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2018-08-23

楽園の現実/『エデン』近藤史恵


『サクリファイス』近藤史恵

 ・楽園の現実

『サヴァイヴ』近藤史恵
・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬

 時速90キロの風の中、慎重にハンドルを切る。
 勝てるかどうかわからない。だが、はじめて知った。そのわからないことが希望なのだと。

【『エデン』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2010年/新潮文庫、2012年)以下同】

 チカこと白石誓〈しらいし・ちかう〉がツール・ド・フランスで活躍する。無論、エースではなくアシストだ。

「新潮ケータイ文庫DX」で連載されたようだ。ウェブサイトが見つからないので既に撤収か。連載物は読者の興味をつなぎ留めるため通俗的な内容になりやすい。新聞小説など分量が短ければ短いほど難しいような気がする。

 時折光る文章がちりばめられていて軽い読み物で終わらせない執念が窺える。

「賢いとは言えないが、尊敬に値するな」

「サクリファイスシリーズ」は全てのタイトルがカタカナ表記になっており意味がわかりにくい。巻頭に説明があった方がいいだろう。

 プロ自転車レース最高峰のツール・ド・フランスは楽園ではなかった。複雑な駆け引き、敵チームへの妨害、勝つためには薬物にも手を伸ばすことも辞さない修羅闘諍(しゅらとうじょう)の世界であった。

 自転車に興味がなくとも十分楽しめる内容だ。

エデン (新潮文庫)
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近藤 史恵
新潮社 (2012-12-24)
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2018-08-20

ツール・ド・フランス/『サクリファイス』近藤史恵


 ・ロードバイクという名のマシン
 ・ツール・ド・フランス

『エデン』近藤史恵
『サヴァイヴ』近藤史恵
・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬

 世界でいちばん有名なレースであるツール・ド・フランスでは、3週間にわたって、1日150キロ以上の距離を走り続け、その間、何度も峠を越える。走行距離は3000キロを越え、高低差は富士山を9回上り下りするのに匹敵する。しかも、2日ある休養日を除けば、1日たりとも休むことは許されない。休んだ時点で、リタイアとなる。

【『サクリファイス』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2007年/新潮文庫、2010年)以下同】

 本州縦断(※青森県下北半島の大間町から山口県下関南霊園まで)の距離が太平洋側で紀伊半島をぐるっと回っても2000km少々である。富士山を9回上れば3.4万mだ(因みにエベレストの標高は8848m)。実際は自転車だと5合目(2305m)までしかゆけないので15回上る高さである。我が家から富士山5合目までの距離は約100kmだから、15往復すればツール・ド・フランスを体感することができる。現状ではまだ道志みちにすら辿り着いていない(笑)。ツール・ド・フランスの道も一漕ぎから始まることを銘記しておく。

 プロレーサーの足は獣(けもの)さながらのスピードを出し、自動車にも匹敵する。ツール・ド・フランスの平均速度は時速40kmを超え、平地では70km、下りだと120kmに迫る。凄い。全く凄いとしか言いようがない。オリンピック、サッカーワールドカップと合わせて世界3大スポーツと呼ばれるのも納得できる。


 近藤史恵は自転車を買おうと色々調べているうちに競技レースを知り、すっかりハマってしまったという。一度もロードバイクに乗ったことがないにもかかわらず、これだけのストーリーを練り上げるのだから、やはり作家の創造力恐るべしと唸(うな)らされる。私自身はレースにとんと興味がない。ギャラリーがクズ過ぎてレースの障害となることが少なくないからだ。また、クラッシュシーンを見るたびにスタートを時間差にするなど何らかの工夫をするのが先だと思う。

 また初めて知ったのだが自転車レースでは他チーム選手と力を合わせることも珍しくないそうだ。高専柔道が軍事的であるとすれば、自転車レースは極めて政治的である。1チームは8人で編成されるがエース以外は全員がアシストだ。

 栄光のツール・ド・フランスはランス・アームストロング(1999年から2005年まで7連覇を成し遂げたアメリカ人選手)のドーピングによって失墜した。

 自己輸血。それはドーピングの一種だ。
 なにもないときに、自分の血液を抜いておき、それを冷凍保存する。そしてレースの前に輸血するのだ。そうすれば赤血球の量も普段より増え、パフォーマンスが上がる。もちろん禁じられているが、ものは自分の血液だ。ヘマトクリット値の上限にさえ気をつければ、一般のドーピングテストではまだ発見することが難しい。

 手口がここまで巧妙になると単なるインチキというよりは、各国で軍事的な研究が行われているような気がしてくる。ロボット兵器の研究開発費用を思えば、兵士の耐性をドラッグで高める方が安上がりだと考えても不思議ではない。

 ランス・アームストロングが史上最強と思いきやそうではなかった。区間優勝回数ではエディ・メルクス(ベルギー)が34回で、アームストロングの22回を軽々と上回っている。


 主人公がかつて交際していた初野香乃〈はつの・かの〉という女性が出てくるのだが、女性としての魅力が全くない。しかも障碍者スポーツマンと恋愛関係となった後のことが描かれておらず、単なる馬鹿女で終わってしまっている。更に名前がよくない。凝ったネーミングを付けるには相当なセンスが必要で、風変わりな印象にとどまっている。

 既にサクリファイスシリーズは全部読んだので先走って結論を書いてしまうが、近藤史恵は「男」が描けていない。チカの柔らかな印象は巻を重ねることにイライラさせられる。なぜか? それは彼が男ではなくて女だからだ。で、チカのキャラクターを確立させすぎて香乃の影が薄くなっている。

 それでも本書が面白いことに変わりはない。

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近藤 史恵
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真のエリートとは/『隠蔽捜査』今野敏

2018-08-13

ロードバイクという名のマシン/『サクリファイス』近藤史恵


 ・ロードバイクという名のマシン
 ・ツール・ド・フランス

『エデン』近藤史恵
『サヴァイヴ』近藤史恵
・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬

 かちり、とシューズがビンディングペダルにはまった。
 こぎ出す瞬間は、少し宙に浮くような、頼りない感覚。だが、それは2~3度ペダルを回すだけで消える。
 ホイールは、歩くよりも軽やかに、ぼくの身体(からだ)を遠くまで運ぶ。サドルの上に載った尻(しり)など、ただの支えだ。緩やかに回すペダルと、ハンドルで、ぼくの身体は自転車と繋(つな)がる。
 この世でもっとも美しく、効率的な乗り物。
 最低限の動力で、できるだけ長い距離を走るために、恐ろしく計算され尽くした完璧(かんぺき)なマシン。これ以上、足すものもなく、引くものもない。空気を汚すことすらないのだ。
 自転車の中でも、より速く走るためだけに、ほかのすべての要素をそぎ落としたのが、ロードバイクだ。

【『サクリファイス』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2007年/新潮文庫、2010年)以下同】

 書き出しの文章である。即物的で完結な文体がハードボイルド好きには堪(たま)らなく魅力的だ。ロードバイクという名のマシンを雄弁に物語る。ところが主人公のチカこと白石誓〈しらいし・ちかう〉は細やかな精神の持ち主で、普通ならば短所になるであろう優柔さが独特の個性を醸(かも)し出している。文章のハードさと人間の柔らかさのバランスこそが本書の魅力といってよい。

 初めて知ったのだが自転車レースはチーム主体で高専柔道や七帝柔道と同じ考え方をする。チームのエースを支える「アシスト」という役割は、高専柔道の「分け役」とそっくりだ。つまり最初から「勝つことを許されない」メンバーがいるのだ。チーム競技には何らかの犠牲が伴うが(例えば野球のバントなど)、メンバーそのものが犠牲になる競技は少ない。スピードスケートのチームパシュートと少し似ているが順位は飽くまでも個人のものである。

 チカはアシスト役であった。

 ときどき、思うのだ。
 自らの身を供物(くもつ)として差し出した月のうさぎの伝説のように、自分の身体(からだ)をむさぼり食ってもらえれば、そのときにやっと楽になれるのではないかと。
 だが、現実にはそんなことは起こりえない。
 むしろ、それは、ひどく尊大で、人に負担を強いる望みだ。
 だれも、他人の肉を喰らってまで生きたいとは思わないだろう。
 月のうさぎは、美しい行為に身を捧(ささ)げたわけではなく、むしろ、生々しい望みを人に押しつけただけなのだ。

「サクリファイス」(生贄〈いけにえ〉、犠牲)の所以(ゆえん)である。スポーツや芸術は才能で決まる世界だ。才能がない者はいかに努力しても栄冠を手にすることはできない。才能のある者が努力をしてしのぎを削る。トップアスリートとは天に選ばれたほんの一握りのエリートを指す。私は中学生の時、札幌優勝チームの4番打者であったが、自分に野球の才能がないことを思い知らされた。その程度の高みですら真実はわかるものだ。

 どんな分野でもそうだが上の次元を知ることで概念が変わる。趣味としてのサイクリングであっても競技レースの世界を知ることで体の動きが微妙に変化する。スピードと効率が上がれば楽しさも増す。

 ミステリの味付けはスパイス程度で純粋な小説として十分楽しめる。瑕疵(かし)は改行の多さと凝(こ)った名前くらいか。あと、近藤史恵は「身体」(からだ)と書いているが、「身」は妊婦を意味するので「体」と書くべきだろう。

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2018-07-12

布教インペリアリズム/『みじかい命』竹山道雄


『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
・『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄

 ・×踏み絵 ○絵踏み
 ・布教インペリアリズム

『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎

キリスト教を知るための書籍
日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 往きて宣べつたへ「天国は近づけり」と言へ――このイエズスの命令は、おそらく人々にこの世の崩壊が明日にも迫っていることを教え、すべては融けて消えてなくなると説き、その中にあってもなお永遠の生命を保つためには、ゴッドの教えをきいてゴットの国に入れ、ということであったのだろう。その教えをきかない者は呪われた者だった。
 年と共に、これが歴史の実体としては、行きて宣べて、しかもかつ略奪劫掠せよということとなったことは、疑いをいれない。宗教宣伝が領略の名目となったことはまちがいがなかった。むしろ、この両者は一体のものだったろう。12世紀の十字軍遠征を扇動した法王の言葉は他に紹介したことがある。彼はこれによって集団ヒステリーをかきたてた。西欧の方々の国の村から町から異教徒という被害妄想に憑かれた人々が、群をなし列をなしてぞろぞろと東へ征った。
 バテレンの布教は日本征服と関係がある――この結びつきは、徳川時代において日本人の固定観念だった。それが明治に布教が再開されるに及んで消えた。その間の時期に日本の指導層は合理的に物を考えるようになっていた。しかし、近頃バテレンの機密文書がぞくぞくと発表されるに及んで、やはり前の固定観念が正しかったことが明らかになった。その証拠はかぎりがない。
 大航海時代に南ヨーロッパ諸国民が世界に雄飛した動機について告白したものは、聖なる教えを奉ずる自己の利益となる行為は正しいものであるということを、表明している。じつにキリスト教徒でない者は、まだ人間であるか否かを疑われ、むしろ家畜として使役すべきものだった。

【『みじかい命』竹山道雄(新潮社、1975年)】

 40代でクリシュナムルティと出会い、50代で竹山道雄を知ったことは私の読書人生もあながち的外れではなかったことを証(あか)しているようで少しばかり自慢気になる。若い頃から抱いてた疑問の数々はすべて晴れたといっても過言ではない。

 本書は江戸時代を舞台としたキリスト教小説である。竹山は1903年(明治36年)生まれだから刊行時は72歳だ。竹山の前半生は戦争と共にあった。

日清戦争(1894-95年)
日露戦争(1904-05年)
第一次世界大戦(1914-18年)
満州事変(1931-32年)
支那事変日中戦争(1937-45年)
大東亜戦争(1941-45年)

