2021-06-02
野村雅一、嵐山光三郎
挫折『身ぶりとしぐさの人類学 身体がしめす社会の記憶』野村雅一〈のむら・まさいち〉(中公新書、1996年)/ナンバ本で「誤った記録」として取り上げられることが多い作品だ。ナンバに関する箇所だけ読む。お婆さんの立ちションシーンから始まる巻頭に辟易させられる。品性下劣の見本であろう。既に物故しているようだが恥を書き残した感がある。
挫折『新素人包丁記・海賊の宴会』嵐山光三郎〈あらしやま・こうざぶろう〉(講談社、1993年)/軽妙だが洒脱ではない。ま、この人の場合、下品で売っていたところがあるからね。因みに私は昔から嵐山光三郎となぎら健壱をよく間違える。そのいい加減さ、デタラメ振り、無責任を「不潔」という言葉で括ることができそうだ。不潔は動物に近づき、人間の顔を見えにくくする。やはり好印象は清潔感から始まる。濁ったものには近づかないのが一番だ。
2021-06-01
「肉」ではなく「骨」を意識する/『ナンバ走り 古武術の動きを実践する』矢野龍彦、金田伸夫、織田淳太郎
・『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
・『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
・ナンバ歩きと古の歩術
・『表の体育・裏の体育』甲野善紀
・『「筋肉」よりも「骨」を使え!』甲野善紀、松村卓
・「肉」ではなく「骨」を意識する
・骨盤歩き
・柳生心眼流の極意 平直行×菊野克紀
・『ナンバの身体論 体が喜ぶ動きを探求する』矢野龍彦、金田伸夫、長谷川智、古谷一郎
・『ナンバ式!元気生活 疲れを知らない生活術』矢野龍彦、長谷川智
・『すごい!ナンバ歩き 歩くほど健康になる』矢野龍彦
・『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
・『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
・『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
・『スポーツ選手なら知っておきたい「からだ」のこと』小田伸午
・『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
・『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
・『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア
・『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
・身体革命
ちょうどその頃、同大学(※桐朋学園大学)音楽科の教授を務める矢野や、演奏に体育を取り入れようと躍起になっていた。体の使い方が演奏をより良いものにするという確信からだったが、何を取り入れても常に物足りなさを引き摺っていた。
ある日、甲野氏の『表の体育・裏の体育』(壮紳社)を読んだ。矢野を襲ったのは、「こんな身体運用が果たして人間に可能なのか」という驚き。さらに「可能ならば、演奏にも活かせるかもしれない」という閃(ひらめ)きだった。
矢野はさっそく古谷に相談を持ちかけた。その古谷が矢野に紹介したのが、甲野氏の術理に傾倒していた長谷川だった。ここに古武術の叡智(えいち)に魅了された三人が結集することになる。それぞれの探求心が導いた“出会い”だったが、当時はまだ三人ともバスケットボール部のコーチを務めていたわけではない。この時点でスポーツを通じた金田との接点はなかった。
だが、「縁は異なもの」という。98年、長谷川が同部のメンタルコーチに就任したのが、すべての始まりだった。古武術からのアプローチによるバスケット革命への序章である。
【『ナンバ走り 古武術の動きを実践する』矢野龍彦〈やの・たつひこ〉、金田伸夫〈かねだ・のぶお〉、織田淳太郎〈おだ・じゅんたろう〉(光文社新書、2003年)】
甲野本はこれから読む予定である。上記7冊を読めばナンバ~常歩(なみあし)の概念は理解できる。ただし実際の動きはまた別の話である。
ナンバが矢野・古谷・長谷川の出会いから始まったように、常歩(なみあし)もまた3人の出会いから始まった。まるで三国志のようなエピソードである。「三人寄れば文殊の知恵」と言うが、3人程度の情報交換が脳は心地よく感じるのだろう。5人以上になると損得が芽生え、10人を超えれば政治が頭をもたげる。
「コツをつかむ」という言葉がある。この「コツ」という文字を漢字に置き換えると、何があてはまるのか。
答えは「骨」(こつ)である。ちなみに、広辞苑第四版をひもとくと、「骨」という漢字には、人体的な意味意外にこんな解釈が付け加えられている。
〈物事をなす、かんどころ。要領〉〈ほねのように、物事のしんとなっているもの。かなめ〉
