2014-01-05

不当に富むとそれが不幸のもとになる/『晏子』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光

言葉の正しさ
正(まさ)しき道理
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事
・不当に富むとそれが不幸のもとになる
社稷を主とす

『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

「不当に富むと、それが不幸のもとになる。名誉だけをさずかれば、それは人に奪われぬ」
 と、いい、湿りのない笑声を放った。
 実際、晏弱〈あんじゃく〉の心底には、暗さも湿りもなかった。

【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)】

 高厚〈こうこう〉という人物によって莱国(らいこく)攻略の報酬が怪しくなった。領地が増えないことを懸念した配下にかけた晏弱の言葉である。

 誰しも富を愛する。当今は富んでいないにもかかわらず富んだふりをするほどだ。身の丈を超えた家・クルマ・衣服、そして言葉。

 富は人々の心を揺らす。カネがあるとわかれば誰もが親切に扱ってくれる。お世辞・阿諛追従(あゆついしょう)で酒食にありつくことができれば安いものだ、とでも考えているのだろう。富者をさもしい連中が取り巻く。

 実際に求められているのは富ではなく心の余裕だろう。カネ=余裕となっているところに現代人の不幸がある。

 内面のものを熱望する者は  すでに偉大で富んでいる。(「エピメニデスの目ざめ」1814年、から)

【『ゲーテ格言集』ゲーテ:高橋健二編訳(新潮文庫、1952年)】

 我々の悲しい錯覚は外の富が内なる富を引き出してくれると固く信じていることだ。

 貧者から奪われたもの――それが富だ。だが真の富は奪えない。赤ん坊を見よ、彼らはただそこに存在するだけで既に富んでいる。満たされない心の穴を金品が埋めてくれると思ったら大間違いだ。



無である人は幸いなるかな!/『しなやかに生きるために 若い女性への手紙』J・クリシュナムルティ

2014-01-04

「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事/『晏子』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光

言葉の正しさ
正(まさ)しき道理
・「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事
不当に富むとそれが不幸のもとになる
社稷を主とす

『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 霊公〈れいこう〉が禁令を出したにもかかわらず男装はとどこまることなく女たちは丈夫の飾りを身につけた。思い余った霊公は足斬りや鼻を削(そ)ぎ落とす刑まで考えた。思考は錯綜するばかりで眼差しも虚(うつ)ろになった。それもそのはずで霊公は自分の周囲の女性たちには男装を認めていた。解決策をもたぬ臣下たちは霊公を避けるようになる。そこへ晏嬰〈あんえい〉が通りかかる。

 霊公は険しさを含んだ声で「その賢明さでわが足下を明るめ、汝の知恵でわが威令を回復させよ」と命じる。晏嬰〈あんえい〉は「いかなる儀についてでございましょう」とすっとぼけてみせた。霊公は丈夫の飾りを禁じたにもかかわらず守らないのはなぜか、「意見を申せ」と言い募る。

 霊公〈れいこう〉は口調を荒だてた。自分をおさえきれぬらしい。室外の臣は不安げに晏嬰〈あんえい〉をながめている。晏嬰の頭がわずかにあがった。
 が、晏嬰の顔をのぞきみることができる者がいたら、このときの表情に凛乎(りんこ)たる信念があることに、おどろいたであろう。晏嬰はむしろこのときを待っていたのである。
「恐れながら申し上げます」
 重苦しい空気をやぶるように溌剌(はつらつ)と声があがった。奇妙な明るさをふくんだ声で、それはいかにもこの場における霊公の心の情状にそぐわないものであったので、霊公は春の光をまぶしげにみていたときと同じ目つきをして、晏嬰をみた。
 晏嬰の澄明(ちょうめい)な声が霊公の耳にふたたびとどいた。
「丈夫の飾りにつきましては、君はこれを内におゆるしになり、外に禁じておられます。そのことをたとえてみますと、牛首(ぎゅうしゅ)を門にかけて、じつはなかで馬肉を売っているようなものです。なにゆえ君は、内において丈夫の飾りをお禁じになりませぬ。さすれば、外のことは、なんらご心配をなさることはございません」
 霊公の眼底が光った。
 鮮烈なことばが霊公の胸をよぎった。
 ――牛首を門にかけて、馬肉を内に売る。
 とは、これにまさる皮肉はなく、これにまさる諫言(かんげん)もない。霊公は詐欺(さぎ)をおこなっている肉屋にたとえられたのである。

【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)以下同】

 本書の白眉(はくび)をなす場面だ。誠とは唯々諾々(いいだくだく)と主(あるじ)に従うことではない。

「誠」という漢字は「言」+「成」で、「言」は「言葉」、「成」は「仕上げる・出来上がる・固める」です。自分の言葉を固く守って動くことのない心を「誠」と言います。

「まこと」は、「真」(ま)+「言」「事」(こと)で、「真」実である「事」・「言」葉(とそれを守る事)を意味します。

「誠・まこと」の意味と語源教えてください

 晏嬰〈あんえい〉は礼を尽くして単刀直入に真実を語った。簡にして要を得た言葉に感情の臭みはない。諫言の難しさはここにある。積もりに積もった感情があれば怒気や怨嗟(えんさ)となって主の人格を攻撃しかねない。晏嬰〈あんえい〉の心は晴朗(せいろう)であった。それにしても、まさか羊頭狗肉の故事が諫言に由来しているとは思わなかった。

 晏嬰〈あんえい〉は一言にして人情というものをつかんでみせ、霊公の矛盾を衝(つ)いた。
 霊公は怒りで全身がふるえたであろう。
 が、怒声を発する前に、吸いこんだ空気がさわやかであった。それが晏嬰の気というものであることをさとった霊公は、からりと晴れた口調で、その通りである、といった(中略)

