・ネアンデルタール人も介護をしていた
・『病が語る日本史』酒井シヅ
人類の進化をコンパクトにまとめた一冊。やや面白味に欠ける文章ではあるが、トピックが豊富で飽きさせない。
例えば、こう――
北イラクのシャニダール洞窟で発掘された化石はネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)のイメージを大きく変えた。見つかった大人の化石は、生まれつき右腕が萎縮する病気にかかっていたことを示していた。研究者は、右腕が不自由なまま比較的高齢(35〜40歳)まで生きていられたのは、仲間に助けてもらっていたからだと考えた。そこには助け合い、介護の始まりが見て取れたのだ。「野蛮人」というレッテルを張り替えるには格好の素材だった。
【『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠(講談社現代新書、2005年)】
飽くまでも可能性を示唆したものだが、十分得心がゆく。私の拙い記憶によれば、フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』(早川書房、2005年)には、チンパンジーがダウン症の子供を受け入れる場面が描かれていた。
広井良典は『死生観を問いなおす』(ちくま新書、2001年)の中で、「人間とは『ケアする動物』」であると定義し、ケアをしたい、またはケアされたい欲求が存在すると指摘している。
・人間とは「ケアする動物」である/『死生観を問いなおす』広井良典
つまり、ケアやホスピタリティというものが本能に備わっている可能性がある。
ネアンデルタール人がどれほど言葉を使えたかはわからない。だが、彼等の介護という行為は、決して「言葉によって物語化」された自己満足的な幸福のために為されたものではあるまい。例えば、動物の世界でも以下のような行動が確認されている――
「他者の苦痛に対するラットの情動的反応」という興味ぶかい標題の論文が発表されていた。バーを押すと食べ物が出てくるが、同時に隣のラットに電気ショックを与える給餌器で実験すると、ラットはバーを押すのをやめるというのである。なぜラットは、電気ショックの苦痛に飛びあがる仲間を尻目に、食べ物を出しつづけなかったのか? サルを対象に同様の実験が行なわれたが(いま再現する気にはとてもなれない)、サルにはラット以上に強い抑制が働いた。自分の食べ物を得るためにハンドルを引いたら、ほかのサルが電気ショックを受けてしまった。その様子を目の当たりにして、ある者は5日間、別のサルは12日間食べ物を受けつけなかった。彼らは他者に苦しみを負わせるよりも、飢えることを選んだのである。
【『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール:藤井留美訳(早川書房、2005年)】
「思いやり」などといった美しい物語ではなく、コミュニティ志向が自然に自己犠牲の行動へとつながっているのだろう。そう考えると、真の社会的評価は「感謝されること」なのだと気づく。これこそ、本当の社会貢献だ。
人間がケアする動物であるとすれば、介護を業者に丸投げしてしまった現代社会は、「幸福になりにくい社会」であるといえる。家族や友人、はたまた地域住民による介護が実現できないのは、仕事があるせいだ。結局、小さなコミュニティの犠牲の上に、大きなコミュニティが成り立っている。これを引っ繰り返さない限り、社会の持続可能性は道を絶たれてしまうことだろう。
既に介護は、外国人労働力を必要とする地点に落下し、「ホームレスになるか、介護の仕事をするか」といった選択レベルが囁かれるまでになった。きっと、心のどこかで「介護=汚い仕事」と決めつけているのだろう。我々が生きる社会はこれほどまでに貧しい。
せめて、「飢えることを選んだ」ラットやサル並みの人生を私は歩みたい。
・頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね