2020-09-04
2020-08-31
瀬島龍三と堀栄三/『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
・『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』堀栄三
・『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
・『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
・瀬島龍三と堀栄三
・『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀』岡部伸
・『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』小野寺百合子
・『杉原千畝 情報に賭けた外交官』白石仁章
・『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
・『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
クリミアのヤルタで密約が交わされる4ヶ月前の1944年10月10日、ハルゼー提督率いるアメリカ海軍の太平洋艦隊第三艦隊の艦載機が、沖縄、奄美諸島、宮古島などを爆撃した。12日からは台湾にある飛行場が集中的に攻撃された。しかし、これは、レイテ島上陸作戦を敢行するためのアメリカ側の陽動作戦だった。当時の大本営はそれに気づかず、連合艦隊司令部は、この爆撃に対して、傘下の空母の航空部隊や南九州に控えていた第二航空艦隊の爆撃機にハルゼー艦隊を攻撃するように命じたのだった。
そこで12日からの4日間で、総数約900機の航空機が空母や各航空基地から飛び立ち、ハルゼー艦隊への攻撃を行った。
攻撃から帰還したパイロットの報告を受けて日本海軍は多大な戦果を挙げたとして、大本営発表は5回にわたり続けられ、19日の6回目の発表では、「5日間にわたる猛爆。空母19、戦艦4など撃沈破45隻、敵兵力の過半を壊滅、輝く陸空一体の偉業」という大戦果とされた。戦況が悪化の一途を辿っているなかで、日本軍が久々の大戦果と言うことで大本営にも国民にも異様な興奮があった。そこで戦局の行方にも期待が高まった。
台湾沖航空戦の大戦果に基づいて、捷(しょう)一号作戦として準備されていたルソン決戦は急遽レイテ決戦に変更された。
しかし、作戦は失敗する。陸軍は第十四方面軍の精鋭部隊や内地からも部隊を送ったが、大本営発表とは逆にほとんど無傷だったアメリカ艦隊に補給路を断たれ、結果としてレイテ島も玉砕、10万人近くの日本兵が戦死する莫大な人的損害を出した。連合艦隊は事実上壊滅した。
台湾沖航空戦の戦況認識に誤りがあったからだ。正確な戦果が判明するのは戦後になってからだが、実際には重巡洋艦2隻が大破にしたにすぎなかった。大戦果というのはまったくの虚報であった。その虚報をやみくもに信じた参謀本部の参謀たちの誤りによって、レイテ決戦の悲劇は引き起こされたのだった。
ところが、この「台湾沖航空戦の大戦果」に疑問を持ち、「点検の要あり」という電報を出張先から大本営に打って報告していた人物がいたのである。これが大本営情報参謀だった堀栄三である。レイテ決戦から42年を経た1986(昭和61)年、大本営の元参謀だった朝枝繁春が明らかにしたのだった。
第十六師団があるフィリピンに出張を命じられ、陸路で九州に向かった堀は、44年10月13日、フィリピンへの出発地である新田原(にゅうたばる)飛行場(陸軍航空機基地)に到着するや、同航空戦の影響と、悪天候のため離陸不可能と知らされた。そこで偶然にも台湾沖航空戦の本拠地となっていた鹿屋(かのや)飛行場に転進すると、事情の違いに驚かされた。帰還したばかりのパイロットから話を聞いてまわると、華々しい戦果の根拠が薄弱であることを突き止め、その場で参謀本部情報部長あてに、「戦果はおかしい。よく点検して作戦行動に移す必要あり」との暗号電報を打った。
惜しむらくは堀の情報は参謀本部首脳に届かず、作戦行動に生かされることはなかった。打った電報は戦後も行方不明のままとなっていた。
しかし、堀は、1958(昭和33)年になって、その電報の顚末について意外な人物から告白を受ける。その人物がシベリアから帰国した2年後のことであった。戦後、自衛隊に入っていた堀は第十四方面軍の元同僚から連絡を受け、虎ノ門にあった共済会館の地下食堂に向かい、その人物と対面した。
「そのとき【かれ】が言うんです。『ソ連抑留中もずっと悩みに悩み続けた問題の一つは、日本中が勝った勝ったといっていたとき、ただ一人それに反対した人がいた。あの時に自分が、きみの電報を握り潰した。これが捷一号作戦の根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いたいとずっと思っていた』と。握り潰したという言葉は、このとき初めて私が耳にした言葉でした。これが事実です」(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』)
