2019-07-21

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2019-07-20

「戦争責任」という概念の発明/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二


『国民の歴史』西尾幹二
『日本文明の主張 『国民の歴史』の衝撃』西尾幹二、中西輝政
『三島由紀夫の死と私』西尾幹二

 ・「戦争責任」という概念の発明
 ・岡崎久彦批判、「つくる会」の内紛、扶桑社との騒動
 ・死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね

岡崎久彦

 敗戦国ドイツの代表は27に及ぶ戦勝国の首脳の居並ぶ前で、傲然と次のように言い放った。
「われわれはドイツの武力が崩壊したことを知っており、はげしい憎悪の前に立たされていることも知っている。われわれは戦争の唯一の罪人であることを告白するよう要求されている。しかしそのような告白を私がするならば、それは虚言をなすことになるだろう。この世界大戦が惹起した責任を回避する気はすこしもない。だが、ドイツとその国民だけが有罪だということをわれわれは否認する。……」
 ドイツ代表の名は外務大臣ブロックドルフ=ランツァウ伯。彼は偏狭なナショナリストではなく、古い家系をもつ誇り高いドイツ貴族であった。
 第一次世界大戦の終結にあたり、フランス代表のクレマンソーが口火を切っていわゆるヴェルサイユ条約を突きつけてきた、そのときの最初の発言である。
 第二次世界大戦の終結に際しては、ドイツという国家は解体して存在しなかった。逃亡した戦争指導者たちは次々と追求逮捕され、ドイツ国民は全員奴隷として強制労働につかされる可能性さえ論じられていた。第一次大戦ではそのようなことはない。ドイツは主権国家として存続していた。丁度日本が第二次世界大戦の降伏後も辛うじて国家でありつづけていたのと同様である。
 第一次世界大戦はまだそれまでの欧州の戦争、ナポレオン戦争普墺戦争普仏戦争と同じような性格を残していた所以だが、今から考えるとすでに第二次大戦を予感させるような特徴もいくつか見てとれる。まず第一に、ドイツへの制裁の基礎となった条約231条において「戦争責任」が問われていることである。しかも「国際的道徳に対する最高の罪」として皇帝ヴィルヘルム2世の軍事法廷への引き渡しが要求された。連合軍は800人の戦犯を名指し、その中には有名なルーデンドルフ将軍をはじめ貴族、政治家、学者、士官、兵まであった。「戦争中の残虐行為の罪」を犯した者を引き渡せという要求もあった。従来の国際法にも国際慣行にもまったく例がなく、ドイツ首相ヴィルトはこれを公式に拒絶した。それでもイギリス首相ロイド・ジョージはしつこく、戦犯断罪の裁判を継続して要求、1年有余をかけたドイツ国内の裁判ですべて無罪、あるいは公判中止となって終った。
 それにしても、「戦争責任」という言葉が生まれたことも、国家意志で行われた戦争への責任を個人に求めるということも、ついぞ例がなく、ドイツ国民には屈辱であり、衝撃であったに相違ない。
 第二次大戦後の日本はまだ「辛うじて国家」だったと先に書いたが、第一次大戦後のドイツのように、戦犯引き渡しを拒否する力は持っていなかった。郷里にいったん生還した将兵までがインドネシアやフィリピンに連れ戻され、BC級戦犯の名で処刑された悲劇はよく知られる。残虐罪は現地政府の裁きに委ねるという第二次大戦後のドイツの戦犯に対する報復の形式が踏襲された結果である。
 東京裁判において弁護団は、戦争それ自体は正当な国家行為で、犯罪ではないとの正論をもって弁護に当った。国家意志で行われた戦争の責任を個人に求めるのは国際法に違反しているという論法も使われた。ニュルンベルク裁判でも同じ論法があった。しかしアメリカが中心となった両裁判ではこの論点ははなからほとんど無視された。
 それもそうであろう。あまり気づかれていないことだが、すでに第一次世界大戦において、国際法にも国際慣行にもまったく例のない「戦争責任」の概念が出現していたのである。
 ヴェルサイユ会議において、「戦争責任」を言うならばそれは戦勝国にもある、ドイツは力尽きて敗れただけで「国際的道徳への罪」を問われるいわれはない、と堂々と拒否の姿勢を示したブロックドルフ=ランツァウ伯の言は、今の私が考えてみても正しい。日本の過去の戦争に対する立言もかくあるべきだという論証が本論の主旨である。

【『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二〈にしお・かんじ〉(徳間書店、2007年)】

 二度の大戦をヨーロッパ内戦と捉えると戦争概念が大きく変わったことに気づく。西側を中心とするヨーロッパにはギリシャ哲学とキリスト教という共通思想がある。そこに「外交のルール」が生まれる。つまり「国家としての理窟」である。

 世界史を複雑にする微妙な問題は行間という行間に人種差別が散りばめられていることに起因する。そこに日本とアメリカという新たなプレイヤーが参加したのだ。

「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」とクラウゼヴィッツは喝破したがそれは白人の政治に限られる。有色人種国家はただ奪われるだけの存在であった。白人帝国主義は大航海時代(15世紀半ば)に始まり日露戦争(1904-5年)~大東亜戦争(1937-45年)まで続いた。

 1937年(昭和12年)、フランクリン・ルーズベルト大統領は「病人(※侵略者)を隔離する」と宣言した(隔離演説)。翌1938年には声明で日本を名指しする。1940年(昭和15年)、航空機用燃料を西半球以外へは全面禁輸にし、加えて屑鉄も禁輸とした。1941年(昭和16年)、日本の在米資産凍結・石油の対日全面禁輸が行われ、日本は12月8日に英領マレー半島と真珠湾を攻撃するに至る。

 アメリカによる日米通商航海条約の破棄(1939年)を受けて日本政府は蘭印と経済交渉をした(第二次日蘭会商)。蘭印は迫りくる日本に対して可能な限り妥協してみせた。英米の軍事援助が見込めなかったためだ(戦前期日本の海外資源確保と蘭領東インド石油 1940年の日蘭石油交渉と蘭印の対日石油輸出方針を中心に:張允貞〈チャン・ユンチョン〉戦前期日本の海外石油確保と蘭領東インド石油)。

