2011-09-23

悟りの閃光


 瞑想とは現在と出会い、瞬間に生きる術(じゅつ)である。過去を完全に葬ると真の英知が光を放つ。悟りとは理解の異名である。

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瞑想は格闘技だ

子供の絵に見られる世界観の発達


 子どもたちは幼いとき平面的な絵を描きます。年長になると、それが立体的になってくる。このような表現様式の発達は、子どもに見える世界、つまり子どもの世界観の発達に対応しているのでしょう。子どもに影の存在を教え、より現実に近い知覚を与えるもの、それが父の存在の認識です。父存在(それは神と呼ばれることもあります)の掟に従って生きるほかない自己を認識すること、それによって子どもは人間になるのです。

【『インナーマザーは支配する』斎藤学〈さいとう・さとる〉(新講社、1998年)】

インナーマザーは支配する―侵入する「お母さん」は危ない

2011-09-22

パキスタン情報当局、米国を狙った攻撃に関与=米当局者


 パキスタンの情報機関である統合情報部(ISI)が、同国を拠点とする武装勢力「ハッカニ・ネットワーク」に対して米国を標的にした攻撃を働きかけた証拠が数多くあると、複数の米当局者が警告している。
 2人の米当局者と米パ関係に詳しいある情報筋によると、9月13日にアフガニスタンの首都カブールで起きた米大使館と北大西洋条約機構(NATO)本部への攻撃について、米情報当局が報告書の中で、ISIがハッカニに指示もしくは要請したものだと指摘。ただ、この情報の裏付けはまだ取れていないという。
 また、米政府の内部調査に詳しい別の当局者は、少なくともISIがハッカニに対し、米国を標的にした攻撃をけしかけていたことが諜報を通じて強く示唆されていると述べた。
 マレン米統合参謀本部議長も今週に入り、ハッカニに対して行動を取るようパキスタン側に求めていた。
 ISIによるハッカニへの関与が事実だとすれば、今年5月の米軍によるウサマ・ビンラディン容疑者の殺害作戦で悪化していた米国とパキスタンの関係はさらに冷え込むとみられる。

ロイター 2011-09-22

読書の昂奮極まれり/『歴史とは何か』E・H・カー


 ・読書の昂奮極まれり

『歴史とはなにか』岡田英弘
『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔
『歴史の起源と目標』カール・ヤスパース

世界史の教科書
必読書リスト その四

 1961年の1月から3月にかけて行われた連続講演を編んだもの。その2年後に生まれた私が、ちょうど50年後に読んだことになる。

 数ページをパラパラとめくったところで「名著!」という文字が極太ゴシック体で点滅する。脳内ではシナプスが次々と発火し、それまではつながらなかった回路を連続的に形成する。長い間、どんよりと疑問に思ってきたことが氷解し、疑問にまで至っていないモヤモヤしたものまでが一掃された。まさしく天才本(てんさいぼん)といってよい。

 歴史とは「物語化された時間」である。物語は時系列に沿って進行するため歴史的であることを免れない。時間は過去から未来へと一直線上を進むためだ。

 生老病死というリズムが人生の前提である以上、人間そのものが歴史的存在といえる。

「歴史とは何か」という問題に答えようとする時、私たちの答は、意識的にせよ、無意識的によせ、私たちの時代的な地位を反映し、また、この答は、私たちが自分の生活している社会をどう見るかという更に広汎な問題に対する私たちの答の一部分を形作っているのです。

【『歴史とは何か』E・H・カー:清水幾太郎〈しみず・いくたろう〉訳(岩波新書、1962年)以下同】

 歴史は事実そのものではない。歴史家の目に映ったものが歴史として綴られるのだ。つまり、あらゆる歴史は歴史家の立ち位置に束縛されている。写真はカメラマンの位置からしか撮影することができない。

 魚が魚屋の店先で手に入るように、歴史家にとっては、事実は文書や碑文などのうちで手に入れることが出来るわけです。歴史家は事実を集め、これを家へ持って帰り、これを調理して、自分の好きなスタイルで食卓に出すのです。

 とすると、素材を知ることなくして歴史という料理を味わうことはできない。更に用いられなかった材料をも見抜き、その理由を察知することが求められよう。それができなければ、与えられた歴史を鵜呑みにするしかない。

the history of history

 現代のジャーナリストなら誰でも知っている通り、輿論を動かす最も効果的な方法は、都合のよい事実を選択し配列することにあるのです。事実というのは、歴史家が呼びかけた時にだけ語るものなのです。いかなる事実に、また、いかなる順序、いかなる文脈で発現を許すかを決めるのは歴史家なのです。ビランデルロの作品中のある人物であったかと思いますが、事実というのは袋のようなもので、何かを入れなければ立ってはいない、と言ったことがあります。1066年にヘスティングスで戦闘が行なわれたことを知りたいと私たちが思う理由は、ただ一つ、歴史家たちがそれを大きな歴史的事件と見ているからにほかなりません。シーザーがルビコンという小さな河を渡ったのが歴史上の事実であるというのは、歴史家が勝手に決定したことであって、これに反して、その以前にも以後にも何百万という人間がルビコンを渡ったのは一向に誰の関心も惹かないのです。

 ある出来事に意味を吹き込むのが歴史家の仕事であるならば、歴史家は神と同じ場所に位置するものと考えてよい。捏造(ねつぞう)、偽造、割愛、削除を自由に行えるのだ。ま、数百年後に出されたジャンケンみたいなものだろう。

 また当たり前のことではあるが、大衆の平凡な営為に歴史的価値はなく、平均値としてのみ記録される。

 歴史的事実という地位は解釈の問題に依存することになるでしょう。この解釈という要素は歴史上のすべての事実の中に含まれているのです。

 これが一つ目の急所だ。「歴史とは解釈である」。実は政治も宗教も科学も芸術も解釈である。脳機能の根幹を成すアナロジーは解釈そのものだ。すなわち思考とは解釈の異名である。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 E・H・カーに導かれてはたと気づく。「言葉は解釈を超えられない」ことを。解釈とは説明である。「自分」というフィルターを通した逆理解である以上、解釈はバイアス(歪み)を避けられない。そもそも認知そのものにバイアスが掛かっている(認知バイアス)以上、進歩・進化・昇華・脱構築といったところで、情報の書き換えにすぎないのだ。結局、「上書き保存」ということだ。

 てにをはのレベルであればどうってことはないのだが、「大虐殺はあったのか、なかったのか」なんて次元になると国家間でぶつかり合う羽目となる。議論の内容は細密を極め、さほど関心のない人から見ると、まるで量子世界のように映る。

 紀元前5世紀のギリシアがアテナイ市民にとってどう見えていたか、それは私たちはよく知っていますけれども、スパルタ人にとって、コリント人にとって、テーベ人にとって――ペルシア人のこと、奴隷のこと、アテナイの住民であっても市民でない人々のことまで持ち出そうとは思いませんが――どう見えていたかということになりますと、私たちは殆ど何も知らないのです。私たちが知っている姿は、あらかじめ私たちのために選び出され決定されたものです、と申しましても、偶然によるというよりは、むしろ、意識的か否かは別として、ある特定の見解に染め上げられていた人たち、この見解を立証するような事実こそ保存する価値があると考えていた人たちによってのことであります。それと同様に、中世を取扱った現代の歴史書のうちで、中世の人々は宗教に深い関心を抱いていた、と書いてあるのを読みますと、どうしてそれが判るのか、本当にそうなのか、と私は怪しく思うのです。

 あらゆる分野で古い解釈と新しい解釈とが争い合っている。こうした議論は必ず資料に依存する。「書かれたもの」が正義としてまかり通るのだ。誤っている可能性はこれっぽっちも考慮されない。

History

 信心深い中世人という姿は、それが真実であっても、真実でなくとも、もう打ち壊すことはできません。なぜなら、中世人について知られている殆どすべての事実は、それを信じていた人たち、他の人々がそれを信じるのを望んでいた人たちが私たちのためにあらかじめ選んでくれたものなのですから。そして、恐らくその反対の証拠になったであろうと思われる別の沢山の事実は失われていて、もう取り戻すに由ないのですから。死に絶えた幾世代かの歴史家、記録者、年代記作家の永代所有権によって過去というものの型が決定されてしまっていて、もう裁判所に訴える余地も残されておりません。

