2014-03-11

道教の魂魄思想/『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人


 中国では「魂魄(こんぱく)思想」という考え方があります。これは、道教儒教にも強い影響を与えています。
 魂魄思想によれば、霊魂には「魂」と「魄」の2種類があり、「魂」は体から抜け出して位牌に宿って、やがて天に登り、「魄」は死体に残って土に埋められ、やがて土に還るといいます。日本でもいまだに位牌を大事にしたりするのは、この魂魄思想が定着しているからです。
 これは仏教ではありません。中国の道教と仏教が融合してしまい、それを日本人が中国から輸入したために、日本にも根づいてしまったのです。

【『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(KKベストセラーズ、2010年)以下同】

 日蓮の遺文にも「魂魄」という語が2箇所に出てくる。日本の仏教はキメラの様相を呈している。胴体は密教で頭が仏教。そして手足は儒教と道教で構成されている。幸福の科学は日本仏教の正統かもね。

 誰もが死を恐れる。自分の死を喜ぶ人はいない。自分という存在や自分という価値が消えて無くなる。その事実を人間は直視することができない。だから宗教は「死後の物語」を創作・捏造(ねつぞう)するわけだ。「死んでも大丈夫ですよ」と。しかしその安心代は高くつく。

 宗教が語る死後の世界とか、死についての考え方というのは、すべて妄想であると考えなければいけません。なぜなら、生きている人で死後の世界を見た人は誰もいないからです。
 生死の境をさまよい、九死に一生を得て助かった人が、「臨死体験をした」などと言って、あたかも死後の世界を見てきたかのように語ることがありますが、それも完全に妄想です。生死の境をさまよいながら、あの世の夢を見ていただけです。
 本当に死後の世界を見たのなら、戻って来られるはずがないのです。戻って来られたということは、そこで見たものは死後の世界ではなく、生前の世界に決まっています。
【こうした妄想を、妄想だとわかって受け入れるのはかまいません。それによって、「死」への恐怖が和らぎ、「死」に対する心の整理がつくのであれば有益です。】

「妄想」に一票。「有益」には反対だ。有益を目的とするのであれば、それは宗教ではなくプラグマティズム(効用主義)だ。本人にとっても遺族にとっても何の慰めにもならないと私は考える。極端な例えを示そう。振り込み詐欺の被害者に「『オレ、オレ』と電話をしてきたのは、アストラル界にいるあなたの息子さんなのです」と納得させたら、それが救いになるのだろうか?

 苫米地はこの後、三諦(さんたい)を示し、妄想とわかった上で物語を採用する姿勢を「中観」(ちゅうがん)としている。

「空観」(くうがん)の視点でフィクションだとしっかり認識しつつ、「仮観」(けがん)の視点でその役割を認めて、フィクションの世界に価値を見いだす視点が「中観」(ちゅうがん)なのです。

 ここからは私見である。三諦は無記との関連性で捉える必要がある。

無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元
「無記」の教え=十難無記、十四難無記

 ブッダは霊魂や死後の存在に関して「ある」とも「ない」とも説かなかった。説かなかったのだから考えたり、思いあぐねたりする必要はない。すなわち霊魂や死後の存在の有無から離れることが正しいのだ。ここにおいて新しい物語を創作する必要性は認められない。

 3年前の今日、東日本大震災があった。今日現在で行方不明者の数が2633人と報じられている。今もご家族の遺体を探している人々がいるとも聞く。人は情に生きる動物だ。合理性で割り切れるものではない。哀しみの表情は人それぞれに複雑な陰影をなす。

 遺体が見つかれば見つかったで哀しみは倍加することだろう。遺体が見つからなければ見つからなかったで哀しみは膨(ふく)れ上がることだろう。いずれにしても哀しみは深まるばかりで癒されることがない。

 遺体に魂が存在するわけではない。そして遺体は必ず土に還(かえ)る。海にあろうと墓にあろうと土に還るのだ。哀しみは執着である。人間にとって最も深い執着といってよい。遺体から離れ、哀しみから離れる。離れてただ見つめればよい。自分自身もやがて死ぬ。亡くなったことを哀しむよりも、共に生きた時間を喜ぶべきだろう。亡くなったご家族や友人もそう思っているはずだ。死者を胸に抱(いだ)きながら、心の中で生かせばいい。私はそうしている。

「生」と「死」の取り扱い説明書
苫米地 英人
ベストセラーズ
売り上げランキング: 244,527

死別を悲しむ人々~クリシュナムルティの指摘
我が子の死/『思索と体験』西田幾多郎

フランス・ドゥ・ヴァール「良識ある行動をとる動物たち」


『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

2014-03-10

古代イスラエル人の宗教が論理学を育てた/『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹
『小室直樹の資本主義原論』小室直樹
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『悪の民主主義 民主主義原論』小室直樹
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹

 ・古代イスラエル人の宗教が論理学を育てた

『日本人のための憲法原論』小室直樹

 近代数学はギリシャに始まった。ギリシャの優れた論理学と結びついたからである。ギリシャの論理学は、アリストテレス形式論理学に結実した。しかし、完璧(かんぺき)な形式論理学を人類精神として成果させたのは、古代イスラエル人の宗教であった。
 古代イスラエル人の宗教(のちのユダヤ教)は、「神は存在するのか、しないのか」の問いかけから始まる。それが、古代ギリシャ人の人類の遺(のこ)した「存在問題」に発展して、完璧(かんぺき)な論理学へと育っていったのであった。

【『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹(東洋経済新報社、2001年)以下同】

 ぶっ飛んでる。数学本の書き出しがこれだ。「論理」というターム(学術用語)でいきなり数学と宗教を結びつける。知的な掘削作業が異なる世界の間にトンネルを掘る。ひとつ穴を開ければ地続きの大地が広がる。言われてみればあっさりと腑に落ちる。神の存在問題が真偽や証明に関わってくるためだ。

 小室の鋭い指摘は人類の知能が進化する様相を彷彿(ほうふつ)とさせる。

 日本人ははじめ何となく「論理」といってもピンと来(き)にくいが、実は論理こそ数学の【生命】(いのち)なのである。
「論理」という字は漢字であるが、この言葉は西洋からきた。英語で logic' ドイツ語で Logik' フランス語で logique という。その源は logos(ロゴス)である。
 キリスト教に身近い人ならば、「はじめにロゴスあり」(「第一ヨハネ書」)という言葉を思い出すであろう。すべてのはじめにはロゴスがあって、神はロゴスから天地を創造したもうた、というのである。「ロゴス」とは、もともと、神の言葉、神そのもの、神の子イエス、……などという意味である。それが「論理」という意味になっていくのであるが、「論理」とは【論争のための方法のこと】を指す。
 それでは、一体、誰(だれ)と論争をするのか。人と人との論争、と読者は思われるであろうが、究極的には「神と人との論争」なのである。

 キリスト教のロジックについては以下を参照せよ。

教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン

 たぶん多種多様な人種や民族の存在が論理を必要としたのだろう。ヨーロッパの血塗られた歴史は魔女狩りを挟んで20世紀まで続いた。「ヨーロッパにおいて戦争がなかった年は、16世紀においては25年、17世紀においてはただの21年にすぎなかった」(『戦争と資本主義』ヴェルナー・ゾンバルト:金森誠也〈かなもり・しげなり〉訳:論創社、1996年/講談社学術文庫、2010年)。

 このように古代イスラエル人の宗教からユダヤ教に至るまでは、神と人間との論争を機軸(きじく)として進歩してきたゆえに、論争は極限まで進んでいった。
 ここに、イスラエルの宗教が機軸(きじく)となって論理学を限りなく育てて、論理学を数学に合体させ、無限の発展の可能性をはらんだ秘密がある。
 論理と数学との合体は、古代ギリシャにおいて実現される。これこそ実に、世界史における画期(かっき)的大事件であり、数学の無限の発達を保証するものであった。

 神と人間との関係は「契約」にとどまらず「論理」をも生んだ。そして古代イスラエルの宗教的価値観はキリスト教に受け継がれ、現代世界を席巻しているわけだ。この世界を変えるためには「新しい宗教的価値観」を示す必要がある。

 論証性の欠如(けつじょ)は、何も中国数学だけの特徴(とくちょう)ではない。後述するユークリッド幾何学(きかがく)以外の数学は、みな論証性が欠如(けつじょ)していたといっても過言ではない。このことに関する限り、ある意味では大変発達した古代の諸高度文明における数学も大同小異であった。つまり、論証性が欠如(けつじょ)しているほどであったから、一貫(いっかん)した体系的論理はあり得なかった。
 一貫(いっかん)した体系的論理を誕生させ、これと結びついたこと。これこそ、数学諸科学の王となり、これらを制御(せいぎょ)し、その下に発展させた理由である。

 中国に歴史はあった(『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘)が論理はなかった。黄色人種しか存在しない東アジアで重んじられるのは「道理」であった。ここに「天」と「神」の根本的な思想的差異がある。天の定めは神が下した運命とは異なる。

 東洋と西洋の概念の違いを岡田英弘が明快に説いている。

 誤訳の例で言うと、先にも書いたが、「革命」という術語は、中国では本来、天が地上支配の命令を引っこめることなのだけれども、これを「レヴォリューション」の訳語に当てる。「レヴォリューション」は「ころがしてもとへ戻す」という意味で、「回転」ならいいが、「革命」とは訳せない。
 ローマの「アウグストゥス」(augustus)を「皇帝」と訳するのも誤訳で、「アウグストゥス」の実体は「元老院の筆頭議員」だった。中国には元老院はないから、「皇帝」は「アウグストゥス」の同義語ではない。
「フューダリズム」(feudalism)を「封建」と訳するのも、ひどい誤訳だ。秦の始皇帝以前の中国では、首都から武装移民が出ていって、新しい土地に都市を建設し、独自の政治生活を始めることが「封建」だった。のちには、皇帝が派遣した軍隊の司令官が、都市に駐屯して、その一帯を支配し、その地位を世襲することを「封建」と言うようになった。ところが日本人は、「封建」を「フューリダリズム」に当てはめてしまった。

【『歴史とはなにか』岡田英弘(文春新書、2001年)】

数学嫌いな人のための数学―数学原論
小室 直樹
東洋経済新報社
売り上げランキング: 45,849

歴史とはなにか (文春新書)
岡田 英弘
文藝春秋
売り上げランキング: 1,614

被災地に昇る 希望の「陽」/平林克己(写真家)