 つまり、石油以外の軍需物資の要求量が大きかったため、オランダ側は日本の同盟国であるドイツに軍需物資が流れることを懸念し、日本側の要求の全ては容認しなかったために交渉が不成立に終わったということがわかる。なお、来栖自身はオランダ側の容認した通りに調印しておけば石油物資の欠乏は避けられたのではないかと考察している。

ABCD包囲網考【5】・オランダとの交渉経過 - royalbloodの日記

 そのオランダにアメリカが圧力を掛けてABCD包囲網は完成した。

 まず話し合う。で、まとまらなければ戦争をする。なぜなら「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」からだ。ここで当時の政治判断を論(あげつら)うことは容易(たやす)い。だが近代史を俯瞰すれば、黒船来航~三国干渉を経て臥薪嘗胆(がしんしょうたん)を合言葉に耐えて耐えて耐え抜いてきた国民感情が噴出したと見るべきだろう。

 第一次世界大戦におけるジョルジュ・クレマンソーのドイツに対する苛烈な姿勢が後のヒトラーを誕生させるのは広く知られた歴史のエピソードである。圧力は時に爆発を招く。1940年6月10日、ナチス・ドイツの侵攻によってパリが陥落する。

 第二次世界大戦の敗戦国は「戦争責任」という戦勝国にとって便利な概念で裁かれた。ここで一つ注意を喚起しておきたいことは、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人を中心とする大量虐殺と戦争行為は分けて考える必要があるということだ。それはそれ、これはこれである。勝利した連合国はニュルンベルク裁判東京裁判という茶番劇で確固たる戦後レジームを構築した。

 国際連合は「United Nations」の訳語だが直訳すれば「連合国」である。第二次世界大戦の枠組みを変えるのは第三次世界大戦なのだろうか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

国家と謝罪―対日戦争の跫音が聞こえる
西尾 幹二
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管季治〈かん・すえはる〉-徳田要請問題


『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 ・管季治〈かん・すえはる〉-徳田要請問題

 2009年8月18日に関連リンク集を作成したのだがあまりにもリンク切れが多いため、若干のテキストコピーと共に紹介する。

 しかし、上京して間もない同年2月中旬、日本共産党の徳田球一が在外同胞引き揚げの妨害をしたとする「徳田要請問題」が彼の身に降りかかった。これは「徳田書記長から、捕虜が民主的な分子となってから還してくれるようにという要請がきている」との発言をシベリア収容所のソ連将校から聞いた抑留者が帰国後に真相究明を求めて衆議院に訴えたもので、この問題に際し、彼は抑留時、意図的に誤った翻訳をしたのではないかという嫌疑を掛けられ、国会で証人喚問を受けることになる。菅は「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」、「ナデーエツァというロシア語には『期待する』という意味はあるけれども『要請する』という意味はない」という内容の手記を参議院に提出し、共産党機関紙『アカハタ』はこれをもって「徳田要請は否定された」とした(菅はこの件で共産党に対し抗議した)。また、このとき「天皇制についてどう思うか」と問われ、菅が「天皇制に対して私は批判的です」と答えると、「(天皇制を認めている日本)共産党以上の本物の共産党じゃないか」と罵倒されている。

 続いて同年4月5日に菅は衆議院に証人喚問された。このときハルビン学院の第一期卒業生を自称する調査員が登場し「訳したければ『期待する』と訳すことも可能だが『要請する』と答えるのが自然だ」として、「菅は『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」[4]と厳しい質問を浴びせ(菅があたかも共産党のシンパであるかのようにアピールし、その証言が信用できないことを印象づける戦術であった)、菅は精神的に追い込まれた。この結果、翌4月6日の夜、彼は自宅近くの吉祥寺駅付近で鉄道自殺を遂げた。このとき、同居する弟の学生服の上着を着て、ポケットには岩波文庫の『ソクラテスの弁明』が入っていたという。友人の石塚為雄と弟の忠雄に宛てた遺書には、自らの身の潔白と、事実が通らないことに対する絶望が書かれていた。享年32。

 菅の自殺事件は社会的に大きな反響を呼び、木下順二がこの事件をテーマとする戯曲『蛙昇天』(背景も含めすべて蛙の世界の出来事に置き換えたもの)を書いている。またこの事件は証人喚問が証人自身に多大なる精神的苦痛を与えた例とされ、これ以降、国会は菅のような一般人に対する証人喚問には慎重な姿勢を取っている。

菅季治 - Wikipedia



 これに関連し抑留時、ソ連将校の講話を通訳していた哲学者菅季治は、「要請」について否定も肯定もせず「将校の講話は(徳田の言葉の引用については)『反動分子としてではなくて、よく準備された民主主義者として帰国するように期待している』というものであった」という内容の手記を参議院に提出し、共産党機関紙『アカハタ』はこれをもって「徳田要請は否定された」とした(菅はこの件で共産党に対し抗議した)。このため1950年4月5日に菅は衆議院に証人喚問され「『要請』というロシア語を(恣意的に)『期待』と訳したのではないか」と厳しい質問を浴び(菅があたかも共産党のシンパであるかのようにアピールし、その証言が信用できないことを印象づける戦術であった)、翌日鉄道に飛び込み自殺した。

徳田要請問題 - Wikipedia



 その後、彼は連合軍司令部に幾度も呼び出され、国会にも証人喚問されることになりました。
 自分が通訳したのは「要請」ではなく「期待する」であった事実を、孤立無援のまま、誠実に繰り返し証言しましたが、認められず、果ては「ソ連式共産党員」とのレッテルを貼られ、脅迫状まで寄せられるようになりました。昭和25年4月6日、彼は吉祥寺付近で列車に飛び込み自殺してしまいました。親友石塚為雄氏あての遺書には「あの事件で、わたしはどんな政治的立場にもかかわらないで、ただ事実を事実として明らかにしようとした。しかし政治の方ではわたしのそんな生き方を許さない。わたしは、ただ一つの事実さえ守り通し得ぬ自分の弱さ、愚かさに絶望して死ぬ。/わたしの死が、ソ同盟や共産党との何か後暗い関係によることでないことを、信じてくれ。/(中略)/人類と真理のために生命をささげようとしながら、わたしは、ついに何一つなし得なかった。しかし、死ぬときには、/人類バンザイ!/真理バンザイ!/と言いながら、死のう。」と書かれていました。享年32歳でありました。

