2020-05-25

ペストは中世キリスト教会の権威も打ち負かした/『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新


『コロンブスが持ち帰った病気 海を越えるウイルス、細菌、寄生虫』ロバート・S・デソウィッツ
『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄

 ・ペストは中世キリスト教会の権威も打ち負かした

『感染症と文明 共生への道』山本太郎
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『人類史のなかの定住革命』西田正規
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 かつて“黒死病”の悪名で恐れられたペストは、記録に残っているだけでも、これまでに三度の大流行を起こしている。最初の大流行は、6世紀半ばの東ローマ帝国(ビザンチン帝国)で起きた。ユスティニアヌス皇帝統治下の541年にエジプトで始まったペストの流行は、またたく間に北アフリカ、ヨーロッパ、中央アジア、アラビア半島へと広がっていった。首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)では、全人口の40パーセントがペストで命を落としたといわれている。
 二度目の大流行は、14世紀半ばのヨーロッパで起こる。シチリア島に突然現れたペストは、あっという間にヨーロッパ全土に広がった。ドーバー海峡を隔てたイギリスでも、フランス帰りの一人の船員が持ち込んだペスト菌が原因で、多くの犠牲者を出した。
 結局、このときの流行で命を落としたのはおよそ4400万人。これは、当時のヨーロッパの全人口の3分の1にあたる。ペストの大流行は、単に人口を激減させただけでなく、人々の精神面にも重大な影響を与えた。疫病から救ってくれなかったキリスト教会に対する強い不信感は、中世の終焉(しゅうえん)を早める大きな要因となった。イタリア・ルネッサンスを代表する作品の一つであるボッカチオの『デカメロン』には、こうした社会状況が見事に描き出されている。
 三度目の大流行は、1860年代に中国で始まった。1890年代に入ると流行は香港にも及び、そこから船で南米、アフリカ、アジアへ、さらにはアメリカ合衆国のありフォルニアにまで飛び火していった。インドは、この時期の大流行によって最も大きな被害を受けた国の一つで、20世紀前半だけで、1000万人以上がペストによって命をおとしている。
 1948年、抗生物質ストレプトマイシンがペストに有効であることが確認され、“感染するとただちに死に繋がる病気”として恐れられていたペストにも、ようやく治療の道が開かれた。
 しかし、その後もベトナムや中国、アフリカや南米の一部の国で散発的な小流行が続き、現在に至っている。

【『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新〈きょうどう・あらた〉(角川oneテーマ21、2001年)】

 環境史という学問的視点に立つと戦争は寒冷化で起こるという。農作物の不作~住居の移動が人々の衝突を生む。ペストが中世キリスト教会の権威も打ち負かしたとすれば、人類史の大きな変化は人間の主体性よりも環境要因の方が大きいように感じてくる。

 環境への適応が進化を決定するなら、あらゆる生物は環境が育んだと考えてよかろう。仏教東漸(とうぜん)で教義が目まぐるしく変遷してきた歴史を思えば、言語や民族の違いも環境に由来するのだろう。

 人類の課題は「飢饉と疫病と戦争」(『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ)である。日本が島国であることを卑屈に捉える向きもあるが、「飢饉と疫病と戦争」という観点から考えると明らかに地の利が優る。日本の国土は66%が森林で耕地面積は12.6%と少ない。しかしながら多くの海流が集まっており漁撈(ぎょろう)で賄(まかな)える。海で隔てられているため感染症リスクも低い。戦争に至っては200年を超える鎖国政策で平和を堅持してきた実績がある。

 日本は温暖湿潤気候で最も暮らしやすい環境である。雨も豊富だ。現在、世界を席巻している新型コロナウイルスについても「日本人は重症化を防ぐ免疫を持っている」のではないかという仮説が出てきた(中村ゆきつぐのブログ : 日本人は重症化しにくい理由 精密な抗体検査でわかった免疫学的な動き 完全な中和抗体ではないけど日本人は重症化を防ぐ免疫を持っている)。