 歴史とは加工された記録なのだ。古(いにしえ)の権力者が暦(こよみ)を支配してきた事実を思えば、更に意味合いが深まる。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 すべての歴史は「現代史」である、とクローチェ(1866-1952、イタリアの哲学者)は宣言いたしました。その意味するところは、もともと、歴史というのは現在の眼を通して、現在の問題に照らして過去を見るところに成り立つものであり、歴史家の主たる仕事は記録することではなく、評価することである、歴史家が評価しないとしたら、どうして彼は何が記録に値いするかを知り得るのか、というのです。

 過去を「見る」ことはできても、過去へ「行く」ことはできない。

 コリングウッドの見解は次のように要約することが出来ます。歴史哲学は「過去そのもの」を取扱うものでもなければ、「過去そのものに関する歴史家の思想」を取扱うものでもなく、「相互関係における両者」を取扱うものである。(この言葉は、現に行なわれている「歴史」という言葉の二つの意味――歴史家の行なう研究と、歴史家が研究する過去の幾つかの出来事――を反映しているものです。)「ある歴史家が研究する過去は死んだ過去ではなくて、何らかの意味でなお現在に生きているところの過去である。」しかし、過去は、歴史家がその背後に横たわる思想を理解することが出来るまでは、歴史家にとっては死んだもの、つまり、意味のないものです。ですから、「すべての歴史は思想の歴史である」ということになり、「歴史というのは、歴史家がその歴史を研究しているところの思想が歴史家の心のうちに再現したものである」ということになるのです。歴史家の心のうちにおける過去の再構成は経験的な証拠を頼りとして行なわれます。しかし、この再構成自体は経験的過程ではありませんし、事実の異なる列挙で済むものでもありません。むしろ、再構成の過程が事実の選択と解釈とを支配するのです。すなわち、正に、これこそが事実を歴史的事実たらしめるものなのです。

 これが2番目のホシ(急所)だ。歴史の相対性理論、あるいは歴史の縁起観ともいうべきか。過去と現在を往来する眼差しの中に歴史は立ち上がる。

 下界は見えるが山頂の見えない登山のようなものか。

 歴史家は過去の一員ではなく、現在の一員なのです。

 歴史修正主義を見れば一目瞭然だ。

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 まだまだ書き足りないのだが、ひとまず結論を述べよう。既に二日がかりで書いている。

 ここで、歴史における叛逆者あるいは異端者の役割について少し申し上げなければなりません。社会に向って反抗する個人という通俗的な姿を描き出すのは、社会と個人との間に、偽りの対立を再び導き入れることになります。どんな社会にしろ、全く同質的ということはありません。すべての社会は社会的闘争の舞台であって、既存の権威に向って自分を対立させている個人も、この権威を支持する個人に劣らず、その社会の産物であり、反映であります。

 人間は社会的動物であるというよりも社会の産物なのだ。文化や価値観といったところで、最終的には言語と思考に収斂(しゅうれん)される。つまり言葉を親から教わる時点で否応(いやおう)なく社会と関わりを持ってしまうのだ。

 歴史における偉人の役割は何でしょうか。偉人は一個の個人ではありますけれども、卓越した個人であるため、同時に、また卓越した重要性を持つ社会現象なのであります。

 偉人は一個の存在であると共に社会現象なのだ。これは凄い。凄すぎる。

 私が攻撃を加えたいと思うのは、偉人を歴史の外に置いて、突如、偉人がどこからともなく現われ、その偉大さの力で自分を歴史に押しつけるというような見方、「ビックリ箱よろしく、偉人が暗闇から奇蹟の如く立ち現われて、歴史の真実の連続性を中断してしまう」というような見方にほかなりません。今日でも、私は、次に掲げるヘーゲルの古典的な叙述は完璧なものだと考えております。

「ある時代の偉人というのは、彼の時代の意志をその時代に向って告げ、これを実行することのできる人間である。彼の行為は彼の時代の精髄であり本質である。彼はその時代を実現するものである」

 E・H・カーの指摘は複雑系科学とも完全に一致している。特定の個人に光を当てれば当てるほど、その人物は一般人から懸け離れた存在となる。ブッダやイエスを考えるとわかりやすい。彼らをヒューマンファクターとして捉えるのか、それとも現象として捉えるのかという問題だ。大雑把にいえば神はヒューマンファクターで、仏は現象といえる。

歴史が人を生むのか、人が歴史をつくるのか?/『歴史は「べき乗則」で動く 種の絶滅から戦争までを読み解く複雑系科学』マーク・ブキャナン

 近代世界における変化というのは、人間の自己意識の発展にありますが、これはデカルトに始まると言えるでしょう。

 ここからクライマックスに至る。

 現世的社会は教会によって形作られ、組織されていたもので、それ自身の合理的生命を持つものではありませんでした。民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです。近代の歴史が始まったのは、日増しに多くの民衆が社会的政治的な意識を持つようになり、過去と未来とを持つ歴史的実体としてその各自のグループを自覚するようになり、完全に歴史に登場して来た時です。社会的、政治的、歴史的意識が民族の大部分に広がり始めるなどというようなことは、僅かな先進諸国においてさえ、精々、最近200年間のことでした。

 私の意識は吹っ飛んだ。気がついた時はリングの上で大の字になっていた。いや本当の話だよ。

 すなわちデカルトが自我を発明(『方法序説』1637年)し、それ以前の民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」と喝破(かっぱ)している。

 歴史とは自覚的なものなのだ。

 自我と経済が結びついて近代の扉は開かれた。産業革命~資本主義、市民革命~国民国家という構図だ。

 そうすると民主主義という概念は、歴史の主体者であることを民衆に吹き込む思想なのだろう。しかしながら我々は「現象」であることを免れないのだ。カーの見識は自由意志のテーマにも深く関わってくる。

 読書の昂奮極まれり、という一書である。

E・H・カーの『歴史とは何か』再読



歴史という物語を学ぶための教科書
世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
新約聖書の否定的研究/『イエス』R・ブルトマン
ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均
宗教は人を殺す教え/『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
あたかも一角の犀そっくりになって/『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
大衆は断言を求める/『エピクロスの園』アナトール・フランス

2011-09-21

せめて「小銭か微笑みを」


「ペニーか微笑みを」と書かれた段ボールを持つホームレスの男性。1ペニーは1/100ポンドである。現在、円高が進んでおり1ポンドは120円だ。道行く人々は急いでいる。道端に座った男には目もくれないで歩く。少しばかりの善意も当てにできないような世界であれば、彼の心に犯罪の火が点(とも)ってもおかしくはない。見知らぬ人を助けることが、まるでリスクでもあるかのように我々は考えている。無残な世界で人々は、より残酷になることを奨励される。

penny

乞い人
地に臥して乞う者

2011-09-20

どの時代にも転換点がある


「どの時代にも、転換点がある。世界の一貫性を見る、そして、表現する新たな仕方がある」(ジェイコブ・ブロノフスキー)

【『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン:林一、林大訳(草思社、2001年)】

エレガントな宇宙―超ひも理論がすべてを解明する

光と闇、赤と青


 光と闇がせめぎ合い、世界を赤と青に染め上げる。立ち込める霧が沈黙を支配する。手前の木の緑色が辛うじて生の痕跡をとどめている。そして山並みの背後から光の合唱が沸き起こるのだ。

* 2's mt blue breaking *

コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子


『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子

 ・コミュニケーションの可能性

必読書リスト その二

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は神経細胞が徐々に死んでゆく病気(神経変性疾患)で、筋力低下により身体が動かなくなる。進行が早く3年から5年で死に至る。今現在、有効な治療法はない。素人の目には筋肉が死んでいくような症状に見え、筋ジストロフィーと酷似している。

 生老病死(しょうろうびょうし)が倍速で進むのだから、本人にとっても家族にとっても過酷な病気である。

 母の身体だけではなく、私の人生の歯車も狂いだしているとぼんやりと感じられもした。実際、その日(※母から国際電話があった日)を境に私の関心は、子どもたちから日本の母へと移らないわけにはいかなくなった。

【『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子〈かわぐち・ゆみこ〉(医学書院、2009年)以下同】

 川口一家は夫の赴任先であるイギリスで暮らしていた。母親が難病となった以上、帰国しなければならない。自分の負担もさることながら、家族にも新たな負担をかけることになる。子供たちはまだ幼かった。

 ロックトイン・シンドロームという名称は医学用語ではなく、状態を示す言葉である。なかでも、まったく意思伝達ができなくなる「完全な閉じ込め状態」はTLSという別名を与えられていた。