つまるところ、「コツをつかむ」とは、「かなめである骨の位置を把握する」「物事をなす骨の働きを熟知する」といった言葉に置き換えることができる。あるいは「骨に体の動きを覚えさせること」という意味にも繋がるかもしれない。
実際、一流の板前が魚をさばくのに見事な腕前を見せるのは、その骨の位置をしっかり把握しているからである。まさに「コツをつかんだ」包丁さばきということになるだろう。
「骨を意識する」ことは重力を利用することにつながる。古武術は踏ん張らない。逆に膝の力を抜くのである。ナンバ歩きも同様で、拇指球に力を入れて蹴る動きを封ずる。踵(かかと)から着地するのではなく、足裏全体をそっと置く感覚で足を運ぶ。着地側の足も伸び切らないようにする。膝を真っ直ぐに伸ばす歩き方こそが膝痛の原因である。つまり、ありとあらゆる衝撃を柔らかくかわすところに日本の伝統的な振る舞いがある。
尚、amazonの画像リンクを貼ってあるが、送料が480円も掛かるのでヨドバシドットコムか楽天ブックスで購入すればよい。
小森亨
『日曜日の遊び方 「包丁修業」入門』小森亨〈こもり・とおる〉(雄鶏社、1994年)/昨日から読み始めた。目が行き届いた内容で読み物としてはこれ一冊でよさそうだ。庖丁本は写真中心のヴィジュアル系が多く、基本的な概念をつかみにくい。感覚を言葉で説明しにくいという事情もあるのだろう。片刃庖丁の刃にはスキというわずかな凹み部分があり、これが切れ味をよくしているという。ただし研いでいるうちにスキは失われてしまうが、素人だとスキを作るのは困難で直すなら購入店に頼むしかない。教科書本。雄鶏社〈おんどりしゃ〉はリーマンショックの影響で破産した。因みに書籍タイトルについてはamazonよりも私の方が正確である。
ジョシュ・ミッテルドルフ、ドリオン・セーガン、三浦雅士、斎藤成也、他
高村薫著『レディ・ジョーカー』を読んで、ものを書く気が失せた。まあ惚れ惚れする文章だ。努力だけでは辿り着けない高みである。正確な言葉遣いと澱みない文章から才気の香りが立ち上る。というわけで覚え書きを。
『マンガでわかる! すぐに使えるNLP』藤川とも子(日本実業出版社、2018年)/半分ほどで挫折。悪くはないがよくもない。「マンガでわかる!」は嘘である。てっきり漫画本だと思い込んでいたのだが、漫画は各節を1ページでまとめている程度となっている。説明はわかりやすいのだが項目がずらりと並んでいる印象が強く、これを覚えなければならないと思っただけでゲンナリさせられる。加藤聖龍〈かとう・せいりゅう〉著『手にとるようにNLPがわかる本』(かんき出版、2009年)の方がずっといい出来栄えだ。アメリカキリスト教におけるプラグマティズム~ニューソート~ポジティブ・シンキング、はたまたニューエイジに至るまでを私は「西洋における大乗思想の勃興」と考えている。そして密教に傾いていないところを評価している。ま、英語圏の説明能力はやっぱり凄いよ。
『旧字旧かな入門』府川充男、小池和夫(柏書房、2001年)/挫折。「同音の漢字による書きかえ」を調べるために読んだのだが、ちょっと違った。活字だと書き方が微妙にわからない。漢字検定の上級者向きか。
『[旧字源]旧漢字でわかる漢字のなりたち]青木逸平〈あおき・いつへい〉(瀬谷出版、2018年)/読書中。旧字を丁寧に解説。こちらは読みやすい。旧字体と新字体という名称を使っている。
『若返るクラゲ 老いないネズミ 老化する人間』ジョシュ・ミッテルドルフ、ドリオン・セーガン:矢口誠訳(集英社インターナショナル、2018年)/読書中。好著。ネオダーウィニズム批判の書。日本版に寄せたメッセージで随分と日本を褒め称えている。「集団選択」という新しい概念で老化のメカニズムを解明する。
『DNAから見た日本人』斎藤成也〈さいとう・なるや〉(ちくま新書、2005年)/読書中。文章の圧縮度が高い。期待できそうだ。
『身体の零度』三浦雅士〈みうら・まさし〉(講談社選書メチエ、1994年)/読書中。ナンバ本で紹介されていた一冊。三浦は『ユリイカ』『現代思想』の編集長を経て評論活動に入ったらしい(見返しより)。文章も視点もユニーク。独創性がある。青森県出身。
2021-05-31
同じ走行距離を望むならガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積む必要がある電気自動車/『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司
・『自動車の社会的費用』宇沢弘文
・『リサイクル幻想』武田邦彦
・同じ走行距離を望むならガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積む必要がある電気自動車
