2020-01-12

トレイルランニング/『ランニング・サイエンス』ジョン・ブルーワー


『最速で身につく 最新ミッドフットランメソッド』高岡尚司、金城みどり

 ・トレイルランニング

・『サブスリー漫画家 激走 山へ!』みやすのんき
『ランニング王国を生きる 文化人類学者がエチオピアで走りながら考えたこと』マイケル・クローリー

 もしあなたが体幹、やる気、バランス、スピード、持久力を1回のランニングで鍛えたいなら、スポーツジムの会員になることは忘れて、トレイルに出かけよう。オフロードのランニングは新しいスキルを丸ごと習得することでもあるが、同時に細かい距離や精確なスピードを気にするのを一切やめることでもある。絶景を楽しんだり、急峻な上りを制覇したり、野生動物を見つけたりしているときに、誰がペースなんか知りたいだろう? トレイルランニングとは体力を鍛えるだけでなく、減速して周囲のものを吸収する営みとも言える。ある意味では、わだちのついた柔らかな、予測のつかないでこぼこの地面を走るという行為の副産物として、体幹の強さ、足関節の可動性、全身のバランスの向上があるとも言える。足関節の可動性がすぐに向上し、地勢の読みかたや姿勢の変えかたが身につく。上りのゆっくりしたペースに対処し、下りの恐いほどのスピードに対処するために、走る速さを調整することも学ぶ。バランス、筋肉協調運動、反応速度の向上はすべて、定期的なトレイルランニングから生まれる。

【『ランニング・サイエンス』ジョン・ブルーワー:菅しおり〈すが・しおり〉訳(河出書房新社、2017年)】

 舗装していない道をトレイルという。一般的には登山道・遊歩道を指す言葉だ。類語にオフロードクロスカントリーなどがある。

 自転車で坂を目指した以上、ランニングでも坂に向かうのは当然である。最終的には丹沢周辺を走り回りたいと夢見ている。

 私にとって走る目的は二つしかない。まず汗をかくこと。次に煙草を減らすことである。健康や体力の増進はどうでもいい。今だからわかるのだが自転車に乗ろうと思ったのも結局汗をかきたかったからだろう。

 ランニングに関しては速度と距離もさほど気にしていない。とにかく長い時間走れるようになりたいのだ。そうすれば煙草の本数を減らせる。それゆえ私が目標とするのは12時間ランニングである。帰宅して12時間寝てしまえば5~6本の煙草で済みそうだ。「いっそのことやめてしまったらどうなんだ?」という声が聞こえてきそうだが、それができたら誰も苦労しない。

 私にとってランニングは瞑想である。家にいればどうしても本を読んでしまう。本から離れるためには運動が一番手っ取り早い。老境は晴走雨読で行こう。

進歩的文化人の仄めかし話法/『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一


・『書斎のポ・ト・フ』開高健、谷沢永一、向井敏
・『紙つぶて(全) 谷沢永一書評コラム』谷沢永一
『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武

 ・反日売国奴の原型・藤原惺窩
 ・進歩的文化人の仄めかし話法

『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
『北海道が危ない!』砂澤陣
『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
『自治労の正体』森口朗
『戦後教育で失われたもの』森口朗
『日教組』森口朗
『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
『愛国左派宣言』森口朗

 そこで進歩的文化人はそろって暗示論法を用いた。いわゆる仄(ほの)めかしの語法である。絶対に揚(あ)げ足をとられない口ごもりの発声である。天皇制打倒などとは口がさけても言わない。ひたすら皇室をあてこする。遠まわしに皮肉を並べる。用心深いことこのうえなしであった。
 たとえば大塚久雄(おおつか・ひさお/経済史学者、東大名誉教授)は、社会主義とも共産主義とも言いたくなかった。それらの言葉を用いた途端に底が割れるからである。そこで、よく考えた戦術として、「近代化」という聞こえのいい名称を活用することにした。日本はまだ近代化していない、と国民を叱りつけたのである。
 言葉面(づら)だけを受けとれば、そんな無茶苦茶な話はない。しかしこの近代化というあいまいなめいじは符牒(ふちょう)であった。のちに自分で解説するところによれば、彼の言う近代化なる用語は、実は、「社会主義への移行をも含めるようなものだったのである」そうな。大塚久雄が唱えた近代化のすすめとは、本当は、社会主義化のすすmであったのだ。それをかくして近代化、近代化とふりまわすのが、暗示論法の身上なのである。