 TLSとは「トータリィ・ロックトイン・ステイト(Totally Locked-in State=TLS)」のこと。私は本書で初めて知った。精神活動が閉じ込められることを意味するのだろう。

 ALSの場合だと最後の砦は瞬(まばた)きや目の動きである。それが失われると次に訪れるのは呼吸停止である。人工呼吸器を装着したとしても最終的に心臓が止まる。意外と見落としがちだが、心臓も筋肉で動いているのだ。

 病いの物語に多数の伏線が生じるのは病人のせいばかりではないし、母ではなく私の物語りも始まってしまうのは仕方がないことなのだ。病人たちの傍らにいるうちに、私の物の見方が変化したために夫が離れていったのである。夫の専業主婦だった私が「変わった」のは間違いではないが、夫も妻の体験にはいっさい興味をもたなかった。

 介護における夫婦の擦れ違いは決して珍しいことではない。熱意があるほど心理的なギャップが生じる。まず現実の問題として時間が奪われる。当然、介護のために別の何かが犠牲となる。その犠牲に対して齟齬(そご)が生じるのだ。例えば子供にとっては弁当を作ることや、参観日に来ることなどが切実な問題と化すケースがある。川口夫妻は後に離婚する。

 強気で生きてきた母親が少しずつ弱音を吐くようになる。

 こうして思い返してみると、母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくはなかったのである。

 病気自体がそもそも矛盾をはらんでいる。因果関係に思いを馳せ、「どうして私が」「なぜ今なのか」となりがちだ。難病や重病になるほど本人が放つメッセージも混乱することが多い。矛盾した言葉から本人の気持ちをすくい取ることは想像以上に難しい。

 筋力が低下する様相を母親はこう語る。

「地底に沈み込むような感じ」
「体が湿った綿みたい」
「重力がつらい」
「首ががくんとする」

 知覚から恐怖が忍び寄る。沈みゆく船の中でじっと浸水を見つめているような心境であろう。そして言葉を失った後の領域を我々は知ることができないのだ。24時間続く金縛り状態、これが「閉じ込め症候群」だ。

 神経内科医のもっとも重要な仕事のひとつに、家族をいかにその気にさせられるか、ということがある。「できる」と思わせるか、それとも「できない」と思わせるかは、その医師の心掛けしだいなのだが。

「人工呼吸器といってもメガネのようなものです」との言葉で装着を決意する。やはり命に関わる仕事には、物語を紡ぐ力が求められる。メガネという軽い言葉の裏側に生命を重んじる態度が窺える。しかしながら、これは結構勇気のある発言で、あとあと「メガネと違いますよね?」とケチをつけられるリスクを含んでいるのだ。それ相当の責任感がなければ言えるものではない。

 それは予想をはるかに超えた重労働であった。介護疲れとは、スポーツの疲労のように解消されることなどない。この身に澱(おり)のように溜まるのである。

 看護師を雇えば、1ヶ月400万円を超す作業を川口は妹と二人で行っていた。介護や看病は労多くして報われることが少ない。実際、「子供なんだから親の面倒をみるのは当然」と考えている親も多く、認知症が絡んでくると虐待に至ることも珍しくない。閉ざされた空間に自分を見失う機会はいくらでも転がっている。介護をしている人たちにも何らかのケアが必要なのだ。

 もっとも重要な変化は、私が病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた。

 諦(あきら)めには2種類ある。達観と無気力だ。後者は関係性を断絶する。我々の価値観は生産性に支配されている。教育も政治も効果が問われる。実際問題として治る見込みのない病人は病院を追い出され、よくなる見通しの立たない障害者のリハビリ治療は打ち切られる。私はこれを「悪しきプラグマティズム」と名づける。

 効用を重んじるあまり、我々はコミュニケーション不能となり、生の重みを見失ったのだ。

 川口の達観は一種の悟りといってよい。わけのわからない哲学よりも遥かな高みに辿り着いている。

 たとえ植物状態といわれるところまで病状が進んでいても、汗や表情で患者は心情を語ってくる。
 汗だけでなく、顔色も語っている。

 私は頬を打たれたような衝撃を受けた。川口が示しているのはコミュニケーションの可能性であったのだ。「コミュニケイト」は「つながっている」ことを意味する。その状態とは理解-共感である。これは理解から共感に至るのではなくして同時であらねばならない。すなわち理解即共感であり共感即理解なのだ。

 コミュニケーションは情報交換から始まる。通常であれば言葉や声のイントネーション、目つき、仕草、顔色、態度、その他諸々をひっくるめた情報を受け取る。ところが川口は「汗」でわかるというのだから凄い。

 やはり、「見る人が見ればわかる」のだ。私の目はまだまだ節穴であることを痛感した。

 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。

 母は病身を通して娘をここまで育てたのだろう。コミュニケーションとはかくも荘厳なのだ。そして理解-共感という悟性がこれほど人生を豊かにするのだ。

 実は証拠がある。

「閉じ込め症候群」患者の72%、「幸せ」と回答 自殺ほう助積極論に「待った」

 健常者からすれば「不自由な身体」に見えるが、実際は精神が身体に束縛されているのかもしれないのだ。自由と不自由は紙一重である。川口は介護という不自由の中から自由な境地を開いた。何と偉大なドラマだろう。12年間に及んだ修行といってよい。

逝かない身体―ALS的日常を生きる (シリーズ ケアをひらく)
川口 有美子
医学書院
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「沈黙の身体が語る存在の重み 介護で見いだした逆転の生命観」柳田邦男
植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達
パソコンが壊れた、死んだ、殺した
ストレスとコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
いちばん大切なことは、コミュニケーションがとれるということ/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』
対話とはイマジネーションの共有/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー
死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
孤独感は免疫系統の力を弱める/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
言葉によらないコミュニケーションの存在/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
介護

2011-09-19

苦渋に満ちた少年の顔


 その瞳に明日は映らない。No Future。もはや泣くに泣けないのだろう。何度も何度も裏切られ、騙(だま)され、殴られてきたに違いない。あらゆる悲惨を知り尽くした老人のような風貌だ。君が生きる過酷な人生に私は寄り添うことすらできない。だから「許してくれ」という言葉は慎もう。ただ、君を心に抱いて今日から生きてゆこう。

I can still feel your pain...

双子のパラドックス


 ニュートンの運動法則は空間内の絶対的位置という概念にとどめをさしてしまった。一方、相対論は絶対時間を排除してしまった。そこで何が起こるか、双児を例にとって考えてみよう。双児の一方が山の上に移り住んでおり、もう一方は海辺にとどまっているとすれば、前者は後者よりも速く齢をとるだろう。したがって二人が再会することがあれば、そのときには一方が他方よりも老いていることになる。この例では年齢の違いはごくわずかだが、双児の一方が光速にほぼ等しい速さの宇宙船に乗って長い旅に出るとすれば、違いはずっと大きくなる。旅から帰ってきたとき、彼は地球に残っていた兄弟にくらべてずっと若いだろう。この現象は双児のパラドックスと呼ばれているが、これをパラドックスと感じるのは実は、心の底に絶対時間の概念が巣食っているからなのである。相対性理論では唯一の絶対時間なるものは存在しない。そのかわりに、個人はめいめいが独自の時間尺度をもっているが、これはその人がどこにいるか、どのような運動をしているかによって決まるのである。

【『ホーキング、宇宙を語る ビッグバンからブラックホールまで』スティーヴン・ホーキング:林一〈はやし・はじめ〉訳(早川書房、1989年/ハヤカワ文庫、1995年)】

Wikipedia
双子のパラドックスについて

ホーキング、宇宙を語る―ビッグバンからブラックホールまで (ハヤカワ文庫NF)

2011-09-18

シンボルは真実ではない/『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ


 ・シンボルは真実ではない
 ・真実在

ジドゥ・クリシュナムルティ(Jiddu Krishnamurti)著作リスト 2

 書籍タイトルはクリシュナムルティ・トラップである。ブッダの動執生疑(どうしゅうしょうぎ/執着している心を揺り動かし、疑問を生じさせる化導〈けどう〉方法)と同じ仕掛けだ。

 私自身は神の存在をこれっぽっちも信じていないし、いたとしても会いたくはないね。だって、こんな無責任な世界をつくった張本人だよ。植木等にも劣る野郎であることは間違いない。

 しかし西洋を中心とする世界は神を中心に動いている。どんなに神と無縁な生活をしていても、西洋的価値観は我が身に降りかかってくる。それが汚染だとしても、現実理解のためにキリスト教を学ぶことは欠かせないのだ。

