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2014-03-12

「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱/『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ


 わたしたち人間のユニークさというのは単に、人間がこうした所説を語るという事実、しかも自分自身にこうした所説を信じ込ませることが実際にできる、という点にある。もし、わたしが人間の定義を一言で表現しよとするなら、次のようになるだろう。「人間とは、自分自身について自分が語る所説を信じる動物である。人間というのは、根拠なしに軽々しく信じやすい動物なのだ」と。
 昨今の暗い時代にあって、わたしたちが自分自身について語る所説が、ある人間と別の人間を差別する最大の源になり得る、ということを強調することはないだろう。信じやすい性質はしばしば、ほんの一歩で敵意に変わってしまうのだ。

【『哲学者とオオカミ 愛・死・幸福についてのレッスン』マーク・ローランズ:今泉みね子訳(白水社、2010年)】

 知識という知識は未来の予測を目指す。農耕という文明は食糧を蓄えるところに目的があったのだろう。人間と動物の差異に注目するのは欧米の文化だろう。我が国の場合はむしろ日本人と外国人の違いを巡る議論が多い。

 キリスト教では神に次ぐ位置にいるのが人間のため、動物を下等なものに貶(おとし)めることで神に近づけると思っているのだろう。その思い上がりが世界を混乱に導いている。

 信じる行為はコミュニティ化、社会化が進むに連れて広範な領域に及んだ。信頼関係があればこそ分業が成立するのだ。我々の生活は食べ物から乗り物に至るまで殆どを他人の手に委ねている。原子力発電も安全だと信じてきた。いまだに信じている人々も多いようだが。

 信じるという点では洋の東西に大差はない。「信じる」とは相関関係に基づいて形成された因果関係の混乱といってよい。「薬の効力を調べる場合、『使った、治った、効いた』という『三た』式思考法は危険なのだ」(『霊はあるか 科学の視点から』安斎育郎)。祈った、治った、効いたという思考法はいかがわしい健康食品の類いと一緒である。

 テンプル・グランディンが動物にも確証バイアスがあることを示した。私はここに宗教発生の源があると考えている(宗教の原型は確証バイアス/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン)。

 我々が信じて疑わない最大級のものは宗教と国家であろう。そしてこの二つは憎悪生産装置として作動する。ウェブ上における信者の言動を見れば一目瞭然だ。彼らは罵倒・中傷・讒謗(ざんぼう)に生き甲斐を見出しているかのようだ。争え、争え。もっと争え。そしてさっさと滅ぶがいい。

哲学者とオオカミ―愛・死・幸福についてのレッスン
マーク ローランズ
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2014-02-04

言語的な存在/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー


 言葉で傷つけられたと主張するとき、わたしたちは何を語っているのか。行為(エイジェンシー)の元凶は言葉であり、人を傷つける力だと言って、自分たちを、中傷が投げつけられる対象の位置におく。言葉がはたらく――言葉が自分に攻撃的にはたらく――と主張するが、その主張がなされる次元は、言語のさらなる段階であり、そのまえの段階で発動された力をくい止めようとするものである。ということは存在――どんな検閲行為によっても事前に緩めることができない拘束状態におかれている存在――ということになる。
 では、かりにわたしたちが言語的な存在でなければ、つまり存在するために言語を必要とするような存在でなければ、言葉によって中傷されることはなくなるのだろうか。言語に対して被傷性をもっているということは、言語の語彙のなかでわたしたちが構築されているゆえの、当然の帰結ではないか。わたしたちが言語によって形成されているなら、その言語の形成力は、どんな言葉を使うかをわたしたちが決定するまえに存在しており、またわたしたちの決定を条件づけてもいる。つまり言語は、いわばその先行力によって、そもそもの初めから、わたしたちを侮辱していると言える。

【『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー:竹村和子訳(岩波書店、2004年)】

 人間は物語を生きる動物である。社会は物語を必要とする。歴史は物語そのものだ。我々はルール、道徳、感情、理性、知性を物語から学ぶ。というよりは物語からしか学ぶことができない。こうして人間は「語られるべき存在」となった。続いて書字が記録という文化を生む。人間は「歴史的(時間的)存在」と化した。

 ヒトの脳が大型化したのは240万年前といわれる(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。


 昨夜このあたりを検索しまくっているうちに時間切れとなってしまった。ま、よくあることだ。私は検索しはじめると止まらなくなる癖があるのだ。

 色々調べたのだが、やはり私の直観では脳の大型化と言語の獲得は同時であったように思われる。適者生存が進化の理(ことわり)であるならば、ヒトには何らかの強い淘汰圧が掛かったのだろう。そして言語の獲得が社会を形成したはずだ。脳は神経の、言語は音声の、そして社会は人のネットワークである。つまり脳の大型化はそのまま広範な社会ネットワークにつながる。

 言語の起源については諸説あるが、ジュリアン・レインズは右脳から神の指示語が発したとしている(『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』)。

 ま、わかりやすく申せば、卑弥呼みたいなのが突然登場して、人々がそのお告げやら物語に賛同すれば、社会の価値観は共有されるわけだ。

 話を元に戻そう。社会の中で生きる我々は「言語的な存在」であることを回避できない。まず名前という記号があり、性格があり過去があり仕事があり趣味があるわけだが、これらは言葉でしか表現し得ない。私は短気であるが、万人の前で短気を発揮しているわけではない。見知らぬ人の前では誰もが無性格な存在なのだ。

 では反対側から考えてみよう。私という人間を言葉で表現し尽くすことは可能だろうか? 無理に決まっている。例えば私の顔を言葉であなたに伝えることはほぼ不可能である。すなわち「言語的な存在」とは言葉の範疇(はんちゅう)に押し込められた存在なのだ。その意味で確かに言語は「わたしたちを侮辱している」。

 社会というのはおかしなもので個性を発揮する必要に迫られる。例えば蝉を見た時、そこに個性は感じない。蝉という種(しゅ)を感じるだけだ。蝉の側から見ればヒトもそんなものだろう。だが我々は他人と同じであることに耐えられない。私は他の誰とも異なり、かけがえのない存在であることを力説し、願わくは私を重んじるよう説得する。そのために学歴を積み重ね、身体能力を磨くのだ。ってことはだよ、社会ってのは最初っからヒエラルキーを形成していることになる。

 だからこそ語れば語るほど自分がいかがわしい存在となってゆくのだ。

 それゆえ、真実は「語る」ことと「騙る」ことの間にある、と言うべきであろう。

【『物語の哲学』野家啓一】

 うっかり本音を漏らすことを「語るに落ちる」というが、語ることには落とす力が秘められているような気がする。

「私は私だ」という物語から離れる。自己実現などという欺瞞を見抜き、私は何者でもなくただ単に生きる存在であり死にゆく存在である事実を自覚する。これを諸法無我とは申すなり。

触発する言葉―言語・権力・行為体


ブリコラージュ@川内川前叢茅辺

2014-01-14

あらゆる事象が記号化される事態/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール


知の強迫神経症
・あらゆる事象が記号化される事態

『シミュラークルとシミュレーション』ジャン・ボードリヤール

 西欧社会がおこなった大事業は、世界中を金儲けの場にして、すべてを商品の運命に引き渡したことだ、と言われる。国際的な美的演出、世界のイメージ化と記号化による世界中の美化もまた、西欧社会の大事業であったと言えるだろう。現在われわれが、商品レヴェルの唯物論を越えて立ち会っているのは、宣伝とメディアとイメージをつうじてあらゆる事象が記号化される事態だ。もっとも周辺的(マージナル)で、凡庸で、猥褻なものさえもが美化され、文化となり、美術館に入ることができる。あらゆるものが言葉をもち、みずからを表現し、記号としての力あるいは記号の様態を帯びる。システムは、商品の剰余価値によってよりはむしろ、記号の美的剰余価値によって機能する。

【『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール:塚原史〈つかはら・ふみ〉訳(紀伊國屋書店、1991年)】

「メディアはメッセージである」とマーシャル・マクルーハンは書いた(『メディア論 人間の拡張の諸相』原書は1967年)。これに対して小田嶋隆が「メディアは“下水管”に過ぎない」と反論している(『無資本主義商品論 金満大国の貧しきココロ』1995年)。きっとどちらも正しいのだろう。マクルーハンはメディアを祭壇に仕立てようと試みた。無神論者の小田嶋からすればそれは欲望が排泄(はいせつ)される下水管にすぎないということだ。

 メディアは広告メッセージである。元々は信仰メッセージであった。印刷革命はグーテンベルク聖書に始まる。プロテスタントが広まったのも「安価で大量の宣伝パンフレット」(『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』永田諒一)を紙つぶてのように放ったからだ。

 メッセージは信仰から広告へと変わった。神は死んだが紙はまだ生き残っている。

「西欧社会がおこなった大事業」の筆頭は奴隷貿易であろう。

大英帝国の発展を支えたのは奴隷だった/『砂糖の世界史』川北稔

 彼らは人間を商品に変えた。それ以前から労働力が商品であったことを踏まえると「人間の家畜化」(『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男)に真っ直ぐ進むのは当然だ。

 メディアはメッセージである。権力者からの。そう。ビッグ・ブラザーだ。マス(大衆)に向かって開くメディアは視聴する人々に何らかの基準となって行動や判断を促す。子供の時分から「昨日のあれ、見た?」「オー、見た見た。面白かったよなー」というやり取りが普通になっている。

 私が幼い頃は一家に一台が標準であった。ブラウン管の前にカーテンや扉がついたテレビも存在した。今思うとあれは確かに祭壇の雰囲気を漂わせていた。そして一家が揃って同じ番組を観ていたのだ。

 バブル前夜、価値観は多様化した。今から30年ほど前のことだ。若者は老舗メーカーよりも新興ファッションブランドを選んだ。そして“大衆消費社会は「モノの消費」から「情報の消費」へ”(『ケアを問いなおす 〈深層の時間〉と高齢化社会』広井良典)と向かう。

 記号や情報というと小難しく思えるが何てことはない。孔雀の羽みたいなもんだ。結局、高度情報化によって人間の情動がセンシティブになるのだろう。

 21世紀は人間が記号化される。私は単なるIDと化す。その時、世界はこんなふうになっているだろう。

Cildo Meireles作「Fontes」は日蓮へのオマージュか?

