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2020-03-15

「シナ」と「中国」の区別/『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹
『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一

 ・「シナ」と「中国」の区別

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
・『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹

〔付記〕

 対談の中で、「シナ」と「中国」は区別して用いた。中国は中華人民共和国や中華民国の略称としてのみ正当と言うべきであり、地理的、文化的概念としては用いることはできない。地理的概念、あるいは古代以来の文化的概念を指す場合は、「シナ」(英語のチャイナ)を用いることが正当であると、私は考える。中国という言葉の背景には、外国を夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)と見なし、自らを高いものとする外国蔑視がある。
 また、コリアという擁護は、現在の北朝鮮、大韓民国の双方を含んで呼ぶ場合や、朝鮮半島を地理的概念として呼ぶ場合に用いている。
渡部昇一


【『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹〈こむろ・なおき〉、渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉(徳間書店、1995年)】

 かつて石原慎太郎が「三国人」(2000年)とか「シナ」(2012年)とか言って問題にされたことがある。この発言をヘイトスピーチの嚆矢(こうし)とする人もいる。私自身、報道を真に受けて問題だと考えていた。本書を読むまでは。冒頭の付記で日本を取り巻く言論情況が一瞬にして理解できた。ちょっと考えてみれば誰でも気づくことだが「東シナ海」や「支那そば」に差別意識は全くない。「支那(しな)とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。日本では、江戸時代中期から第二次世界大戦末期まで広く用いられていた」(Wikipedia)。

 中華思想によれば朝廷に帰順しない民族は東夷(とうい)・北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)と呼ばれ、禽獣(きんじゅう)と同じ扱いを受ける(四夷)。つまり我々が中国と呼ぶことは日本人を東夷と貶(おとし)めていることに通じる。

都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 現在左翼が糾弾するヘイトスピーチは在特会(在日特権を許さない市民の会)が始めたものだ。彼らはコリアンタウンで「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」などと書いたプラカードを掲げ、「殺せ、殺せ!」と街宣活動を行った。



「不逞鮮人を死ぬまで追い込め」「朝鮮人をガス室に送り込め」「朝鮮人なんて人間じゃないぞ」…今日の新大久保・嫌韓デモで飛び交った醜悪なシュプレヒコールをあえて記す。許さないためにも。

「ばーかばーか」「あっかんべー」とはデモのコーラーが用いていた表現です。この他、「ウジ虫」「ゴキブリ」「殺せ殺せ」「死ね」「不逞朝鮮 人を死ぬまで追い込むぞ」「ガス室に朝鮮人を叩き込め」「ぶさいく」「クサレマンコ」等の聞く(読む)に堪えない表現が多数用いられています。

日刊ベリタ : 記事 : 新大久保でまたもや在特会デモ  2月9日、「良い韓国人も 悪い韓国人も どちらも殺せ」のプラカード掲げ

 百田尚樹は桜井誠の選挙演説を「カッコいいね」と称えた。竹田恒泰は「(在特会の主張は)部分的には正しいことも言っている」とテレビで語った。彼らの性根が垣間見えた瞬間である。

 新しい歴史教科書をつくる会が結成される2年前に週刊文春編『徹底追及 「言葉狩り」と差別』(文藝春秋、1994年)が出た。『週刊金曜日』の創刊が1993年である。失われた20年はリベラルな雰囲気に包まれた時代であった。折しも1986年に施行された男女雇用機会均等法によって看護婦・スチュワーデス・保母さんが禁句となった。そういえば径書房〈こみちしょぼう〉編『『ちびくろサンボ』絶版を考える』(径書房、1990年)を読んだのもこの頃だ。ダッコちゃん人形が製造停止(1988年)となり、カルピスのマークも使用停止(1990年)に追い込まれた(黒人差別をなくす会)。

 平等を極限まで推し進めて古い伝統や文化を破壊するのが左翼の手口である。「言葉狩り」に異を唱えた書籍は他にもあったが、まだまだ左派系作家の影響が大きかった。現在でも『「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き』(朝日新聞デジタル、2018年3月24日)といった記事からも明らかなように一部の声を居丈高に拡大して言葉狩りを行っている。

 戦時中の「シナ人」という言葉に差別感情があったのは確かだろう。だが、「中国」という言葉が中華民国(現在の台湾)と中華人民共和国の違いすら見えなくし、第二次世界大戦後に建国された中華人民共和国があたかも戦勝国の一員であったかのような錯覚を抱かせる現状を思えば、我々はもっと歴史に忠実であるべきだ。青少年に反日教育を施す中国や韓国に遠慮するのは実に馬鹿げた行為だ。

2019-12-31

瀬島龍三スパイ説/『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治


『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』ヴィクトール・E・フランクル:霜山徳爾訳
『それでも人生にイエスと言う』ヴィクトール・E・フランクル
『アウシュヴィッツは終わらない あるイタリア人生存者の考察』プリーモ・レーヴィ
『イタリア抵抗運動の遺書 1943.9.8-1945.4.25』P・マルヴェッツィ、G・ピレッリ編
『石原吉郎詩文集』石原吉郎

 ・第二次世界大戦で領土を拡大したのはソ連だけだった
 ・瀬島龍三スパイ説

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 瀬島龍三は関東軍高級参謀であり、ジャリコーヴォの停戦会談に同行し、東京裁判にソ連側承認として出廷するなど、シベリア抑留では何かと話題になった人物である。瀬島についてはシベリ抑留密約説やソ連スパイ説のような疑惑が根強く流されている。
 しかし、スパイとなった菅原(道太郎)は昭和22年に、志位(正二)は昭和24年に帰国していることからもわかるように、「スパイに同意すれば早く帰す」が条件だった。そうでなければ帰国後スパイとして利用価値のある高い地位に昇進できないからだ。現に、「日本新聞」編集長だったコワレンコは、シベリア抑留者から徴募する「エージェントの条件は、まず頭が切れる人、そして帰国後高い地位に就ける人だ」とし、そういう人を【早期に帰還する】グループに入れたとインタビューで証言している。(共同通信社社会部編『沈黙のファイル』)。
 瀬島は「戦犯」として長期間勾留され11年後に帰還しているが、対日スパイなら監獄で長々と無駄飯を食わせず早期帰国させたはずだ。瀬島は職業軍人と受刑者という人生経験しかないのに48歳という中年で伊藤忠商事に入社し、20年でトップの会長にまで上り詰める異例の出世を遂げたし、中曽根内閣でブレーンになるなど政治の世界でも活躍した。結果的には「帰国後高い地位」に就いたとはいえ、これをしもKGBの深慮遠謀とはいえまい。

【『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治〈ながせ・りょうじ〉(新潮選書、2015年)】

瀬島龍三はソ連のスパイ/『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行

 歴史の評価もさることながら人物の評価ですらかくも難しい。瀬島が寝返るのに11年を要したと考えれば長勢の見方は崩れる。一方、佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉は印象や状況証拠に基づいており具体性を欠く。

 佐々は父の弘雄〈ひろお〉が近衛文麿のブレーンであり尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉と親しかったことが人生に長い影を落としている。また親友の石原慎太郎を「一流の政治家」とする判断力に蒙(くら)さを感じないわけでもない。それでも捜査現場で培ってきた勘を侮るわけにはいかない。個人的には「スパイの可能性がある」にとどめておきたい。

 ある情報を上書き更新するためには古い情報を上回る情報量が必要となる。例えば私が東京裁判史観から抜け出すためには数十冊の本を必要とし、100冊を超えてからは確信に変わり、200冊を上回ってからは国史から世界史を逆照射することができるに至った。学校教育やメディアから受けてきた些末な左翼思想を払拭するのにもこれほどの時間を要するのである。

 本書は過剰な形容がないため見過ごしてしまいそうな箇所に重要な事実が隠されている。440ページの労作が電車賃程度の値段で買えるのだから破格といってよい。敗戦の現実、列強の横暴、共産主義の非道、日本人の精神性の脆さ、国家の無責任を知るための有益な教科書である。

2018-03-13

靖国公式参拝に疑問を投げかける毎日新聞記者に激怒する石原慎太郎知事



「質問するのが当然」と思っている新聞記者が「質問されて」たじろぐ姿が浅ましい。ジャーナリストは常に「政治家は自分たちの質問に答える義務がある」との強い思い込みがあり、居丈高な調子となることも決して珍しくはない。言葉をこねくり回して身銭を稼ぐ連中がいつしか社会の動向に強い影響を及ぼすようになり、記者は野次馬からジャーナリストに昇格した。

 大東亜戦争は日本人にとって悲劇だった。だがその民族的悲劇が有色人種国を独立に導いた。植民地という名の下で数百年間に渡って奪われることに甘んじていた人々が日本を見て奮い立ったのだ。

 特攻隊員は日本のエリートであった。彼らはただ国家の行く末を思い、子孫を守るために自らの命を花と散らした。はたから見れば狂気としか思えないその攻撃がアメリカ軍を沖縄の地で止めたのだ。

 あの戦争を思えば石原が激昂するのも理解できる。むしろ戦後になって石原のように率直な怒りを表明する大人がいなくなったところに日本の歴史が寸断された原因があると思われてならない。

 そして今、エリートが日本という国家を食い物にし、滅ぼそうとしている。

2017-12-14

巧妙に左方向へ誘導する本の数々/『「知的野蛮人」になるための本棚』佐藤優


『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 2』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 3』小林よしのり
『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり
『戦争論争戦』小林よしのり、田原総一朗

