2009-12-22

主人公は傷ついたホームレス女性/『喪失』カーリン・アルヴテーゲン


『罪』カーリン・アルヴテーゲン

 ・主人公は傷ついたホームレス女性

『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン

ミステリ&SF

 今、北欧ミステリが熱い。世界中で翻訳されているようだ。カーリン・アルヴテーゲンはスウェーデンの作家で1965年生まれ。アストリッド・リンドグレーンが大叔母に当たるそうだ。なるほど、と頷けるところが大。ストーリーテラーとしての腕前もさることながら、独特の薫りが漂う文章に魅了される。

 主人公はシビラという32歳のホームレス女性である。人生の疲労を隠し切れないものの、彼女はまだ美しい顔立ちを保っていた。ホテルのラウンジでそれとなく金持ちの男を物色し、相手が食事に誘うよう演出を施し、「財布がなくなった」と言って相手にホテル代を立て替えさせる。そんな手口で彼女は生活していた。ホテル代を払ってくれた男が何者かに惨殺される。警察の姿を見るや否やシビラは逃げ出す。寸借詐欺紛いの行為が露見したと錯覚したのだ。新聞はシビラを容疑者として報道し続けた。

 あの味が口中に広がった。それは彼女の頭が拒絶したものを受け入れてきた腹の一部から、じわっと滲み出てくる、馴染みの味だった。
 人々が彼女を支配しようとしている。
 またもや。
 過去に味わったことのある、恐ろしい息詰まるような感じがよみがえってくる。それはどこかの隅に隠れてじっと待機していたのだ。それがいままた暴れ出そうとしている。すべてが戻ってくる。彼女が必死で忘れようとしてきたことが。彼女が忘れることに成功したと思っていたすべてのことが。

【『喪失』カーリン・アルヴテーゲン:柳沢由美子〈やなぎさわ・ゆみこ〉訳(小学館文庫、2005年)】

 で、シビラがホームレスという立場で犯罪解決に挑むというのが大筋。そして彼女がホームレスとなるまでの人生がカットバックで挿入されている。シビラは資産家の娘で、幼い頃から心理的虐待を受けていた。

 原題には「失踪」という意味もあるようだが、訳者の柳沢はアルヴテーゲンに取材をした上で邦題を「喪失」にしたという。確かにこの方がいい。シビラは容疑者となることで真実を喪失し、虐待されたことで幼少期を喪失し、ホームレスとなることで自分自身を喪失していた。

 真犯人を見つけ出すことは、シビラにとって過去の自分を取り戻す行為でもあった。彼女は一人の少年と出会う。この少年がたった一人の味方となる。やや都合のいい展開とはなっているが、それでも最後のどんでん返しは手に汗握る。

 家族と社会の残酷さを炙(あぶ)り出した会心作だ。

2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五蘊仮和合(ごうんけわごう)がよく理解できる。

〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。

 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。

 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。

 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。

 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。

 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。

 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。

 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。

 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。

 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。





あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

2009-11-29

欲望が悲哀・不安・恐怖を生む/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 いかなるレベルでも、ほしい、なりたい、獲得したいという欲望があるかぎり、そこには必然的に心配や悲しみや恐怖があるのです。豊かになりたい、あれやこれやになりたいという野心は、野心自体の不潔さや腐敗性が見えるときにだけ、なくなります。どんな形の権勢欲も……首相、裁判官、宗教家、導師(グル)としての権勢欲も根本的に悪いとわかったとたんに、もはや権勢欲は持ちません。しかし、私たちには野心が腐敗的なこと、権勢欲が悪いことが見えません。反対に、善いことのために権力を使おう、と言うのです。これはまったくのたわごとです。まちがった手段は正しい目的のためには決して使えません。手段が悪ければ、目的もまた悪いでしょう。善は悪の反対ではないのです。悪いものがまったくなくなったときにだけ、善は生じてくるのです。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 欲望が満たされないと不安に駆られ、欲望が満たされると今度は失うことを恐れる。つまり欲望の充足を我々は部分的な幸福と思い込んでいるが、完全な錯覚だということ。それが証拠に、満たされた欲望によって獲得された幸福感は長く続かない。いわゆる相対的幸福(他人と比較して得られる幸福)は相対的である以上、上には上がいるわけだから絶対に幸福になれないという矛盾をはらんでいる。村一番の美人が日本一の美人にかなわないのと同じ話だ。しかも欲望というのは釣られて生じる性質があり、メディアは大衆消費社会の扇動に余念がない。鮮やかな色彩と刺激的な音楽や効果音でもって知覚できない領域に揺さぶりをかける。サブリミナル情報にさらされた我々は、必要でもない商品に向かって夢遊病者のようにさまよう。「あると便利」な品物が、「ないと不便」に変換される。所有する人が増えると今度は「ないと恥ずかしい」レベルにまで変化する。世の中に豊富な商品が出回れば出回るほど、我々は何となく居心地の悪さを感じている。物が空間を浸蝕しているためだ。たとえこの世のすべてを手に入れたとしても、我々の欲望は月を欲しがることだろう。ブッダは少欲知足(欲を少なくして足るを知る)と説いた。欲望を否定するのではなく、欲望から離れる生き方を勧めた。