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2014-01-08

怒りは害を生む/『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵訳


『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵訳

 ・怒りは害を生む

『怒りについて 他二篇』セネカ:兼利琢也訳

必読書リスト その五

 ノバトゥスの兄上、あなたは私を動かして、一体どうすれば怒りは静められるかについて書くように求めたが、あらゆる感情のうちで取りわけ疎(うと)ましく気狂いじみたこの感情を、特にあなたが恐れているのは無理からぬことと思う。なぜかと言えば、これ以外の感情には何らかの安らかさ・静かさも含まれているが、この感情だけは全く激烈であって、憎しみの衝動に駆(か)られて、武器や流血や拷問(ごうもん)という最も非人間的な欲望に猛り狂い、他人に害を加えている間に自分を見失い、相手の剣にさえも飛びかかり、復讐者(ふくしゅうしゃ)を引きずり回して、是が非でも復讐を遂げさせようとするからである。それゆえ或る賢者たちは、怒りを短期の気狂いだと言っている。

【「怒りについて」/『怒りについて 他一篇』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年)】

 昨年暮れに兼利琢也〈かねとし・たくや〉訳(岩波文庫、2008年)を中ほどまで読んだ。セネカの崇高な精神が降りしきる雨のように私を打った。本を閉じて目をつぶった。「襟を正して最初から読み直すべきだ」と思わざるを得なかった。ブッダとクリシュナムルティを除けば、これほど心を揺さぶられたことはない。セネカは生きる姿勢や態度を教えてくれる。

 勢いあまった私は茂手木元蔵訳から取り組むことにした。正解であった。実は内容が異なるのだ。茂手木訳の他一篇は「神慮について」で、兼利訳の他二篇は「摂理について」と「賢者の恒心について」となっている。もちろん2冊とも「必読書」に入れた。

 翻訳比較も行う予定なので冒頭のテキストから紹介する。尚、まだ読了していないことを付記しておく。

「気狂い」はルビを振っていないが「きちがい」と読んで差し支えないだろう。怒りは害を生む。怒りはすべてを忘れさせ、相手を傷つけ、自分を損なう。セネカはあらゆる角度から怒りを論じ、数多くの絶妙な比喩を示して怒りを解明する。賢明さが理性とセットであれば、怒りは愚かとセットなのだろう。

 直情径行で怒りやすい性格の私であるがゆえにわかるのだが、怒りは常に殺意を伴っている。人を殺すことは簡単だ。「殺すことが正しい」と思えば。あるいはそう「思い込ませれば」よいのだ。その瞬間、理性はどこかへ去っている。相手の家族や友人を思うほどの余裕もない。怒りは崩壊の音色を奏でる。あらゆる暴力は怒りに支えられていることを知るべきだろう。

 セネカの前では三木清の言葉も色褪せる。

蛇の毒/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

 三木は弱い人間であったのだろう。だからこそ怒りにしがみついたのだ。

 おお、ルキウス・アンナエウス・セネカ(紀元前1年頃-65年)よ、私はブッダとクリシュナムルティを父と恃(たの)み、あなたを兄と慕う。

 もうひとつ付言しておくと、『人生の短さについて 他二篇』茂手木元蔵訳(岩波文庫、1980年)と『生の短さについて 他二篇』大西英文訳(岩波文庫、2010年)は茂手木訳の方が断然よい。



今日、ルワンダの悲劇から20年/『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

2013-11-20

セックスとは交感の出来事/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 増刷されたようである。朗報。せっかくなので何か書いておこう。

 セックスとはほんとうは交感の出来事であり、感覚のコミュニケーションの出来事であったはずなのに、それが身体の特定部位の性能の問題にずらされてしまっているのだ。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 これは何も今に始まったことではあるまい。巨乳を昔はボイン(日本テレビの「11PM」で大橋巨泉朝丘雪路の胸をからかったのが嚆矢〈こうし〉)と言ったし、「小股の切れ上がった」なんて言葉は、「締まりがよい」とか「具合がよい」などと大差はないと思われる。

 結局のところ「性の商品化」と絡む問題なのだろう。鷲田の論考はここから急激に深まる。

 こういう読み物とかグラビアといった快楽情報が溢れているのは、ほんとうの快楽が他人とのあいだで得られていず、しかも情報は増える一方なので、恒常的な飢餓感や不足感だけが確実に膨らんできているということなのだろう。器官的なものとしての〈性〉ではなく、感情としての〈性〉がもうきちんと語りだされなくなってきている。
〈性〉は、個体と個体のあいだで起こる身体間のもっとも濃密な交通である。これを軸に、親子のあいだの親密な相互接触、さらにはじぶんの身体とのあいだの何重もの厚い関係が交叉しながら、これまで家庭という、複数の身体がなじみあう特異な空間を構成してきた。だから他人の家庭を訪れたとき、だれもが家庭というもののあの異様に濃密な空気にうろたえる。

 情報が性を貧しいものに変えた。当然、「性」は「生」とつながる。ジュディス・バトラーも同じ指摘をしている。

ポルノは経験に取って代わる/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー

 性を濃密な関係と押し広げているところが卓見だ。確かに他人の家庭は薄気味悪い。私の父は無口であったため、殆ど会話らしい会話がなかった。そんな私からすれば、父親と息子が話しているだけでぞっとさせられる。一方で我が実家は幼い弟妹が小学1年生になる頃までチューをし続けた。他所様から見れば気色悪いこと甚だしいに違いない。

 ま、夫婦の性行為から家族が生まれるわけだから、その延長線上に家族関係も構築されるのだろう。

性はアイスクリームを食べるのに似ている/『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル

 氾濫する性情報のなかで〈性〉はむしろ義務のようなものになっており、そっとやりすごさないとせっかくの関係を壊しかねないという不安が、そこにはある。
〈食〉が自己への暴力へと転化することがあるように(過食や拒食)、〈性〉もまた自己への暴力となりうる。〈性〉の背景にあった〈愛〉や〈家族〉といった観念が、そしてそれを制度化してきた社会的装置が、さまざまな場面できしんでくると、〈性〉の不幸は社会的な問題性をますます深く内にはらむようになる。

 これは確か女性のケースだ。いわゆる処女喪失というテーマだ。「処女」とか「セックス」とか書くのをためらってしまうのも、私の古典的な性意識が為す業(わざ)だと思われる。

 これまた実に鋭い指摘である。不安定な家族関係で育った女性は特に注意が必要だ。特に父親の愛情を知らない――当然離婚も含む――少女が危うい。男性遍歴が激化するケースがある。

 新聞や雑誌を開ければ、援助交際、ブルセラ、投稿写真、ストーカー、家庭内強姦、あるいは中絶という自己への暴力のあとの底深い負い目、「純愛」として語りだされる不倫、自己解放としての身体毀損(ボディ・ピアシング)……と、気が落ち込むようなテーマがならんでいる。それぞれの性が、そしてそれぞれの世代が、共有できる物語を欠いたまま、問題としての〈性〉にむきだしで接触しているという感じがする。

 過剰な性愛は不毛だ。精神はやがて疲労と疲弊に覆われ、擦り切れ、必ず廃(すた)れてゆく。彼女たちの魂は放置自転車のように埃(ほこり)まみれで錆(さ)びついている。不足を補うための行為が、かえって空洞を広げてしまう。

 私がまったく違う例を挙げよう。義父の介護を献身的に行っているという評判の奥さんがいた。私が訪れたところ義父も義母もお嫁さんを手放しで褒めていた。何度か足を運んで気づいた。お嫁さんは義父の身体に触れることが殆どなかった。彼女にとって介護は嫁としての義務であったのだろう。甲斐甲斐しく身の世話をしていたが愛情は感じられなかった。身体の接触なくして要介護者とのコミュニケーションは難しい。仮に脳血管障害由来の失語症などで言葉を失っていても、手を取り肩を組むだけで喜ぶ人々は多い。人間という動物は好意を抱いていれば必ず触れ合うものだ。

 性は本来豊かなコミュケーションであったはずだ。そしてコミュニケーションは交換から交感へと変わり、更には交感が交歓へと昇華するのだ。商品としての性には金銭と肉体の交換しか存在しない。経済的な見返りを求めた結婚も長期的な売買春と考えることができよう。

 中学生となり初めてフォークダンスをした時のあの緊張感を思い出そう。密かに思いを寄せていた女子生徒の手を握った瞬間、私は確かに感電したはずだ(笑)。

2013-07-04

バイロン・ケイティは現代のアルハットである/『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル


『ものぐさ精神分析』岸田秀
『続 ものぐさ精神分析』岸田秀
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『生きる技法』安冨歩
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
『どんなことがあっても自分をみじめにしないためには 論理療法のすすめ』アルバート・エリス
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健
『悟りの階梯 テーラワーダ仏教が明かす悟りの構造』藤本晃
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『手にとるようにNLPがわかる本』加藤聖龍
『NLPフレーム・チェンジ 視点が変わる〈リフレーミング〉7つの技術』L・マイケル・ホール、ボビー・G・ボーデンハマー
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『未処理の感情に気付けば、問題の8割は解決する』城ノ石ゆかり
『マンガでわかる 仕事もプライベートもうまくいく 感情のしくみ』城ノ石ゆかり監修、今谷鉄柱作画
『ザ・メンタルモデル 痛みの分離から統合へ向かう人の進化のテクノロジー』由佐美加子、天外伺朗
『無意識がわかれば人生が変わる 「現実」は4つのメンタルモデルからつくり出される』前野隆司、由佐美加子
『ザ・メンタルモデル ワークブック 自分を「観る」から始まる生きやすさへのパラダイムシフト』由佐美加子、中村伸也
『過去にも未来にもとらわれない生き方 スピリチュアルな目覚めが「自分」を解放する』ステファン・ボディアン

 ・バイロン・ケイティは現代のアルハットである
 ・認識のフレームを転換するメソッド

『人生を変える一番シンプルな方法 セドナメソッド』ヘイル・ドゥオスキン
『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル
『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース
『悟り系で行こう 「私」が終わる時、「世界」が現れる』那智タケシ
『二十一世紀の諸法無我 断片と統合 新しき超人たちへの福音』那智タケシ
『気づきの視点に立ってみたらどうなるんだろう? ダイレクトパスの基本と対話』グレッグ・グッド
『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』エックハルト・トール
『ニュー・アース』エックハルト・トール
『覚醒の炎 プンジャジの教え』デーヴィッド・ゴッドマン

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
悟りとは
必読書リスト その五

 世界にはたった3種類の領域しかありません。私の領域、あなたの領域、そして神の領域です。私にとって、神という言葉は「現実」を意味します。現実こそが世界を支配しているという意味で、神なのです。私やあなた、みんながコントロールできないもの、それが神の領域です。
 ストレスの多くは、頭の中で自分自身の領域から離れたときに生じます。「(あなたは)就職した方がいい、幸せになってほしい、時間通りに来るべきだ、もっと自己管理する必要がある」と考えるとき、私はあなたの領域に入り込んでいます。一方で、地震や洪水、戦争、死について危惧していれば、神の領域に入っていることになります。私が頭の中で、あなたや神の領域に干渉していると、自分自身から離れてしまうことになります。

【『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル:ティム・マクリーン、高岡よし子監訳、神田房枝訳(ダイヤモンド社、2011年/安藤由紀子訳、アーティストハウスパブリッシャーズ、2003年)】

 私が「現代のアルハット(=阿羅漢)」と考える人物は二人いる。その筆頭格がバイロン・ケイティである(もう一人はジル・ボルト・テイラー)。彼女は元々悪い母親であった。ところが病気を通して悟りを得る。そこから導き出されたのが「ザ・ワーク」である。