 ・巧妙に左方向へ誘導する本の数々

『打ちのめされるようなすごい本』米原万里
佐藤優は現代の尾崎秀実

 ――つまらない本の見分け方を教えてください。
 その前に、どうしてつまらないスカ本が出版されると思いますか?
 ――書き手に才能がないからですか?
 それもありますが、重要なのは、本は「有価証券」だということ。出せばお金に換えられるということです。
 出版社で社員が20人を超えると、編集者が作りたくなくて、営業も売りたくなくて、取次(出版社と書店の間をつなぐ流通業者)もありがたがらない、本屋も起きたくない本がどうしてもできてしまう。資本主義ですから。
 だから、読者は「スカ本と、そうでない本を見分ける方法」をちゃんと学んでおかなくてはいけません。
 どうするかというと、本の「真ん中」をまず読むのです。
 ――本のど真ん中を開いて、何を確かめるのですか?
 なぜ真ん中を読むか。時間が足りずに雑に作って出している本は、真ん中あたりに誤植が多い。
 それから、自分が知っている分野の固有名詞がでたらめな場合もダメ。そんな本を出している出版社は、いい加減な本を作る傾向があるから、警戒した方がいいでしょう。(聞き手 小峯隆生)

【『「知的野蛮人」になるための本棚』佐藤優(PHP文庫、2014年)】

 冒頭で佐藤が推す「本読み」巧者として松岡正剛〈まつおか・せいごう〉、斎藤美奈子鹿島茂立花隆佐高信〈さたか・まこと〉の5人を挙げる。松岡・佐高は言わずと知れた極左で、斎藤はフェミニズム左翼である。

 私程度の読書量でも「巧妙に左方向へ誘導する本の数々」とわかる。山口二郎や大田昌秀の名前を見て読むのをやめた。

 佐藤優が山口二郎を絶賛したのは新党大地が立ち上げた直後の講演であったと記憶する。当時、山口は北大教授だった。その後、山口は半安倍の急先鋒となり、佐藤は巧妙に沖縄の世論形成をリードしてきた。2015年に行われた辺野古基地反対の沖縄県民大会でのスピーチこそが佐藤の行ってきた工作の目的であろう。

「東京の窓から」は石原慎太郎が都知事をしていた時の番組である。YouTubeからは削除されている。私はこれを見て佐藤優という人物が信用できなくなった。


 石原慎太郎が4歳年上である。佐藤優とよく比較してもらいたい。菅沼光弘はまさしく国士である。インテリジェンスに通じた二人だが決定的な違いだ。私は菅沼の著書は全て読んできたが国士であるという一点がブレることはない。尚、菅沼がCIAに殺害されないのは山口組がガードしているため。戦後、東大を卒業しドイツに留学。ゲーレン機関(連邦情報局)で諜報教育を受ける。ラインハルト・ゲーレンにも一度会っている。








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佐藤 優
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2017-12-11

少国民世代(昭和一桁生まれ)の反動/『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり


『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 2』小林よしのり
・『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論 3』小林よしのり

 ・少国民世代(昭和一桁生まれ)の反動
 ・天皇は祭祀王

『戦争論争戦』小林よしのり、田原総一朗
・『ゴーマニズム宣言SPECIAL パール真論』小林よしのり
『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ

 ところが本土においても、戦後のマスコミや左派知識人はこう言ってきた。

 戦前の天皇は「神」として君臨していた。国民は誰もが「現人神」(あらひとがみ)と教えられ、絶対神だと思っていて、「天皇陛下」の名前が出たら直立不動だった。

 天皇の名において戦争したのだから、天皇に戦争責任がある。
 だから戦後はGHQによって「人間宣言」をさせられた。

 天皇は戦後、人間になった。(中略)

 しかしどうやら上のように言う左派知識人たちは「少国民世代」の人たちなのだと、気づいた。

「少国民」(しょうこくみん)とは、昭和16年(大東亜戦争開戦の年)に「小学校」を「国民学校」に改称したのと同時に、「学童」を改称した名称である。
 ヒトラーユーゲントで用いられた「Jungvolk」の訳語らしい。

「少国民世代」を厳密にいうならば、「国民学校に行っていた世代」つまり「大東亜戦争中に小学生だった世代」ということになる。

 田原総一朗(終戦時11歳)
 筑紫哲也(当時10歳)大江健三郎(当時10歳)
 本多勝一(当時13歳前後)
 大島渚(当時13歳)井上ひさし(当時10歳)
 石原慎太郎(当時12歳)西尾幹二(当時10歳)
 この辺が「少国民世代」である。わしの母もこの世代に入る。

 少国民世代は、戦時中は大人たちから「日本は神国だ! いざとなれば神風が吹く!」…と教えられ軍人に憧れた者が多かった。

 戦後、その同じ大人たちが豹変して、「これからは民主主義の時代です。天皇は人間です。象徴に過ぎないんです!」…と教え始めた。
 その大人たちの露骨な態度の変化を見て、国家や天皇というものに懐疑的になった者が少国民世代には多いようだ。(中略)

 実を言うと、天皇を心底「神」と思い込んでいたのは「少国民世代」だけなのだ。

【『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり(小学館、2009年/平成29年 増補改訂版、2017年)】

「ゴーマニズム宣言SPECIAL」シリーズは『戦争論』で花火のように舞い上がり、『昭和天皇論』に至るまで鮮やかな色彩を空に描き、そして『新天皇論』で跡形もなく消えた。女系天皇容認を表明した『新天皇論』で小林から離れていったファンが多い。

 私が小林の漫画や著作を読んだのは最近のことで、よもやこれほどのスピードで転落するとは予想だにしなかった。元々自分自身を美化する小林の画風が好きになれなかった。甲高い声も耳障りだ。公の場で「わし」という言葉遣いも大人とは言い難い。それでも一定の敬意を抱いたのは早くから慰安婦捏造問題に取り組むなど、期せずしてオピニオンリーダーの役割を果たしてきたように思えたからだ。その姿は文字通り孤軍奮闘であった。

 一時期小林と親(ちか)しかった有本香は「先生」と小林を呼んでいた。かつてはそれほどの見識を持っていた。そして有本も小林の元から去っていった。

「昭和一桁生まれが戦争を知っていると語るのは誤りだ」という指摘は少なからず他にもある。だが「少国民世代」と名づけたのは卓抜なセンスだ。

 終戦後、「神も仏もあるものか」という言葉が人口に膾炙(かいしゃ)した。その一方で精神の空隙(くうげき)を埋めるべく雨後の筍(たけのこ)みたいに現れた新興宗教に日本人は飛びついた。これまた「反動」と言ってよい。大半の知識人が左傾化したのも同じ現象であろう。

 日本は戦争に敗れたもののまだ亡んではいなかった。だが国体を見失って経済一辺倒に走り出した時、この国は国家であることをやめたのだろう。敗戦から半世紀以上に渡って「愛国心」という言葉はタブーとされた。

 昭和一桁世代には不破哲三(昭和5年生まれ)や池田大作(昭和3年生まれ)もいる。戦後、大衆を糾合し得た共産党と創価学会のリーダーがこの世代であるのも興味深い。

2017-05-31

信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節


『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
『対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎

 ・信じることと騙されること

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ

 山村に滞在していると、かつてはキツネにだまされたという話をよく聞いた。それはあまりにもたくさんあって、ありふれた話といってよいほどであった。キツネだけではない。タヌキにも、ムジナにも、イタチにさえ人間たちはだまされていた。そういう話がたえず発生していたのである。
 ところがよく聞いてみると、それはいずれも1965年(昭和40年)以前の話だった。1965年以降は、あれほどあったキツネにだまされたという話が、日本の社会から発生しなくなってしまうのである。それも全国ほぼ一斉に、である。

【『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節〈うちやま・たかし〉(講談社現代新書、2007年)以下同】

 目の付けどころが素晴らしい。やはり現実を鋭く見据える眼差しに学問の出発点があるのだろう。私は道産子だが、歴史の浅い北海道ですら狐憑(つ)きの話は聞いたことがある。

 結局、東京オリンピック(1964年10月10日~24日)が日本社会を一変させたのだろう。ともすると経済的発展のみが注目されがちだが宗教性や精神性まで変わったという指摘は瞠目に値する。

 ただし内山節が試みるのは科学的検証ではない。

 私が知っているのは、かつて日本の人々はあたり前のようにキツネにだまされながら暮らしていた、あるいはそういう暮らしが自然と人間の関係のなかにあったという山のように多くの物語が存在した、という事実だけである。

 つまり「キツネは人を騙(だま)す動物である」という共通認識のもとで、「騙された」という話を共有できる情報空間がかつて存在したのだ。

 内山はコミュニケーションの変化を指摘する。1960年代にテレビが普及したことで口語体に変化が現れた。言葉は映像を補完するものとして格下げされた。また映像が視聴者から想像力を奪った。そして時差も消えた。

 人から人に伝えられる場合、情報には脚色が施される。事実よりも物語性に重きが置かれる。

 さらに電話の普及は、人間どうしのコミュニケーションから表情のもっていた役割をなくさせ、用件のみを伝えるというコミュニケーション作法をひろげていった。
 同時に1960年代に入ると、自然からの情報を読むという行為も衰退しはじめたのである。

 隔世の感がある。電話で長話・無駄話をするようになったのはバブル景気(1986~1991年)の頃からだろう。

公共の空間に土足のままで入り込む携帯電話/『仏の顔もサンドバッグ』小田嶋隆

 そしてバブル景気と歩調を合わせるようにファクシミリポケットベル携帯電話が普及する。

 文明の利器(←もはや死語)は人類から「語り」という文化を奪ったのだろう。古来、ヒトは焚き火や炉を囲んで先祖伝来の物語を伝え、コミュニケーションを図った。現在辛うじて残っているのは日本の炬燵(こたつ)くらいのものだが、エアコンやファンヒーターを併用しているため寄り添う気持ちが弱まる。