・手段と目的
恐怖で支配する社会/『智恵からの創造 条件付けの教育を超えて』J・クリシュナムルティ
死の恐怖/『ちくま哲学の森 1 生きる技術』鶴見俊輔、森毅、井上ひさし、安野光雅、池内紀編

2009-11-18

自由の問題 3/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 クリシュナムルティは前回の部分で、「私達は安心したいがゆえに地位を欲し、肩書きによって自信や自尊心を手中にし、権力と権威を目指して生きている」。しかしながら、「何かに【なろう】という要求がある限り、自由はどこにもない」と語った。

 そして、「何かに【なろう】」――つまり、「理想」「模範」「目標」だ――としている姿勢を「模倣」であると鋭く糾弾する――

 そこで、教育の機能とは、君たちが子供のときから誰の模倣もせずに、いつのときにも君自身でいるように助けることなのです。これはたいへんに行いがたいことです。醜くても、美しくても、妬んでいても、嫉妬していても、いつもありのままの君でいて、それを理解する。ありのままでいることはとても困難です。なぜなら君は、ありのままは卑劣だし、ありのままを高尚なものに変えられさえしたらなんとすばらしいだろう、と考えるからです。しかし、そのようなことには決してなりません。ところが、実際のありのままを見つめて、理解するなら、まさにその理解の中に変革があるのです。それで、自由とは何か違ったものになろうとするところにも、何であろうとたまたましたくなったことをするところにも、伝統や親や導師(グル)の権威に従うところにもなく、ありのままの自分を刻々と理解するところにあるのです。
 君たちは、このための教育を受けていないでしょう。君たちの教育は、何かになるようにと励ましますが、それでは君自身を理解することにはなりません。君の「自己」はとても複雑なものなのです。それは単に学校に行ったり、けんかをしたり、ゲームをしたり、恐れている存在というだけではなく、隠れており明らかではないものでもあるのです。それは、君の考えるすべての思考だけではなく、他の人たちや新聞や指導者から心に入ったすべてのことからできています。そして、えらい人になりたがらないとき、模倣をしないとき、従わないときにだけ、そのすべてを理解することができるのです。それは本当は、何かになろうとする伝統のすべてに対して反逆しているとき、ということです。それが唯一の真の革命であり、とてつもない自由に通じています。この自由を涵養することが教育の本当の機能です。
 親や教師、そして君自身の欲望も、君が幸せで安全であるために何らかのものと一体化してほしいのです。しかし、智慧を持つには、これらの君を虜にし、潰してしまうすべての影響力は打ち破らなくてはならないでしょう。
 新しい世界の希望は、言葉だけではなくて実際に、何が偽りなのかを見て、それに対して反逆しはじめる君たちにあるのです。それで、正しい教育を求めなくてはならないわけです。というのは、伝統に基づいたり、ある思想家や理想家の体質にしたがって形作られたりしていない新しい世界を創造できるのは、自由の中で成長するときだけですから。しかし、君が単にえらい人になろうとしていたり、高尚なお手本を模倣しているかぎり、自由はありえません。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 ありのままの自分であれ、一切の伝統と権威に反逆せよ――まるでブッダ、まるで日蓮そのものである。違いを見つけることの方が難しそうだ。カーストという差別制度が社会に張り巡らされた後にブッダはインドに生まれ、武力に物を言わせる武家政治が台頭し、天変や地震が相次ぐ鎌倉時代に日蓮は登場した。双方ともそれまでの常識を徹底的にあげつらい、批判に批判を加え、人間という人間に語り抜いた。民の呻吟(しんぎん)に耳を傾け、苦悶をひたと見つめる中から真実の思想は生まれ出る。

 インドのバラモン教(古代ヒンドゥー教)は「過去世(かこぜ)の業(ごう)」を持ち出して「今世の差別」を正当化した。そして鎌倉時代の念仏は「この世で幸せになることは決してできないが、死んだ後に西方十万億の彼方の極楽浄土へ往生(おうじょう)できる」と説いた。いずれも、我々が知覚・思考し得ない「前世」や「あの世」の論理をもって、人々を「現状維持」の方向へ誘導する邪論ともいうべき代物だ。こうした思想が結果的に権力を容認し、擁護し、強化していることを見逃してはならない。

 印刷技術、通信、マスメディアが発達した現代社会において、「条件づけ」はますます容易になっている。隠された広告戦略が大衆の欲望に火を点ける。そして、否応(いやおう)なく情報の受け手という立場に貶(おとし)められた視聴者は、テレビの前でどんどん卑小な存在と化してゆく。我々は毒性が高いことを知りながらも、五感が刺激されるために依存性から抜け出すことがかなわなくなっている。まるで、LSDや覚醒剤のようだ。