2014-03-09

帝国主義大国を目指すロシア/『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦、佐藤優


『日本の秘密』副島隆彦

 ・帝国主義大国を目指すロシア

 数日前に読了。時間がなくてまだ読書日記にも書いていないが、タイムリーな部分だけ紹介しよう。佐藤優は本に対しても人に対しても健啖家(けんたんか)のようだ。個人的には副島隆彦が苦手である。メディアから完全に無視されていることに対するルサンチマンを感じるせいだ。見ようによっては師事した小室直樹の負の部分を受け継いでいるようにも思える。裏づけはあるのだろうが結論の前に飛躍が目立ち、頑迷さを露呈することが多い。ただ侮れない人物であることは確かだ。

佐藤●石油、天然ガス、レアメタルなどの資源が豊富なロシアが再び大国の位置をめざしています。私はプーチン、メドベージェフ体制が推進するロシアは、2020年までに帝国主義大国をめざすと考えています。

【『暴走する国家 恐慌化する世界 迫り来る新統制経済体制(ネオ・コーポラティズム)の罠』副島隆彦〈そえじま・たかひこ〉、佐藤優〈さとう・まさる〉(日本文芸社、2008年)以下同】

 佐藤の予告はウクライナ危機から実現に向かいそうだ。日本のニュースは西側情報を垂れ流しているため迂闊に信用すると世界情勢を読み誤る。ロシアに対する否定的な見方は片目をつぶったも同然だ。以下のブログを参照せよ。

櫻井ジャーナル

 私は2020年までに日中戦争が起こると考えている。同年夏に開催予定の東京オリンピックは実現しないことだろう。【1940年】の再来だ。

佐藤●グルジアに対する軍事攻撃で、米ロが再び「新冷戦の時代」に入ると主張する人々がいます。しかし、冷戦はイデオロギーがないと起こりません。冷戦の条件というのはイデオロギーがあること、実際の戦争にならない状態が維持されるような次元が図られること、それができないから、今回のグルジア問題では「冷戦」には入らないと思います。(中略)
 私は新冷戦などではなく、ロシア・グルジア戦争は既に「熱い戦争」になっていると思います。
 今後、大国が絡んだ形での2国間戦争というのは「フォークランド紛争」のような形になるでしょう。

 歴史は繰り返す。なぜなら人類の知性が更新されないからだ(『先物市場のテクニカル分析』ジョン・J・マーフィー)。業(ごう)が輪廻(りんね)するのではなくして、輪廻すること自体が人類の業なのだろう。

佐藤●物事を戦争によって解決するというハードルが低くなります。現状の国境線というものを、不可侵ではなく、武力による不変更というヨーロッパ・ロシアに存在していたゲームのルールが、アブハジア、南オセチアの独立で完全に破られました。
 ですから、「新冷戦」は訪れない、新冷戦は来ないけれどそれがよい話だと勘違いしたら間違いで、軍事衝突という「熱い戦争」の時代が来ると思います。

「ロシアの防衛産業の雇用人口は250万人から300万人といわれ、製造業全体の20%を占める」(Wikipedia)。ロシアはアメリカに次ぐ武器輸出大国とされるが、軍需産業のランキングにロシア企業は見当たらない。

軍需産業
世界の軍事企業の売上高ランキング

 プーチンの狙いは軍需産業へのテコ入れも考えられよう。アメリカも同様だが在庫を処分しなければ新製品の販売が困難だ。戦争は最大のスクラップ・アンド・ビルドであり経済政策として推進される。資本主義は地球を不毛化する。

 もう一つ、ちょっと気になった部分を。

副島●ネオ・コーポラティズム Neo-Corporatism という言葉があります。これを、いちばん、手っ取り早く日本人が理解したければ、「開発独裁」とか「優れた独裁者国家」を類推すればよい。シンガポールのリー・クアン・ユーとかマレーシアのマハティールとか、韓国の朴正煕〈パク・チョンヒ〉とか、台湾の李登輝〈リー・トンホイ〉を例に挙げればいい。彼らのような優秀な指導者が出てきて、資源と国民エネルギーとを上手に配分したら、その国は急速に豊かになれるわけです。そうした新興国の開発独裁を、今、ブラジルやインド、そして中国、ロシアが一生懸命やろうとしています。
 ロシアのプーチンやメドベージェフこそは、ネオ・コーポラティズムの体現者です。ひと言で言えばイタリアのムッソリーニの再来です。イタリアのファシズム運動こそはコーポラティズムです。労働組合までも巻き込んだ国家体制づくりをしました。

 直後のページではネオ・コーポラティズムに「新統制経済国家」とルビを振っている。

 Wikipediaを見たところ、コーポラティズムおよびネオ・コーポラティズムの原義は副島の考え方が正しいようだ。日本がファシズム化する証拠として佐藤は「自動車の後部座席シートベルトの着用義務」を挙げ、副島は「ATMでの送金が10万円を上限」としたことを金融統制と言い切っている。

 私が本書を知ったのは「コーポラティズム」で検索したことによる。ナオミ・クライン著『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』を読んだ直後であった。ナオミ・クラインが説くコーポラティズムは巨大資本を有する私企業が米国政府の政策決定に深く関与し、世界各国の戦争や災害に便乗して他国をエコノミック・レイプする手口であった。実に紛らわしい。日本語だとコーポレーション主義にした方がよさそうだ。いっそのこと「ハゲタカ」と呼んだらどうだ?

 アメリカが吹聴する「自由」とは、戦争をする自由であり、簒奪(さんだつ)する自由のことである。日本は敗戦以降、ひたすら奪われ続けてきた。TPPによって収奪は極限まで加速し、円安が極まった時点で日本は暴走することだろう。その後ドルの価値が崩壊する。

リーマン・ショックの原因


ロシア、米政府機関債をすべて売却=中銀総裁

 ロシア中央銀行のイグナチェフ総裁は30日、ロシアは保有していた米国の政府機関債をすべて売却したと明らかにした。
 2008年11月1日時点で、ロシアが保有していた連邦住宅抵当金庫(ファニーメイ) FNM.Nと連邦住宅貸付抵当公社(フレディマック)FRE.N の債券は209億ドルで、08年初めの656億ドルから大幅に縮小していた。
 総裁は記者団に「われわれはすべて売却しており、何も残っていない。売却で十分利益を得た」と語った。
 ロシア当局による米政府機関債保有のニュースは国内で反発を招き、損失に関する懸念なども広がった。これに対し当局は、政府機関債よりむしろ債券を保有しており、投資による損失はないと説明した。

ロイター 2009年1月30日

2014-03-08

戦争を認める人間を私は許さない/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
香月泰男のシベリア・シリーズ
香月泰男が見たもの
・戦争を認める人間を私は許さない

 東京に出たいと願っていたことも、それと無関係ではあるまい。絵かき仲間との接触や交流に私は何を求めていたというのか。そんな所から新しいモチーフが生まれたとしても、新しい表現技術を学んだとしても、それは皮相のことでしかないだろう。必要なものは、外なるものではなく、内なるものであることを私は忘れていたのだ。
 シベリヤがそんな私を徹底的に叩き直してくれた。シベリヤで私は真に絵を描くことを学んだのだ。それまでは、いわば当然のことと前提していた絵を描くことができるということが、何物にもかえがたい特権であることを知った。それが失われたときはじめて私は水を失った魚のように自分の命を支えていたものを知ったのだ。描いた絵の評価、画家としての名声、そんなこととは一切無関係に、私はただ無性に絵が描きたかった。そして、以前は苦労して求めていたモチーフが、泉のように無限に自分の中から湧いてくるのだった。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】

 出征前、30歳の香月は中央進出を目指し、35歳までに画家としての地位を確立したいと考えていた。青年から壮年へと向かう季節だ。努力よりも結果が問われ、社会は「何ができるか」を求める。プロとは「それで飯を食ってゆける」人の異名だ。世間の評価を求めるのは決して不自然なことではない。だが違った。間違っていた。


 香月が求めていたのは技巧ではなかった。生きるか死ぬかという瀬戸際で技巧は通用しない。苛酷なシベリヤが「徹底的に叩き直し」たのは絵筆を握る握力そのものであった。強制収容所も香月の手から絵筆を奪うことはできなかった。そして抑留者を見放した祖国へ帰ってからも香月は絵筆を堅持し続けた。死して尚、香月は絵筆を握りしめていることだろう。

 私のシベリヤは、ある日本人にとってはインパールであり、ガダルカナルであったろう。私たちをガダルカナルに、シベリヤに追いやり、殺し合うことを命じ、死ぬことを命じた連中が、サンフランシスコにいって、悪うございましたと頭を下げてきた。もちろん講和全権団がそのまま戦争指導者だったというわけではない。しかし私には、人こそ変れ同じような連中に思える。指導者という者を一切信用しない。人間が人間に対して殺し合いを命じるような組織の上に立つ人間を断じて認めない。戦争を認める人間を私は許さない。
 講和条約が結ばれたこと自体に文句をつけるつもりはない。しかし、私はなんとも割り切れない気持をおぼえる。すると我々の闘いは間違いだったのか。間違いだったことに命を賭けさせられたのか。指導者の誤りによって我々は死の苦しみを受け、今度は別の指導者が現れて、いちはやくあれは間違いでしたと謝りにいく。この仕組みが納得できない。私自身が、そして戦争に参加した一人一人の人間が講和を結びにいくというのなら話はわかる。どこか私の知らないところで講和が決められ、私の知らない指導者という人たちがそれを結びにいく。いつのまにか私が戦場に引きずり出されていったのと同じような気がする。この仕組みがつづく限り、いつ同じことが起らないと保証できよう。
 とにかく一切の指導者、命令する人間という者を信用しない。だから組織というものも右から左までひっくるめて一切信用しない。学校の教師をしていた時代も、私は一人だけ組合に入らないで頑張り通した。命令されることは何事にまれ拒否するつもりだ。やることがあったら一人でやる。
 シベリヤホロンバイルインパールガダルカナルサンフランシスコ三隅(※現在は長門市)の町に住み、ここだけを生活圏としてはいるが、私はこの五つの方位を決して忘れない。五つの方位を含む故郷、それが、“私の地球”だ。

 芸術家の血を吐くような叫びだ。シベリア抑留の恨みを抑えた分だけ怒りの深さが伝わってくる。国家とはいつの時代も国民を使い捨てにするシステムなのだろう。戦争、増税、社会保障切り捨てと、手を変え品を変え国民から奪い続ける。国家とはブラックホールの異名か。