 では本題に入ろう。

 幕末から明治時代に新しく生まれた宗教は、ある日一人の人間が神がかりをし、神の意志を伝えるかたちで誕生したものが多い。たとえば大本教(おおもときょう)をみれば、出口なお(※1837-1918年)が神がかりしてはじまる。その出口なおは以前から地域社会で一目おかれていた人ではない。貧しく、苦労の多い、学問もない、その意味で社会の底辺で生きていた人である。その【なお】が神がかりし、「訳のわからないこと」を言いはじめる。このとき周りの人々が、「あのばあさんも気がふれた」で終りにしていたら、大本教は生まれなかった。状況をみるかぎり、それでもよかったはずなのである。ところが神がかりをして語りつづける言葉に、「真理」を感じた人たちがいた。その人たちが、【なお】を教祖とした結びつきをもちはじめる。そこに大本教の母体が芽生えた。
 この場合、大本教を開いた人は出口なおであるのか、それとも【なお】の言葉に「真理」を感じた人の方だったのか。
 必要だったのは両者の共鳴だろう。とすると、「真理」を感じた人たちは、なぜ【なお】の言葉に「真理」を感じとったのか。私は「真理」を感じた人たちの気持のなかに、すでに【なお】と共通するものが潜んでいたからだと思う。自分のなかにも同じような気持があった。しかしそれは言葉にはならない気持だった。表現形態をもたない気持。わかりやすくいえば無意識的な意識だった。そこに【なお】の言葉が共鳴したとき、人々のなかから、【なお】は気がふれたのではなく「真理」を語っていると思う人が現われた。教祖は無意識的な意識に、それを表現しうる言葉を与えたのである。
 この関係は、古くからある宗教でも変わりはないと私は考えている。他者のなかにある無意識的な意識との共鳴が生まれなければ、どれほど深い教義の伝達があったとしても、大きな宗教的動きには転じない。

 内山節は哲学者である。視点が宗教学者よりも一段高く、宗教を社会現象として捉えている。

 よく考えてみよう。これは宗教現象に限ったことであろうか? そうではあるまい。政治にせよ経済にせよ、はたまた科学に至るまで共鳴と流行が見られる。無神論者のアインシュタインでさえ宇宙の大きさは静止した定常状態であると思い込んでいた。脳は情報に束縛されるのだ。それが悟りであろうと神懸(がか)りであろうと脳内情報であることに変わりはない。前世の物語も現在の脳から生まれる。

 国民国家の時代における戦争と平和もひとえに国民の共鳴が織り成す状態と考えられよう。企業の繁栄も社員や消費者の共鳴に支えられている。技術革新がそのままヒット商品になるかといえばそうではない。かつてソニーが開発したベータマックスはソフト(実態としてはエロビデオ)が貧弱であったために普及しなかった。

 我々が「正しい」とか「確かにそうだ」と感じる根拠は理性よりも感情に基づいているような気がする。つまり脳の揺れ(共鳴)が心地よいかどうかで判断しているのだろう。歴史が進化するなどというのは共産主義者の戯言(たわごと)だ。

 内山の達観には敬意を表するが文系の限界をも露呈している。ここまで気づいていながらネットワーク科学~複雑系科学に踏み込んでいない物足りなさがある。

『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン
『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』マルコム・グラッドウェル
『新ネットワーク思考 世界のしくみを読み解く』アルバート=ラズロ・バラバシ
『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン
『複雑で単純な世界 不確実なできごとを複雑系で予測する』ニール・ジョンソン

 更にここから意識(心脳問題)や認知科学行動経済学を視野に入れなければ読書量が足りないと言わざるを得ない。

 もう一歩思索してみよう。人々は何に対して共鳴するのだろうか? それはスタイル(文体)である。

歴史とは「文体(スタイル)の積畳である」/『漢字がつくった東アジア』石川九楊

 仏典も聖書も大衆が魅了されるのは論理性ではなく文体(スタイル)であろう。ここが重要だ。そして受け入れらたスタイルは様式となりエートス(気風)に至る。「マックス・ヴェーバーはかくいった。宗教とは何か、それは『エトス(Ethos)』のことであると。エトスというのは簡単に訳すと『行動様式』。つまり、行動のパターンである」(『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹)。

 信じるから騙される。もっと言ってしまおう。信じることは騙されることでもある。言葉という虚構(フィクション)で共同体を維持するためには物語(フィクション)が必要になる(『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ)。神話を信じることは神話に騙されることを意味する。神話を疑う者はコミュニティから弾(はじ)き出される。

 我々だって大差はない。小説、演劇、ドラマ、映画、漫画、歌詞、絵画に至るまで散々フィクションを楽しんでいるではないか。そう。俺たち騙されるのが好きなんだよ(笑)。

2017-05-17

大衆運動という接点/『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし


『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
『対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎

 ・恵まれた地位につく者すべてに定数がある
 ・大衆運動という接点

『仮面を剥ぐ 文闘への招待』竹中労
『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也
『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也
『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也

 学会の用いる折伏は、単なる説得ではない。一個の人格を社会的、経済的、心理的諸要素、それも主として弱点から攻撃し、批判し、いわば逆さにふって血も出ないところまで追いつめる激しさと執拗さをもっている。背後には確固とした対話の技術を準備している。
 このことは、伝統的に対話の習慣に馴れていない、“ものいわぬ”日本の民衆を、驚愕させ、呆れさせ、果ては反発させる。人生の途上に現れた異質の体験なのだ。(柳田邦夫)

【『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし(産報ノンフィクション、1963年4月15日)以下同】

 古い書籍で――因みに私が生まれる3ヶ月前に刊行されている――創価学会員ですら読んでいる者が少ない。少し前まで入手困難であったため地元図書館にリクエストを申請し取り寄せてもらった。

 書き手の中心にいる鶴見俊輔(1922-2015年)は谷沢永一が「『ソ連はすべて善、日本はすべて悪』の扇動者(デマゴーグ)」と批判した(『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』)進歩的文化人の一人だ。

「鶴見氏は一九三七年に、一五歳でアメリカに留学して都留氏に出会って以来、『世界史の中の日本の動きについて、この七○年、時代の区切り目ごとに、私は都留重人から示唆を得てきた』」(季刊誌『考える人』二○○六年夏号)との文章を今見つけた。都留重人(1912-2006年)の妻は木戸幸一(1889-1977年)の姪(めい)で、木戸の戦争責任を回避するために暗躍したマルクス主義者である。

伊原吉之助教授の読書室:木戸幸一の保身

 上記論文で挙げられた書籍を私は一通り読んだ。確証を欠くのは確かだが状況証拠は揃っているように思われる。

 日本の近代史が今尚モヤモヤとしているのは左翼が果たした役割がまだ明らかになっていないためだ。GHQ内部の左翼は大半がニューディーラーであった。そもそもフランクリン・ルーズベルト(1882-1945年)大統領がソ連建国にエールを送り、スターリン(1878-1953年)と親しい間柄であった。ルーズベルトの周辺はコミンテルンのスパイだらけで、日本を戦争に追い込んだハル・ノートを起草したハリー・デクスター・ホワイト(1892-1948年)もその一人である。第二次世界大戦は左翼スパイが世界各国で暗躍した事実を忘れてはならない。

ルーズベルトの周辺には500人に及ぶ共産党員とシンパがいた/『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫

 一方、創価学会は元々保守主義・民族主義的色彩が強かった。


 牧口常三郎(初代会長/1871-1944年)と戸田城聖(二代会長/1900-1958年)は大日本皇道立教会(1911年創立)に参加している。上の画像の後列左端が牧口で、後列の右から二人目が児玉誉士夫(1911-1984年)である。創価学会は戦時中に治安維持法と不敬罪で弾圧されたが、決して反天皇制というわけではなく学会員の行き過ぎた折伏が招いた結果であった。

 ところが池田大作(三代会長/1928-)の時代になると左方向に大きく旋回した。平和主義・国際主義を前面に打ち出し、共産主義と全く同じ手法で組織拡張に成功した。池田は卓越したオルガナイザーであった。

グローバリズムと共産主義は同根/『国難の正体 世界最終戦争へのカウントダウン』馬渕睦夫

 本書刊行が1963年で、松本清張(1909-1992年)の仲介による創共協定(日本共産党と創価学会との合意についての協定)が結ばれるのは1974年のこと。松本清張は偶然の産物としているが、とてもそうは思えない。

 わたしはあるチンドン屋の娘を知っている。チンドン屋夫婦の子として生れ育ったかの女には大きな劣等感が渦巻いていた。頭もいいほうではない。学校にも行けなかった。貧困が家庭を破壊していたのだ。くわえてかの女は弱身で蓄膿症をはじめいくつかの病気をかかえていた。わたしはそんなかの女と、ときおりあう。かの女は女中のごとく家の中のこまごまとした仕事やチンドン屋仲間の飯づくりに多忙であったが、映画や小説が好きで暇さえあれば楽しんでいた。
 わたしがそういう映画の感想をきいても、批評はおろか感想もいえなかった。ただ読み観るというだけの話だった。強い意見があるわけでもないかの女にはそれが、他のふつうのひとたちと同様、とうぜんのことであった。
 しばらくわたしはかの女と会わないでいた。わたしはかの女の存在を忘却していた。ふつうの、平凡な、ありきたりの娘だったので、軽い同情があっても、忘れるのがあたりまえだ。ところがしばらく会わないでいると、かの女のほうから訪ねてきた。顔がいきいきとしている。さては、恋人でもできて劣等感から解放されたのかな、と思った。映画の帰りだという。そうしてペラペラと、その映画の批評をする。わたしはあっけにとられる思いでかの女をみつめた。かの女は、その映画の主人公の生き方を痛罵しているのである。わたしは愉快になって、ひとつふたつ反問すると、まえにはわたしの説明を素直にきいた娘なのにむきになって、反論して、自説を固く守る。それでいて、つっけんどんな調子はまったくなく、柔軟な口調である。わたしはますます驚いた。劣等感で口もきけなかったあの娘が、いま面前で、にこやかに微笑してい、自信をもって、映画批評をしている。ひらかれた瞳は、まっすぐにわたしの眼に注がれ、まばたきもしないのだ。
 かの女は、やがて平和であるとか、ふつうの日本人のまず口にしない言葉を平気で使いだした。使命というようなききなれぬ言葉も使った。そのときはそれでかの女は去っていった。わたしは間もなく、かの女が創価学会にすでに入会している信者であることを知った。入会前のかの女と、入会後のかの女の、その見事な変貌ぶりに、わたしはあらためて創価学会のちからを知った。まさにかの女は、ふつうの人から、信念の人に、かわったのである。
 自殺でもしなければよいが、とわたしは思っていた。そんなかの女が、見事に、自分を回復したのである。あの暗い、蔭のような存在であった日本の娘が、平和を説き、仏法を説くのである。わたしには仏法のことなど、どうでもいい、一人の日本の娘が、自分でちゃんと大地に立った、という事実が感動をあたえるのだ。(森秀人)