前世紀の二つの世界大戦は、石油による石油のための戦争だった。自動車の技術を応用した兵器が実用化されて実戦で使われたが、そのために石油は不可欠の戦略資源となった。アジア太平洋戦争における日本の開戦と敗戦もまた石油と大きく結びついていた。
敗戦後の日本は、朝鮮戦争の特需をきっかけに、奇跡の経済成長を遂げる。その牽引役の一つが自動車産業であった。日本の自動車メーカーのいくつかは、軍需産業の解体から出発した。
【『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司〈おざわ・しょうじ〉(岩波ブックレット、2015年)以下同】
ブックレットという判型はあまり好きじゃないが本書はおすすめできる。
(※『Who Killed The Electric Car?(誰がその電気自動車を殺したのか?)』(監督:クリス・ペイン、ソニーピクチャーズ)の内容を紹介し)スチュードベイカーエレクトリックからEV-1に至るまで、市販されたEVは数多いが、いずれもベストセラーにもロングセラーにもなることはなく消えてしまった。効率がよくクリーンで静かで運転もしやすいのに、EVはなぜ受け入れられないのか。
それはガソリン車と比べてみるとよくわかる。ガソリン自動車は燃料としてガソリンをタンクに積む。EVは同じように電気をバッテリーに充電する。ガソリンの発熱量は1リットルあたり約8000キロカロリー=9300ワット時。これを40-50リットルのタンクに積むと、車種や走行条件にもよるが、フルタンクで400-500キロメートル走り続けることができる。
一方、バッテリーに充電できる電力量を体積(リットル)あたりでみたエネルギー密度は、鉛バッテリーが40-100ワット時、ニッケル水素バッテリーが100-300ワット時、リチウムイオンバッテリーでも300-600ワット時ほどである。リチウムイオンバッテリーであってもガソリンの15分の1から30分の1でしかない。さらに重量あたりのエネルギー密度で比べると、ガソリンのわずか2%以下だ。つまりガソリン自動車と同じ航続距離(1フル充電あたりの走行距離)を稼ごうとすると、エンジン効率とモーター効率の差を考えても、ガソリンの15倍もの重さのバッテリーを積まなくてはいけないことになる。また、その充電にも長い時間がかかる。これは非現実的だ。
このバッテリーの性能問題が電気自動車の最大のウィークポイントであり、その普及を妨げてきた理由なのである。
同様のことは太陽光発電にも言える。10年分の太陽光電気代で太陽光発電パネルを作ることはできないだろう。所詮はコスト(費用)とベネフィット(便益)の問題である。私が知る限りでは武田邦彦が一番最初に、「国際的な脱炭素社会に向けた電気自動車への動きはトヨタ潰しである」と喝破した。要は欧米自動車メーカーがトヨタの技術に太刀打ちできない背景がある。競争に敗れれば、自分たちが有利になるようルールを変更するのが白人の流儀だ。
いずれにしても電気を使うから、その電機をどうやってつくるかという問題がある。電気そのものが何らかのエネルギー源を使って起こさなければならない二次エネルギーだから、それによってつくる水素は三次エネルギー、その水素で起こす電気は四次エネルギーということになる。最初のエネルギー源が化石燃料であればCO2発生は免れないし、コストが大変高いものになる。
私は電気に関する知識はそこそこあるので最初から気づいていた。いずれにせよ脱炭素への動きはグレートリセットを先取りするもので、世界の仕組みを変える意志を示したものだろう。
自動車はそもそも過剰性能ではないのか。買い物や通勤・通学のために、最高時速180キロメートル、航続距離400キロメートル、4-7人乗りなどという性能が必要なのだろうか。PHVにせよFCVにせよEVにせよ、日常用途も休日のドライブも1台の車で満たそうとするのは欲張りすぎなのではないか。
実は自動車と自動車中心社会がもたらす数々の問題を解決するうまい方法がある。それは自動車を小さく、軽く、そして遅くすることだ。自動車の消費エネルギーは、空気抵抗と転がり抵抗に大きく左右される。空気抵抗は速度の二乗に比例し、転がり抵抗は重さに比例する。つまり速度を遅く、重量を小さくすれば、それだけエネルギー消費が少なくてすむのである。
実際、乗用車1台あたりの月間平均走行距離は380キロメートル、うち58%が300キロメートル以下である。すなわち、乗用車の6割近くは1日平均10キロメートル以下しか走っていないことになる。そして、8割以上が二人以下の乗用人数なのである。
つまり自動車は税負担を増やすだけの道具と化したわけだ。二重三重の課税は完全な憲法違反である。
それでも人々は移動の自由を欲する。国家も道路を整備してそれに応える。自動運転は運転する喜びを奪う愚行だ。
効率を目指すのであれば路面電車を張り巡らすのが一番いいと思う。自動化も可能だろう。
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