 晏嬰のことばは、その日のうちに宮中にひろまり、半月後には国内で知らぬ者がいないほど人口に膾炙(かいしゃ)した。これが晏嬰の歴史への登場のありかたであった。驚嘆すべきあざやかさであった。
「これほどの勇者をみたことがない」
 と、賛辞を呈した晏父戎〈あんほじゅう〉は、晏嬰のとなりにすわっている晏弱にむかって表情をくずしてみせ、(後略)

 それからひと月も経たぬうちに男装をする女性はいなくなった。

 晏嬰〈あんえい〉の言葉に雷電が重なる。

時代の闇を放り投げた力士・雷電為右衛門/『雷電本紀』飯嶋和一

 本物の人物は何と似通っていることか。晏嬰〈あんえい〉は霊公に続いて荘公〈そうこう〉、景公〈けいこう〉の三代にわたって仕える。彼の諫言は終生止むことがなかった。



宗教の社会的側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

2014-01-03

正(まさ)しき道理/『晏子』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光

言葉の正しさ
・正(まさ)しき道理
「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事
不当に富むとそれが不幸のもとになる
社稷を主とす

『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

「自分でよくないとおもったことは、君公がなさってもよくない。そうはおもわぬか」
 と、押しかえすような大声をあげた。
 晏父戎〈あんほじゅう〉は喉(のど)に刃をあてられたごとく、顔をゆがめ、ことばにつまった。
 君主の生活と下級貴族の生活とはちがう。君主が美衣美食の生活をおくろうと、下級貴族はそれをまねすることはできない。上は上、下は下である。下の者が上の者を批判することは、つつしむべきである。それをおこなうことを僭越(せんえつ)という。おのれの職責をまっとうすることに専念すればよい。臣下というものはすべからくそうなのである。士分たる者は君主や上司の意にそうように努めよ、晏父戎〈あんほじゅう〉はそう教えられて育ち、そうすることが忠義であるといまもおもっている。
 が、晏嬰〈あんえい〉は一家の主になったわけではないのに、大臣たちを批判し、あまつさえ父の晏弱〈あんじゃく〉さえけなしている。僭越といえば、これより大なるものはなく、礼にも考道にも悖(もと)るではないか。
 晏父戎〈あんほじゅう〉はそうおもったが、その声は心のなかで小さく湧(わ)いただけで、なぜか、口をついてでてくるほどの勢いをもたなかった。それより、心のどこかで愧(は)じる色が生じた。君主をいさめるのは大臣たちの役目であり、士がおこなうべきでないと思い込んでいたこと、丈夫(じょうぶ)の飾りは風儀の乱れを招き、男どもは迷惑を感じているのに、そんなささいなことに口出しして上の怒りを買うのは愚かなことだと考え、たれもが口をつぐんでいること、などを晏嬰〈あんえい〉に指弾され、心のなかにめぐらしてあった古びた柵が蹴破(けやぶ)られたような気がした。
 ――真の忠義とはなにか。
 と、若年の者につきつけられた問いに、歴戦の勇士がうろたえた。ただしこのうろたえは爽快感(そうかいかん)をともなっていた。
 ――晏嬰〈あんえい〉のいう通りだ。
 と、認める気持ちが強くはたらいたからである。

【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)】

 斉の霊公は男装の麗人を好んだ。当然のように国中の女性が宝塚男優っぽくなる。

 心ある人々は問題だと考えていた。霊公本人も頭を抱え込んだ。晏父戎〈あんほじゅう〉は真面目であった。真面目ゆえに眼(まなこ)を高く転じることができなかったのだろう。

 晏嬰〈あんえい〉の言葉は同時代を生きた孔子が説いた「己の欲せざる所は、人に施すこと勿(なか)れ」(『論語』)とは温度が異なる。孔子が示したのは「恕」(じょ)=思いやりであった。一方、晏嬰〈あんえい〉が語ったのは「正(まさ)しき道理」であった。

 真面目で誠実な人々は組織を維持するのには役立つが、飛躍的に発展させることはない。それどころか忠節が結果的に腐敗へ導くのだ。彼らは国家や組織の体面を重んじて小さな問題を軽視するようになる。官僚主義がやがてあちこちに蟻の一穴(いっけつ)を作る。ダムが崩壊するのは時間の問題だ。

 晏嬰〈あんえい〉は諫言(かんげん)の人であった。しかもそこには万人が納得せざるを得ない響きと轟(とどろき)があった。官僚の道を説いた孔子が晏嬰〈あんえい〉を批判したのもむべなるかな。

 道理とは合理でもある。理(ことわり)は断りと語源を同じくする。

ことわり ※区分割りや割り振りをする際に、理に従って行う。
事割 - 事象を表現し認識する為に、区分割りすること。
言割 - 事象の表現や認識を言葉へ割り振ること。言葉り(ことはり)。
理 - 道理・法則・摂理・倫理・理由。事象の道。宇宙の摂理、自然の摂理、神の摂理、人の摂理のようなもの。ここから、倫理である神道・人道の精神が生じた。理路整然の理(神道=統治者側の道理。人道=人としての道理)。
断り - 本来、何かをする時に入れる理や道理。そこから派生して断る際に理由付をする事 となり、近年では 断る行為のみ に使われている。 また、邪道・邪意・邪気・まがごと を断つ為に理を入れる事もある。

「ことだま」の例:言霊の幸はふ国(ことだまのさきわうくに) - 美し国(うましくに)

 理なきゆえに無理という。道理は人と人とを結び合わせる。されば道理こそが国家の礎となろう。はて、小手をかざして周囲を見回しているのだが道理が見当たらないのはどうしたことか。福島の原発周辺に、沖縄の米軍基地に道理はあるか? パレスチナにアフリカ諸国に道理は存在するか? 世に、そして己に深く問え。己心を諌(いさ)めきった者のみが諫言を可能とする。