ヌプンケシ103号 | 北見市



「わたしはまじめに自分の死について考えてみた。(中略)そして、次のような結論を得た。自分は凡人である、社会を変革したり、歴史の大波を押し返したりすることはできない。そうだとすれば、わたしの生涯でよい事としては、日常の小さな善行の総和以外にない。だから、もうすぐ死ぬ者として、死ぬまでの短い期間にできるだけ多くの日常的善行を積まなければならない。」菅はこう考えて、行動をおこしました。
hango まず私的制裁=リンチを禁止しました。初年兵に「私的制裁の事実があったらすぐ自分の所に知らせろ。」といい、「下士官や古年次兵は大いに不満だった。『なぐられない兵隊は強くならない』という信条が彼らを支配していたのである。わたし自身は軍隊で人をなぐったことはない。」
「見習士官は官物の被服をもらう。兵隊のと同じ型だがもちろん新しく、軍隊用語で『程度のいい』品物である。わたしは、朝鮮人の中でも最も悪い被服を着ている者を呼び寄せる。上衣の悪い者には自分の上衣を、ズボンの悪い者には自分のズボンを、シャツの悪い者には自分のシャツを与える。そしてわたしは、彼らの悪い上衣、悪いズボン、悪いシャツを身につける。自分にあるだけの布ぎれを修理材料として与える。同僚の見習士官はいやな顔をする。わたしだってこんな行為は、前には偽善的に感じたろうけれど、その時は、死の近づきがわたしを勇気づけたのである。」また、兵士に不満や希望を無記名で書かせ、解決できることは直ぐに実行しました。「わたしという見習士官は、中隊で、ひどい変り者と評判されるようになった。」

ヌプンケシ104号 | 北見市



 戦時中から「私的制裁」に反対していた菅には、これら将校たちの行為は目に余るもので、「収容所における軍隊機構改革の必要を感じた。」ものの、菅自身も将校の一人であり、「どうしていいかわからなかった。わたしは、自分だけ階級章を着けず、『五箇條』を唱えなかった。わたしに敬礼する兵隊に『なぜ敬礼するんだ?』と問うた。」と記しています。

ヌプンケシ105号 | 北見市



ヌプンケシ106号 | 北見市」を読めば書き手が左翼であることがわかる。



 私は日本へ還ってから平凡で真面目な国民の一人として生きようとした。今度の事件でも私はありのままの事実を公けにして国民の健全な判断力に訴えようとしたのである。しかし私を調べた人々には私とソ同盟、私と日本共産党との間になにか関係があると疑って、私の証言の純粋さを否定しようとする。いまの世の中は、ただ一つの事実を事実として明らかにするためにも多くのうそやズルさと闘わねばならぬ。しかし闘うためには私は余りにも弱すぎる。(中略)私はただ悪や虚偽と闘い得ない自分の弱さに失望して死ぬのである。私は人類のために真理のために生きようとした。しかし今までそのため何もしていない。だがやはり死ぬときには人類万歳、真理万歳といいながら死ぬ。(菅季治著「語られざる真実」戦争と平和 市民の記録19 1992.5.25)

蛙昇天



 1917年7月19日、愛媛県に生まれた彼は、6歳(数え)のとき、北海道にわたり、尋常少学校、旧制中学校に進みました。学業成績は非常に良く、中学卒業時には、「開校以来の神童」とうたわれたそうです。

蛙昇天



 翌1949年5月、ソ連は、日本人捕虜全員を11月までに送還すると発表、6月27日から引揚が再開されました。この再開第一回目の引揚船は、出迎えた人々を驚かせることになります。労働歌を合唱し、出迎えの家族にふりむきもせずスクラムを組んで、集団で共産党に入党しようとする、ソ連の思想教育の影響を大きく受けた人々だったのです。これらの人々は「赤い引揚者」と呼ばれ、この年に帰国した人の多くが、そうした引揚者でした。この頃の引揚者は、共産主義にかぶれているという先入観が人々の中に生まれていく中、菅季治も11月に帰国します。

 翌年の1950年の引揚船は、一転して様子が変わりました。右派、いわゆる反ソ組が圧倒的に増えたのです。 1950年1月23日の朝日新聞を見てみましょう。

蛙昇天



 衆議院考査特別委員会は1950年4月5日、菅季治を再度、国会に証人として呼びます。参議院で踏み絵を踏むことを拒否した菅に対して、衆議院は、菅に「共産主義者」というレッテルを貼ることに腐心しました。

蛙昇天



  左派社会党視察団は、過酷な状況で強制労働をさせられていた日本人抑留者から託された手紙を握りつぶし、帰国後、「とても良い環境で労働しており、食料も行き渡っている」と国会で嘘の説明を行った。抑留者帰国後、虚偽の発言であったことが発覚し、問題となる。

したたかな中国 台湾政策にいよいよ本腰か | 草莽の記 杉田謙一 - 楽天ブログ

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内なるシベリヤ抑留体験―石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史
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2019-07-19

河野外務大臣「極めて無礼」(ノーカット)








2019-07-16

クラッチの仕組みとは?



