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2019-04-12

日系2世に与えた東條英機のメッセージ


 ・日系2世に与えた東條英機のメッセージ

『二世兵士 激戦の記録 日系アメリカ人の第二次大戦』柳田由紀子

 日米開戦の直後、在米の日本語学校の校長を通じて、アメリカ国籍を持つ日系2世に対して、「米国で生まれた日系二世の人達は、アメリカ人として祖国アメリカのために戦うべきである。なぜなら、君主の為、祖国の為に闘うは、其即ち武士道なり…」というメッセージを送り、「日本人としてアメリカと戦え」という命令を送られると予想していた日系人達を驚かせた。

Wikipedia


東條英機首相暗殺計画/『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

2019-03-24

不死身の日本軍人/『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』舩坂弘


 ・不死身の日本軍人

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 はつきり言へることは、近代戦のもつとも凄壮な様相が如実に描かれてゐる点で、又、ただ僥倖(ぎようこう)としか思へない事情で生き永らへた証人によつて、人間の「滅盡相(めつじんそう)」がはつきりと描かれてゐる点で、これは世界に比類のない本だといふことである。(「序」三島由紀夫)

【『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル戦記』舩坂弘〈ふなさか・ひろし〉(光人社NF文庫、1996年/新装版、2014年/文藝春秋、1966年『英霊の絶叫 玉砕島アンガウル』を改題)以下同】

 三島由紀夫にとって舩坂弘は剣道の先輩であった。船坂は死線をさまよいながらも激戦を生き延び、戦地へ行かなかった三島がその後自決する。まったく不思議な運命の交錯である。

 米軍が3日間で終える予定だったペリリューの戦いは上陸後、73日間に及んだ。船坂は繰り広げられる死闘の最先端を走った。彼はたった独りで米軍司令部への攻撃を試みる。

〈これが、私の知っているアンガウル島なのか?――〉
 かつて私たちが苦しめられた沼や湿地帯も埋め立てられ、別の島に変貌していた。島の東港から西港を結んだ線以南はいつの間にか平坦地に変えて、そこにはところ狭しとばかり米軍の天幕が張りめぐらされている。
〈米軍というやつは大変なことをするもんだ〉
 わずか1200名で旧式の武器・弾薬を節約して使った日本軍とは規模の点に置(ママ)いて比較にならない。南部地区の米軍天幕を眺めると、海水を濾過する設備、発電所らしい設備、給水塔などが見える。いわば、天幕の街である。天幕と天幕の間には電線が走り、電話線もちゃんと敷かれてあるようだ。
 これをみたとき、私は誰に言うともなく、
「ダメだ。これじゃダメだ。」
 と幾度も呟いていた。一方では洞窟の中で一滴の水もないのに、米軍テントの外では海水から濾過した水でジャブジャブと洗濯をしているではないか。私はつくづく物量戦の敗北を感じていた。

 物量の差は歴然としていた。それでも「いまにみている。物量戦には敗けたが、気力で勝った日本兵の真髄を見せてやる」と船坂の心は燃えた。その後、波しぶきを浴びながら断崖絶壁を3時間もかけて移動する。

 草叢は天の恵みかと思われるほど絶好の場所で、司令部天幕までは15~20米である。早速、私は手榴弾を1個1個手に取り、
「必ず爆発してくれよ」
 と子供をさとすように祈った。
 東の空はいよいよ白んできた。そっとうかがえば、この西港の海上にも米軍艦船がおびただしく浮かび、その下でキラキラと波頭が輝き始めている。明るくなるにつれて、周辺の天幕が目の前にはっきりしてくる。たしかに司令部らしき天幕も目にうつった。その黒褐色のテントが私の死に場所である。死を賭けて捜し、命を投げて3日間這い続けたのも、この天幕に近づかんがためであった。私は涙を流して千載一遇の好機をつかんだことを喜んだ。よくもここまで来られたものである。

 体中に手榴弾を巻き付けた船坂はターミネーターと化す。

〈あとわずかだ!〉
 司令部は目前である。グァァンと鼓膜を破るような音がして銃弾が足もとの大地に、ブスッとめり込むのが見える。私は右手に握った手榴弾の信管を叩くべく、固く握り直した瞬間であった。その時、私は左頸部の付根に重いハンマーの一撃を受けたような、真赤に焼けた火箸を首すじに突っ込まれたような熱さと激痛をおぼえると同時に、すうっと意識を失ってゆくのがわかった。
 天皇陛下万歳、を叫ぶ暇もない。
〈やられた! 残念だ!〉
 と薄れゆく意識の底で感じたまま、私は反動で2~3歩前進したが、急に目の前の大地はぐるりと回転し、前のめりに倒れて失神したのであった。
 ――このときにうけた傷は左頸部盲貫(ママ)銃創である。左大腿部裂傷、左上膊部貫通銃創2か所、東武打撲傷、右肩捻挫、左腹部盲貫(ママ)銃創……それに無数の火傷とかすり傷を負った私は、遂にこの左頸部盲貫(ママ)銃創を致命傷として“戦死”したのであった。時に10月14日と後できいた。
“屍体”となった私の周囲には米兵が群れをなして集まったという。私を見た米兵たちの一部はその無謀な計画に恐れをなしながらも、或る者は唾をかけ、或る者は蹴飛ばし、また或る者はあたりの砂を私の“死骸”に叩きつけたそうである。だが、それは戦場にある兵隊たちの当然の心理であったろう。
 駆けつけてきた米軍軍医は私の微弱な心音を聞いて「99%無駄だろうが」と言って野戦病院に運び込んだ。そのとき、私が握りしめて死んでも離そうとしな手榴弾と拳銃を取り除くため、5本指の指を1本ずる解きながら、米兵の観衆に向って、
「これがハラキリだ。日本のサムライだけができる勇敢な死に方だ」
「日本人は皆、この様に最後には狂人となってわれわれを殺そうとするのだ」
 と語ったという。だが当時のアンガウル島の全米軍は私の最期を語り合って「勇敢な兵士」という伝説をつくりあげたらしい。
 元アンガウル島米軍兵であった現・マサチューセッツ大学教授のロバート・E・テイラー氏も、その後手紙を下さって、
「あなたのあの時の勇敢な行動を私たちは忘れられません。あなたのような人がいるということは、日本人全体のプライドとして残ることです」
 といういささか過剰な謝辞の言葉をいただいている。少なくとも当時の米軍が私の蛮勇に仰天したことは事実であろう。
 ――私はそのとき曲りなりにも精一杯戦い、気力を打ちこんで“名誉の戦死”を遂げたのであった。

 3日後に意識を取り戻した。「殺せ、殺せ」と叫び続ける船坂に対して、クレンショーという通訳が静かに語りかけた。「君のような心理で日本人の全員が玉砕してゆけば、焼け野原になったときの日本は誰が再建するのだ」と。クレンショーは船坂の心を開かせた。彼らの友情は戦後にまで続く。

 戦後21年、私が彼の消息を探り当てたとき彼が呉れた最初の手紙には、
「私の生命の一頁はあなたによって開かれました。あなたは私に“すべて生の目標には身体をもってぶっつかれ”“死を賭してかかれば為さざることなし”ということを教えてくれたのです」
 と書いてあった。多分にお世辞が含まれている言葉だが、彼自身も当時の私を一捕虜としてではなく、興味ある人間として関心を持ってくれたのだろうと思う。私たちは銭湯の弾音を近くで聞く場所で互いに深いところで尊敬しながら、かつ反撥し合っていたのである。まことに戦争という事実は悔んでも悔み切れない。戦争は人間のあるべき姿をかくし、相互理解を妨げる。私は、戦後の羽田空港でクレンショーと相擁したとき平和な世界の有難さをしみじみと感じたのであった。

 本物の人物はあらゆる差異を乗り越えて共鳴し合う。響き渡る余韻の長さがそれを証明する。理解と共感は互いの生命の緑野を大きく広げる。

 ペリリュー島に設けられた慰霊碑には次の碑文が書かれている。

「諸国から訪れる旅人たちよ
 この島を守る為に日本軍人が
 いかに勇敢な愛国心を持って戦い
 玉砕したかをつたえられよ。」

       米大平洋艦隊司令長官
               C.ニミッツ

 あの野蛮で残忍なアメリカ兵ですら称賛せずにはいられないほどの勇気を我々の父祖は示した。かくの如き一つひとつの歴史が有色人種に対する差別観を拭い去ったことは疑う余地がない。

 その戦争を徹底して「誤ったもの」と戦後教育は教えた。父祖が示した勇気という遺産を我々が継承できないのは当たり前だ。

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ペリリュー島玉砕戦―南海の小島七十日の血戦 (光人社NF文庫)
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2018-12-06

建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義/『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ


『國破れて マッカーサー』西鋭夫
・『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉

 ・もしもアメリカが参戦しなかったならば……
 ・建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義

『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦

日本の近代史を学ぶ

 この本の見どころはいくつかある。
 まず第一に、内容が絶対に信頼できるので安心して読めるということである。公人として、不正確さが、いささかも許されない環境の中に、数十年を過したせいもあろうが、おそらくは、それ以上に、フィッシュの性格と教育からくるものであろう。決して嘘をつかない、時流と迎合していい加減なことは言わない、言行不一致のことはしない、というインテレクチュアル・オネスティーに徹した良きアメリカ人の典型なのである。そもそもフィッシュがルーズベルトに対して怒っているのは、政策論の違いはさておいても、ルーズベルトのやり方が不正直で、汚く、非アメリカ的であるということにある。(中略)
 第二に、彼自身は「孤立主義者」という言葉は、ルーズベルトがプロパガンダのために捏造(ねつぞう)した、不正確な表現で、本当は、自分は不干渉主義者だ、と言っているが、いわゆるアメリカの孤立主義者というものの、物の考え方を、これほど明快に示した本はない。
「孤立主義」を論ずるにあたっては、この本なしでは語れないと言っても過言でないし、この本の各所を引用するだけで、真の「孤立主義」というものを説明してあまりあると思う。
「われわれの祖先は、皆、旧大陸の権力政治から脱(のが)れるために、新大陸まで来た」のであり、「旧大陸の昔からの怨念のこもった戦争にまきこまれない」という、アメリカの建国の精神にまで遡(さかのぼ)る「孤立主義」である。
 第三は、国際政治の本質に立ち戻って考えて、ルーズベルトとフィッシュのどちらが正しかったか、ということである。(岡崎久彦)

【『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ:岡崎久彦監訳(PHP研究所、1985年/PHP文庫、1992年)】

 一般的にはモンロー主義といわれる。

 山口洋一の本で知ることがなければ岡崎久彦の著書を開くことは一生なかったと思う。テレビの討論番組で見たことのある岡崎は高い声で癇(かん)に障(さわ)る話し方をする老獪(ろうかい)な人物だった。周囲と異なる論理をかざして微動だにすることなく相手に理解を求める姿勢はこれっぽっちもなかったことに驚いた。訳知り顔の偏屈な年寄りにしか見えなかった。