【『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一〈たにざわ・えいいち〉(クレスト社、1995年/ワニ文庫、1999年)】

 肚(はら)の底から唸るように「ウム」と私は首肯した。顎が胸にのめり込んだほどだ(ウソ)。「仄めかし話法」とは言い得て妙だ。念頭に浮かぶのは佐藤優、姜尚中〈カン・サンジュン〉、森達也など。筑紫哲也〈ちくし・てつや〉はそのものと言ってよい。衣鉢を継ぐのは金平茂紀〈かねひら・しげのり〉か。TBSの「サンデーモーニング」も典型だ。彼らは答えを隠して疑問を口にする。「おかしいのではないでしょうか?」「疑問があると言わざるを得ません」「果たして国民は納得するのでしょうか?」ってな具合である。

 敗戦から21世紀に至るまで「愛国心」は禁句となった。他方、レッドパージ(1950年/昭和25年)以降、左翼は表立って共産主義革命を叫ぶことができなくなった。ゾルゲ事件シベリア抑留の影響も見逃せない。

 学生運動は終戦前後に生まれた若者たちによる一過性の暴発であった。それが証拠に60年安保(日米安保改定)後の選挙では自民党が圧勝している。国民は暴れ回る大学生ではなく岸信介を支持したのだ。とはいうものの新聞・テレビは学生運動に理解を示し、好意的な報道を続けた。こうしたムードの中で赤軍派によるよど号ハイジャック事件(1970年/昭和45年)が起こり、北朝鮮への拉致につながるのである(『宿命 「よど号」亡命者たちの秘密工作』高沢皓司)。

 簡単なリトマス試験紙を用意しよう。

 1.憲法改正をするべきではない。
 2.女系天皇を容認する。
 3.外国人参政権を認める。
 4.国旗・国歌に反対する。
 5.夫婦別姓に賛成する。

 すべて該当すれば真性左翼であり、純粋シンパといってよい。その他、政治家に関しては親中派・親韓派と親米派に大きく分かれる。独立派・自立派は今のところ現実的ではない。もしも有力代議士の中でそんなのがいたら田中角栄のように葬られることだろう。

2020-01-11

多すぎる指示詞・代名詞/『ウイルスは生きている』中屋敷均


『あなたの体は9割が細菌 微生物の生態系が崩れはじめた』アランナ・コリン
『心を操る寄生生物 感情から文化・社会まで』キャスリン・マコーリフ
『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー

 ・多すぎる指示詞・代名詞

 このことは二つの大きな疑問を我々に突きつける。一つは、我々ヒトとは一体、何者なのか? という深刻な問いだ。その昔、シンシチンを提供したウイルスと我々の祖先はまったく別の存在で、無関係に暮らしていたはずである。しかし、ある時、そのウイルスは我々の祖先に感染した。そしてシンシチンを提供するようになり、今も我々の体の中にいる。そのウイルスがいなければ胎盤は機能せず、ヒトもサルも他の哺乳動物も現在のような形では存在できなかったはずである。つまり我々の体の中にウイルスがいるから、我々は哺乳動物の「ヒト」として存在している。逆に言えば、ウイルスがいなければ、我々はヒトになっていない。少なくとも今とまったく同じヒト科ヒトではなかったであろう。我々は親から子へと遺伝子を受け継ぐだけでなく、感染したウイルスからも遺伝子を受け継いでいるのだ。もう一度言おう。我々はすでにウイルスと一体化しており、ウイルスがいなければ、我々はヒトではない。それでは我々ヒトとは、一体、何者か? 動物とウイルスの合いの子、キメラということなのだろうか?