 相手(もちろん自分でも構わない)の悩みに対して四つの質問をするだけという極めてシンプルなものだ。

「それは本当でしょうか?」
「その考えが本当であると、絶対言い切れますか?」
「そう考えるとき、(あなたは)どのように反応しますか?」
「その考えがなければ、(あなたは)どうなりますか?」

 たったこれだけだ。だがこの深遠なる問いによって悩みは完全に相対化されるのだ。つまりブッダの説法と同じ原理だ。ま、論より証拠、見てごらんよ。


 凄い……。何が凄いかって、彼女は全く誘導していないのだ。にもかかわらず問い掛けるだけで、相手は自ら問題の本質を悟っている。つまり、「世界が変わった」のだ。バイロン・ケイティが言うところの「ストーリー」と私が常々触れている「物語」とは全く同じ意味だ。

 彼女は「領域」という言葉で異なる世界を表現している。親が子に「お前はこうするべきだ」と語る時、子は親の所有物と化していることが多い。親はよかれと錯覚しながら、子の人生を操縦しようとするのだ。教育や宗教も同様であろう。

 感化と言えば聞こえはよい。だがブッダは感化を否定している。


 もちろんクリシュナムルティも否定している。

 学びとは理解することを愛し、ものごとをそれ自体のために行なうことを愛することを含蓄している。学びは、一切の強制がないときにだけ可能である。そして強制は、さまざまな形をとるのではないだろうか? 感化、固執、脅し、言葉たくみな激励、あるいは微妙な形の報いによる強制があるのだ。

【『未来の生』J・クリシュナムルティ:大野純一訳(春秋社、1989年)】

 たとえその子が、彼に対するあなたの愛ゆえにいたずらをやめたとしても、それでは一種の感化であり、それは本当の変化でしょうか。それは愛かもしれませんが、それでも、何かをしたり、何かになるようにという、その子に対する一つの形の圧力です。そしてあなたが、子供は変化しなければならないと言うとき、それはどういうことでしょう。何から何への変化でしょうか。ありのままの彼が、【あるべき】彼に変化するのでしょうか。あるべき彼に変化するなら、彼はかつての自分を単に修正しただけであり、それゆえにまったく変化ではないのでしょう。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 バイロン・ケイティのワークは在りし日のブッダを彷彿(ほうふつ)とさせる。ブッダもクリシュナムルティも「偉大なる問い」を発する人であった。安易な答えを人々に教えるだけであれば、彼らの名前はこれほどの響きを持たなかったはずだ。

 占ってもらう必要はない。祈ってもらう必要もない。本書を開いてただワークシートに記入するだけでよいのだから。



すべてが私を支えている/『探すのをやめたとき愛は見つかる 人生を美しく変える四つの質問』バイロン・ケイティ
血で綴られた一書/『生きる技法』安冨歩
序文「インド思想の潮流」に日本仏教を解く鍵あり/『世界の名著1 バラモン教典 原始仏典』長尾雅人責任編集、『空の思想史 原始仏教から日本近代へ』立川武蔵
『歴史的意識について』竹山道雄

2012-09-11

バートランド・ラッセル「神について」


 バートランド・ラッセルは論理学、数学、哲学の泰斗。かつて投獄されたこともあった。1950年、ノーベル文学賞を受賞。ラッセル=アインシュタイン宣言でも知られる。

 動画を見ると明らかに落ち着きがない。多分、アインシュタインと同じくAD/HD(注意欠陥・多動性障害)であったのだろう。世間の価値観を疑うことを知らぬ女性ホストの方が堂々としており、妙なアンバランス感がある。



宗教は必要か

哲学入門 (ちくま学芸文庫)ラッセル幸福論 (岩波文庫)怠惰への讃歌 (平凡社ライブラリー)神秘主義と論理

読後の覚え書き/『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
バートランド・ラッセル

2012-08-12

「哲学:切り開くために」茂木健一郎(第1回応用哲学会、京都大学)


 質疑応答で茂木が激昂する場面がある。茂木は質問に込められたプロ市民的な意図を撃った。また、それ以前の質問がとにかく冗長で、一様に「自分」を語っている。茂木の怒りは「コミュニケーションの欠落」に向けられたものだと思う。司会者に「会を司る」緊張感がなく、登壇者に甘えた姿勢が会全体を台無しにしている。

2012-08-11

ニーチェ的な意味のルサンチマン/『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均


ルサンチマンの本質

 定義的にいうと、ルサンチマンとは、現実の行為によって反撃することが不可能なとき、想像上の復讐によってその埋め合わせをしようとする者が心に抱き続ける反復感情のことだ、といえますが、このルサンチマンという心理現象自体がニーチェの問題だったわけではありません。ルサンチマン自体についても、最後に問題にするつもりではありますけど、ニーチェの問題は、ルサンチマンが創造する力となって価値を産み出すようになったとき、道徳上の奴隷一揆が始まるということであり、そして【実際にそうであった】、ということなのです。つまり我々はみなこの成功した一揆でつくられた体制の中にいて、それを自明として生きている、ということがポイントなのです。この点を見逃すか無視してしまうと、ニーチェから単なる個人的な人生訓のようなものしか引き出せなくなってしまいます。
 さて、ルサンチマンに基づく創造ということに関してまず注目すべき点は、初発に否定があるという点です。つまり、他なるものに対する【否定から出発する】ということが問題なのです。価値創造が否定から始まる、だからそれは本当は創造ではなく、本質的に価値転倒、価値転換でしかありえないのです。
 狐と葡萄の寓話でいうとこうなります。狐は葡萄に手が届かなかったわけですが、このとき、狐が葡萄をどんなに恨んだとしても、ニーチェ的な意味でのルサンチマンとは関係ありません。ここまでは当然のことなのですが、重要なことは「あれは酸っぱい葡萄だったのだ」と自分に言い聞かせて自分をごまかしたとしても、それでもまだニーチェ的な意味でのルサンチマンとはいえない、ということです。狐の中に「甘いものを食べない生き方こそが【よい】生き方だ」といった、自己を正当化するための転倒した価値意識が生まれたとき、狐ははじめて、ニーチェが問題にする意味でルサンチマンに陥ったといえます。(「星の銀貨」のもつ特別な価値も、この観点から理解すべきです。)

【『道徳は復讐である ニーチェのルサンチマンの哲学』永井均〈ながい・ひとし〉(河出書房新社、1997年/河出文庫、2009年)】

 ルサンチマンというキーワードの覚え書きとして保存しておく。

 この言葉自体はキェルケゴール(1813-1855年)が確立した後、ニーチェ(1844-1900年)が鼓吹(こすい)し、マックス・シェーラー(1874-1928)が宣揚したとのこと。とすればナポレオン(1769-1821年)が近代の扉を開けて、ちょっと廊下を進んだあたりに「自我の台頭」があったと見ていいだろう。生が死によって逆照射されるように、自我は抑圧を覚えることで芽生えるのだ。

E・H・カー「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だったのです」

 永井はああでもないこうでもないと言葉をこねくり回しているが、ルサンチマンとは「劣情を正当化する物語の書き換え作業」といって構わないだろう。

 ナポレオン法典(フランス民法典)の影響も見逃せない。つまりそれまでは道徳が手を縛っていたわけだが、法律が足をも縛ったわけだ。人々は問題解決の最終手段である「暴力」を奪われた。

 簡単に結論を述べてしまおう。ルサンチマンを抱くのは「暴力を振るえない」人々である。正義と暴力には親和性がある。否、正義とは形を変えた暴力といってよい。

道徳は復讐である―ニーチェのルサンチマンの哲学 (河出文庫)

Nietzsche 1875

2012-06-28

『論語』翻訳比較~金谷治、宇野哲人


 子(し)の曰(のたま)わく、学んで思わざれば則ち罔(くら)し思うて学ばざれば則ち殆(あやう)し。

 先生がいわれた、「学んでも考えなければ〔ものごとは〕はっきりしない。考えても学ばなければ、〔独断におちいって〕危険である。」

【『論語』金谷治〈かなや・おさむ〉訳注(岩波文庫、1963年/新訂版、1999年)】

論語 (岩波文庫)



 子(し)曰(い)はく、学んで思わざれば則ち罔(くら)く、思うて学ばざれば則ち殆(あやふ)し。

〔通釈〕ただその事を学ぶだけで、その理窟を思索しなければ、心がくらくてなにも悟りを得ることはない。ただその理窟を思索するだけで、その事を学ばなければ、空想に過ぎないから、危(あやう)くて不安を免(まぬ)かれない。(※〔語釈〕〔解説〕は略す)

【『論語新釈』宇野哲人〈うの・てつと〉(講談社学術文庫、1980年/『大礼記念昭和漢文叢書』弘道館、1929年)】

論語新釈 (講談社学術文庫 451)

 この訳文に鑑み、金谷訳注の岩波本を読むことにした。ただし孔子のセリフの語尾に「ね」や「ねえ」を使うのはどうかと思う。安っぽい落語が混入したような印象を受ける。以下のテキストも参照されよ。

(※金谷訳注本は)原文と、その読み下し文に簡潔な現代語訳と注釈を加えた本で、入門書としては傑作です。まさに、日本人向けの論語の教科書といえるもので、贅肉のような解説を伴わないシンプルなものです。繰り返し読もうとする場合に、このシンプルさが読む者の思索を邪魔しないという良さにつながると考えます。

論語‐どの論語本を読むか?―基本編・第1回
論語‐どの論語本を読むか?―基本編・第2回
論語‐どの論語本を読むか?―基本編・第3回

2012-03-03

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫


『物語の哲学』野家啓一

 ・狂気を情緒で読み解く試み
 ・ネオ=ロゴスの妥当性について

『新版 分裂病と人類』中井久夫
『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
『ストーリーが世界を滅ぼす 物語があなたの脳を操作する』ジョナサン・ゴットシャル
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『奇跡の脳 脳科学者の脳が壊れたとき』ジル・ボルト・テイラー
『オープンダイアローグとは何か』斎藤環著、訳

必読書リスト

 我々が生を自覚するのは死を目の当たりにした時だ。つまり死が生を照射するといってよい。養老孟司〈ようろう・たけし〉が脳のアナロジー(類推)機能は「死の象徴化から始まったのではないか」と鋭く指摘している。

アナロジーは死の象徴化から始まった/『カミとヒトの解剖学』養老孟司

 ま、一言でいってしまえば「生と死の相対性理論」ということになる。

 前の書評にも書いた通り、渡辺哲夫は本書で統合失調症患者の狂気から生の形を探っている。

 歴史は死者によって形成される。歴史は人類の墓標であり、なおかつ道標(どうひょう)でもある。たとえ先祖の墓参りに行かなかったとしても、歴史を無視できる人はいるまい。