 明治開国で日本は辛うじて植民地となることは免れたが長く不平等条約に苦しめられた。明治政府は白人帝国主義の外圧に対抗すべく富国強兵を掲げ殖産興業に邁進した。日露戦争は近代史における一大事件で初めて有色人種が白人を打ち負かした近代戦争であった。その後も半世紀近くにわたって日本はロシアの南下と戦い続ける。

 竹山は戦前にドイツとパリへ3年間留学している(※当時一高のドイツ語講師)。また鎌倉の海岸で偶然出会ったベルナルト・レーリンク(オランダの裁判官で東京裁判の判事を務めた)とも親交を重ねた。言うなれば「誰よりもヨーロッパを知る日本人」であった。彼はいち早くナチスの欺瞞を見抜いた。そしてナチスという現象の歴史的由来を探った。竹山は「キリスト教にその原因あり」と喝破した。

 竹山の経験・見識を総動員して描かれた小説が本書である。SF的手法を用いた原爆投下の悪夢や、戯画的に綴られる性描写、リアリズムを追求するがゆえの残酷さなどは好みが分かれることと思われるが、私はその全てに息が止まるほどの激情を覚えた。主人公の湯浅を竹山の分身と捉えることも可能だろう。

 キリスト教小説として読めば飯嶋和一作品(『黄金旅風』以降)の底の浅さがよく見えてくる。ただし飯嶋がキリスト教を道具立てとして使っているのか、宣教を目的にしているのかは不明である。

 キリスト教ヨーロッパによる布教インペリアリズム(帝国主義)を理解せずして近代史を把握することはできない。アフリカ・アジアの殆どの国が植民地として農地同然の扱いを受けた。日本はやっとの思いで日露戦争・日清戦争に打ち勝ち、一等国として扱われた。

 第二次世界大戦の枠組みで形成される国際社会ではいまだに日本を貶める話題に事欠かない。例えば慰安婦捏造問題が挙げられよう。チャイナ・マネーとつながっているヒラリー・クリントンがセックス・スレイブ(性奴隷)と口にしたことは記憶に新しい。私は常々思っているのだが慰安所という当時の日本文化を通して反撃することが正しい。慰安所は現地での性犯罪を防ぐ目的で設置された。衛生面にも配慮がなされており、過酷な労働に対する報酬も高額なものだった。慰安婦と結婚した兵士も少なからず存在した。明治維新の志士だって遊郭の女性を妻や妾にしている例は多い。

 アメリカ兵はノルマンディーに上陸し、フランスをナチスドイツから解放すると、フランス人女性を次々と強姦した。「GIはどこでも所かまわずセックスしていた」(「解放者」米兵、ノルマンディー住民にとっては「女性に飢えた荒くれ者」)。同盟国の女性すら強姦するのだから敵国ともなると残虐の度合いが桁違いとなる。ベトナム戦争では「一人の女が赤熱した銃剣を性器にぐさりと深く突き立てられるのも見た」という米兵の証言もある(『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン)。

 アングロサクソンも恐ろしいがもっと凄いのはロシア兵だ。イナゴの大群が作物を食い尽くすように強姦しまくる。第二次世界大戦のドイツでは少女から老人に至るまで犯された。満州では日本人女性も多数の犠牲者を出している。

 白人は自らの歴史を振り返って反省することがない。なぜなら彼らはキリスト教という正義に取り憑かれているためだ。本来であれば東洋から学問的追求をするべきなのだが、自国の歴史すらまともに知ることができない現状である。

 私が知る限りではどの宗教学者や仏教者よりも竹山はキリスト教の本質を鋭く捉え、日本文化を通して見事な鉄槌を下している。

2018-06-02

敗戦の心情/『ビルマの竪琴』竹山道雄

『昭和の精神史』竹山道雄
『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄

 ・敗戦の心情
 ・「一隅を守り、千里を照らす」人のありやなしや

『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

「国が廃墟(はいきょ)となり、自分たちの身はこうした万里(ばんり)の外で捕虜となる――。これは考えてみればおどろくべきことだ。それだのに、私は、これはどうしたことだ――、とただ茫然自失(ぼうぜんじしつ)するばかりである。それをはっきりと自分の身の上に起こったことだ、と感ずることすらできない。ただ手からも足からも力が抜けてゆくような気がする。
 そのうちには悲しい気持もおこってくるであろう。絶望も、うたがいも、いかりやうらみすらおこってくるかもしれない。すべてはおいおい事情がわかってきてから、考えをきめるほかはない。実は、もうかなり前から、こういうことになるのではないかとうすうすは思っていたのであったが、いざそうなってみると、まったく途方(とほう)にくれるというほかはない。
 いまはただなりゆきを待つほかはない。いまわれわれが運命にさからったところで、それが何になろう。どうしてもさけることができないものならば、むしろそれをいさぎよく認めて、われわれの境涯(きょうがい)がどんなものであるかをよく知って、その上であたらしく立ち直ってゆくのが、むしろ男らしいやり方である。せめてそうするだけの勇気を持とうではないか。
 よくはわからないが、われわれはすべてを失ってしまったらしい。自分たちの身の上はみじめなものである。残っているものとしては、ただわれわれが互いに仲がいい、ということだけである。これだけは疑うことができない。われわれが持っているものとては、これだけだ。
 自分たちはこれからも共に悲しみ、共に苦しもう。互いに助けあおう。自分たちはこれからの苦しいことも覚悟しなくてはならぬ。あるいはこのさき、このビルマの国で骨になるかもしれない。そのときは一しょに骨になろう。ただ、最後までできるだけ絶望はしまい。何とかして希望をもってしのいでゆこう。
 そうして、もし万一にも国に帰れる日があったら、一人ももれなく日本へかえ(ママ)って、共に再建のために働こう。いま自分のいえることは、これだけである」
 隊長は言葉もきれぎれにこういいました。みな黙(だま)ってきいていました。
 誰(だれ)もはりつめた気もぬけ、ただぼんやりとしてしまったのです。みな首をたれて、隊長のいうとおりだ、と思いました。
 おもえば、われわれは歓呼(かんこ)の声におくられ、激励(げきれい)されて国を出たのですが、それにもかかわらず、あのころから、国中にはなんとなく不吉(ふきつ)な気分がみちみちていました。いまそれがまざまざと思いだされます。誰もかれも、つよがっていばっていましたが、その言葉は浮(う)わついて空疎(くうそ)でした。酔っぱらいがあばれだしたようなふうでもありました。それを思うと、胸も痛み、恥ずかしさに身内があつくなるような気がしました。
 誰かすすり泣く声がしました。すると、みな、にわかに悲しくなって、すすり泣きました。しかし、それははっきり何が悲しい、何がうらめしい、というのではありませんでした。ただ、このたよりない気持をどうしたらいいかわからなかったのです。

【『ビルマの竪琴』竹山道雄(中央公論社ともだち文庫、1948年/新潮文庫、1959年)】

『ビルマの竪琴』は「1946年(※昭和21年)の夏から書き始め童話雑誌『赤とんぼ』に1947年3月から1948年2月まで掲載された」(Wikipedia)。一高(東大の前身)の教師だった竹山は従軍していない。そのため現地などの情報に多くの誤りがあることを詫(わ)びている。

 冒頭に出てくる「歌う部隊」のエピソードは本書を読んだことがない人でも知っているだろう。追い詰められた日本兵が「埴生(はにゅう)の宿」を歌うと、今にも襲いかからんばかりのイギリス兵も歌い出し、合唱となる。


Helen Traubel Sings "Home, Sweet Home." 1946

日本童謡事典』の「埴生の宿」p323-32の解説によれば,「みずからの生まれ育った花・鳥・虫に恵まれた家を懐かしみ讃える歌…」「「埴生の宿」とは,床も畳もなく「埴」(土=粘土)を剥き出しのままの家のこと,そんな造りであっても,生い立ちの家は,「玉の装い(よそおい)」を凝らし「瑠璃の床」を持った殿堂よりずっと「楽し」く,また「頼もし」いという内容。

レファレンス協同データベース

 敗色が濃厚になると日本は無気力に覆われた。欧米と比すれば小さな国である。物資が欠乏しながらも3年半にわたって戦った歴史を軽々しく論じるべきではない。しかも敗れたのはアメリカ一国だけであり、イギリス・フランス・オランダ軍を退けたのだ。

 8月15日を境にして日本はGHQの占領下に置かれる。実に建国以来のことである。わずか7年(サンフランシスコ講和条約が発効した1952年〈昭和27年〉4月28日まで)とはいえ、歴史を裁断するには十分な時間だった。

 日本人の精神は無気力から真空状態に至る。そして敗戦するや否やラジオや新聞はGHQの統制下で軍部を悪しざまに罵った。知識人は掌(てのひら)を返して「戦争には反対だった」と口々に言い始めた。歓呼の声と万歳で見送られた兵士は帰国すると白い目で見られた。

 1940年(昭和15年)にナチスを批判した竹山はこの時もまた強い違和感を覚えた。自分の教え子の訃報に接してきた彼がやすやすとGHQの洗脳に屈服することはなかった。遺骨もなく形見の品だけで弔(とむら)う葬儀があった。形見すらない場合も珍しくなかった。世間が戦争の罪を軍部に押し付けようとした時、竹山はたった独りで鎮魂のペンを執(と)った。児童向けの作品となった経緯を私は知らないが結果的にはよかったと思う。戦後に就学していた人々が左傾化することは避けようがなかったわけだが一定のブレーキにはなったことだろう。

 このテキストには敗れざるを得なかった日本の情況が正確にスケッチされている。「酔っぱらいがあばれだしたようなふう」とあるが、直ぐ後に描かれる「首を切り落とされた鶏(にわとり)がバタバタと動く様子」は戦前・戦中の日本を示したものだろう。天皇責任論に対する静かな批判といってよい。

 誰もが食べることで精一杯だった。そんな中で竹山は戦死者の魂を鎮(しず)めようとした。

2017-10-16

「文字禍」/『中島敦』中島敦


『廃市・飛ぶ男』福永武彦
『物語の哲学』野家啓一

 ・「文字禍」

必読書 その一

 ナブ・アヘ・エリバは最後にこう書かねばならなかった。「文字ノ害タル、人間ノ頭脳ヲ犯シ、精神ヲ麻痺セシムルニ至ッテ、スナワチ極マル。」文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった。(中略)ナブ・アヘ・エリバはこう考えた。埃及(※エジプト)人は、ある物の影を、その物の魂の一部と見做(みな)しているようだが、文字は、その影のようなものではないのか。(「文字禍」)

【『中島敦』中島敦(ちくま日本文学、2008年)以下同】

 新潮(218ページ)・角川(256ページ)・岩波(421ページ)からも文庫版が出ているが筑摩(480ページ)以外の選択肢はない。なぜなら「文字禍」が収められているからだ。

 中島は旧制一高(現在の東大)に入ってから小説を書き始めた。喘息の発作に苦しみながらもペンを執(と)った情熱を思わずにはいられない。その後高校の教員をしながら書き続けた。活字となったのは、『山月記』、『文字禍』、『光と風と夢』のわずか3作品で、亡くなる直前に2冊の本が刊行された。喘息のため33歳で逝去。名を遂げることはなかったが作品は今も尚生き続け、多くの人々が親しむ。本物の芸術家は時代に先駆けるゆえ正当な評価は遅れてやってくる。

「文字を覚える以前に比べて、職人は腕が鈍り、戦士は臆病になり、猟師は獅子を射損なうことが多くなった」――1942年(昭和17年)の『文學界』5月号に掲載されたということは多分31歳で書いた作品だと思われる。文明の発達と肉体の衰えを捉えて見事な一文である。漢籍の素養が日本語の抽象度を高め、矢の如く一直線に迫ってくる。しかもメタフィクション的な手法を使いながら、学者が文字を否定するというジレンマがユーモラスな興趣を添える。