 人間は弱い。弱いから群れる。群れは一定の安全を保証してくれる。ただしその見返りとして魂の切り売りが求められる。組織の規模が大きくなればなるほど腐敗の度を深めてゆく。

 香月はシベリヤで目を覚ました。果たして私はどうか。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界
立花 隆
文藝春秋
売り上げランキング: 98,466




香月泰男美術館
雪舟・香月泰男コレクションの山口県立美術館
「もしもあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない」/『石原吉郎詩文集』石原吉郎

2014-03-07

香月泰男が見たもの/『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆


真の人間は地獄の中から誕生する
香月泰男のシベリア・シリーズ
・香月泰男が見たもの
戦争を認める人間を私は許さない

 シベリヤ抑留者の数だけ多くのシベリヤがある。私は全シベリヤ抑留者の気持を代弁してやろうなどというような大それた望みは持ったことがない。これからも持とうとは思わない。私には、香月泰男のシベリヤしかない。ごく個人的な体験を語る気持で、それを画布に表現してきた。

【『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆(文藝春秋、2004年)以下同】

「代弁」してしまうと政治の臭いが立ちこめる。私が内村剛介を嫌う理由もそこにある。国家を糾弾するならまだしも、批判の眼差しは同じシベリア抑留者にも向けられる。収容所では共産主義者が優遇されていた(Wikipedia)。内村もその一人であったのかもしれない。


 生まれてから58年間、私はついに絵描きでしかなかった。軍隊にあっても、シベリヤの収容所にあっても、私は兵隊になりきり捕虜になるきることができなかった。帝国陸軍も、ソ連も、私をそこまでねじふせることはできなかった。
 私はいつも生きのびてやろうと思っていた。兵隊のときは死ぬこともあろうかという覚悟はあった。しかし、よし死ぬことがあろうとも最後には銃を握っては死なず、絵筆を持って死ぬつもりだった。帝国軍人としては死にたくないと思った。出征するとき持ってでた絵具箱は、帰国するまでかたときも手放したことがない。
 一人の絵描きとして、いつも私は普通の兵隊とは別の空間に住んでいた。生命そのものが危険にさらされている瞬間にすら、美しいものを発見し、絵になるものを発見せずにはいられなかった。頭の中に画面を想像してはモチーフをそこにおさめるための構図を考えつづけていた。人の死に直面しているときでも、頭の中でそんな作業をくりかえしている自分に、絵描き根性のあさましさを感じて思わずぞっとするときもあった。しかし、この絵描き根性があったがゆえに、ほかの兵隊たちが完全な餓鬼道に陥っているようなときにも、一歩ひいたところに身を持していることができたのだろう。絵描きであったことは、私の特権であり、私の幸せであったと感謝している。

 本書で明らかにされているが香月泰男の『私のシベリヤ』(文藝春秋、1970年)は立花隆の手による聞き書きであった。どおりで文章がこなれているわけだ。今風にいえばゴーストライターである。ただし言うまでもないことだが、香月なくして『私のシベリヤ』は成立しない。

 アウシュヴィッツ強制収容所を生き延びたV・E・フランクルは「心理学者としての視点」を失わなかった(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』V・E・フランクル)。フランクルは人間真理を観察し、香月は絵のモチーフを探し続けた。距離を置かねば観察することはできない。そして距離の長さこそが抽象度となるのだ(『心の操縦術 真実のリーダーとマインドオペレーション』苫米地英人)。何かを「見る」時、精神は対象へ傾注し、自分という存在は後方へ下がる。彼らは目の前に鏡があれば自分自身をも観察したことであろう。その哲学的態度が個人的な感情を斥(しりぞ)けるのだ。

 それにしても何という矜持(きょうじ)だろう。自分自身を知る者の強みがここにある。香月にとって絵を描く行為は職業ではなかった。生きることそのものであった。彼は金額に換算される芸術とは無縁であった。

 シベリヤを描きながら、私はもう一度シベリヤを体験している。私にとってシベリヤとは一体何であったのか。私の襲いかかり、私を呑みこみ、私を押し流していったシベリヤを今度は私が画布の中にとりこみ、ねじふせることによってそれをとらえようとする。肉体がシベリヤを体験しているとき、精神がその意味を把握するには状況はあまりにも苛酷であり、あまたりにもめまぐるしく変りつつあった。私の軍隊生活と俘虜生活とはあわせてたかだか4年半のことでしかない。すでにその4倍の時間を、4年半の体験を反省することに費やしている。


 短い抜き書きでやめようと思ったのだが書かずにはいられない。私が敬愛してやまない鹿野武一〈かの・ぶいち〉が生きたシベリアを知っておく必要があるからだ。シベリアの大地から香月泰男〈かづき・やすお〉や石原吉郎〈いしはら・よしろう〉が生まれた。だが鹿野武一は抑留以前から鹿野武一であった。香月が絵描きであることをやめなかったように、鹿野は終生にわたって鹿野自身であった。たぶん他の抑留者に比べて過去の記憶に苛まれることも少なかったことだろう。

 私が忠実でありたいと思うのはそこのところだ。私はシベリヤをむしってみる。ちぎってみる。色をはぎとってみる。枯させれてみせる。
 シベリヤをというよりは、シベリヤにあった私をというのが正しいかもしれない。感性の記憶を微細にたどっていく。例えば、見はるかすツンドラ地帯を夜となく昼となく走りつづけたあの護送列車の中で、宵闇が迫り、床に腰をおろし、膝を両手でかかえこんだまま、見るともなく目をやっていた自分の泥だらけの軍靴が、やがてそれと見分けもつかなくなり、■(くろ)い一つのかたまりと化していったとき、私がほんとうに見ていたものはんなんだったのだろうか。夜のガランとしたアトリエの中で一人画布に向いながら私はそれをもう一度見ようとする。

 それは巨大な穴であったのかもしれぬ(石原吉郎と寿福寺/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治)。「■(くろ)い一つのかたまり」とは石原が書いた「完全に『均らされた』状態」(『石原吉郎詩文集』)と同じだ。香月は人類にひそむ巨悪を見たのだろう。それはあまりにも大きすぎて確かな全体像を結ぶことがなかったに違いない。

シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界
立花 隆
文藝春秋
売り上げランキング: 98,466

2014-03-06

敗れざる者たちへ/『「ありがとう」のゴルフ 感謝の気持ちで強くなる、壁を破る』古市忠夫


 震災前の私は、ごく普通のゴルフ好きの写真屋のおっちゃんでした。震災から復興して、またゴルフができるようになったとき、私は自然にコースに向かって一礼するようになりました。生き残って大自然のコースに立ち、球が打てる。その幸せに自然と頭が下がるようになったのです。もともとの積極的な心に、感謝の心が加わった瞬間です。ラウンドしていると、ときどき自分の実力以上のエネルギーを感じることがあります。20代のエリートに勝ち、プロテストに合格したときもそうですし、シニアツアーのシード選手になれたときもそうです。これは「ありがとう」の気持ちの賜や、と思っています。

【『「ありがとう」のゴルフ 感謝の気持ちで強くなる、壁を破る』古市忠夫〈ふるいち・ただお〉(ゴルフダイジェスト新書、2006年)以下同】

 ソチ・オリンピックは見ていない。ただし男子フィギュアの100点超えと浅田真央のフリーだけは動画で視聴した。17歳の期待の星・高梨沙羅もメダルには手が届かなかった。マスメディアの調子はメダルを巡る悲喜こもごもが中心で戦争の戦果を報じる昔の新聞を思わせた。勝負は時の運である。敗北の味を知らぬ者がアスリートとして大成することはないし、人間の幅を広げることもできない。「 尺蠖(せっかく/シャクトリムシ)の屈するは伸びんがため」と故事にある通りだ。

 古市忠夫は60歳でプロゴルファーになった人物だ。

『還暦ルーキー 60歳でプロゴルファー』平山譲

 人は「失ったもの」が多ければ多いほど、「当たり前であること」や「ありのままであること」に感謝できるのだろう。古市が「コースに向かって一礼する」ようになったのはプレイスタイルなどといった表面的なことではない。生きる姿勢が変わった証拠だ。人間が本当に変わる時は「自(おの)ずから改まる」ものである。そこに他人の言葉や生きざまがあったとしても、それは触媒に過ぎない。

「ありがとう」の気持ちとは、「有り難い」現実への感謝である。復興に奔走した古市の偽らざる本音であろう。生それ自体に感謝できれば人は自由であり、人生は幸福といえる。

 しかし、私は思います。重要なのは、「どれだけ頑張ったか」ではないんとちゃうのかいなと。オリンピックに出場するような選手は、誰かて頑張っているでしょう。誰かて人知れず努力しとると思います。もちろん、頑張ることも大切ですが、それより肝心なのは、頑張れる環境そのものに対して「どれだけ感謝しとるか」ということではないでしょうか。
 同じ努力をして、同じ才能や技術を持っている選手が、僅差で勝ったり、負けたりするケースがたくさんあります。私には、金メダルと銀メダルの差は、そのまま心の差であるように思えてなりません。頑張らせてくれた社会、コミュニティ、家族があってこその自分と、心から思えたかどうか。勝利の女神は「頑張りました」という選手ではなく、「頑張らせてもろて、ありがとうございます」という選手に、微笑むような気がします。そやから、これからも私は、感謝の気持ちで闘わせてもらおうと思うとります。

 勝って奢(おご)る者がいる。敗れて腐る人も多い。勝ち負けで変わるのは商品価値であって人間ではない。五輪は終わった。過ぎてしまえばもう過去のことだ。もう次の戦いが始まっている。敗れても敗れても尚、起ち上がる精神にアスリートの魂がある。そして深き感謝の心が必ずや人生の勝利を決定づけることであろう。敗れざる者たちへ。今、万感の思いを込めて伝えよう。「ありがとう」と。

「ありがとう」のゴルフ―感謝の気持ちで強くなる、壁を破る (ゴルフダイジェスト新書)

「薯粥」(『一人ならじ』所収)山本周五郎

ロシアを罵倒したケリー米国務長官の背後には国有財産を私有化し、国民をIMFへ差し出す富豪たち


 ある国の反政府勢力を経済的に支援し、その国のファシスト集団を軍事訓練、さらに国外から傭兵を送り込んで争乱を演出、選挙で成立した政権を倒し、自分たちに都合の良い「暫定政権」を作ること、つまりクーデターを容認、しかもそのクーデターに対抗するために軍隊を使おうとする国に「軍事介入の中止」を求める人たちがいる。

