・敵前逃亡した東大全共闘
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『ほんとに、彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行
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『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
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『私を通りすぎた政治家たち』佐々淳行
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『私を通りすぎたマドンナたち』佐々淳行
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『私を通りすぎたスパイたち』佐々淳行
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『重要事件で振り返る戦後日本史 日本を揺るがしたあの事件の真相』佐々淳行
自衛隊を「暴力装置」と呼んだ仙谷前官房長官は、東大時代に「フロント」と呼ばれる社会主義学生運動組織のシンパとして活動していたことが知られている。
彼ら、全共闘世代は「破壊の世代」と呼ばれる。
かつて極左過激派の長期にわたる暴力革命闘争、世界・同時・急進・武装革命を目指し、「目的は手段を正当化する」というレーニン思想や、「革命は銃から」と説く毛沢東主義に影響された「造反有理」のトロツキズムの武力闘争は、日本共産党の平和革命論よりもっと左で、もっと過激だった。
武装の上、大学をバリケード封鎖して主張を通そうとして、全国の大学が激しい紛争状態となった。全共闘に煽動(せんどう)された学生たちは、投石や火炎瓶、角材などを武器にした「ゲバ闘争」によって、少なくとも1万5000人が逮捕され、まともな就職ができず、その人生を大きく狂わせてしまった。
殉職者十余名を含む1万2000人の機動隊員が重軽傷を負い、なかには失明、四肢喪失、顔面火傷のケロイドなど、癒しがたい公傷を負い、今でも辛(つら)い後遺症に苦しんでいる者もいる。
人生を狂わされた多くの“同志”や後遺症に苦しむ警察官がいるというのに、仙谷由人氏は、うまく転向して官房長官の栄職まで出世した。
その上で国のために命がけで働く自衛隊を「暴力装置」と呼んだ。かつて機動隊を「公的暴力装置」と呼んだという証拠こそがないが、彼らの思想・思考の中ではそういう用語で呼ばれていた。今、仙谷氏が反体制イスラム武装勢力を見るかのような目で、自衛隊や警察官、海上保安官を見ているといわれても仕方があるまい。
【『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行〈さっさ・あつゆき〉(幻冬舎、2011年)】
民主党政権批判の書である。佐々らしからぬ徹底した猛々しさを感じるのは、彼が大学生時代から闘ってきた左翼の政権誕生に業を煮やしたせいだろう。民主党政権では旧社会党勢力が大臣ポスト3分の1ほどを占めていた。
既に書いたことだが私は当時、佐藤優のラジオ番組をよく聴いていたせいで民主党政権にさほど違和感を覚えなかった。ラジオには「耳を傾ける」必要がある。視覚情報がないだけにマインドコントロールされやすいのだろう。更に佐藤はその後自民党が政権を取り戻すと、さり気なく沖縄二紙の論調を紹介するようになった。沖縄独立論の動きがあることも「馬鹿馬鹿しいエピソード」として取り上げているのかと思ったが実はそうではなかった。突飛な事実を紹介している風を装いながら、その後彼は独立論へと沖縄を誘導したのだ。
仙谷由人の「暴力装置発言」は今尚記憶に新しい。自分たちのかつての暴力行為を振り返ることなく左翼用語を振りかざす態度が浅ましい。
樺美智子〈かんば・みちこ〉の死は語り継がれるが機動隊員の犠牲は誰も覚えていない。彼女のために中国から1000万円のカンパが寄せられたが、「前衛政党に送られたもの」と主張した共産党が全額をせしめた。
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60年安保闘争~樺美智子と右翼とヤクザ/『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘
東大安田講堂封鎖解除警備が行われた1969(昭和44)年1月18日の前夜、真っ先に東大から逃げ出したのは、代々木(共産党)系の民青だった。(中略)
これに次いで脱出したのが、法文系1号館と2号館に籠城していた革マル派だった。今でも続く中核派と革マルの陰惨な内ゲバは、この東大紛争の裏切りから始まった。(中略)
念のため、東大安田講堂事件における逮捕学生の内訳を詳しく記すと、
安田講堂に籠城していた極左過激派 377名
この逮捕者のうち、東大生はたったの 20名
東大構内、工学部列品館、医学部など22カ所に籠城していた全共闘 256名
うち東大生はわずか 18名
【合計逮捕者 633名中 東大生 38名】
であった。
東大生はわずか6%で、あとの94%は東大全共闘を助けようと全国からはせ参じた“外人部隊”だった。外人部隊は最後まで愚直に戦い、逮捕され、前述のごとく人生を大きく狂わせてしまった。東大全共闘はその外人部隊を尻目に、前夜“敵前逃亡”していたのである。
驚くべき事実である。旧制高校を廃止したGHQの策略はまんまと成功した。日本のエリートの体たらくがこれである。しかも日本にとっては格段に改正された日米安保に反対していたのだから馬鹿丸出しといってよい。
日本の経済は高度成長を遂げていたが政治は迷走を続けた。自民党はアメリカから、社会党・共産党はソ連から資金提供を受けていた。
樺美智子の死によって辞意を表明した岸信介首相が右翼暴漢に臀部(でんぶ)を三度刺されて瀕死の重症を負った(1960年、
砂川裁判が日本の法体系を変えた/『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治)。
東大安田講堂事件(1969年)の後にあさま山荘事件(1972年)が起こる。そして東大に乗り込み全共闘学生と対話をした
三島由紀夫が1970年に自決した。
私はこうした一連の出来事を「敗戦のジレンマ」で片づけたくない。明治開国に始まる東亜百年戦争(『
大東亜戦争肯定論』林房雄)が終結に至る混乱であったと見る。三島の死がピリオドを打ったのだ。
にもかかわらず、学生運動の風が止んでも日本の政治は落ち着くことがなかった。1989年の参院選ではマドンナブームが起こり何と社会党が自民党を上回る議席を獲得した。
リクルート事件が社会党への追い風となったわけだが、今考えると実に不思議な事件で未公開株の譲渡は普通に行われていることだった。
ロッキード事件と同じ臭いがする。
1993年に非自民・非共産の8党連立で細川内閣が誕生した。新党ブームで戦後長らく続いた55年体制が崩壊し、新しい時代の幕開けを国民は確かに感じた。社会党からは6人と江田五月(社民連)が入閣している。非自民政権は細川内閣8ヶ月、羽田内閣2ヶ月で終わった。各党の理念が一致してない上、意思の疎通を欠いており、何にも増して小沢一郎の豪腕が嫌われた。
1994年に自社さ連立政権が発足し村山内閣が誕生した。自民党は禁じ手を使ったといってよい。バブルが崩壊しデフレが進行する中で政治は野合の季節を迎えた。95年には阪神淡路大震災とオウム事件が起こる。「社会党ではダメだ」と誰もが痛感した2年間だった。
その後橋本内閣(1996年)から小泉内閣(2001~2006年)にかけて次々と規制改革が行われ、日本の伝統的な価値観(終身雇用制、
護送船団方式、
株式持ち合いなど)が崩壊した。
バブル景気の中から
オバタリアンが生まれ、デフレになると若き乙女が
援助交際に走った。
こうした流れを振り返ると、長く左翼と闘ってきた佐々が
民主党政権(2009~12年)に対してどれほどの危機感を抱いていたかがわかるような気がする。国民はいつだって無責任だ。何かを買い換えるように新しいものに飛びつくだけである。世論を重視する政治的風潮が強いが世論などは一日にして変わり得る性質のもので、政治家たる者は進むべき方向をきちんと指し示す覚悟を持つべきだ。
東日本大震災(2011年)と福島原発事故は「日本が滅びるか」というほどの衝撃を与えた。民主党政権は何らリーダーシップを発揮することができなかった。日本に新生の息吹きを吹き込んだのは天皇陛下のメッセージであった。そして安倍晋三が「日本を取り戻す!」と叫んで立ち上がった。この四半世紀は一旦死んだはずの社会党勢力が内閣に巣食い続けた期間であった。現在彼らは立憲民主党となって蠢(うごめ)いている。団塊の世代を中心とする「懐かしサヨク」は憲法改正を阻止すべく、なりふり構わぬ闘争を展開することだろう。
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