【『ウイルスは生きている』中屋敷均〈なかやしき・ひとし〉(講談社現代新書、2016年)】

 帯に「成毛眞氏絶賛!」とある。見事に騙された。15ページに「その」が6ヶ、「それ」が4ヶ、「この」が1ヶ出てくる。たった15行に指示詞・代名詞がてんこ盛りで講談社の編集者は無能と評価せざるを得ない。どんなに内容がよくても、文章が悪いと思考力が揺れる。

 上記テキストもくどくてイライラさせられる。

キラキラした、もしくはギラギラした人生/『メッセージ 告白的青春論』丸山健二


『穴と海』丸山健二
『さらば、山のカモメよ』丸山健二

 ・キラキラした、もしくはギラギラした人生

『ミッドナイト・サン 新・北欧紀行』丸山健二
『野に降る星』丸山健二
『千日の瑠璃』丸山健二
『見よ 月が後を追う』 丸山健二
『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』丸山健二
『虹よ、冒涜の虹よ』丸山健二
『逃げ歌』丸山健二
『鉛のバラ』丸山健二
『荒野の庭』丸山健二

必読書リスト その一

 サラリーマンは上からの命令であまりにも立ち入った重大なことが左右され過ぎる。おれが小学校の6年生になるとき親父は転勤を命じられ、おれもいっしょに引っ越しをしなければならず、だがその新しい土地は実にくだらなかった。子どもながらにもおれはひどく腹を立てたものだ。自分の気に入った土地にも住めないなんて、ひどく屈辱的な立場ではないかと思った。世間にはそれがよくあることでも、おれには許せなかった。「この世にはままならないことがたくさんあるのだ」というような忠告には耳を貸したくなかった。
 おれの胸のうちにポカっと穴があいたのは、おそらく自由な生きざまへの入口の扉が開いた瞬間ではなかっただろうか。その計り知れない空しさの奥へ突っこんで行かなければ、キラキラした、もしくはギラギラした人生を歩むことができなかったのではないだろうか。何度でも繰り返すが、それは誰のためでもなくおれの人生だった。だから当然、時間も空間もすべておれのものでなければならなかった。社会的な、あるいは道義的な制約の存在などおれの知ったことではなかった。

【『メッセージ 告白的青春論』丸山健二(角川書店、1980年/角川文庫、1985年)】

 一部が『丸山健二エッセイ集成 第四巻 小説家の覚悟』に収められている。こうして見るとあまり書評を書いていないことがわかる。『逃げ歌』までの作品は粗方(あらかた)読んだ。

 私が初めてインターネットの回線を引いたのは1998年のことだ。Windows 98が搭載されたデスクトップパソコンは15万円以上した。パソコンに詳しい友人を伴って秋葉原の電気街を歩き回り、店員を騙して値引きさせたことを憶えている。私は既に友人宅でネット上の丸山健二情報を検索していた。「丸山健二ファンのページ」なるサイトがあって、書き込みデビューもそこの掲示板だった。翌年には読書グルームのサイトを自ら立ち上げ、少し経って「雪山堂」(せっせんどう)なる古本屋を開業した。2000年代初期において丸山健二の古書を最も扱ったのは間違いなく私であった。

 読書チームや古本屋の掲示板を通して実に様々な出会いがあった(『臨死体験』をめぐる書き込み)。元はと言えばこれまた丸山健二を通してつながった人脈だった。男臭い人々が多かったのは当然だろう。はみ出し者とまでは言わないが、少しばかりアウトローの雰囲気を漂わせるタイプが目立った。例外は品行方正を絵に描いたような私だけだ。

 私の父も転勤が多かった。旭川~函館~札幌~苫小牧~帯広と私が生まれてから8年間で四度も引っ越している。嫌がらせの意味もあったようだと後年母から聞いた。業を煮やした父は札幌で独立する。単身赴任という言葉を耳にするようになったのは1980年代のこと。幼い子供にとって転校は深刻な問題である。今までの友達全員を失うのだから当然だ。私も三度転校しているが皆の前に立って挨拶をするのも大きなストレスとなる。北海道内の転校だったから差別のようなものはなかったが、訛(なま)りの異なる地方へ行くことともなれば、いじめられることもあり得るだろう。

 会社の都合で家族が振り回されるというのがサラリーマン一家の宿命だ。嫌なら辞めればいい。そもそも人生の有限を思えば通勤に1時間以上かけるのは馬鹿げている。往復で2時間、つまり1週間で10時間、1年で21日間もの時間を移動に費やすこととなる。