櫻井ジャーナル

2014-03-05

文庫化『SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか』スティーヴン・ストロガッツ:蔵本由紀監修、長尾力訳(早川書房、2005年/ハヤカワ文庫、2014年)

SYNC: なぜ自然はシンクロしたがるのか (ハヤカワ文庫 NF 403 〈数理を愉しむ〉シリーズ)

 完璧にシンクロして光る無数のホタルは、どこかに指揮者がいるわけではない。心臓のペースメーカー細胞と同じで、無数の生物・無生物はひとりでにタイミングを合わせることができるのだ。この、同期という現象は、最新のネットワーク科学とも密接にかかわりをもち、そこでは思いもよらぬ別々の現象が、「非線形科学」という橋で結ばれている。数学のもつ驚くべき力を絶妙の比喩を駆使して紹介する、現代数理科学の最前線。

 スティーヴン・ストロガッツはスモール・ワールド現象の権威。

『複雑な世界、単純な法則 ネットワーク科学の最前線』マーク・ブキャナン

2014-03-04

目撃された人々 55

ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ


 過去何百年もの間に、数え切れないほど多くの科学者や哲学者がこの私たちのユニークさをあるいは認め、あるいは否定してあらゆる種類の人間らしさの前例をほかの動物に求めてきた。近年、独創的な科学者たちが、純粋に人間だけのものとばかり思われていた多種多様の事例の前例を見つけている。私たちは、自らの思考について考える(これを「メタ認知」という)能力を持つのは人間だけだと思っていた。だが、考え直したほうがよさそうだ。ジョージア大学の二人の神経科学者が、ラットにもその能力があることを立証した。ラットは自分が何を知らないかを知っていることがわかったのだ。

【『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ:柴田裕之訳(インターシフト、2010年)】

 メタには「高次な」「超」といった意味がある。ヒトは五感情報を統合し、更にもう一段高いレベルで自分の思考や感情を客観的に捉えることができる。これをメタ認知という。脳にダメージを受けると高次脳機能障害となる。メタ認知機能の崩壊といってよい。

病気になると“世界が変わる”/『壊れた脳 生存する知』山田規畝子〈やまだ・きくこ〉

 以下、関連リンク。

脳とネットワーク/The Swingy Brain:「我思う」ラット
どっちにする?考え中!: 感性でつづる日記

 ってことは、マウスに思考があることを示唆する。あいつらにはあいつらの「考え」があるのだ。すると「意志」があっても不思議ではない。ただし言語が発達しているようには見えないから、たぶん視覚情報を言語化しているのだろう(『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン)。

 サルは非辺縁系の感覚を二つ、連合させることができない。人間はそれができる。そしてそれが、ものに名前をつけ、より上位の抽象化のレベルを進んでいく能力の基盤となっているのだ。

【『共感覚者の驚くべき日常 形を味わう人、色を聴く人』リチャード・E・シトーウィック(リチャード・E・サイトウィック):山下篤子訳(草思社、2002年)】

 名前を付け(名詞化)、カテゴライズ(類推→アナロジー〈『カミとヒトの解剖学』養老孟司〉)することができるのは実は凄い能力なのだ。結びつける認知能力といってもよいだろう。

 それにしては人間と人間を結ぶ能力が発達しないのはどういうわけか? 個人的には人間の知性よりもラットの本能の方が優れていると思う(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

2014-03-03

ロシアから日本へ向けられた友情のエールをフジテレビが完全に無視

2014-03-02

幼い日の風景が人間を形成する/『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー


 ・幼い日の風景が人間を形成する

『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー

 不思議なことに、幼いころの記憶は曖昧である。7歳のとき、私は視力を失った。5歳のとき、母が私を抱いたまま階段から落ちている。それがもとで母は体をこわして2年後に亡くなり、その年私は失明した。しばらくの間は記憶もなくした。妻に先立たれ盲目の息子を抱えた父が、私のことを「白痴の子ども」と呼んでいるのを聞いたことがある。
 記憶のなかの母は小さくて、いつも何かにおびえていた。それでも大きくなった5歳の息子を抱きかかえていたくらいだから、たぶん私のことを愛していてくれたに違いない。いまでも時折、母の指が背中に触れている気がして、夜中にふと目を覚ます。

【『エリック・ホッファー自伝 構想された真実』エリック・ホッファー:中本義彦訳(作品社、2002年)以下同】

 エリック・ホッファー(1902-1983年)は独学の人であった。正規の教育は受けていない。季節労働者として働きながら図書館へ通い、大学レベルの物理学と数学をマスター。その後、植物学も修める。「沖仲仕の哲学者」と呼ばれ、39歳から始めた沖仲仕の仕事をこよなく愛した。1964年、カリフォルニア大学バークレー校の政治学研究教授となる。


 ホッファーは15歳で奇蹟的に視力を回復する。それから「目が見えるうちに」と貪るような読書が開始された。きっと世界を味わい尽くすような視線であったことだろう。今日のニュースで「読書時間ゼロの大学生が4割を超えた」と伝えられていた。本を読む読まないは自由だ。たとえ読書をしたところで本に読まれることも多い。本に接する態度は人間に接する態度と同じだ。浅い心で数をこなしてもしようがない。ただ、読んで後悔することよりも、読まずして悔いることの方が大きいのは確かだ。

 年が長ずるにつれて幼い日の風景が自分自身の深い部分を形成している事実に気づく。大人が何気なく発した心ない言葉が子供の胸に永く刻まれる。子供の精神は柔らかな木のような性質で、そこに大人が彫刻刀で喜怒哀楽を彫り込むのだろう。ホッファーの淡々とした文章が「母の指」という一語で色彩をガラリと変える。不幸が幸福を高める。本当の不幸を知らなければ幸福を味わうことも難しい。

 誰もが誰かに背中を支えてもらっている。その自覚を欠けば感謝の心を失う。幼いホッファーに愛情をそそいだのはマーサという女性であった。親戚であったのか家政婦であったのかはわからないと書かれている。この女性がホッファーの人生に決定的な影響を与えた。人は愛されることで初めて人間へと育つ。自分を肯定できなければ人を思うことはできない。

 ドイツ系移民であったホッファーに母語であるドイツ語と英語を教えたのはマーサであった。後年、ホッファーは勤務先のレストランで給仕をしながら、ある大学教授の手助けをした。ドイツ語で書かれた植物学の文献を翻訳したのだ。この人物がカリフォルニア大学バークレー校の柑橘類研究所所長であった。ホッファーは既に植物学にも精通していた。

 話は戻るが、視力を回復し書店に飛び込んだホッファーの目に止まったのはドストエフスキーの『白痴』であった。彼は幾度となく読み返すようになる。この読書体験が脚力となったことは間違いあるまい。父が放った言葉は引っくり返された。

 人間の記憶は曖昧なもので、時に書き換えることも決して珍しくない。昔の淡い記憶であれば尚更である。しかしその時の自分の反応だけは確かなものだ。子供に自信を与える大人が一人でもいれば、その子は救われる。別に親である必要はない。赤ん坊は大人が喜ぶ態度を自然のうちに繰り返すという。人間には生まれながらにして他人を喜ばせる本能があるのだ。それをなくした大人にだけはなるまい。

エリック・ホッファー自伝―構想された真実
エリック ホッファー
作品社
売り上げランキング: 15,137

白痴(上) (新潮文庫)
白痴(上) (新潮文庫)
posted with amazlet at 19.06.15
ドストエフスキー
新潮社
売り上げランキング: 15,508

白痴(下) (新潮文庫)
ドストエフスキー
新潮社
売り上げランキング: 19,272

迷惑なダイレクトメールへの対処法

2014-03-01

超高度化されたデータ社会/『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー


『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
・『コフィン・ダンサー』 ジェフリー・ディーヴァー
『エンプティー・チェア』ジェフリー・ディーヴァー
・『石の猿』ジェフリー・ディーヴァー
・『魔術師(イリュージョニスト)』ジェフリー・ディーヴァー
・『12番目のカード』ジェフリー・ディーヴァー
『ウォッチメイカー』ジェフリー・ディーヴァー

 ・超高度化されたデータ社会

『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー
『ゴースト・スナイパー』ジェフリー・ディーヴァー

 2年前に読んだ時は「やがてそんな時代がくるのか」と思った。そして今実現しつつある。ビッグデータを始め、広告や検索結果のパーソナライズド化など。更にフェイスブックの登場がウェブ空間に実名主義をもたらし、プライバシーを本人が垂れ流すという奇妙な事態が現れた。ツイッターでは現在進行形のいたずらや悪事を紹介し、飲食店が閉鎖に追い込まれるケースが続いた。

 あらゆる情報はデータとなり管理される時代となったのだ。ディストピアの現実化だ。

 しかし、ほかのすべてのものと同じように、まもなく紙幣にもタグ――RFIDが付くようになるに違いない。すでに導入している国もある。銀行は、どの20ドル札がどのATMや銀行から誰の手に渡ったか、追跡することができる。その札が〈コカ・コーラ〉や愛人に贈るブラジャーを買うのに使われたのか、殺し屋を雇うのに使われたのかだって当然わかるわけだ。ときどきこう思うことがある。黄金を通貨代わりにしていた時代に戻ったほうが幸せなのではないかと。
 網の目につかまらぬように。

【『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー:池田真紀子訳(文藝春秋、2009年/文春文庫、2012年)以下同】

 一昔前まで監視カメラはプライバシー侵害の象徴として人々から忌み嫌われていた。それが特異な猟奇的犯罪が起こるたびに設置箇所が増え、現在では防犯カメラと呼ばれて安心の代名詞となった。アメリカではITバブルの後にセキュリティ・バブルが興ったという指摘もある(『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン)。

 Nシステム(自動車ナンバー自動読取装置)も政治的議論を経ずに設置されている。

 紙幣にタグを付ければ人々の欲望の流れが丸見えとなる。細かな流れがわかれば、そこから支流へ導いて大河を形成することも可能になる。

「(データマイナーとは)名前のとおりのものです。情報サービス会社ですよ。顧客の個人情報や購入履歴、住居、車、クレジットカードの利用履歴……とにかく、ありとあらゆるデータを採掘(マイン)するんです。集めた情報を分析して、販売する。で、企業はそれを利用して市場の動向を把握したり、新しい顧客を獲得したり、ダイレクトメールを送る顧客を絞りこんだり、広告戦略を練ったりするわけです」