 人類が病から解放されることは決してないだろう。ひょっとすると病んで恢復(かいふく)する中に進化の鍵があるのかもしれない。

2020-05-24

「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆/『逝きし世の面影』渡辺京二


『日本人の誇り』藤原正彦
『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン

 ・失われた日本の文明
 ・幕末の日本は「子どもの楽園」だった
 ・「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆

『幕末外交と開国』加藤祐三
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『近代の呪い』渡辺京二

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 子どもが馬や乗物をよけないのは、ネットーによれば「大人からだいじにされることに慣れている」からである。彼は言う。「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている」。ブスケにも日本の「子供たちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」ように見えた。モースは言う。「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。いちいち引用は控えるが、彼は『日本その日その日』において、この見解を文字通り随所で「くりかえし」ている。
 イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として次のように書いている。「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子どもに誇りをもっている。毎朝6時ごろ、12人か14人の男たちが低い塀に腰を下して、それぞれ自分の腕に2歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ている大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい」。彼女の眼には、日本人の子どもへの愛はほとんど「子ども崇拝」の域に達しているように見えた。

【『逝きし世の面影』渡辺京二〈わたなべ・きょうじ〉(平凡社ライブラリー、2005年/葦書房、1998年『逝きし世の面影 日本近代素描 I』改題)】

 乳幼児の死亡率が高かった背景もあるのだろう。子供が死ぬことは珍しくなかった。そんな状況が戦前まで続いた。

 赤ん坊はただただ可愛い。私が生まれた北海道では「めんこい」と言う。赤ん坊を抱っこすれば誰もが笑顔になる。特に女性の場合、妊娠・出産を通して脳内のホルモン分泌が変化しオキシトシンが急増する。オキシトシンは「愛情ホルモン」とか「幸せホルモン」などと呼ばれている。つまり赤ん坊を可愛いと思えない母親は何らかの異常があると考えてよい。幼児を可愛がるのは動物の本能なのだ。

 生意気になるのは言葉を覚える3歳前後からである。私に子はいないが年の離れた弟妹(ていまい)3人を育てた経験がある。同じ年頃の子供と一緒になると性格の違いがくっきりと浮かび上がる。3歳児はとにかくわがままだ。私は過酷な訓練を行った。おもちゃで遊んでいたり、お菓子を食べている時に「ちょーだい!」と私が手を差し出す。当然寄越すことはない。で、軽くビンタをする。それでも渡さない。ビンタは少しずつ強くなり、泣いても許さない。最後は泣きながら寄越すことになる。これを日常的に繰り返すと3歳児は1週間ほどでゲームの仕組みを理解する。ま、寄越せば直ぐに返すから当たり前なのだが(笑)。こうすることでよその子と遊んでいる時に何でも譲る親切な振る舞いが身につく。直ぐ下の弟たちも私の真似をするため訓練は速やかに行われる。

 かつて『スポック博士の育児書』(原書は1946年、アメリカ/日本語版は1966年、暮しの手帖社)というベストセラーがあった。世界各国で5000万部以上売れた。「抱き癖が子供の自立を妨げる」「夜泣きをしても無視」など、明らかに誤った育児法が紹介されていた。親が鵜呑みにして育てられた子供は後に愛着障害となった。核家族化というタイミングが重なったことも大きい。生殖後の余命が異常なまでに長いのがヒトの特徴であるが、これは幼児を育成するためと考えられている。子供を舐(な)めるように可愛がるのが日本の伝統だ。そうやって育てられた子供たちが後に日清戦争・日露戦争を戦ったことは偶然ではあるまい。自分が愛されたがゆえに、愛するもののために命を犠牲にしたのだ。

 いじめが社会問題化した背景には子供が愛されなくなった情況があるように思われる。中野富士見中学いじめ自殺事件(1986年)で受けた衝撃を忘れることができない。1970年代生まれから何が変わったのだろうか? 「1970年の こんにちは」(「世界の国からこんにちは」)は大阪万博(1970年3月~9月)のテーマソングだが、やはり豊かになったことが最大の理由だろう。1954年(昭和29年)12月から始まった高度経済成長が1970年(昭和45年)7月まで続く。