「握り潰した」という言葉を聞いて堀は言葉を失った。この意外な人物に、死活的な情報が大本営上層部に届けられる前に抹殺されていた。誤った過大な戦果情報を訂正することなく、その情報をもとにルソン決戦をレイテ決戦に作戦変更し、日本軍は玉砕し、幾万の命が散って行ったのであった。
この人物こそ大本営作戦参謀だった瀬島龍三であった。開戦時から参謀本部作戦課に所属していた瀬島は、いうまでもなく堀が書簡で指摘した「奥の院」の実力者であった。
堀は、この瀬島の告白を長い間、胸に収めて伏せていた。瀬島と同じ大本営作戦参謀だった朝枝には伝えたが、公表することはなかった。その朝枝が1986年になって初めて公にしたのだった。
ところが、瀬島は後に、この告白を覆している。
「堀君の誤解じゃないかなあ」「記憶がない」
多くのインタビューでは、否定を貫いた。自伝『幾山河』では、「この時期、自宅療養中」のため参謀本部にいなかったことにして、やはり、「堀君の思い違いではないないか」と告白したことを否定している。
「瀬島さんが父に告白したことは間違いありません。実は、その場(虎ノ門の共済会館地下食堂)に私も同席して聞いていましたから」
「賀名生(あのう)皇居」の屋敷で筆者を向かえてくれた堀の長男、元夫は柔和な笑顔で断言した。堀の電報を握り潰したことへの贖罪意識があったのだろうか、瀬島は、元夫に就職の斡旋を持ちかけた。大手商社マンだった元夫は断わり、その代わりに夫人が、瀬島が会長まで上り詰めた伊藤忠商事に勤務することになったという。瀬島が“手打ち”をしたのかもしれない。(中略)
証言の確認は取れていないが、大本営参謀の間で密かに語られている次のような事実がある。
「堀の暗号電報は解読されたうえで、作戦課にも回ってきた。この電報を受けとった瀬島参謀は顔色をかえて手をふるわせ、『いまになってこんなことを言ってきても仕方がないんだ』といって、この電報を丸めるやくず箱に捨ててしまったという。そのときの瀬島の異様な表情を作戦課にいた参謀たちは目撃しているというのである」(『瀬島龍三』)
瀬島が属していた超エリート集団である大本営作戦部作戦課は、堀が「奥の院」と指摘するように、どうにもならないほどに硬直化していた。自分たちが立てた作戦に合致する情報だけを選択し、それ以外は不都合なものとして抹殺していたのである。あくまで作戦上位、そのため主観的願望に溺れるということだ。この許し難い官僚主義こそ情報軽視の本質であった。それは日本型官僚機構が持つ倨傲(きょごう)であった。堀の電報握り潰し事件は、瀬島ひとりの責任ではなく、官僚化した作戦課という「奥の院」が生んだ悲劇であったのかもしれない。
【『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸〈おかべ・のぶる〉(新潮選書、2012年)】
戦後日本を振り返ると瀬島龍三はキーマンの一人であると考える。瀬島は戦前の超エリートで陸軍中枢にいた。大東亜戦争はエリートが判断を誤ったところに大きな敗因があった。終戦後はシベリアに抑留されソ連に洗脳を施された。帰国後、堀栄三に謝罪したのはまだ良心の炎が辛うじて消えていなかったのだろう。彼の転向・二枚舌・無責任・経済的成功が日本の姿とピッタリと重なる。
田中清玄は入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」という昭和天皇の発言を自著に記している(Wikipedia)。
【『田中清玄自伝』大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉インタビュー(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】
この無責任こそが新生日本の方向を決定づけた。善悪を不問に付して政策は経済一辺倒に傾き、国防はアメリカに委ねた。高度経済成長を経てバブル景気に至る中で国民が憲法改正を望むことはなかった。占領期間に日本から牙を抜くことが戦後レジームだとすればそれは見事に成功した。
小野寺信〈おのでら・まこと〉はバルト三国の公使館附武官を兼務した後、スウェーデン公使館附武官となりヤルタ会談の密約を入手し日本に打電したが、これを揉み消された。ここにも瀬島龍三が関与していると考えられる。その後、スウェーデン国王の仲介による和平を推し進めたが岡本季正〈おかもと・すえまさ〉駐スウェーデン公使の妨害で頓挫する。外務省の罪を検証する必要があるだろう。
戦後レジームから脱却できない理由はただ一つだ。それは我々日本国民が自分たちの手で敗戦の責任を問うていないためだ。その意味から申せば、国民による「新東京裁判」が必要であると考える。
天皇陛下が歴史上初めて全国民に向けて発したメッセージが「終戦の詔勅」
2020-08-29
陸軍中将の見識/『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三