 本書に登場する殺人鬼はデータマイニングに通じ、まったく関係のない第三者を犯人に仕立て上げる。それどころか物証まで用意するのだ。従兄弟が被害者となったことでリンカーン・ライムは捜査に乗り出す。

「いや、何一つ。どこを掘り返しても、出てくるのは一人だけ――私だ。そいつは私から私を奪った……奴らは、万が一に備えた予防策は用意されている、データは守られてると言う。笑止千万だ。たしかに、クレジットカードを紛失したくらいなら、ある程度までは守ってもらえるかもしれないな。だが、誰かが本気できみの人生を破滅させようとしたら、きみにできることは何一つない。人はコンピューターが言うことを鵜呑(うの)みにする。コンピューターが、きみには借金があると言えば、きみには借金があるんだ。きみと保険契約を結ぶのは危険だと言えば、きみと保険契約を結ぶのは危険なんだよ。きみには支払い能力がないと言えば、たとえ現実には億万長者だとしても、きみには支払い能力がない。人はデータを信じる。真実なんか意味を持たないのだよ」

 これが超高度情報社会の実態だ。データとは歴史でもある。「書かれたもの」だけが歴史なのだ(『歴史とはなにか』岡田英弘)。ここにおいて存在は「記録されたもの」へと矮小化される。

 私を証明するのは私自身ではない。免許証や保険証・パスポートである。パスワードを失念すれば自分の預金すらおろすことができない社会だ。個人は限りなくID化されてゆくことだろう。アイデンティティはアイデンティフィケイション(identification=ID)に置き換えられる。

 私のデータを書き換えるのは私自身ではない。そしてデータは常に上書き更新される。どこにもログインできなくなったとしたら、それは社会的抹殺を意味する。「ソウル」(魂)はデータ化される。

マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康


「腐敗した銀行制度」カナダ12歳の少女による講演
30分で判る 経済の仕組み
「Money As Debt」(負債としてのお金)
武田邦彦『現代のコペルニクス』 日本の重大問題(2)国の借金

 ・マネーと民主主義の密接な関係

『マネーの正体 金融資産を守るためにわれわれが知っておくべきこと』吉田繁治
『〈借金人間〉製造工場 “負債"の政治経済学』マウリツィオ・ラッツァラート

 マネーと民主主義の欺瞞に斬り込む好著。天野統康〈あまの・もとやす〉はファイナンシャル・プランナーで文章は「わかりやすい合理性」に心を砕いている。資本主義経済は既に政治を凌駕した。政治は経済に収束され、利権に着地する。選挙民は自分の頭で考えることなく、所属している企業・団体・組織・教団が支持する候補に投票する。大衆には責任がない。民主主義は必ず衆愚へと向かう。エントロピーは常に増大するのだ。

 冒頭で天野はマネーの多面性と構造が、「操作される民主主義」「偽りに基づく民主主義」へ誘導されたと指摘する。卓見である。近代をどう定義づけるかによって現代の姿は変わって映る。一般的には国民国家資本主義の誕生といわれるが、その淵源を知らなければただのお題目となる。

 千数百年にわたって積もりに積もってきたキリスト教のストレスは魔女狩りという形で発散した。西洋の中世は暴力の季節であった。その渦中からプロテスタントという花が咲いた。カトリックは金銭欲や私益を戒めた。プロテスタントは聖書を合理的に読み解くことで世俗的な欲望を認めた。

マルティン・ルターとジャン・カルヴァンの宗教改革(プロテスタンティズム)

 国民国家と資本主義といっても要は暴力とカネだ。しかも国民国家を待望したのは身分が不安定で金貸しをやらされてきたユダヤ人であったことも見逃してはなるまい。

何が魔女狩りを終わらせたのか?
「キリスト教征服の時代」から脱却する方途を探る

 資本主義経済と民主主義政治の融合は、ソ連などの20世紀型共産主義諸国が崩壊した後、最も主流となっている政治経済体制である。
 いきなり結論をお伝えするが、今までの自由民主主義諸国のほとんどは、国民よりも金融権力が社会への決定権において上位であった。
 金融権力は自らの金融力を基に、経済体制としての資本主義と、政治体制としての民主主義を巧みに操作してきた。
 この政治システムが実は、「【国際金融権力】」といわれる欧米の金融財閥を頂点とした力関係の中で営まれてきたのである。
 そのことについて、自由民主主義諸国の市民の多くは気づいてこなかった。マネーという、社会をコントロールする最大のツールを乗っ取られたことに気づいてこなかったのだ。
 そんな馬鹿な? と思うかもしれないが事実である。その証拠にマネーがどう作られ、どう無くなるのか知っているかを周りの人に聞いてみるとよい。ほとんどの人は答えられないだろう。
 マネーという支配ツールから目を逸らさせるために、金融権力は多大なる努力を払ってきた。その成果がさまざまな経済学である。経済の最も基本となるマネーについて、経済学は共通の定義をしてこなかった。その結果、ほとんどの人がマネーが増減するシステムを意識していない。

【『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康〈あまの・もとやす〉(成甲書房、2012年)】

 天野は民主主義と資本主義経済が組み合わさった社会を「自由民主主義経済社会」と名づける。布教しているのは第二次世界大戦の戦勝国であるアメリカとイギリスだ。プロテスタント国家でもある。

 我々にとって幸福や価値はカネで量(はか)るものに転落した。それどころかカネがなければ食うこともままならない。この事実がどれほど自然の摂理に反していることだろう。動物は労働とは無縁だ。

 信用創造というユダヤ人が編み出したビッグバンをプロテスタントが採用した。この時、人類の命運は決まった。脳が有するシンボル能力(『カミとヒトの解剖学』養老孟司)はマネーに特化し、すべての価値はカネに換算されるようになった。

 プロテスタントはマルティン・ルターが呈した「贖宥状への糾弾」に端を発している。そして宗教改革は「活版印刷術を用いて安価で大量の宣伝パンフレットを流布」(『宗教改革の真実 カトリックとプロテスタントの社会史』永田諒一)させることで実現した。つまり「カネと広告」だ。

 近代からアメリカが生まれた。ヨーロッパ人はインディアンを大量虐殺し、黒人奴隷を輸入することで栄えた。そのアメリカが世界の頂点に君臨する以上、我々の世界が暴力とカネに彩られることは避けられない。

 マネー・システムと化した世界を読み解く上で格好の入門書。次作にも期待が募る。




 類書を挙げておこう。左上から順番で読むのが望ましい。


 ファイナンシャル・リテラシーについては以下。

ファイナンシャル・リテラシーの基本を押さえる

 租税を回避するオフショア経由のマネーロンダリングについては以下。

マネーロンダリング入門―国際金融詐欺からテロ資金まで (幻冬舎新書)タックス・ヘイブン――逃げていく税金 (岩波新書)タックスヘイブンの闇 世界の富は盗まれている!

 米英による具体的な世界支配については以下の書評を参照せよ。

経済侵略の尖兵/『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス
環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人
資本主義経済崩壊の警鐘/『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

 最後に動画を挙げておく。

Ende's Last Will
『モノポリー・マン 連邦準備銀行の手口』日本語字幕版
『Zeitgeist/ツァイトガイスト(時代精神)』『Zeitgeist Addendum/ツァイトガイスト・アデンダム』日本語字幕
映画『なぜアメリカは戦争を続けるのか』
『アメリカ:自由からファシズムへ』アーロン・ルッソ監督
『ザ・コーポレーション(The Corporation)日本語字幕版』



官僚機構による社会資本の寡占/『独りファシズム つまり生命は資本に翻弄され続けるのか?』響堂雪乃
「我々は意識を持つ自動人形である」/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ

2014-02-27

憲法は慣習法/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

 アメリカの例でも明らかであるが、また、ヒットラーも同じである。
 ヒットラーは4年(全権委任法で定められた期間)経っても、権力を国民に還(かえ)す積(つも)りなんか全然なかった。
 それどころか、独裁権力は、増々強力にされるばかりであった。
 それでも、ワイマール憲法が改正される事はなかった。
 より正確に言うと、改正の手続きが取られる事はなかった。
【形式上】、ワイーマール憲法は【生きていた】。
 しかも、【実質的】にはワイマール憲法は【死んだも同然】であった。
 こんな時、どう解釈する。
 ワイマール憲法は改正されたのか、未だ改正されてはいないのか。
 この場合、ワイマール憲法は改正された。
 こう解釈される。
【憲法学者は、全権委任法成立の時点を以って、ワイマール憲法は廃止された】。こう解釈する。
 1933年3月24日を以ってワイマール憲法は死んだ。
 そして、ヒットラーのドイツ第三帝国が生まれた。
 ワイマール憲法改正の為の手続きが取られようと取られまいと、そんな事は結局どうでもいい事なのである。
 憲法は、本質的には慣習法である。
【前例が慣習として確立されると、それは憲法の一部となる】。
 と言う事は、【憲法改正したも同じ事だ】。
 こう言う事なのである。
 この際、形式的に憲法改正の手続きが踏まれようと踏まれまいと、それは所詮どうでもいい事なのである。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)以下同/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 PKO(国際連合平和維持活動法案(1992年のPKO国会)がこの典型か。それまで平和と福祉を標榜してきた公明党が外交政策を転換して賛成に回った。後に自衛隊はインド洋イラクにも派遣される。

 また昨年暮れに自民党は自衛隊の海外武器携行制限を撤廃する方針を決めた。

 憲法とは国家権力に対する国民からの命令である。既に解釈改憲がまかり通っている以上、国家は民意に背いているといってよい。つまり憲法も民主主義も死んでしまったのだ。どおりで原発もなくならないわけだ。