 そのシフトダウン時もクラッチを切ってギヤを下の段に入れ、そのままパッとクラッチをつなぐと回転差が生じガクッと大きなシフトショックが出てしまう……。そのシフトショックを軽減するために半クラッチを使う方法もあるが、できればシフトチェンジに合わせ軽くブリッピング(空ぶかし)をして回転数をシンクロさせてあげれば、半クラッチを使わずシフトショックのないシフトチェンジができるのでこれは鍛錬してもらいたい。

教習所で教わる半クラッチ! 無意味な多用は寿命を縮めるので要注意 – WEB CARTOP

MT車のクラッチ・ディスクを長くもたせる方法 シフトチェンジに伴うクラッチの繋ぎ方

自らのイデオロギーのためにはプロパガンダもいとわない新聞/『チベット大虐殺と朝日新聞 朝日新聞はチベット問題をいかに報道してきたか』岩田温


 ・自らのイデオロギーのためにはプロパガンダもいとわない新聞

・『悪の論理 地政学とは何か』倉前盛通
・『崩壊 朝日新聞』長谷川煕
『さらば群青 回想は逆光の中にあり』野村秋介
『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温

「朝日新聞」と言った場合、どんなイメージが思い浮かぶだろうか。
「インテリの新聞」、「高所得者が読む新聞」、「受験に出る新聞」、「リベラル色が強い新聞」といったイメージが一般的なのではないか。「自らのイデオロギーのためにはプロパガンダもいとわない新聞」、「利潤のためであれば、いくらでも節操を曲げる新聞」だと正確に理解している良識派は少ないはずである。
 北朝鮮のことを「地上の楽園」と呼び、カンボジアのポルポト派が大虐殺を行っているときに、ポルポトをして「アジア的優しさにあふれている」と書いた朝日新聞。それにもかかわらず朝日新聞のことを、今なお正しく認識している日本人は、残念ながらまだまだごく少数に留まっている。

【『チベット大虐殺と朝日新聞 朝日新聞はチベット問題をいかに報道してきたか』岩田温〈いわた・あつし〉(オークラ出版、2008年)以下同】

 イデオロギーは事実をも歪める。朝日新聞は社会主義国の大量虐殺には目をつぶり容認する。なぜなら正しい目的のためなら行き過ぎた手段は常に正当化されるからだ。志を同じくする同志の殺人を糾弾することのない彼らが一方では人権を主張するのだから片腹痛い。イデオロギーは自分たちの矛盾も見て見ぬふりをする。正しいイデオロギーに生きる者は何をしても許されるのだ。



 朝日新聞に次の川柳が掲載されたという。「五輪前 どうにも邪魔な 生き仏」(2008年3月20日の「朝日歌壇」に載った川柳)。

 チベット問題に関してはチベット側に一点の瑕疵(かし)もないことは明らかである。(中略)それゆえに論説や社説で堂々とダライ・ラマを批判できないから、奇策として、風刺と言いながら誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)を行う。

 日本人がチベット問題を知ったのは長野五輪(1998年)の時であった。「フリーチベット」(チベットに自由を)を叫ぶ人々に中国人が襲いかかったのだ。中国人の行動は明らかに組織立ったもので計画性さえ窺わせた。さすが暴力革命の国である。いかにも集団の暴発と見せかけながらきっちりと目的を果たした。日本の警察は上からの指示があったのか指をくわえてじっと見守った。

 チベット問題に関しては倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉著『悪の論理 地政学とは何か』(日本工業新聞社、1977年)の第5章を参照せよ。また朝日新聞の逃げ口上については野村秋介〈のむら・しゅうすけ〉の本が詳しい。

 岩田温〈いわた・あつし〉には小室直樹や倉前盛通の衣鉢(いはつ)を継ぐ論客になってもらいたい。

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2019-07-15

西薗良太選手の自転車トレーニング講座


 西薗良太〈にしぞの・りょうた〉は東大出身のプロレーサー。

・坂を登る。
・距離を乗る。1000km/月×3年。
・距離を乗っても伸びない段階がくる→トレーニングは時間で行う。
・二人以上で走る機会を増やす。
・トレーニング後→30分以内に糖質とタンパク質を摂取(少量でよい)→シャワー後、脚を高く上げる→少し寝る。




 1000km/月×3年=3.6万kmである。私がこの1年間で走った距離は2271kmだ(55日)。話にならない。1000km/月は単純計算すれば33km/日となる。日本の平均雨日数は47.6日らしい(Yahoo!知恵袋)。もちろん仕事もあるわけだから毎日自転車に乗ることは難しい。もしも毎日乗るとすれば雨用の自転車が必要となろう。そしてタイヤ交換のコストも嵩(かさ)む(3000~5000km/クリンチャータイヤの寿命はどれくらい? | サイクリングパーツ・ウェアーのワールドサイクル)。更には交通事故のリスクも高まる。とすれば本気で取り組むのならスピンバイクかローラー台が必要だ。スピンバイクに1時間乗れば、33km程度の距離と考えてよかろう。ところがどっこい私は30分しか乗れない(涙)。ま、2セットやればいいわけだが。石の上にも3年、サドルの上にも3年ということだ。

ヨーグルトおから/『からだの中からキレイにやせる おからレシピ100』浜内千波





 ヨーグルトおからを作ってみたのだが「カッテージチーズのようなさっぱりとした味わい」はない。そこでオリーブ油を加えてみた。

オリーブ油おから

 生おから 300g
 オリーブ油 50g
 黒こしょう 小さじ1

 1.生おからは、耐熱容器に入れてかるくラップをしてレンジで約3分間加熱する。
 2.1にオリーブ油と黒こしょうを加えて混ぜ合わせる。

【『からだの中からキレイにやせる おからレシピ100』浜内千波〈はまうち・ちなみ〉(東京書店、2014年)】

 それでもまだ味にインパクトがない。塩二つまみとマヨネーズも加えた。何とか「よかろう」という味になった。やはり調理には労力+αの効果が求められる。足し算ではなく掛け算となるところに調理の醍醐味があるのだ。

 ウイリアム・デイビス著『小麦は食べるな!』(日本文芸社、2013年)を読んでから小麦をできるだけ控えるようにしている。グルテンフリー・ダイエットが正しいかどうかはわからない。正しい判断は知識の量によって左右される。知識がなければ信じてしまうのが人の性質だ。マインドは知らず知らずのうちにコントロールされる。

 それでも無性にパンが食べたくなることがある。そこで血糖値を上げないための工夫をしてみようというのがおからヨーグルトを作った動機である。初めて乾燥おからを水で戻したのだが、これだけでも面白い体験であった。