 ところが、である。山口が引用した文章は流麗でキラリと光を放っていた。まず本書を読み、次に『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』(1991年)を開き、そして『陸奥宗光とその時代』(1996年)と進んだ。私は唸(うな)った。唸り続けた。慌てて動画を検索してみたが、やはり岡崎は偏屈なジイサンだった(笑)。きっと文の人なのだろう。

 牛場信彦駐米大使から本書を紹介され岡崎が翻訳する運びとなった。

 ハミルトン・フィッシュ3世(1888-1991年)は彫像のような面立ちで実に立派な顔をしている。1945年まで四半世紀にわたって米国の下院議員を務めた(共和党選出)。原著は1983年に刊行されている。太平洋戦争開戦時にフランクリン・ルーズベルト大統領(民主党)を全面的に支持したのはた自身の過ちであり、ルーズベルト大統領が卑劣な手段で米国を戦争に導いたことを糾弾する。

 フィッシュの筆致は烈々たる愛国心に支えられており、為にする批判とは一線を画している。後味の悪さがなく、むしろ静かな晴朗さが広がる。

 複雑系科学の視点(『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン)だと時代を変えた歴史的な人物も一要素として扱われるが、国家元首や教祖が果たす導火線の役割は決して無視できるものではない。ルーズベルトにけしかけられた国民が愚かであるというよりも、戦争の気運が満ちつつある時代であったのだろう。他国の戦争に巻き込まれることを忌避した米国民も、国際社会でアメリカが主導権を握る政策には賛同せざるを得なかったものと想像される。

 第二次世界大戦は英仏が凋落(ちょうらく)しアメリカが台頭する間隙(かんげき)にソ連が食い込んだ歴史であった。ルーズベルト大統領の周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた(『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫)。容共の域を越えていたのは明らかだ。日本の占領政策においてもGHQの半分が左翼勢力であったため戦後に長く影を落とした。

 ルーズベルト大統領が行ったことは一言でいえば日本を叩き、ソ連を増長させ、戦後の冷戦構造へと道を開いたことであった。戦時中の日本人の思いは市丸利之助〈いちまる・りのすけ〉海軍中将の「ルーズベルトニ与フル書」に言い尽くされている。

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変節と愛国 外交官・牛場信彦の生涯 (文春新書)
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2018-11-15

ありきたりの光景/『ベトナム戦記』開高健


 ・ありきたりの光景

『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン
『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』ニック・タース

 短い叫びが暗がりを走った。立テ(ママ)膝をした10人のベトナム人の憲兵が10挺のライフル銃で一人の子供を射った。子供はガクリと膝を折った。胸、腹、腿にいくつもの黒い、小さな小さな穴があいた。銃弾は肉を回転してえぐる。射入口は小さいが射出口はバラの花のようにひらくのである。やがて鮮血が穴から流れだし、小川のように腿を浸した。肉も精神もおそらくこの瞬間に死んだのであろう。しかし衝撃による反射がまだのこっていた。少年はうなだれたままゆっくりと首を右、左にふった。
「だめだ。だめだ。まだだめだ」
 そうつぶやいているように見える動作だった。将校が近づき、回転式拳銃をぬいて、こめかみに1発“クー・ド・グラース”(慈悲〈とどめ〉の一撃)を射ちこんだ。少年は崩れ、うごかなくなった。鮮血がほとばしってやせた頬と首を浸した。
 銃音がとどろいたとき、私のなかの何かが粉砕された。膝がふるえ、熱い汗が全身を浸し、むかむかと吐気がこみあげた。たっていられなかったので、よろよろと歩いて足をたしかめた。もしこの少年が逮捕されていなければ彼の運んでいた地雷と手榴弾はかならず人を殺す。5人か10人かは知らぬ。アメリカ兵を殺すかもしれず、ベトナム兵を殺すかもしれぬ。もし少年をメコン・デルタかジャングルにつれだし、マシン・ガンを持たせたら、彼は豹のようにかけまわって射殺し、人を殺すであろう。あるいは、ある日、泥のなかで犬のように殺されるであろう。彼の信念を支持するかしないかで、彼は《英雄》にもなれば《殺人鬼》にもなる。それが《戦争》だ。しかし、この広場には、何かしら《絶対の悪》と呼んでよいものがひしめいていた。あとで私はジャングルの戦闘で何人も死者を見ることとなった。ベトナム兵は、何故か、どんな傷をうけても、ひとことも呻かない。まるで神経がないみたいだ。ただびっくりしたように眼をみはるだけである。呻きも、もだえもせず、ピンに刺されたイナゴのように死んでいった。ひっそりと死んでいった。けれど私は鼻さきで目撃しながら、けっして汗もかかねば、吐気も起さなかった。兵、銃、密林、空、風。背後からおそう弾音。まわりではすべてのものがうごいていた。私は《見る》と同時に走らねばならなかった。体力と精神力はことごとく自分一人を防衛することに消費されたのだ。しかし、この広場では、私は《見る》ことだけを強制された。私は軍用トラックのかげに佇む安全な第三者であった。機械のごとく憲兵たちは並び、膝を折り、引金をひいて去った。子供は殺されねばならないようにして殺された。私は目撃者にすぎず、特権者であった。私を圧倒した説明しがたいなにものかはこの儀式化された蛮行を佇んで《見る》よりほかない立場から生れたのだ。安堵が私を粉砕したのだ。私の感じたものが《危機》であるとすると、それは安堵から生れたのだ。広場ではすべてが静止していた。すべてが薄明のなかに静止し、濃縮され、運動といってはただ眼をみはって《見る》ことだけであった。単純さに私は耐えられず、砕かれた。

【『ベトナム戦記』開高健〈かいこう・たけし〉(朝日新聞社、1965年/朝日文庫、1990年)】

 1964年、開高健は朝日新聞社臨時特派員として米軍が本格的に介入するベトナムへ飛んだ。どちらからどちらに頼んだのかはわからない。野次馬根性の強さを思えば開高から頼んだ可能性も高い。東京オリンピックよりはベトナムの方がお似合いだ。

 やはり1965年の本である。しかも戦記というよりは戦争見学雑記といった内容だ。危ない目には遭っているものの、拭い難い気楽さが漂っている。

 当時の戦地であれば処刑の場面はありきたりの光景といってよい。「サイゴンの処刑」(1968年)は世界中で放映された。

 開高健は帰国後、ベ平連に参加するものの、左翼が行う反米闘争にうんざりして脱退する。保守派とは言い難いが常識的なセンスの持ち主だった。ま、元々サントリーの宣伝をやっていたわけだから現実主義者であったのだろう。

「砕かれた」彼はその後どうなったのか? 私が本気で読んだのは『白いページ』くらいなので知る由もない。よもや釣り三昧ではあるまいな。

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開高 健
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白いページ―開高健エッセイ選集 (光文社文庫)
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2018-11-02

もしもアメリカが参戦しなかったならば……/『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ


『國破れて マッカーサー』西鋭夫
・『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉

 ・もしもアメリカが参戦しなかったならば……
 ・建国の精神に基づくアメリカの不干渉主義

『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦

日本の近代史を学ぶ

 日本との間の戦争は不必要であった。これは、お互い同士よりも共産主義の脅威をより恐れていた日・米両国にとって、悲劇的であった。われわれは、戦争から何も得るところがなかったばかりか、友好的であった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。
 イギリスは、それ以上に多くのものを失った。イギリスは、中国に対しては、特別の利益と特権を有していたし、マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドおよびセイロンをも失った。
 蒋介石は、オーエン・ラティモアの悪い助言を受け入れて、日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対した。同協定は、蒋介石の中国全土掌握を可能にしたかもしれない。これはヤルタ会談でルーズベルトがスターリンに譲歩を行なったその3年前のことである。
 われわれの同盟であったスターリンの共産軍に対して、満州侵攻を許す理由は何もなかったはずである。蒋介石は、米国の友人として、中国共産主義者の反攻を打ち砕くに必要な、すべての武器および資源を持ちえたはずであった。
 われわれが参戦しなかったならば、すなわち日本のパールハーバー攻撃がなかったならば、事態はどう進展していたか、という疑問はしばしば呈される。この疑問は、詳細な回答を与えられるに値する。
 私は、米国は簡単に日本との間で和平条約を締結できたであろうし、その条約の中で日本は、フィリピンとオランダ領東インドを含む極東における全諸国との交易権とひきかえに、中国およびインドシナからの友好的撤退に合意したであろうことを確信している。

【『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ:岡崎久彦監訳(PHP研究所、1985年/PHP文庫、1992年)】

 ハミルトン・フィッシュは共和党の党首を務めた下院議員で、戦時中の議会においてフランクリン・ルーズベルト(民主党)を批判した人物として広く知られる。

 開戦当初、フィッシュは議会で挙国一致を説きルーズベルト大統領を力強く支持した。ところが後にルーズベルトの秘密外交や日本を戦争にけしかけた手法、更には真珠湾攻撃を事前に知りながらアメリカ海軍を犠牲にしたことなどを知り、大統領を猛々しく糾弾するようになる。戦時中にありながらも議会やマスコミが正常に機能していたところにアメリカの真の勝因があったのだろう。

 フィッシュの指摘によればアメリカは戦略を誤り、友邦のイギリスをも凋落(ちょうらく)させてしまった。その後、ヤルタ体制(1945年)によって冷戦がソ連崩壊(1991年)まで続くことを思えばルーズベルトの判断がどれほどアメリカの国益を損ねたか計り知れない。それまでモンロー主義(孤立主義)を貫いてきたアメリカは以降、次々と世界各地で軍事介入をするようになる。トランプ大統領が掲げるアメリカ・ファーストはルーズベルト以前のアメリカを取り戻すということなのだろう。

 日本が開戦を決意したのは永野修身〈ながの・おさみ〉軍令部総長の言葉に言い尽くされている。「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」(昭和16年〈1941年〉9月6日の御前会議)。

 最後の一言に慚愧(ざんき)の念を覚えぬ者があろうか。我々の父祖は子や孫を信じて敗れ去る戦いに臨んだのだ。

 もしもアメリカが参戦しなかったならば……日本は領土を拡大し、アメリカと手を組むことでソ連を封じ込め、中国の共産主義化を防ぐことができたに違いない。しかしながら帝国主義が50年から100年は続き、アジア・中東・アフリカ諸国は植民地のまま21世紀を迎えたことだろう。とすれば大東亜戦争は日米にとっては不幸な戦争であったが、世界のためには植民地の歴史にとどめを刺す壮挙であったと考えるべきだろう。日本人310万人、世界では5000-8000万人(病死・飢餓死を含む)の死者は大惨事であったが、もしも第二次世界大戦がなければ長期間に渡ってもっと多くの人々が殺されたに違いない。