消費税は民意を問うべし ―自主課税なき処にデモクラシーなし―
小室直樹
ビジネス社
売り上げランキング: 99,289

2014-02-25

イギリス革命は税制改革に端を発している/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

 イギリスこそがデモクラシーの元祖開山である。
 日本人は、大概こう思っている。
 その【イギリス革命は税制改革に端を発している】。
 1649年の清教徒革命。イギリス諸革命の中でも最初にして最も根本的(ラディカル)と言われる【清教徒革命は、1634年の建艦税(シップ・マネー)に始まった】。(中略)
 チャールズ1世は、絶対君主たる王の命令に依って、中世封建的税制を改革しようとした訳であった。
 が、この税制改革には、待ったが掛かった。
 地主達の猛反対に遭遇(そうぐう)する羽目(はめ)になったのであった。
 ジョン・ハムプデンは、20シリングの建艦税を支払う事を拒絶した。ハムプデンは、「建艦税は、違法なり」として、裁判所に訴えたのであった。
 過半数の判事は、王によって任命され、王の影響下にあった。建艦税は合法である。「非常の際に於いては、王の大権は制限を受ける事がない」
 こう判決が下った。
【この判決に、清教徒達は抗議した】。王の圧政に抵抗したと、ジョン・ハムプデンは、一躍英雄になった。
 この建艦税騒動が、1649年における清教徒革命の発端(ほったん)となったのである。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)以下同/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 もちろん税はきっかけであって、それだけでピューリタン革命が成ったわけではない。社会の歪みが税という形に極まり、民の怒りが沸点に達したのだろう。そして新しい思想(宗教)が興(おこ)る。

 先代のジェームズ1世の迫害から逃れたピルグリム・ファーザーズの渡米が1920年だから、ほぼ同時と見てよい。

 圧政や苛政は必ず税となって民を苦しめる。そして民の忍耐が限界に達すると革命が起こる。ただし日本の場合は江戸時代が長すぎて、黒船(=外圧)を待つ傾向が強い。

【清教徒革命のテーマは、「国民の同意抜きの税制改革には応じられない」ここにあった】。(中略)
 この際の【イギリス国民の同意とは、議会の議決と言う事である】。

 議会の議決にはこれほどの重みがある。ジョン・ハムデンはたった20シリングの税を拒むことでピューリタン革命の端緒を開いた。この4月から消費税は5%から8%にアップする。我々は3月までに駆け込みで大きな買い物を済ませ、4月から倹約するだけでよいのだろうか? 消費税は低所得者になればなるほど痛税感が高まる。その「痛み」を私が許した覚えはない。一方では法人税引き下げの検討が活発化している。孔子は政治を行う上で最も大切なものを「民信無くば立たず」と示した(『論語』)。立たねば倒れるのみ。

消費税は民意を問うべし ―自主課税なき処にデモクラシーなし―
小室直樹
ビジネス社
売り上げランキング: 99,289

亡き父を思い…励ましに感謝 暴風雪遭難1年、北海道・湧別の岡田さん「楽しく学校生活」


【湧別】昨年3月の暴風雪で遭難し、父親が最期まで守ったオホーツク管内湧別町の岡田夏音(なつね)さん(10)が、事故から1年になるのを前に、自筆のメッセージを北海道新聞に寄せた。全国から寄せられた多くの激励に対する感謝と、父への思いがつづられている。

 夏音さんは昨年3月2日、2人暮らしだった父の幹男さん=当時(53)=と車で帰宅途中に暴風雪に見舞われ、視界のきかない中で遭難。翌朝、農業用倉庫の前で幹男さんが夏音さんにかぶさるように亡くなっているのが見つかった。

 直後から夏音さんのもとには全国から励ましのメールや手紙、贈り物が相次ぎ、これまでに約450件が町を通じて届けられた。

 メッセージは便箋3枚で、学校での様子や、身を寄せる親類とともに旭川市の旭山動物園に出かけたこと、今でも時々、父親を思い出すことなどをつづっている。最後に「たくさんの人からの応援を忘れず、人を想(おも)える大人になれるようがんばります」「もうだいじょうぶです。ほんとうにありがとうございました」と結んでいる。

 夏音さんは現在、漫画に熱中しているといい、スケッチブックにコンピューターゲームの怪獣を描いたり、「ごんぎつね」に触発されて自分で考えた物語を書いたりしている。同級生とスキーをしたり、学校の休み時間に友達とゲームをするのも楽しみという。

 親類の女性(64)は「ご恩を忘れることなく、成人した時に恩返しできる子に育ってもらえるようにしたい」と話し、「これからは静かに見守ってほしい」と願っている。

 岡田夏音さんが北海道新聞に寄せたメッセージの全文は以下の通り(原文のまま)。



 応援してくれた全国のみなさまへ。

 今わたしはとても元気です。毎日、30分位かかる雪道を、友達と二人で学校へ行き、勉強、スポーツと、毎日楽しく学校生活を送っています。学校では、友達とボードゲームをしたりします。

 今育ててもらっているおじさん、おばさんに温泉や旭山動物園に連れて行ってもらいました。動物園では、ペンギンのお散歩を見ました。

 昨年の3月、ふぶきでわたしはお父さんと2人、道にまよって気がついたら病院にいました。お父さんがふぶきの中、わたしを守って亡くなったと聞いて、とても悲しくなみだがポロポロ流れました。

 3月22日退院してから、たくさんの人達から、はげましのお手紙がたくさんとどき、おばさんに聞くと、わたしが一人ぼっちになってしまった事をかわいそうに思い、全国のみなさんが応援してくれているのではと言われ、とてもびっくりし、心からうれしく思いました。

 とてもやさしかったお父さんの事も夜ベッドに入ると、ときどき思い出します。わたしを思っていろいろと注意してくれたのに、わたしはあまえて、お父さんの言う事を何も聞かなかったので、お父さんの気持ちもわからないできた事を、「お父さん、ごめんなさい」と思い、なみだがでたりします。

 これからは、おじさん、おばさんの言う事をよく聞き、たくさんの人達からの応援がある事をわすれず、お父さんが遠くから安心して見守ってくれるよう、人を想える大人になれるようがんばります。

 全国のみなさま、わたしはもうだいじょうぶです。ほんとうにありがとうございました。 岡田夏音

北海道新聞 2014-02-20

北海道・暴風雪から娘を守るため10時間抱き続けた父の最期
暴風雪で娘・夏音(なつね)さんを守った父・岡田幹男さん!童謡サッちゃんの替え歌で励ましてくれた! - NAVER まとめ
暴風雪で父に守られた少女「前だけ見る」 | 日テレNEWS24

2014-02-24

税金は国家と国民の最大のコミュニケーション/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

「消費税の呪(のろ)いに依(よ)って、日本資本主義は破綻(はたん)するだろう。デモクラシーも滅びるだろう」と小室は予告する。

 その理由は、第一に伝票(インヴォイス)方式を採用しなかったからである。
 伝票方式にすると、仕入れと販売のエッセンスは、丸(まる)でガラス張りになる。
 少なくともその重要な部分は見え見えになる。消費者にも税務署にもお金の流れがはっきりするから、税金を誤魔化(ごまか)す余地は非常に少なくなる。
 伝票方式の最大の良い処(ところは)、脱税がし難(にく)くなる事である。
 誰しも一番頭に来る事は、脱税のチャンスの不平等である。【クロヨン】(9-6-4)、【トーゴーサンピン】(10-5-3-1)と言う例のあれだ。
 サラリーマンや著述業などの所得が殆ど100パーセント透明ガラス張りなのに、中小企業は曇りガラス。農業等は雨戸張り。(中略)
 武田信玄は、租庸(そよう/税金)の取り方に付(ママ)いて言った。
【「租庸で大切な事は、重きにあらず軽きにあらず、公平にあり」】と。(中略)
 徴税(税金を取り立てる)の不公平となると、根本的に違ってくる。
 それは【不公平であるだけでなく、不正でもある】からである。
 特に、デモクラシー諸国に於いては致命的である。
【デモクラシー諸国に於いては、税金の遣(や)り取りこそ国と国民との最大のコミュニケーションである】からである。
【税金こそ、デモクラシーの血液】である。
 血液の循環に依って身体が保たれる様に、税金の循環に依ってデモクラシーは保たれる。
 血液の循環が詰まれば大変である。脳血栓(のうけっせん)、脳梗塞(のうこうそく)等の重病となる。町税が出来なくて税金の循環が詰まれば、デモクラシーは死に兼ねない。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 資本主義は資本を所有する者が強者となる世界だ。で、強者は自分に都合のよい仕組みをつくりだす。経団連を見れば一目瞭然だ。多分インボイス方式を採用しなかったのは竹下登首相(当時)による政治的配慮だろう。

 一方で国民はものわかりがよい。「ま、国も赤字で困っているようだから仕方がない」と財布を開くたびに消費税を支払う。一片の疑問を抱くこともなく。

 トータルの税金で日本は既にスウェーデンを抜いている。

消費税率を上げても税収は増えない

 実に所得の55.4%が税という名目で奪われているのだ。にもかかわらず福祉大国ではない事実がおかしい。富の再分配が偏っていることは明らかだろう。人体に例えるなら、きっと心臓から上の方にしか血液が回っていない状態だ。足はとっくに壊死状態だ。

 よき国家であれば、国民は税を支払うことに誇りをもつことだろう。だが資本主義はそれを許さない。なぜなら企業の目的は利潤の最大化にあるからだ。

 巨大資本は多国籍企業となり、タックス・ヘイヴン経由で租税を回避する。アメリカもイギリスも国内にタックス・ヘイヴンが存在する。資本は税を嫌うのだ。

 そして今や、ショック・ドクトリンによって発展途上国の予算やIMFからの融資金を一部の多国籍企業が簒奪(さんだつ)する。資本主義とは不平等の異名である。人類の限界に至るまで差別を助長するに違いない。

 たとえ世界大戦が起こったところでこの仕組みが変わることはない。なぜなら実際の資本は既に眼に映らぬオンライン上に存在するからだ。銀行にある現金は預金の20%程度といわれる。

 この邪悪な資本主義金融体制を倒すためには、スーパーリッチと呼ばれる連中を死刑にするしかない。私に浮かぶアイディアはそれくらいだ。


力の強いもの、ずる賢いものが得をする税金/『税金を払わない奴ら なぜトヨタは税金を払っていなかったのか?』大村大次郎
マネーと言葉に限られたコミュニケーション/『お金の流れでわかる世界の歴史 富、経済、権力……はこう「動いた」』大村大次郎

2014-02-23

アインシュタイン、鴻上尚史、岩崎允胤、山竹伸二、他


 6冊挫折、1冊読了。

カミと神 アニミズム宇宙の旅』岩田慶治(講談社学術文庫、1989年)/民俗学的かつ文化人類学的なカミ学といってよいだろう。10年前なら読んだ。私の興味は既に進化宗教学という方向へ向かっているため志向が合わず。この分野が好きな人は安田喜憲と併読するのがいいだろう。

