・初めての半原越
・越すに越されぬ半原越(愛川経由)
・雪辱の半原越(愛川町経由)
・半原越往復
雨の予報が13:00から15:00に変わった。私は脱兎(だっと)の如く家を飛び出た。一昨日の敗北は心に深刻なダメージを与え、寝ても醒めても半原越(はんばらごえ)を想った。私の口からは吐く息とともに「畜生」とか「くっそー」などという呪詛(じゅそ)が漏れた。
今日判ったのだが、愛川町(あいかわまち)経由だと半原越に辿り着くまでが結構大変なのだ。JA県央愛川荒茶工場がある道路は下ってゆくと時速55kmに達する。ダラダラと続く坂道を登りながら足の疲れが取れていないことに気づいた。因みに国道412号の信号で曲がらず直進した方向には「三増合戦(みませかっせん)みち」という恐ろしい名前の道路がある。
「三増峠の戦い(みませとうげのたたかい)とは、永禄12年(1569年)10月8日に武田信玄と北条氏により行われた合戦である」(Wikipedia)。「1569年(永禄12年)、甲斐の武田軍と小田原の北条軍が激戦を繰り広げた『三増合戦』を記念して、『三増合戦場碑』が400年後の1969年(昭和44年)に、建立されました」(三増合戦史跡/愛川町ホームページ)。
信玄と戦ったのは北条氏政(後北条家第四代当主)である。末弟に氏規〈うじのり〉がいて氏盛〈うじもり〉と続いているが、この末裔(まつえい)に創価学会の第四代会長を務めた北条浩がいる。しかも彼は伊達政宗の子孫(男系)でもあった。
話を戻そう。初めて登った前回とは異なり今日は各ポイントを把握していた。丸太がゴロゴロと転がっている→高低差50メートルのつづら折れ→水汲み場→白い花→樹木土砂崩れ→頂である。ゆっくりと登坂を始めたところ、「こんにちは」と後ろから声を掛けられた。私が挨拶を返す間に紳士のローディは力強く追い越していった。最初の曲がり角で姿は完全に消えた。恐るべきスピードである。
ここで慌ててはいけない。1ヶ月後には56歳となる我が身である。運悪く路面も濡れていて時折道を横切るグレーチング(溝蓋〈みぞふた〉)で後輪がスリップする。
あらん限りの脚力を振り絞り、急勾配では時速5km以下の速度でよろめきながらも私は半原越を制覇した。疲労のあまり地べたに坐り込むと、重なり合う樹木の葉から私の勝利を祝うかのように紙吹雪が舞った。「マジ?」と目をこすると、それはたくさんの白蝶であった。
雨を恐れて登ってきた道をそのまま降りた。水汲み場の側で草刈り鎌を持った老人が徘徊していた。半原越の入口付近で木漏れ日が差した。今日はいい日である。
【追記】今回工夫したのは呼吸法である。口呼吸で喘(あえ)いでいた時に思いつき、「スッ、スッ、スッ、ハッ、ハッ、ハァー」と6拍子で行い、それでも苦しくなると4拍子に変えた。