2021-07-24
2021-07-23
新左翼の「加入戦術」/『日教組』森口朗
・『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
・『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
・『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
・『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
・『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
・『北海道が危ない!』砂澤陣
・『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
・『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
・『自治労の正体』森口朗
・『戦後教育で失われたもの』森口朗
・新左翼の「加入戦術」
・『左翼老人』森口朗
・『売国保守』森口朗
・『愛国左派宣言』森口朗
・『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎
このようにエリート用の本音と大衆用の建前が分離している状態のとき、社会学や政治学では宗教になぞられて前者を「密教」あるいは「秘儀」、後者を「顕教」あるいは「公儀」と表現することがあります。
例えば、明治国家のエリート内では天皇機関説は常識でした。しかし一方で、大衆には天皇は現人神(あらひとがみ)だと教えていました。この場合、天皇機関説が「密教」「秘儀」で、天皇は神様だという考えが「顕教」「公儀」になります。
日教組も同様で、幹部用の思想=「共産主義」と、一般組合員用の思想=「戦後民主主義」を分離したといえます。ただ、日教組が明治国家と異なる点は、組合活動を通じて顕教信者が徐々に密教信者へと変っていくことでした。
【『日教組』森口朗〈もりぐち・あきら〉(新潮新書、2010年)以下同】
森口朗は説明能力が高い上にバランス感覚が優れている。むしろ保守系であれば異を唱える人が出かねないほどのバランス感覚である。その批判は左翼のやりたい放題を不問に付してきた自民党や官僚にまで向けられる。55年体制の馴れ合いこそが戦後レジームの本質であり、自主憲法制定を阻んできたのだろう。GHQが作った枠組みの中で、ぬくぬくと防衛費を惜しみながら国防を米軍に委ね、経済的繁栄を謳歌してきたのが日本の戦後であった。
顕教は「けんぎょう」と読む。一般的には経典に説かれた教えが顕教で、秘密の教えが密教とされている。最澄が台密で、空海が東密である。禅宗以外の鎌倉仏教はおしなべて密教と考えてよい。
密教とは後期仏教(大乗)が大衆に迎合してヒンドゥー教的色彩を施したものである。すなわちブッダの教えを信仰のレベルに貶めたのが密教化であり、瞑想を祈りに摩り替えた。これが私の考えだ。そもそもブッダはこう説いている。「わたくしは内外の隔てなしに(ことごとく)理法を説いた。完(まった)き人の教えには、何ものかを弟子に隠すような教師の握拳(にぎりこぶし)は、存在しない」(『ブッダ最後の旅 大パリニッバーナ経』中村元〈なかむら・はじめ〉訳)。それを「実は握拳があった」とするのが密教の立場であろう。師の冒涜これに過ぎたるはなし。
60年代後半に大学生だった世代が70年代前半になると教員社会に流出しはじめます。この世代は学生運動が盛り上がった世代として知られていますが、彼らの中では、従来の左翼=日本共産党や社会主義協会派とは異なる、いわゆる新左翼と呼ばれる集団が大きな支持を得ていました。
新左翼は、平和革命を志向する社会主義協会派や、一向に暴力革命を起こしそうにない日本共産党を「既得権にしがみついて闘わない左翼である」と批判し、自らを彼らと一線を引く戦闘的左翼だと位置づけました。そして暴力革命を真正面から肯定し、実際に火炎瓶を交番に投げつけるなどの暴行を行いました。当然ながら警察は治安を維持するために新左翼団体に所属しているだけでブラックリストに載せてマークします。今でも彼らが、ヘルメットをかぶり、サングラスをかけ、タオルでマスクのように顔を覆っているのは警察のリストに載るのをさけるためです。
新左翼の学生たちは、就職を機に学生運動から足を洗って企業戦士になった者もいましたが、足を洗わずに社会に潜入する連中も少なからずいました。その潜入先として多くを占めたがの、教育を含めた地方公務員や郵便局・国鉄・電電公社・専売公社など現業系の国家公務員です。
同じく就職するのに、なぜ足を洗った人は民間企業に就職し、足を洗なわなかった人は公務員になったのか。そのなぞを解くためには、新左翼独特の「加入戦術」という考え方を理解しなければなりません。
彼らが夢想する暴力革命を実現させるためには、仲間を増やさなければなりません。しかし、まともに暴力革命を説いても相手にされるはずはないですから、なるべく思想的に近い組織に潜り込み、組織内で仲間を増やして乗っ取る戦術が考案されました。これを加入戦術と言います。加入戦術は旧社会党やその支持母体である官公労に対して行われました。こうして、70年代に大量の新左翼が教育を含めた公務員になったのです。
