2020-07-23

新型コロナ:感染者数は増加しているが日米で死者数が激減



島原の乱を題材にした小説


 松原久子〈まつばら・ひさこ〉著『黒い十字架』(藤原書店、2008年)読了。島原の乱前夜を描いた小説である。セオリーとしては『沈黙』と比較するのが筋なのだろうが、私としては『みじかい命』を推す。松原久子は竹山道雄の衣鉢(いはつ)を継ぐ人物だと考えているからだ。島原の乱は鎖国のきっかけとなった事件であった。鎖国を実現し得たのは日本がヨーロッパに対抗できる軍事力を有していたからだ。「発見の時代」(Age of Discovery/大航海時代)にあって有色人種地域はほぼ全てがヨーロッパの支配下となった。豊臣秀吉のキリスト教弾圧も先見的な政策判断であった。以下に島原の乱関連書籍をまとめた。

・『クアトロ・ラガッツィ 天正少年使節と世界帝国』若桑みどり
・『マルガリータ』村木嵐

・『沈黙』遠藤周作
・『島原の乱』菊池寛
・『幻日』市川森一
・『奇蹟 風聞・天草四郎』立松和平
・『完本 春の城』石牟礼道子

『黄金旅風』飯嶋和一
・『出星前夜』飯嶋和一

・『街道をゆく17 島原・天草の諸道』司馬遼太郎
『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文
『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新

『みじかい命』竹山道雄

2020-07-20

体と思考/『体の知性を取り戻す』尹雄大


 ・体と思考

『響きあう脳と身体』甲野善紀、茂木健一郎
『武術と医術 人を活かすメソッド』甲野善紀、小池弘人
『身体構造力 日本人のからだと思考の関係論』伊東義晃

身体革命

 体よりも思考が重視されている世の中では、現実と出会うのはなかなか難しい。私たちが「これが現実だ」と言うとき、他人とのあいだで共通認識が取り結べ、必ず頭が理解できる程度のものになっているからだ。いわば【頭の理解に基づく社会的な現実】と言っていい。それは【体にとっての現実】とは違う。
 体の現実とはつかの間、感覚的にのみ垣間見えるものかもしれない。たとえば火にかけた薬缶(やかん)に触れてパッと手を離すとき、のんびりと「熱い」などと認識していないはずだ。手を離す行為と感覚が現実の出来事にぴたりと合っていて、そこに「熱い」という判断の入る余地はない。
 それでも私たちは「熱いと感じて、思わず手を離した」と自分や他人に向けて言う。それは常に後から振り返った説明なのだ。「感じた」と言葉で言ってしまえるのは、リアルタイムではなく、認識された過去の出来事にすぎない。というのは、現実は「~してから~した」といった悠長な認識の流れで進んではいないからだ。「間髪を入れず」というように、髪の毛ほどの隙間もないのが現実だ。
 つまり私たちにとっての現実は、常に言葉にならない感覚の移ろいでしかない。わずかにその変化を掴むことで、現実の一端を知ることができる。

【『体の知性を取り戻す』尹雄大〈ユン・ウンデ〉(講談社現代新書、2014年)】

 入力しながら気になったのだが一般的には「手放す」と書くので「手を離す」は誤字かと思いきや、そうではなかった(「離す」と「放す」 - 違いがわかる事典)。

 尹雄大〈ユン・ウンデ〉はスポーツ選手のインタビュアーを生業(なりわい)としているが、格闘技や武術を嗜(たしな)んでいるので思考の足がしっかりと地についている。全体的には社会に対する違和感を体の緊張として捉え、哲学的に読み解こうとしている。

「頭の理解に基づく社会的な現実」や「認識された過去の出来事」といった表現に蒙(もう)を啓(ひら)かれる思いがする。脳は妄想装置である。その最たるものが政治や軍事におけるリアリズムであろう。民意や国際合意の捉え方次第でクルクル動く現実だ。認識が過去であるならば唯識は現在性を見失っていることになる。識とは受信機能である。しかも知覚は常に遅れを伴う(『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ)。

 悩みは過去であり、希望は未来である。どちらも現在性を見失った姿だ。人は過ぎ去った過去と未だ来ない未来を想像し苦楽を味わう。存在しないものを信じるという点では一神教の神とよく似ている。信ずる者は掬(すく)われる。足元を。