 そして本書は洋の東西を問わず、宗教に関わっている者であれば必読のテキストで何らかの応答を求められる。

 永遠不滅なるものを見出すためには、伝統や過去の経験や知識の集積である時間から、自由でなければならない。それは、何を信じるか信じないかといった、未熟でまったく子供じみた質問ではない。そんなことは、本質的な問題とはまったく関係ない。本当に発見したいと願っている真剣な心は、孤立した自己中心的な活動をすっかり放棄し、完全に独りである状態になるだろう。美しさ、永遠なるものの理解が実現されるのは、この、完全な独りである状態においてのみである。
 言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではないので、危険なものである。言葉は意味、概念を運ぶが、しかし言葉はそれが指し示すものではない。したがって、わたしが永遠なるものに関して語るとき、もしわたしの言葉に影響されたり、その信仰に囚われたりするだけならば、それはとても子供じみていると理解しなければならない。
 永遠なるものが存在するかどうかを発見するためには、時間とは何かを理解する必要がある。時間とは最も厄介な代物だ。年表的時間、時間ではかれる時間のことを言っているのではない。どちらも目に見え、必要なものである。ここで話しているのは、心理的継続としての時間である。この継続性なくして生活できるだろうか? 継続性を与えるものは、まさしく思考である。もし何かを絶えず考えるとすれば、それはひとつの継続性をもつ。もし妻の写真を毎日眺めるとすれば、それにある継続性を与えることになる。
 この世で、行動に継続性を与えることなく生き、結果として、すべての行動にあらためて初めて出会うといったことが可能だろうか? すなわち、一日中のすべての行動のたびに精神的に死に、その結果、心は過去をけっして蓄積することも、過去から汚染されることもなく、つねに新しく、新鮮、無垢であることができるだろうか? そのようなことは可能であり、人はそのように生きることができる。しかし、それがあなたにとっても本当だという意味ではない。あなたは、自分自身で発見しなければならない。

【『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ:中川正生〈なかがわ・まさお〉訳(めるくまーる、2007年)以下同】

 最初のパラグラフがわかりにくいことだろう。以下の記事を参照されよ。

ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

「言葉はシンボルであり、シンボルは真実ではない」――まず、ここが難所である。普通に読めば理解できるはずだ。ところが宗教者は教義(=言葉)に支配されているため納得することができない。

 まず大前提として言葉は同じ世界にいる人にしか通用しない。方言や外国語など。

 もっとわかりやすいのは赤ん坊だろう。彼らに言葉は通じない。耳の不自由な人に声は届かない。別の形の――読唇術および手話――情報が必要となる。

 言葉が示すのはイメージ情報である。「私」という言葉には、69億6420万7416人分(17:05現在)のイメージ情報がある。つまり私がいうところの「私」と、あなたが思うところの「私」は別物なのだ。

 とすると人の数だけ神仏が存在していると考えてよかろう。無数のイメージが神仏という言葉に収まる。

 次にシンボル。シンボルといえば偶像崇拝である。宗教的な偶像は仏像を始め、十字架イコン聖骸布(せいがいふ)、遺骨、マンダラなどがある。イワシの頭も含む。

 シンボルは当のものではない。象徴、表象は氷山の一角と考えるべきだろう。ハーケンクロイツはナチス党のシンボルであるがナチス党そのものではない。

 悟りの内容を言葉にしたものが経典で、図像化したものがマンダラであるが、それらは悟りそのものではない。しかし宗教者は自ら勇んで言葉の奴隷となる。

The book..

 宗教は言葉のレベルに転落した。それが証拠に宗教という宗教は皆、教義の古さ、緻密さを競い合っているではないか。たぶん宗教は考古学となったのだろう。

「神」と綴った紙を壁に貼ってみよ。拝む人々が増えれば、そこに神が存在する。これは明らかな幻覚、錯覚である。ま、「始めに言葉ありき」という論法でゆけば、神という言葉をつくった時点で神の勝利なのかもしれない。

 時間については以下の各ページを参照されよ。

時間

 すでに話したように、言葉、シンボルは、実在ではない。「木」という言葉は、実際の木ではない。したがって人は、言葉に捕らえられないように十分用心しなければならない。言葉、シンボルから自由なとき、心は驚くほど敏感になり、ものを発見する状態になる。

 とすれば、真の宗教を求める者は一度教義から離れることが必要だ。言葉に対するイメージを一掃しなくてはならないからだ。イメージは想起できるゆえに過去なのだ。まったく新しいものはイメージすることができない。そして完全に過去を死なせた時、そこに「新しい生」が流れ始める。

 衝撃的な一書である。



Jiddu Krishnamurti at a public address in California. It is his eighty-fifth birthday..

教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン

2011-09-17

世界情勢を読む会、矢野絢也


 2冊読了。

 63冊目『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会(日本文芸社、2004年)/息抜きのつもりで読んだのだが予想以上に面白かった。確かに裏面史ではあるが内容は硬派。経済的なつながりが浮き彫りにされており、ニュースの裏側がわかる仕組みとなっている。モンサント社に関する記述もあり、もっと早く読むべきであったと反省。

 64冊目『「黒い手帖」裁判全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)/前著の『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』と大半が重複した内容。高裁で逆転判決が出て矢野側が勝訴したので出版に至ったのだろう。内容的には前著の方が優れている。公明党OBである大川清幸〈おおかわ・きよゆき〉元参議院議員、伏木和雄〈ふしき・かずお〉元衆議院議員、黒柳明参議院議員の3名が、矢野から100冊を超える手帳を強奪したことが明らかになった。また幾度となく創価学会の幹部複数名が億単位の寄付を強要している。

No Future


 未来はない。

No Future

私にとって人工呼吸器は機械ではありません


 私にとって人工呼吸器は機械ではありません。体の一部です。私は呼吸器は機械だとまったく思っていません。
 呼吸器使用者には呼吸器との相性があるのです。以前使っていた呼吸器では、血中濃度の科学的データが正常であるにもかかわらず、苦しいということがありました。現在使っている機械に変えたところ、食欲もわき、一年間で体重が10キロも増えました。おそらく目に見えない呼気波形や呼吸パターンの違いがあるからでしょう。また、使っているうちに、カフや換気量を調節することで、食べる時以外はしゃべれる状態をつくれることがわかってきました。
(※「第4回北海道在宅人工呼吸研究会」での発表原稿より)

【『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史〈わたなべ・かずふみ〉(北海道新聞社、2003年)】

こんな夜更けにバナナかよ

フランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュ、エヴァン・トンプソン


 1冊挫折。

身体化された心 仏教思想からのエナクティブ・アプローチ』フランシスコ・ヴァレラ、エレノア・ロッシュ、エヴァン・トンプソン:田中靖夫訳(工作舎、2001年)/チンプンカンプンで、お手上げ。言葉遣いから文体に至るまで肌に合わず。オートポイエーシスの手引き書と考えていただけに他を探す必要あり。

宇宙図の悟り

宇宙図

宇宙図

 前にも書いたが、上記ページのアニメーションを見て私は悟りが閃(ひらめい)いた。直ちに科学技術広報財団に申し込んだのが画像の宇宙図である。

科学技術広報財団(サイズは2種類)

 見るたびに脳が活性化される。137億年を俯瞰するのだからそれも当然だ。最初の悟りを再掲しておく。

時間と空間に関する覚え書き

◆では、宇宙図を見て閃いた悟りを開陳しよう(笑)。視覚が捉えている世界は「光の反射」である。光には速度がある(秒速30万km)。つまり我々に見えているのは「過去の世界」であって「現在という瞬間」を見ることはできない。

◆更に人間の知覚は0.5秒遅れる。つまり「光の速度+0.5秒」前の世界を我々は認識しているわけだ。

人間が認識しているのは0.5秒前の世界/『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』池谷裕二

◆例えば北極星。地球上から見える北極星の光は431光年を経たものである。仮に北極星でサッカーの試合をしたとしよう。コイントスが終わっていよいよゲームが始まる。この場合、431年前のゲームを我々が見ていることになる。

諸行無常とは存在の本質を示した言葉であろう。「とどまることを知らない変化」こそが存在の存在たる所以であり、それが生命現象である。しかしながら我々の視覚に映じているのは過去の世界であるがゆえに、「存在の影(あるいは迹〈かげ〉)」しか認識できない。

◆「神」という視点は光に支えられた座標なのだろう。それは「見える世界」に限定される。そうでありながら光の源である太陽を人間は直視することができない。「見えるもの」には名が付与される。言葉は名詞から発生したと考えられている。神は光であるがゆえに「初めに言葉ありき」という構図ができる。

◆相対性理論は空間と時間が絶対ではないことを明かした。例えば光のスピードで走る車をあなたが道路で眺めたとしよう。車内の人達は全く動いておらず、彼らの周囲にある物は全て縮んで見える。車の中では普通に時間が進行しているにもかかわらずだ。

◆車を運転していたのは浦島太郎だった。首都「光速」道路で竜宮城へ行き、3年後に自宅へ帰ったところ、何と300年が経過していた。これを「ウラシマ効果」という。

◆実は我々の生活にもウラシマ効果は存在する。

相対性理論によれば飛行機に乗ると若返る/『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン

◆神が光であると仮定すれば、神的世界は光の届く範囲に限定される。そして光は必ず影をつくり出す。なぜなら物体が光をさえぎるからだ。こうして光は「表と裏」という世界を形成する。地球が太陽に照らされる時、光と同じ速度で地球の影は宇宙に伸びる。その先にも闇は広がっている。

◆宇宙全体に光が及ぶことはない。なぜなら宇宙は光速度を上回るスピードで膨張しているからだ。

宇宙にはてはあるのですか?