新左翼は一種の先祖返りである。キリスト教でいえばプロテスタントに近い。運動が澱(よど)むと必ず原理主義的回帰に向かう。教祖であるマルクスに忠実であろうとすれば自ずと暴力革命を志向する。否、暴力革命を避ければ最早マルキシズムとは言えない。
加入戦術から細胞を形成し、既成組織を白蟻のように喰い付くし、赤い色で染め上げるのが左翼の手法である。日本では革命という言葉が世直しと同義で受け止められたこともあって、多くの若者が取り込まれていった。知的な若者は左翼に、貧困で苦しむ者は創価学会に参加したのが当時の世相といってよい。
大衆には才覚がない。財力もなければ人脈もない。国民の7割が凡人だとすれば、社会主義思想に魅力を感じるのは当然ともいえる。またそこに資本主義の脆弱さもあるのだろう。要は競争と分配の比率に尽きるわけだが、一君万民の伝統を有する我が国は元々社会主義との親和性が高い。企業や組織の内部では社会主義が堂々と罷(まか)り通っている。
本音を隠すという一点において、左翼を信ずるのは誤っていると断言できる。
2021-07-22
運動によって脳は物理的に変えられる/『一流の頭脳』アンダース・ハンセン
・『病気の9割は歩くだけで治る! 歩行が人生を変える29の理由 簡単、無料で医者いらず』長尾和宏
・『病気の9割は歩くだけで治る!PART2 体と心の病に効く最強の治療法』長尾和宏
・『ウォーキングの科学 10歳若返る、本当に効果的な歩き方』能勢博
・『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
・『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
・『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二
・『トップアスリートに伝授した 勝利を呼び込む身体感覚の磨きかた』小山田良治、小田伸午
・『間違いだらけのウォーキング 歩き方を変えれば痛みがとれる』木寺英史
・『ランニングする前に読む本 最短で結果を出す科学的トレーニング』田中宏暁
・『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
・『脚・ひれ・翼はなぜ進化したのか 生き物の「動き」と「形」の40億年』マット・ウィルキンソン
・『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス
・『脳を鍛えるには運動しかない! 最新科学でわかった脳細胞の増やし方』ジョン・J・レイティ、エリック・ヘイガーマン
・運動によって脳は物理的に変えられる
・『ウォークス 歩くことの精神史』レベッカ・ソルニット
・『トレイルズ 「道」と歩くことの哲学』ロバート・ムーア
・必読書リスト その二
だが何より大きな発見は、2つのグループがまったく異なる結果を示したことである。
ウォーキングを1年間続けた被験者たちは健康になったばかりでなく、脳の働きも改善していた。MRIの画像は、脳葉の連携、とくに側頭葉と前頭葉、また側頭葉と後頭葉の連携が強化されたことを示していた。
簡単にいえば、脳の各領域が互いにより協調しながら働いていたということだ。脳全体の働きが1年前より向上していたのである。身体を活発に動かしたこと、つまり【ウォーキングが、何らかの作用によって脳内の結合パターンによい影響を与えた】のだ。
【『一流の頭脳』アンダース・ハンセン:御舩由美子〈みふね・ゆみこ〉訳(サンマーク出版、2018年)】
読みやすい上に一分の隙(すき)もない良書である。説明能力の高さそのものがスタイルを確立している。科学が絶対なのではなく、科学的解釈に説得力があるということがよくわかった。
記憶力や認知機能に関しては筋トレよりも有酸素運動の方が効果があり、ウォーキングよりもランニングが優(まさ)るとのこと。要は「狩猟採集生活に還れ」ということだ。1万年前と同じ狩猟採集生活を送る東アフリカ・タンザニアのハッザ族は一日に8~10km(1万1000~1万4000歩)歩いている。これが一つの目安となろう。
収穫はそれだけではなかった。おそらく、こちらのほうが重要である。
それは定期的なウォーキングが、実生活にもプラスの効果をおよぼす脳の変化をもたらしたことだ。心理テストの結果、「実行制御」と呼ばれる認知機能(自発的に行動する、計画を立てる、注意力を制御するといった重要な機能)が、ウォーキングのグループにおいて向上していたことがわかったのである。
要するに、【身体を活発に動かした人の脳は機能が向上し、加齢による悪影響が抑制され、むしろ脳が若返る】と判明したのだ。
ここで一旦、これまで読んだことを振り返り、もう一度じっくり考えてほしい。
ランニングで体力がつく、あるいはウェイトトレーニングで筋肉が増強できることは知っているはずだ。それと同じく、【運動によって脳は物理的に変えられる】。
脳の変化は、現代の医療技術で測定することができるので、そのことは確認済みだ。脳を変えれば、認知機能を最大限まで高められることもわかっている。