 歴史は死者の存在によって変わる。これが人類の宿痾(しゅくあ)であろう。

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文庫 ルーズベルトの開戦責任 (草思社文庫)
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2018-10-31

アメリカが行ったベトナム・ホロコースト/『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』ニック・タース


『ベトナム戦記』開高健
『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

 ・アメリカが行ったベトナム・ホロコースト

・『ベトナム戦争 誤算と誤解の戦場』松岡完
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

必読書リスト その二


「アメリカが戦争に勝ってよかったと思う。日本が勝ったらアメリカ人に対してどれほど残虐なことをしたか知れない」「アメリカのお蔭で日本は民主主義になった」――20~30年前まではこう考える人々が多かった。日本人に対して戦争の罪を刷り込ませるGHQの宣伝工作(ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム)は見事なまでに成功し、長期間にわたって日本人の精神を呪縛した。

 東京裁判では「平和に対する罪」というそれまでなかった概念を創作し、新しい基準を設けて過去の罪を裁くトリックまで行った。「平和に対する罪」を犯した人々がA級戦犯で25名中7名が処刑された。誤解している人々が多いが、ABCは罪のランク付けを意味するものではなく、A項・B項・C項の違いにすぎない。

 アメリカは日本に平和憲法を与えた。そのアメリカが第二次世界大戦後、朝鮮戦争(1950-53年)・ベトナム戦争(1955-75年)を行った。米兵はベトナムで何をしたのか。ご覧いただこう。

 クアンナム省と同様クアンガイ省でも、すさまじい砲撃や空爆が加えられる一方、地上部隊による目を覆うばかりの残虐行為がくり広げられた。数年後、エスクァイ誌の記者、ノーマン・ポワリエが軍の記録をもとに、そうした恐ろしい出来事のひとつを生々しく再現した記事を書いた。このような残虐行為の詳細が雑誌に掲載されるのは、戦争中としては異例のことだったが、そこに書かれた民間人の受難は、少しもめずらしくない、むしろありふれたものだったのだ。
 ポワリエの記事によれば、1966年9月23日、海兵隊のある部隊がスアンゴック集落に降り立った。彼らの狼藉は、まず1軒の家に押し入るところからはじまった。家の主人はコメ農家兼大工のグエン・ルウという61歳の男性だった。海兵隊員たちはこの武器を持たない住人に殴る蹴るの暴行を加えた。ひとりの兵士が「このベトコン野郎め!」と叫んでいたという。彼らはルウの民間人身分証明書を破り、家のなかを荒らした。ルウの若い姪たちは恐怖のあまり悲鳴をあげた。70歳近い妻は手荒な扱いを受け、ルウの妹も容赦なく足蹴にされた。
 それからほどなく、38歳の農民、グエン・チュックの家の扉がさっと開いた。チュックの妻は5人の子供たちのもとへ駆け寄ろうとしたが、海兵隊員たちにつかまって外へ放り出された。そのあとチュックはさんざんに殴られ、立ち上がることもできなくなった。やがてふたりの兵士が彼の両脚をつかんで逆さ吊りにし、もうひとりが彼の顔を力いっぱい蹴りつけた。悲鳴とすすり泣く声が部屋に満ちた。
 何度もあがったその叫び声は、16歳のグエン・チ・マイの家まで聞こえてきた。彼女は母とおばといっしょに地下壕に逃げ込んだ。3人が身をすくめてしゃがんでいると、海兵隊員たちが上からのぞき込み、手招きで出てこいと指示した。母とおばは従ったが、マイは恐怖のあまり動けなかった。手が伸びてきて、片脚をつかまれ、彼女は引きずり出されてしまった。兵士たちは3人の民間人身分証明書を破り捨てた。アメリカ人のひとりがマイの首すじに手をあてがい、もう一方の手で彼女の口をふさいだ。すると別のふたりの兵士が彼女の両脚をつかんで地面に引き倒し、荒々しくズボンを剥ぎ取った。
 海兵隊員たちはこのようにしてさらに5~6軒の家に押し入って集落を恐怖に陥れたが、武器も禁制品も見つからず、敵に関する情報さえも入手することができなかった。彼らが次に襲ったのは、18歳のブーイ・チ・フォンとその20歳の夫、ダオ・クアン・ティンの家だった。ティンは農民で、病気のために兵役につけなかったのだ。ふたりは3歳の息子と、ティンの母、姉、その5歳になる娘といっしょに暮らしていた。海兵隊員たちは、ティンをベトコンと決めつけ、ほとんど意識がなくなるまで殴った。彼らはティンを外へつれ出し、家の前の壁にもたせかけておいて、その横に恐怖にすくみ上がった姉と母親とふたりの子供を立たせた。
 妻のフォンは家のわきへと引きずっていかれた。ひとりの兵士が彼女の口を手で覆い、ほかの者が両腕と両足を地面に押さえつけた。米兵たちは彼女のズボンを脱がせ、シャツを引き裂き、体をまさぐった。そして輪姦がはじまった。最初はひとりの兵士が、次に別の兵士が襲いかかり、合計5人で彼女を陵辱した。ティンは妻のすすり泣きを聞き、大声で叫んで抗議した。すると海兵隊員たちはまた彼を殴りはじめた。やがて銃が乱射され、その声がやんだ。次の一連射がティンの母親の嗚咽に終止符を打ち、さらなる銃撃が姉を黙らせた。まもなく、子供たちの声もフォンの耳に届かなくなった。パン!という音に続いて閃光が弾け、灼けるような痛みが走ったかと思うと、フォンはどっと倒れた。
 海兵隊員たちは、現場の「見栄えをよくする」ために手榴弾を爆発させ、無線で戦果を報告した。ベトコン3名を殺害した、と。だが指揮所に戻ると、彼らは中尉に、あらかじめ決めておいた待ち伏せ場所では銃撃戦が起こらず、誤って民間人を数人死なせてしまったと話した。中尉は隊員たちに集落へ案内させ、自分の目で事実を確かめた。
 中尉は部下が大量虐殺を犯したことにショックを受けたが、すぐに犯罪の隠蔽に取りかかった。ティンの遺体を、当初計画していた1キロほど先の待ち伏せ場所まで運んでいき、細工をして、そこで銃撃があったように見せかけた。彼らはスアンゴック集落の殺戮現場にも手を入れた。ティンの5歳の姪は血まみれになり、裸で倒れていた。その体を抱きあげたとき、いきなり彼女が泣きだした。死んでいなかったのだ。しかしジョン・ポッター上等兵が二度と生き返らないようにした。彼はほかの兵士たちにカウントしろと言い、ある隊員によれば、たっぷり時間をかけて「ライフルでぐしゃぐしゃにした」という。別の隊員はこう証言している。「わたしは、1……2……3……と数えました。すると上等兵は(ライフルの)台尻であの子を何度も何度も殴りつけたんです!」
 じつはブーイ・チ・フォンもまだ生きていたのだが、隊員たちは気づかなかった。彼女は銃で撃たれたあと、意識を失っていた。数時間後、激しい痛みを感じて目を覚ました。どこもかしこも血まみれだった。手当てをしてもらうため、村人のひとりがもよりの米国海兵隊基地まで彼女をつれていってくれた。そこでフォンはベトナム人通訳者に、自分がレイプされたこと、家族が惨殺されたことを話した。通訳はこのことを同情的なアメリカ人医師に伝えてくれた。医師はフォンを診察し、性暴力被害に遭った確証を得ると、大隊指揮官に犯罪行為がおこなわれたことを報告した。フォンが一命をとりとめなければ、そして海兵隊員たちが戻ってきたあいだも意識が戻らず、基地へ運ばれてから勇気ある通訳者に話をし、その人物がフォンのために働いてくれそうなアメリカ人士官を見つけてくれなければ、ほかの多くの大量虐殺事件と同様、スアンゴック集落の事件も闇に葬られていたことだろう。しかしフォンの証言に基づく公式の捜査が実施されたにもかかわらず、殺戮にかかわったアメリカ人9名のうち、3名は無罪となり、4名は短期の懲役刑を受けただけですんだのだった。

【『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』ニック・タース:布施由紀子〈ふせ・ゆきこ〉訳(みすず書房、2015年)】

 かような事実が300ページにわたって羅列されている。一片の罪もない婦女子や老人を暴行し、切り裂き、銃で撃ち、家屋には火を放ち、避難壕に手榴弾を放り込み、ナパーム弾で焼き尽くした。ありとあらゆる兵器が試され、白リン弾クラスター爆弾も投入された。白リン弾は破片が体内に刺さっても燃え続ける兵器で、クラスター爆弾は1発の爆弾に数百もの子爆弾が搭載され、金属片の飛散によって人間の手足を吹き飛ばしたり人体を切り刻む。意図的に殺傷能力を低くして多数の怪我人を出すことで社会機能にダメージを与える目的がある。

白リン弾
ローラ・ブシュナク: クラスター爆弾の破壊的な負の遺産 | TED Talk

「平和に対する罪」を規定したアメリカの残虐行為をどう考えればいいのだろう? きっと彼らが説く「平和」とは「アメリカに逆らわないこと」なのだろう。かつてアメリカ大陸を【発見】したヨーロッパ人は先住民インディアンを大量虐殺した(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス)。合衆国政府はインディアンの頭皮に懸賞金をかけた。インディアンは報復のために白人の頭の皮を剥(は)いだ。あろうことかハリウッドは映画作品を通して皮剥ぎの刑をインディアンの一方的な蛮行として描いた。自分たちの悪行を相手になすりつけるプロパガンダを行ったわけだ。日本に対して行われた戦後のイメージ操作もこれとよく似ている。

 白人なかんづくアングロサクソンの暴虐振りは人類史の中で際立っている。アジアは平和的であったがゆえに侵略されたのだろう。アジア人がボノボであれば白人はチンパンジーほどの違いがある(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 米軍が行ったベトナム民間人の大虐殺は「ベトナム・ホロコースト」と名づけるべきだ。日本に対して行った「原爆ホロコースト」や「東京ホロコースト」(東京大空襲)と同じく人類史に大書される歴史的蛮行である。やがて彼らの血に流れる暴力性によって自ら滅びる時が訪れることだろう。

 それにしても北ベトナムはよくぞアメリカの攻撃に耐えたものだ。私がベトナム戦争を意識したのは8歳の頃である。テレビで聴き、児童雑誌で見るたびにベトナム戦争は永遠に続くのだろうと思った。