◆光に支配されたキリスト教的時間観は直線的とならざるを得ない。生→死→復活→永遠、というのがそれだ。これでは系(システム)として閉じていないので必ず矛盾が生じる。

キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典

◆仏教は現在性を追求している。仏典においては「将来」ではなく「未来」という言葉が使われる。「将(まさ)に来たらん」とする時間ではなく、「未(いま)だ来たらざる」時間として捉える。厳密にいえば仏教は未来を認めていないのだ。

◆ブッダが説いた原始の教えはプラグマティズムと受け止められがちだが、むしろ現在性を重んじた智慧であったと考えるべきだろう。カースト制度を支える輪廻という物語を解体するには、前世・来世を一掃する必要があった。悟りとは修行の果てに得られるものではなく、ありのままの現在性を捉えることだ。

◆光の速度を超えると虚数の世界が現れる。2乗してマイナスとなるのが虚数だ。量子力学や電磁気学では実際に使われている。膨張する宇宙の果てが虚数の世界であれば、そこはネガとポジが反転する世界だ。生老病死も反転し、光速度を超えた時点で過去へと向かい、久遠元初に辿り着くかもしれない。

◆実際は光速度に近づくほど質量は無限に重量を増す。これがE=mc²。質量が無限大の世界といえばブラックホールだ。地球を2cmに圧縮すればブラックホールが出来上がる(※実際は質量不足で不可能)。そしてブラックホールを取り巻く空間は激しく歪む

◆物理世界における光速度を超えるのは、無意識の直観であり、これこそが悟りなのだろう。

敢えて“科学ミステリ”と言ってしまおう/『数学的にありえない』アダム・ファウアー
月並会第1回 「時間」その一
ブラックホールの画像と動画

2011-09-16

法華経と同じ物語構造/『介子推』宮城谷昌光


『天空の舟 小説・伊尹伝』宮城谷昌光
『管仲』宮城谷昌光
『重耳』宮城谷昌光

 ・法華経と同じ物語構造

・『沙中の回廊』宮城谷昌光
『晏子』宮城谷昌光
・『子産』宮城谷昌光
『湖底の城 呉越春秋』宮城谷昌光
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『青雲はるかに』宮城谷昌光
『奇貨居くべし』宮城谷昌光
『香乱記』宮城谷昌光
・『草原の風』宮城谷昌光
・『三国志』宮城谷昌光
・『劉邦』宮城谷昌光

 重耳〈ちょうじ〉こと文公は春秋時代の覇者となり、従者の介子推〈かいしすい〉は後漢の時代に神となった。

 読むのは二度目である。棒術の威丈夫といった淡い記憶しか残っていなかった。『重耳』を読んで初めて介子推を理解した。やはり書物には順序というものがある。まず『重耳』を開いてから後に本書を求めるのが正しい。

占いこそ物語の原型/『重耳』宮城谷昌光

『介子推』は『重耳』の余滴(よてき)である。著者は「つらい、とつぶやいて何度か泣いた。そういう体験をもつのは、この小説がはじめてであり、もうないかもしれない」とあとがきに記している。史実は少ない。だが宮城谷は書かずにはいられなかった。棒術の達人というのも創作である。

 つまり介子推という人物は、数千年を経てもなお想像力を掻き立ててやまない存在感があることになろう。人はそれを「魂」と呼ぶ。

 物語は前半と後半に分かれる。前半ではファンタジー的手法を駆使して教育が描かれている。

 だが、石遠〈せきえん〉はちがう。
 屋根をみあげて、草が腐ってきたかな、などという。甕(かめ)の破片を手にとり、土のこねかたが浅かったのだろう、などという。そういう感想のひとつひとつは、たとえば、
 ――形のあるものは、かならずこわれる。
 というような、あきらめにも似た認識からは遠く、ものごとをかならず人の営為のなかでとらえ、人の工夫や努力の足りなさを訴えているようにきこえた。
 おなじことばではないが、そのようなことを介推〈かいすい〉は母にいったことがある。すると母は、
「ああ、石〈せき〉さんは、人の限りということがわかっている人ですね」
 と、即座にいった。
 このこたえのほうが、介推にはむずかしかった。

【『介子推』宮城谷昌光〈みやぎたに・まさみつ〉(講談社、1995年/講談社文庫、1998年)以下同】

 見事な導入部である。技術が棒術へと結びつき、生の術=生きる流儀をも示す。この一文が本書全体のストーリーを見事に象徴している。

 村に住む男性が虎に食われる事件が起こる。介推は人知れず虎を討つことを決意する。水を汲(く)みに山へ何度か足を運んでいると仙人のような老人が現れた。老人は「霊木(れいぼく)を探し、その枝を削り、虎を撃て」と命じた。

 棒を手にした介推は、これまで感じたことのない不安をおぼえた。
 虎と戦うことが怖いということではない。
 棒がかるいのである。
 その棒をつかむと、自分まで地から浮きあがりそうに感じる。棒から手をはなすと、自身の体重にもどる。その奇妙さが介推に大いに不安をあたえた。

 介推はまだ子供であった。体重の変動は自我の脆(もろ)さを表現したものだ。棒を扱うだけの技量が彼にはまだなかった。

 あてはない。
 あの老人があらわれるのを待つだけである。
 介推は一昼夜を山中ですごした。
 ――わたしは耳がよくなったのか。
 と、介推は耳に手をあててみた。物音がくっきりときこえる。耳をふさいでみても、物音が小さくなったという感じはしない。
 ――棒のせいであろうか。
 と、おもい、棒をはなしてみても、その感覚に変化はない。

 目が集中力であるのに対して、耳は注意力である。介推は変わった。そして世界も同時に変わった。

 翌日も、山中をさまよっただけでおわった。
 だが、介推は自身が新鮮に洗われたという感動をおぼえた。
 生きている者は、音を発する。
 風に揺れる木も草も、岩清水でさえも、生きている。山中で起居していると、山の呼吸と同化してゆく。その呼吸は、人だけがよりあつまっている里にはないもので、ゆったりと大きく、また深いものである。
 ――あの虎は、この調和を乱している。
 いろいろなものがよりあつまって山はできている。山は和音そのものだといってよい。虎はその和音を破壊しているにちがいない。

 学ぶ意味が巧みに描かれている。本質を見抜く力こそ学問の証であろう。介推は老人と自然から生の本質を学んだ。そして遂に虎を退治する。彼はその偉業を黙して語ることがなかった。

 荒唐無稽と思えばそれまでなのだが、実は法華経の構成と似ている。法華経は霊山会(りょうぜんえ)と虚空会(こくうえ)という二つの場所で説かれる。前者を歴史的次元、後者を本源的次元と捉えることが可能だ。虚空会を文字通り空中と考えれば、単なるSFになってしまう。しかしブッダの悟性の内部世界を描いたものと弁えれば、さほど違和感は覚えない。

 つまり介推のエピソードは事実であるか否かではなく、成長の変化を物語化したものと受け止めるべきなのだ。

 そして介推は重耳の従者となる。19年に及ぶ放浪につき従い、幾度となく重耳の危難を防いだ。遂に刺客である閻楚〈えんそ〉と対決する。

 舎(いえ)にむかう介推のからだのなかに、異常な高鳴りがある。
 閻楚〈えんそ〉の剣を棒でうけたとき、
 ――重公子〈ちょうこうし〉とは、それほどの人か。
 と、実感した。それほどの人というのは、このようなすさまじい剣で狙われる人、ということで、重耳〈ちょうじ〉が存在する尊さというものを、かえってその剣がおしえてくれた。
 ――重公子を守りぬいてやる。
 介推のからだ全体がそう叫んでいた。