・陸軍中将の見識
・大本営の情報遮断
・『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
・『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
・『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰
・日本の近代史を学ぶ
堀はここで生れて初めて情報電報に目を通す身となった。大多数の電報は、枢軸国といわれた独、伊、ルーマニヤや中立国の武官、大公使からの電報で、右肩に親展、極秘という朱肉の大きな角印が目にしみた。その他は内外の通信社の速報ニュース、外国系ラジオ放送、新聞などが机の上に並べられていた。
家に帰った堀はその晩、父堀丈夫〈たけお〉に情報をやることになった旨を話した。父は晩酌の盃を置いて、一瞬考えてから、
「俺も40年近く軍人生活をしてきたが、情報だけはやったことがない。強いて言えば大佐時代に2年間フランスに航空の勉強にいったのが、情報といえばいえるだけ。情報は結局相手が何を考えているかを探る仕事だ。だが、そう簡単にお前たちの前に心の中を見せてはくれない。しかし心は見せないが、仕草は見せる。その仕草にも本物と偽物とがある。それらを十分に集めたり、点検したりして、これが相手の意中だと判断を下す。相手といっても、第一線の指揮官には自分の正面の敵の指揮官になるし、大本営だったら国家の主権の中枢が相手ということになろう。主権の中枢から直接聞くことが出来たら一番良いが、それは至難であって、時には嘘もつかれる。そうなるといろいろ各場面で現われる仕草を集めて、それを通して判断する以外にはないようだな」
父は何度も「仕草」という言葉を使った。仕草とは軍隊用語でいう徴候のことである。情報のことは知らないという父から受けた初めての情報教育であった。
【『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三〈ほり・えいぞう〉(文藝春秋、1989年/文春文庫、1996年)】
堀栄三は「正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、『マッカーサー参謀』とあだ名された」(Wikipedia)。上念司〈じょうねん・つかさ〉が毎年8月15日に繰り返し読む書籍と知って興味を抱いた。
俚諺(りげん)に「一葉落ちて天下の秋を知る」とある。孔子は「一を聞いて十を知る」(『論語』)と説き、日蓮も「一をもつて万を察せよ。庭戸(ていこ)を出でずして天下をしるとはこれなり」(「報恩抄」)と述べる。わずかな予兆から変化を見抜くことは生存率を高める。堀栄三の養父はそれを「仕草」と表現した。陸軍中将の高い見識に驚かされる。法華経方便品(ほうべんぽん)に「諸法実相は十如是」とある。仕草という言葉が十如是に通じる。
私は上念ほどの感動を覚えなかったのだが、小野寺信〈おのでら・まこと〉を知り再読せざるを得なくなった。
2020-08-27
縁に触れて覚る/『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル
・『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン
・縁に触れて覚る
・『新訳 弓と禅 付・「武士道的な弓道」講演録』オイゲン・ヘリゲル
・『無我と無私 禅の考え方に学ぶ』オイゲン・ヘリゲル
・『禅の道』オイゲン・ヘリゲル (著
・『弓聖阿波研造』池沢幹彦
・『弓と禅』中西政次
・『鉄人を創る肥田式強健術』高木一行
・『表の体育裏の体育 日本の近代化と古の伝承 の間(はざま)に生まれた身体観・鍛錬法』甲野善紀
・『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
・『惣角流浪』今野敏
・『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽
・『会津の武田惣角 ヤマト流合気柔術三代記』池月映
・『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
・『肚 人間の重心』 カールフリート・デュルクハイム
・悟りとは
・必読書リスト その五
すると先生は声をはげまして「いや、その狙うということがいけない。的のことも、中てることも、その他どんなことも考えてはならない。弓を引いて、矢が離れるまで待っていなさい。他のことはすべて成るがままにしておくのです」と答えられた。そう言って先生は弓を執り、引き絞って射放した。矢は的のまん中にとまっていた。それから先生は私に向かって言われた。――「私のやり方をよく視ていましたか。仏陀が瞑想(めいそう)にふっている絵にあるように、私が目をほとんど閉じていたのを、あなたは見ましたか。私は的が次第にぼやけて見えるほど目を閉じる。すると的は私の方へ近づいて来るように思われる。そうしてそれは私と一体になる。これは心を深く凝らさなければ達せられないことである。的が私と一体になるならば、それは私が仏陀と一体になることを意味する。そして私と仏陀が一体になれば、矢は有(う)と非有(ひう)の不動の中心に、したがってまた的の中心に在ることになる。矢が中心に在る――これをわれわれの目覚めた意識をもって解釈すれば、矢は中心から出て中心に入るのである。それゆえあなたは的を狙わずに自分自身を狙いなさい。するとあなたはあなた自身と仏陀と的とを同時に射中てます」