 これが「人間革命」の姿である。1960年代という時代背景を思えば左翼のオルグ活動と創価学会の折伏がぶつかることは珍しくなかったに違いない。例えば石牟礼道子のこんな証言がある。

石牟礼●国も行政も地域社会も担いませんから、全部引き受け直して自覚的になって、もうゆるす境地になられました。未曽有な体験をなさいましたが、もう恨まず、ゆるす。ゆるさないとおもうと、きつい。もうきつい。いっそう担い直す。人間の罪をみなすべて引き受ける。こう言われるようになったのです。これは大変なことなのです。今まで水俣にいて考えるかぎり、宗教も力を持ちませんでした。創価学会のほかは、患者さんに係わることができなかった。

【『石牟礼道子対談集 魂の言葉を紡ぐ』石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉(河出書房新社、2000年)】

 水俣病は1952年から1960年代にかけて被害者を出した公害病である。石牟礼は心情左翼あるいは同調者である。デビュー作『苦海浄土 わが水俣病』(講談社、1969年)が傑作であることは確かだが、石牟礼は後にフィクションを盛り込んでいることを白状している。「必読書」に入れてないのもそのためだ。チッソ株式会社が当時の法律を遵守していた事実を見失ってはならない。

 創価学会はその進軍の度合いにおいて既に左翼を凌駕していた。学会員も貧病争を克服するために必死であったのだろう。だが単なるご利益信仰ではなく、教学を通した人材育成が強靭な組織を築き上げた。左翼が親近感を抱いたのは大衆運動という接点によるものだ。

 邪教であろうとなんであろうと、創価学会のいうとおり信心すれば人間とその社会が幸福になるものならば、それはいいことだ。商人の口車にのって買った品物がよいものならばそれはそれでいい。そうして、現実に、創価学会に入って自信をもち、明るく、幸福そうになった多くの人間がいるのである。すくなくとも創価学会は、自殺王国の日本にあって、自殺者の数をできるかぎりすくなくした第一の団体であることに間違いはない。学会がファシズムにおもむくことを恐れるまえに、われわれは、われわれの喪失した人間の原理について、もう一度ふかく反省しなければならない。果してわれわれは、あの信者たち以上に生きているのであろうか。あの信者たちのように自信をもって、感動し、欲求し、行動しているのであろうか。人間としてどちらが、解放されているのであろうか。戸田城聖ではないが、勝負してみなければならぬだろう。そうして負けたと思ったら一度は創価学会に入るべきである。負けぬと思った者は、自分の考える〈創価学会〉を創るべきである。どちらでもない者は、黙って沈黙していればいい。それが自然の掟なのである。(森秀人)

 こういう視点が侮れない。知性とは事実をありのままに見つめることだ。激しい折伏は世間から反発を買い、創価学会は白い目で見られていた。実際の姿を見たとしても簡単に先入観を払拭できるものではない。学生運動は血なまぐさい暴力闘争に向かうが、創価学会には確かな明るさがあった。これほどの理解を示すところに左翼の懐の深さを感じる。

 なぜ日蓮宗(※北一輝、石原莞爾、宮沢賢治、妹尾義郎、立正佼成会、創価学会、日本山妙法寺など)だけが近代日本において、思想としての活力を保ち得たのか。その答えは、ほかの仏教諸流派とちがって、日蓮宗が、外国人であるシャカから日本人である日蓮に、崇拝の対象を移し、日本の問題を宗教的関心の中心にすえたことにある。日本をどうやって救うか、それが宗教としてのもっとも重要な問題とされた。正しい方向から政府がそれた時には、政府をいさめ正さなければならぬ。国家をいさめ正すことを宗教者の任務とし、そのことに命をかけたところに、日蓮の本領があった。そしてこれは、近代の市民の政治的権利の自覚ときわめて近しいものなのだ。(鶴見俊輔)

 私は「市民」という言葉を見掛けたら眉に唾をつけることにしている。鶴見の文章は典型的なプロパガンダで日蓮を左翼的視線で眺めているだけのことだ。森秀人の率直さが鶴見にはない。

 その後、創価学会が作った公明党が先導して日中国交回復(1972年)が実現する。池田大作の民間外交は緊張関係にあったソ連と中国をも融和させた。日本共産党がやりたくても出来なかったことを果たしたのだ。一方的な礼賛でもなく、浅はかな誹謗中傷でもなく、きちんとした評価と批判を行うべきだろう。

折伏―創価学会の思想と行動 (1963年) (産報ノンフィクション)
鶴見 俊輔
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レッドからグリーンへ/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

王仏冥合について/『対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎


『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎

 ・王仏冥合について

『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

石原●わたくし、先生にお目にかかかって、ひじょうに興味があるといっては失礼ですが、「ここに一人の人間がいる」という感じが強くするのです。「大丈夫」という言葉があります。りっぱな人間、確固とした人間のことをいうわけですが……。
 先生にお目にかかると、先生は女でいらっしゃるけれど、「大丈夫」がいるという気がします。それはやっぱり、さっきおっしゃいました、目に見えるものと見えないものとの和、つりあいというものを、きちっと、もっていらっしゃるみごとさだと思うんです。

【『対話 人間の原点』小谷喜美〈こたに・きみ〉、石原慎太郎(サンケイ新聞社出版局、1969年)以下同】


 小谷喜美(1901-1971年)は見るからに温和で福々しい表情をしている。霊友会の創設者は久保角太郎(1892-1944年)であるが、事実上の教祖は小谷であるといってよい。

 本書を読む限りでは小谷から宗教的英知を感じられない。そこが逆に凄いと思う。久保角太郎からはいじめさながらの仕打ちを受け、貧苦の中で他者を救う壮絶な修行を通して小谷は霊感を会得した。石原の指摘通り、人間としての存在感が際立っていたのだろう。前回、新興宗教の教祖は神懸り的色彩が濃く、統合失調症タイプであると書いた。民族宗教はシャーマニズムとセットであるが、論理を無視し超越しているため浸透の度合いが深い。右脳の発する声が人々に受け入れられれば教祖となり、奇異と思われれば病人となる。

小谷●ところで、「王仏冥合」を、どういうふうに考えていますか。
石原●「王仏冥合」ですか、あれは別に創価学会だけの言葉じゃない。つまり仏の言葉です。政治と宗教というものの理想が重なるということは、これにこしたことはないと思いますけれど、ただ、やっぱり、自分のところの教義以外は、みんなだめなんだという教条的な排他的なものの考え方が、その王仏冥合の中の“仏”であるのは困りますね。このごろ創価学会は、そうじゃないということをいっておりますが、確かに、ひとりの政治家が、朝、仏壇にお燈明をあげ、線香をおあげするような、つまり、仏心をもっている人間としての理念を政治に反映するということで、王仏冥合は人間的にありうることだと思います。ただ、これはひじょうにむずかしい、一人の人間の内ではできても、それを社会的に現出させるということは。

 小谷の質問は創価学会の動向を気にするというよりは、霊友会の政治進出を考慮したものだろう。『巷の神々』の取材で小谷と知遇を得た石原はその後霊友会の支持を取り付け、1968年(昭和43年)に自民党から参議院選挙に打って出る。知名度が高かったとはいえ全国区で301万票という空前絶後の得票数で当選を勝ち取った。石原がどのタイミングで霊友会の信者になったのか私は知らないが、単なる選挙目当ての取引であったようには見えない。

石原●ですから、王仏冥合というのは、なにも日本の仏教で考えだされた言葉でもなければ、日蓮聖人の言葉だけじゃなしに、やっぱり、すべての人間の胸の中に、神・仏を念じるような、まじめな、ひたむきな姿勢というのが、政治というものに重なりあったら、どんなにすばらしいものができるだろうかという願い、期待としては、洋の東西を問わず、古今を問わず、あるわけです。とくに、現在のような時代の政治は、実は、古今東西にわたってある王仏冥合に対する人間の基本的な願いというものを、かなえていく政治を行なうということを目ざさなくちゃならないと思いますが、どうも、日本の政治家は、先生がおっしゃるように、その場しのぎの、あした、あさって、あるいは1年、2年先のことしか考えていない。

 政治と宗教は祭政一致政教一致政教分離という歴史を辿ってきた。日蓮(1222-1282年)はとても中世の人物とは思えないほど傑出した国際感覚の持ち主で強い国家意識を持っていた。まだ日本が統一されていない時代であるにもかかわらず。その一生は政治闘争と弾圧の繰り返しであったといっても過言ではない。日蓮の王仏冥合は亡国を回避するために政治理念の必要性を説いたものであろう。日蓮が明言した蒙古襲来の予言が当たったことで鎌倉幕府は彼を無視できなくなる。

 大東亜戦争の敗戦は国家神道の敗北でもあった。そして雨後の筍(たけのこ)のように新興宗教が出現した。失意の中で「神も仏もあるものか」と落胆した人々が飛びついた。だが宗教性は復興することなく政治に取り込まれてしまった感がある。しかも若者は学生運動に流れた。それ以降は経済一辺倒である。

 政治に宗教的理念があってもいいだろう。これだけ多くの宗教があるのだから、むしろあって当然だ。しかし教団ぐるみで政治にコミットするのは問題がある。例えば創価学会の場合、公明党支援が政教分離原則に抵触するわけではない。宗教者が誰に投票しようと自由だ。最大の問題は――誰も指摘していないが――個々の学会員が立候補する自由を奪っているところにある。また東京都議会選挙のために全国の信者が応援にゆくのも民主政のルールを踏みにじる行為だ。

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2017-05-16

戦後に広まった新興宗教の秀逸なルポ/『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎


『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清

 ・戦後に広まった新興宗教の秀逸なルポ

『対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎
『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし
『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節
『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド

悟りとは
宗教とは何か?