 これぞ物語の妙というもの。互いの命を奪い合う格闘の中から見事なコミュニケーション領域を描いている。人と人とが出会うとはこういうことなのだろう。

 介推は無名のままであった。ある時、太子昭〈たいししょう〉という人物を暗殺者の手から救った。この時も介推は尋ねられても決して名乗らなかった。介推の賢明さを見抜いた太子昭は心で呟いた。「これほどの男を賤臣にしたままの主人とは、よほど暗愚な者であろう」と。

 物語はクライマックスを迎える。咎犯〈きゅうはん〉の舌禍ともいうべき事件が起こる。

 このやりとりを、たまたま介推は近くでみていた。
 ――公子はまだ君主になっていないのに、咎犯〈きゅうはん〉はもう賞をねだっている。
 そうみえた。

 重耳は功を遂げようとしていた。咎犯〈きゅうはん〉は一計を案じて古くからの従者を重んじるよう画策した。介推の瞳にはこれが邪(よこしま)なものとして映った。介推に言わせれば、重耳の成功は天命であって配下が誇る性質のものではない。自らの功績を誇示し、報酬を無理強いする咎犯〈きゅうはん〉を介推は許せなかった。

 下(しも)はその罪を義とし、上(かみ)はその姦(かん)を賞し、上下(しょうか)あい蒙(あざむ)く。

 介推がそういったとき、母は、
 ――ああ、この子はまだ閻楚〈えんそ〉と戦っているのだ。
 と、察した。下は臣下のことである。臣下は自分の罪を義にすりかえた。しかも上、すなわち君主はその姦邪(かんじゃ)を賞した。それでは臣下と君主とがあざむきあっていることになる。
「そういう人々がいるところに、わたしはいたくないのです」
 口調は激しくないのだが、強いことばである。

 介推はあまりにも清らかだった。主従の関係に政治を差し挟むことを嫌悪した。

 組織というものは大きくなるにつれて官僚を必要とする。清流は海へと向かう中で必ず大河となって濁る。介子推はその濁りを鋭く察知し忌避したのだろう。どんな世界でも現場を支えているのはこういった人々だ。

 この件(くだり)を読んで、ボクサーの大橋秀行を思い出した。

リング上での崇高な出会い/『彼らの誇りと勇気について 感情的ボクシング論』佐瀬稔

 一つだけケチをつけると、閻楚〈えんそ〉が重耳に介推の功績を語るシーンが曖昧で、『重耳』を読んでいないとストレスを覚えてしまう。著者の気持ちが昂っていたためと善意に解釈することは可能だが、拍子抜けの感は拭えない。


重耳・介子推

弱肉強食


 競争原理の本質は弱肉強食である。ほら、あなたと私も写っているよ。隙(すき)あらば弱いものを押しのけるのが我々の流儀だ。

wolf

フランス領ルイジアナを買収


 ところが、事態はまったく思いがけない方向に進んでしまった。ナポレオンはタレーラン外相を通じて、もっと大きな買い物を提案した。つまりフランスがスペインから返還してもらったばかりの、フランス人がルイジアナとよんでいたミシシッピ川以西の広大な土地を、アメリカ人に買う意志がないかといってきたのである。これはモンローがパリに着く直前のことで、駐仏大使ロバート・リヴィングストンはこの申し出を聞いて仰天した。そしてナポレオンの気が変らないうちにこの驚くべき提案を受け入れるよう、ジェファソン大統領に手紙を書いた。
 こうして1803年4月、どこまで広がっているのか分からないほどの土地ルイジアナを、1500万ドルという金額、後年計算した結果では1エーカー(約4000平方メートル)あたりわずか3セントという値段で、買いとることになったのである。ヨーロッパ人が北米に植民を開始してからまもない1626年には、オランダ人が今のニューヨークのマンハッタン島を、せいぜい40ドル程度の値段で原住インディアンたちと物々交換し、後に「史上最大のバーゲン」とよばれたが、このルイジアナもまた、これに劣らない大バーゲンだったといえるのではないだろうか。というのは、このためアメリカの領土は一挙に2倍にまで拡大されることになったからである。

【『西部開拓史』猿谷要〈さるや・かなめ〉(岩波新書、1982年)】

西部開拓史 (岩波新書)

ルイジアナ買収

猿谷要、ソル・フアナ、ギャズ・ハンター


 3冊挫折。

西部開拓史』猿谷要〈さるや・かなめ〉(岩波新書、1982年)/アメリカ先住民に関する記述が少ないのでやめた。モルモン教についても触れている。

知への賛歌 修道女フアナの手紙』ソル・フアナ:旦敬介〈だん・けいすけ〉訳(光文社古典新訳文庫、2007年)/文章が肌に合わず。220ページの本で解説が50ページというのもどうなのかね?

SAS特殊任務 対革命戦ウィング副指揮官の戦闘記録』ギャズ・ハンター:村上和久訳(並木書房、2000年)/以前から読みたかった本だったが見事な肩透かしを食らった。幼少時の体験を読むとわかるが、明らかに境界性人格障害である。友達が怪我をしたり、亡くなった場面が綴られているが、完全に罪悪感を欠いていて胸が悪くなった。

2011-09-15

進化医学的視点の欠落/『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン


「スティグマ」とは烙印の意。奴隷や家畜に押される焼き印を指すが、英語にはイエスの聖痕の意味もあるようだ。つまり、この言葉には二重の憎悪が仕込まれていると考えてよい。

 わかりにくい本であった。合理性の極まるところに数学が生まれ、悟性から発せられた言葉が詩であるとすれば、どちらからも遠い位置に本書はあると思う。で、翻訳も多分よくない。

 哲学的な慎重さに私のような一般人は耐えることができない。江戸っ子は気が短いのだ。

【スティグマ】という言葉を用いたのは、明らかに、視覚の鋭かったギリシア人が最初であった。それは肉体上の徴(しるし)をいい表す言葉であり、その徴は、つけている者の徳性上の状態にどこか異常なところ、悪いところのあることを人びとに告知するために考案されたものであった。徴は肉体に刻みつけられるか、焼きつけられて、その徴をつけた者は奴隷、犯罪者、謀叛人──すなわち、穢れた者、忌むべき者、避けられるべき者(とくに公共の場所では)であることを告知したのであった。

【『スティグマの社会学 烙印を押されたアイデンティティ』アーヴィング・ゴッフマン:石黒毅〈いしぐろ・たけし〉訳(せりか書房、2001年)以下同】

 烙印の権力構造である。罪を犯した者につけられる負の表象。去勢したり、鼻を削ぐのも同様で「差別のサイン」が見て取れる。

 社会は、人びとをいくつかのカテゴリーに区分する手段と、それぞれのカテゴリーの成員に一般的で自然と感じられる属性のいっさいを画定している。さまざまの社会的場面(セッティング)が、そこで通常出会う人びとのカテゴリーをも決定している。状況のはっきりした場面では社会的交渉のきまった手順があるので、われわれはとくに注意したり頭を使わなくても、予想されている他者と交渉することができる。したがって未知の人が面前に現われても、われわれは普通、最初に目につく外見から、彼のカテゴリーとか属性、すなわち彼の〈社会的アイデンティティ〉を想定することができるのである。

 だから西部劇に登場する保安官はよそ者にうるさいわけだ。わからない者は映画『ランボー』を見よ。

 相手の人にわれわれが帰属させている性格は、予想された行為から顧みて(in potential retrospect)行なわれる性格付与──すなわち〈実効をもつ〉性格づけ、すなわち【対他的な社会的アイデンティティ】(a virtual sosial identity)とよぶのがよかろう。

 人は見かけで判断する。そんなに小難しくいう必要はない。

 未知の人が、われわれの面前にいる間に、彼に適合的と思われるカテゴリー所属の他の人びとと異なっていることを示す属性、それも望ましくない種類の属性──極端な場合はまったく悪人であるとか、危険人物であるとか、無能であるとかいう──をもっていることが証明されることもあり得る。このような場合彼はわれわれの心のなかで健全で正常な人から汚れた卑小な人に貶(おとし)められる。この種の属性がスティグマなのである。ことに人の信頼/面目を失わせる(discredit)働きが非常に広汎にわたるときに、この種の属性はスティグマなのである。この属性はまた欠点/瑕疵(かし)、短所、ハンディキャップともよばれる。スティグマは、対他的な社会的アイデンティティと即自的な社会的アイデンティティの間のある特殊な乖離を構成している。