2014-01-02

言葉の正しさ/『晏子』宮城谷昌光


『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光
『介子推』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光

 ・言葉の正しさ
 ・正(まさ)しき道理
 ・「牛首を懸けて馬肉を売る」(羊頭狗肉)の故事
 ・不当に富むとそれが不幸のもとになる
 ・社稷を主とす

『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 晏弱〈あんじゃく/弱は飾り弓の意〉(?-紀元前556年)・晏嬰〈あんえい〉(?-紀元前500年)父子の二代に渡る物語である。子の晏嬰〈あんえい〉は中国春秋時代における斉(せい)国の名宰相として管仲〈かんちゅう〉と並び称される人物。司馬遷をして『史記』で「このような人物が今の世にあるならば御者となって仕えたい」とまで言わしめた。晏子〈あんし〉とは通常、子の晏嬰〈あんえい〉を指すが、宮城谷は親子ともども晏子と呼んで描いている。

 晏弱は武勇に秀でた大将軍であった。軍事的天才といってよい。莱(らい)という小国を攻める直前に配下の蔡朝〈さいちょう〉と南郭偃〈なんかくえん〉が晏弱邸を訪れる。二人は晏嬰〈あんえい〉があまりにも父親と似ていない姿に落胆を隠せない。10歳にはなっているようだが、5~6歳の幼子と見紛うほど小さかった。

 蔡朝〈さいちょう〉は慎重な言葉づかいで「このたび、御尊父は将軍になられた。そこで、ご嫡男であるあなたは、留守中はどんなことに心がけなさるのか」と問うた。

「君公のご安寧を念じております」
 晏嬰〈あんえい〉の声の大きさに、蔡朝〈さいちょう〉はおどろいた。蔡朝ばかりではない、南郭偃〈なんかくえん〉も目をみはった。
「君公の……、ふむ、それから」
 父が戦場にいるときでも、まず君主のぶじを祈るという晏嬰〈あんえい〉の心の姿勢に感心した。蔡朝は、かれにしては優しい声を出した。
「父上のご安寧を念じております」
 と、晏嬰〈あんえい〉はいった。
「嬰〈えい〉どの、それは、ご武運ということでは、ありませんか」
 と、割り込むように南郭偃〈なんかくえん〉がいった。その声にするどさがある。童子に語りかける口調ではない。
 晏嬰〈あんえい〉ははっきりと首をふった。
「いいえ、次に斉(せい)の民、すなわち兵の安寧を念じます。莱(らい)の民も安寧でいてもらいたいと思います」
「ほほう、すると、ご尊父の征伐は、なりたたない。なりたたなければ、なんのための将軍か、ということになりませんか」
 蔡朝〈さいちょう〉はこの童子との問答に気を入れた。
 晏嬰はつぶらな瞳(ひとみ)を蔡朝にむけたまま、小さな口から大きな声を放った。
「将軍はもともと君公にかわって蒙昧(もうまい)の民を正す者です。正すということは殺すこととおなじではありません。正さずして殺せば、遺恨が生じます。遺恨のある民を十たび伐(う)てば、遺恨は十倍します。そうではなく、将軍は君公の徳を奉じ、君公の徳をもって蒙(くら)さを照らせば、おのずとその地は平らぎ、民は心服いたしましょう。真に征すということは、その字の通り、行って正すということです。どうして武が要りましょうか」
 蔡朝は目を細めた。

【『晏子』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(新潮社、1994年/新潮文庫、1997年)以下同】

 言葉の正しさが鞭となって私の背中を打ち、涙まで催させる。配下の二人は父親の心情を勝手に慮(おもんぱか)って子を試している。だが少年晏嬰〈あんえい〉にそうした技巧の陰は微塵もない。

 晏嬰〈あんえい〉は大人になっても150cmに満たない身長であった。彼は生涯にわたって「小さな口から大きな声を放」ち、国家の行く末を案じては君主に諫言を行った。

 このやり取りはまだ続く。

 ――とても小童の論とは思われぬ。まるで碩人(せきじん)のいいそうなことではないか。
 と、蔡朝が考えているあいだに、南郭偃〈なんかくえん〉は晏嬰〈あんえい〉の利発さにかえって眉(まゆ)をひそめ、
「嬰どの。たしかに、そうにちがいない。が、それではあまりに清正(せいせい)ではないか。戦いは、そのようなものではない」
 と、たしなめるようにいった。晏嬰〈あんえい〉は南郭偃〈なんかくえん〉をみつめ、
「将軍は、古代では、神気をさずかって征(ゆ)く者です。将軍が清正でなければ、神気はさずからず、無辜(むこ)の民を殺すことになります。父上はそのような人ではないと思います」
 と、まっすぐにいった。
 突然、蔡朝は高らかに笑った。
「やめておけ、南郭子。わしは晏子〈あんし〉の家のために大いに祝いたくなったぞ」

 学問とはかくあるべきだ。原理や道理は人間の差異を乗り越える力を有する。

 正しき言葉は立つ。樹木のように。そして気魄(きはく)が言葉を押す。風のように。

 晏嬰〈あんえい〉は後に民の間で絶大な人気を博すようになる。敵が殺すことをためらうほどの名声であった。2500年後に私の胸を打つのだからそれも当然だ。

 彼は孝を尽くし、質素倹約を心掛けた。「三十年一狐裘」「豚肩豆を掩わず」との故事成語となって今に伝わる。

 年が明け、静かに問う。2500年後に名を残す現代人が果たして何人あるか、と。



晏子:中国百科
晏子について:塵核形成
晏子列伝

2014-01-01

生まれつき痛みを感じない人のほとんどは30歳までに死ぬ/『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ


 ・進化医学(またはダーウィン医学)というアプローチ
 ・自然淘汰は人間の幸福に関心がない
 ・痛みを感じられない人のほとんどは30歳までに死ぬ
 ・進化における平均の優位性
 ・平時の勇気、戦時の臆病

『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス
『失われてゆく、我々の内なる細菌』マーティン・J・ブレイザー
『マインドフル・ボディ ハーバード大学の人気教授が教える意識で身体を変える方法』エレン・J・ランガー

 非常にまれに、生まれつき痛みを感じない人がいる。そのような痛みから解放された生活は幸せのようだが、実はそうではない。痛みを感じとることができない人は、長いあいだ同じ姿勢でいることに不快感を感じないので、そわそわ身動きしないために、関節への血液の供給が損なわれ、青年期になるまでに関節が劣化してしまう。痛みを感じられない人のほとんどは、30歳までに死ぬ。

【『病気はなぜ、あるのか 進化医学による新しい理解』ランドルフ・M・ネシー&ジョージ・C・ウィリアムズ:長谷川眞理子、長谷川寿一、青木千里訳(新曜社、2001年)】

 明けましておめでとうございます。


 私の余生もあと20~30年と思われるので、一日一テキストを心掛けてゆきたい。

 歯科衛生士の女性から「この歯は神経を抜いてあるので痛みは感じませんよ」と言われた。すかさず「だったら、なぜすべての歯の神経を抜かないのだろう?」と訊(たず)ねると、「そうすると虫歯になっても痛みを感じなくなってしまいます」と答えた。で、彼女にこの話を紹介したわけ。

 痛みは生命の危機を告げるサインだ。我々は痛みを忌避するが、痛みを感じない人が若死にするという事実が逆説の真理となって胸に迫る。

 痛みと快楽は同一線上にある。極端に走れば死に向かうのも一緒だ。苦痛を解消するのに麻薬(麻酔)を使うことからも明らかだ。そして快楽に溺れる人は痛みに弱い。

 私が常々不思議に思うのは誰もが苦痛を知っているのに、他人の痛みに鈍感な人々がいることだ。きっと痛みと痛みが及ぼす心理的作用は別物なのだろう。

 日本の政治は社会保障を切り捨て増税に向かっている。彼らはとっくに死んでしまっていて、もはや人の顔すら持っていない。財務省、政治家、新聞社……。おお、国民の痛みから快楽を貪る人々よ。

 尚、進化医学に関してはシャロン・モアレム、ジョナサン・プリンスの『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』という名著もある。

2013-12-31

私は少年院に行ってました


【少年犯罪】私は少年院に行ってました。 - てんこもり。

 正当防衛だと思う。頭(こうべ)を上げ、胸を張って生きよ。家族は皆、君よりも弱かっただけだ。

大阪産業大学付属高校同級生殺害事件

2013年に読んだ本ランキング


2012年に読んだ本ランキング
2013年に読んだ本

 ウーム、こうして一覧表にしておかなければ何ひとつ思い出すことができない。加齢恐るべし。これが50歳の現実だ。ランキングは日記ならぬ年記みたいなものだ。自分の心の変化がまざまざと甦(よみがえ)る。ニコラス・ジャクソン著『タックスヘイブンの闇  世界の富は盗まれている!』を書き忘れていたので、今年読了した本は66冊。

 まずはシングルヒット部門から。

  『人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵
  『写真集 野口健が見た世界 INTO the WORLD』野口健
  『日本文化の歴史』尾藤正英
  『本当の戦争 すべての人が戦争について知っておくべき437の事柄』クリス・ヘッジズ
  『心は孤独な数学者』藤原正彦
  『人間の叡智』佐藤優

 再読した作品は順位から外す。

  『なぜ投資のプロはサルに負けるのか? あるいは、お金持ちになれるたったひとつのクールなやり方』藤沢数希
  『金持ち父さん貧乏父さん アメリカの金持ちが教えてくれるお金の哲学』ロバート・キヨサキ、シャロン・レクター
  『自己の変容 クリシュナムルティ対話録』クリシュナムルティ

 次に仏教関連。『出家の覚悟』は読了していないが、スマナサーラ長老の正体を暴いてくれたので挙げておく。

  『出家の覚悟 日本を救う仏教からのアプローチ』アルボムッレ・スマナサーラ、南直哉
  『つぎはぎ仏教入門』呉智英
  『知的唯仏論』宮崎哲弥、呉智英

 これまた未読本。何とはなしに日蓮と道元の関係性を思った。歯が立たないのは飽くまでも私の脳味噌の問題だ。

  『宮廷人と異端者 ライプニッツとスピノザ、そして近代における神』マシュー・スチュアート

 以下、ミステリ。外れなし。

  『寒い国から帰ってきたスパイ』ジョン・ル・カレ
  『催眠』ラーシュ・ケプレル
  『エージェント6』トム・ロブ・スミス

 格闘技ファン必読の評伝。ただし内容はド演歌の世界だ。

  『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 宗教全般。

  『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
  『宗教の秘密 世界を意のままに操るカラクリの正体』苫米地英人

 マネー本は良書が多かった。興味のある人は昇順で読めばいい。

  『新・マネー敗戦 ドル暴落後の日本』岩本沙弓
  『為替占領 もうひとつの8.15 変動相場制に仕掛らけれたシステム』岩本沙弓
  『マネーロンダリング入門 国際金融詐欺からテロ資金まで』橘玲
  『タックス・ヘイブン 逃げていく税金』志賀櫻
  『タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!』ニコラス・ジャクソン
  『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
  『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
  『紙の約束 マネー、債務、新世界秩序』フィリップ・コガン
9位『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