 至為(しい)は為す無く、至言は言を去り、至射は射ることなし(「名人伝」)

 こうなると老荘思想や仏教の空に近い。中島敦にとって小説とは書くことで完結した行為であったのだろう。名誉やカネ目当てでは戦争の真っ最中に小説を書くことなど出来ない。

 そんなある日、敦が珍しく台所にいる妻に創作の報告をした。「人間が虎になった小説を書いたよ」。何て恐ろしいことと感じたが、後にこの小説「山月記」を読む度に妻は夫を思った。「あの虎の叫びが主人の叫びに聞こえてなりません」

中島敦「何故こんな運命になったか……」/YOMIURI ONLINE 2016年08月08日

 しかし、なぜこんな事になったのだろう。分らぬ。全く何事も我々には判らぬ。理由も分らずに押付けられたものを大人しく受取って、理由も分らずに生きて行くのが、我々生きものの【さだめ】だ。(山月記)

 中島の中には虎が生きていたのだろう。抑え切れない猛々しさが彼を原稿に向かわせたのだ。ペンは剣(つるぎ)と化した。その自在な動きの痕跡を我々は読むことができるのだ。偉大な人物は偉大であるというだけで人々を幸福にする。



70年の時を経て、中島敦の遺稿を〝リマスタリング〟
人間の知覚はすべて錯覚/『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ

2017-06-08

人間を帰属によって規定する社会/『カルトの島』目黒条


『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『カルト村で生まれました。』高田かや

 ・人間を帰属によって規定する社会

 こわーい! という声が上がった。
 彼女たちは宗教団体に入る話をしているのだった。
 来年までに「日本」という国はなくなってしまい、全員が宗教団体に入らなければならなくなる。各「団体」が自治権を持つ団体連合社会に、1年かけて移行していくそうだ。
 なぜそんなことになったかというと、子供の数が極端に減ってしまい、人工生殖に頼らなければ日本が滅亡する、という危機が近づいてきたからだ。けれども人工生殖を行おうとすると「生命倫理」が問題となり、意見を異にする人たちの対立が生まれて、結論が出せない。それで、「皆さん、自分の信念に合った団体に入ってください。団体ごとの法律で人工生殖を行います。団体に入ることが国民の義務となりました」ということになった。

【『カルトの島』目黒条〈めぐろ・じょう〉(徳間書店、2008年)】

「宗教団体」を「会社」に置き換えれば日常のありふれた光景が見えてくる。「意見を異にする人たちの対立」は政治そのものだ。それほど突飛な設定ではない。

 国家・宗教・会社といった集団はソフトが異なるだけでハード(機構)は同じだ。集団は必ず競い合い、闘い合い、奪い合う。そこにこそ集団の目的があるのだろう。

 人間を帰属によって規定するのが社会である。「あんたはどこの何者なんだ?」。住所不定・無職です、と答えれば社会から爪弾きにされる。

「私は○○だ」と言う時、殆どの人は職業や勤務先を述べる。それが現代における身分なのだ。エスタブリッシュメントと目される政治家や医師、経営者、テレビ局などが2世だらけなのがその証拠である。資産や権益の譲渡が自由競争を阻害する。

 興味深いのはアイデンティティ喪失という現象だ。諸法無我なのだからアイデンティティなどなくてもよさそうなものだがそうは問屋が卸さない。社会的な位置がはっきりしないと不安を覚えるのはなぜか? たぶん自分という存在の「重み」を感じることができなくなるのだろう。

 でも、どうなんだろうね? いくら努力したところでカネに換算されるような人生しか見えてこない。それを拒絶したいのであれば出家をするような覚悟が必要だろう。

カルトの島

2016-08-26

ジョルジュ・メリエスへのオマージュ/『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック


 ・ジョルジュ・メリエスへのオマージュ

必読書リスト

 それ以来、ユゴーは1日中、うす暗がりの中で時計の手入れをするようになった。ユゴーはいつも、自分の頭の中にもたくさんの歯車や部品が詰まっているような気がして、どんなものであれ、手を触れた機械には親しみを覚えた。駅の時計の仕組みを知るのは楽しかったし、壁の裏の階段をのぼって、だれにも姿を見られることなく、ひそかに時計を調整してまわることに、やりがいを感じてもいた。だが食べるものはろくになく、おじさんにどなられ、へまをするたびに手を叩かれ、ベッドは床だった。
 おじさんはユゴーに盗みを教えた。それが何よりいやだった。だがそれしか食べ物を手に入れる方法がないときもある。ユゴーは毎晩のように、声を押し殺して泣きながら眠り、こわれた時計と火事の夢を見た。

【『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック:金原瑞人〈かねはら・みずひと〉訳(アスペクト、2007年/アスペクト文庫、2012年)】

 火事で父親が死んだ。母親は元々いなかった。たった独りとなったユゴー少年はリヨン駅の時計台に住みついた。おじは時計を管理する仕事をしていた。ユゴーはその仕事をやらされた。

 子供に読ませる場合は奮発してハードカバー版を買ってあげたい。500ページのうち、何と300ページほどが見開きのイラストである。ま、一種の絵本だと思っていい。まだ映画が誕生したばかりの時代である。身寄りのいないユゴー少年とからくり人形の物語だ。鉛筆(?)で描かれたイラストが映画のカットのようにダイナミックな構図で読者に迫る。2011年にマーティン・スコセッシ監督が映画化した(『ヒューゴの不思議な発明』)。


 画風にそれほど魅力はない。目を惹(ひ)きつけるのは構図である。父親が遺したからくり人形をユゴーが修理する。人形は自動書記でメッセージを綴り始める。ここから物語はジョルジュ・メリエス(1861-1938年)へのオマージュとなる。




 先に「絵本」と書いた。が、実は違う。イラストは絵コンテであり、無声映画の画面なのだ。既に大友克洋や松本大洋を知っている我々でも、映画草創期の歴史を知れば胸に迫ってくるものがある。小説ではあるがジョルジュ・メリエスに関する記述は史実に基づいている。

 ファンタジー的色彩の強い、めくるめく物語の伝統が日本にないのは、やはりキリスト教やヒンドゥー教がなかったためか。天国やブラフマンというイデアへの憧れが書き手の脳内で火花を放つ。それを読み手は花火として鑑賞するのだ。



2015-08-28

大阪産業大学付属高校同級生殺害事件を小説化/『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男


大阪産業大学付属高校同級生殺害事件

 ・大阪産業大学付属高校同級生殺害事件を小説化

「矢吹がいる限り、わしらはどうにもならん。わし、もう我慢できんのや。夕べも、なんかくやしゅうて、よう眠れんかった」
「きのうは、わしも腹が立ってならんかったよ」
 幸夫が即座に応じた。(中略)
「ひとりじゃ無理かもしれんけど、ふたりなら殺(や)れると思うんや」登は言った。
「そうやな。ふたりだったら、なんぼ矢吹が強い言うても……」
「ああ、けど、まともに襲ったら、失敗するかもしれん。だから、殺(や)るときは不意討ちにするんや」
「そうやな。それで、どんな方法で殺(や)るんや?」
「金槌(かなづち)で頭を思いきりどついたら、どないやろ?」

【『友だちが怖い ドキュメント・ノベル『いじめ』』南英男(集英社文庫コバルトシリーズ、1985年)以下同】

 いじめに対する報復殺害事件である。事件の詳細についてはWikipedia削除記事を参照せよ。このやり取りは1984年11月1日8時半頃に京阪電鉄の駅で行われ、同日の19時40分に決行した。二人は10分間あまり70数回にわたって金槌で殴打。途中では釘抜きの方で目をつぶしたが相手はまだ死んでいなかった。その後川へ投げ込み、水死した。

 エスカレートするいじめを思えば、二人はやがて殺されていたかもしれない。そう考えると殺害は正当防衛であったと見ることもできよう。南英男はリベラルを気取って「そういう意味では、加害者のふたりも被害者の少年も現代社会の犠牲者といえそうだ」と書いているが、この論法でいけばあらゆる犯罪は「現代社会の犠牲者」として正当化し得る。

 ぼくは、被害者が自慰行為を強制したことと加害者たちが70数回も相手を金槌で殴打したことに“病(や)める時代”を感じないわけにはいかない。

「現代社会の犠牲者」とか「病める時代」だってさ(笑)。左翼が好むキーワードだ。相手が死んでなかったら、後に彼らは間違いなく殺されていたことだろう。想像力を欠いた作家の文章はナイーブに世を儚(はかな)んでみせ、ナルシスティックな憂鬱に浸(ひた)る。著者は冒頭にも次のように記している。

 それにしても、すさまじい仕返しだ。
 この烈(はげ)しい憎悪は何なのか。
 日ごとに陰湿化する弱い者いじめの背後には、いったい何があるのだろう? 何がきっかけで、いじめが起こるのだろうか。生(い)け贄(にえ)にされた者は、どんな苦しみを味あわされているのか。いじめを繰り返す者は、何かストレスをかかえているのではないか。もはや解決の道はないのだろうか。

 支離滅裂な文章である。2行目と3行目に脈絡がない。「もはや解決の道はないのだろうか」。ないね。あんたのような大人がいる間は。

 力の弱い者が協力して力の強い者をやっつけた。ここに民主主義の原点がある。民主主義は暴力から生まれた(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。すなわち一人の強者に対して弱者が力を合わせて対抗することが民主主義のメカニズムなのだ。

 更に人類は腕力よりも知恵によって生存率を高めてきた。平穏な生活からは想像しにくいが武器こそ知恵の結晶といえる。そもそもヒトが初めて作成した道具は小型の斧と考えられている。力弱きヒトは猛獣に対して火や石を使って身を防いだことだろう。スポーツの元型が狩りにあることを思えば、道具の発明が狩猟のシステム化に結びついたことは確実だ。

 二人は「環境に適応した」のだ。ゆえに生き残ることができた。ただしここで大きな疑問が湧く。適者生存が進化の現実であれば、「殺す側」が優位となってしまう。そこに歯止めをかけるのが「法」の役割なのだろう。

2015-03-26

「何が戦だ」/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一

 ・「サンリン」という聖なる場所
 ・「何が戦だ」

『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 そのコウが、立ちすくんだまま藤九郎を見ていた。表情を強張らせてはいたが、コウもまたそんな場所で藤九郎に会おうとは思ってもみなかったらしく、ただ戸惑っているのがわかった。
「おれがお前の犬を何匹殺(あや)めたか知っているか」
 藤九郎がいきなりそんなことを言った。
「……いいえ」
 常日頃から心の内で思い続けていたことを、当の藤九郎の口からいきなり聞かされ、思わずそう答えた。
「十と四匹だ。お前が子犬の時から育てた犬を、十四匹もこの手で殺(あや)めた……。
 彦七覚えてるか、宿(やど)の」
「この間の戦で亡くなられたとか……」
「矢を二本、鉄砲弾(だま)を二発もくらわされて……。六さんも喜八っつあんも、亡骸(なきがら)どころか、形見の品さえ何一つ持ち帰れなんだ。
 それに、お前の犬たち……。ここに葬られている犬たちは、何のために死んだんだ? 馬射(うまゆみ)の犬追い物など、単なる遊戯。無益な殺生以外の何でもない。
 何が戦だ。佐竹の御大将も、月居の騎馬頭(がしら)も、誰も信じられん。そもそも城にこもって戦うのは、敵を引きつけておいて、後詰(ごづめ)の援軍がその背後から襲うのを待つためだ。ところが後詰など初めから来やしなかった。彦七や六郎太や喜八は、何のために死んだんだ。あんな須賀川くんだりまで出かけて……。騎馬頭も須賀川城があんな内情だと知っていてもよさそうなものだ。いや、知っていたのかもしれん。城を守らねばならないはずの、二階堂の重臣たちが伊達と内通していた。難儀したのは須賀川城下の民ばかりだ。しまいには、城にたてこもっていた守谷何とかという二階堂の老臣が須賀川の町家に火を放った。
 あんな城など守るに値しなかった。初めから落とされるに決まっていたようなものだ。それを何も知らず、百八十もの月居軍騎馬、足軽が、須賀川までわざわざ出向き、むざむざ討(う)たれた。……何が戦だ。あんなことは畜生もやらん」
 家の中でさえ、とても口にできないことを、なぜかコウには平気で話すことができた。