 言いたいことはわかる。わかるんだけどさ、進化医学的視点が欠落してんのよ(『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス)。「望ましくない種類の属性」の最たるものは疫病(えきびょう)なのだ。それを文化面からしか考えていないから、難解な思考の虜になっているのだろう。

 そこでスティグマという言葉は、人の信頼をひどく失わせるような属性をいい表わすために用いられるが、本当に必要なのは明らかに、属性ではなく関係を表現する言葉なのだ、ということである。

 別に「レッテル」で構わないんじゃないの? バブル経済に向かう途中くらいから「価値観の多様化」といわれるようになった。そしてバブルが崩壊すると今度は「『らしさ』が失われた」と喧伝された。ただし、ステレオタイプの否定は風潮として残っている。

 これには重大な見落としがあって、脳機能(=思考、言語)がアナロジーから生まれたものであるならば、カテゴリー化は避けられないのだ。それゆえ、カテゴライズの正しいあり方を模索するのが合理的だと私は思う。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 更に異なる思想や文化を学ぶ作業が求められよう。本当は義務教育からきちんとやるべきなんだけどね。

 たとえば精神疾患の病歴がある人たちは、配偶者とか雇主と感情的に激しく衝突するのをまま恐れる。というのは、感情を表出すると、それが精神疾患の徴候とされるのではないかという懸念があるからである。精神的に障害のある者も同様の偶発的問題に直面する。

 知的能力が低い者が何らかの面倒に巻き込まれると、その面倒は多かれ少なかれ自動的に〈知的障害〉に起因するものとされるが、〈通常の知能〉の人が似たような面倒に巻き込まれても、とくにこれといった原因の徴候とは見られないのである。

 弱者不利の原則。うしろゆびさされ組。クラスの嫌われ者には無数の仇名が与えられる。

 そう考えると「見られること」を強く意識する日本人には弱者傾向があるのかもしれない。世間体、見栄坊、名を惜しむ、武士は食わねど高楊枝。

 もともと差別主義者である欧米の連中の差別に関する論考は欺瞞の匂いが強い。「新しい共同」といった言葉も同様だ。共産主義みたいな悪しき人為性を感じてならない。

【付記】原書は1963年の発行であった。進化医学は知らなくて当然である。著者は黒人の公民権運動を見つめていたのだろう。

スティグマの社会学―烙印を押されたアイデンティティ

青黒く鈍い光を放つ蒸気機関車


「Engine 142」と題されている。鉄道には殆ど興味を覚えないが、この機関車の風貌には惹かれる。先頭車両が後続を率いてゆくところが、父系社会の頑固親父を想わせる。ほとばしる蒸気は闘牛の吐息のようだ。シュッシュッというスタッカート音が聞こえてくる。運転をする男性の無骨さが、またいい。

Engine 142

Blue Iron

矢野絢也


 1冊読了。

 62冊目『黒い手帖 創価学会「日本占領計画」の全記録』矢野絢也〈やの・じゅんや〉(講談社、2009年)/元公明党委員長による告発手記。非常に抑制された筆致で淡々と綴っているため一定の説得力がある。タイトルに難あり。「日本占領計画」とは大袈裟すぎる。矢野は北海道で土地転がしを行ったとして公明党支援者から訴えられているが、それについては一言も触れられていない。でもまあ色々な意味で面白かった。ちなみに矢野の子息は現在、仙谷由人(民主党)の秘書を務めている。

2011-09-14

線路と電線の幾何学模様


 ドイツのケルン中央駅。線路が川のようにうねり、波紋すら見えてくる。更に雑然とした電線が実にいい味を出している。正確なダイアを支える幾何学模様が何とも不思議。線路には詩情がある。去る人と訪れる人を乗せて今日も列車は走る。

Net

米国:中東担当特使を再派遣へ パレスチナ国家承認協議で


 クリントン米国務長官は13日、パレスチナが目指している国連での国家承認についてパレスチナ側などと協議するため、先週中東を訪問したヘイル中東和平担当特使を再び同地域に派遣することを明らかにした。国務省で記者団に語った。
 クリントン氏は「永続する解決に至る唯一の道は関係者間の直接交渉だ」と述べ、パレスチナが国連で国家承認を求めることを諦め、イスラエルとの交渉に戻るよう要求した。
 ヌーランド国務省報道官によると、ヘイル氏は14日と15日にイスラエルのネタニヤフ首相やパレスチナ自治政府のアッバス議長とそれぞれ会談する。(ワシントン共同)

毎日jp 2011-09-14

 アメリカがイスラエル寄りの動きを見せている。

デジタル・コンピューターの回路やバイクの変速ギアのなかにも真理が宿っている


 ブッダや神が花びらや山の頂に住んでいるのと同じように、デジタル・コンピューターの回路やバイクの変速ギアのなかにもそのまま真理が宿っているのである。そう考えなければ、ブッダの品位を汚すことになる――それはとりもなおさず自分自身を卑しめることにほかならない。

【『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ:五十嵐美克〈いがらし・よしかつ〉(めるくまーる、1990年/ハヤカワ文庫、2008年)】

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

J・クリシュナムルティ、アラン・W・アンダーソン


 1冊読了。

 61冊目『生の全変容』J・クリシュナムルティ、アラン・W・アンダーソン:大野純一訳(春秋社、1992年)/高価であったため入手が遅れた。定価が3200円とは知らなかった。サンディエゴ州立大学の宗教学教授との対談である。やはり対談はわかりやすい。大学教授の馬鹿っぷりが強烈だ。最後の最後まで聖書を始めとする諸々の文献を引用している。だがクリシュナムルティは相手を選ぶことがない。誰であろうと率直に語りかけている。実に素晴らしい内容で付箋だらけになってしまった。クリシュナムルティ本はこれで49冊目。

2011-09-13

喝采なき舞台で会釈を


 観客のいない舞台。彼女が会釈するのは記憶に収まる過去の客であろうか。あるいは明日の客であろうか。それとも……。後ろ姿にはその人の生きざまが現れる。前は繕(つくろ)えるが後ろは誤魔化しようがない。顔は鏡で確認できるが背中を見ることはできない。喝采なき舞台の静かな佇(たたず)まいが深い余韻を残す。

Curtsey

歌が生まれる場所


このストリートミュージシャンがすごい

 いやあ、これは凄い。世界各地のストリートミュージシャンが紹介されているが実に楽しい。目の前にいる人に楽しんでもらおうという心意気が、コマーシャリズムとは無縁の豊穣さを伝える。

 ただ歌わずにいられない、リズムを掻き鳴らさずにはいられないといった衝動が聴く者の何かを揺さぶる。河原乞食や大道芸との言葉が示すように、本来の芸能は何もないところから誕生した。

 彼らにとって教則本や技術は関係ない。ひたすら陽気に音を楽しむだけだ。その自由な魂に心を打たれる。

 私は見た。歌が生まれる場所を。

 果たして我々の生活には電気信号以外の音楽が存在するだろうか? 何か大きなものをテクノロジーに奪われたような気がしてくる。

 パキスタンの少年の歌は日本の節回しとよく似ていて驚かされた。

タルキ・アル=ファイサル王子がNYtimes紙に寄稿


パレスチナの国連加盟問題、米国が拒否権発動を初めて明言
9.11から10年狙った「信頼できる」テロ情報、米 警戒強化を指示

幸せは非常に脆いもの


 諸君もわかっていることと思うが、幸せというのは、非常に脆(もろ)いものだ。なぜなら、不幸がきちんとした基盤を持った確固たる具体的事実であるのに比べて、幸福は基本的には根拠も実態もない、「幸福感」という頼りのない気分であるに過ぎないからだ。

【『「ふへ」の国から ことばの解体新書』小田嶋隆(徳間書店、1994年)】

「ふへ」の国から ことばの解体新書

2011-09-12

ブラックホールの画像と動画

Baby Black Hole (NASA, Chandra, 06/15/11)

DC890 - Black Hole

Black Hole

Supermassive black hole eating matter

A Black Hole Overflows (NASA, Chandra, 2/2/09)

Black Holes Haunted by 'Ghosts' (NASA, Chandra, 5/28/09)