 最近聞かれなくなったサラリーマンとは俸給生活者の謂(いい)である。日本企業の70%を占める中小企業も元請けの言いなりにならざるを得ないという点ではサラリーマンと大差がない。最大の問題は喧嘩ができなくなることだ。譲ってはいけない部分や越えてはならない一線で闘うのが普通だが、サラリーマンは賃金と引き替えにこれを手放す。小さな忍耐を繰り返すうちに家畜のような人生の色合いになってゆく。もう一つは会社という狭い世界の出来事ばかりが関心の対象となり、会社員以外の可能性が見えなくなってしまうことだ。一旦社会の規格にはまってしまうとそこから抜け出すことは思いの外難しい。

 バブル景気が絶頂に差し掛かった頃(1990年)、社畜なる言葉が生まれた。その後登場するブラック企業を想起させる言葉だ。ただし当時はそれほど悲惨な印象を受けなかった。給与は上がっていたし使える経費も多かった。東京ではコンビニエンスストアが次々と開店した。カラオケがブームとなり、外食産業は隆盛の一途をたどった。当時と比べると「魂を売り渡す金額」が明らかに下落している。

 キラキラするのは水で、ギラギラするのは油だ。こんな言葉にも丸山の流動性志向が表れている。その対比は「動く者」と「動かざる者」として『見よ 月が後を追う』 で描かれる。一歩間違えればやくざ者になりかねなかった丸山が二十歳(はたち)で芥川賞を受賞した。彼にとっては短刀とペンの違いでしかなかったことだろう。本書を開くと自立の強風が至るところに吹いている。

2020-01-10

知覚の限界/『交通事故学』石田敏郎


『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳
『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕

 ・知覚の限界

 自動車が発明されて拍手喝采で世の中に迎えらられたとき、将来大変なことになる、と言った心理学者がいたそうである。彼の心配は、人間はその知覚特性から見て、動いているものの速度や距離の見積もりが非常に苦手ということだった。予言は的中し、毎年世界中で何十万人もが自動車事故で亡くなっている。

【『交通事故学』石田敏郎〈いしだ・としろう〉(新潮新書、2013年)】

 私自身、若い頃から「人間が走る以上のスピードで移動する時、何かがおかしくなるのではないか?」と思ってきた。ジェット機に乗ったスー族は魂の到着を待った(『裏切り』カーリン・アルヴテーゲン)。我が意を得たりと膝を打った覚えがある。一方、本川達雄〈もとかわ・たつお〉は「エネルギーを使えばつかうほど時間が早く進む」と言う(『「長生き」が地球を滅ぼす 現代人の時間とエネルギー』)。相対性理論と逆行するようだが言いたいことはわかる。距離と時間は時空と言い換えてよい。文明は人生の時空を拡大し、情報の密度を高めた。ただし、それがもたらした結果はよくよく吟味する必要があるだろう。我々の社会は自動車という利便性のために交通事故の死傷者を受容している。戦争で死者が出るのは当然だが、文明の発達もまた死者を必要とする。果たしてそんな考えでいいのだろうか?

 もう一つ昔から考えているのは、犬や猫がタイヤの音に反応できないことである。昔はクルマに轢(ひ)かれた犬猫を見ることは珍しくなかった。普段は人間以上にすばしっこい動物がなぜクルマを避(よ)けることができないのか不思議に思っていた。やがてタイヤが原因であることに気づいた。動物は足音には反応するが滑らかに転がるタイヤには対応できないのだ。

 交通事故を防ぐためには、1.自動車と歩行者の分離、2.運転未熟ドライバーの排除、の二本柱で望むのがいいと思う。1については時間を要するだろうが、まず自宅に駐車するのをやめて500メートル区画ほどの住宅地はクルマの進入を禁止する。運送・配送・緊急車両のみ通行可とし制限速度は20kmとする。2は簡単だ。運転することには公的責任が伴うためプライバシーを制限する。全車にカーナビ&GPS及びドライブレコーダーを義務づけ、明らかにおかしな運転をする者を検知できるシステムを構築する。これで95%くらい事故を減らすことができるだろう。

 日常の移動手段としては路面電車程度の速度が最も望ましい。自動車を減らして路面電車網を全国に張り巡らすのが私の考える理想である。