 上記テキストの直後に韓国軍の残虐行為が描かれている。「1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕〈パク・チョンヒ〉国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開すること、また共産主義の拡大が自国の存亡に繋がるという強い危機感を持っていた為にベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた」(Wikipedia)。カネ目当てで投入された韓国軍は米兵同様、非道の限りを尽くした。韓国兵による強姦でライダイハンと呼ばれる子供が5000~3万人も生まれた。実際は犯された後で手足や頭部を斬り落とされる女性も数多く存在した。韓国は現在でも性犯罪大国でアジアの中では強姦犯罪率が突出している。そんな自分たちの残虐性を基準にして旧日本軍を見ているのだろう。従軍慰安婦にまつわる嘘の物語も韓国の似姿としか思えない。

 組織の理想型は軍隊であるが、どの軍隊も必ず嘘をつく現実がある。戦果を偽り、戦争犯罪を誤魔化し、平然と政治家や国民に対して嘘をつく。ここに軍隊の致命的な問題があるように思う。戦闘の最前線では何があるかわらかない。であればこそ「君命をも受けざる所有り」(『香乱記』宮城谷昌光)との孫子の言は重い。時にシビリアン・コントロール(文民統制)を無視する局面があってもおかしくない。ただし、軍という組織の暴走に向かう傾向を踏まえれば、軍法を厳しくするのが望ましい。

 私は心底驚いたのだが、クアンナム省もクアンガイ省も南ベトナムである。クアンガイ省にはあのソンミ村がある。ソンミ村虐殺事件を本書ではミライ事件と表記されているが、米兵に殺された500人以上の村人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子供173人)は本来なら米兵が守るべき人々であった。この事件に関与した者も曖昧で中途半端な処分しか受けていない。

 ベトナム民主共和国は圧倒的な軍事力を誇る米軍にゲリラ戦で勝った。ナチス・ホロコーストはその量において圧倒したが、ベトナム・ホロコーストはその質において人類史上最悪の大虐殺といえよう。こう考えると、ジョン・F・ケネディ、リンドン・B・ジョンソン、リチャード・ニクソンら米大統領はヒトラーと肩を並べる十分な資格がある。

動くものはすべて殺せ――アメリカ兵はベトナムで何をしたか
ニック・タース
みすず書房
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2018-09-17

異常な経験/『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次


 ・異常な経験

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『敗者の条件』会田雄次
『勝者の条件』会田雄次

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 この経験は異常なものであった。この異常ということの意味はちょっと説明しにくい。(中略)

 想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちはといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。

【『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(中公新書、1962年/中公文庫、1973年/改版、2018年)以下同】

 若い頃に何度か読んでは挫けた一冊である。その後、何冊もの書籍で引用されていることを知った。竹山道雄も本書に触れていたので直ちに読んだ。やはり読書には季節がある。それなりの知識と体力が調(ととの)わないと味わい尽くすのが難しい本がある。何気ない記述に隠された真実が見えてくるところに読書の躍動がある。

 会田雄次は敗戦後、1年9ヶ月にわたってビルマでイギリス軍の捕虜となった。その経験を元に「西欧ヒューマニズム」の欺瞞を日本文化から照らしてみせたのが本書である。

 それはとにかくとして、まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときには、たとえ便所であるとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない恰好をしているときなど身支度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちは掃除しに入っても平気であった。

 一読して理解できる人がいるだろうか? 特に我々日本人は汚れ物に対する忌避感情が強く、トイレを不浄と表現することからも明らかなように、人目を忍ぶのは当然である。今、無意識のうちに「人目」と書いた。私なら幼子に見られるのも嫌だね。「人の目」であることに変わりはないからだ。つまり白人にとって有色人種の目は「人目」ではないのだ。きっと「人目」に該当する語彙(ごい)もないことだろう。

 会田が「異常」と記したのは、人種差別の現実が日本人の想像も及ばぬ奇っ怪な姿で目の前に現れたためだ。私の世代だと幼い頃にウンコを踏んだだけで周りから人が去ったものだ。かくもウンコには負のパワーがある。それがウンコをしている姿を見られても平気だと? すなわち彼らにとって有色人種の人間は文字通り「動物以下の存在」なのだ。これが「喩(たと)え」でないところに彼らの恐ろしさがある。

 その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
 入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。
 このような経験は私だけではなかった。

 有色人種は白人女性の性行為の対象にすらなり得ないということなのだろう。インドのカースト制度を軽々と超える差別意識である。無論、彼女たちは「差別」とすら感じていないことだろう。人種の懸隔は断崖のように聳(そび)える。まさに犬畜生扱いだ。

 はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。

 イギリス兵にとって最大の侮辱は日本軍が優勢であった時に、捕虜として市中を行進させ、便所の汲み取りを行わせたことだった。七つの海を支配してきた大英帝国の威信は地に墜(お)ちた。黄禍(おうか/イエロー・ペリル)が現実のものとなったのだ。イギリスがアメリカを引きずり込んで第二次世界大戦の戦況は大きく動いた。勝った側となったイギリス人が日本人に思い知らせてやろうとするのは当然である。この流れは現在にまで引き継がれている。イギリス・フランス・オランダは自分たちを潤す植民地を失ってしまったのだ。戦前と比べて貧しくなった状況を彼らが簡単に忘れることはない。

 こうした文脈の上に南京大虐殺や従軍慰安婦というストーリーが作成されていることを日本人は知る必要がある。憲法9条もそうだ。アメリカは玉砕するまで戦う日本軍を心底から恐れた。二度と戦争に立ち上がることができないように埋め込まれたソフトが憲法9条なのだ。アメリカは原爆ホロコーストを実行しておきながら、日本の報復を恐れいているのだ(『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎)。

 その人種差別の頂点にいるイギリス女王やローマ教皇ですら天皇陛下に対しては敬意を払わざるを得ないところに日本の不思議がある。

アーロン収容所 改版 - 西欧ヒューマニズムの限界 (中公新書)
会田 雄次
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2018-08-07

東亜百年戦争/『大東亜戦争肯定論』林房雄


『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫
『日本人の誇り』藤原正彦

 ・東亜百年戦争

・『緑の日本列島 激流する明治百年』林房雄

必読書リスト その四
日本の近代史を学ぶ

 さて、やっと私の意見をのべる番がめぐってきたようだ。
 私は「大東亜戦争は百年戦争の終曲であった」と考える。ジャンヌ・ダルクで有名な「英仏百年戦争」に似ているというのではない。また、戦争中、「この戦争は将来百年はつづく。そのつもりで戦い抜かねばならぬ」と叫んだ軍人がいたが、その意味とも全くちがう。それは今から百年前に始まり、【百年間戦われて終結した】戦争であった。(中略)
 百年戦争は8月15日に終った。では、いつ始まったのか。さかのぼれば、当然「明治維新」に行きあたる。が、明治元年ではまだ足りない。それは維新の約20年前に始まったと私は考える。私のいう「百年前」はどんな時代であったろうか?(中略)

 米国海将ペルリの日本訪問は嘉永6年、1853年の6月。明治元年からさかのぼれば15年前である。それが「東亜百年戦争」の始まりか。いや、もっと前だ。この黒船渡来で、日本は長い鎖国の夢を破られ、「たった四はいで夜も寝られぬ」大騒ぎになったということになっているが、これは狂歌的または講談的歴史の無邪気な嘘である。
 オランダ、ポルトガル以外の外国艦船の日本近海出没の時期はペルリ来航からさらに7年以上さかのぼる。それが急激に数を増したのは弘化年間であった。そのころから幕府と諸侯は外夷対策と沿海防備に東奔西走させられて、夜も眠るどころではなかった。

【『大東亜戦争肯定論』林房雄(中公文庫、2014年/番町書房:正編1964年、続編1965年/夏目書房普及版、2006年/『中央公論』1963~65年にかけて16回に渡る連載)】

 歴史を見据える小説家の眼が「東亜百年戦争」を捉えた。私はつい先日気づいたのだが、ペリーの黒船出航(1852年)からGHQの占領終了(1952年)までがぴったり100年となる。日本が近代化という大波の中で溺れそうになりながらも、足掻き、もがいた100年であった。作家の鋭い眼光に畏怖の念を覚える。しかも堂々と月刊誌に連載したのは、反論を受け止める勇気を持ち合わせていた証拠であろう。連載当時の安保闘争があれほどの盛り上がりを見せたのも「反米」という軸で結束していたためと思われる。『国民の歴史』西尾幹二、『國破れてマッカーサー』西鋭夫、『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八、『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉の後に読むのがよい。「必読書」入り。致命的な過失は解説を保阪正康に書かせたことである。中央公論社の愚行を戒めておく。西尾幹二か中西輝政に書かせるのが当然であろう。(読書日記転載)

 目から鱗(うろこ)が落ちるとはこのことだ。東京裁判史観に毒された我々は【何のために】日本が戦争をしてきたのかを知らない。「教えられなかったから」との言いわけは通用しない。朝日新聞が30年にもわたってキャンペーンを張ってきた慰安婦捏造問題や、韓国が世界各地に設置している慰安婦像のニュースは誰もが知っているはずだ。少しでも疑問を持つならば自分で調べるのが当然である。その程度の知的作業を怠る人はとてもじゃないが自分の人生を歩んでいるとは言えないだろう。情報の吟味を欠いた精神態度は必ず他人の言葉を鵜呑みにし、価値観もコロコロと変わってしまう。

 林房雄を1845年(弘化元年)から1945年までを100年としているが、私は、マシュー・ペリーがアメリカを出港した1852年(嘉永5年)からGHQの占領が終った1952年(昭和27年)までを100年とする藤原正彦説(『日本人の誇り』)を支持する。更に言えば東亜百年戦争の準備期間として2世紀にわたる鎖国(1639年/寛永16年-1854年/嘉永7年)があり、日本人が外敵に警戒するようになったのは豊臣秀吉バテレン追放令(1587年/天正15年)にまでさかのぼる。

 つまりだ、15世紀半ばに狼煙(のろし)を上げたヨーロッパ人による大航海時代(-17世紀半ば)の動きを日本は鋭く察知していたのだ。帝国主義の源流を辿ればレコンキスタ(718-1492年)-十字軍(1096-1272年)にまで行き着く。モンゴル帝国が西ヨーロッパまで征服しなかったことが悔やまれてならない。

 こうして振り返れば西暦1000年代が白人覇権の時代であったことが理解できよう。そして大航海時代は有色人種が奴隷とされた時代であった。豊臣秀吉はヨーロッパ人が日本人を買い付けて奴隷にしている事実を知っていたのだ。その後日本は鎖国政策によってミラクルピース(世界史的にも稀な長期的な平和時代)と呼ばれる時代を迎えた。一旦は採用した銃を廃止し得たのも我が国以外には存在しない。

 戦前の全ての歴史を否定してみせたのが左翼による進歩史観である。「歴史は進歩するから昔は悪かった、否、悪くなければならない」という馬鹿げた教条主義だ。これを知識人たちはついこの間まで疑うことがなかった。鎖国も単純に閉鎖的な印象でしか語られてこなかった。武士という軍事力が植民地化を防ぐ力となった事実も忘れられている。

