の話として、パキスタン出身の国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)の戦闘員が、ワシントンD.C.(Washington D.C.)とニューヨーク(New York)を狙った連続自動車爆弾攻撃を計画している恐れがあると報じている。
【AFP 2011-09-09】
われわれが生活と呼ぶ不断の戦いにおいて、われわれは自分たちが育った社会、それが共産主義社会であれ、いわゆる自由社会であれ、それにしたがって行動の基準を確立しようとする。そして、ヒンズー教や回教もしくはキリスト教、あるいはわれわれがたまたま関係する他の宗教といった伝統的存在の一部としてその行動基準を受けいれるのである。また、何が正しい行為で何が間違った行為であるか、そして何が正しい思想で何が間違った思想であるかを誰かに教わり、それを一つの絶対的基準として遵奉するが、その場合、すでにわれわれの行動と思考は型にはまったものになり、あらゆるものに対して機械的な反応しかできなくなる。このことは、われわれ自身の中にきわめて容易に見出すことができるのである。
何世紀もの間、われわれは学校の教師や権威者、書物や聖者の教えによって育て導かれてきている。われわれはいう、「あの丘や山や陸地の向うには何があるのでしょうか、本当のことを全部教えて下さい」と、そして彼らから与えられた説明に満足し、教えられたとおりに生きてゆく。だが、その人生は浅薄で、しかも空虚なものにすぎない。われわれはそこで、哀れな中古品(セコハン)人間になりはてる。自分の性向と傾向にしたがうか、あるいは境遇や環境に強制されて、その教えられた言葉を固守して生きてゆくだけである。われわれ人間はあらゆる種類の存在の影響によって生みだされた産物であって、何一つとして新しいものはわれわれの中には存在しないし、われわれ自身で発見したもの、独創的で清新で明確なものは何一つ存在しない。
【『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ著、メリー・ルーチェンス編:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳(霞ケ関書房、1970年)】
米国務省のヌランド報道官は8日、パレスチナが国連加盟を申請した場合、米国が安全保障理事会での採決で拒否権を行使する方針であることを明らかにした。
米政府はパレスチナの国連加盟問題をめぐり、イスラエルとともに反対する姿勢を繰り返し示してきたが、拒否権発動を明言したのは初めて。
ヌランド報道官は記者会見で、「米国は(国連本部がある)ニューヨークでパレスチナが国家樹立を目指して行っている動きに反対を表明する。国家樹立は交渉を通じてのみ達成可能だ」と強調した。
ただ、外交関係者からは、今月の国連総会でパレスチナがどのような動きに出るかはっきりしていないとの声も聞かれ、パレスチナが安保理の勧告が必要のない「非加盟国」としての参加を要請する可能性もあるという。
【ロイター 2011-09-09】
最近では、中国やスペインがパレスチナの国連加盟を認める表明をしている。パレスチナが国家承認されて国連加盟すると、パレスチナがイスラエルの悪事を国際司法裁判所や人権理事会、安保理などに訴えることができるようになる。パレスチナ問題は、イスラエルの「国内問題」から、イスラエルが「隣国」パレスチナを侵略する「国際法違反」の行為に変質する。イスラエルは国際的に「悪」のレッテルを貼られ、かつてのイラクや最近のシリアのように経済制裁される可能性が高まる。
【「イスラエルを悪者に仕立てるトルコ」田中宇】