 本書は基本となるおから――納豆おから、ひき肉おから、カレーおから、梅干しおから、味噌しょうがおから、はちみつおからなど――とそれを使ったレシピが収められている。ふりかけ4種も簡単に作れそうだ。

 おからはこってり感が足りないのでアボカドやゴマ油を加えてもいいと思う。

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 尚、温暖なこの時期はヨーグルトメーカーがなくても手作りヨーグルトを作ることができる。種菌はLG21やR-1でもOK。

カスピ海ヨーグルト作り40回目も美味しく完成☆次のヨーグルトができるって経済的! | 使って楽しいモノコト手帖
よくある質問 - ヨーグルトの作り方について | 手づくりヨーグルト
【7.5倍パルテノ】濃密ギリシャヨーグルト「パルテノ」を100均の手作りヨーグルト容器で増やして100均の薬味ケースで水切りヨーグルトにしてみた結果 | ロケットニュース24

カスピ海ヨーグルトの乳酸菌 ヨーグルトの願い 1g×5包
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2019-07-14

【怒れるスリーメン】加藤×髙橋×岩田温 岩田温参戦!! 偽善者の見破り方









偽善者の見破り方 リベラル・メディアの「おかしな議論」を斬る
岩田 温
イースト・プレス (2019-05-17)
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オートミール攻略法


「趣味は料理です」と言い切っておくぞ。私にとって本を読むのは仕事だ。

 中年となり健康に留意するようになると自ずと主食の問題に行き当たる。お米は確かに美味しい。だが炭水化物は糖尿病の原因でもある。私が初めて糖質制限を知ったのはもう15年ほど前のことだ。宮本輝と丸山健二が「ご飯を食べるのをやめた」と証言していた。当時は「フム、そんなもんか」と思っていたものの年を重ねるごとにご飯が美味しく感じられるのだから困ったものだ。

 手っ取り早い方法としては炊飯の際、小麦などの雑穀や大豆を混ぜるという手がある。乾燥ひじきも合う。

 国民的な二大疾病といえば2型糖尿病とアルツハイマー病である(違ったらゴメン)。そして驚くべきことに二つの病は生活習慣病であり同じ原因によって発症する。アルツハイマー病は「脳の糖尿病」とまで指摘されるようになった。糖尿病とは長い時間をかけて血管がボロボロになってゆく病気である。血糖値を上げないためには炭水化物を始めとする高GI値の食品を控えるのが手っ取り早い(PDF:GI値一覧表)。

 私は周期的にフルグラ中毒を発症することがある。そこでオートミールに注目した(シリアル大調査! グラノーラ、ミューズリー、オートミールって何が違う? - 価格.comマガジン)。


 しかしながら攻略法が難しい。美味といえるほどの領域に達する簡単レシピが見当たらない。で、最近までは味噌汁に投入していた。私の味噌汁は根菜に鮭のあらを入れる。で、丼3杯分ほど作るのだが、1杯目をよそった後で一握りか二握りのオートミールを加えればそのままで粥(かゆ)状態となる。

 今朝新たなレシピを開発した。オートミール+素煎り大豆+塩を電子レンジで3分間温める。


 戻した大豆や水煮あるいは冷凍むき枝豆でもいいかもしれない。


 そこに、かつおのふりかけを大量にかける。


 これは普通に食べられる。まったく普通のお粥だ。オートミールが場外乱闘していたのでラップをするのが正解か。豆乳や卵を使えばかなり贅沢な朝ごはんとなろう。豆腐を混ぜるのもよさそうだ。

 私は乾燥おからとホエイプロテインを1:1で混ぜたものを何にでもかけるのだがオートミールにも大変よく合う。

2019-07-13

雨の牧馬峠


牧馬峠に挨拶
牧馬峠(道志みち側)を制覇
地獄の牧馬峠(相模湖側)

 ・雨の牧馬峠

 土山峠~宮ヶ瀬湖~道志みち~県道76号~雨の牧馬峠。二度目だが苦しさは相変わらずだ。ほんの少しも楽になっていない。そもそも幾度となく登っている土山峠すら苦しいのだ。自動車の多い道路が厭(いや)なので国道412号から牧馬(まきめ)峠を登るのは避けた。で、少しばかり距離を伸ばして県道76号からアクセスすれば主要な登坂は行える。


【湯口沢橋から荒井沢を見下ろす】

 曇りの天気予報がまんまと外れた。小雨だったのでそのまま進む。


【道志ダムの下流側】


【道志ダムの上流側は霞(かす)んでいた】



【道志ダムの少し先にあった小さな滝】

 道志村(どうしむら)は山梨県だがここはギリギリ神奈川県である。


 素晴らしい県道だ。私の誕生日を記念して作られたのだろうか? きっとそうに違いない。県道76号は緩やかなアップダウンが続き、温厚で優しい私の性格を示しているかのようであった。藤野南小学校の丁字路を右折すれば牧馬峠に出る。ゴルフ場付近の道が少しわかりにくいが、とにかくどんどん左側に進めばよい。

 雨が強くなってきた。前輪の弾く水しぶきが顔に当たる。ペダルを強く踏みすぎると後輪がスリップする。そして既に見慣れた感のある真空コンクリートが現れた。「親の仇!」と声に出して輪っかを踏みつける。雨が煙(けぶ)る。ハンドルを握る手が時々滑る。ダンシングを休める唯一のカーブに差し掛かった時少し意識が薄れた。後ろから来たクルマが私を追い越した。そして停車した。クルマの脇にギフチョウの看板が見えた。親の仇は討(う)った。

 降りしきる雨が止むことはなかった。帰りも通ったことのない道を走った。今日の走行距離は91km。

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2019-07-10

レッドからグリーンへ/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男


『人類史のなかの定住革命』西田正規
『砂糖の世界史』川北稔
『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一

 ・動物文明と植物文明という世界史の構図
 ・黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった
 ・中東が砂漠になった理由
 ・レッドからグリーンへ