 新しい知識として。

  『アフォーダンス 新しい認知の理論』佐々木正人

 政治関連。増税に向かう今、高橋本は必読のこと。

  『民主主義の未来 リベラリズムか独裁か拝金主義か』ファリード・ザカリア
  『官愚の国 なぜ日本では、政治家が官僚に屈するのか』高橋洋一
  『さらば財務省! 政権交代を嗤う官僚たちとの訣別』高橋洋一
10位『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹

 宮城谷昌光。

  『青雲はるかに』(上下)宮城谷昌光
  『太公望』(全3冊)宮城谷昌光

 ディストピアとオカルト。

  『科学とオカルト』池田清彦
  『われら』ザミャーチン
8位『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー

 科学関連。まあ毎年毎年驚くことばかりである。

3位『そして世界に不確定性がもたらされた ハイゼンベルクの物理学革命』デイヴィッド・リンドリー
  『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
7位『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
2位『宇宙をプログラムする宇宙 いかにして「計算する宇宙」は複雑な世界を創ったか?』セス・ロイド

 宗教原始と宇宙創世の世界。ブライアン・グリーンの下巻は挫折。必ず再チャレンジする。

5位『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
6位『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体』ブライアン・グリーン

 初期仏教関連。

  『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
  『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
4位『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 やはり同い年ということもあって佐村河内守を1位としておく。

1位『交響曲第一番』佐村河内守

2013-12-30

小室直樹、米原万里、稲瀬吉雄、J・H・ブルック、磯前順一、他


 10冊挫折、1冊読了。

首切り』ミシェル・クレスピ:山中芳美訳(ハヤカワ文庫、2002年)/スピード感に欠ける。

チャップ・ブックの世界 近代イギリス庶民と廉価本』小林章夫(講談社学術文庫、2007年)/サブカルっぽいノリで書くべきではなかったか。硬すぎる。

千の輝く太陽』カーレド・ホッセイニ:土屋政雄訳(ハヤカワepiブック・プラネット、2008年)/出だしが弱い。あるいは私が酒を呑み過ぎていた可能性も。

あらためて教養とは』村上陽一郎(新潮文庫、2009年)/雑誌への寄稿を「戯(ざ)れ文」と表現する気取りにうんざり。ま、文系なんてえのあこんなものか。直ぐ本を閉じた。

科学と宗教』Thomas Dixon:中村圭志訳(サイエンス・パレット、2013年)/鋭さを欠く。丸善のサイエンス・パレットというシリーズはなぜこんな不親切な表紙にしたのか?

科学と宗教 合理的自然観のパラドクス』J・H・ブルック:田中靖夫訳(工作舎、2005年)/前掲書でも紹介されている一冊。宗教と科学の互恵的関係を証明しようという試み。その意図に私は賛同できない。都合のよい事実を集めればどんな物語も可能だろうよ。

宗教概念あるいは宗教学の死』磯前順一(東京大学出版会、2012年)/哲学用語が多すぎて読む気がしない。

鳥が教えてくれた空』三宮麻由子〈さんのみや・まゆこ〉(NHK出版、1998年/集英社文庫、2004年)/4歳で失明した著者が鳥の鳴き声によって世界を広げるエッセイ。飛ばし読み。少女趣味の精神世界が肌に合わず。

クリシュナムルティ その対話的精神のダイナミズム』稲瀬吉雄(コスモス・ライブラリー、2013年)/考えることに酔っているような節が窺える。開いた直後に閉じた。それくらい文体が肌に合わない。

打ちのめされるようなすごい本』米原万里〈よねはら・まり〉(文藝春秋、2006年/文春文庫、2009年)/最初は読んだことを後悔した。読みたい本が陸続と増えてしまったためだ。150ページほど読んで宗教関連が少ないことに気づいた。巻末の書名索引を辿って『お笑い創価学会 信じる者は救われない 池田大作って、そんなにエライ?』( 佐高信〈さたか・まこと〉、テリー伊藤:光文社、2000年/知恵の森文庫、2002年)の書評を発見。何と「意外に真面目な本だ」と評価していた。共産党代議士の娘はやはり左翼だったのね。瑕疵(かし)では済まされない致命傷となっている。

 65冊目『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹(ダイヤモンド現代選書、1976年/中公文庫、1991年)/学問の王道を往く傑作。小室直樹の処女作。社会学ではなくして社会科学。経済学と心理学をも駆使して戦前戦後の日本が同じ行動様式に貫かれている事実を暴く。学生運動の件(くだり)はオウム真理教にもそのまま当てはまる。科学とは原理を示すものだ。この泰斗(たいと)を日本は厚遇しただろうか? 否である。しかし彼の数多い弟子たちが学問の花を開かせている。日本型組織の思考モデルを見事に抽出しており、今読んでも古さをまったく感じさせない。