 世界史の動きや日本の来し方に思いを致さず、ただ単に大東亜戦争を侵略戦争だからという理由で国旗や国歌を拒否する人々がいる。しかも児童の教育に携わる教員の中にいるのだ。国家反逆罪で逮捕するのが筋ではないか。いかなる思想・宗教も自由であるべきだが国を否定する者はこの国から出てゆくべきである。

大東亜戦争肯定論 (中公文庫)
林 房雄
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2018-08-04

戦前の高度なインテリジェンス/『秘境 西域八年の潜行』西川一三


『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市

 ・戦前の高度なインテリジェンス

・『チベット潜行十年 』木村肥佐生
・『チベット旅行記』河口慧海
・『城下の人 新編・石光真清の手記 西南戦争・日清戦争』石光真人編
『サハラに死す 上温湯隆の一生』長尾三郎編

「あなたは親切心で言ってくれるのでしょうが、私は、ヒマラヤを、この体でこの二本の足で七度も越えて鍛え上げているのだ。私がこんな姿をしているのは、あなたのそんな親切なめぐみを、待ち望んでしているのとは、まったく意味が違う。私達は戦争には負けた。しかし、私は、精神的には負けてはいないのだ」
 日本人と同じ顔をした、栄養状態のよいこの米人は、顔色ひとつ変えずに私のはげしい言葉を聞くと、その軍服を片づけた。
 私とこの通訳とは、さらにその後半年、この個室で同じ毎日をつづけた。私が、自分の足跡の一切を、相手の質問の尽きるまで語りつくしたときは、完全に一年間が経過していた。通訳がこの間に、私から調べ上げた調書の原稿は数千枚にも及ぶうず高いものだった。彼は、この功によって二階級特進した。
 八年間死地をくぐり、日本政府から一顧にも付せられなかった私は、この間、日当一千円を米軍から受取っていた。当時、私にはかなり高額の金である。私は貴重な情報を、アメリカに売るのかという、心のとがめを感じないわけではなかった。が、それならば何故、外務省が私んしかるべき態度をとらなかったのかという反撥の心があった。すべて、敗戦のしからしめるところであったと思う。しかし私は、通訳と向き合う生活をはじめて間もなく、すすめてくれる旧師もあって私なりのひそなか決心を固めていた。なんのためという具体的な目標があったわけではないが、決してGHQには売らない八年間の自分の足跡というものを、自分のものとして真実の記録として残すことを思い立ったのである。

【『秘境 西域八年の潜行』西川一三〈にしかわ・かずみ〉(芙蓉書房、1967年/中公文庫、1990年)】

 西川一三は戦前の情報部員である。チベットに巡礼に行くモンゴル僧「ロブサン・サンボー」(チベット語で「美しい心」)を名乗り、チベット・ブータン・ネパール・インドなど西域秘境の地図を作成し地誌を調べ上げた。その活動はなんと敗戦後の1949年まで続いた(敗戦は1945年)。帰国後、直ちに外務省に報告をするべく訪ねたが、全く相手にされなかったという。直後にGHQから出頭せよとの命令があり、西川の情報を引き出すべく1年にも及ぶ取り調べが行われた。

 小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉のように敗戦後も戦い続けた日本軍兵士や諜報員は数多くいた。たぶん数千人規模でひょっとすると万を超えていた。大半の兵士はアジア諸国独立のために加勢した。そのまま現地で生活をし続け、骨となった人々もまた少なくない。大東亜会議で掲げた理想の旗は日本が敗れても尚、アジアの地で高々と翻(ひるがえ)った。そんな彼らに国家は報いることがなかった。否、見捨てたといってもよい。こうしたところに真の敗因があったと思われてならない。

 日本人は個々人の志操は高いのだが組織になると「村」レベルの惨状を露呈する。武士はいたものの貴族が存在しなかったゆえであろうか。社会学の大きなテーマになると個人的には考えているのだが、小室直樹が触れている程度で手つかずのような気がする。厳しい階級制度がなかったことも遠因の一つだろうし、天皇陛下の存在が悪い意味での安心感を生んでいることも見逃せない点である。長らく外敵の不在が続いたことも体制がシステマティックにならなかった要因だ。そして体制が変わると閥(ばつ)がはびこるのも我が国の悪癖であろう(戦後、組織化に成功した日本共産党や創価学会においても同様である)。優秀な人材がいながらも江戸時代に総合的な学問が発展しなかったのも同じ理由と思われる。

 時代は変わっても日本人には職人肌なところがあるように思う。オタクなどが好例だ。現代にあっても国際的な舞台で活躍する個人は多い(中村哲〈なかむら・てつ〉やビルマの内戦を止めた井本勝幸など)。スポーツ、芸術、音楽、美術においても白人と伍し、漫画に至っては世界を牽引(けんいん)している。我々のDNAは個人や小集団で発揮するようにできているのかもしれない。

 官僚が支配する息苦しい日本で出世競争に血道を上げるよりは、若者であれば単独者として世界を目指せと言いたい。

秘境西域八年の潜行〈上〉 (中公文庫)
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秘境西域八年の潜行〈中〉 (中公文庫)
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秘境西域八年の潜行〈下〉 (中公文庫)
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2018-06-02

敗戦の心情/『ビルマの竪琴』竹山道雄

『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄

 ・敗戦の心情
 ・「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや

『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

「国が廃墟(はいきょ)となり、自分たちの身はこうした万里(ばんり)の外で捕虜となる――。これは考えてみればおどろくべきことだ。それだのに、私は、これはどうしたことだ――、とただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)するばかりである。それをはっきりと自分の身の上に起こったことだ、と感ずることすらできない。ただ手からも足からも力が抜けてゆくような気がする。
 そのうちには悲しい気持もおこってくるであろう。絶望も、うたがいも、いかりやうらみすらおこってくるかもしれない。すべてはおいおい事情がわかってきてから、考えをきめるほかはない。実は、もうかなり前から、こういうことになるのではないかとうすうすは思っていたのであったが、いざそうなってみると、まったく途方(とほう)にくれるというほかはない。
 いまはただなりゆきを待つほかはない。いまわれわれが運命にさからったところで、それが何になろう。どうしてもさけることができないものならば、むしろそれをいさぎよく認めて、われわれの境涯(きょうがい)がどんなものであるかをよく知って、その上であたらしく立ち直ってゆくのが、むしろ男らしいやり方である。せめてそうするだけの勇気を持とうではないか。
 よくはわからないが、われわれはすべてを失ってしまったらしい。自分たちの身の上はみじめなものである。残っているものとしては、ただわれわれが互いに仲がいい、ということだけである。これだけは疑うことができない。われわれが持っているものとては、これだけだ。
 自分たちはこれからも共に悲しみ、共に苦しもう。互いに助けあおう。自分たちはこれからの苦しいことも覚悟しなくてはならぬ。あるいはこのさき、このビルマの国で骨になるかもしれない。そのときは一しょに骨になろう。ただ、最後までできるだけ絶望はしまい。何とかして希望をもってしのいでゆこう。
 そうして、もし万一にも国に帰れる日があったら、一人ももれなく日本へかえ(ママ)って、共に再建のために働こう。いま自分のいえることは、これだけである」
 隊長は言葉もきれぎれにこういいました。みな黙(だま)ってきいていました。
 誰(だれ)もはりつめた気もぬけ、ただぼんやりとしてしまったのです。みな首をたれて、隊長のいうとおりだ、と思いました。
 おもえば、われわれは歓呼(かんこ)の声におくられ、激励(げきれい)されて国を出たのですが、それにもかかわらず、あのころから、国中にはなんとなく不吉(ふきつ)な気分がみちみちていました。いまそれがまざまざと思いだされます。誰もかれも、つよがっていばっていましたが、その言葉は浮(う)わついて空疎(くうそ)でした。酔っぱらいがあばれだしたようなふうでもありました。それを思うと、胸も痛み、恥ずかしさに身内があつくなるような気がしました。
 誰かすすり泣く声がしました。すると、みな、にわかに悲しくなって、すすり泣きました。しかし、それははっきり何が悲しい、何がうらめしい、というのではありませんでした。ただ、このたよりない気持をどうしたらいいかわからなかったのです。

【『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社ともだち文庫、1948年/新潮文庫、1959年)】

『ビルマの竪琴』は「1946年(※昭和21年)の夏から書き始め童話雑誌『赤とんぼ』に1947年3月から1948年2月まで掲載された」(Wikipedia)。一高(東大の前身)の教師だった竹山は従軍していない。そのため現地などの情報に多くの誤りがあることを詫(わ)びている。

 冒頭に出てくる「歌う部隊」のエピソードは本書を読んだことがない人でも知っているだろう。追い詰められた日本兵が「埴生(はにゅう)の宿」を歌うと、今にも襲いかからんばかりのイギリス兵も歌い出し、合唱となる。


Helen Traubel Sings "Home, Sweet Home." 1946

日本童謡事典』の「埴生の宿」p323-32の解説によれば,「みずからの生まれ育った花・鳥・虫に恵まれた家を懐かしみ讃える歌…」「「埴生の宿」とは,床も畳もなく「埴」(土=粘土)を剥き出しのままの家のこと,そんな造りであっても,生い立ちの家は,「玉の装い(よそおい)」を凝らし「瑠璃の床」を持った殿堂よりずっと「楽し」く,また「頼もし」いという内容。

レファレンス協同データベース

 敗色が濃厚になると日本は無気力に覆われた。欧米と比すれば小さな国である。物資が欠乏しながらも3年半にわたって戦った歴史を軽々しく論じるべきではない。しかも敗れたのはアメリカ一国だけであり、イギリス・フランス・オランダ軍を退けたのだ。

 8月15日を境にして日本はGHQの占領下に置かれる。実に建国以来のことである。わずか7年(サンフランシスコ講和条約が発効した1952年〈昭和27年〉4月28日まで)とはいえ、歴史を裁断するには十分な時間だった。

 日本人の精神は無気力から真空状態に至る。そして敗戦するや否やラジオや新聞はGHQの統制下で軍部を悪しざまに罵った。知識人は掌(てのひら)を返して「戦争には反対だった」と口々に言い始めた。歓呼の声と万歳で見送られた兵士は帰国すると白い目で見られた。

 1940年(昭和15年)にナチスを批判した竹山はこの時もまた強い違和感を覚えた。自分の教え子の訃報に接してきた彼がやすやすとGHQの洗脳に屈服することはなかった。遺骨もなく形見の品だけで弔(とむら)う葬儀があった。形見すらない場合も珍しくなかった。世間が戦争の罪を軍部に押し付けようとした時、竹山はたった独りで鎮魂のペンを執(と)った。児童向けの作品となった経緯を私は知らないが結果的にはよかったと思う。戦後に就学していた人々が左傾化することは避けようがなかったわけだが一定のブレーキにはなったことだろう。