【『神無き月十番目の夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1997年/小学館文庫、2005年)】

 文章の香りが失われるため数字を漢字表記にした。無為な戦がやがて小生瀬(こなませ)の農民一揆につながる。経済の本質はいつの時代も変わらない。戦争をするためには、まず戦費が必要となる。そのために増税が行われ、民の利益が収奪される。

 藤九郎とコウは幼馴染みであった。身分の違いから10歳を越えたあたりから疎遠になっていた。コウは自分が育てた犬を殺す武士に憎悪を抱いていた。だが藤九郎の話に耳を傾け、武士もまた不憫(ふびん)な存在であることを初めて知った。

 実は先日再読した『ランボー/怒りの脱出』に登場するベトナム人ヒロインの名前も「コー」であった。不思議な感慨がひたひたと押し寄せる。

 私はかつて平和主義者であったが、プーラン・デヴィの『女盗賊プーラン』を読んで自分の甘さを思い知らされた。暴力が避けられない時代にあっては自己防衛が必要となる。それ以降、私は武力を部分的に容認したスーザン・ソンタグよりも右側に足位置を定めた。

 環境文明史的に捉えると寒冷期に人類は戦争を行う。作物が取れやすい温暖な地へと人々が移動するためだろう。いずれにせよ自然環境であれ国際環境であれ一定のプレッシャーがのしかかった時に人類の暴力衝動は現実化する。政治家が賢明であれば勝てる戦争しかしないはずだ。現代社会においては経済もまた戦争の様相を帯びている。

 クリントン大統領が「冷戦は終わった。真の勝者はドイツと日本だ」と語った。そして存在価値が低下したCIAは日本をターゲットに経済戦争を仕掛けた。これがバブル崩壊のシナリオだった。自公政権は国富をアメリカに奪われ続けた。その期間は20年以上にも及んだ。民主党政権もこの状況をひっくり返すことができなかった。

 愚かな指導者は国民から財はおろか命まで奪う。消費税増税もその一環である。奪われることに鈍感な国民は必ず政治家の選択を誤る。藤九郎が吐き捨てるように語った「何が戦だ」の言葉の重みを思う。

 

「サンリン」という聖なる場所/『神無き月十番目の夜』飯嶋和一


『汝ふたたび故郷へ帰れず』飯嶋和一
『雷電本紀』飯嶋和一

 ・「サンリン」という聖なる場所
 ・「何が戦だ」

『始祖鳥記』飯嶋和一
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『狗賓童子(ぐひんどうじ)の島』飯嶋和一

 それにしても一村亡所とはいったい何事がこの小生瀬で起こったものか。地方役人を殺生したとか竹右衛門が言っていたが、そんなことは想像もつかないことだった。
 嘉衛門は岡田竹右衛門から依頼をうけた、小生瀬の人々が隠れ潜んだはずの場所に心当たりがないわけではなかった。嘉衛門の住む比藤村がそうであるように、地侍を中心とした一揆衆の自治の名残りをとどめている地には、「サンリン」あるいは「カノハタ」などと呼ぶ奇妙な空間がある。「サンリン」は文字どおり山林であったり、池や淵を含む周辺の一帯だったりするのだが、そこは古来から聖なる場所とされ、そこで不浄をはたらくことは何人にも許されない。反面、たとえ罪を犯した者がその「サンリン」に逃げ込んだ場合でも、その地に捕り方が踏み込んでその者をひっ捕らえたり、成敗したりは一切許されない。領主であってもその地には簡単には手出しできない。そういう奇妙な不文律に支配された場所がある。嘉衛門の心当たりは、このすぐ近くに、「サンリン」があるはずだというところからきていた。一日探索してみても、あるはずの残り300を超える屍が見当たらないということは、それらの者たちが隠れ潜んで討たれた場所があるはずだった。

【『神無き月十番目の夜』飯嶋和一〈いいじま・かずいち〉(河出書房新社、1997年/小学館文庫、2005年)】

 刊行直後に買ったのだが「読むのは後回し」と決めていた。もちろん怖かったからだ。江戸初頭に記された古文書の記録から飯嶋和一は真実を炙(あぶ)り出す。300人にも及ぶ老若男女が殺戮された事件である。

「好きな小説家は?」と訊かれれば、私は迷うことなく宮城谷昌光と飯嶋和一の名を挙げる。続いて福永武彦。

 私は歴史が浅い北海道で育ったこともあり、「サンリン」(山林)や「カノハタ」(火の畑)なる言葉は初耳であった。「聖なる場所」といえばスピリチュアルだが、一種の緩衝地帯であったのだろう。法律が100%完璧ということはあり得ない。とすれば、こうした場所は人々の智慧から生まれたものと考えられる。

 現代社会におけるいじめ、パワハラ、ストーカー行為には逃げ場がない。だからあっさりと殺したり殺されたりするのだろう。そして移動のスピードがコミュニティを崩壊させた。死んだコミュニティでは衆人環視が機能しない。「人の目」こそが最初の犯罪抑止となる。人の目を恐れなければ欲望は自律的に走り出す。

 やはり「うるさい近所のおじさん、おばさん」が必要なのだ。コミュニティの崩壊は、子供たちを見つめ、そして見守る眼差しが社会から失われたことを意味する。

 民俗学的価値があると思い、この箇所を書き出しておく。

 尚、「世界大百科事典 第2版」にはこうある。

 山と林,樹木の多く生えている山。山林に入り,不自由を耐えて仏道の修行に励むことを〈山林斗藪(とそう)〉といったが,山林は聖地であり,アジールとしての性格を持っていた。平安末期から中世を通じて,領主の非法,横暴に抵抗して逃散(ちようさん)する百姓たちは,〈山林に交わる〉〈山野に交わる〉といって実際に山林にこもっており,山林は逃亡する下人・所従の駆け入る場でもあった。戦国時代になると〈延命寺へ山林申候〉〈悪党以下,山林と号して走り入る〉〈女山林〉などのように,〈山林〉という語それ自体が,アジール的な寺院へ駆けこむ行為を意味するようになるとともに,百姓たちが家や田畠に篠(ささ)を懸け,そこを〈山林不入の地と号し〉,領主が立ち入れないようにしたことから見て,アジールとしての性格を持つ寺院や聖域そのものも〈山林〉といわれたのである。

2015-02-09

比類なき言葉のセンス/『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳


『われら』ザミャーチン:川端香男里訳

 ・比類なき言葉のセンス

『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳
『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー

 わずか34階のずんぐりした灰色のビル。正面玄関の上には、〈中央ロンドン孵化・条件づけセンター〉の文字と、盾形紋章に記した世界国家のモットー、“共同性(コミュニティ)、同一性(アイデンティティ)、安定性(スタビリティ)”。

【『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳(光文社古典新訳文庫、2013年/『みごとな新世界』渡邉二三郎訳、改造社、1933年/「すばらしい新世界」松村達雄訳、『世界SF全集』第10巻、早川書房、1968年/『すばらしい新世界』 高畠文夫訳、角川文庫、1971年)】

 一昨年初めて読んで、昨年再読。二度目の方が堪能できた。回数を経るごとに新しい発見がある。本物の作品とはそういうものだ。

 原著が刊行されたのは1932年。つまり第一次世界大戦(1914-18年)と第二次世界大戦(1939-45年)の間に生まれたわけだ。佐藤優が「二つの世界大戦を区別せずに『20世紀の31年戦争』と呼んだ方が正確かもしれない」(『サバイバル宗教論』)と指摘しているが、そう考えると「大戦の中で生まれた」とすることもできよう。

 人類は群れることで環境に適応した。思いやりも本能であり(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)、利他的行動は種の保存を目的にしていると考えてよい(「なわばりから群れへ」を参照せよ)。

 群れ=社会には秩序と管理が不可欠だ。では、人類がひとつにまとまり、完全に管理された社会が出現したらどうなるか? それを描いたのが本書である。出産、教育から個人の快楽までもが完璧に管理された社会だ。

 21世紀に入り、パックス・アメリカーナに基づくグローバリズムが叫ばれるようになった。世界国家が実現した「すばらしい新世界」は文化や民族性を排除した無機質な世界であった。その対比として「悪しき野蛮人世界」が描かれる。インディアンを野蛮人としたのは差別主義からではなく、ハクスリーのスピリチュアリズムによるものであろう。

 骨太のストーリーを比類なき言葉のセンスが支える。そしてコピーやフレーズに深い知性の裏づけがある。

 クリシュナムルティに書くことを促したのはハクスリーその人であった(1942年)。ハクスリー本人はその後、神秘主義に傾くが、「条件づけセンター」という名称にはクリシュナムルティの影響があったのかもしれない。

 何度か挫けている松村達雄訳も読んでみようと思う。



邪悪な秘密結社/『休戦』プリーモ・レーヴィ
自律型兵器の特徴は知能ではなく自由であること/『無人の兵団 AI、ロボット、自律型兵器と未来の戦争』ポール・シャーレ

2014-07-14

無我/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 シッダールタは、心とも体とも別の自己――すなわち、アートマン(我)――という考えを超え、ヴェーダで提唱されている誤ったアートマンの考え方の虜になっていた自分に気づいて唖然とした。実在の本質はわかれてはいない。無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった。アナートマンは何か新しい実在を表す言葉ではなく、すべての謬見を破壊する雷のごときものであった。シッダールタはあたかも瞑想の戦場で、無我を旗印に、洞察という名刀をふりかざす将軍のようであった。昼も夜もピッパラ樹の下に坐りつづけ、新しい気づきが稲妻の閃光のように次々と解き放たれていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

 出家したシッダールタは二人の師につくがやすやすと無所有処に至り、驚くべきスピードで非想非非想処(天界の最上位である有頂天)をも体得した。

2.ゴータマ・ブッダの出家と修行
非想非非想処と涅槃
滅尽定とニルヴァーナ

 悟りには明確な段階があるのだ。

 傍目からはなかなか判断できませんが、それぞれの段階の悟りを開いた人は、自分では自分がどの段階に悟ったか、よくわかるようです。それだけ明確な悟りの「体験」と、それによる心の変化が、悟りの各段階にあるからです。

【『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃(サンガ新書、2009年)】

 諸法無我を悟った瞬間が劇的に描かれているのだが致命的な誤りがある。「無我――すなわち、アナートマン――こそが存在するすべての本質だった」――いくら何でも「本質」はないだろう。たぶん翻訳ミスだと思われる。アナートマンとは否定語のアン+アートマンで無我・非我と訳す。訳語としては非我が相応しいような印象を受けるが、非我だとまだ我の存在を払拭できていない。ゆえに無我が正しいと私は考える。

梵我一如と仏教の関係

 デカルトは徹底した思索の果てに我を見据えた。ブッダは瞑想の果てに我を解体した。我は錯覚であり妄想であった。トール・ノーレットランダーシュは意識の正体を「ユーザーイリュージョン」と喝破した。

「私が存在する」という感覚から欲望が生まれる。人生の悩みは一切が私に基づいている。つまり私とは、神・幽霊・宇宙人に匹敵する錯覚なのだ。生はただ縁りて起こるものだ(縁起)。生は川の流れのように一瞬もとどまることがない。そこに「変わらざる自分」を見出すところに凡夫の過ちがある。自分から離れて、ただ生の流れに身を任すことが自然の摂理にかなっている。インディアンは確かにそういう生き方をしていた。