「認められたい」の正体 承認不安の時代』山竹伸二〈やまたけ・しんじ〉(講談社現代新書、2011年)/近頃「承認欲求」という言葉が目立つので開いてみた。胸が悪くなって直ぐ閉じた。一般的な人々は本当にこんな情況なのか? 承認なんざどうでもいいから、何か自分の好きなことをやるべきだ。他人の視線に合わせて生きる必要はない。

ヘレニズムの思想家』岩崎允胤〈いわさき・ちかつぐ〉(講談社学術文庫、2007年)/良書。力のこもったヘレニズム哲学の解説書。セネカを調べるために開いた。立派な教科書本。時間がある時に再読する予定。

知の百家言』中村雄二郎(講談社学術文庫、2012年)/原文を書き換えている時点でダメだと思う。著者は翻案のつもりか。我田引水が過ぎる。

孤独と不安のレッスン』鴻上尚史〈こうかみ・しょうじ〉(大和書房、2006年/だいわ文庫、2011年)/鴻上が数年前に書いた成人の日のエッセイが素晴らしかったので読んでみた。ちょっと文章の余白が大きすぎると思う。普段本を読まない若者向けに書かれたのだろう。高校生くらいに丁度よいと思う。

あなたの魅力を演出するちょっとしたヒント』(講談社、2000年/講談社文庫、2003年)/読み物としてはこちらの方が上だ。感情と声の演出は劇作家・演出家ならではの視線だろう。特に若い女性は外面よりも中身を磨くべきだ。自信のない者ほど飾り立てる傾向が強い。7~8年ほど前に鴻上とモノレール内で擦れ違ったがオーラのかけらもなかった。そこがまたいい。

 10冊目『アインシュタイン150の言葉』ジェリー・メイヤー、ジョン・P・ホームズ編(ディスカヴァー・トゥエンティワン、1997年)/薄っぺらい上に余白だらけという代物。ツイッターのbotでも読めるのだが、やはり原典に当たらずにはいられないのが本読みの悲しい性だ。翻訳モノだから致し方ないとは思うが、それにしても作りがデタラメだ。訳者もわからず。紹介されている言葉のソースも不明。文庫で300円が妥当な値段だ。ただし、アインシュタインの言葉は燦然と光を放って読者の脳を撹拌(かくはん)する。一読の価値はある。

下位文化から下位規範が成立/『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 ・下位文化から下位規範が成立
 ・税金は国家と国民の最大のコミュニケーション
 ・イギリス革命は税制改革に端を発している
 ・憲法は慣習法

『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『消費税減税ニッポン復活論』藤井聡、森井じゅん

 小室は消費税の簡易課税制度(※売上の20%を付加価値と見なし、これに消費税を課す。残りの80%は仕入れと原材料費と見なされる)が脱税の温床であると指摘する。それどころか「脱税制度そのもの」であると言い切る。

 そして企業間で脱税が日常茶飯の社会行動と化す時、事業計画の中で「重要な変数」として扱われる。脱税プログラミングが開発され、悪徳数学者と悪徳経済学者と悪徳弁護士らが跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、手を組んで、やがて日本経済を危機に陥れる。これが小室の懸念だ。

【定常的な犯罪集団が形成されると、そこに下位文化(サブ・カルチャー)が生まれる。】
 犯罪者集団独自の下位文化だ。この下位文化は、確(しっか)りと成員の行動を規定する(縛り付ける)。
 そして、各成員は、斯くの如く規定された行動をする事が当然だと思い込む様になる。それが正しいと思ってしまうのである。【ここが恐ろしい】。
 ぞっとしても足りない程である。
 社会にとっては紛(まぎ)れもなく犯罪に違いない事も、犯罪者集団は全く正しい事だと思い込む様になってしまうのである。
 と言う事は、どう言う事か。
 犯罪者集団の成員は、堂々と犯罪行為を行なうと言う事だ。堂々と、良心の呵責(かしゃく)なんか何もなく。
 社会全体の人々にとって、これより恐ろしい事は、またと考えられない。
 だって、そうだろう。
 普通、犯罪者と雖(いえど)も良心の呵責に苛(さいな)まれる。こんな事、心ならずも仕出かしてしまったが、本心ではやりたくはなかったんだ。
 これこそ、犯罪に対する最大・最強の歯止め、バラバラな犯罪者の行為が、それほど恐ろしくないと言うのも、右の理由に因(よ)る。が、犯罪者集団が、定常的に、存在するとなると、事情は根本的に変わってくる。この犯罪者集団の中に下位文化が発生する事になると、尚更(なおさら)の事だ。
 そうなると、下位規範(サブ・ノルム)が成立するであろう。詰(つ)まり、社会全体の規範(ノルム)とは全く違った規範が成立してしまうんのだ。これは大変である。
 社会全体が正しいと思った事でも、この犯罪者集団では正しくない。社会全体が許さないと言ったところで、この犯罪者集団でなら許される。
 犯罪者集団の構成員は、確信を以(も)って犯罪行為を遂行する。
 決して、オドオドしたりしない。後悔を感じたりはしないものなのである。
 確信を以って、所謂(いわゆる)「犯罪行為」を遂行する。オール確信犯と言って良い。

【『消費税は民意を問うべし 自主課税なき処にデモクラシーなし』小室直樹(ビジネス社、2012年)/カッパ・ビジネス、1989年『消費税の呪い 日本のデモクラシーが危ない』・天山文庫、1990年『悪魔の消費税』を改訂・改題】

 脱税が常態化した企業内部のメカニズム原理を見事に抽出している。小室の文体には独特の臭みとしつこさがあるが、何も考えずに慣れた方がよい。漢字表記についても同様だ。

 小室は学問の原理に忠実な人物であった。一切の妥協を許さなかった稀有な学者であった。弟子の一人である宮台真司は常々「天才」と絶賛している。あの宮台がである。

 このテキストが凄いのは、あらゆる閉鎖的集団の内部構造を説明しきっているところだ。例えば政治的談合、あるいは省益・庁益のために働く官僚、そしてコンプライアンスを無視して利益のみを追求する企業。はたまたブラック企業・健康食品のマルチ商法、更には宗教団体やテロリスト集団にまで適用可能だ。

 下位文化から下位規範が成立する。その規範とは「村の掟」だ。村人たちにとって「村の掟」は法律よりも重い。なぜなら彼らはそこに住み、生きてゆく他ないからだ。

 人間の脳は同調圧力に対して屈する傾向が強い。それを社会心理学的に証明したのがソロモン・アッシュの同調実験であった。

アッシュの同調実験/『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 ヒトの社会性は本能に同調を促し、集団生活に収まることで生き延びる確率を高めたのだろう。つまり「集団に属する」ことは「その集団に同調する」ことを意味すると考えてよい。

 我々は「皆がやっていることだから」という事実に基づいて自分自身をたやすく免罪する。営業マンを見れば一目瞭然だ。不自然なハイテンション、リスクに触れることのない説明、特定商取引法第16条を無視した営業トーク。あいつらは売れさえすればそれでいいのだ。自分のグラフを伸ばすためならどんなことでもやりかねない。

 規範というものはある行動を規制しながらも別の行動を強く促す。集団内のモラルは時に世間のインモラルと化す。しかも官僚や企業の場合、賃金という形で返ってくる。どうせ労働力を売るなら高い方がよい。しかも多少我慢すれば一生面倒を見てもらえる。

 結局のところ我々全員が損得で物事を判断しているのだろう。賃金の上昇を望む人は多いが、モラルの上昇を望む人を見たことがない。時折、正義感を発揮して内部告発をする勇者が登場すると、「馬鹿だよなー。おとなしくしていれば安全な人生を歩めたのに」などとテレビ越しに見つめる人も多い。

 ザル法が日本経済を破壊することを覚えておこう。この春から消費税が増税される。デフレ脱却前に増税を決定したのは致命的な判断ミスだ。ワーキングプアも放置されたままだ。また消費税と自殺者数には相関関係があることも忘れぬように(『消費税のカラクリ』斎藤貴男)。

消費税は民意を問うべし ―自主課税なき処にデモクラシーなし―
小室直樹
ビジネス社
売り上げランキング: 99,289

読書人階級を再生せよ/『人間の叡智』佐藤優

バスの運転手が昏睡状態に~少年がとった咄嗟の行動







※CPR=心肺蘇生法

怒りの終焉/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

「幸福」「幸せ」「楽しみ」というのは妄想観念です。なぜかというと、「生きることは苦」ですから、「幸福」「楽しみ」は、本当は経験したことがないのです。
 われわれはお腹が空くと苦しいから「嫌だ」と思います。そのとき、おいしいものを食べることが幸福だと思って、食べ物に飛びつきます。あるいは、子どもたちは好きなマンガやゲームを買ったりできれば幸せだと思ったりします。大人になっても同じです。お金に幸せあり。名誉に幸せあり。なにかの記録をつくることに幸せあり。人気があること、有名になることに幸せあり。権力に幸せあり。からだを美しく見せることに幸せあり……限りなく挙げることができます。
 このような生き方を、ブッダは、「それは智慧のない世間が探し求める道である」と説きます。「これがあれば幸せ」というのは、ぜんぶ「嫌だ」という気持ちから出発しているのです。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 さ、書けるうちにどんどん書いてしまおう。ツイッターにうつつを抜かしている場合ではないぞ(笑)。

 現代人は幸福病に冒されている。我々は不幸を実感しやすい環境にあるのだろう。そもそも幸福という言葉は明治期の翻訳語であると思われる。元々「幸せ」は「仕合わせ」と書き「巡り合わせ」を意味した。すると生命の次元においては苦楽が本質なのだろう。たぶん幸福を産んだのは大量生産だ。

「これがあれば幸せ」というのが前々回に書いた「気分が良くなる条件」である。人は特定の条件下で幸福感を覚える。つまり無条件に怒りを抱えているのだ。「幸せになりたい」との願望が現在の不幸を雄弁に語る。幸せを誓った男女が幸せになることも少ない。限りなく少ないな(笑)。ま、幸せをチラつかせるような相手は最初っから信用しないに限る。

「生きることは苦」であり、人は苦から別の苦へ乗り換えているだけ。一度も幸福になったことはありません。経験していない「幸福」をイメージすることはできません。ですから、勘違いの幸福を求めているのです。
「嫌だ」という怒りから、勝手に自分が「幸福」だと思っているものを求めます。その結果どうなるかというと、幸せになるどころか、逆に苦しみ増えるのです。
 本当なら、求めるものを獲得すれば幸せになるはずですが、世間の幸福を求め続けるなら、どんどん苦しみが増えてしまいます。