 私は昨年の暮、弁天宗(※辯天宗)教団の感謝祭に宗祖に面会し、長時間話を聞いたが、その時、家族に連れられて5~6歳の女の子供が来ていた。
 宗祖は談話の内に、その子供を指し、
「あの子供の話をしましょうか」
 と言って、宗祖とその彼女の期せぬ巡(めぐ)り合いについて話してくれた。
 昨年のある日、宗祖が東京支部の行事のために上京し、それをすませて大阪に帰るために東京駅から新幹線に乗ろうとした時、丁度、団体客か何かで混み合っていた八重洲側の中央改札口にさしかかった。
 見ると、母親連れの5~6歳の女の子が、人波にもまれてはずみで親と手が離れ、親の方は先に改札をすませて中へ入ってしまったが、子供のほうはまだ外にとりのこされている。
 親は内側で、「早くおいで」と招いて待ち、子供は親のいるところへいこうと改札口を入ろうとするが、混み合った大人の人波に入り切れず、二、三度入り口に近づいてははじき出される。
 それを見ていた宗祖が、子供に近づき、
「小母ちゃんと一緒にいきましょうね」
 とその手をとった。
 子供は言われるまま、こっくりして、その手を見知らぬ、優しそうな小母さんに預けた。
 そのまま少女は手を曳かれて無事に改札口を入った。
 待っていた母親が宗祖に礼を言ったが、相手が荷物を持っているので、
「ついでにこのまま上までお連れしますよ。お嬢ちゃん、小母ちゃんと一緒にいこうね」
 と、恐縮する母親の前で手をとり直して、そのまま上のプラットホームまで上った。
 手をつないで階段を上り切り、列車の前まで来て、
「それじゃここでさようなら。はい、いい子でね」
 と子供に言って頷(うなず)き、その手を離した。
 子供はこっくりと頷くと、宗祖の見ている前で踵(きびす)を返し、側で待っていた母親のところへ
「アキ子、あの小母ちゃんに、手を曳いてもろうた」
 言って駈け戻った。
 とたん、母親は仰天して腰を抜かした。
 その筈である。その少女は、生まれてから6年この方、薬石効なく、どう尽しても直(ママ)らなかった、生れながらの唖(おし)だったのだ。
 母親は、娘の手を曳いてくれた人が誰であるかを質し、その場で信者になったと言う。天王寺の下駄屋の母娘の実話である。

【『巷の神々』石原慎太郎(サンケイ新聞出版局、1967年/産経新聞出版、2013年『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)以下同】

 驚愕した。石原慎太郎といえば功罪の相半ばする政治家であるが教養人としても知られる。それにしても34歳前後で日本の新興宗教をここまで俯瞰できる能力は並大抵の代物ではない。しかも文学者でありながら科学的懐疑の精神で検証し、各教団の教祖とも実際に会って話をしている。注目すべきは創価学会に関する記述で、その近代的な組織のあり方や政治進出を積極的に評価している。石原が後に「悪しき天才、巨大な俗物」(『週刊文春』平成11年3月25日号)と池田大作を評したことを思えば隔世の感がある。ほんのわずかな誤謬は見受けられるが、全体的に記述は正確で独創性もある。まだ学生運動が激しい中で戦前戦後の新興宗教に目をつけたのは卓見といってよい。それぞれの教祖の神通力も日本的なアニミズム(先祖崇拝)を探る上で大変参考になった。「宗教とは何か?」「悟りとは」に追加。長らく絶版で古書価格も数千円から1万円という高値がついていたが産経新聞出版から再刊された。旧版は9ポイントほどの活字で上下二段450ページの分量である。(読書日記より)

「悟りとは」に入れたのはわけがある。それは新興宗教の教祖は一様に神懸(がか)りともいうべき体験をしており特異なためだ。敢えて「統合失調症タイプ」(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ)と極言してもいいだろう。卑弥呼の延長線上に位置している。


 私が親だったとしても信者になるのは確実だ(笑)。奇蹟には逆らえない。宗教の基本は「病気を治す」ところにある。これがない宗教は絶対に広まらない。教祖と呼ばれる人々は必ず何らかの奇蹟を起こしていると考えてよい。奇蹟は瞬間的に死の不安を解消する。神通力とは言い得て妙だ。

 栄える宗教には、それなりの魅力があり、その指導者には人間の現実に及ぼす力がある。それはただうらやんでも、自らにそなわるものではない。その魅力その力が何故自らにはないか、と言うことを多くの坊主どもは知るべきだ。それは彼らが信奉する教えが、現代では古くなった、と言うことでは決してない。
 卑俗なたとえだが、人間と宗教との最初の結びつきは、蟻と砂糖のようなものだ。蟻は己の味覚触感で敏感に塩と砂糖をより分け、砂糖にしかたからない。
 人間でも、味の良い店と悪い店をより分け、旨(うま)い店は繁昌する。信徒も人間であり、人間は現金なものだ。
 人間は現実にいろいろな不幸を持つ。転んだり金を喪くしたり、病気したり。しかし転んで痛い膝はさすれば直(ママ)るし、喪くした金は、稼げばとり戻せる。
 しかし人間は誰でも、自分の注意や願望に反して、何故こんな不幸不運が起るのか、と思い疑う。
 それについて、転んだのはただの過失であり、不運は不運でしかない。その内に運も向くだろう、と言うのでは答にならぬし、人々も満足はしまい。
 そうした原因については、訳がある。その訳を極め、それを正せば、それから抜け出すことが出来る、と言うことで初めて、人間の求めている救いがある。
 宗教は、その訳を、即ち、眼に見えぬものの力、即ち、神、心霊の力に依るものであるとし、ジェイムズの言うが如くに、その力の秩序に順応することで、安心立命があり、救済がある、とする。
 その秩序への順応、即ち信仰と言っても、それにはいろいろな段階があろうが、その初めは矢張り、一つの体験によって、その力の秩序の存在を感じ、知ると言うことに他ならない。
 信仰と言うのは、或る意味であくまでも一つの観念操作だが、しかし、その基点となるものは、あくまでも一個の現実認識である。
 それを欠く信仰は、砂の上にかけた梯子のように、上るにつれ、足元がぐらついて来る。
 その、信仰の出発点、第一段階の基礎固めを、人間に与えることの出来ぬ宗教は、最も根源的な力を欠いていると言われるべきだ。

 石原はウィリアム・ジェームズ著『宗教的経験の諸相』(原書は1901年/星文館、1914年/警醒社、1922年/誠信書房、1957年/岩波文庫、1969年)を軸に各新興宗教を読み解く。何の先入観もなく、直接自分の目と耳で判断する姿勢にはある種の勇ましさが窺える。

 信仰を「一つの観念操作」と言ってのける鋭さが侮れない。認知科学的な視点すら垣間見える。

 私が石原慎太郎を見直したのは「小林秀雄を諌めたエピソード」(今だから話せるこの国への思い(後編) 石原慎太郎氏(作家)×德川家広氏)を知ったことが大きい。石原が『太陽の季節』で文壇デビューしたのは1955年(昭和30年)のこと。文士劇が1962年だったとすれば(文士劇)、小林(1902-1983年)が60歳で石原(1932-)は30歳である。小林は若い時分から遠慮を知らぬ男で、酔っ払って正宗白鳥(1879-1962年)に絡んだり、対談で柳田國男(1875-1962年)を泣かせたりしている。たぶん小林は若い石原に自分と同じ匂いを嗅ぎ取ったのだろう。

石原愼太郎の思想と行為〈5〉新宗教の黎明宗教的経験の諸相 上 (岩波文庫 青 640-2)宗教的経験の諸相 下 (岩波文庫 青 640-3)

2016-10-19

橘玲、海外投資を楽しむ会、菅沼光弘、但馬オサム、溝口敦、他


 3冊挫折、3冊読了。

世界を騙し続けた[洗脳]政治学原論 〈政「金」一致型民主社会〉へのパラダイム・シフト』天野統康〈あまの・もとやす〉(ヒカルランド、2016年)/分量が増えて2分冊となっている。前篇が『世界を騙し続けた[詐欺]経済学原論 「通貨発行権」を牛耳る国際銀行家をこうして覆せ』である。巻末の方に仏教とキリスト教の興味深い比較論あり。

省庁のしくみがわかると政治がグンと面白くなる 日本の内閣、政治、そして世の中の動きが一気に読める!』林雄介(ナツメ社、2004年)/非常に丁寧に書かれているのだが如何せん各トピックが平凡で読む意欲が湧いてこない。若い人にはおすすめできる。