 それまでのいじめは先輩が後輩に対して行うものだった。戦時中の陸軍や高校・大学の運動部では常態化していた。私もバレーボール部に所属していた高校1年生の時は毎日ヤキを入れられた。母親に告げると「ざまあみろ」と言われた。絶対に忘れてはならないのは帰還した特攻隊への仕打ちだ(『月光の夏』毛利恒之)。日本人の陰湿さが極まった事例といえる。

 日本で子供が大切にされなくなったとすれば、やがて滅びることは必定だ。振り返ると認知症が知られるようになったのも1970年代のことだ(『恍惚の人』有吉佐和子、1972年)。この国の行く末は甚だ危うい。



美しき日本の面影 その5 子供の情景

JA相模原市緑化センターの覚え書き


 JA相模原市緑化センターに行ってきた。私のサイクリングコースから少し外れた場所にあった。ポトス・ステータスを探しに行ったのだが残念ながらなかった。サンセベリアは数が少ない上に高価であった。

 確かに広いが広大というほどでもない。花や庭木が中心である。観葉植物は少ない。私の印象としては「でかい百姓家(ひゃくしょうや)のだらしない庭」といったところ。陳列された鉢は土埃にまみれていた。注目すべきは土の豊富さで日向土(ひゅうがつち)や富士砂があった。他には藁(わら)や米糠など。

 平日のせいか年寄りが多かった。「いよいよ俺もこの連中に仲間入りか」と胸の内で呟いた。家に戻ると少しふらついた。たぶん「緑酔い」だろう。

 場所がわかりにくいのでよく確認する必要がある。

2020-05-23

グラパラリーフとサンセベリア


サンセベリアの肥料

 ・グラパラリーフとサンセベリア

サンセベリアの根腐れ

 メルカリで買ったグラパラリーフ(300円)が昨日届いた。土の配合は赤玉土3:鹿沼土3:腐葉土4とした(意外に知らない!多肉植物の植え替えに適した土って? | ひとはなノート)。植物を買うたびにウェブ上を調べ回っているが有益な情報が多く、諸先輩方に尽きせぬ感謝を覚える。「2ヶ月に1回ほど緩効性化成肥料を追肥します。水やりは控えめに。1~2週間に1度ほど水やりをします」(グラパラリーフの栽培、育て方:プランターで家庭菜園)。これは食べるために植えたもの。




「葉を土の上に置き、根が出てき始めたら霧吹きで水を与えます。出てきた芽が大きくなり元々の葉が外れたら水やりします。葉挿しの置き場所は半日陰の場所で!直射日光に当てると葉自体が葉焼けし、枯れてしまいます」(グラパラリーフの育て方!日当たりや水やりなど管理のコツを解説!| BOTANICA)。取り敢えずベランダの室外機の下に鎮座していただこう。心配性なので葉にも土をかぶせておいた。

 折角なんで記念撮影を。昔から写真を撮る習慣がないのでついつい忘れてしまう。


 やっとメネデールが届いたので水やりをしたばかりだ。尚、メネデールは肥料ではないため、いつ与えても大丈夫なようだ。


 右が昨年購入したローレンティ(480円)で根が育ってないやつ。同じローレンティでも随分違うよね。左(980円)が一般的だ。右のはやや黄緑がちで葉の縞も大柄だ。


 これはゼラニカ(1480円)。去年メルカリで手に入れたもの。一番元気がいい。ただし買ってから直ぐに植え替えをしなかったので大きくなっていない。


 先日買ったばかりのハーニー(780円)である。検索したのだが正式名称がわからず。ブラックジェイドハニー、ハニーブラック、ブラックドラゴンなどの名前があって一律でない。手前の小さな緑色ポットに入っていたやつを4株に分けた。葉の付け根が白っぽくなってきたのが悩みの種である。株分けした際の乾燥が足りなかったせいかも。


 一番小さいが威勢がいい。適当に撮影したのでわかりにくいが実は一番葉の数が多い。

 来週になったら「超醗酵油かす おまかせ中粒」を投与する予定である。小さな植物は見ていて飽きることがない。日々成長する。「お前はどうなんだ?」と問い掛けられているような心地になってくる。

 amazonの画像リンクを紹介しておくが、ヨドバシ・ドットコムモノタロウの方が安い。ただし到着が遅い。ついでにスリット鉢も買うといいだろう(ヨドバシモノタロウ)。小さいスリット鉢はホームセンターにも置いていない。