2013-12-29

ENEOS「油売ってます」

2013-12-28

真の学びとは/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

開いた心

 学びとは何かを見出すことは、とても興味深いですね。私たちは本や教師から、数学や地理や歴史について学びます。ロンドンやモスクワやニューヨークがどこにあるのかを学びます。機械の働き方や鳥の巣作りやヒナの育て方などを学びます。観察と研究によって学びます。それが一つの種類の学びです。
 しかし、また他の種類の学び――経験から来る学びがありませんか。静かな河に帆を映した舟を見るとき、それはとてつもない経験ではないですか。そのとき、何が起きるでしょう。心はちょうど知識を貯えるように、その種の経験をも蓄えます。そして、次の夕方、同じような感情――喜びの経験、人生にとてもまれにしか訪れない平和の感覚を得ようと願い、舟を眺めるためにそこに出かけます。それで、心は勤勉に経験を蓄えているのです。そして、私たちが思考するのは、このように経験を記憶として蓄えているからでしょう。思考といわれるものは記憶の応答です。その河の舟を眺めて、喜びの感覚を感じたあとで、経験を記憶して蓄え、そのうえでそれを反復したがります。それで、思考の過程が働きだすのでしょう。
 私たちのほとんどは、どのように考えるのかを本当は知らないでしょう。私たちのほとんどは、本で読んだり、誰かの話してくれたことを単に反復するだけであり、その思考はごく限られた自分の経験の成果です。たとえ世界中を旅して回り、無数の経験を積み、さまざまな人に大勢会い、彼らの言いたいことを聴き、彼らの風俗、習慣、宗教を観察するにしても、私たちはそれらの記憶を保持するし、そこから思考といわれるものが生じるのです。私たちは比較し、判断し、選択し、この過程によって生に対する何らかの合理的な態度を見つけたいと願います。しかし、その種の思考はごく限られていて、ごく狭い範囲に限定されています。河の舟や、死体がガートの焼き場に運ばれていったり、村の女性が重い荷物を運んでいるのを見るような経験はするのです。これらすべての感銘はそこにありますが、私たちはとても鈍感なので、それは私たちに染みこんで熟すことがないのです。そして、ただまわりのあらゆるものへの敏感さによって、自分の条件づけに制限されていない異なった思考が始まるのです。
 何らかの信条に固くすがりついているなら、君たちはその特定の先入観や伝統によってあらゆるものを見るのです。現実との接触を持ちません。君たちは、村の女性が重い荷物を町に運んでいるのに気づいたことがありますか。それに本当に気づくとき、君はどうなり、何を感じるでしょう。それとも、これらの女性が通っていくのはしばしば見ているので、慣れてしまったためにまったく何の感情も持たないし、したがって彼女たちにはほとんど気づかないのでしょうか。そして、初めてあるものを観察するときでさえも、どうなるでしょう。先入観にしたがって見るものを自動的に解釈するでしょう。共産主義者、社会主義者、資本主義者、その他「主義者」という自分の条件づけにしたがってそれを経験するのです。ところが、これらのもののいずれでもなく、そのためにどんな観念や信念の幕をも通して見ず、実際に直かに接触するなら、そのとき君は、自分とその観察するものとの間には、なんというとてつもない関係があるのかと気づくでしょう。先入観や偏見を持たずに開いているなら、そのときは、まわりのあらゆるものがとてつもなく興味深くなり、ものすごく生き生きとしてくるでしょう。
 それで、若いうちに、これらすべてのことに気づくことがとても重要であるわけです。河の舟に気づきなさい。通り過ぎる汽車を眺め、農夫が重い荷物を運んでいるのをごらんなさい。豊かな者の高慢さ、大臣や偉大な人々、自分はたくさんのことを知っていると考える人たちの誇りを観察するのです。ただ彼らを眺めてごらんなさい。批判してはいけません。批判したとたんに、君は関係していないし、すでに君自身と彼らとの間に障壁を抱えています。しかし、単に観察するだけなら、そのとき君は人々や物事と直接に関係を持つでしょう。鋭く機敏に判断せずに、結論を下さずに観察できるなら、思考が驚くほどに冴えてくるのがわかるでしょう。そのときは、いつのときにも学んでいるのです。
 君たちのまわりのいたるところに、誕生と死、金や地位や権力のための闘い、生と呼ばれる果てしない過程がありますね。君たちはたとえ幼い間でも、ときには、これはどういうことだろうと思いませんか。私たちのほとんどは答えをほしがり、それがどういうことかを【教えて】ほしいでしょう。それで、政治や宗教の本を取り上げたり、誰かに教えてほしいと言うのです。しかし、誰も私たちには教えられません。なぜなら、生は本によって理解できるものではないし、その意義は他の人に倣ったり、ある形の祈りによって察することができないからです。君と私はそれを自分自身で理解しなくてはなりません。それは、私たちが充分に生きていて、とても機敏で、見つめて、観察し、まわりのあらゆるものに興味を持つときにだけ、できるでしょう。そのときには、本当に幸せであるとはどのようなことかを発見するでしょう。
 ほとんどの人は不幸せです。そして、心に愛を持たないためにみじめです。君たちが君自身と人との間に障壁を持たないとき、人々を判断せずに、彼らに会って観察するとき、河の帆舟をただ見て、その美しさに喜ぶとき、心に愛が生じるでしょう。自分の先入観のために、ありのままの物事の観察をくもらせてはいけません。ただ観察してごらんなさい。すると、この単純な観察や、木や鳥や、歩いていたり、働いていたり、微笑んでいる人々への気づきから、君の内部に何かが起きるのを発見するでしょう。このとてつもないことが君に起きず、心に愛が生じないなら、生にはほとんど意味がありません。それで、君がこれらすべてのことの意義を理解するのを助けるように、教師が教育を受けることがとても重要であるわけです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】

「感動」では何かが足りない。クリシュナムルティが説く「学び」とは気づき&理解=変化を意味する。「学んだことのたった一つの証は変わることである」と林竹二〈はやし・たけじ〉は言った(『わたしの出会った子どもたち』灰谷健次郎)。

 変わることは「自分の中にまったく新しい何かが生まれる」ことだ。ここでハタと気づく。諸行無常とは世界の有為転変を説いたものであるが、瞬間瞬間自分自身も更新されている事実を示したのであろう。我々がそれを実感できないのは固定した自我を抱えているためだ。

 数日前に「学術的成果と真の学びとは別物だ」と書いた(歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男)。学問の世界における学びは技術であり、自我の上に構築され蓄積される。そこには常に成功や名利(みょうり)を欲する異臭が漂う。だから功成り名を遂げた学者連中は勇んで御用学者の道を辿るのだろう。