 死者たちは生者たちの世界を歴史的に構造化し続ける、死者こそが生者を歴史的存在者たらしめるべく生者を助け支えてくれているのだ、(以下略)

【『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫(筑摩書房、1991年/ちくま学芸文庫、2002年)以下同】

 渡辺は狂気を生と死の間に位置するものと捉えている。そして狂気から発した言葉を「ネオ=ロゴス」と名づけた。

統合失調症患者の内部世界

「あの世で(あの世って死んだ事)子供(B男)が不幸になっています  十二歳中学二年で死にました  私(母親の○○冬子)がころしました
 目が見えません  目玉をくりぬいて脳の中に  くりぬいた目の中から小石をつめ けっかんをめちゃめちゃにして神けいをだめにして 息をたましいできかんしをつめて息ができません  又くりぬいための中に ちゅうしゃきでヨーチンを入れ目がいたくてたまりません  また歯の中にたましいが入ってはがものすごく痛くがまんが出来ません
 又体の中(背中やおなかや手足)の中に石田文子のたましいが入って具合が悪く立っていられない  それをおぼうさんがごういんにおがんで立たしておきます
 又ちゅうかナベに油を入れいっぱいにしてガスの火でわかして一千万度にして三ばいくりぬいた目の中に入れ頭と体の中に入れあつすぎてがまんが出来ません
 又たましいの指でおしりの穴をおさえて便が全然でません又おしっこもおしっこの出る穴をおさえてたましいでおさえて出ません
 又B男のほねをおはかからたましいでぬすんでほねがもえるという薬をつかってほねをおぽしょて ほねをもやしてその為にB男のほねは一本もありません
 又きかんしに石田文子がたましいできかんしをつめて息が出来ません又はなにもたましいでつめて息が出来ません  だから私(冬子)母親のきかんしとB男のきかんしをいれかえて下さい」(※冬子の手記)



「……言葉がトギレトギレになって溶けちゃうんです……言葉が溶けて話せない……聴きとれると語尾が出て心が出てくるんですね、語尾がないとダメダメ……秋子の言葉になおして語尾しっかりさせないと……流れてきて、わたしが言う他人の言葉ですね……わたしの話は死人に近い声でできてるからメチャクチャだって……死人っていうのは、思わないのに言葉が出てくる不思議な人体……言葉が走って出てくるんですね。飛び出してくる、……言葉が自分の性質でないんです。デコボコで、デコボコ言葉、精神のデコボコ……」(※秋子)

 筒井康隆が可愛く見えてくる。通常の概念が揺さぶられ、現実に震動を与える。このような言葉が一部の人々に受け容れられた時に新たな宗教が誕生するのかもしれない。

アジャパー!!」「オヨヨ」「はっぱふみふみ」といった流行語にしても同様だろう。


 デタラメな言葉だとは思う。しかし意味に取りつかれた我々の脳味噌は「言葉を発生させた原因」を思わずにはいられない。渡辺は実に丁寧なアプローチをしている。

 ところが冬子にとっての「たましい」たる「B男」は彼岸に去ってゆかない。あの世もこの世も超絶した強度をもって実態的に現前し続ける。生者を支えるべく歴史の底に沈潜してゆくことがない。つまり、「たましい」は、死者たちの群れから離断された“有るもの”であり続ける。「たましい」は冬子の狂気の世界のなかで、余りにもその存在強度を高めてしまったのである。死者たちの群れに繋ぎとめられない「B男」は、死者たちの群れの“顔”になりようがない。逆に「B男」という「たましい」は、死者たちを圧殺するような強度をもってしまう。「たましい」は、生死を超越して絶対的に孤立している。否、「B男」の「たましい」は、死者たちでなく冬子に融合してしまっている。「B男」は、死者たちの群れを、祖先を、歴史の垂直の軸あるいは歴史の根幹を圧殺し、母たる生者をも“殺害”するほどの“顔”なのである。これはもう“顔”とは呼べまい。「B男」という「たましい」は、死者たちの群れに絶縁された歴史破壊者にほかならない。冬子も「B男」も、こうして本来の死者たちの支えを失っているのである。

 つまり「幽明界(さかい)を異(こと)に」していないわけだ。生と死が淡く溶け合う中に彼女たちは存在する。むしろ存在そのものが溶け出していると言った方が正確かもしれない。

 仏教の諦観は「断念」である。しがらむ念慮を断ち切る(=諦〈あきら〉める=あきらか、つまびらかに観る)ことが本義である。それが欲望という生死(しょうじ)の束縛から「離れる」ことにつながった。現在を十全に生きることは、過去を死なすことでもある。

 他者という言葉は多義的である。私は常識の立場に戻って、この多義性を尊重してゆきたいと思う。
 まず第一に、他者は、ほとんどの他者は、死者である。人類の悠久の歴史のなかで他者を思うとき、この事実は紛れもない。現世は、生者たちは、独力で存立しているのではない。無料無数の死者たちこそ、事物や行為を名づけ、意味分節体制をつくり出し、民族の歴史や民俗を基礎づけ、法律や宗教の起源を教えているのだ。否、教えているという表現は弱過ぎよう。最広義における世界存在の意味分節のすべてが、死者たちの力によって構造的に決定されているのである。言い換えれば、他界は現世の意味であり、死者たちは、生者たちという胎児を生かしめて(ママ)いる胎盤にほかならない。知覚や感覚あるいは実証主義的思考から解放されて、歴史眼をもって見ることが必要である。眼光紙背に徹するように、現世を現世たらしめている現世の背景が見えてくるだろう。
 死者が他者であることに異論の余地はない。それゆえ、他者は、現世の生者を歴史的存在として構造化する力をもつのである。
 第二に、他者は、自己ならざるもの一般として、この現世そのものを意味する。歴史的に意味分節化されたこの現世から言葉を収奪しつつ、また新たな意味分節世界を喚起し形成しつつ、生者各人はこの他者と交流する。この他者は、ひとつの意味分節として、言語のように、言語と似た様式で、差異化され構造化されている。この他者を、それゆえ、以後、言語的分節世界と呼ぶことにしたい。自己ならざるもの一般の世界が言語的分節世界としての他者であるならば、他者は、言葉の働き方に関するわれわれの理解を一歩進めてくれる。
 言うまでもなく、言葉は、各人の脳髄に内臓されているのではない。一瞬一瞬の言語行為は、発語の有無にかかわらず、言語的分節世界という他者から収奪された言葉を通じて遂行される。否、収奪そのものが言語行為なのだ。では、言語的分節世界という他者は、言語集蔵体(ママ)の如きものなのであろうか。もちろん、そうではない。言葉は、言語的分節世界という他者の存立を可能ならしめている死者たちから、彼岸から、言わば贈与されるのである。生者が収奪する言葉は、死者が贈与する言葉にほかならない。この収奪と贈与が成功したとき、言葉は、歴史的に構造化された言葉として力をもつのである。それゆえ、われわれの言葉は、意識的には、主体的に限定された他者の言葉なのであるが、無意識的には、歴史的に限定された死者の言葉なのである。死者の言葉は、悠久の歴史のなかで、死者たちの群れから生者たちへと、一気に、その示差的な全体的体系において、贈与され続ける。それゆえに、言語的分節世界としての他者は歴史的に構造化され続けるのである。

 言語集蔵体とは阿頼耶識(あらやしき/蔵識とも)をイメージした言葉だろう。茂木健一郎が似たことを書いている。

「悲しい」という言葉を使うとき、私たちは、自分が生まれる前の長い歴史の中で、この言葉を綿々と使ってきた日本語を喋る人たちの体験の集積を担っている。「悲しい」という言葉が担っている、思い出すことのできない記憶の中には、戦場での絶叫があったかもしれない、暗がりでのため息があったかもしれない、心の行き違いに対する嘆きがあったかもしれない、そのような、自分たちの祖先の膨大な歴史として仮想するしかない時間の流れが、「悲しい」という言葉一つに込められている。
「悲しい」という言葉一つを発する時、その瞬間に、そのような長い歴史が、私たちの口を通してこの世界に表出する。

【『脳と仮想』茂木健一郎(新潮社、2004年/新潮文庫、2007年)】

 ここにネオ=ロゴスが立ち上がる。

 言い換えるならば、言語的分節世界という他者から排除され、言葉を主体的に収奪限定する機会を失ってしまった独我者が、自力で創造せんとする新たなる言葉、ネオ=ロゴスこそ独語にほかならない。主体不在の閉鎖回路をめぐり続ける独語に、示差的機能を有する安定した体系を求めるのは不可能であろう。それにもかかわらず、他者から排除された独我者は、恐らくは人間の最奥の衝動のゆえに、ネオ=ロゴスを創出しようとする。もちろんここに意識的な意図やいわゆる無意識的な願望をみることなど論外だろう。もっと深い、狂気に陥った者の人間としての最も原初的かつ原始的な力動が想定されねばなるまい。



 ネオ=ロゴスは、死者を実体的に喚起し創造し“蘇生”させると、返す刀で狂的なる生者を“殺害”するのである。これが先に述べた、ネオ=ロゴスの死相の二重性にほかならない。ネオ=ロゴスは、全く新奇な“死者の言葉”あるいは“死の言葉”であると言っても過言ではない。

 スリリングな論考である。だが狂気に引き摺り込まれているような節(ふし)も窺える。はっきり言って渡辺も茂木も大袈裟だ。無視できないように思ってしまうのは、彼らの文体が心地よいためだ。人は文章を読むのではない。文体を感じるのだ。これが読書の本質である。

 言葉や思考は脳機能の一部にすぎない。すなわち氷山の一角である。渡辺の指摘は幼児の言葉にも当てはまる。そして茂木の言及は幼児の言葉に当てはまらない。

 生の営みを支えているのは思考ではなく感覚だ。我々は日常生活の大半において思考していない。

 どうすればできるかといえば、無意識に任せればできるのです。思考の無意識化をするのです。
 車でいえば、教習所にいたときには、クラッチを踏んでギアをローに入れて……、と、順番に逐次的に学びます。
 けれども、実際の運転はこれでは危ないのです。同時に様々なことをしなくてはなりません。あるとき、それができるようになりますが、それは無意識化されるからです。
 意識というのは気がつくことだと書きましたが、今気がついているところはひとつしかフォーカスを持てないのです。無意識にすれば、心臓と肺が勝手に同時に動きます。
 同時に二つのことをするのはすごく大変です。けれどもそれは、車の運転と同じで慣れです。何度もやっていると、いつの間にかその作業が無意識化されるようになってくるのです。
 無意識化された瞬間に、超並列に一気に変わります。

【『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(PHP研究所、2007年/PHP文庫、2009年)】

 結局、「生きる」とは「反応する」ことなのだ。思考は反応の一部にすぎない。そして実際は感情に左右されている。ヒューリスティクスが誤る原因はここにある。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 意外に思うかもしれないが、本を読んでいる時でさえ我々は無意識なのだ。意識が立ち上がってくるのは違和感を覚えたり、誤りを見つけた場合に限られる。スポーツを行っている時はほぼ完全に無意識だ。プロスポーツ選手がスランプに陥ると「考え始める」。