2012-10-21

布施の精神/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

「昼食はすみましたか」
「いえ、まだです」
「それなら、これをいっしょに食べましょう」

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)以下同】

 ブッダは常に言葉づかいが丁寧であった。インドでは現在にあっても不可触賤民が触れた食器をバラモン階級が使用することはない。「穢(けが)れ」に対する迷信はかように深い。そうであるにもかかわらずブッダは不可触賤民であるスヴァスティ少年に食事を勧めた。

 シッダールタはふたりの子どもに微笑んで、「みんなでいっしょにわけあって食べよう」と言ってから、白いご飯の半分をとりわけて、それにゴマ塩をつけてスヴァスティに渡した。

 少女スジャータと3人で慎ましい食事を摂(と)る。後年、ブッダが苦行を極めて死に瀕した際、乳粥(ちちがゆ)を与えてブッダの命を救った少女である。めいらくグループのコーヒーフレッシュもこの少女に因(ちな)んでいる。乳つながり。

 ブッダは静かに沈黙の中で食事を終える。

「きみたちは、どうして私が黙って静かに食事をしたのかわかりますか? いまいただいたお米やゴマの一粒一粒は、とてもありがたいものです。静かにいただくと、十分にそれを味わうことができるでしょう」

 これが「食べる瞑想」である。食事とは「他の生命」を摂取することだ。その意味で生は多くの死に依存している。植物の生を有り難いものとして押し頂く。香りを味わい、口に入った食感を意識し、咀嚼(そしゃく)に注意を払い、唾液と溶け合い、胃に収まり、臓腑に行き渡る様相を味わう。「他の生命」を体内に取り込む事実を明らかに客観的に見つめる。深く味わうことが供養にもなる。日常の食事は瞑想であり荘厳な儀式でもあった。

 会話を楽しみながら食事をするのが西洋の文化だが、生命に対する畏敬の念を欠いているように思われる。やはり日本で現在にまで伝わる「いただきます」の精神が正しい。

「きみが持ってきてくれたひとかかえの香草は、すばらしい瞑想の敷物になりました。昨夜と今朝、私はその上に坐って、平和に満ちた瞑想のなかで、すべてのものがはっきりと見えた。きみは私に大きな助けをくれたのですよ、スヴァスティ。私の瞑想行がもっと進んだら、その成果をきっときみたちとわかちあうことにします」

 ブッダは粗食を分かち合い、そして悟りの成果をもスヴァスティと分かち合うと告げる。ここに布施の精神があるのだ。アルボムッレ・スマナサーラの文章を読むと、より一層理解が深まることだろう。

 たとえばビデオをレンタルして一人で見るよりは、二人でわいわい見たほうが楽しいでしょう? たとえ自分がレンタル料を払っていても友達と見ればレンタル料以上の楽しみを得ているはずです。本当の楽しみは共有することで生まれます。いわゆる「布施」の精神です。幸福はそこから生まれます。物惜しみは布施の反対で、すごく苦しいのです。(中略)
 相手が求めようが求めまいが、ある程度のところで知らず知らずにわれわれはいろいろ共有します。幸福になりたければ、ものは「共有」するものなのです。

【『怒らないこと 2 役立つ初期仏教法話 11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年)】

 ブッダは自らの振る舞いを通して教える。「教義に従え」などという姿勢は微塵もない。人間を型に嵌(は)めて矯正する思想とは一切無縁であった。ただ、しなやかに生の流儀を示した。

 寄付や供養を募る寺社仏閣・教団は多いが、彼らが分け与えるのを見たことがない。

2012-10-16

常識を疑え/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 スヴァスティは黙って両手でその人の左手をおし抱きながら、思いきっていままで自分を悩ませていたことを口にした。「私がこのように触れたら、あなたさまが穢れるのではないでしょうか」
 その人は高らかに笑って、首を振った。「そんなことはありません。きみも私も同じ人間なのだから。きみは私を穢すことなんかできないんです。人が言うことを信じてはいけない」

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

『小説ブッダ』は不可触賤民(ふかしょくせんみん)であるスヴァスティ少年の目を通して描かれる。ブッダが放つ人格の香気に吸い寄せられ、スヴァスティとブッダの人生が交錯する。

 少年の悩みは深刻なものだった。以下にそれを示す。

不可触民=アウトカースト/『不可触民の父 アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
不可触民の少女になされた仕打ち/『不可触民 もうひとつのインド』山際素男
両親の目の前で強姦される少女/『女盗賊プーラン』プーラン・デヴィ

 ついでにもう一つ紹介しよう。

 女、子供を含めた11人の不可触民家族と仲間は、村のボスの家へ引き立てられた。家の前の広場には薪(まき)が山と積まれていた。
 ギャングたちが人びとを追い回している一方、村のカーストヒンズーは処刑の用意をせっせと整えていたのである。
 処刑は残酷極まるものだった。
 新聞などでは、11人全員射殺し、ケロシン(灯油)を浴びせ、薪にほうりこんで黒焦げにしたとあったが、それは事実ではない。実際はもっとひどいやり方で殺したのだが、余りにもむごたらしいので書くのをひかえたのだろう。
 ラジャン氏はそういい、彼の下(もと)に届いた報告を次のように語った。
 11歳になる少年を除いた大人10人は、男も女も、全員生きたまま手足を切断され、燃え盛る薪の山の中へ一人ずつ、順番に投げこまれた。もがき苦しんで転げ落ちるものは直ぐ焔(ほのお)の中へほうりこまれた。
 少年は生きたまま火中へ投じられ、数回にわたり焔の中から這(は)い出し、村人に許しを乞うたが、その都度火中に投じられ、遂に絶命した。
 芋虫となって焔の中を転げ回る人びとをクルミ(※シュードラ〈農民〉カースト)の女たちは長い棒で、ローストチキンを焙(あぶ)るように、屍体が黒焦げになり、識別不能になるまで丹念に転がした。
 これが真相です。ラジャン氏は暗い笑みを唇の端に浮かべていった。
「この事件も、警察がかんでいるのです。いつだって、不可触民虐殺の背後にはカーストヒンズーと“警察”がいるのです」
 ラジャン氏は語り継いだ。
「ギャング共は朝の6時頃村へ乗りこんできたのです。間もなく不可触民の一人が8キロ離れたところにある警察署へ急を知らせました。その頃は雨季前で、道が通じていたのです。
 ギャングの襲撃を知らせにきた農夫に、署長はなんといったと思います。
“500ルピー出せ。そしたら今直ぐにでも助けにいってやる”といったのです。
 署長の脇には、街の大ボスが椅子にふんぞり返り、署長と顔を見合わせニヤニヤしていた、とその農夫は証言しています」

【『不可触民 もうひとつのインド』山際素男〈やまぎわ・もとお〉(三一書房、1981年/光文社知恵の森文庫、2000年)】

「差別」という価値観が有する凄まじい暴力性の一端が窺える。日本における穢多(えた)、非人(ひにん)、被差別部落朝鮮人も同じ構図だ。ハンセン病(癩病〈らいびょう〉)患者を見よ。日本社会が1000年以上にわたって持ち続けてきた差別意識には一片の正当性もなかったではないか。

 余談が過ぎた。蓮華は泥の中から咲き、ブッダはカースト制度の中から誕生した。「きみも私も同じ人間なのだから」という一言には時代を揺り動かすほどの重みがある。

「きみは私を穢すことなんかできないんです」――言い換えるならば、バラモン(ブラフミン)やクシャトリヤは「穢(けが)れやすい」連中なのだ。掃き溜めに鶴、インドにブッダである。ブッダの優しい言葉の背景には辛辣(しんらつ)なまでの厳しさが聳(そび)えている。

「人が言うことを信じてはいけない」――常識は常識であるというだけで誰一人疑おうともしない。科学的な思考・合理的な精神に生きよ、との教えに少年の蒙(もう)は啓(ひら)かれたことだろう。わずか二言でブッダはインド社会の迷妄を鮮やかに斬り捨て、少年の悩みを断ち切ってみせた。ブッダとは「目覚めた人」の謂(いい)である。目覚めた人はまた、人々を目覚めさせる人でもあった。

 スヴァスティ少年はブッダに付き従い、やがて弟子の一人となる。挿入された一つひとつのエピソードは南伝パーリ語経典や阿含経を中心に膨大な経典に散らばる断片的記述を収集したもので、創作は抑えられている。



日常の重力=サンカーラ(パーリ語)、サンスカーラ(サンスクリット語)/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

2012-10-13

等身大のブッダ/『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン


『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ

 ・等身大のブッダ
 ・常識を疑え
 ・布施の精神
 ・無我

『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
『悩んで動けない人が一歩踏み出せる方法』くさなぎ龍瞬
『自分を許せば、ラクになる ブッダが教えてくれた心の守り方』草薙龍瞬

ブッダの教えを学ぶ
必読書リスト その五

 私は懐疑心に富む男だ。加齢とともに猜疑心(さいぎしん)まで増量されている。元々幼い頃から「他人と違う」ことに価値を置くようなところがあった。だからいまだに付き合いのある古い友人は似た連中が多い。嘘や偽りに対して鈍感な人物はどこか心に濁りがある。曖昧さは果断と無縁な人生を歩んできた証拠であろうか。

 クリシュナムルティと出会ってから宗教の欺瞞が見えるようになった。暗い世界にあって宗教は人々を更なる闇へといざなう。クリシュナムルティの言葉は暗い世界を照らす月光のようだ。無知に対する「本物の英知」が躍動している。

 そんな私が本書を読んで驚嘆した。人の形をもった等身大のブッダと遭遇したからだ。「ああ世尊よ……」と思わず口にしそうになったほどだ。「小説」とは冠しているが、記述は正確で出典も網羅している。あの中村元訳のブッダが「ドラマ化された」と考えてもらってよい。

 もう一つ付言しておくと、私はティク・ナット・ハンやアルボムッレ・スマナサーラ声聞(しょうもん)だと考えている。決して軽んじるわけではないが、やはりクリシュナムルティのような悟性はあまり感じられない。その意味では「現代の十大弟子」といってよかろう。我々一般人は彼らから学んでブッダに近づくしかない。

 本書については書評というよりも、研鑚メモとして書き綴ってゆく予定である。また中村訳岩波文庫に取り掛かった後で再読を試みる。

 どこかに到着するのではなく、ただひたすら歩くことを楽しむ。ブッダはそのように歩いた。比丘たちの歩みもみなおなじように見えた。目的地への到着をいそぐ者はだれもいない。ひとりひとりの歩みはゆっくりとととのって平和だ。まるで一緒にひとときの散歩を楽しんでいるようだった。疲れを知らないもののように、歩みは日々着実につづいていった。

【『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン:池田久代訳(春秋社、2008年)】

「歩く瞑想」である。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
「100%今を味わう生き方」~歩く瞑想:ティク・ナット・ハン

 偉大な思想家や学者は皆散歩を楽しむ。特に「カントの散歩」は広く知られた話だ。晩年のアインシュタインはゲーデルとの散歩を殊の外、楽しみにしていた。

 散歩は「脳と身体の交流」であり、「大地との対話」でもある。我々は病床に伏して初めて「歩ける喜び」に気づく。失って知るのが幸福であるならば、我々は永久に不幸のままだ。

 幸福とは手に入れるものではないのだろう。「味わい」「楽しむ」ことが真の幸福なのだ。すなわち彼方の長寿を目指すよりも、現在の生を楽しむ中に正しい瞑想がある。

 まずは「歩くことを楽しむ」と決める。そうすれば通勤の風景も一変するはずだ。



ブッダが解決しようとした根本問題は「相互不信」/『ブッダは歩むブッダは語る ほんとうの釈尊の姿そして宗教のあり方を問う』友岡雅弥

2012-09-12

「動かざる者」を支配する原子力発電所/『見よ 月が後を追う』 丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
『千日の瑠璃』丸山健二