対話 人間の原点』小谷喜美、石原慎太郎(サンケイ新聞社出版局、1969年)/『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)の後に出された対談集で、小谷喜美〈こたに・きみ〉は霊友会の第2代会長を務めた女性。創設者の久保角太郎が戦時中に死去していることもあって霊友会といえば小谷の印象が強い。後半は飛ばし読み。石原が政治家となったのは前年の1968年のこと。霊友会のバックアップを受けたことは広く知られているが、この時点で入信していたかどうかは不明だ。石原は30代後半だが単純に若いと思っては判断を誤る。大学在学中に芥川賞を受賞し、大物評論家として恐れられた小林秀雄に対して平然と意見をするような若者であったのだから。その石原が小谷を「会長先生」と呼ぶ。苛烈な修行をしてきた小谷は実に鷹揚で人柄に幅がある。当時67~68歳だろう。小谷の宗教性から私が学ぶべきものは一つもない。石原が魅了されたのはやはり人間性であったのだろう。

 151冊目『池田大作 創価王国の野望』溝口敦(紀尾井書房、1983年)/溝口の創価学会批判は悪意が強く、読み手のマイナス感情を煽る傾向が見られる。彼の風貌や話しぶりにも卑屈な性質を感じる。所詮、雑誌記事ライターと言ってしまえばそれまでだが、牽強付会な手法に疑問が残る。教団を好き嫌いのレベルで論じても仕方がない。

 152冊目『ヤクザと妓生(キーセン)が作った大韓民国 日韓戦後裏面史』菅沼光弘、但馬オサム(ビジネス社、2015年)/聞き手である但馬オサムの名前がないのは片手落ちである。しかも各章の解説まで書いているのだから。タイトルの「ヤクザ」とは在日ヤクザで、妓生(キーセン)とは韓国のインテリ芸者のこと。現在に至るまで日本の政治家もかなり籠絡(ろうらく)されている模様。日本語もペラペラとのこと。全斗煥大統領時代は芸能界もまるごと起用されたらしい。そういう歴史もあるせいか、韓国芸能界では現在も枕営業(性上納)が慣行となっていて時折自殺する女性が出てくる。「日本の近代史を学ぶ」に追加。『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也を読んだ人は必読のこと。

 153冊目『世界にひとつしかない「黄金の人生設計」』橘玲〈たちばな・あきら〉、海外投資を楽しむ会編著(講談社+α文庫、2003年/海外投資を楽しむ会、メディアワークス、1999年『ゴミ投資家のための人生設計入門』を文庫化)/再読。かつて公明党が主導した「100年安心プラン」なるものの欺瞞がよく理解できる。本書は経済的自立を論旨としているが、税制のデタラメを炙(あぶ)り出すことで説得力を増している。今となってはやや古い印象を拭えないが、その発想に学ぶべきことは多い。政治的に眠らされている情況が自覚できる。『黄金の羽根』と差し替えたが、再び「必読書」に入れた。

2016-09-24

養老孟司、他


 2冊挫折、1冊読了。

ストレスに負けない最高の呼吸術 システマ式シンプルブリージングワーク100』北川貴英(エムオン・エンタテインメント、2015年)/タイトルに難あり。呼吸術というよりはエクササイズである。スロトレ好きにはお薦めできる。

神秘の世界 超心理学入門』宮城音弥〈みやぎ・おとや〉(岩波新書、1961年)/石原慎太郎著『巷の神々』で引用されていた一冊。超能力を科学が検証した内容。読み物としてはつまらない。不思議な能力が次々と紹介されているが、悟りとは無縁と言わざるを得ない。私としては超能力よりも、眼が見えることの方がはるかに不思議だと思う。例えば何かを言い当てることができたとしよう。「だから何なの?」という感想しか湧かない。奇異が感動に結びつくことはないだろう。

 144冊目『脳という劇場 唯脳論・対話篇』養老孟司〈ようろう・たけし〉(青土社、1991年/新装版、2005年)/旧版はバブル末期の刊行だが杜撰極まりない。同じ文章が出てきたり、巻末対談者一覧から山根一眞が抜け落ちている。出版社も結局はメディアということか。内容は文句なしの面白さ。覚え書きとして記すと、中村雄二郎・吉本隆明・米長邦雄・高木隆司・大島清・中村桂子・多田富雄・荒俣宏・香山壽夫・胡桃沢耕史・南伸坊・丸谷才一・太田治子・菅谷規久雄・古井由吉・山根一眞の16人。これだけ多いとページ数が少なくなるのは致し方ないが、対談の醍醐味は十分伝わってくる。

2016-09-16

石原慎太郎、他


 2冊挫折、1冊読了。

体が硬い人のためのストレッチ』石井直方〈いしい・なおかた〉監修、荒川裕志〈あらかわ・ひろし〉(PHP研究所、2012年)/壁やテーブルを使ったストレッチが目新しい。最後の章はダイナミックストレッチを紹介している。大きい判型。

体を芯からやわらげる 健康ストレッチ』森俊憲、森和世(永岡書店、2011年)/女性向けか。巻末で症状別のストレッチを紹介。ペアで行うストレッチ法も。

 139冊目『巷の神々』石原慎太郎(サンケイ新聞出版局、1967年/産経新聞出版、2013年『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』所収)/驚愕した。石原慎太郎といえば功罪の相半ばする政治家であるが教養人としても知られる。それにしても34歳前後で日本の新興宗教をここまで俯瞰できる能力は並大抵の代物ではない。しかも文学者でありながら科学的懐疑の精神で検証し、各教団の教祖とも実際に会って話をしている。注目すべきは創価学会に関する記述で、その近代的な組織のあり方や政治進出を積極的に評価している。石原が後に「悪しき天才、巨大な俗物」(『週刊文春』平成11年3月25日号)と池田大作を評したことを思えば隔世の感がある。ほんのわずかな誤謬は見受けられるが、全体的に記述は正確で独創性もある。まだ学生運動が激しい中で戦前戦後の新興宗教に目をつけたのは卓見といってよい。それぞれの教祖の神通力も日本的なアニミズム(先祖崇拝)を探る上で大変参考になった。「宗教とは何か?」「悟りとは」に追加。長らく絶版で古書価格も数千円から1万円という高値がついていたが産経新聞出版から再刊された。旧版は9ポイントほどの活字で上下二段450ページの分量である。

2016-08-23

武田邦彦、小室直樹、伊藤貫、佐々淳行、他


 14冊挫折、6冊読了。

私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(文藝春秋、2015年)/『政治家たち』と比べると内容が格段に劣る。

ソトニ 警視庁公安部外事二課 シリーズ1 背乗り』竹内明(講談社+α文庫、2015年)/登場人物の名前が陳腐すぎて、まるで漫画みたいだ。そのセンスのなさに落胆。

ルポ塾歴社会 日本のエリート教育を牛耳る「鉄緑会」と「サピックス」の正体』おおたとしまさ(幻冬舎新書、2016年)/サピックス小学部と鉄緑会という私塾が日本の頭脳を担っているらしい。学歴ではなく塾歴の光と闇。

「慰安婦」問題とは何だったのか メディア・NGO・政府の功罪』大沼保昭(中公新書、2007年)/姿勢のいい左翼か。アジア女性基金の理事という立場が主張をわかりにくくしていると思う。

オウム的!』小林よしのり、竹内義和(ファングス、1995年)/小林の古い作品は読めた代物ではない。単なる放談。

歴史問題は解決しない 日本がこれからも敗戦国でありつづける理由』倉山満(PHP研究所、2014年)/文体が肌に合わず。

無援の抒情』道浦母都子〈みちうら・もとこ〉(雁書館、1980/同時代ライブラリー、1990年/ながらみ書房新装版、2015年)/飛ばしながら半分ほど読む。私が唾棄する全共闘運動の歌集である。知っている歌を確認するために読んだ。どのような世界であれ「生きる現実」がある。主義主張は異なれど共通する感情が通う。青春とは錯誤の異名であろう。そして歳月が錯誤を正すと純粋さが失われる。

日本史の謎は「地形」で解ける』竹村公太郎〈たけむら・こうたろう〉(PHP文庫、2013年)/竹村は国土交通省河川局長を務めた人物。狙いはいいのだが、思いつきのレベルに感じる。

日本文明の謎を解く 21世紀を考えるヒント』竹村公太郎〈たけむら・こうたろう〉(清流出版、2003年)/第12章「気象が決める気性」だけ読む。気象変化が激しいために日本人は原則を立てられなかった、という指摘が斬新だ。

いますぐ読みたい 日本共産党の謎』篠原常一郎〈しのはら・じょういちろう〉、筆坂秀世〈ふでさか・ひでよ〉監修(徳間書店、2009年)/佐藤優が寄稿している。内容も文章も中途半端。創価学会に関する記述が目を惹いた。

ともしび 被災者から見た被災地の記録』シュープレス編著(小学館、2011年)/「悲しい思い出」を読むのは無駄だと思う。津波てんでんこの言い出しっぺである山下文男が逃げなかったという話には大笑い。いかにも左翼らしい。

ペリリュー島玉砕戦 南海の小島七十日の血戦』舩坂弘〈ふなさか・ひろし〉(光人社NF文庫、2010年)/文章が冗長なのか、頭に入らず。

ニッポン核武装再論』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(並木書房、2008年)/専門性が高すぎて読み物としては微妙だ。概念と技術を立て分けて書くべきだと思う。文体に臭みがあって読みにくい。

日本人が知らない軍事学の常識』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(草思社、2012年/草思社文庫、2014年)/やはり文章が肌に合わない。気取りやポーズがある。

 123冊目『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(幻冬舎、2011年)/民主党政権批判の書。一々説得力がある。

 124冊目『ほんとに、彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(幻冬舎、2011年)/こちらは東日本大震災直後に書かれたもの。記憶を確認するためにも読まれてしかるべきだ。

 125冊目『私を通りすぎた政治家たち』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(文藝春秋、2014年)/いやはや面白かった。佐々の祖父は幕末の志士で後に衆議員となる。父は参議員を務めた。石原慎太郎を持ち上げすぎるきらいがあるが、きちんと根拠を述べている。加藤紘一に事務次官の道を断たれたことも赤裸々に綴る。佐々は武士道の流れを汲む最後の世代か。