 このテキストには敗れざるを得なかった日本の情況が正確にスケッチされている。「酔っぱらいがあばれだしたようなふう」とあるが、直ぐ後に描かれる「首を切り落とされた鶏(にわとり)がバタバタと動く様子」は戦前・戦中の日本を示したものだろう。天皇責任論に対する静かな批判といってよい。

 誰もが食べることで精一杯だった。そんな中で竹山は戦死者の魂を鎮(しず)めようとした。

2017-12-12

田原総一朗の正体は反戦主義者/『戦争論争戦』小林よしのり、田原総一朗


『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 2』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 3』小林よしのり
『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり

 ・田原総一朗の正体は反戦主義者

『「知的野蛮人」になるための本棚』佐藤優

 最近、私は、信頼する親しい大学教授や評論家たちから、「自分は真ん中よりやや左だったが、このところ右よりになってきた」という話をよく聞く。どう見ても左派の菅直人までが、朝鮮半島の有事の際には自衛隊の米軍後方支援を支持すると、自民党すらいわないことを口にするくらいだ。世の中は、どんどん右へ、右へと動いている。
 これは、やはり50年続いた戦後日本の世の中が、ひたすら「個」中心へと向かった結果、人びとが「国」や「公」の危うさに気づきはじめたということなのだろう。
 しかし、この前の戦争の末期を体験した私にとって、生きるということは、いってみれば、あのような戦争を二度と再び起こさないことだった。最近は、それが私の役割だとすら思えるようになってきた。そこで小林よしのりとは、さまざまな論点で激突し、徹底的に闘うはめになってしまったのだ。

【『戦争論争戦』小林よしのり、田原総一朗(ぶんか社、1999年)】

 田原総一朗の後書きを読んだ瞬間に私は悟った。「この男は単なる反戦主義者なのだ」と。疑問の雲が吹き払われた。田原の周囲に左翼およびシンパが多いのはその反戦主義が共鳴しているためだ。

 彼は必ず「ジャーナリストの田原総一朗です」と名乗る。やはり言論をプロレス化しただけのテレビ屋という自覚があるのだろう。テレビマン時代には衆人環視のもとで性行為をやってのけた人物である。映画監督にも作家にもなることができなかった劣等感を「過激さ」で撥(は)ね退けようとしたのだろう。

 田原に近い人物の一人に佐藤優がいる。佐藤は田原のラジオ番組で再三にわたって小林よしのりを批判してきた。また小林を攻撃する記事も幾度となく書いている。小林はこれに応じた。ほんの2~3年前までの出来事だ。ところが小林は女系天皇論を表明した後、先の総選挙では辻元清美や山尾志桜里を担ぎ上げるまでに大きく旋回した。その後の佐藤との論争を私はフォローしていないのだが、たぶん佐藤は小林批判を控えているのではないか。

 今から7~8年前に行われたシンポジウムで佐藤優が田原総一朗を痛罵する場面があった。会場から湧いた拍手を聞いて「ああ、田原が持てはやされる時代は終わったな」と感じた。


文字起こし:【佐藤優】田原総一朗は官僚支配を促進している

 ジャーナリストの田原総一朗氏は、「権力党員」である。「権力党」とは、民主党とか自民党という、既成政党と関係ない。「権力党員」とは、常に時の権力の内側にいて、事実上、国家の意思形成に加わっている人を指す。「権力党員」は時の政権の手先であるという単純な図式は成り立たない。むしろ時の政権とは、少し距離を置きつつも権力の内側にいて、建設的批判を行った方が「権力党員」としての影響力が拡大することがある。田原氏は、「権力党」の文法に通暁している。それだから、政府の顧問や諮問委員に就かないのだ。

佐藤優の眼光紙背:「権力党員」田原総一朗氏と国民の真実を知る権利 2010年10月25日

 このシンポジウムに田原は遅れて登場したのだが、実はその前に元読売新聞大阪社会部の大谷昭宏も佐藤からの攻撃を受けていた。テレビで活躍する二人をこき下ろすことで佐藤は自分の株価を上げてみせた。結果的にというよりは意図的に行った可能性が高いと私は見る。

 少国民世代である田原が戦争を忌み嫌うのは理解できる。ただし個人の経験というミクロな視点で安全保障や外交を捉えるのは誤っている。日本が70年以上にわたって平和を享受し得たのは憲法9条によるものではなくアメリカの核抑止力に守られてきたからだ。近代国際法の道を開いたウェストファリア条約(1648年)も勢力均衡という思想に基づく。

 もしも日本が大東亜戦争で立ち上がっていなければ、白色人種による帝国主義(植民地主義)は数世紀も長く続いたはずだ。アジア、中東、アフリカ諸国が第二次世界大戦後に独立したのは日本が白人の土手っ腹に風穴を開けたからだ。これが歴史の事実である。

戦争論争戦―小林よしのりVS.田原総一朗
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2016-09-07

市丸利之助「ルーズベルトニ与フル書」


 ・市丸利之助「ルーズベルトニ与フル書」

『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ

「正しい歴史」に学ぶのはいい。だが部分をもって全体を賛嘆する姿勢には疑問を感じる。「すばらしい国」がなぜ戦争に敗れたのか。その自省を欠いて過去を美化してはなるまい。


市丸利之助
ルーズベルトニ与フル書
全米で絶賛された市丸中将の米国大統領宛の手紙
「ルーズベルト」ニ与フル書~市丸利之助少将

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マッカーサーが恐れた一書/『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ


 ・マッカーサーが恐れた一書

『パール判事の日本無罪論』田中正明

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 占領が終わらなければ、日本人は、この本を日本語で読むことはできない。
   ――ダグラス・マッカーサー(ラベル・トンプソン宛、1949年8月6日付書簡)

【『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ:伊藤延司〈いとう・のぶし〉訳(角川ソフィア文庫、2015年/角川文芸出版、2005年『アメリカの鏡・日本 新版』/アイネックス、1995年『アメリカの鏡・日本』)以下同】

 新書で抄訳版も出ているが、「第一章 爆撃機からアメリカの政策」と「第四章 伝統的侵略性」が割愛されており、頗(すこぶ)る評判が悪い。完全版が文庫化されたので新書に手を伸ばす必要はない。むしろ角川出版社は新書を廃刊すべきである。

 マッカーサーが恐れた一書といってよい。ミアーズは東洋史の研究者で、戦後はGHQの諮問機関である労働政策委員会の一員として二度目の来日をした。原書は1948年(昭和23年)に刊行。戦前のアメリカ政府による主張とあまりに異なる内容のためミアーズの研究者人生は閉ざされた。

 私は打ちのめされた。アメリカに敗れた真の理由を忽然と悟った。アメリカにはミアーズがいたが、日本にミアーズはいなかった。近代以降の日本は「アメリカの鏡」であった。遅れて帝国主義の列に連なった日本は帝国主義の甘い汁を吸う前に叩き落とされた。本書を超える書籍が日本人の手によって書かれない限り、戦後レジームからの脱却は困難であろう。


なぜ日本を占領するか

 日本占領は戦争行動ではなく、戦後計画の一環として企てられたものである。私たちは勝利に必要な手段として、日本を占領したのではない。占領は日本に降伏を許す条件の一つだったのだ。この方針は1945年7月27日のポツダム宣言で明らかにされている。同宣言は日本民族が絶滅を免れる最後のチャンスとして、不定期の占領に服さなければならない、占領は日本の文明と経済の徹底的「改革」をともなうが、もし、これに服さなければ、日本は「即時かつ完全な壊滅」を受け入れなければならない、というのだった。
 この厳しい条件は日本の態度を硬化させた。そして、宣言発表から10日後、私たちは1発の原子爆弾を投下して、この条件が単なるこけ脅しではないこと、日本を文字どおり地球上から消し去ることができることを証明してみせた。私たちは、もし日本がすぐさま惨めにひれ伏して降伏しなければ、本気で日本を消滅させるつもりだったのだ。

 ポツダム宣言が発表されたのは「7月27日」ではなく26日である(アメリカ時間か?)。日本政府は8月14日にこれを受諾した。広島への原爆投下が8月6日で、長崎が9日である。ミアーズはアメリカ人なので致し方ないが、日本政府がポツダム宣言受諾を決定した最大の理由はソ連対日参戦(8月9日)であった。そして8月14日には陸軍エリートが宮城事件を起こし、埼玉では川口放送所占拠事件(8月24日)が発生する。

 尚、ポツダム宣言に署名したのは米・英・中華民国であって中華人民共和国ではない。巷間指摘される通り「中国3000年の歴史」という言葉はデタラメなもので、中華人民共和国の歴史は70年にも満たない(1949年建国)。シナという地理的要件がたまたま一致しているだけで国家としての連続性はなく、王朝がコロコロ変わるのがシナの歴史であった。「中国」という幻想をしっかりと払拭しておく必要があろう。

 つまり、日本占領はアメリカの戦争目的の一つだったのだ。では、いったい、日本を占領する私たちの目的は何なのか。その答えは簡単すぎるほど簡単だ。この疑問に悩んで眠れなくなったアメリカ人はいまい。答えはたったひと言「奴らを倒せ、そして倒れたままにしておけ」である。これ以上のことをいうにしても、せいぜい、日本人が二度と戦争を起こさないよう「民主化」しよう、ぐらいのものなのだ。
 国民の考えは、カイロとポツダムの両宣言から、占領後のホワイト・ハウス声明、ポーリー報告、マッカーサー将軍をはじめとする軍、政府首脳が出した数多くの通達にいたるまで、公の、あるいはそれに準ずる文書の中でいわれてきた戦争目的と見事に一致していた。
 すべての文書が、断固として日本を「懲罰し、拘束する」といっていた。懲罰によって「野蛮な」人間どもの戦争好きの性根を叩き直し、金輪際戦争できないようにする。そのために、生きていくのがやっとの物だけを与え、あとはいっさいを剥ぎ取ってしまおうというのだった。占領の目的は1945年9月19日、ディーン・アチソン国務長官代行が語った言葉に要約される。
「日本は侵略戦争を繰り返せない状態に置かれるだろう……戦争願望をつくり出している現在の経済・社会システムは、戦争願望をもちつづけることができないように組み替えられるだろう。そのために必要な手段は、いかなるものであれ、行使することになろう」

 ソ連参戦によって日本政府が恐れたのは共産主義化が国体を滅ぼすことであった。ゾルゲ事件(1941-42年)で近衛内閣のブレーンを務めた尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉までもがソ連のスパイであることが発覚した。