「苦から別の苦へ乗り換えているだけ」との指摘が鋭い。チビがノッポになり、ハゲ頭がフサフサになり、出っ歯が矯正され、ブスが美女(あるいはブ男がハンサム)になり、病気が治り、老婆(あるいはジジイ)が若返ることが我々の幸福だ(女性差別とならぬよう配慮をした)。だったら後者は元々幸福なはずだろう。しかしそうは問屋が卸さない。皆が皆、それぞれの幸福を追い求めながら不幸をひしひしと感じているのだ。

 苦しみが増えるとは幸福の条件が増えることだ。幼い頃はキャラメル一粒でも幸せになれた。大人の場合そうはいかない。自動車の運転免許が欲しい、自動車が欲しい、もっと大きな自動車が欲しいと際限なく欲望は肥大する。で、ベンツを買った翌日に誰かをひき殺してしまえば、もう何のための人生かわからない。

「このシステムはなんなのだ?」と、とことん現象のあり方を観察してみると、瞬間、瞬間、ものごとが消えていることに気づくのです。滝のように、泡のようにはじけてはじけて、次々に新しい現象が生まれている。「なんだ、そんなものか」とわかるのです。「それならしがみついたって価値がないだろう」と諦めて、無執着の心が生まれるのです。それを仏教は「覚(さと)り」と呼びます。「覚り」にいたる道こそが、聖なる道なのです。「覚り」に至ることで、一切の苦しみがなくなるのです。それが運命的な怒りの終焉でもあります。

 これが諸行無常であり、である。そして諸法無我と悟れば涅槃寂静となる。怒りから希望へ向かう時、欲望が生じる。三悪趣(地獄、餓鬼、畜生)に三毒を対応すれば、瞋(いか)り→地獄、貪り→餓鬼、癡(おろ)か→畜生である。不幸の構図としてこれにまさる生命の実相はあるまい。

 日蓮は「当(まさ)に知るべし、瞋恚(しんに)は善悪に通ずる者也」(『諌暁八幡抄』)と説いた。日本の中世における個人意識の芽生えと受け止めることも可能だが、私はここに日蓮の限界があったと思う。似たようなことは三木清も言っている(『人生論ノート』)。日蓮が比叡山(延暦寺)で学んだのは天台ルールであった。折伏(しゃくぶく)という言論活動はディベートの様相を呈しており、日蓮は火を吐くように言葉を放った。彼は怒れる人であった。そこに弟子たちが分断・分裂を繰り返す要因があったのだろう。日蓮系教団がいつの時代も混乱に陥るのは日蓮の怒りに由来していると思われる。

 怒りは暴力への扉でもある。大虐殺も小さな怒りから始まる。怒りを正当化する思想を恐れ、忌避せよ。正義の名の下で人類が残虐の限りを尽くしてきた歴史を忘れてはなるまい。

2014-02-22

ナオミ・クライン


 1冊読了。

 9冊目『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く(下)』ナオミ・クライン:幾島幸子〈いくしま・さちこ〉、村上由見子訳(岩波書店、2011年)/グローバリゼーションという現代史の闇に戦慄した。ミルトン・フリードマン率いるシカゴ学派が世界各地で惨事に便乗して経済的白紙状態を創造する。ブッシュ大統領が叫んだ自由と民主化は規制撤廃と民営化を意味した。そしてグローバル企業が行うのは「エコノミック・レイプ」に他ならない。彼らは惨事に便乗した挙げ句に更なる惨事を拡大再生産するのだ。それにしても凄まじい限りだ。米国内においても極端な民営化を進めるあまり国家が空洞化しているという。最終章で南米各国の希望的前進が描かれているが、やはり犠牲が大きすぎる。日本にもTPP加盟でショック・ドクトリンが処方されることだろう。それを防ぐためにはゆうちょ銀行・郵便局や水道事業などの民営化を阻止する必要がある。中道左派による社会民主制が望ましいが該当する政党が日本には存在しない。社共を含めた政界再編が求められる。本書を読まずして現代史に目を開くことはできない。

感覚は「苦」/『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ


『仏陀の真意』企志尚峰
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳
『スッタニパータ[釈尊のことば]全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ

 ・怒りの起源
 ・感覚は「苦」
 ・怒りの終焉

『心は病気 役立つ初期仏教法話2』アルボムッレ・スマナサーラ
『苦しみをなくすこと 役立つ初期仏教法話3』アルボムッレ・スマナサーラ
『ブッダの教え一日一話 今を生きる366の智慧』アルボムッレ・スマナサーラ

 立っていても苦痛です。座っていても苦痛です。ちょっと走るのも、走り続ければ苦痛になります。「今日は疲れたから」といって寝たとしても、寝過ぎればやはり苦痛です。
 食事も同じです。ちょっとお腹が空いたら、「空腹」という苦痛を感じます。だからといってごはんを食べ過ぎるとこれまたお腹がいっぱいで苦痛です。
 ですからはっきりしています。感覚は「苦」なのです。

 生きることは「感覚があること」、そしてその感覚は「苦」なのです。そして、この「苦」が消える瞬間はありません。ただ変化するだけです。
 たとえば、1時間ぐらい座っていると腰が痛くなってしまいます。そこで立ったら、立った瞬間は「ああ、楽になった」と思うかもしれませんが、実際に起こっていることというのは「座っている苦」から「立っている苦」への変化です。一瞬、それまでの「座っている苦」が消えますから、幸福に感じるかもしれませんが、それは勘違いです。ただ、新しい「苦」に乗り換えただけのことです。
 私達は瞬間、瞬間に、「苦」という感覚を味わっているのです。

 私たちは、いつも「苦」のなかにいます。しかし、ふだんは「苦」を感じていることに気づいていません。「とても苦しい」という感覚が起こって、はじめて苦痛を感じるのです。たとえば、お腹が空いても、ほんのちょっとの空腹だったら気にしないでしょう? ずっと放っておいて今にも倒れそうだったり、飢え死にするかもしれない状態になったりすれば、かなりの苦痛を感じます。
 それは、私たちに訪れる絶え間ない「苦」は、ある程度、大きくならないと気にならないというだけのはなしです。「苦」のレベルを表示するメーターがあって、そこに苦を認識する赤い水準線が付いているようなものです。絶え間ない「苦」がある程度大きくなって、赤いラインより上に振れたときにはじめて気にする、それまでは気にしないというはなしなのです。実際は「苦」のメーターがゼロになることはありません。

【『怒らないこと2 役立つ初期仏教法話11』アルボムッレ・スマナサーラ(サンガ新書、2010年/だいわ文庫、2021年)以下同】

 多少を問わず仏教の知識がある人ならスマナサーラの卓越した説明能力がわかることだろう。しかも一読すればその説明能力が才覚ではなく、初期仏教(=上座部)の教えから導かれたものであることが理解できる。テーラワーダ仏教シャム派)は和製仏教(平安仏教および鎌倉仏教でありその実体は密教)を揺るがす破壊力を秘めている。


 八正道(はっしょうどう)よりも四諦(したい)の重要性を示したのは馬場紀寿〈ばば・のりひさ〉(『上座部仏教の思想形成 ブッダからブッダゴーサへ』春秋社、2008年)だ。

・苦諦(くたい):この世界は苦しみに満ちていると明らかにする
・集諦(じったい):苦の原因がなんであるかを明らかにする
・滅諦(めったい):苦の原因を滅すれば苦も滅することを明らかにする
・道諦(どうたい):苦の滅を実現する道を明らかにする

Wikipedia

 三車火宅の譬えで知られる法華七譬(ほっけしちひ)も元来は苦諦を示すものであったと推察される。だが大衆部(だいしゅぶ)は自らを「大きな乗り物」(=大乗)と位置づけるために「希望」を語って(=騙〈かた〉って)しまった。希望というプロパガンダは悟り(=自由)から離れて幸福を目指す。仏道修行は幸福実現のための手段と化した。これが和製仏教の実態であろう。

 仏法は個人(自分)の苦と向き合うところに基本がある。にもかかわらず大衆部は菩薩道などと称して布教を励行した。悟りから離れた人物の騙る希望が誤ったコースに導くことは避けようがない。

 生の本質は「苦に対する反動」である。何と重い指摘か。我々は「生きたい」から生きているのではなくして、「苦しみたくない」から生きているだけなのだ。何だか急に人生がつまらないものに思えてきた(笑)。

 生きるという仕事は、あらゆることすべてが「苦」と「苦は嫌」という働きで成り立っているのです。
 つねに無常で変化し続ける「苦」という感覚があり、その「苦」の感覚が嫌で、「変えなくちゃいけない」という希望があります。その二つの働きが「生きること」になるのです。
 もし、「苦は楽しい」と思ったら、死んでしまいます。ですから、「苦は嫌だ」と思わないと生きていられません。この「嫌だ」という反応が「怒り」です。これがいちばん基本的な怒りのポイントです。
 つまり、「怒りをもたずに生きることはできない」のです。人は、生命は、本来的にずーっと「怒り」をもち続けているのです。生きるとは、そのように基本的に怒ってしまう構造にはめられていることなのです。

「生きることは反応すること」というのが私の持論ではあるが、それが「怒り」に基いている事実にまでは思い至らなかった。生きとし生けるものは皆苦痛を回避する。釣り針を呑み込んだ魚みたいなものだ。そして溺れる者は藁をも掴み、財布の紐を緩め、高価な壷を買ってしまう。他人の苦に付け込むのがあいつらの手口だ。

 人生は思い通りには運ばない。肚(はら)の底に諸行無常を叩き込む。そうすれば上手くゆかなかったとしても「当然のこと」として受容できる。願ったりかなったりとなっても「単なる偶然に過ぎない」と達観することだろう。

 西洋では仏法が人生に消極的な態度を勧めるニヒリズムの教えと長らく誤解されてきた。最大の犯人はショウペンハウアー(1788-1860年)だ。

神智学協会というコネクター/『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール

 キリスト教を始めとするアブラハムの宗教が天にまします神が軽やかに劇的に言葉を操るのに対し、仏法は生の水底(みなぞこ)に沈潜する。その積極性を見よ。深海のごとき生命の深層にブッダは座る。怒りの波に翻弄される人生を拒むのであれば、我々も海に潜らなければならない。