 ・「動かざる者」を支配する原子力発電所

 語り手はオートバイだ。

 そう、私は理知によって世界を知ることができる、誇り高いオートバイなのだ。

【『見よ 月が後を追う』丸山健二(文藝春秋、1993年)以下同】

 色は青。

 私の青は、うねる蒼海の青であり、遠い分水嶺の青であり、亜成層圏辺りに広がる青、
 私の青は、世の風潮にほとんど影響されない青であり、神々の審判をきっぱり拒む青。

野に降る星』の旗、『千日の瑠璃』のオオルリと同じ色だ。青い色は男の心をくすぐる。古来、狩猟は男の仕事であった。それゆえ男性は青空と同じ色に反応する、という説がある。

 十数年前に一度読み、再読した。原子力発電所の記述を紹介しよう。

 本書のテーマは「動く者」と「動かざる者」との対比である。前者を象徴するのがオートバイと乗り手の若者、後者のシンボルが八角形の楼台と田舎町の人々である。そして「動かざる者」を支配する権力の象徴として原子力発電所が描かれている。

「動かざる者」とは何か? それは変化を忌み嫌い、現状維持に安んじ、定住に満足する生き方だ。自分を「世間に合わせる」生き方といってよい。これに対して「動く者」「流れる者」は一切のしがらみを拒絶し、時に無法の一線を飛び越えることもよしとする自由人だ。

 そこかしこに蔓延(はびこ)っている、一生を棒に振り兼ねない、投げ遣りな静観主義。

 原子力発電所がある町にはこのような空気があった。

 深々と更け渡る夜のなかにあって命の振動音を発しているのは、原子力発電所のみだ、
 こんな片田舎でともあれ権勢を誇って生き生きとしているのは、低濃縮ウランだけだ。

 稼働してまもない、とかく風評のある、元凶の典型となったそいつ、
 人命など物の数ではないといわんばかりに、一意専心事に当たるそいつ、
 桁外れの破壊力を秘めながら、普段は目立たない汚染を延々と繰り返すそいつ。

 そいつは暗々のうちに練られた計画に従って、高過ぎる利益を生み出している、
 そいつは進取的な素振りを見せながら、旧弊家どもの手先として働いている、
 そいつは昼夜を問わず制御棒をぶちのめす機会を虎視眈々(たんたん)と狙っている。

 およそ人が造り出した物で自然の摂理に逆らわない物はない、と原子力発電所は嘯(うそぶ)く、
 たしかに……この私にしてからがそうだ。

 鉄やゴム、それに少々のガラスといった材料から成る私も決して例外ではない、
 原子炉の比ではないにしても、私もまた、やはりそれなりの毒を撒き散らす者だ、
 これまで私が受けてきた非難にしても、謂(いわれ)のない非難というわけではない。

 私は気化させたガソリンを連続的に爆発させて、燃えかすと爆音を世間に叩きつける、
 私は前後ふたつの車輪を意のままに回転させて、世に満つくだらない不文律を蹴散らす、
 私は無意味な高速がもたらす【がき】染みた示威行為によって、進退極まった中年男を悲しみのどん底から救い、陶然と酔わせる。

 私にしがみついて疾駆する者は、自ずと他律的に振舞うことをやめるのだ、
 私と共にある者は、何事にも怯(ひる)まず、飯代に事欠く立場さえすっかり忘れてしまう、
 私といっしょに雲を霞(かすみ)と遁走する者は、私がその潜在意識とやらを充分に汲み取って、ひと思いに死なせてやろう、
 むろん独りで死なせはしない。

 この小説は実験的な手法が試されており、段落によっては行末を一字ずつずらしてきれいな斜線となっている。

 動く者はリスクを恐れない。動かざる者は目前のリスクを恐れることで、かえって将来の大きなリスクを背負ってしまう。損得勘定に目が眩んで、好きでもないことに身をやつすのが大人にふさわしい生き方なのだろう。

 私は突っ走ることで主我を確立する。
 私が放つ光芒は皮相的な見解を突き破り、外界のありとあらゆる事物や、有象無象の一時も忽(ゆるが)せにできないめまぐるしい変化に鋭く対応する、
 私が発する感嘆の声は根拠のない推論を押しのけ、魂も消え入るような思いを叩き伏せ、未だに固持されている旧説を素早く追い越して行く。

 動く者はたとえ何歳になろうとも若々しい。過去なんぞ影みたいなものだ。踏みつけて歩けばよい。

 それから彼は、自分の両親と娘の家族が郷里を引き払った理由について説明する、
 つまり、かれらがそうしたのは大半の住民に倣ったまでのことだ、と言い、町の定住人口を却って激減させてしまったのは当の原子力発電所だ、と語る、
 原子力発電所がこの町に居坐るために気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能のせいで、多くの人々が一生に一度の決断を下したのだ、と言う。

「気前よくばら撒いた金と、いつの日かきっとばら撒くであろう放射能」との対比が鮮やかだ。札束で頬を叩かれれば、誰だって恵比寿顔になる。

 とにもかくにも完璧に制御されているものと信じるしかない核反応の恐怖に寄り掛かって惰眠を貪るしかない町、
 この町はすでに拒絶する力を失っているのかもしれない、
 もしそうだとすれば、身を潜めなくてはならない者にとっては打ってつけの土地だろう。

 我々は「拒絶する力」を持っているだろうか? 理不尽な仕事を拒んで会社を去ることができるだろうか? 家庭を省みることもなく形骸と化した夫婦関係に終止符を打つことはできるだろうか? はなっから労働基準法など順守するつもりのないパートタイムの仕事をあっさりとやめることはできるだろうか? 結局のところ、徒手空拳で自分だけの力を頼りにして飯を食ってゆける人間しか「拒絶する力」を有していないのだ。資本主義という経済システムに取り込まれた人生からは「拒絶する力」が奪われてゆく。

 思った通りの死せる町、
 際立っているのは原子力発電所のみだ、
 そいつは既知の事実を誣(し)いる輩、
 そいつがせっせと造りつづける電力はあっという間に300キロも遠く懸け隔てた彼方へと、国家の枢機を握っている大都市へと吸い込まれてゆく。

 福島も新潟も東京から300km圏内だ。

 地元の素封家を差しおいてこの町を牛耳っている原子力発電所、
 それは尚も廃家の数を増やしつづけ、生命や文化や尊厳を殺し、ついでに因習や禁忌といったものまでもゆっくりと残害しつづけている。

 地方は中央の権力によって侵(おか)されるのだ。権力者は金と暴力にものを言わせる。

 外洋の彼方で早くも油然と湧く夏雲、
 海水に溶け込んでいる希元素の憂鬱、
 改心の見込みなどまるでない放射能。

 そして遂に2011年3月11日、放射能はばら撒かれた。

 かれらは、安堵の胸を撫でおろしている者ではなく、静座して思索に耽る者でもない、
 かれらは、放射能の源に対して舌尖鋭く詰め寄る者ではなく、安く造った電力に法外な値を吹っかけて売りつける企業に一矢を報いる者でもない。

 かれらは「我々」でもある。ただ雇用が、働き口が欲しかったのだろう。

 郷里にとどまることにした者たちは、常に無能な時の為政者が大仰に述べ立てた言葉を頭から信じたのではないだろう、
 さんざん疑った挙句に、ともあれ成り行きに任せてみることにしたのだろう、
 そうやって居残った人々は、殺気を孕んだ大気や、前途に横たわる暗流を、現実から遊離した不安として無理矢理片づけてしまったのだろう。

 従ってこの地はもはや、汚されたと言い表せるほどの聖域ではなくなっているはずだ、
 よしんばプレアデス星団が見て取れるような澄明な夜が続いたとしてもだ。

 国も東京電力も安全なデータだけを示して地元住民を篭絡(ろうらく)したはずだ。反対したのは多分、左翼の連中だけだったのはあるまいか。彼らにしても、どうせ政治目的で動員されたことだろう。弱り目に祟り目とはこのことだ。国家は弱者に対して情け容赦がない。

 この小説は福島の原発事故が起こる15年前に書かれたものであって、被災者を鞭打つものではない。どうか誤解のなきよう。



逃げない社会=定住革命/『人類史のなかの定住革命』西田正規

2012-05-21

孤なる魂をもつ者/『千日の瑠璃』丸山健二


『メッセージ 告白的青春論』丸山健二

 ・20世紀の神話
 ・風は変化の象徴
 ・オオルリと世一
 ・孤なる魂をもつ者

『見よ 月が後を追う』 丸山健二

必読書リスト その一

 私は野良犬だ。
 昼夜の別なくまほろ町をうろつくせいで、少年世一と出くわすことがどこの誰よりも多い野良犬だ。躰は小さく、従って餌代も安くつき、無駄吠えも少ないというのに、結局私は飼い犬になれなかった。つらつら惟るに、白と黒という毛の配色が、どうしても不吉な印象を与えてしまうのだろう。もっともそのおかげで私は、人間に飼われている犬や、犬を飼っている人間の何倍もの自由を手に入れることができたのだ。
 そうはいっても、私の自由の大きさを真底わかってくれているのは、世一ただひとりでしかなかった。少なくとも私のほうは、世一のそれを充分理解しているつもりだった。ほかの人間は皆人間以外の何者でもなかったが、しかし世一だけは違って見えた。彼は人間でありながら、同時に人間以外のすべてでもあった。そして私たちはいつも、互いに意識するあまり、無言ですれ違っていた。たまに眼と眼が合ったりすると、私たちは眩いばかりの自由な身の上にあらためて気づき、大いに照れてしまい、卑下さえもしたくなり、足早に立ち去るのだった。
 ところがきょうの私たちは、葉越しに見える月の力を借りて、声を交した。私は、所詮見限られた者同士ではないかという意味をこめて、「わん」とひと声吠えた。すると世一はぴたっと歩みをとめ、振り向きざまにこう言った。「されど孤にあらず
(11・5・土)

【『千日の瑠璃』丸山健二(文藝春秋、1992年/文春文庫、1996年)】

 数日前から何となく手にとってはパラパラとページをめくっている。初めて読んだのは1998年のこと。丸山のエッセイは数冊読んでいたものの小説は初めてだった。物語性には欠けるが濃密な文体と千の視点に圧倒された。私は仏法で説かれる一念三千の法理が何となくわかったような気になった。智ギ(天台)によれば、己心の一念に三千の諸法が具(そな)わっているという。

 まほろ町という小宇宙を千の視点から物語る。その中心に位置するのは身体の不自由な少年・世一〈よいち〉である。丸山は田舎町を嘲笑し、作家という職業をも愚弄(ぐろう)する。世一の役回りは神ではなく鏡だ。本書で名前を付与されているのは世一ただ一人である。つまり世一以外は類型(モデル)にすぎない。

 知的障害をもつ世一が時折、言葉を放つ。ひょっとしたら我々の周囲にいる障害者や病人はそうした役を演じているだけなのかもしれない。私はいささか介護の経験があるのだが、本当に力がある人間はボディビルダーのような人々ではなく、身体障害者であると思っている。腕や脚、はたまた半身が鉛のような重さとなっているのだ。リハビリの苦しさは筋肉トレーニングの比ではないという話も聞いたことがある。

 仏法では人間が生きる世界を「世間」と名づける。出世とは「出世間」の略である。世間の本質は差別だ。社会は必ずヒエラルキーを形成し、大半の人々は部下・奴隷・兵士の役目を押しつけられる。そして出自・学歴・スキルによって報酬が異なる。

 我々は人間の価値を「いくら稼いでいるか」で判断する。だが野良犬と世一は違う。

【付記】久々に『千日の瑠璃』を調べたところ、何とガジェット通信で全文が配信されることを知った。

ガジェット通信:丸山健二
丸山健二

 
 

2011-12-17

修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく/『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳


『われら』ザミャーチン
『すばらしい新世界』オルダス・ハクスリー:黒原敏行訳

 ・現在をコントロールするものは過去をコントロールする
 ・修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく

『華氏451度』レイ・ブラッドベリ
SNSと心理戦争 今さら聞けない“世論操作”
『マインド・ハッキング あなたの感情を支配し行動を操るソーシャルメディア』クリストファー・ワイリー
『AI監獄ウイグル』ジェフリー・ケイジ
ドキュメンタリー映画『プランデミック 3 ザ・グレート・アウェイクニング』〜PLANDEMIC 3: THE GREAT AWAKENING〜

必読書リスト その五

 凄いニュースだ。

 野田佳彦首相は16日、政府の原子力災害対策本部の会合で、東京電力福島第一原発で原子炉を安定して冷却する「冷温停止状態」を達成し、事故収束に向けた工程表「ステップ2」が完了できたとして「事故そのものは収束に至った」と宣言した。

TOKYO Web 2011-12-17

 どうして誰も喜ばないのだろう? なぜ胸を撫で下ろす人がいないのだろう? それは「収束」が嘘であることを知っているからだ。ゴムひもじゃあるまいし、放射能がそう簡単に収束してたまるかってえんだ。

 福島原発の現場で働く人々の反応はどうか?