『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之

必読書リスト その四

石●「レッドからグリーンへ」というのが、最近の皮肉をこめたスローガンとなっているぐらいです。つまりマルキシズムの居城を失った思想家たちの一部が、環境に生きる道を見出したわけです。

【『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之〈いし・ひろゆき〉、安田喜憲〈やすだ・よしのり〉、湯浅赳男〈ゆあさ・たけお〉(洋泉社新書y、2001年/新版、2013年)】

 第二次世界大戦中におけるマルキストの浸透については以下の書評に書いた。

大衆運動という接点/『折伏 創価学会の思想と行動』鶴見俊輔、森秀人、柳田邦夫、しまねきよし

 ソビエトスパイの暗号解読文書「ヴェノナ」(Wikipedia/『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア)は公開されたものの歴史を修正するところにまでは至っていないのが現状だ。

 学生運動や安保闘争が高まる昭和30年代、左翼は公害病にもコミットしていた。石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉の言葉はあまりにも有名だ。「極端な言い方かもしれませんが、水俣を体験することによって、私たちがいままで知っていた宗教はすべて滅びたという感じを受けました」(水俣病事件と「もうひとつのこの世」:萩原修子)。

 左翼勢力は更に空港(三里塚闘争)やダム建設の反対運動にも関わる。

 公害問題は環境意識への芽生えではあったが、企業vs.被害者というレベルの意識に留(とど)まっていた。1962年(昭和37年)にレイチェル・カーソンの『沈黙の春』が、そして1972年(昭和47年)にドネラ・H・メドウズの『成長の限界 ローマ・クラブ「人類の危機」レポート』が刊行された。日本では1974年(昭和49年)から有吉佐和子が朝日新聞に『複合汚染』の連載を開始した。

 人々の概念が少しずつ変化する中でオゾン層破壊が明らかとなる(1974年)。1985年にオゾン層の保護のためのウィーン条約が採択され、日本も1988年に加わった。これが環境問題のハシリだろう。その後1990年代から家庭ゴミの分別が始まる(「環境問題の歴史」を参照した)。

 環境問題は左翼にとっては渡りに舟であった。「地球に優しい」という標語には誰一人逆らえない。「レッドからグリーンへ」運動表現を変えた赤組はその後、人権~性差解消~ポリティカル・コレクトネスと看板を掛け替える。

 この間、進歩的文化人は良心的勢力・リベラルと仮面を付け替えた(進歩的文化人については谷沢永一著『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』が詳しい)。



金儲けのための策略/『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司

中東が砂漠になった理由/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男


『人類史のなかの定住革命』西田正規
『砂糖の世界史』川北稔
『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一

 ・動物文明と植物文明という世界史の構図
 ・黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった
 ・中東が砂漠になった理由
 ・レッドからグリーンへ

『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之

必読書リスト その四

石●結局イスラムは、ブタを捨ててヤギとヒツジに頼ったわけです。ヤギとヒツジは、ある意味でいちばん自然を破壊する家畜ですよ。イスラム文化の支配したところが砂漠化していったのは理解できます。アラビア半島から始まってインド亜大陸、中央アジア、北アフリカ、スペイン南部まで、イスラムの支配した地域はほとんど砂漠です。ヤギとヒツジのせいだといってもいい。

湯浅●根まで食べちゃうわけですからね。

安田●インドがなぜ肉食をやめたのかということは、いずれにしても21世紀の大きなテーマになる。いずれ人類はそんなに肉を食えない時代を迎えるはずです。インドの紀元前5世紀における肉食の放棄は、結局、放棄するしかなかったということかもしれません。

【『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之〈いし・ひろゆき〉、安田喜憲〈やすだ・よしのり〉、湯浅赳男〈ゆあさ・たけお〉(洋泉社新書y、2001年)/新版、2013年)以下同】

 するってえとヤギとヒツジこそは一神教の父というわけだな。ユダヤ教からキリスト教が生まれ、キリスト教からイスラム教が生まれた。この三つを総称してアブラハムの宗教という。

 一神教は砂漠の宗教(『離散するユダヤ人 イスラエルへの旅から』小岸昭)で、多神教は森の宗教と考えられている。砂漠に存在するのは砂と風だけだ。呆気(あっけ)なく死んでしまうことも多かったことだろう。人々は救いを求めて天を仰ぐ。これが「信仰」の謂(いわ)れだ(東洋は信心)。

「砂漠では、心を動かされる何もないので、人の思考は自然に天に向かう。そして唯一の神を崇拝する宗教が誕生したわけだ」(長谷川良、2015年)。

「砂漠の中では砂か風しかない。そういうものでは人間の無力さを克服できない。だからこそ、もう「絶対的なもの」を求めないと、砂漠風土ではやっていけないと。こうなると、もう強大な力を持った一つの神様しか選択できない。こういう心理状況が働いたと考えたほうが理解し易いんじゃないでしょうか。だから砂漠の神が一神教。自然の豊かなものがあるところでは多神教が普通になる。そんな風土が生み出したものでもあるんです」(安岡譽)。

 新約聖書ではイエスを「善き羊飼い」に、そして信徒を「迷える羊」に喩(たと)える。ま、どっちにしてもあんたたちは中東を砂漠化したわけだよ。

 彼らが希(こいねが)った天国は水が豊富で滴り落ちるような緑に溢れていたことだろう。そう。我々にとっては見慣れた風景だ。砂漠と比べれば日本はまさに天国といってよい。

 奴隷は家畜文化から生まれた。日本に奴隷制度はなかった(『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平)。現代においても先進国が発展途上国の資源を搾取し、労働や兵役を国民に押しつける形でソフトな奴隷制は温存されている。

2019-07-09

馬渡大坂~半原越


 馬渡大坂(まわたりおおさか)から半原越(はんばらごえ)にアタック。本当は牧馬峠(まきめとうげ)までも行くつもりだったのだが思った以上にきつくて帰ってきた。行きは愛川の水道みち地図)から。