Black Holes May Shape Galaxies (NASA, Chandra, Hubble, 03/03/10)

Detail: Black Hole Blows Big Bubble (NASA, Chandra, 07/12/10)

Black Holes are 'Survivors' (NASA, Chandra, Hubble, Spitzer, 04/29/10)

Black Hole in Galaxy M81












我々は闇を見ることができない/『暗黒宇宙の謎 宇宙をあやつる暗黒の正体とは』谷口義明
素粒子衝突実験で出現するビッグバン/『物質のすべては光 現代物理学が明かす、力と質量の起源』フランク・ウィルチェック
1ビットの情報をブラックホールへ投げ込んだらどうなるか?/『ブラックホール戦争 スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い』レオナルド・サスキンド

ロバート・M・パーシグ


 1冊挫折。

禅とオートバイ修理技術(上)』ロバート・M・パーシグ:五十嵐美克〈いがらし・よしかつ〉(めるくまーる、1990年/ハヤカワ文庫、2008年)/オートバイでツーリングをしながら哲学するといった趣向だ。友人夫妻や自分の息子との会話を通して内面世界を掘り下げている。友人夫妻があまりにも無礼なのと、息子の先鋭的なわがままにうんざりして読むのをやめた。アメリカ人は有色人種とあらば手当たり次第に殺すのだが、家族に対しては異様に配慮する傾向がある。

M・C・エッシャー「描く手」

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騙される快感/『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル

ポスターMC エッシャー 描く手 額装品WBフレーム(ホワイト)

エッシャーの宇宙エッシャー・マジック―だまし絵の世界を数理で読み解く無限を求めて―エッシャー、自作を語る (朝日選書)M.C.エッシャー CONTRAST [DVD]

美しき合掌
手の表情

2011-09-11

一般相対性理論と宗教


 アインシュタインが一般相対性理論を発表したのは1916年(大正5年)のこと。これによって時間と空間の絶対性は完全に崩壊した。物理世界の概念が変わった時点で全ての宗教は教義を変更すべきであった。アインシュタインはたった一人で世界を変えてしまったのだ。相対性理論は宗教的絶対性をも葬ったと私は考える。既に1世紀近くを経ているが、そんなことにも気づいていない教団が殆どだ。つまり宗教は過去の遺物と化したのだ。

花火満開



【ニューフェニックス 2010年8月3日 長岡花火】


【長岡花火 2008 天地人花火】


【天地人花火 2011年8月3日 長岡花火】


【男鹿日本海花火 2010 花火交響曲「仮面舞踏会」よりワルツ】


【2009 大曲全国花火競技大会 準優勝「ノクターン」】


【2010 大曲の花火 大会提供花火「挑戦」】

去りゆく季節への哀感/「夏の終わり」SION




東京ノクターンSION 20周年記念ライヴ~since1985.10.15~ [DVD]


歌詞

 好きなものについて書くのは中々難しい。ともすると「ただ好きなんだ」となってしまいがちだ。批評には一定の距離感が求められる。その意味で私が書く書評やレビューは感情に走り過ぎるきらいがある。

 SIONは以前から知っていたが、胸に突き刺さるようになったのは「同じ列車に乗ることはない」(『住人 Jyunin』収録)という曲を聴いてからのことだ。

 同じ頃からTha Blue Herbも聴くようになった。両者に共通するのは岩をも砕くような振動の力だ。私は耳をひねり上げられているような心情になるのが常だ。

 八王子では昨日からツクツクボウシが鳴き始めた。去りゆく夏を「つくづく惜しい」と告げるかのように。

 この曲に耳を傾けながら、「ああ、俺の人生の夏も終わったのか」と不意打ちを食らった。48歳にもなれば正真正銘の中年である。あと10年もすれば初老の領域だ。気づかぬうちに肉体は衰え、かつてできたことが段々とできなくなってゆくのだろう。

 風の色が変わる瞬間がある。そこで初めて我々は季節の変化を知る。人生の春秋にもそんな時が訪れる。

 五行思想では青春の後に朱夏(しゅか)、白秋(はくしゅう)、玄冬(げんとう)と続く。

 冬は死の季節だ。そして老境を錦秋の如く迎える人はあまりにも少ない。美しく老いることは至難の業(わざ)だ。そもそも「老い」という言葉自体が醜さを示している。我々は花に目を奪われて木の全体を見ることがない。

 中年期になると自分の周りで死者が増える。親は順序からいって当たり前だが、先輩や友人が亡くなることも珍しくない。烈風に耐え抜くだけの体力がなければ無気力の穴に陥る。

 時は移ろい、去りゆく季節と訪れる季節の間に現在がある。我が生命に去来するリズムが反響して人生の彩りを決める。

 アフマド・シャー・マスードは48歳で死んだ。周囲が思うほど彼に悔恨はなかったことだろう。完全燃焼しながら生きている人物は何ものにも執着することがないからだ。

SION

アタックNo.1のパロディ


 苦しくったって 悲しくったって 京都の中では 平家なの
「だけど……涙が出ちゃう。壇ノ浦だもん」
 坊主がうなると 公家が弾むわ

アルファルファモザイク

 神がかりのレベルだ。死ぬほど笑った。

今やり直せよ。未来を。

大地を埋め尽くすポピー


 雲間から差す柔らかな光がポピーを引き立てている。

Wiltshire Poppies

齋藤健、フィリップ・ジャカン


 2冊挫折。

転落の歴史に何を見るか 奉天会戦からノモンハン事件へ』齋藤健〈さいとう・たけし〉(ちくま新書、2002年)/著者は自民党の代議士で多摩大学大学院客員教授も務める人物。ま、頭のいい人だ。語り口もソフトで理路整然としている。歴史は大所高所から俯瞰すべきだというのが私の持論で、本書は微細な視点で書かれているため口に合わなかった。

アメリカ・インディアン 奪われた大地(「知の再発見」双書)』フィリップ・ジャカン:富田虎男監修、森夏樹訳(創元社、1992年)/構成が滅茶苦茶。せっかくのイラストが大きすぎて読み物として成立していない。創元社の見識を大いに疑う。

自炊代行バッシングと反ブックオフキャンペーンの類似 漫画家・佐藤秀峰の指摘


togetter

 これは勉強になった。著作権を通して資本主義のカラクリを鮮明に浮かび上がらせている。ユダヤ資本の手口と一緒だ。

 出版業界が著作権を盾にしてブックオフのネガティブキャンペーンを張ったが、その後大手出版社がブックオフの株主になっているとのこと。

信用創造のカラクリ

2011-09-10

9.11から10年狙った「信頼できる」テロ情報、米 警戒強化を指示


 米国土安全保障省(Department of Homeland Security)は8日、9.11米同時多発テロ10年に合わせ「具体的で信頼できる、未確認の脅威の情報」があるとして、警戒を呼びかけた。
 米ホワイトハウス(White House)も、バラク・オバマ(Barack Obama)米大統領が「信頼できる未確認情報」を受け、既に強化している警戒態勢を一層強めるよう指示したと表明。また、ニューヨーク(New York)のマイケル・ブルームバーグ(Michael Bloomberg)も記者会見し、トンネルや橋などの要所に配置する警察官を増員していることを明らかにした。
 米メディア報道によると、8月に3人の不信人物が米国に入国し、トラックか乗用車に積み込んだ爆発物による攻撃を計画しているとの情報があるという。米テレビABCは、3人の出発地はアフガニスタンで、空路で米国入りしたとみられ、うち1人は米市民権を保持しているとみられるとの米政府高官の発言を伝えた。
 また、米紙ウォール・ストリート・ジャーナル(Wall Street Journal、WSJ)は対テロ対策担当の政府高官の話として、パキスタン出身の国際テロ組織アルカイダ(Al-Qaeda)の戦闘員が、ワシントンD.C.(Washington D.C.)とニューヨーク(New York)を狙った連続自動車爆弾攻撃を計画している恐れがあると報じている。

AFP 2011-09-09

パレスチナの国連加盟問題、米国が拒否権発動を初めて明言

 シナリオが発表された。「3人の出発地はアフガニスタンで、空路で米国入りした」とのこと。つまり今回起こるであろうテロの首謀者はアフガニスタン人というストーリーになっている模様。まるで番組の予告編だ。

 9.11テロの際は、スーダンから寄せられたテロ情報をアメリカは完全に無視した。

タルキ・アル=ファイサル王子がNYtimes紙に寄稿
『9.11 アメリカに報復する資格はない!』ノーム・チョムスキー