2020-05-18

幕末の日本は「子どもの楽園」だった/『逝きし世の面影』渡辺京二


『日本人の誇り』藤原正彦
『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン

 ・失われた日本の文明
 ・幕末の日本は「子どもの楽園」だった
 ・「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆

『幕末外交と開国』加藤祐三
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『近代の呪い』渡辺京二

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はのちのち欧米人訪日者の愛用するところとなった。
 事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。1873(明治6)年から85年までいわゆるお雇い外国人として在日したネットーは、ワーグナーとの共著『日本のユーモア』の中で、次のようにそのありさまを描写している。「子供たちの主たる運動場は街上(まちなか)である。……子供は交通のことなどすこしも構わずに、その遊びに没頭する。かれらは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、紙鳶(たこ)の糸をみだしたりしないために、すこしの迂り道はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者(うまののりて)や馭者を絶望させうるような落着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」。
(中略)こういう情景はメアリ・フレイザーによれば、明治20年代になってもふつうであったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって坐っている太った赤ちゃんを抱きあげながらわきへ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤード(=9.144m)ごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ」のだった。

【『逝きし世の面影』渡辺京二〈わたなべ・きょうじ〉(平凡社ライブラリー、2005年/葦書房、1998年『逝きし世の面影 日本近代素描 I』改題)】

「子は授(さず)かりもの」と日本人は考える。誰から授かったのであろうか? 天である。ただしシナのとは異なり天地(=人智の及ばぬ大自然)の意味合いが強い。

 人力車が発明されたのは明治に入ってからのことだから往来はまだまだ人のものであった。それでも尚、外国人の目を瞠(みは)らせる何かがあったのだろう。欧米の児童教育は矯正を目的としており、子は鞭打たれる存在であった。そんな彼らからしてみると日本の子供たちはさながら野生動物のように見えたのだろう。

 私の小学生時代がちょうど100年後(1973年)である。札幌ではアスファルト舗装されていない道路も多かった。モータリゼーションが興ったのは1960年前後からで80年代までクルマは増え続けた。それでもまだ私が子供の時分は道路で遊ぶことができた。時折走るクルマはけたたましいクラクションを鳴らした。ドライバーからすれば子供と年寄りは交通を妨げる邪魔な存在でしかなかった。道路はクルマのものとなったのだ(『自動車の社会的費用』宇沢弘文)。

 渡辺京二は『苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉著)の編集者として知られる。「当初『海と空のあいだに』と題されたこの小説の原稿を郷土文化雑誌の編集者として受け取ったのが、評論家・思想史家の渡辺京二さんだ」(88歳の思想史家・渡辺京二が語る「作家・石牟礼道子の自宅に通った40年」 | 文春オンライン)。原稿の校正はもとより、掃除から食事に至るまで面倒を見たという。戦後の一時期は左翼として活動していた過去を持つ人物だ(【インタビュー】渡辺京二(思想史家・87歳)「イデオロギーは矛盾だらけ。だから歴史を学び直し人間の真実を追究するのです」 | サライ.jp)。

『苦海浄土』は紛(まが)いなく傑作である。私が「必読書」に入れなかったのは小説であるにもかかわらずノンフィクションとして扱われることを石牟礼がよしとしたためだ。水俣の被害者を左翼が支援したのは当然だろう。しかしそれが政治臭を帯びると反権力闘争のために水俣病が利用される本末転倒が起こる。チッソは違法行為を犯したわけではなかった。文明が発達する時には必ず何らかの犠牲が生じる。そこで国家の振る舞いが問われるのだ。

 1990年代まで知識人が赤く染まっていた事実を踏まえれば石牟礼道子はまだリベラルと言えるのかもしれないが、どうも私は好きになれない。渡辺京二も本書を通して古きよく日本を懐かしんでいるわけではなく、断絶した時代として相対化しているのである。「逝きし世」は「滅んだ文明」を意味する(『荒野に立つ虹』)。

 石原吉郎と比べると石牟礼や渡辺はヒモ付きに見えてしまう。