まずは買い物を狩猟と捉え直すことを提案したい。一日三食摂っている人であれば三度買い物に行ってはどうだろう? 休日であれば遠くのスーパーに出向くのもいいだろう。勤め人であれば一つ手前の駅やバス停で降りて歩くことを心掛ける。もちろんエスカレーターやエレベーターは利用せず階段を上る。それだけでどんな薬やサプリメントよりも効果がある。
ではなぜ、そんな素晴らしいことが広まらないのだろうか? もちろんカネだ。製薬会社やメーカーは儲からないため手をつけない。そして驚くべきことに消費者側もまた対価を支払わないものに対して不信感を抱いている側面がある。つまりマネーという手段を経なければコミュニケーションが成立しなくなっているのだろう。消費者はカネを支払うことで満足感を得ているのだ。
広く知られたプラセーボ効果に「高価な薬は100%効く」というのがある。偽薬であっても高いカネを支払えば、霊験(れいげん)あらたかな妙薬と化すのだ。金銭に対する我々の信頼は既に信仰の高みにまで至っている。
2021-07-20
視界は補正され、編集を加える/『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎
・『46年目の光 視力を取り戻した男の奇跡の人生』ロバート・カーソン
・『錯視芸術の巨匠たち 世界のだまし絵作家20人の傑作集』アル・セッケル
・視界は補正され、編集を加える
・『世界はありのままに見ることができない なぜ進化は私たちを真実から遠ざけたのか』ドナルド・ホフマン
・『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
・『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 3 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
ものが目に映り、像が網膜の細胞に捉えられた段階で、何が見えるかが決まり、それが私たちの意識にのぼるのであれば、目に映った像がものの見え方を決めるはずである。ところが、この章のさまざまな例で示してきたように、目に映った像がすべてを決めているのではないのである。
目に映っているものは同心円なのに見えるものはらせん模様であったり、同じ印刷がなされているものがちがった色や明るさに見えたり、何も描かれていないものが見えたり、目の前にあるものが見えなかったりする。これらのことは、眼底に映った外界像を網膜の細胞がとら(ママ)えて生体電気信号に変換した時点で、「見える」という知覚が生まれているのではないことを示している。網膜から電気信号が脳に送られ、脳の中で再処理され、その結果生成された電気信号が私たちの知覚意識のもとになっている。見ることも、ほかの心のできごとと同様に脳によって担われている。
見ることは、しばしば、カメラで写真を撮ることに誤ってたとえられている。目で起きていることを、光がカメラのフィルムやデジカメのCCD素子にとらえることにたとえるのは的外れではない。外界世界が網膜に像を結ぶ過程は、純粋な光学過程である。そして投影された光の強度と波長にもとづいて、視細胞にイオンの流れすなわち電気反応を起こす。ここまでは、カメラと本質は変わらない。カメラにおいても、レンズを介してフィルムに像を結び、化学反応により像は焼きつけられるのである。
しかし、ものを見ることの本質は、そうやって網膜でとらえられた光情報にもとづいて、外界の様子を脳の中で復元することである。その復元されたものを私たちは主観的に感じ、また、復元されたものにもとづいて行動するのである。
【『「見る」とはどういうことか 脳と心の関係をさぐる』藤田一郎〈ふじた・いちろう〉(化学同人、2007年)】
「DOJIN選書」の一冊。後半が難解で挫けた。それでも前半の内容だけで教科書本としておく。
「同心円が螺旋模様に見える」というのはフレーザー錯視のこと。ま、百聞は一見に如かずだ。ご覧いただこう。
今まで結構な量の錯視画像を見てきたが最も衝撃を受けた一つである(1位は「妻と義母」)。視界は補正され、編輯(へんしゅう)を加える。我々は五官情報をそのまま受け取ることができないのだ。あらゆる情報は「読み解かれる」。人は想念の中で生きる。
天台宗では十界(じっかい)を説く。生命の諸相を十種類に分けたものだ。人は外界の縁に触れて様々な生命の状態を表す。因→縁→果→報という推移が瞬間瞬間展開されてゆくのが生活とも人生とも言い得る。その果を法界(≒世界)と捉えたところに天台宗の卓見がある。固定した性格ではなくチャンネルや周波数のように見つめるのだ。
例えば自分の人生を映画さながらに見つめることは可能だろうか? 自分が怒られたとか、傷ついたとか、落ち込んだとか、嫉妬したとか、マイナス感情の虜(とりこ)になる時、人は我を失う。それどころか卑屈になった心は妄想に取り憑かれ、憎悪や怒りが増幅されてゆく。
見ることは簡単だ。だが、ありのままに見ることは難しい。
・視覚情報は“解釈”される/『人体大全 なぜ生まれ、死ぬその日まで無意識に動き続けられるのか』ビル・ブライソン
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