【『日本の弓術』オイゲン・ヘリゲル述:柴田治三郎〈しばた・じさぶろう〉訳(岩波文庫、1982年/原講演は1936年〈昭和11年〉)】
オイゲン・ヘリゲルは学生時代からドイツの神秘説を詳しく調べていた。マイスター・エックハルトが称揚した「離繋」の本質がわかるかもしれないと考えて来日を決意。東北帝国大学に招聘(しょうへい)されて哲学を教えた。弓聖(きゅうせい)と称えられた阿波研造〈あわ・けんぞう〉に弓術を学ぶ。細君は生け花と墨絵を習う。足掛け6年にわたって稽古をした。3年が経過しても満足のゆく状態にはならなかった。4年目で芽が出る。そこで西洋の合理性が邪魔をした。ヘリゲルは理窟(りくつ)という答えを求めたが阿波が示したのは「悟りの道」であった。
日野晃の著作で本書を知った。タイトルは聞き覚えがあったが弓に興味はなかった。高校生の時、弓道部の友人に招かれて一度だけ弓を引いたことがあるがワンバウンドで辛うじて的に当てた。普通の弓であったが私にとっては強弓(ごうきゅう)だった。私の運動神経は球技で発揮されるため何となく「縁がないな」と感じた。
9時ごろ私は先生の家へ伺った。先生は私を招じて腰かけさせたまま、顧みなかった。しばらくしてから先生は立ちあがり、ついて来るようにと目配(めくば)せした。私たちは先生の家の横にある広い道場に入った。先生は編針のように細長い1本の蚊取線香に火をともして、それを垜(あずち)の中ほどにある的の前の砂に立てた。それから私たちは射る場所へ来た。先生は光をまともに受けて立っているので、まばゆいほど明るく見える。しかし的は真っ暗なところにあり、蚊取線香の微(かす)かに光る一点は非常に小さいので、なかなかそのありかが分からないくらいである。先生は先刻から一語も発せずに、自分の弓と2本の矢を執った。第一の矢が射られた。発止(はっし)という音で、命中したことが分かった。第二の矢も音を立てて打ちこまれた。先生は私を促して、射られた2本の矢ををあらためさせた。第一の矢はみごと的のまん中に立ち、第二の矢は第一の矢の筈(はず)に中たってそれを二つに割(さ)いていた。私はそれを元の場所へ持って来た。先生はそれを見て考えこんでいたが、やがて次のように言われた。――「私はこの道場で30年も稽古をしていて暗い時でも的がどの辺にあるかは分かっているはずだから、1本目の矢が的のまん中に中たったのはさほど見事な出来ばえでもないと、あなたは考えられるであろう。それだけならばいかにももっともかも知れない。しかし2本目の矢はどう見られるか。これは【私】から出たのでもなければ、【私】が中てたものでもない。そこで、こんな暗さで一体狙うことができるものか、よく考えてごらんなさい。それでもまだあなたは、狙わずには中てられぬと言い張られるか。まあ私たちは、的の前では仏陀の前に頭を下げる時と同じ気持になろうではありませんか」――
それ以来、私は疑うことも問うことも思いわずらうこともきっぱりと諦めた。
エピソードが神話性を帯びて宗教的な物語にまで高められている。物理学や確率で論じることに意味はない。オイゲン・ヘリゲルに染み付いた西洋哲学という蒙(もう)が啓(ひら)いた瞬間であった。阿波研造は縁覚(えんがく)の人物だったのだろう。21歳で弓術を始め、「41歳のとき、天啓のような神秘的な一射を体験をし、『一射絶命』『射裡見性』を唱え始める」(Wikipedia)。阿波は禅を通して即時性や如実知見(にょじつちけん)を悟ったのだろう。
矢筈の直径は8mm前後である。ここに当てるということは1~2mmの精度が求められよう。つまり阿波が放った2本目の矢は1mmの的に当てたと考えてよい。しかも暗く的は見えないのだ。まさに神業(かみわざ)である。しかも阿波はそれが「技術ではない」と言うのだ。人智を超えた領域に触れたと感じるのは私だけではないだろう。
日本の宗教改革ともいうべき鎌倉仏教において悟りの道を目指したのは禅宗のみである。他はマントラ密教に堕した感がある。常に生死(しょうじ)の境に身を置く武士が禅を好んだのもむべなるかな。現代世界に目を転じても世界を席巻した日本仏教は禅だけといっても過言ではなく、多くのミステリ作品にも取り上げられている。修行の面から見れば瞑想とヨガは欧米で広く受け容れられている。
スポーツは狩猟をゲーム化したものだが、武道は暴力を洗練し尚且つ抑制したものだ。それを悟りに結びつけたところに日本武術の独創性がある。
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