 おしなべて思考のトレースがわかりやすい言葉で書かれていて着眼点も鋭い。必読書に入れようと思ったのだが「あとがき」に余計な一言があったのでやめた。

近代日本の進路を決定する視察/『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武


 ・近代日本の進路を決定する視察

日本の近代史を学ぶ

 本書は岩倉(いわくら)使節団の公式記録『特命全権大使 米欧回覧実記』の抜粋現代語訳と註釈です。
 岩倉使節団とは特命全権大使・岩倉具視(ともみ/右大臣)を団長、木戸孝允(きどたかよし/参議〈さんぎ〉)、大久保利通(おおくぼとしみち/大蔵卿〈おおくらきょう〉)、伊藤博文(工部大輔〈こうぶいたいふ〉)、山口尚芳(やまぐちなおよし/外務小輔)を副使として、以下、書記官、理事官、随行員(新島襄〈にいじまじょう〉など)、さらには留学生(津田梅子〈つだうめこ〉、山川捨松〈やまかわすてまつ〉、中江兆民〈なかえちょうみん〉など)を含め総勢107名からなる一行が明治4年から6年にかけて1年半余りの長期にわたりアメリカおよび欧州諸国を歴訪、外交交渉と各国事情視察にあたったものです。

【『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武編著:大久保喬樹訳註(角川ソフィア文庫、2018年/岩波文庫全5巻、1977-82年/水澤周訳注、慶應義塾大学出版会、2005年)】

「前書き」の冒頭より。『特命全権大使 米欧回覧実記』は、岩倉使節団の使節紀行纂輯(さんしゅう)専務心得(資料収集、記録係)を命じられた久米邦武〈くめ・くにたけ〉が明治11年に全100巻として完成したもの。各巻はそれぞれ400ページ近くある。


 検索して知ったのだが津田梅子は満年齢だと8歳である。また山川捨松は会津藩家老の娘だが、会津戦争(1968年)からわずか3年後に留学生として選ばれている。誰がどのような基準で選んだのかが不明だが、幼い留学生たちは後に大輪の花を咲かせる。

 岩倉使節団は新生日本国の耳目となり米欧を見聞した。薩英戦争(1863年)と下関戦争(1863、1864年)を経て既に薩長では攘夷の概念は粉砕され開国を志向していた。維新の立役者であった岩倉・木戸・大久保の三人が長期間外遊すること自体が常識外れで思考の柔軟性を示している。

 使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪 。以後は洋装に改めた。

Wikipedia

 世界の風に吹かれる中で古い思い込みから脱却してゆく様子が窺える。結果的に不平等条約改正の予備交渉は少しも上手くゆかなかったが、近代日本の進路を決定する視察となった。使節団の帰国後、西郷隆盛の征韓論は斥(しりぞ)けられ西南戦争に至るのである。更に欧州のバックボーン(背骨)がキリスト教であることを見抜き、後の憲法制定では伊藤博文が天皇に置き換えることで憲法に息を吹き込んだ(『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹)。


【※右は岩波文庫版5冊セット】

明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

2020-07-18

読み始める

血のにじむような苦労をした蘭方医の功績/『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝


『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『人類史のなかの定住革命』西田正規

 ・血のにじむような苦労をした蘭方医の功績

『続・人類と感染症の歴史 新たな恐怖に備える』加藤茂孝
『感染症の世界史』石弘之
『感染症の時代 エイズ、O157、結核から麻薬まで』井上栄
『飛行機に乗ってくる病原体 空港検疫官の見た感染症の現実』響堂新
『感染症と文明 共生への道』山本太郎
『感染症クライシス』洋泉社MOOK
『ワクチン神話捏造の歴史 医療と政治の権威が創った幻想の崩壊』ロマン・ビストリアニク、スザンヌ・ハンフリーズ
『病が語る日本史』酒井シヅ
『反穀物の人類史 国家誕生のディープヒストリー』ジェームズ・C・スコット