 126冊目『自滅するアメリカ帝国 日本よ、独立せよ』伊藤貫〈いとう・かん〉(文春新書、2012年)/アメリカの保守層を中心とした要人の発言集といった感がある。確かに自滅しそうだが、その経路は書かれていない。内容は文句なしだが、やや感情の異常さが窺える。「(笑)」はともかく、「(苦笑)」との表記は文筆家として問題がある。しかも苦笑できる内容ではない。伊藤の話し方には妙に甘ったるいところがあり、永六輔のような寄りかかった姿勢を感じる。悪い意味での言文一致といったところか。

 127冊目『天皇畏るべし 日本の夜明け、天皇は神であった』小室直樹(ビジネス社、2016年/文藝春秋、1986年『天皇恐るべし 誰も考えなかった日本の不思議』改題、脚註加筆)/天才というべきか、奇才とするべきか。一番相応しいのは鬼才かもしれぬ。小室の力と技は日本人離れしている。「天皇とはキリスト教的神である」と断言するまでに用意周到な根拠を列挙する。ユダヤ教、キリスト教、仏教、儒教、教育勅語、そして栗山潜鋒の『保建大記』。全く関係ないのだが私は本書を読んで、日蓮の『立正安国論』が仏儒習合であることがわかった。崇徳天皇の呪いが末法思想に影響を及ぼした可能性もある。

 128冊目『武田教授の眠れない講義 「正しい」とは何か?』武田邦彦(小学館、2013年)/インターネット放送を編んだためか、やや散漫に流れてはいるが十分お釣りがくる内容だ。正しいとは、自分とは別の正しさを知ることである。

2016-04-22

砂川裁判が日本の法体系を変えた/『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治


・『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること 沖縄・米軍基地観光ガイド』須田慎太郎・写真、矢部宏治・文、前泊博盛・監修

 ・米軍機は米軍住宅の上空を飛ばない
 ・東京よりも広い沖縄の18%が米軍基地
 ・砂川裁判が日本の法体系を変えた

・『戦後史の正体』孫崎享
・『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』前泊博盛編著

 少し高台にのぼると、
「ああ、米軍はあの海岸から1945年に上陸してきて、そのままそこに居すわったんだな」
 ということが非常によくわかります。
【つまり「占領軍」が「在日米軍」と看板をかけかえただけで、1945年からずっと同じ形で同じ場所にいるわけです】。

【『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治〈やべ・こうじ〉(集英社インターナショナル、2014年/講談社+α文庫、2019年)以下同】

 正確さを欠く危うい記述である。サンフランシスコ講和条約(1951年)で沖縄はアメリカの施政下に置かれた。日本に返還されたのは1972年(昭和47年)のこと。沖縄はアメリカの領土であった。

 岸信介首相が1960年に日米安保を改定(60年安保)。学生運動の反安保闘争は激しさを増し、東大の女子学生・樺美智子〈かんば・みちこ〉の死によって頂点に達した。追い込まれた岸は辞意を表明する。その直後に岸は右翼暴漢に襲われた。


 政権は池田勇人〈いけだ・はやと〉を経て岸の弟・佐藤栄作に渡る。つまり兄が安保を改定し、弟が沖縄返還を実現させたのだ。佐藤は「核抜き本土並みの返還」を目指した。それに対してアメリカは日米安保を維持するために沖縄返還を決意する(沖縄返還と密約 アメリカの対日外交戦略)。佐藤の密使は京都産業大学教授の若泉敬〈わかいずみ・けい〉であった。

 そこで歴史を調べていくと、憲法9条第2項の戦力放棄と、沖縄の軍事基地化は、最初から完全にセットとして生まれたものだということがわかりました。つまり憲法9条を書いたマッカーサーは、沖縄を軍事要塞化して、嘉手納基地に強力な空軍を置いておけば、そしてそこに核兵器を配備しておけば、日本本土に軍事力はなくてもいいと考えたわけです。(1948年3月3日/ジョージ・ケナン国務省政策企画室長との会談ほか)
 だから日本の平和憲法、とくに9条第2項の「戦力放棄」は、世界じゅうが軍備をやめて平和になりましょうというような話ではまったくない。沖縄の軍事要塞化、核武装化と完全にセット。いわゆる護憲論者の言っている美しい話とは、かなりちがったものだということがわかりました。

 佐藤の沖縄返還交渉ワシントン訪問に同行した石原慎太郎(当時参議院議員)が若泉からのアドバイスでアメリカの核戦略基地を見学しにゆく。「その時にアメリカの警戒システムが全然日本をカバーしていないことが分かった」。石原が司令官に「アメリカの核の抑止力は全然『傘』になっていないじゃないですか」と問うと、「当たり前じゃないか、石原君。日本なんて遠過ぎて、とてもじゃないけれど及ばない。お前たち危ないんだったら、なぜ自分で核兵器を開発しない」と言い返された(今だから話せるこの国への思い(後編)――石原慎太郎氏(作家)×德川家広氏)。

 若泉敬は自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)の英語版を完成させると、核密約の責任をとるべく青酸カリを服して自裁を遂げる。享年66歳。


 占領中の1950年から第2代の最高裁判所長官をつとめた田中耕太郎という人物が、独立から7年後の1959年、駐日アメリカ大使から指示と誘導を受けながら、在日米軍の権利を全面的に肯定する判決を書いた。その判決の影響で、在日米軍の治外法権状態が確定してしまった。またそれだけでなく、われわれ日本人はその後、政府から重大な人権侵害を受けたときに、それに抵抗する手段がなくなってしまった。

“「戦後再発見」双書”の仕掛け人である矢部は『検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉』(吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司/創元社、2014年)を紹介している。そのうち読んでみるつもりだ。

【つまり安保条約とそれに関する取り決めが、憲法をふくむ日本の国内法全体に優越する構造が、このとき法的に確定したわけです】。
 だから在日米軍というのは、日本国内でなにをやってもいい。住宅地での低空飛行や、事故現場の一方的な封鎖など、これまで例に出してきたさまざまな米軍の「違法行為」は、実はちっとも違法じゃなかった。日本の法体系のもとでは完全に合法だということがわかりました。ひどい話です。

 吉田茂は国体を護持し、経済復興を優先するために軍事力をアメリカに押しつけた。岸・佐藤兄弟は日米安保を軸に沖縄返還を実現させた。いずれも国益のための戦略で、政治家の識見やリーダーシップが存在した。だが日米安保からのスピンオフである砂川裁判には何の正当性もない。最高裁判決にはアメリカからの圧力があった(砂川事件 最高裁判決の背景)。判決の下った当時(1959年)は第二次岸内閣である。ここに国際法を無視した大東亜戦争と同じ精神性が垣間見える。方針だけ決めて後はまっしぐらに突き進むというやり方だ。我々日本人は細部にこだわることをよしとしない。求められるのは散る桜の如き潔さであり、不平不満を言うことなく阿吽(あうん)の呼吸で空気に従うことだ。そうすれば何とかなる。

 でも、何とかならないんだな、これが(笑)。戦争に負けても我々の精神性が変わることはなかった。この皺寄せは戦後を通して日本社会全体に行き渡る。それを象徴するランドマークが米軍基地と原子力発電所なのだ。



敵前逃亡した東大全共闘/『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行

2015-03-21

田中嫺玉、デイヴィッド・マレル、ヘレン・エラーブ、他


 5冊挫折、2冊読了。

それからの海舟』半藤勝利〈はんどう・かつとし〉(筑摩書房、2003年/ちくま文庫、2008年)/鼻につく江戸弁が随所に出てきて辟易させられる。節度を欠いたようにしか見えない。ちょっと驚いたのだが江戸っ子ってのは天皇軽視なのかね? 少年時代の半藤が「天皇は徳川(とくせん)家の間借り人」と発言している。

国家なる幻影 わが政治への反回想(上)』『国家なる幻影 わが政治なる反回想(下)』/石原慎太郎(文藝春秋、1999年/文春文庫、2001年)/予想以上に面白くてびっくりした。さすが作家だ。環境大臣として水俣病と向き合った箇所が目を惹いた。イメージが先行する人物だが実務家の面がよく見える。

心をつなげる 相手と本当の関係を築くために大切な「共感コミュニケーション」12の方法』アンドリュー・ニューバーグ、マーク・ロバート・ウォルドマン:川田志津〈かわだ・しづ〉訳(東洋出版、2014年)/アンドリュー・ニューバーグの新著とあって期待したが大いに外れた。『脳はいかにして〈神〉を見るか』とは比べるべくもない。方法論に傾いてマニュアルみたいな代物となっている。着眼点は優れているのだが手法がまずい。読み進むうちに「てめえ、いい加減にしやがれ」と言いたくなる。

キリスト教暗黒の裏面史 誰も書かなかった西欧文明のダークサイド』ヘレン・エラーブ:井沢元彦監修、杉谷浩子訳(徳間文庫、2004年)/飛ばし読み。それでも2/3ほどは読んだ。頻出する「正統派キリスト教」がキリスト教の伝統的なイデオロギーを指し、特定の宗派を意味しないという点でダメだと思う。腰砕けだろう。学問的根拠が弱い。

 21冊目『血の誓い』デイヴィッド・マレル:佐宗鈴夫〈さそう・すずお〉/ランボー・シリーズとブラック・プリンス・シリーズの間の作品ということで期待に胸を膨らませたが、あっと言う間にしぼんだ。大体、こんな作品があったことも知らなかったもんなー。