 中華民国の蒋介石は既に反共から容共に転じていた。そしてアメリカもまた共産党勢力に冒されていたのである(『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫)。GHQは分裂していた。占領初期~民主化~マッカーサー憲法を推進した民政局(GS)はニューディーラーと呼ばれる左派(社会民主主義者)の巣窟であった。一方、チャールズ・ウィロビー少将が率いる参謀第二部(G2)は保守派であり、GSとG2は激しく対立していた。

 世界恐慌(1929年)からブロック経済への移行が第二次世界大戦の導火線となったわけだが、大統領選挙でニューディール政策を掲げたフランクリン・ルーズベルトは社会民主主義色が強く、「ルーズベルトは民主主義者から民主主義左派・過激民主主義者を経て、社会主義者、そして共産主義支持者へと変貌していった」(ハミルトン・フィッシュ)との指摘もある(『日本人が知らない「二つのアメリカ」の世界戦略』深田匠)。

 日本政府が最後通牒と受け止めたハル・ノートには二案あり、採用されたのはモーゲンソー私案である。これを作成したハリー・デクスター・ホワイトはソ連のスパイであった(『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男)。第一次世界大戦後、世界中を共産主義の風が吹いていた歴史の事実を忘れてはなるまい。

 敗戦が確定した時点で国体の命運は定まっていなかった。GSが支援した片山社会党内閣(1947-48年)に続き、芦田民主党内閣(1948年)を挟んで第二次吉田内閣(1948-49年)が誕生する。GHQの主導権はGSからG2へと移り変わり、レッドパージ(1949年)の追い風を受けた吉田内閣は第五次(1953-54年)まで続いた。吉田首相は国家の自主防衛を捨てても国体を護る道を選んだ。その功罪を論(あげつら)うのは後世の勝手である。しかし吉田が天皇制を護ったのは事実である。辛うじて国体は護持し得たが国家としての日本は破壊された。

 大東亜戦争は日本の武士道がアメリカのプラグマティズムに敗れた戦争であったと私は考える。大日本帝国の軍人は軍刀を下げていた。対面を重んじて実質を軽んじた。開戦そのものが見切り発車で、石油の備蓄は2年分しかなかった。つまり最初から2年以上戦うつもりはなかったのだ。明治維新の会津藩と日本の姿が重なる(会津藩の運命が日本の行く末を決めた)。規範を疑うことを知らず、視線は常に内側に向けられたまま、外部世界との戦いに翻弄された。

 GHQによって日本は「二度と戦争のできない国」に改造された。GSとG2の分裂による迷走は今尚、日本を二分している。冒頭に掲げたマッカーサーの言葉は意味深長である。多くの日本人が本書を読んでないのだから、GHQの占領はまだ続いていると思わざるを得ない。

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KADOKAWA/角川学芸出版 (2015-12-25)
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世界史対照年表の衝撃/『ニューステージ 世界史詳覧』浜島書店編集部編

2016-04-14

日露戦争が世界に与えた衝撃/『世界が語る大東亜戦争と東京裁判 アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集』吉本貞昭


『学校では絶対に教えない植民地の真実』黄文雄
『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明

 ・日露戦争が世界に与えた衝撃

・『世界がさばく東京裁判』佐藤和男監修、江崎道朗構成、日本会議企画
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温
『植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす』山口洋一

日本の近代史を学ぶ

ファン・ボイ・チャウ(ベトナムの民族主義者)】
「日露戦争は私たちの頭脳に一世界を開かせた」

ネルー(初代インド首相)】
「アジアの一国である日本の勝利は、アジアのすべての国ぐにに大きな影響を与えた。わたしは少年時代、どんなにそれに感激したのかを、おまえによく話したことがあったものだ。(中略)いまでもヨーロッパを打ち破ることもできるはずだ。ナショナリズムはいっそう急速に東方諸国にひろがり、(アジア人のアジア)の叫びが起こった」

【ウ・オッタマ僧正(インドの独立運動家)】
「日本の隆盛と戦勝の原因は、英明なる明治大帝を中心にして青年が団結したからである。われわれも仏陀の教えを中心に、青年が団結・決起すれば、必ず独立を勝ち取ることができる。長年のイギリスの桎梏からのがれるためには、日本にたよる以外に道はない」

バー・モウ(初代ビルマ首相)】
「日本の勝利はアジアの目覚めの一歩」

レーニン(ロシアの革命家)】
「旅順の降伏はツァーリズム降伏の序章。革命の始まり」

【デュボイウス(アフリカ解放の父)】
「有色人種は日本をリーダーとして従い、人種平等・民族独立を達成すべきである」

【シーラーズ(イラン解放の父)】
「日本の足跡をたどるならば、われわれにも夜明けがくるだろう」

 以上の証言からも分かるように、この日露戦争の勝利は、単に日本と朝鮮半島の安全保障を確立しただけではなく、欧米列強やロシアの圧政に苦しむ人々に大きな影響を与えたことは確かであろう。(※証言者冒頭の数字を割愛した)

【『世界が語る大東亜戦争と東京裁判 アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集』吉本貞昭(ハート出版、2012年)】

 日本の近代史は実に厄介である。精力的に読み漁ってきたが、ボヤけたままの全体像がいつまで経ってもすっきりと見えてこない。もちろん私の眼が悪い可能性もあるが、この手の本は細部や部分に固執する傾向が強い。明治維新だけ考えてみても、アヘン戦争に敗れた清国の惨状と黒船襲来による危機感が大きな動機になっているが、攘夷派がコロリと開国派に転じた背景がわかりにくい。そもそも下級武士がどのようにしてカネや武器を動かすことができたのか? 孝明天皇の意志がどこにあったかもつかみにくい。偽勅(ぎちょく/討幕の密勅)だけで済ませては会津藩が浮かばれない。

 その後、日清・日露戦争~第一次世界大戦~第二次世界大戦と鎖国から帝国主義へ打って出たわけだが、意思決定すら不透明でよくわからない。関東軍の暴走(満州事変:昭和6年/1931年)、五・一五事件(昭和7年/1932年)、二・二六事件(昭和11年/1936年)を思えば、まともに統治された国家とは言い難い。確固たる権力が不在であった証拠といえよう。結局のところ「東亜百年戦争」は明治維新からの内乱を引きずった百年でもあった。官僚やマスメディアに巣食う痼疾(こしつ)の由来もここにあると私は考える。

 日露戦争(明治37年/1904年-明治38年/1905年)を「20世紀最大の事件」に挙げる人は多い。第二次世界大戦よりも歴史的な意義があるのは、数世紀にわたる白人支配に一撃を与えたためだ。日本の勝利が後のアジア・中東・アフリカ諸国独立の遠因となったのである。

 元を糾(ただ)せば日清戦争(明治27年/1894年-明治28年/1895年)もロシアの南下政策を防ぐ目的があった。更に義和団事変(1900年)におけるロシア兵の横暴・モラル欠如は目に余るものがあった。帝国主義時代において不凍港を獲得せんとするロシアと、遅れて世界に進出せんとした日本が衝突することは避けようがなかった。何にも増して日清戦争に対する三国干渉が全国民の不満となって鬱積していた。

 知識人の多くが主戦論を唱えた。非戦論者ではクリスチャンの内村鑑三や社会主義者の幸徳秋水が知られるが、単なる感情的なもので国家の行く末を踏まえたものではない。また当時の世界を見据える視点は、日清戦争に反対した勝海舟(『氷川清話』)よりも福澤諭吉に軍配が上がると思う。

 吉本貞昭は高校の非常勤講師をしながら本書を書き上げた。一読の価値ありと推すが、証言の詳細がないのが不備に映る。


日露戦争に関しての発言など

2016-04-10

大東亜戦争の理想/『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市


『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
日下公人×関岡英之

 ・大東亜戦争の理想

『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
・『革命家チャンドラ・ボース 祖国解放に燃えた英雄の生涯』稲垣武
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

日本の近代史を学ぶ

 私は同行の将校を一室に集めて、総長の意向を説明し私の決意を【ひれき】した。私は特に若輩未経験かつ不徳の者であることを皆にわびた。しかし、私はかねがね私が信念とする日本思想戦の本質を、万難を排し身をもって実践することを皆に誓った。そして皆に協力と補佐を願った。私は信ずる日本思想戦の本質を【じゅんじゅん】と説いた。「敵味方を超越した広大な陛下の御仁慈を拝察し、これを戦地の住民と敵、特に捕虜に身をもって伝えることだ。そして敵にも、住民にも大御心に感銘させ、日本軍と協力して硝煙の中に新しい友情と平和の基礎とを打ち建てねばならない。われわれはこれを更に敵中に広めて、味方を敵の中に得るまでに至らねばならぬ。日本軍は戦えば戦うほど消耗するのでなくて、住民と敵を味方に加えて太って行かなくてはならない。日本の戦いは住民と捕虜を真に自由にし、幸福にし、また民族の念願を達成させる正義の戦いであることを感得させ、彼らの共鳴を得るのでなくてはならぬ。武力戦で勝っても、この思想戦に敗れたのでは戦勝を全うし得ないし、戦争の意義がなくなる。なおこの種の仕事に携わる者は、諸民族の独立運動者以上にその運動に情熱と信念とをもたねばならぬ。そしてお互いは最も謙虚でつつましやかでなくてはならぬ。大言壮語したり、いたずらに志士を気取ったり、壮士然としたりするいことを厳に慎まねばならぬ。そんな人物は大事をなし遂げ得るものではない。われわれはあくまで縁の下の力持で甘んずべきだ。われわれは武器をもって戦う代りに、高い道義をもって戦うのである。われわれに大切なものは、力ではなくて信念と至誠と情熱と仁愛とである。自己に対しても、お互いは勿論、異民族の同志に対しても、また日本軍将兵に対してもそうでなければならぬ。そしてわれわれは絶対の信頼を得なければならぬ。最後に、お互いは今日から死生を共にする血盟の同志となり、君国のために働こう」と申しでた。一同は私の決意と所信に、心から感銘してくれたように見受けられた。

【『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市〈ふじわら・いわいち〉(バジリコ、2012年/原書房、1966年『F機関』/原書房、1970年『藤原機関 インド独立の母』/番町書房、1972年『大本営の密使 秘録 F機関の秘密工作』/振学出版、1985年『F機関 インド独立に賭けた大本営参謀の記録』)】

 日本の近代史にまつわる書物を取り上げる時、キーボードを叩こうとする指が宙で止まる。常に躊躇(ためら)いが付きまとうのは近代史に数多くの嘘が紛(まぎ)れているためだ。GHQの抑圧に対する反動、デタラメ極まりない左翼史観への対抗もさることながら、「過ぎたことは水に流す」「負け戦をあれこれ考えても仕方がない」といった日本人気質が混じり合って、混沌の様相を呈している。そのため、「必読書」に入れる近代史本は厳選しているつもりだ。