 渡辺と茂木の反応は私の反応とは異なる。だからこそ面白い。そして学ぶことが多い。

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圧縮新聞
物語る行為の意味/『物語の哲学』野家啓一
『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治
ワクワク教/『未来は、えらべる!』バシャール、本田健

2011-12-16

暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ


 東京の冬は苦手だ。もう人生の半分以上を過ごしているのに慣れることがない。道産子の多くがそうであろう。雪がないのに寒い、という事実が北国育ちの感覚を混乱させる。

 冬の月が好きだ。透明な光が静かに冷厳な宇宙を照らす。星々が応じるように揺らめく。人々が寝静まった時間帯に月を見上げると、宇宙に浮かぶ自分を感じることができる。

 そしてクリシュナムルティは私にとっての月光である。暗く冷たい世界を照らす智慧の光だ。

 これまでの時代を通じてずっと、人間は自分を超えるもの、物質的な幸福以上のもの――私たちが真理とか神、真実在(リアリティ)、不滅の状態と呼ぶもの――環境や思考、人間の腐敗によって妨害されることのないもの、を探し求めてきました。
 人はいつも自問してきました。全体どういうことなのか? 人生にそもそも意味などあるのだろうか? 彼は生のひどい混乱を、残虐さ、反抗、戦争を、いつ果てるともない宗教やイデオロギー、国籍による分裂〔不和〕を見て、深い、終わることのない欲求不満の感覚と共にこうたずねるのです。人はどうすればよいのか、私たちが生と呼ぶこのものは何なのか、何かそれを超えるものがあるだろうか、と。
 そして自分が探し求めてきた、無数の名をもつこの名づけ得ないものを見つけることができないので、彼は信仰――救世主または何らかの理想への信仰――を培(つちか)ってきのたですが、それは必然的に暴力を生み出すのです。
 私たちが生と呼ぶこのたえまない闘争の中で、共産主義社会であれ、いわゆる自由社会であれ、私たちは自分が育てられた社会に従って行動規範を作ろうとします。私たちは何らかの行動基準を受け入れますが、それはヒンズー教、イスラム教、キリスト教、あるいは何であれ自分がたまたまそこに生まれ合わせたものの伝統の一部をなすものです。私たちは誰かに頼って行動の善悪を、思想のよしあしを教えてもらおうとしますが、こうしたパターンに従ううちに、私たちの思考と行動は機械的になり、反応は自動的なものになります。このことは、自分自身を省みれば容易に理解されることです。

【『既知からの自由』J・クリシュナムルティ:大野龍一訳(コスモス・ライブラリー、2007年/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ:十菱珠樹〈じゅうびし・たまき〉訳、霞ケ関書房、1970年の新訳版)以下同】

 今年も様々な出会いがあった。昨今は人や本もさることながら、インターネットを介して遭遇する場面が少なからずある。そして擦れ違うような出会いでも影響を受けることは珍しくない。中でも鈴木傾城〈すずき・けいせい〉氏のブログには衝撃を受けた。

Darkness

 このブログを読破すれば、クリシュナムルティが指摘する「暴力」の現実が理解できる。

 私が「暴力」に対して眼を開いたのはルワンダ大虐殺によってであった。

『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』レヴェリアン・ルラングァ

 大乗仏教が説く「因果の物語」が呆気(あっけ)なく吹き飛ばされた。虐殺された子供たちに「過去世の罪」があったなどとは到底考えられない。そんな論法は「暴力の正当化」にさえなり得る。

 そしてパレスチナを取り巻く情況を知り、アラブ文学と巡り会った。

自爆せざるを得ないパレスチナの情況/『アラブ、祈りとしての文学』岡真理
パレスチナ人の叫び声が轟き渡る/『ハイファに戻って/太陽の男たち』ガッサーン・カナファーニー
暴力が破壊するもの 1/「黒い警官」ユースフ・イドリース(『集英社ギャラリー〔世界の文学〕20 中国・アジア・アフリカ』所収)

 それまでに読んできた魔女狩り、奴隷、ナチスなどの知識が全部結びついた。そして脳科学や人類学で解明されつつあるネットワーク構造を知ると、暴力の根元が「集団」にあることがわかってきた。では集団性を支えるものは何か? これこそが宗教なのだ。(詳細は明年の書評で)

 残酷極まりない世界の現実を目の当たりにした時、我々の中で何が変化するのだろうか? 多分二つのタイプに分かれることだろう。無力感に打ちひしがれて暴力を回避しようとする人。もしくは自分の周囲に限りなく存在する暴力の芽を鋭く見抜いて戦う人だ。

 更に重要なのはニヒリズムから宗教否定に回る人と、既成宗教を超える宗教性を模索する人とに分かれることである。鈴木氏は前者で、私は後者である。

 理由を一言で述べよう。科学は知性の次元であって感情を揺さぶることがない。知性とは思考であり、その本質は言葉である。人類は後天的に言語機能を獲得した。すなわち人間を奥深いところで支えているのは感情(情動)なのだ。そして感情を支配しているのが実は宗教なのだ。

善悪とは

 人類には文化という背景がある。そして文化は宗教に基づいている。

 過去の宗教は「物語」であった。それゆえ「別の物語」とは戦わざるを得ない。アブラハムの宗教を巡る争いの理由もここにある。ま、コカコーラとペプシみたいなものだ(笑)。

 無神論が脆弱なのは、人々がバラバラになることで結果的に種の保存を危うくするためだ。だから「新しい共同」なんてものは、「新しい宗教性」なくして成立しない。

 例えば「飢餓」という名の暴力がある。西洋列強の植民地政策が今も尚、第三世界に暗い影を落としている。すなわち「経済」もまた形を変えた暴力なのだ。





ウガンダの飢餓
ケビン・カーター「ハゲワシと少女」

 最初の動画はソマリアの子供である。「人はどうすればよいのか、私たちが生と呼ぶこのものは何なのか、何かそれを超えるものがあるだろうか」?

 あなたと私はそれで、どんな外部の影響もなしに、どんな説得〔persuasion:「確信・信仰」の意味もある〕もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに、自分自身の中にもたらすことができるでしょうか――私たちの存在のまさにその精髄の中に、全的な革命、心理的な突然変異を。そうしてもはや残虐冷酷でも、暴力的でも、競争的でも、不安でもなく、恐怖に満ちてもおらず、貪欲でも、嫉妬深くもなくなって、私たちが日々の生活を生きているこの腐った社会を築き上げた、私たちの性質の諸々の現れから自由になれるでしょうか?

 真の自由とは「何かからの自由」でもなければ、「マイナスからの自由」でもない。歴史における革命は常に閉塞した社会が自由を求めて起こされたものだが、常に新しい権力者を生んだだけであった。

 宗教(=教団)は恐怖というロープで信者を縛り上げる。ご丁寧なことにタブー(禁忌)という猿ぐつわをされ、迷える子羊は「安全」という名の椅子に腰掛けている。椅子を支える脚が「暴力」であるとも知らずに。

 上述したように暴力の根元はヒエラルキー構造の集団性にある。つまり上下関係自体が実は暴力なのだ。クリシュナムルティは「どんな説得〔persuasion:「確信・信仰」の意味もある〕もなしに、どんな処罰の恐怖もなしに」と一言でシンボリックに表現している。

 世界を変えるためには、まず自分を変えなければならない。

 それこそが真の問題です。精神に完全な革命をもたらすことは可能でしょうか?

 そのような質問に対するあなたの反応はどのようなものでしょう? あなたは言うかも知れません。「私は変わりたくない」そして大方の人はそうなのです。とりわけ社会的・経済的に安泰な人たち、ドグマ的な信念をもち、自分自身や事物の現状や、それをほんのわずか加工して満足している人たちの場合には。そのような人々に私たちは関わりません。あるいはあなたはもっと微妙なこういう言い方をするかも知れません。「まあ、それは少しばかり難しすぎるね。私には向かない」と。こういうケースでは、あなたはすでに自分自身をブロックしてしまっているのです。あなたは問うことをやめており、だからもうそれ以上進むことはないのです。

 痛烈な批判だ。我々は盲目的な信者を嘲りながら、自分たちが資本主義の奴隷となっている自覚を欠いている。安全、安定、現状維持こそ我々が望むものだ。餓死しつつある幼児が既に立つこともできず地面でクルクル回る姿を見ても、我々は生活を変えようとはしない。おわかりだろうか? 世界の残酷を支えているのはあなたと私なのだ。

 先に進む前に、人生におけるあなた方の根本的、永続的な関心は何なのか、おたずねしてみたいと思います。もって回った答はどけて、この問題にまっすぐ誠実に向き合うとすれば、あなたはどう考えますか? それが何かわかりますか?
 それはあなた自身ではありませんか? いずれにせよ、正直に答えるとすれば、それが私たちの大部分が言うだろうことです(ママ)。私は自分の進歩に、仕事に、家族に、私が暮している小さな片隅に、自分のためのもっとよい地位、もっと多くの特権、もっと大きな権力を得ることに、他者への支配力を強化すること等々に、関心があるのです。あなた自身に対してそれが自分の第一の関心事だということ――「私」が何より大事なのだということを認めるのは理にかなったことだと思うのですが、いかがでしょう。
 自分のことを第一に考えるのは間違ったことだと言う人もいるでしょう。しかし、私たちがきちんと正直に、それを認めることはめったにないということは別として、そのことのどこが悪いのでしょう? もし自分が何より大事だと認めるなら、私たちはそれをかなり恥ずかしく思うでしょう。それで、こういうことになります――人は基本的に自分自身に関心がある。そして様々なイデオロギー的、伝統的理由によって、人はそれを間違ったことだと考えるのだと。しかし人がどう【考える】かは重要ではありません。なぜ「それは間違っている」などという要素(ファクター)を持ち込むのですか? それは考え、観念です。【事実】は、人は根本的・永続的に自分自身に関心がある、ということです。
 あなたは言うかも知れません。自分自身のことを考えるより、他の人を助ける方が満たされた気分になると。違いは何ですか? それは依然として自己関心です。他の人たちを助けることがあなたにより大きな満足感を与えるとすれば、あなたは自分により大きな満足を与えてくれるものに関心をもっているのです。なぜそこにイデオロギー的な観念を持ち込むのですか? どうしてこの二重思考があるのでしょう? なぜこう言わないのですか? 「私が本当にほしいのは満足感だ。セックスでも、人助けでも、偉大な聖人、科学者、政治家になるのでも〔それが目当てなのだ〕」と。それは同じプロセスではないでしょうか? あらゆる種類の満足、微妙なものでもあからさまなものでも、それが私たちが欲しているものなのです。私たちが自由になりたいと言うとき、それは私たちが自由は素晴らしい満足感を与えてくれると考えるからです。そしてもちろん、究極の満足は、この自己実現 self-realisation という殊更(ことさら)な考えです。私たちが本当に追い求めているものは、そこにどんな不満もないような満足感なのです。