「冷温停止状態」を通り越し「事故収束」にまで踏み込んだ首相発言に、福島第一原発の現場で働く作業員たちからは、「言っている意味が理解できない」「ろくに建屋にも入れず、どう核燃料を取り出すかも分からないのに」などと、あきれと憤りの入り交じった声が上がった。
 作業を終え、首相会見をテレビで見た男性作業員は「俺は日本語の意味がわからなくなったのか。言っていることがわからない。毎日見ている原発の状態からみてあり得ない。これから何十年もかかるのに、何を焦って年内にこだわったのか」とあきれ返った。
 汚染水の浄化システムを担当してきた作業員は「本当かよ、と思った。収束のわけがない。今は大量の汚染水を生みだしながら、核燃料を冷やしているから温度が保たれているだけ。安定状態とは程遠い」と話した。
 ベテラン作業員も「どう理解していいのか分からない。収束作業はこれから。今も被ばくと闘いながら作業をしている」。
 原子炉が冷えたとはいえ、そのシステムは応急処置的なもの。このベテランは「また地震が起きたり、冷やせなくなったら終わり。核燃料が取り出せる状況でもない。大量のゴミはどうするのか。状況を軽く見ているとしか思えない」と憤った。
 別の作業員も「政府はウソばっかりだ。誰が核燃料を取り出しに行くのか。被害は甚大なのに、たいしたことないように言って。本当の状況をなぜ言わないのか」と話した。

TOKYO Web 2011-12-17

 やはり現場の声は重い。野田首相の言葉の軽さとは対照的だ。政府、東電、保安院は今まで散々嘘に嘘を重ねてきた。巨大な力を持つ連中は少々叩かれたところでビクともしない。「どうせ正確な情報を流したところで文句を言う奴はいるわけだから、これくらいは構わんだろう」という思惑があって当然だ。詐欺国家ニッポン。

 我が国が法治国家であるならば、政策ミスによる犯罪性を司法が裁くべきであると考えるがどうだろう? 鈴木傾城〈すずき・けいせい〉氏が「せめて、東京電力の責任者くらいは、しっかり死刑にすべき」と書いている。私は原子力行政に絡んで利権に預かってきた連中は、最低でも禁固刑にすべきだと思う。菅直人前首相は死罪に値すると考える。民主党内から切腹を求める声が上がってしかるべきであった。

 ジョージ・オーウェルが描いた『一九八四年』的世界が現実となりつつある。以下の記事を熟読されよ。

現在をコントロールするものは過去をコントロールする/『一九八四年』ジョージ・オーウェル

 ダブルシンク(二重思考)という概念(オーウェルの造語)が歴史の本質を炙(あぶ)り出す。歴史とは事実を意味しない。記録されたもののみが歴史なのだ。

 例えば原発労働者の声は歴史として残らない。大体、数百年後の日本史年表であれば「収束宣言」すら記録されない可能性が大きい。よほどのことがない限り、カッコの中や脚注に書かれることもないのだ。我々は当事者だから日々のニュースを極太ゴシック体で受け止めるが、100年前の事件は名称でしか認識していない。つまり100年後には「東日本大震災時における福島原発事故」で全部片づけられてしまうのだ。1000年立てば「日本昔ばなし」レベルだ。

 この恐ろしさが理解できるだろうか? 権力者が修正し、改竄(かいざん)を施し、捏造(ねつぞう)を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆくのだ。

 権力とは、暦(こよみ)、文字、度量衡(どりょうこう)を決定するものだ。そして歴史とは政治史を中心に綴られる(※岡田英弘を参照のこと)。

歴史とは何か/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘

 彼は彼女に理解させようとした。「これはまずめったにないことなんだ。単に誰かが殺されるという問題じゃない。分かるだろう、昨日を起点としてはるか続く過去が現に抹消されているんだ。過去がどこかで生き延びるとしたら、それは何のことばもついていない数少ない確固たる物体のなかでしかない。例えば、そこにあるガラスの塊のようなもののなかとかね。すでにぼくたちは、革命について、そして革命前の時代について、文字通り何の手がかりもなくなっていると言っていい。記録は一つ残らず廃棄されたか捏造され、書物も全部書き換えられ、絵も全部描き直され、銅像も街も建物もすべて新しい名前を付けられ、日付まですっかり変えられてしまった。しかもその作業は毎日、分刻みで進行している。歴史は止まってしまったんだ。果てしなく続く現在の他には何も存在しない。そしてその現在のなかでは党が常に正しいんだ。もちろん分かっているさ、過去が捏造されているって。でもぼくがそれを証明するなんて、とうてい無理な話、たとえ自分がその捏造に直接関わっていてもね。作業が終われば証拠は何も残らないのだから。唯一の証拠はぼくの頭のなかにあるだけ。そしてぼくの記憶を共有してくれる人間がはたして他にいるものやら、とても自信がないね」

【『一九八四年』ジョージ・オーウェル:高橋和久訳(ハヤカワepi文庫、2009年/吉田健一・龍口直太郎訳、文藝春秋新社、1950年/『世界SF全集 10 ハックスリイ オーウェル』村松達雄・新庄哲夫訳、早川書房、1968年新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫、1972年)以下同】

 そしてオーウェルの時代には判明していなかったことと思われるが、人間の記憶自体も日常的に書き換えられていることが科学的に証明されている。つまり人の数だけ事実があるってわけだよ。歴史修正主義は社会主義国家の専売特許に非ず。

 ウィンストン・スミスとジュリアは恋に陥る。恋愛そのものが自由であり反逆行為であった。しかし二人の自由は長く続かなかった。管理社会はありとあらゆるところに罠を張り巡らせていた。二人は逮捕される。

「しかし、いいかねウィンストン、現実は外部に存在しているのではない。現実は人間の精神のなかにだけ存在していて、それ以外の場所にはないのだよ」

 オブライエンの指摘が読む者の背筋を凍らせる。そして記憶と精神を改造すべく、一片の容赦もない拷問が加えられる。

「他人を支配する権力はどのように行使されるかね、ウィンストン?」
 ウィンストンは考えた。「相手を苦しめることによって、です」と答えた。
「その通りだ。苦しめることによってはじめて行使される。服従だけでは十分でない。相手が苦しんでいなければ、はたして本当に自分の意志ではなくこちらの意思に従っているのかどうか、はっきりと分からないだろう。権力は相手に苦痛と屈辱を与えることのうちにある。権力とは人間の精神をずたずたにし、その後で改めて、こちらの思うがままの形に作り直すことなのだ」

 原書の脱稿は1948年12月4日(1949年刊行)。下二桁の数字を入れ替えてタイトルにしたとされている。イスラエル建国と同年であることが不気味だ。

 スタンレー・ミルグラムがアイヒマン実験を通して服従心理のメカニズムを解明したのは1963年のことである。

服従の本質/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 オーウェルはミルグラムより15年も先んじてディストピアを描いてみせたのだ。当初は『ヨーロッパ最後の人間』(The Last Man in Europe)と題されていた。単純なソビエト批判でないことは明らかだ。中世において人間はヨーロッパにしか存在しなかった。これが西洋史観である(※化物世界誌)。

コロンブスによる「人間」の発見/『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 すなわちオーウェルが描いた世界は、集団化が行き着く極北を示したものと考えられる。組織における人間は機能や役割に貶(おとし)められる。社員はいつだって交換可能な部品のようなものだ。そして大衆は会社や国家に依存せざるを得ない情況へと追い込まれる。

 国民国家が目指すのは「国家依存主義」であり「国家万能主義」であろう。ゆえに無謬性(むびゅうせい)が重んじられるのだ。

「つまづいたって いいじゃないか にんげんだもの」と、みつをは言った。人間はつまづくが国家はつまづくことがない。決して。



物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一

2011-11-17

ナット・ターナーと鹿野武一の共通点/『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン


『奴隷船の世界史』布留川正博
『奴隷とは』ジュリアス・レスター
『砂糖の世界史』川北稔
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『ダッチマン/奴隷』リロイ・ジョーンズ

 ・ナット・ターナーと鹿野武一の共通点

『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『アメリカ・インディアン悲史』藤永茂
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス
『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

 近代ヨーロッパの繁栄を支えたのは奴隷の存在であった。つまり産業革命も国民国家もアフリカ人を踏みつけることで成立したわけだ。

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔

 植民地アメリカでは1619年に最初のアフリカ人奴隷の記録がある(Wikipedia)。その後、アメリカ先住民を大量虐殺したヨーロッパ人は労働力として1000万人を超える黒人を輸入した。

Slave trader ledger p.12
(奴隷商人の元帳、1848年)

 奴隷は「物」であった。本書でも法的には「動産」として扱われている。ナット・ターナー(1800-1831年)は実在した人物だ。彼が首謀者となって55人の白人を殺害し、20名あまりが身体に障害を被(こうむ)った。

 本書の冒頭に掲げる《公示》と題した一文は、このボードに関して当時記録された唯一の重要文書に付せられた序文である。この文書は約20ページからなる小冊子で、『ナット・ターナの告白』と大され、翌年初頭リッチモンドで出版されたものであるが、私はその小冊子のいくつかの部分を本書に織りこんだ。物語を書き進めるにあたり、私はナット・ターナーと彼を首謀者とする反乱に関して、【既知の】事実はできるだけ忠実にたどったつもりである。

【『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン:大橋吉之輔〈おおはし・きちのすけ〉訳(河出書房新社、1970年)以下同】

 事実を元にしたフィクションである。当然ではあるが実際のナット・ターナーとは違っていることだろう。しかしながら、ウィリアム・スタイロンの想像力が吹き込まれて、ナット・ターナーが歴史の彼方から蘇ってくるのだ。その意味では著者の己心に実在したナット・ターナーといえるだろう。

Slave

 闇は眼に快かった。長年のあいだ、この時刻には祈りをあげるか、聖書を読むのが私の習慣だった。しかし、囚人となってからのこの5日間、私は聖書を持つことを禁じられ、祈りについては――そう、唇から祈りの言葉をむりやりにでも押し出すことが全くできなくなっていることは、私にとってもはや驚きでもなんでもなくなっていた。だが、この日々の勤行をやりたいという強い欲求はまだあった。それは私が大人になってからずっと長いあいだ、肉体の機能のように単純で自然な習慣になっていたのだ。だがいまは、私の理解を越えた幾何学とか他の不可思議な学問の問題のように、やりとげることがまるで不可能なように思えるのだった。今となっては、いつ自分に祈る力がなくなったかを思い出すこともできない――1ヵ月、2ヵ月、あるいはそれ以上前だったかもしれない。何故その力が私から消え失せたか、その理由でも分かっていれば、せめてもの慰めになっていただろう。ところが、それすらわからず、私と神とへだてる深淵にはいかなる形のかけ橋も見当たらなかったのだ(後略)