 こんなところにも聖俗の道があるのだ。例えば本を著すチャンスがあったとしよう。大半の人々が何らかの「売る努力」を試みるはずだ。こうして「わかりやすさ」が「大衆迎合」に変貌する。上下の違いはあろうとも迎合に変わりはない。自らの意に随(したが)うことは難しい。

 せっかくなのでもうひとつ紹介しよう。

 結局、生のとてつもない深みを測ったり、神や真理とは何かを見出すには、自由がなくてはなりません。そして、見出し、学ぶ自由は経験をとおしてあるのでしょうか。
 君たちは経験とは何かということを、考えたことがありますか。それは挑戦に応じた感情でしょう。挑戦に応じることが経験です。そして、君は経験をとおして学ぶのでしょうか。挑戦や刺激に応じるとき、君の応答は自分の条件づけや受けた教育、文化的、宗教的、社会的、経済的な背景に基づいています。ヒンドゥー教徒やキリスト教徒や共産主義者や何であろうとも、自分の背景に条件づけられて、挑戦に応じます。自分の背景を離れなければ、どの挑戦への応答もただその背景を強めたり、修正するだけです。それゆえに本当は決して自由に、真理とは何か、神とは何かを探究し、発見し、理解することはできません。
 それで、経験では自由にならないし、経験をとおした学びはただ、自分の古い条件づけに基づいて、新しい型を作る過程にすぎません。このことを理解することが、とても重要だと思います。なぜなら、私たちは大きくなると、経験をとおして学ぼうと思い、自分の経験にますます立て籠もってゆくからです。しかし、何を学ぶのかは背景が指定します。それは、私たちは経験によって学ぶけれども、経験をとおしては決して自由がなく、条件づけの修正があるということなのです。
 そこで、学びとは何でしょう。君たちは読み書きの方法や静かな坐り方、従ったり、従わなかったりするすべなどを学ぶことから始めます。あれやこれやの国の歴史を学んだり、伝達に必要な言語を学びます。生計の立て方や畑の肥やし方などを学びます。しかし、心が条件づけから自由な学びの状態、探究のない状態はあるのでしょうか。質問が理解できますか。
 学びというものは、適応し、がまんし、征服する連続的な過程です。私たちは何かを避けたり、得たりするために学びます。そこで、心が学びではなく、【ある】ということの器になるような状態はあるのでしょうか。違いはわかりますか。習得したり、得たり、避けたりしているかぎり、心は学ばなくてはなりません。そして、このような学びにはいつもたいへんな緊張やがまんがあるのです。学ぶには、集中しなくてはならないでしょう。そして、集中とは何でしょう。
 君たちは何かに集中するとき、何が起きるのか、気づいたことがありますか。勉強したくない本を勉強するように要求されるとき、たとえ勉強したいにしても、他のことはがまんして、わきに置かなくてはなりません。集中するために、窓の外を見たい、人に話をしたいという意向をがまんします。それで、集中にはいつも努力があるでしょう。集中には、何かを獲得するために学ぶ動機や誘因や努力があるのです。そして、人生はそのような努力や、学ぼうとしている緊張状態の連続です。しかし、まったく緊張がなく、獲得がなく、知識の積み重ねもなければ、そのとき心ははるかに深く、早く学ぶことができないでしょうか。そのとき心は、真理とは何か、美しさとは何か、神とは何かを見出す探究の器になるのです――それは本当は、知識や社会、宗教や文化や条件づけの権威であろうとも、どんな権威にも服従しないということなのです。
 何が真実かを見出せるのは、心が知識の重荷から自由であるときだけでしょう。そして、見出す過程には蓄積がないでしょう。経験したり、学んだことを蓄積しはじめたとたんに、それは心を捕える拠点になり、さらに進むことを阻みます。探究の過程では、心は日に日に学んだことを脱ぎ捨ててしまうので、いつもはつらつとして、昨日の経験に汚染されていないのです。真理は生きています。静止していません。そして、真理を発見するような心もまた、知識や経験の重荷を負わずに、生きていなくてはなりません。そのときにだけ、真理の生じてくる状態があるのです。
 こういうことは言葉の意味においてはむずかしいかもしれませんが、心を込めるなら、その意味はむずかしくはありません。生の深い事柄を探究するには、心は自由でなくてはなりません。しかし、学んで、その学びをそれ以上の探究の基本にしたとたんに、心は自由ではないし、もはや探究していないのです。

 クリシュナムルティという風によって脳内のシナプスが舞い上がり、そして飛翔する。

 我々は経験を重んじる。なぜなら経験こそが自我の骨格であるからだ。私が小林秀雄を信用しないのは彼が経験至上主義者であるためだ(『新潮CD講演 小林秀雄講演 第2巻』)。

 認知は必ず誤謬を伴う(認知バイアス)。経験や体験は「自分」というフィルターを通して感得されたものだ。そして記憶は修正と捏造(ねつぞう)を繰り返す(『なぜ人はエイリアンに誘拐されたと思うのか』スーザン・A・クランシー)。

 答えは言葉そのものにある。経験の「験」の字は「ためす」「しるす」を意味する。すなわち経験とはその時その場での感覚的シンボルに過ぎないのだ。

 我々が経験に照らして物事を判断する時、新たな出来事は古いカテゴリーに押し入れられる。そう。血液型占いと一緒だ。このようにして25歳を過ぎたあたりから「新しい何か」は自分の心の中で殺されてゆく。「私」は傷ついた古いレコードのように同じ反応を繰り返す。「これが私らしさだ」と自慢しながら。

 それにしても何ということか。クリシュナムルティは経験も集中も否定する。当然のように努力と理想も否定する(『自由とは何か』J・クリシュナムルティ)。彼が肯定したのは自由だけであった。その自由もありきたりではない。極言すれば「感じる自由」であり「見る自由」であった。