 幸福の意味は満足に転落した。我々は欲望の実現が幸福であると完全に錯覚している。宗教家は自分が満足するために世界平和を唱えているのだ。死にたい、死にたくないというのも欲望だ。賢くなりたい、悟りたいというのも欲望だ。

 一方の欲望から別の欲望へと移動したところで、何かが変わるはずもない。

「自己実現」とはマズローの欲求段階説に基づく考え方だ。心理学的な意味はあると思うが、こんなものは「神の国実現」の焼き直しであろう。最大の問題は、現在の自分を否定的な存在と見なしている点だ。宗教的視点からすれば、時間を要するものは「知識」や「技術」にすぎない。人生という時間の有限性を打破することが不可能だ。

 世界はエゴ化した。

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

 この暴力に覆われた世界と、欲望にまみれた自分を超脱するためには「諸法無我」しか道はない。クリシュナムルティは「あなたが世界だ」と突きつけた。ならば、私の内側に自由と平和を打ち立てるまで。

 クリシュナムルティについては書いても書いても書き足りない。

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すべての戦争に対する責任は、われわれ一人一人が負わなければならない/『自己変革の方法 経験を生かして自由を得る法』クリシュナムーティ
人間は人間を拷問にかけ、火あぶりに処し、殺害してきた
飢餓に苛まれる子供たち
なくならない飢餓/『面白いほどよくわかる「タブー」の世界地図 マフィア、原理主義から黒幕まで、世界を牛耳るタブー勢力の全貌(学校で教えない教科書)』世界情勢を読む会

2011-12-11

自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他


『唯脳論』養老孟司

 ・霊界は「もちろんある」
 ・夢は脳による創作
 ・神は頭の中にいる
 ・宗教の役割は脳機能の統合
 ・アナロジーは死の象徴化から始まった
 ・ヒトは「代理」を創案する動物=シンボルの発生
 ・自我と反応に関する覚え書き

 文明の発達は、存在を情報に変換した。いや、ちょっと違うな。文字の発明が存在を「記録されるもの」に変えた。存在はヒトという種に始まり、性別、年代、地域へと深まりを見せた。そして遂に1637年、ルネ・デカルトが「私」を発明した。「我思う、ゆえに我あり」(『方法序説』)と。それまで「民衆は、歴史以前の民衆と同じことで、歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」(『歴史とは何か』E・H・カー)。

 魔女狩りの嵐が吹き荒れ、ルターが宗教改革の火の手を上げ、ガリレオ・ガリレイが異端審問にかけられ、アメリカへ奴隷が輸入される中で、「私」は誕生した。4年後にはピューリタン革命が起こり、その後アイザック・ニュートンが科学を錬金術から学問へと引き上げた。120年後には産業革命が始まる。(世界史年表

 近代の扉を開いたのが「私」であったことは一目瞭然だ。そして世界はエゴ化へ向かって舵を切った。

 デカルトが至ったのは「我有り」であったと推察する。神学は二元論で貫かれている。「全ては偽である」と彼は懐疑し続けた。つまり偽に対して真を有する、という意味合いであろう。

 ここが仏教との根本的な違いである。仏法的な視座に立てば「我在り」となる。そしてブッダは「私」を解体した。「私」なんてものは、五感など様々な要素が絡み合っているだけで実体はないと斥(しりぞ)けた。またブッダのアプローチは「私」ではなく「苦」から始まった。目覚めた者(=ブッダ、覚者〈かくしゃ〉)の瞳に映ったのは「苦しんでいる生命」であった。

 貧病争はいつの時代もあったことだろう。苦しみや悲しみは「私」に基づいている。ブッダは苦悩を克服せよとは説かなかった。ただ「離れよ」と教えた。

 産業革命が資本主義を育てた。これ以降、「私」の経済化が進行する。一切が数値化され、幸不幸は所有で判断されるようになる。「私の人生」と言う時、人生は私の所有物と化す。だが、よく考えてみよう。生を所有することなどできるだろうか?

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 生の本質は反応(response)である。人間に自由意志が存在しない以上、選択という言葉に重みはない。

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二
自由意志は解釈にすぎない

 人は自分の行為に色々な理由をつけるが、全て後解釈である。

 認知的不協和を低減する方法として、選択的情報接触というものもあげられている。
 たとえば、トヨタの車と日産の車を比較して、迷った後、かりにトヨタを買ったとする。買った後、「トヨタの車を買った」という認知と「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知は、不協和となる。認知的不協和は不愉快な状態なので、人は、認知の調整によってその不協和を低減しようとする。この場合、「トヨタの車を買った」というほうはどうにもならないから、「日産のほうがよい選択肢だったかも知れない」という認知のほうを下げる工夫をすることになる。
 実際に、車を買った人の行動を調べてみたところ、車を買った後で、自分が買った車のパンフレットを見る時間が増えることがわかった。パンフレットは、通常、その車についてポジティブな情報が載せられている。したがって、自分の車のパンフレットを読むという行動は、自分の車が正しい選択肢で、買わなかったほうの車がまちがった選択肢であったという認知を自分に植え付ける行動だということになるわけである。認知的不協和理論の観点では、これは、行動後の認知的不協和低減のために、それに有利な情報を選択して接触する行動だと考えることができるわけである。このような行動を、選択的情報接触と言っている。

【『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一〈おかもと・こういち〉(PHP新書、2001年)】

誤った信念は合理性の欠如から生まれる/『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
情報の歪み=メディア・バイアス/『メディア・バイアス あやしい健康情報とニセ科学』松永和紀
ギャンブラーは勝ち負けの記録を書き換える

 生命が反応に基づいている証拠をお見せしよう。


 時間軸を変えただけの微速度撮影動画である。まるで川のようだ。果たして実際に川を流れる一滴一滴の水は悩んだり苦しんだりしているのだろうか? 多分してないわな(笑)。では人間と水との違いは何であろう? それは思考である。思考とは意味に取りつかれた病である。我々は人生の意味を思うあまり、生を疎(おろそ)かにしているのだ。そして「私の思考」が人々を分断してしまったのだ。

比較が分断を生む/『学校への手紙』J・クリシュナムルティ

 山本(七平)氏の書かれるように、鴨長明が傍観者のように見えるとすれば、そこには視覚の特徴が明瞭に出ているからである。「観」とは目、すなわち視覚系の機能であって、ここでは視覚が表面に出ているが、じつは長明の前提は「流れ」あるいは「運動」である。長明の文章は、私には、むしろ流れと視覚の関係を述べようとしたと読めるのである。
「人間が流れとともに流れているなら」、確かに、ともに流れている人間どうしは相対的には動かない。それなら、流れない意識は、長明のどこにあるのか。なにかが止まっていなければ、「流れ」はない。答えを言えば、それが長明の視覚であろう。『方丈記』の書き出しは、まさにそれを言っているのである。ここでは、運動と水という質料、それが絶えず動いてとどまらないことを言うとともに、それが示す「形」が動かないことを、一言にして提示する。形の背後には、視覚系がある。長明の文章は、われわれの脳の機能に対するみごとな説明であり、時を内在する聴覚-運動系と、時を瞬間と永遠とに分別し、時を内在することのない視覚との、「差分」によって、われわれの時の観念が脳内に成立することを明示する。これが、ひいては歴史観の基礎を表現しているではないか。

【『カミとヒトの解剖学』養老孟司〈ようろう・たけし〉(法蔵館、1992年/ちくま学芸文庫、2002年)】

「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し」(『方丈記』)。養老孟司恐るべし。養老こそはパンクだ。

 生は諸行無常の川を流れる。時代と社会を飲み込んでうねるように流れる。諸法無我は関係性と訳されることが多いが、これだと人間関係と混同してしまう。だからすっきりと相互性、関連性とすべきだろう。「相互依存的」という訳にも違和感を覚える。

 ブッダは「此があれば彼があり、此がなければ彼がない。此が生ずれば彼が生じ、此が滅すれば、彼が滅す」と説いた(『自説経』)。此(これ)に対して彼(あれ)と読むべきか。

クリシュナムルティの縁起論/『人生をどう生きますか?』J・クリシュナムルティ

 同じ川を流れながら我々は憎み合い、殴り合い、殺し合っているのだ。私の国家、私の領土、私の財産、私の所属を巡って。

 大衆消費社会において個々人はメディア化する。確かボードリヤールがそんなことを言っていたはずだ。

知の強迫神経症/『透きとおった悪』ジャン・ボードリヤール

 そしてボディすらデザインされる。

 ダイエット脅迫からくる摂食障害、そこにはあまりに多くの観念たちが群れ、折り重なり、錯綜している。たとえば、社会が押しつけてくる「女らしさ」というイメージの拒絶、言い換えると、「成熟した女」のイメージを削ぎ落とした少女のような脱-性的な像へとじぶんを同化しようとすること。ヴィタミン、カロリー、血糖値、中性脂肪、食物繊維などへの知識と、そこに潜む「健康」幻想の倫理的テロリズム。老いること、衰えることへの不安、つまり、ヒトであれモノであれ、なにかの価値を生むことができることがその存在の価値であるという、近代社会の生産主義的な考え方。他人の注目を浴びたいというファッションの意識、つまり皮下脂肪が少なく、エクササイズによって鍛えられ、引き締まった身体というあのパーフェクト・ボディの幻想。ボディだってデザインできる、からだだって着替えられるというかたちで、じぶんの存在がじぶんのものであることを確認するしかもはや手がないという、追いつめられた自己破壊と自己救済の意識。他人に認められたい、異性にとっての「そそる」対象でありたいという切ない願望……。
 そして、ひょっとしたら数字フェティシズムも。意識的な減量はたしかに達成感をともなうが、それにのめりこむうちに数字そのものに関心が移動していって、ひとは数字の奴隷になる。数字が減ることじたいが楽しみになるのだ。同様のことは、病院での血液検査(GPTだのコレステロール値だの中性脂肪値だのといった数値)、学校での偏差値、競技でのスピード記録、会社での販売成績、わが家の貯金額……についても言えるだろう。あるいはもっと別の原因もあるかもしれないが、こういうことがぜんぶ重なって、ダイエットという脅迫観念が人びとの意識をがんじがらめにしている。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 バラバラになった人類が一つの運動状態となるためには宗教的感情を呼び覚ますしかない。思想・哲学ではない。思想・哲学は言葉に支配されているからだ。脳の表層を薄く覆う新皮質ではなく、脳幹から延髄脊髄を直撃する宗教性が求められよう。それは特定の教団によって行われるものではない。あらゆる差異を超越して普遍の地平を拓く教えでなければならない。

 上手くまとまらないが、長くなってしまったので今日はここまで。

無責任の構造―モラル・ハザードへの知的戦略 (PHP新書 (141))カミとヒトの解剖学 (ちくま学芸文庫)方丈記 (岩波文庫)悲鳴をあげる身体 (PHP新書)