 藤原岩市は33歳の時(当時少佐)、大東亜戦争勃発に備え、東南アジアのマレイ・北スマトラ民族工作の密命を受けた。10人余りの陣容で出発し、後に現地で日本人をリクルートし30名の体制となる。F機関の「F」とは、フリーダム、フレンドシップ、藤原の頭文字を取ったものである。「アジア人のアジア」「大東亜の共栄圏」建設を目指した。

 机上の作戦だけで物事は進まない。そこには必ず実務を遂行する「人」がいる。F機関は藤原という人物を得て、八紘一宇(はっこういちう)の輝かしい足跡(そくせき)を残した。

 藤原が大東亜戦争を「思想戦」と捉えていた事実が興味深い。民族工作とは現地住民に国家独立を促し、白人のもとで戦う現地兵士を寝返らせる任務であった。後に「マレーのハリマオ(虎)」と呼ばれた谷豊もF機関に加わる。妹を惨殺された谷は復讐の鬼と化して盗賊団の首領に納(おさ)まっていた。サイドストーリーではあるが谷の短い一生(享年30歳)に涙を禁じ得ない。音信の途絶えていた日本の家族に藤原は谷の活躍を伝えた。


 F機関は、シーク族(シーク教徒か?)の秘密結社IILと連携し、次々と人心をつかみシンガポールを中心にマレイ、タイ、ビルマ、スマトラの広大な地域に拡大。遂にはインド独立の機運をつくり、チャンドラ・ボースにバトンを渡す。藤原は大東亜共栄圏の理想に生きた。だが大本営はそうではなかった。シンガポールでは日本軍が華僑を虐殺している。藤原は歯噛みをしながら上官に意見を具申する。高名な山下奉文〈やました・ともゆき〉陸軍大将の振る舞いもスケッチされている。英軍探偵局長(階級は大佐)の取り調べに対して藤原は堂々とアジア民族の共存共栄を語る。局長はイギリスが人種差別感情を払拭できなかった本音を吐露する。昭和36年(1961年)、F機関の慰霊祭が初めて挙行された。巻末の「慰霊の辞」を涙なくして読むことのできる者はあるまい。



 上の地図が戦前の領土である。海洋面積を見れば半分以下になっている。結局のところ明治維新当時に戻ってしまった。日本が帝国主義に敗れた現実がひしひしと迫ってくる。


 藤原岩市は大東亜共栄圏の理想に生きた。インド独立の影の功労者といっても過言ではない。だがそれは大東亜戦争の一部であったが全部ではない。同様にパール判事の主張や神風特攻隊の美しいエピソードを強調して大東亜戦争を美化することは戒めるべきだろう。歴史は細部の集合体ではあるが、細部にとらわれてしまえば全体を見失う。

 日本は戦争に負けた。本来であれば「なぜ負けたのか」「どうすれば勝てるか」というところから復興しなければならなかったはずだ。ところが現実の政治は国体護持のみに腐心して、経済一辺倒で進んでしまった。日本人の誇りも結構だが、この国にまず必要なのは「戦略」である。

 尚、本書の文章が粗(あら)く、平仮名表記が目立つのは、1947年(昭和22年)にシンガポールのイギリス軍刑務所から解放されて帰国し、一気呵成に認(したた)めたせいである。校訂の不備には目をつぶり、筆の勢いを味わうべきだ。



果たし得てゐいない約束――私の中の二十五年/『決定版 三島由紀夫全集 36 評論11』三島由紀夫

2016-04-06

戦争は制度である/『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹

 ・戦争は文明である
 ・戦争は制度である

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
・『封印の昭和史 戦後50年自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一
・『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は、必ず滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
・『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹

 国家とか経済とか家とか学校とか、われわれの社会は、多くの制度を生みだした。制度とは、何かの目的を達成するための枠組みである。戦争も同じ制度なのだ。その目的は、国際紛争の解決、ということにある。(中略)
 戦争は高度に【文明】的な【制度】である。この大前提を、ひとりひとりが、しっかりと把握することなくして、われわれの社会から、戦争がなくなることはないだろう。

【『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹(カッパ・ビジネス、1981年/光文社文庫、1990年/ビジネス社、2018年『国民のための戦争と平和』改題)】

 戦争は単なる喧嘩ではない。戦争とは政治であり、外交における一つの手段である。

「戦争は制度である」との指摘は感情の次元では容認しかねる。わかりやすい例を挙げるならスポーツである。スポーツは元々「狩り」を制度化したものだが、チーム同士が戦う競技は極めて戦争と似ている。オリンピックを始めとする国際大会ではチームが国家を代表しており、代理戦争の様相を呈している。それぞれの国民が熱狂する様も戦争とそっくりだ。

 生物学的に見れば「限られた資源を巡る競争」である。ただし軍事力の強大な国家が長く繁栄するわけではない。ローマもモンゴルも滅び、スペイン・オランダ・イギリスは没落し、そして今、アメリカも沈みつつある。

 戦争に勝つ力も必要だが、戦争を避ける英知もまた必要なのだ。

 かつて日本はアメリカから石油の禁輸措置を受け、ABCD包囲網で経済封鎖をされ、戦争に打って出た。石油の備蓄は2年分しかなかった。つまり2年以上戦う構想はなかったと見てよい。その後、蘭印(オランダ領東インド、現在のインドネシア)を攻略し、石油を獲得するも、米軍によってタンカーの殆どが沈められた。物量もさることながら戦略の時点で既に敗れていた。日本軍の戦没者230万人のうち60%が餓死・戦病死であった。

 敗戦後、日本は安全保障を米軍に委ね、経済発展を遂げる。GHQの占領を通して歴史は途絶え、敗戦を振り返ることなく日本人は働いて働いて働きまくった。負けた戦争を真摯に見つめる政治家も私は見たことがない。天皇陛下の戦争責任よりも重要なことは、エネルギーと食糧の安全保障をどうするかである。1965年には73%であった食料自給率が2014年には39%(カロリーベース)まで落ち込んでいる(※生産額ベースでは64%:農林水産省)。

 選挙権は兵役とセットである。18歳選挙権に関して左翼が「徴兵制導入の布石」だと騒いでいるが、私は正反対の位置から考えるべきだと思う。北朝鮮が日本に向けてミサイルを発射しても、政府や自衛隊は戦争をする構えすら見せない。この事実は軍事的責任の欠如を示すものだ。日本の軍事における責任を担っているのは米軍である。つまりこの国の真の主権者はアメリカだと見なすことができる。そしてアメリカの意図によってこれから憲法改正が行われ、アメリカからの指示によって日本は戦争に巻き込まれるのだろう。


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2016-04-05

戦争は文明である/『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹

 ・戦争は文明である
 ・戦争は制度である

『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
・『封印の昭和史 戦後50年自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹
『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

 それゆえ“野蛮な戦争はもうごめんだ”という主張は、自己矛盾をはらんでいる。戦争は野蛮な行為ではないからである。
 第一次大戦と第二次大戦の戦間期に、パシフィズムといわれる運動が、ヨーロッパを席巻(せっけん)したことがあった。パシフィズムとは「平和主義」という意味だ。学生も労働者も野蛮な戦争はもういやだ、絶対に銃はとらないと叫んだ。(中略)
 それでは平和がもたらされたか。歴史は皮肉なことになった。パシフィズムは、世界史上、もっとも悲惨な、もっとも大きな戦争をもたらした。彼らの平和運動は、ヒットラーの揺籃(ようらん/ゆりかご)となったのだ。なぜ、そんな馬鹿なことになったのか。それは、一(いつ)にかかって、全員が、戦争を野蛮な行為と誤解した点にある。
 本質を誤った運動は、たいへんな副作用をもたらす。平和をとなえ、願えば、平和がくるという、心情的な「念力主義」は、役にたたないだけでなく、危険だ。戦争を、人類が生みだした最高の文明として、とらえ直し、論理をそこから再出発させる必要がある。

【『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹(カッパ・ビジネス、1981年/光文社文庫、1990年/ビジネス社、2018年『国民のための戦争と平和』改題)】

 迂闊(うかつ)であった。読書日記に記していなかった。昨年の8月に読了している。小室作品における戦争もの・国家論の筆頭に位置すると考えてよい。

 ひとつ言いわけをさせてもらうと、一方でクリシュナムルティやブッダの初期教典を読みながら、他方で歴史認識の再構築やリアリズムを追求することは離れ業といってよい。クリシュナムルティ流にいえば「分離の過程」そのものである。理想と現実の狭間(はざま)で時折、混乱気味になることもあると思われるが、ご了承願いたい。

 複数の国家が連合する大きな戦争の原因は地球の寒冷化にあると私は考える。この環境史に基づくスケールを超える視点はまだ出てきていない。具体的には食糧とエネルギーを巡る争いであると見なすことができよう。21世紀になった今日においても尚、アメリカの国防戦略は原油を中心に構築されている。中東はその犠牲者である。

 小室の場合は文明史的かつ社会科学的な視点である。ヒトの脳は宇宙を思わせる領域で膨大な情報と精密なシステムから成る。エリック・J・チェイソンは、ヒトの脳よりもはるかに複雑なシステムが「文明化した社会」であると指摘する。これは複雑系科学の創発・自己組織化・相転移などを踏まえると納得できる(『通貨戦争 崩壊への最悪シナリオが動き出した!』ジェームズ・リカーズ、2012年)。

<パシフィズム(平和主義)は、臆病・『卑劣』を意味する>:チャンネル桜・瓦版、朝日廃刊が日本を救う

 日本における平和主義は「文学」といってよい。心情的な物語が合理性を無視する。歴史を振り返れば一目瞭然だが、平和的な国家・民族は必ず侵略され、後に滅んだ。白人の奴隷にされたアフリカ人、突然やってきたヨーロッパ人に虐殺されたインディアン、ユダヤ人を受け入れたパレスチナを見よ。

 江戸時代のミラクルピース(世界史的にも稀な長期的な平和時代)を可能にしたのは鎖国であった。しかし帝国主義の大波が押し寄せ、日本は内を守るため外に向かって打って出ざるを得なくなった。これが日清・日露戦争である。

「戦争は文明である」という事実は少し冷静になれば理解できよう。社会や組織が一つの目的に向かって進む時、集団は必ず軍隊性を帯びる。つまり意思決定に始まり計画立案~目的遂行というシステムが戦争に集約されている。日本が大東亜戦争に敗れたのは最初から最後まで合理性を欠いていたためだ。日清戦争における三国干渉(1895年)が国民の間に強いストレスとなって不満が溜まりに溜まっていた。尊王の精神も裏目に出たと言わざるを得ない。

 戦争が文明であるならば、負ける戦争を絶対にしてはならないし、万が一戦争になっても最小限の戦闘で最大限の効果を得る戦略が求められる。相手が攻めてきた時に平和主義は通用しないのだ。


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