 22冊目『神の詩 バガヴァッド・ギーター』田中嫺玉〈たなか・かんぎょく〉訳(TAO LAB BOOKS、2008年)/評価の高い翻訳。田中女史はバガヴァッド・ギーターを翻訳するためにサンスクリット語を学んだという。元々プロの訳者ではない。最初に訳した『大聖ラーマクリシュナ 不滅の言葉(コタムリト)』も当初は自費出版であった。確かに上村勝彦訳より読みやすいが、上村訳がそれほど悪いとも思えない。これは紛れもない「神の詩」である。私は胸が悪くなった。神のエゴが強すぎるよ。我(が)が強いという点では聖書とよく似ている。で、はたと気づいたのだが、バラモン教(古代ヒンドゥー教)を理解しなければ、仏教のオリジナリティが見えてこない。イエスがユダヤ教の論理の上に乗っかっているように、ブッダもまたヒンドゥー教の論理に乗っている。「真のバラモン」を説いていることからも明らかだろう。見ようによってはバガヴァッド・ギーターでも三法印は説かれている。ただし法を説くブッダ自身の無我性が明らかに異なる。こりゃあ、30代くらいから腰を据えて勉強しないと追っつかないね。因みに田中女史は旭川出身で私と同郷。

2015-02-28

悟りとは


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト

『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰
『飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ 若き医師が死の直前まで綴った愛の手記』井村和清
『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ
『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀
『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド
『人類の知的遺産 53 ラーマクリシュナ』奈良康明
『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ
『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ
『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

2014-08-07

唯識における意識/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ


『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫

 ・手引き
 ・唯識における意識
 ・認識と存在
 ・「我々は意識を持つ自動人形である」
 ・『イーリアス』に意識はなかった

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『身体感覚で『論語』を読みなおす。 古代中国の文字から』安田登
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 この研究所の中心を成す考えの数々を初めて公に概説したのは、1969年9月にワシントンで行なった米国心理学会の招聘講演でのことだった。(プリンストン大学にて、1982年)

【『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ:柴田裕之〈しばた・やすし〉訳(原書、1976年/紀伊國屋書店、2005年)以下同】

宗教とは何か?」の順番で読むことが望ましい。副読本については「手引き」を参照せよ。

 当然ではあるが意識は宗教と歴史の発生に深く関わっている。ジュリアン・ジェインズの主張は実に刺激的だ。3000年前の人類に意識はなく左右の脳は分裂状態に置かれていた。当時の人類は右脳が発する神の声に従う自動人形であった。そして脳が統合され意識が誕生する。と同時に神の声は聞こえなくなった――というもの。つまり人類全体が統合失調症だったわけだ。

 とすると宗教は右脳から生まれ、左脳で教義に置き換えられたと考えることが可能だ。しかし悟りは論理ではない。牽強付会を恐れず申せば教義(論理)から悟りに至ることは不可能だ。

 ジュリアン・レインズはゾウリムシが学習できるのであれば意識があるに違いないと考えていた。この思い込みの誤りに気づいたのは数年後のことだった。

 その理由は、言わばある大きな歴史上の強迫観念の存在にある。心理学にはこうした強迫観念が多い。心理学を考える上で科学史が欠かせぬ理由の一つは、それがこうした知性の混乱から逃れ、それを乗り越える唯一の方法だということだ。18世紀から19世紀にかけて心理学の一学派を成した連合主義(訳注 あらゆる心理現象を刺激と反応の関係で説明しようとする考え方)は、あまりにも魅力的に提示された上に、高名な学者多数に擁護されていたため、この学派の基本的な誤りが一般の人びとの考え方や言葉にまで浸透してしまった。当時ばかりか今なお残るその誤りとは、意識は感覚や観念などの要素が占める実際の空間であるという考え方、そして、これらの要素は互いに似通っていたり、同時に起きるように外界によって設定さていたりするから、これらの要素間の連合こそ学習であり、心であるという考え方だ。こうして、学習と意識は混同され、曖昧極まりない「経験」という用語と同一視されるようになった。

 著者は「学習の起源と意識の起源は異なる」としている。私の「人生とは反応の異名である」という考え方は連合主義と同じだったのね。

 唯識だと五感を統合するのが意識で、自我意識は末那識と立て分ける。認識作用を中心に展開しているため学習と意識という対比はない。学習はむしろ十界論の声聞界・縁覚界として捉えるべきだろう。

 統一された脳から論理が生み出され、正義と不正の概念から意識が芽生えたのかもしれない。我々は一日の大半を無意識で過ごしている。意識的になるのは社会的な場面で自分の権利に関わる時であろう。



サードマン現象は右脳で起こる/『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー
脳神経科学本の傑作/『確信する脳 「知っている」とはどういうことか』ロバート・A・バートン
戦後に広まった新興宗教の秀逸なルポ/『巷の神々』(『石原愼太郎の思想と行為 5 新宗教の黎明』)石原慎太郎
ワクワク教/『未来は、えらべる!』バシャール、本田健

2014-04-05

官僚機構による社会資本の寡占/『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃


 ・官僚機構による社会資本の寡占

『円の支配者 誰が日本経済を崩壊させたのか』リチャード・A・ヴェルナー
・『略奪者のロジック 支配を構造化する210の言葉たち』響堂雪乃
国会で高橋洋一が「国の借金」の嘘を暴く 2018/02/21 衆議院予算委員会公聴会

 この国は【官僚機構と米国から重層的に搾取を受けている】わけです。【各種租税、新規国債、借換債、財投債により編成される370兆円規模の特別会計から推計70兆円が人件費、福利厚生、償還費、天下り、関連団体の補助金として公的部門へ吸収され、さらに外国為替特別会計を通じ既述のごとく莫大な金が米国に収奪されるという図式です】。

【『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃〈きょうどう・ゆきの〉(ヒカルランド、2012年)以下同】

 ブログに大幅な加筆をした書籍である。全国紙系列の広告代理店で編集長を務めた人物で著者名はハンドルと思われる。ジャン・ボードリヤールを思わせる華麗な文体は意図的なもので正体を隠すためか。明らかにアジテーター的要素が強いが、傑出した説明能力の持ち主である。

【この国のエスタブリッシュメントが国民を殺戮している】わけです。経済産業省を頂点とする官僚機構が主導的に原発行政を推進し、電力企業関連会社に天下り、業界団体に公益法人を設立させ、さらに天下り、莫大な不労所得と引き換えに無軌道な運用管理を是認するという、監督者と被監督者による癒着(ゆちゃく)と共依存が利権の淵源(えんげん)となります。【文科省、国家公安委員、国土交通省などおおよそ主要官庁全てがこの腐敗構造に与(くみ)され、つまりは官僚機構】によるジェノサイド(大量虐殺)です。

 福島原発事故による被曝を声高に糾弾しているのは災害直後に書かれたためか。ただしここは吟味が必要なところで被曝の根拠が荒っぽい。国民が知るべきは原発利権であってエネルギー問題へと目を逸(そ)らしてはなるまい。

 国家システムのアルゴリズム(計算手順)とは、官僚機構の肥大化に他ならないわけです。繰り返しますが、【国税または地方税は全て官僚の給与、福利厚生および外郭団体の補助金として消えます。政府公表の公務員人件費総額には独立行政法人、特殊法人または特殊会社に属す「みなし公務員」の給与や補助金は含まれず、実際に租税から拠出される人件費または天下り団体の償還費等は年間70兆円に達すると推計されます】。

 官僚機構は癌細胞なのだろう。無限に増殖を繰り返し、肉体そのもの(国家)を滅ぼすまで蝕み続ける。著者は国家予算の中身を読めない者をB層と位置づけている。

【財政投融資とは、国民資産の不正流用】であり、【郵貯、年金、簡保の積立金が複雑な会計処理を経て特別会計予算に編入され国の外郭団体へ貸付けされ債権化】します。これまで400兆円規模の金が77の特殊法人や自治体などへ還流されながら、それらは統一されたバランスシート(貸借対照表)を持たず、財務内容も事業内容すらも不明瞭にいまだ跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)しています。
 2002年に日医総研が年金積立金の調査を行ったところ、【147兆円あるべき運用資金が財政投融資による87兆円を毀損(きそん)している】実態が明らかとなりました。(中略)
【日本国の本質とは、官僚機構による社会資本の寡占(かせん)】であるわけです。【過剰な公債発行と国民資産の流用により370兆円規模の特別会計という裏予算を編成し独立行政法人、特殊法人、特殊会社さらに系列3000社のグループ企業へ還流させ、洗浄した社会資本を天下りにより合法的に収奪する】、これが利権構造の概観です。【国家予算とはすなわちブラックボックスであり、我々のイデオロギーとは旧ソビエトを凌ぐ官僚統制主義に他なりません】。

 複式簿記を導入しているのはたぶん東京都だけだ(石原慎太郎「こんなでたらめな会計制度、単式簿記でやっているのは、先進国で日本だけ」の真意。複式簿記とは何か。)。この国は国家予算のバランスシートさえ明らかにしていないのだ。驚愕の事実である。

 本当の「戦後レジーム」とは、米国の意向を受けた官報複合体の利権構造を意味する。つまり政治家から権力が剥奪されているのだ。立法府の役割は法整備と予算編成にあるわけだが完全に官僚が牛耳っている。この国では国会議員が起草する法案をわざわざ「議員立法」と呼称するほどで、可決される法案のうち20%にも満たない。

 日本をアメリカの属国にしているのは官僚とメディアだ。響堂雪乃の言葉は彼らを銃弾のように撃つ。



虐殺者コロンブス/『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』ハワード ジン、レベッカ・ステフォフ編
マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康
マネーサプライ(マネーストック)とは/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
日本の原発はアメリカの核戦略の一環/『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人
資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
「物質-情報当量」
汚職追求の闘士/『それでも私は腐敗と闘う』イングリッド・ベタンクール
借金人間(ホモ・デビトル)の誕生/『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート
力の強いもの、ずる賢いものが得をする税金/『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