 急斜面を駆け下りると里山に囲まれた田んぼが広がる。長閑(のどか)で心休まる場所だ。

 馬渡大坂は大したことがなかった。ところが半原越まで行くとなると話が変わる。最初はナメてかかっていた。「半原越よ、スピンバイクで鍛えた私の足元にひざまずくがいい」くらいに思ってたんだよね。56歳になった私の前に半原越は傲然と立ち塞がった。


【半原越入口付近で】

 牧馬峠(相模湖側)に次ぐ苦しさであった。ペダルを踏みながら神仏に罰せられているような気分になってくる。ま、私としては70~80代で行うはずのリハビリを先んじて行っている自覚があるから苦しいのは望むところだ。

 空気が湿っぽくなってきたので帰ることに。途中で前々から気になっていた道を確認する。Googleマップには載っていない(「Googleマップが劣化した」不満の声が相次ぐ ゼンリンとの契約解除で日本地図データを自社製に変更か - ITmedia NEWS)のだが航空写真だとはっきりわかる。ズザ沢湧水の脇にある道だ。


 ゲートの向こうの林道は舗装されていなかった。



 いつものようにJA県央愛川荒茶工場前を滑るように走り抜ける。時速57kmだ。そのまま来た道を戻る。スピンバイクの効果は平地でわかった。驚くほど足が回る。登坂で発揮できないのはどうしたことか? 筋力ではなく心肺能力の問題なのだろうか?

 今月でロードバイクに乗り始めてからちょうど1年を迎える。ヤビツ峠に挑む前にもう少しトレーニングが必要だ。

 日野晃の本を読んで思ったのだが、「背中を丸める」とか「肩甲骨を開く」というのは「胸骨を下げる」意識にすると、かなり楽になる。

2019-07-08

黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男


『人類史のなかの定住革命』西田正規
『砂糖の世界史』川北稔
『砂の文明・石の文明・泥の文明』松本健一

 ・動物文明と植物文明という世界史の構図
 ・黒船ペリーが開国を迫ったのは捕鯨船の補給地を確保するためだった
 ・中東が砂漠になった理由
 ・レッドからグリーンへ

『文化がヒトを進化させた 人類の繁栄と〈文化-遺伝子革命〉』ジョセフ・ヘンリック
『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
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『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
『石田英一郎対談集 文化とヒューマニズム』石田英一郎
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之

必読書リスト その四

石●石炭ガスが登場する以前、大都市の街頭の燃料にクジラの油を使っていて、1740年代のロンドンでは5000もの街灯が鯨油でともされていたそうです。これでは、いくら捕鯨をやっても足りないですよ。欧米で捕鯨の圧力が少し下がるのは、19世紀に入って石炭ガスが普及してきてからです。

(中略)

石●アメリカの捕鯨産業は1650年頃東海岸で始まり、1700年頃にはそこも捕り尽くして北極海に出ていく。それも、湯浅さんがいわれたとおり、1830年頃には資源は枯渇して太平洋に進出を余儀なくされる。19世紀半ばには、もう太平洋の東ではクジラが壊滅し、さらに西へ西へと進出したわけです。しかし、捕鯨船への燃料や水の補給ができなくなり、そこで強面のペリー提督を日本に送り込んで、捕鯨船への補給のために開国の圧力をかけることになる。

【『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之〈いし・ひろゆき〉、安田喜憲〈やすだ・よしのり〉、湯浅赳男〈ゆあさ・たけお〉(洋泉社新書y、2001年)/新版、2013年

 しかも欧米人は鯨肉を食さなかった。油を絞った後は巨大な遺骸を捨てていたのだ。黒船来航は1853年(嘉永6年)。それから100年余りを経て、今度は日本の捕鯨が欧米から問題視される(『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人)。

 誰が何を食べようと文句を言われる筋合いはないはずだが、白人は「知性の高い動物を食べるべきではない」と宣(のたま)う。同じ人間であるはずの黒人や黄色人を散々差別してきた白人の動物に対する憐憫(れんびん)の情はどこか歪んだものを感じさせる。

 要は「ルールを決めるのは俺たちだ」と言いたいのだろう。もちろんその裏側には「お前らは黙ってルールに従えばよい」という人種差別感情がべったりと貼り付いている。

 日米和親条約(1854年)を始めとする不平等条約は「黒船レジーム」といってよい。これを解消するために日本は日清戦争日露戦争を戦い、やっとの思いで半世紀後の1911年に関税自主権を回復した。国際社会で対等な国家として認められるのに我々の父祖がどれほどの苦労をしてきたことか。

 鯨のために開国を強いられ、開国すると鯨のために弾劾される。日本にとっては忌まわしい動物と言えなくもない。

近未来の車輪とタイヤとロボット・ドローン






2019-07-07

黒船を歌う江戸時代の人々/『幕末外交と開国』加藤祐三


『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新
『逝きし世の面影』渡辺京二

 ・黒船を歌う江戸時代の人々

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 黒船来航、そのニュースはまたたく間に国内を駆け巡った。公文書、浮世絵、狂歌・狂句、瓦版(ミニ新聞)、手紙、日記、そして口コミ。
◎泰平の眠りをさます上喜撰(じょうきせん) たつた四はいで夜も眠れず
  煎茶の銘柄に「上喜撰」があった。「蒸気船」と同音である。煎茶を四杯も飲めば目が冴えて眠れない。四隻(四杯)の蒸気船では「夜も眠れず」。作成年代は不明、後の明治期とする説もある。似た歌に「アメリカを茶菓子に呑んだ蒸気船 たつた四杯で夜もねられず」があり、アメリカに飴をかけている。
◎井戸の水あつてよく出る蒸気船 茶の挨拶で帰るアメリカ
  井戸とは、2名置かれた浦賀奉行の一人(江戸城詰め)の井戸石見守(いわみのかみ)との語呂合わせである。水質が合って程よく出た上喜撰を飲んで、茶飲み程度の軽い挨拶で帰帆。確かに、ペリーの第1回滞在は、わずか10日間である。
◎アメリカが来ても 日本はつつがなし
  筒(大砲)がないことと、恙無い(無事)を掛けている。
◎日本へ向ひてペロリと下をだし
  ペリーの名はオランダ語風にペルリ、ヘロリなどとも書かれている。ペロリ、あかんべ~か。
◎馬具武具屋 渡人さまとそつといひ
  泰平の時代がつづき、馬具や武具を扱う商売はさびれていたが、黒船来航でいいよいよ天下大乱か。商売繁盛、だが大声では言えない。
◎兵糧の手当に米の値があがり 武家のひそかに黒船さま
  武士の俸給は米である。まずは食用にしたが、残りは売って現金に換えた。兵糧手当に米の値上り。ありがたや。
◎永き御世(みよ)なまくら武士の今めざめ アメリカ船の水戸のよきかな
  水戸とは警世家で対外強硬派ともいわれた御三家(ごさんけ)の水戸(茨城県)の徳川斉昭(なりあき)をさす。目の前の黒船が、長い平和ですっかりなまくらになった武士の覚醒剤となった。水戸殿は溜飲を下げる。
 内容からみて、これらの歌は、10日間で終わった第1回ペリー来航の時に詠まれたものであろう。安堵した気配や、揶揄や好奇心が強く出ている。艦砲射撃で街が焼かれた、武士達が艦隊に切り込んだなど、緊迫した様子のものは一つもない。これがほかならぬ現実であった。