ネオ=ロゴスの妥当性について/『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
人間の問題 2/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
暴力と欲望に安住する世界/『既知からの自由』J・クリシュナムルティ
縁起と人間関係についての考察/『子供たちとの対話 考えてごらん』 J・クリシュナムルティ

2011-11-22

「名を正す」/『思想革命 儒学・道学・ゲーテ・天台・日蓮』湯浅勲


 湛然〈たんねん=妙楽大師〉が「礼楽(れいがく)前(さ)きに駆(は)せて真道(しんどう)後(のち)に啓(ひら)く」と『止観輔行伝弘決』(しかんぶぎょうでんぐけつ)に書いている。

 簡単にいえば、礼節や音楽が先に広まってから後に正しい哲学が花開くといった意味だ。礼楽を重んじるのは儒家の教えである。仏教はインドから中国に広まった。人や物の交流から文化も伝わったことだろう。武ではなく文をもって化するのは、今風の言葉でいえばソフトパワーということになろう。

孔子
(孔子)

 中国には「名を正す」という思想があった。

 管子は「名を正す」と言い、孔子は「名を正す」と言った。また、『荀子』やわが国の山県大弐の『柳子新論』には正名篇がある。
 古来、中国においては修身・治国・平天下の根本思想として、この「名を正す」という考えがあった。「名を正す」ということは、君子たるものが必ず先ずやらなければならない最重要課題であったのである。このことをよく表わしている孔子と子路の有名な会話が『論語』にある。知っている人も多いと思うが、確認の意味でその会話を引用してみたい。

 子路(しろ)曰(いわ)く、衛君(えいくん)、子(し)を待ちて政(まつりごと)を為(な)さば、子(し)将(まさ)に奚(なに)をか先にせんとすと。子(し)曰(いわ)く、必ずや名を正さんかと。子路曰く、是れ有るかな、子(し)の迂(う)なるや。奚(なん)ぞ其(そ)れ正さんと。子曰く、野(や)なるかな由(いう)や。君子は其の知らざる所に於て、蓋(けだ)し闕如(けつじょ)す。名正しからざれば、則(すなわ)ち言(げん)順(したが)はず。言順はざれば、則ち事(こと)成らず。事成らざれば、則ち礼楽(れいがく)興(おこ)らず。礼楽興らざれば、則ち刑罰中(あた)らず。刑罰中らざれば、則ち民手足(しゅそく)を措(お)く所無し。故に君子之を名づくれば、必ず言ふ可(べ)くす。之を言へば必ず行ふ可くす。君子其の言に於て、苟(いやし)くもする所無きのみと。

【現代語訳】子路がたずねた。「今もし衛の君が先生をお招きして国政をまかされることでもありましたならば、先生は何から先に手をつけられますか」と。孔子が答えた。「必ずや名を正そう」と。子路が言った、「なんとまあ先生は悠長なことをおっしゃるのでしょう。この戦乱の世の中でそんなまだるっこいことをやっておられましょうか」。孔子が言った、「何というがさつ者だ、由よ。君子というものは、自分の知らないことについては黙っておくものだ。名を正すということの真義をお前は知っているのか。そもそも、名称が正しくなければ、名称とそれがさし示す実物とが一致しないから、人の言葉が順当に理解されることも行われることもない。言葉が順当に理解されることがなければ、何事においても成就しない。物事が混乱し何事においても成就されることがなければ、人々の間に秩序と調和を致すところの礼楽は盛んになることがない。礼楽が行われなければ刑罰が中正に行われることがない。刑罰が中正を欠くと、人々は安心して手足を措くところもなくなってしまう。社会の混乱はこの名称と実物とが一致しないことに起因するのである。ゆえに、君子たるものは物事に対して名づけたからには必ず言葉をもって言うようにし、言葉をもって言うからいは、必ずそれを実行するようにしなくてはならない。君子たるものはものを言うに当たっては軽々しくしてはならない」と。
【『思想革命 儒学・道学・ゲーテ・天台・日蓮』湯浅勲(海鳥社、2003年)以下同】

 社会が混乱する様相を「風が吹けば桶屋が儲かる」式に説明している。その原因が「名と実との不一致にある」という指摘が鋭く突き刺さる。

 専門用語、業界用語、カタカナ語、流行り言葉、若者言葉、ネット用語などが社会の断絶を生んでいると考えてよさそうだ。

 TPP(環太平洋戦略的経済連携協定)なんてえのあ、どう考えても陰謀の臭いがするよ。本来であれば「関税撤廃協定」で構わないはずだ。

孔子
(孔子)

 国会中継を見るがいい。何を言っているのか、さっぱりわからない(笑)。「善処します」「前向きに検討します」あたりから言葉は煙幕と化した。政治的な思惑で言葉を糊塗しているだけの世界だ。「自衛隊は軍隊に非ず」なんてのも同様だ。

(※『荀子』を引用し)すなわち、実物(実際の対象)に従って名称を制定する、これが基準であるというのである。簡単に言うならば、名実を一致させること、これが名称を制定するに際しての基準であるということであろう。

 バブルが崩壊してから、国民の利益と政治家&官僚の利益が目立って一致しなくなったように思う。失われた10年を経た後は企業の利益すら一致しなくなった。企業はひたすら安い労働力を求めた。アメリカからの指示で省庁を再編し(大蔵省解体が目的だった)、規制緩和をした成果は終身雇用が破壊されただけという有り様だった。

 教育においても名実は不一致だ。小田嶋隆がよくいう「個性重視の教育」がその典型だろう。

「個性重視の教育」に対する異議

孔子诞生二千五百四十周年小型张#EYT84190180

 しかしながら、なぜ、名を「正す」必要があるのであろうか。それは名が乱れているがゆえである。つまり、名称とそれが指し示す実物との間に差異が生じ、混乱が起きてくるがゆえに、名を正す必要が生じてくるのである。

 一つ疑問がある。「子路」〈しろ〉の文脈では「名称」と読めるが、これが「顔淵」〈がんえん〉では「名分」となっている。

顔淵第十二 299:論語に学ぶ会

 厳密にいえば孔子の教えは倫理や道徳であって宗教ではない。政治と治世が根本となっているため、官僚制度を大前提とした論理であることは否めない。ただし国家の枠組みが定かでない時代において、孔子の果たした役割は大きい。孔子なくして日本の律令制も存在し得ない。

律令官制の沿革

 孔子が目指したのは社会秩序であった。国家といっても一人ひとりの集まったものである。であるならば、人と人との関係性が重要になる。身長216cm(チェ・ホンマンとほぼ同じ)の天才が説いたのは社会哲学であった。

孔子像
(孔子)

 振り出しに戻ろう。孔子は作詞家でもあった。もちろん自ら楽器の演奏も行った。現代においては一見すると「楽」が盛んな印象もあるが、多くの人々は「聴く側」へと追いやられ、消費としての「楽」しか見当たらない。歌ですらそうだ。カラオケなしで友人同士や近隣の人たちが歌を歌うことはまずない。

 色々考えると、文明の発達にあぐらをかいて調子に乗ってきたけど、案外「貧しい生活」をさせられていることに気づく。

 礼節においては何をか言わんやである。アメリカが世界中で礼節を踏みつけている。

 今日からは世界を少しでもよくするために、正しい言葉遣いを心掛けてゆきたい。

 宮城谷昌光の作品を読むと、「名を正す」意味が何となく理解できる。

 読書日記にも書いたが、最終章で日蓮と創価学会のプロパガンダ本であることが判明する。個人的には5250円(定価)の詐欺だと思う。著者と出版社の見識を大いに疑う。



世界の楽器
製薬会社による病気喧伝(疾患喧伝)/『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
名づけることから幻想が始まる/『タオを生きる あるがままを受け入れる81の言葉』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

2011-11-11

人は自分自身の光りとなるべきだ/『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ


『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

 ・人は自分自身の光りとなるべきだ
 ・瞑想の否定

『真理の種子 クリシュナムルティ対話集 Truth And Actuality』
『最後の日記』J・クリシュナムルティ

 誰しも日記をつけたことがあるだろう。若い頃の日記は感傷に傾きすぎて、後から読むと思わず赤面するような文章が多い。日記とは自問自答でもある。どのように繕(つくろ)ったとしても心の遍歴が浮かんでくるものだ。逆説的ではあるが、それゆえに大半の日記は読む価値がない。

 ウェブ上を占める膨大な数のブログも多くは日記の類いである。たとえ有名人であろうとも、私は他人の日常に興味を覚えない。また素人であっても書く以上は批評的な視点や、何らかの価値観を記さなければ表現とはいえないだろう。

 クリシュナムルティが突然日記をつけ始めた。1973年のことである。既に78歳であった。本書には1975年までの日記が収められている。宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉は作家だけあって訳文も読みやすい。文章の体裁は『生と覚醒のコメンタリー』(全4冊)と全く同じである。風景や人物を描写しながら既成概念を粉砕し、我々の思考を激しく揺さぶる。

 なにが正気で、なにが狂気だろう? だれが正気で、だれが知っているだろうか? 政治家は正気だろうか? 聖職者たち、彼らは狂っていやしないか? イデオロギーに専念している人たちは正気だろうか? 私たちは彼らに操られ、型にはめられ、小突きまわされている。私たちは正気だろうか?
 正気とはなんだろうか? 全人的であること、行動や生活や、あらゆる種類の関係において、断片的でないこと――それが正気であることの本質だ。正気とは全体的であること、健康で神聖であることを意味する。狂気、神経症、精神病、失調症、分裂病、病名はなんでもかまわない。それは行動が断片的であるということだ。関係の動き――、つまり存在そのものがばらばらになっていることだ。敵対や分裂を生みだすこと、これがあなたがたの代表である政治家のやっている仕事だが、それが狂気をはぐくんでいる。独裁者としてであれ、平和の名においてであれ、他のどんなイデオロギーの名においてであれ、事情は同じだ。そして聖職者だが、彼らの世界を見るがいい。みんなが真理であると見なしているもの、救世主や、神や、天国、地獄、それとあなたとの間に聖職者は立っている。彼は取次役であり、代理人だ。彼は天国の鍵を手にしている。彼は信仰と教義(ドグマ)と儀式を通して、人間を調整してきた。彼はまことに伝道者(プロパガンディスト)である。あなたが安逸と安全を求め明日を恐れるからこそ、聖職者はあなたたちを調整してきたのだ。それに芸術家たち、知識人たち、科学者たち。たいそう崇(あが)められ称えられてきたが、彼らは正気だろうか? それとも彼らはまったく違った二つの世界に住んでいるのだろうか? 表現へ駆り立てる理念や想像の世界があり、それは悲しみや喜びの日常から完全に分離しているのだろうか?
 あなたの周囲の世界は断片的であり、あなたもまた断片的だ。その表現が闘いであり、混乱や、みじめさなのだ。あなたがそのような世界であり、そんな世界があなた自身なのだ。正気とは、行為を伴いつつ人生を闘いなしに生きることだ。行為と理念は相対立する。見ることは行なうことだ。先に観念構成があってその結論に従って行為があるというのではない。それでは混乱を生むばかりだ。分析者自身が分析されるものだ。もし分析者が、自分を分析されるものとは違ったなにか分離したものだと考えれば、そこには衝突が生じ、この衝突の場に不調和が生じる。観察者は、同時に観察されるものだ。そこに正気があり全体があり、神聖なものとともに、愛がある。