 我々の心はいつも波立っている。明鏡止水の如く心を静まらせれば、一滴(ひとしずく)の水からも無限の波紋を生むことができるに違いない。



「知る」ことは「離れる」こと/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳

2013-12-27

A級戦犯容疑者

哲学と不幸


ラ・ロシュフコー箴言集 (岩波文庫)

2013-12-26

『ライ・トゥ・ミー 嘘は真実を語る』のモデル、ポール・エクマン


 精神行動分析学者であるカル・ライトマンが、「微表情」と呼ばれる一瞬の表情や仕草から嘘を見破ることで、犯罪捜査をはじめとするトラブル解決の手助けをする姿を描く。主人公であるカル・ライトマンは、実在の精神行動分析学者であるポール・エクマンをモデルにしている。実際にエクマンが体験したことが、そのまま主人公の過去として描かれている部分がある。

Wikipedia - ライ・トゥ・ミー



 ポール・エクマン(Paul Ekman、1934年 - )は感情と表情に関する先駆的な研究を行ったアメリカ合衆国の心理学者。20世紀の傑出した心理学者100人に選ばれた。アメリカのテレビドラマ『Lie to Me(ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間)』の主人公カル・ライトマン博士のモデルとなった。

 マーガレット・ミードを含む一部の人類学者の信念に反して、エクマンは表情が文化依存的ではなくて人類に普遍的な特徴であり生得的基盤を持つことを明らかにした。エクマンの発見は現在科学者から広く受け入れられている。エクマンが普遍的であると結論したのは怒り、嫌悪、恐れ、喜び、悲しみ、驚きである。軽蔑に関しては普遍的であることを示す予備的な証拠があるが、まだ議論は決着していない。

 エクマンはあらゆる表情を分類するためにFACS(Facial Action Coding System、顔動作記述システム)を考案した。これは表情に関連する精神医学や犯罪捜査の分野で幅広く利用されている。エクマンは表情以外にも広く非言語コミュニケーションの研究を行った。同情、利他的行為や平和的な個人関係の科学的解明にも尽くした。さらに人々が嘘をつくこと、嘘を見破ることの社会的な側面の研究にも貢献した。ディミトリス・メタクサスとともに視覚的嘘発見器の開発を行っている。

Wikipedia - ポール・エクマン

顔は口ほどに嘘をつく子どもはなぜ嘘をつくのか

ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン1 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン2 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン3 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]



関連書:キネシクス

ウォッチメイカー〈上〉 (文春文庫)ウォッチメイカー〈下〉 (文春文庫)スリーピング・ドール〈上〉 (文春文庫)スリーピング・ドール〈下〉 (文春文庫)

ロードサイド・クロス 上 (文春文庫)ロードサイド・クロス 下 (文春文庫)バーニング・ワイヤー

カルト教団のリーダーvsキネシクス/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー

2013-12-25

「女性は男性より将棋が弱い」


 ・「女性は男性より将棋が弱い」

『将棋の子』大崎善生
『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編

 世の中には、なぜという理由がきちんと説明できない事実というものがある。たとえば「女性は男性より将棋が弱い」という事実。もちろん、ヘボ将棋を指す男など苦もなくやっつける女性はいくらもいるのだが、頂点を比べれば、男女の力の差は厳然として存在する。▼いま女性で一番強いといわれる里見香奈さん(21)は一方で女流棋士として活躍し、一方では奨励会という名の棋士養成機関でプロの卵の少年にまじってしのぎを削っている。女性だけが少々甘い基準でなれる「女流棋士」は、男であれ女であれ奨励会を突破しなければなることができない「棋士」とは格がまったく違う。▼その里見さんが奨励会で一番上の三段に昇段し、棋士までもう一歩に迫った。棋士はおろか奨励会三段になった女性すらこれまで一人もいなかったのだから、快挙である。つぎは三段の40人ほどが戦う半年ごとのリーグ戦が待っている。上位2人に入れば、「女流最強棋士兼棋士の卵」から晴れて「女性初の棋士」である。▼とはいえ三段から棋士になれるのは半数以下という。「奨励会員なんてのは、虫ケラみたいなものなんだ」。奨励会の厳しさを描いた「将棋の子」(大崎善生著)にそんな一言がある。棋士を目指す貪欲な少年たちとどう戦うのか。里見さんのこれからは、大げさにいえば「将棋における男と女」の常識に一撃を加えうる。

【「春秋」/日本経済新聞 2013-12-25】

2013-12-24

満面の笑み


 セピア調ではあるが、多分それほど古い写真ではない。カメラによる画質なのだろう。外から戻ったばかりか、あるいは部屋が寒いのか。丼から顔を上げた少女が笑い声を立てる。懐かしい光景だ。無着成恭の『山びこ学校』(青銅社、1951年/角川文庫、1992年/岩波文庫、1995年)に「みんなゲラゲラでんぐりかえる(ひっくりかえる)ほど笑った」とある。でんぐり返るという言葉は北海道でも使う。私が子供の時分は「腹を抱えて笑った」ものだ。今はどうか。「爆笑」という言葉が誤って多用されている。本来は大勢の人々がどっと笑う様子を指す言葉だ。でも今時は一人称でも「爆笑した」と言ってのける。音の響きは威勢がよいのだが、「爆笑」には笑わせられたという受け身の姿勢を感じる。身体の運動を欠いた口先だけの笑いがあちこちから聞こえてくる。時に蔑みが込められることも珍しくない。写真の向こうで笑う少女の顔は天真爛漫そのものだ。強烈な伝染性をもって見る者の眼尻を下げてしまう。年の瀬は人それぞれの苦悩を深める時期でもある。そんな人々にこそこの写真を見てもらいたい。少女につられてマグカップのペコちゃんも笑っているよ。