【『幕末外交と開国』加藤祐三〈かとう・ゆうぞう〉(ちくま新書、2004年/講談社学術文庫、2012年)】

 言葉のセンスがツイッターとは桁違いである。その圧縮された情報の濃度は流行歌をも軽々と凌(しの)ぐ。更には遊びの精神が横溢(おういつ)しながらも単なる駄洒落に堕していない。

 俳句の俳という字は「おどけ、たわむれ」を表し(俳 | 漢字一字 | 漢字ペディア)、俳句の源流である「『俳諧』には、『滑稽』『戯れ』『機知』『諧謔(かいぎゃく)』等の意味が含まれる」(俳諧 - Wikipedia)。ユーモアとは現実を突き放して見つめて悲しみや苦しみをも笑い飛ばす精神である。四季を愛(め)でる美意識や、もののあはれもさることながら、日本人のユニークさは「現実を面白がる心持ち」にあるような気がする。

泰平のねむりをさますじようきせん たつた四はいで夜るも寝られず/『予告されていたペリー来航と幕末情報戦争』岩下哲典

 この手の話が好きなので紹介したが、本書は――検索しながら別の本に辿り着き、更に検索してはまた別の本を辿ってしまう悪循環が2時間以上続く。その後数本の動画を見て、結局寝てしまう――黒船来航後、仁王立ちとなって安政の改革を断行した阿部正弘〈あべ・まさひろ〉と、ペリーとの交渉役を命ぜられた林大学頭〈はやし・だいがくのかみ/林復斎〉による外交の歴史が詳述されている。

 戦前を「未発達の黒い歴史」と捉えるのが左翼の進歩史観であるが、史実を知ればマシュー・ペリー同様、江戸時代の日本人を見直さざるを得ない。

 明治維新の立役者は下級武士であったが身分という枠組みで見るのは片手落ちだ。維新~開国を成し遂げたのは知識人たちであった。豊臣秀吉はヨーロッパ人がアジア諸国を侵略し植民地化していることを知っていた(『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新)。そして幕末の知識人は阿片戦争で清国がイギリスに敗れた事実を把握していた。

 黒船を歌う江戸時代の人々は実に呑気(のんき)であった。彼らの精神は江戸時代に埋没したまま日本の激動を予期し得なかった。阿部正弘が成し遂げた改革や人事を思えば、彼こそが明治維新という舞台の土台をつくったといっても過言ではないだろう。それまで発言権のなかった外様大名の声を聞き、島津斉彬〈しまづ・なりあきら〉などを幕政に参加させた。また、勝海舟を登用したのも正弘であった。

 軍事力では圧倒的に劣る日本が外交交渉を通して新しい国家の形を模索する。林大学頭のタフネゴシエーター振りも際立っている。その胆力・見識・知謀は現在の大臣級では足元にも及ばないだろう。

 こうして日本は鎖国という平衡系世界から開国という非平衡系世界へ船出する。

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2019-07-06

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2019-07-04

潮目


 有本香vs.橋下徹の論争に百田尚樹足立康史が参戦して、案の定足立が炎上させて終了しつつある。

 かつて見えなかった戦後史の真相が輪郭をくっきりと現し、長い影まで見晴かすことができるようになった現在、この論争は新しい歴史教科書をつくる会の内紛以上に大きな影響を及ぼす可能性がある。twitter上での些細な混乱が示したのは、国際社会の反応を恐れる古い政治家と祖国に誇りを抱こうとする国民の間に越え難い確執があることだった。

 4月に行われた大阪W選挙で日本維新の会は圧勝した。その驕(おご)りがあったとすれば維新は所詮ローカル政党の域を出ることはない。DHCテレビ文化人放送局は二大ネット保守放送局であるが、これまで手を携えて安倍政権と維新を支持し続けてきた。そこに亀裂が入ったわけだから保守は統合から分裂へ向かい、憲法改正にブレーキが掛かることとなろう。

 橋下徹に関してはメディアとの対決姿勢を国民に広く知らしめた一点を私は評価している。ただしその礼儀知らず振りは様々な波紋を広げ、大阪維新の会と旧太陽の党が合流する際に露見した(平沼赳夫「次世代の党」党首が傲岸不遜な橋下徹・大阪市長の非礼を告発)。今となっては平沼赳夫〈ひらぬま・たけお〉の見方が正しかったように思える(「日本維新の会」と「石原新党」―なぜ橋下徹は平沼赳夫を排除するのか)。


 橋下と足立の言動には拭い難いエリート意識がにじみ出て腐臭を放っている。まるで「お前ら国民に政治家の苦労がわかってたまるか」と言うような姿勢が透けて見える。彼らの態度は逆圧迫面接と名づけるのが相応しい。小選挙区で落選して比例復活を遂げた足立はもっと自重して然るべきだろう。

 小さな論争が意外と大きな潮目になるかもしれない。政界再編のためには分裂が必要だ。