【『クリシュナムルティの日記』J・クリシュナムルティ:宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉訳(めるくまーる、1983年)以下同】

 狂気と正気を分けるのは多数決である。皆が「魔女を退治しようぜ」といえば魔女を焼くことは正気となる。関東大震災の時は朝鮮人を殺すことが正気であった。戦争においては敵国の兵士を殺戮することが正気である。ベトナム戦争でアメリカ兵は、ベトナム人の耳や首のコレクションを自慢した。

米兵は拷問、惨殺、虐殺の限りを尽くした/『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

 では現在の我々の正気度を検証してみよう。多くの人々にとって人生の目標は「競争に勝つ」ことであり、それが上手くいかないところに悩みが生まれる。学生であろうと社会人であろうと一緒だ。少しでも他人を出し抜くことこそが生き甲斐なのだ。

 毎年3万人の人が自殺をし、5000人の人が交通事故で死亡しても我々の人生は何ひとつ変わらない。ルワンダで大虐殺があっても、パレスチナ人がイスラエル軍に殺されても全く変化しない。

 確かに気の毒だとは思う。でも、どうせ何もできない。だったら深刻に考えてもしようがない。自分のことだけで頭がいっぱいだ。私の将来さえよくなってくれれば後はどうでもいい。

 これが果たして「正気」といえるだろうか? 資本主義に毒された世界で、何から何まで経済的な尺度で判断し、競争に駆り立てられる我々は正気なのだろうか?

 政党も企業も学校も教団も自分のことしか考えていない。自分たちさえ繁栄できればよい。そのために戦い、争い、罵り合うのが我々の日常だ。勝てば官軍、負ければ賊軍だ。

 そのありのままの自分を見つめよ、とクリシュナムルティは教える。見ることが気づくことであり、洞察から英知が生まれる。「ここがよくないから、今度からはこうしよう」ということではない。クリシュナムルティは理想も努力も斥(しりぞ)ける。そのような思考や行為自体が「社会の鋳型」(いがた)であるからだ。

理想を否定せよ/『クリシュナムルティの教育・人生論 心理的アウトサイダーとしての新しい人間の可能性』大野純一
努力と理想の否定/『自由とは何か』J・クリシュナムルティ

k1

 人は自分自身の光りとなるべきだ。この光りが、法である。他に法などない。他の法と言われるものはすべて、思考によってつくられたものだ。だから分裂的で、撞着(どうちゃく)を免れない。自己にとって光りであるとは、他人の光りがどんなに筋が通っていようが、論理的であろうが、歴史の裏づけをもっていようが、自信に満ちていようが、けっして追従しないということだ。もしあなたが、権威、教義、結論といったものの暗い陰の下にあれば、自分自身の光りであることはできない。倫理性は、思考によって組み立てられるものではない。環境の圧力に押されて出てくるものでもない。それは昨日に属さず、伝統にも属さない。倫理性は愛の産む子供であり、愛は欲望や快楽ではない。性愛や官能の楽しみは、愛ではない。

 ブッダの教えと完全に一致している。否、クリシュナムルティが説いているのは仏法そのものであると私は受け止める。「なんじらは、ここに自からを燈明とし、自らを依所として、他人を依所とせず、法を燈明とし、法を依所として、他を依所とせずして住するがよい」(大般涅槃経)。ブッダもクリシュナムルティも「私の教えに従え」とは絶対に言わない。一切の隷属から人々を解放することが彼らの教えであった。

 自由とは、あなたが自分自身にとって光りとなることだ。その時、自由は抽象ではない。思考によって組み立てられたものでもない。現実問題として、自由とは、依存関係や執着から、あるいは経験を渇望することから、いっさい自由になることだ。思考の構造から自由になることは、自身にとって光りとなることだ。この光りのなかで、すべての行為が起こる。そのとき矛盾撞着はない。法や光りが行為から分離しているとき、行為する者が行為そのものから分離しているとき矛盾撞着が起こる。理念とか原理とかは思考の不毛な動きであり、この光りと共存することはできない。一方が他方を否定するのだ。この光り、この法が、あなたと分離している。観察者がいるところには、この光り、この愛は存在しない。観察する者の構造は、思考によって組み立てられたもので、けっして新しくなく、けっして自由ではない。方法とか、体系、修練といったものなど、なにもない。見ることだけがあり、それが行為することだ。あなたは見なければならない。ただし他人の目を通してではなく。この光り、この法は、あなたのものでも他人のものでもない。ただ光があるだけだ。これが愛だ。

 真の哲学や宗教は鋳型ではないはずだ。教育という名目で行われるコントロールとも無縁であろう。この腐りきった社会を構成している自分の腐敗ぶりを見つめる。本当に見つめることができれば、その瞬間に腐敗から離れているはずだ。

Jiddu Krishnamurti

 宮内勝典〈みやうち・かつすけ〉はクリシュナムルティの講話を実際に聴いている。

 一人の老人がテントの隙間から現われた。いや、老人という言葉はそぐわない。完全な白髪なのに不思議な若々しさがあった。肉の若さではない。意識がしんと張りつめ、それでいて、いまの瞬間に没入し、活(い)きいき弾むような自由感があった。新鮮な老人――、そんな印象だ。クルタというなんの変哲もない白い木綿服を着ていた。台の上にあぐらをかいて合掌し、テントのなかを埋めつくす数百人の聴衆を、ゆっくり5分ほどかけて眺め回した。見るというより写しとるような眼差だった。なにも喋らない。さらに5~6分過ぎた。宙から垂れる透明な糸でもたぐり寄せるように、ふっと口をひらいた。流暢な英語だった。意味を追うよりも音の響きそのものに耳を澄ませたくなる声だ。(訳者あとがき)

 実に見事な描写である。クリシュナムルティの言葉は水のように浸透し、風のように頬を撫でる。

一読者からクリシュナムルティの料理人となった青年/『キッチン日記 J.クリシュナムルティとの1001回のランチ』マイケル・クローネン

 真のコミュニケーションは見つめ合うところに極まることが、よく理解できる。互いの瞳が鏡となって光を反射し、世界を照らすのだ。世界に平和が訪れていないのは、我々が相手を見つめていない証拠といえよう。

2011-10-14

書き留められた言葉の“死んだ会話”


 ソクラテスは、ホメーロスの一節から政治問題、たったひとつの単語に至るまで、あらゆるものに対して、その元になっている思考の核心が明らかになるまで問いかけを続けることを要求した。目標は常に、その思考が社会の最も深遠な価値観をどこまで反映しているか、あるいは反映できていないかを理解することにあり、対話のなかでの弟子との問答は指導の媒体であった。

【『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ:小松淳子訳(インターシフト、2008年)以下同】

 ソクラテス式問答法の根底には、言葉に対する独特の考え方がある。指導すれば、真実と善と徳の探究に結びつけることができる、あふれんばかりの命あるもの、それが言葉なのだ。ソクラテスは、書き留められた言葉の“死んだ会話”とは違って、話し言葉、つまり“生きている言葉”は、意味、音、旋律、強勢、抑揚およびリズムに満ちた、吟味と対話によって一枚ずつ皮をはぐように明らかにしていくことのできる動的実体であると考えた。それに反して、書き留められた言葉は反論を許さない。書かれた文章の柔軟性に欠ける沈黙は、ソクラテスが教育の核心と考えていた対話のプロセスを死すべき運命へと追いやったのである。

プルーストとイカ―読書は脳をどのように変えるのか?

Socrates

歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

2011-10-12

弛緩の時代


 われわれは弛緩の時代にいる。ぼくは時代の色彩のことを言っているのだ。

【『こどもたちに語るポストモダン』ジャン=フランソワ・リオタール:菅啓次郎〈すが・けいじろう〉訳(ちくま学芸文庫、1998年)】

こどもたちに語るポストモダン (ちくま学芸文庫)

2011-10-08

自己欺瞞


 彼らは立派なことを公言していることに束縛され、また過大な名声の重みに苦しみながら、自分の意志というよりも、むしろ名誉感によって自己欺瞞を続けているのである。

【『人生の短さについて』セネカ:茂手木元蔵〈もてぎ・もとぞう〉訳(岩波文庫、1980年/大西英文訳、2010年)】

人生の短さについて (1980年) (岩波文庫)生の短さについて 他2篇 (岩波文庫)

Seneca the Younger (c. 3 BC – 65 AD)

2011-09-14

デジタル・コンピューターの回路やバイクの変速ギアのなかにも真理が宿っている


 ブッダや神が花びらや山の頂に住んでいるのと同じように、デジタル・コンピューターの回路やバイクの変速ギアのなかにもそのまま真理が宿っているのである。そう考えなければ、ブッダの品位を汚すことになる――それはとりもなおさず自分自身を卑しめることにほかならない。

【『禅とオートバイ修理技術』ロバート・M・パーシグ:五十嵐美克〈いがらし・よしかつ〉(めるくまーる、1990年/ハヤカワ文庫、2008年)】

禅とオートバイ修理技術〈上〉 (ハヤカワ文庫NF)禅とオートバイ修理技術〈下〉 (ハヤカワ文庫NF)

2011-07-28

自分で精神を働かせ、自分で考える


 元来、わたくしたちは身体的栄養を摂る場合には、食物を自分で口に入れ、自分で咀嚼し、自分で消化する。これと同じように、あるいはそれ以上に、精神が知識を獲得するためには、自分で精神を働かせ、自分で考えなければなりません。そこには、当然、強い精神、強靱な思索が要求されてまいります。それは決して容易なことではありません。考えるということはなかなかむずかしいことであり、また苦しいことでもあります。しかし、そのようにして精神を働かせ、どこまでも考え抜くところにこそ、考える葦としての人間の尊さがあるのであります。
 なお、この考えるという行為は、それをたえず行うことによってその力を強めるものであります。からだが訓練によって強化されるのと同じように、精神というのも、それを鍛錬することによって、次第に強力となるものであることを申し上げたいと思います。それに反して怠惰な、怠けた精神は、怠惰なからだにもまして、ますます貧弱なものとなることは申すまでもありません。ともかく考えるためには、〈自分で考える〉ことが絶対に必要であります。

【『「自分で考える」ということ』澤瀉久敬〈おもだか・ひさゆき〉(文藝春秋新社、1961年/第三文明レグルス文庫、1991年)】

自分で考えるということ