「まだ殺されたわけではないから何とかなる」――甘いね。既に「生ける屍(しかばね)」だよ。あるいは、とっくに何度も死んでいる可能性すらある。

 偽りを見抜け。さもなければ、自分自身が偽りの存在となってしまうからだ。まなじりが裂けるほど目を見開いて、闇の向こう側にあるものをしかと捉えよとクリシュナムルティは教えている。

(※「自由の問題」は今回にて終了)

恐怖からの自由/『自由への道 空かける鳳のように』クリシュナムーテイ




生存適合OS/『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子

2009-11-17

自由の問題 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

「深い洞察」とは、自分の思考・精神・生の過程を束縛している“鎖”を自覚することだとクリシュナムルティは語った。深海の如き深さに達した時、精神は波立つことがなくなる。すると、鏡に映し出されたように「己の歪(ゆが)んだ姿」が自覚されるのだ。そこに「気づくか」「気づかないか」の違いが人の運命を分かつ。

「君たちは恐れている」ともクリシュナムルティは語った。我々が人生で目指しているのは成功であり、地位であり、人々からの称賛である。「周囲の人々からよく思われたい」「願わくは羨望の的となりたい」と日々涙ぐましい努力を重ねている。全員が同じゴールを目指しているため、好むと好まざるとにかかわらず順位が定まる。少しばかり運のよかった者は「勝ち組」と呼ばれているが、彼等は数多く存在する「負け組」の労働力から搾取しているだけに過ぎない。資本主義社会の競争原理とは、「資本の奪い合い」のことなのだから。

 伝統的な価値観は人々を、なかんずく子供達を画一化する。あたかも、スーパーの商品棚に陳列されている商品のように。少しでも傷があれば不良品として棚から外され、捨てられる運命にある。だからこそ、我々は社会という名の棚に必死でしがみつく。外されてしまえば、親兄弟からも白い目で見られる。このようにして我々は「世間の目」にどう映るかという価値観しか持てなくなったのだ。

 安心を求めるのは、「恐怖」と「不安」の裏返しである。居心地のいいソファに座っていても、心が休まることは決してない。社会、集団、コミュニティから受ける圧力によって、心は常にささくれ立っている。そして、傷つき、万力のような力でもって変形させられるのだ。この「変形」に従わせることが、実は教育の目的となっている。

 私たちのほとんどは、安心したいのではないですか。なんてすばらしい人たちだ、なんて美しく見えるんだ、なんととてつもない智慧があるんだろう、と言われたいのではないですか。そうでなければ、名前の後に肩書きをつけたりしないでしょう。そのようなものはすべて、私たちに自信や自尊心を与えてくれます。私たちはみんな有名人になりたいのです。そして、何かに【なりたく】なったとたんに、もはや自由ではないのです。
 ここを見てください。それが自由の問題を理解する本当の手掛かりだからです。政治家、権力、地位、権威というこの世界でも、徳高く、高尚に、聖人らしくなろうと切望するいわゆる精神世界でも、えらい人になりたくなったとたんに、もはや自由ではないのです。しかし、これらすべてのことの愚かしさを見て、そのために心が無垢であり、えらい人になりたいという欲望によって動かない人――そのような人は自由です。この単純さが理解できるなら、そのとてつもない美しさと深みも見えるでしょう。
 というのも、試験はその目的のために、君に地位を与え、えらい人にするためにあるからです。肩書きと地位と知識は何かになることを励まします。君たちは、親や先生たちが、人生で何かに到達しなければならないよ、おじさんやおじいさんのように成功しなければならないよ、と言うのに気づいたことがないですか。あるいは君たちは何かの英雄の手本を模倣したり、大師や聖人のようになろうとします。それで、君たちは決して自由ではないのです。大師や聖人や教師や親戚の手本に倣(なら)うにしても、特定の伝統を守るにしても、それはすべて君たちのほうの、何かに【なろう】という要求を意味しています。そして、自由があるのは、この事実を本当に理解するときだけなのです。(※強調点の箇所を【 】で括った)

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 我々が思い描いている自由は、名聞(みょうもん)や名利(みょうり)に支配された世界だった。静かに振り返ってみよう。どのような綺麗事を吐いたところで、我々が望む自由は間違いなく欲得づくで好き勝手なことができる立場ではないのか? つまり、「欲望を発散する自由」だったってわけだよ。どうりで、醜さと底の浅さが蔓延しているわけだ。

 真の自由とは「状況」や「環境」を意味するものではない。「魂の自由」のみが真の自由であろう。自由な人は獄につながれていても尚自由である。ネルソン・マンデラは27年間に及ぶ獄中生活を経て自由になったわけではない。彼の精神は牢獄の中でも自由であったはずだ。魂の牢獄につながれていたのは、塀の外側にいる南アフリカ国民であった。