 本書のテーマは宗教と暴力である。『一九八四年』は全体主義と暴力を描いた。『黒い警官』は権力と暴力を描いた。この3冊は暴力三部作と名づけていいだろう。私が読んできた小説で最高の部類に君臨する。

 ナット・ターナーは奴隷でありながら読み書きができた。また霊感も強かったようだ。弁護士のグレイはナットのことを「神父さん」と呼んでいる。

 人を疑うことを知らなかったアフリカ人が、まんまとヨーロッパ人に騙されてアメリカへ輸入された。船倉に押し込められ、劣悪な環境の中で死んでいった人々も多かった。鎖に縛られて運ばれたアフリカ人は、アメリカに降ろされると今度は鞭を振るわれた。

whippingPostDover,Del

 鞭を持つのは神の代理人である白人であった。彼らは「神の支配」という妄想に取りつかれているため、その反動として現実世界で支配せずにはいられないのだ。他国をヨーロッパの植民地とするのは当然の権利であり、グローバルスタンダードという名を借りた自分たちのルールを押しつけるのも朝飯前だ。

「南部だけじゃなく北部でも、アメリカじゅうで、みんなが不思議に思った、どうして黒んぼどもがあんなに団結できたんだろう? どうしてあいつらがあんな【計画】を考えだし、それを整然と言ってもいいくらいにおし進めて、実行に移すことができたんだろう、とね。だが、だれにもわからなかった、真相はどうしてもつかめなかった。なにがなにやらさっぱりで、五里霧中の有様だったわけだ」

 白人が黒人を猿同様に考えていたことがよくわかる。

 すべての黒人が12歳か10歳かあるいはそれよりも早くから、自分は白人から見れば人格も道徳観も魂も欠けたただの商品、品物にすぎぬことを自覚するときにもつようになるあの内的な感じ――それは言葉で表わすことはほとんど不可能な実在感だ――を表現したのもハークだった。その感じをハークは【黒ぼけ】と名づけたが、それは私の知っているどの言葉よりも、すべての黒人の心情にひそむ麻痺状態と恐怖とを簡明に表現している。

 黒人が奴隷となる様相を見事に描いている。自由を奪われた人間は無気力になる。奴隷という身分自体が強制収容所と同じ機能を果たすのだ。

「お前の評判は、いわば、お前に先行してるんだ。ここ数年間、ひとりの非凡な奴隷についての驚くべき噂がわしの耳にとどいていた。その奴隷は、このクロス・キーズの近在で何人かの主人に、転々と所有されたが、もって生まれた卑賤な境遇をよく克服して――語るも不思議(ミーラーピレ・デイクトゥ)や――すらすらと読み書きができるようになり、その証拠をみせろとあれば、自然科学のむつかしい抽象的な著作も読解してみせるし、また、口から出まかせの口述筆記もみごとな書体で何ページでもやってのけるし、さらに、簡単な代数が分かるくらいに算数もマスターしているし、他方、聖書のほうの理解もずいぶん深いもので、数少ない神学の大家のうち彼の聖書の知識を試験したものたちは、彼の博学のすばらしさに驚いて首をふり退散したそうだ」彼は言葉を切り、げっぷをした。

「要するに、この呪われた国のもっとも惨めな底辺の一人でありながら、自分の悲惨な境遇をよく克服して物ではなく【人間】になった一人の奴隷の存在を想像するということは――そんなことは、どんな奔放な想像の域をも越えた話だ。否(ノー)、否(ノー)! そんな異形(いぎょう)のイメージを受け入れることを拒否する! 説教師さん、【ネコ】という字はどう書くのかいってみてくれ、え? さあ、この悪ふざけの流言の本当のところをわしに証(あか)してみせてくれ!」

 読み書きは自問自答へといざなった。信仰は神との対話であった。ナット・ターナーの内側では他の奴隷たちと隔絶した自我が芽生えたのだろう。そもそも学ぶこと自体が自由を意味する。そして自由を享受するほど不自由に敏感となってゆく。

 ナットの主人であるサミュエル・ターナーは奴隷制に反対していた。しかし不幸なことにナットの知性は本質を見抜いていた。

 しかしいぜんとして不幸な事実は残る。暖かい友情や一種の【愛情】が(※主人であるサミュエル・ターナーとナットの)二人のあいだに通いあってはいたが、私が養豚とか新式肥料の散布のばあいとまったく同じような実験対象にされていたことに変わりはないのだ。

 ある日のこと、仲間が売られてしまったことにナットは気づく。サミュエル・ターナーは弁明した。

「たしかに、真の人間といえるものはまだどこにもいはしない。【たしかに】そうなんだ! なぜなら、これまでの人間は分別のない愚かものばかりで、それだけがおのれの同属、同胞と卑劣きわまる関係を保って生きているのだ。それ以外にどうしてあんなにぶざまで恥かしい憎むべき残酷さを説明できようか! ふくろねずみやスカンクでさえもっと分別がある! いたちや野ねずみでさえ自分の同類い対しては天性の愛情というものをもっている。人間と同じように低劣ことがやれるのはただ虫けらだけだ――夏になるとポプラの木に群がって、甘い蜜を分泌する小さなあぶらむしどもと貪婪(どんらん)に結ばれようとする蟻のように。そうだ、たぶん真の人間らしい人間はまだどこにもいはしないのだ。ああ、神はどんなにか痛恨の涙を流していらっしゃることか、人間の他の人間に対する所業をごらんになって!」急に言葉がとぎれた。見ると彼は発作を起こしたように首をふり、とつぜんこう叫んだ、「それもすべて金の名において行なわれているのだ! 【金】の!」

 サミュエル・ターナーは罪悪感を隠せなかった。そしてナットをも手放すことになる。新しい主人はエップス牧師だった。

「話によるとだな、黒んぼの男は一般にふつうよりも1インチ長い一物(いちもつ)をもっとるそうだが、そうなのかい、ぼうや?」
 私は、ふるえる指を太腿に感じながら、じっと押し黙っていた。

 エップス牧師は男色家だった。ナットが拒むや否や苛酷な労働を命じ、あろうことか近隣の人々に無料でナットを貸し出した。この二つの出来事がナットの心に暗い影を落としたことは容易に想像がつく。

 飢えと同様、私は鞭も経験したことがなかった。鞭がふりおろされて首筋に火縄のようにまきついたとき、痛みが光のように炸裂して頭蓋の空洞のなかでぱっと花ひらいた。私は思わずあえいだ。痛みは喉の内側につきぬけて尾をひき、私を窒息させてしまいそうな気がしたので、さらにまたあえいだ。そのときになってはじめて、つまり数秒後のことだが、やっと鞭の音が私の心に知覚され――それは空を切る鎌のような妙にもの静かなひゅうという音だった。またそのときはじめて、私は片手をあげて生皮鞭が肉にくいこんだ箇所をさわってみたが、熱くねばねばした血の流れを指先に感じた。

1863
(鞭打ちによる傷痕、1863年)

 白人に対する鋭くはげしい憎悪は、もちろん、黒人たちが心のなかに容易に抱きうる感情である。しかし実をいえば、すべての黒人の心のなかにそのような憎悪が充満しているわけではない。それが至るところで華々しくはびこるには、あまりにも多くの神秘的な生活や機会の様式(パターン)が必要なのである。そのような真実の憎悪――それは非常に純粋かつ頑固な憎しみで、どんな人間味のあるあたたかい気持も、どんな共感や同情も、その石のような表面には微細な刻み目やひっかき傷すらつけられないほどのものだ――は、すべての黒人に共通しているものではない。それは、残忍な葉をつけた花崗岩の花のように、育つときには育っていくが、それももとはといえば不確かな地面にまかれた弱い種子から出てくるのである。その憎悪が完全に結実するには、悪意にみちた充分な育ち方をするには、多くの条件が必要だが、そのうちでも、黒人がそれまでのある時点において白人とあるていど親しく暮らした経験があるという事実はもっとも重要な条件である。黒人が自分の憎悪の対象をよく知るということ、白人の策略、欺瞞、貪欲さ、腐敗の極致、を知るようになるということは、もっとも必要なのだ。
 なぜなら、白人を親しく知らなければ、その気まぐれで不遜な温情に屈服したことがなければ、その寝具や汚れた下着や便所の内部の臭いをかいだことがなければ、自分の黒い腕が白人女の指にさりげなく横柄にさわられたことがなければ、また、白人がふざけたり、くつろいだり、心にもない信心をしたり、下劣な酔っ払いかたをしたり、干し草畑で欲情まるだしに不倫の交接をしたりするところを目撃したことがなければ――そういう打ちとけた内輪の事実を知悉していなければ、黒人の憎悪はあくまでたんなる【見せかけ】にすぎないのだ。そんな憎しみは抽象的な幻想にすぎない。

 奴隷が立ち上がるには白人の権威を失墜させる必要があった。権威とは神格化の異名でもある。天上人(てんじょうびと)と思い込んでしまえば、手が届かないから殴る気も起こらない。

 ナットは実際には一人の白人娘を殺しただけであった。そのことについて書かれたページがあるのを今思い出した。

ウイリアム・スタイロン 『ナット・ターナーの告白』をめぐる諸問題

 ナットは弁護士のグレイにこう告げた。

 しかし、これだけはいっておきたい、それをいわなければ黒人の生存の中心にある狂気を理解していただけないからだ――すなわち、黒人というものは、叩きのめし、飢えさせ、自分自身のたれた糞の中にまみれさせておけば、これは生涯あなたのいいなりになるだろう。突拍子もない博愛主義のようなものを仄めかして畏れさせ、希望を持たせるようなことをいってくすぐると、彼はあなたののどをかっ切りたいと思うようになるだろう。

Nat Turner -Nat_Turner_captured
(ナット・ターナー)

 この複雑性を理解するのは難しい。ただしヒントがある。

 夕食時限に近い頃、もしやと思っていた鹿野が来た。めずらしくあたたかな声で一緒に食事をしてくれというのである。私たちは、がらんとした食堂の隅で、ほとんど無言のまま夕食を終えた。その二日後、私ははじめて鹿野自身の口から、絶食の理由を聞くことができた。
 メーデー前日の4月30日、鹿野は、他の日本人受刑者とともに、「文化と休息の公園」の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。
 これが、鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。

【『石原吉郎詩文集』石原吉郎〈いしはら・よしろう〉(講談社文芸文庫、2005年)】

 恵まれた位置から施される優しさは、時に暴力と等しい力を発揮する。人間らしさに触れることで苦しみの純度が高まるのだろう。単なる惨めさではない。相手と自分との間に存在する世界の深淵を垣間見てしまうためだ。微温的な態度が人を傷つけることは日常でも決して珍しいことではない。

 またナットが叛乱を成功に導くことができなかったのは、ただ単に暴力への耐性がなかったためだろう。

William Styron
(ウィリアム・スタイロン)

 出版直後から異論・反論も多かったようだが、ウィリアム・スタイロンは見事にナット・ターナーを蘇らせた。

 ナットの人間的な資質もさることながら、私はキリスト教に巣食う暴力的な側面を見逃すことができないと考える。バイブルには暴力と死がゴロゴロ転がっている。で、一番人殺しに手を染めているのは神様自身なのだ。神は人間に命令する。それが妄想であったとしても、敬虔なクリスチャンであれば実行するに違いない。

「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた

 絞首刑に処されたナットの遺体は皮をはがれ、首を切られ、八つ裂きにされた。そして復讐の念に燃えた白人の暴徒は手当たり次第に黒人をリンチした。


ナット・ターナーが反乱を起こした日
キリスト教の浸透で広がった黒人霊歌の発展
ついに自由を我らに 米国の公民権運動(PDF)
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「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