必読書リスト その四

 しかし、鎖国時代、封建制の束縛下、船しか交通手段のない時代にあって肝心の痘苗(とうびょう)が、手に入らない。痘苗は、現代風にいえば天然痘用の予防ワクチンのことである。痘苗を接種することを種痘と言うが、「苗」と言い、「種」と言い、植物学用語が使われている所が面白い。冷蔵庫・冷凍庫のない当時にあっては、種痘によってできた痘内の液体(痘漿)やかさぶたを次から次へと人間に植え継いで伝えて行くしか保存方法が無かった。つまり、人間の体内で増殖保存し、かさぶたなどで移送していたのである。しかも、それは、長崎であればはるかオランダから船でもたらされる。もちろん実際には、直接オランダからではなく、人から人へ植え継がれながらはるばる日本までたどり着いた。実際に長崎の通詞や医官たちは、痘苗入手の依頼を何度も出島のオランダ商館医にしているが、熱帯を通ってくるオランダ船内でウイルスは死滅してなかなかそれが果たせなかった。しかし、バタビヤ(今のインドネシアのジャカルタ)から来た船によって、ついに何とかまだ生きている痘苗が手に入った。これがモーニケによって公式にもたらされたわが国最初の痘苗である(1849年)。(中略)
 このように西洋医の熱意とネットワークができ上がって来た折に、待ちに待った痘苗がもたらされたので、その全国普及は早かった。多くの蘭方医が血のにじむような苦労をして、この普及に貢献している。楢林宗建(1802~1852年、佐賀藩医、シーボルトの弟子、モーニケのもたらしたかさぶたを3人に接種して、その一人のわが子にのみ発痘し、そこから痘苗が全国へ伝播されて行った。わが国最初の種痘成功例である)、日野鼎哉(ていさい/1797~1850年、楢林宗建から分苗を受けて、京都で除痘館を開いた)、笠原良策(1809~1880年、日野鼎哉から分苗を受けて、痘苗を受け継ぐべき子供達をつれて雪の山越えをして福井に運び除痘館を開いた)、桑田立斎(りゅうさい/1811~1868年、江戸で種痘。6万人に種痘を実施。蝦夷地において6400人のアイヌへの種痘接種を行う)。(句点ママ)長与俊達(しゅんたつ/1791~1855ねん、長崎大村藩で古田山に人痘種痘所を開く。牛痘入手後は、1850年一早く牛痘接種に切り替えた。公認種痘では1番早い)などである。
 中でも、普及を担った中心人物は大阪(当時は大坂)で適塾(てきじゅく)を開いていた緒方洪庵(1810~1863年)である。実施当初は、種痘をすれば牛になるという風評被害で苦しんだが、効果が幕府から認められて、やがて江戸に出て1862年西洋医学所所(ママ)の頭取となった。惜しいことに洪庵は、翌1863年病を得て急逝する。

【『人類と感染症の歴史 未知なる恐怖を超えて』加藤茂孝〈かとう・しげたか〉(丸善出版、2013年)】

 注目すべきはアイヌへの種痘である。「1857(安政4)年には、蝦夷地開発政策の一環としてアイヌに牛痘接種する幕命により、函館から国後まで6400名余りのアイヌ人に種痘を実施した」(諸澄邦彦〈もろずみ・くにひこ〉)。異民族として差別するような真似はしなかったという歴史的事実は重い。


 後に適塾(てきじゅく)は大阪大学となり、西洋医学所は東大医学部となる。洪庵の門下生であった福澤諭吉は慶応大学を創立した。適塾の門下生は18年間で636名に及んだ(Wikipedia)。松下村塾といい、小さな私塾から近代に向かう日本を支えた人材を多数輩出したことは日本の教育史に燦然と輝く偉大な事績である。現代の大学に松蔭や洪庵のありやなしやを問いたくなる。

 それにしても痘苗(とうびょう)がかさぶたを通して人から人へ移されるというのは驚きである。文字通り人柱といってよい。私が子供の時分はまだ種痘を行っていた。当時は天然痘を疱瘡(ほうそう)と呼んでいた。左肩に2ヶ所やれらたのだが痒(かゆ)くてかさぶたを剥いた覚えがある。痕跡は今でもくっきりと残っている。

 まだ読んでいる最中だが文章が素晴らしく、その博識に驚かされる。普段は横書きというだけで本を閉じてしまうことが多いが、本書は読まずにはいられない。

2020-07-17

わかりやすい入門書/『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生


 ・わかりやすい入門書

・『現代人のための瞑想法 役立つ初期仏教法話4』アルボムッレ・スマナサーラ
・『自分を変える気づきの瞑想法【第3版】』アルボムッレ・スマナサーラ
『ゴエンカ氏のヴィパッサナー瞑想入門 豊かな人生の技法』ウィリアム・ハート
『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ
『「瞑想」から「明想」へ 真実の自分を発見する旅の終わり』山本清次

 マインドフルネスとは、今という瞬間につねに注意を向け、自分が感じている感覚や感情、思考を冷静に観察している心の状態のこと。
 つまり、【「今、ここ」に100%心を向ける在り方】のことです。元々はパーリ語の「サティ」という言葉の英訳で、日本語では「気づき」、漢語では「念」と訳されています。「自覚」「集中」「覚醒」とも言い換えられます。

【『マインドフルネス瞑想入門 1日10分で自分を浄化する方法』吉田昌生〈よしだ・まさお〉(WAVE出版、2015年)以下同】

 ヴィパッサナー瞑想は静かにアメリカで広まっている。健康本で紹介されることも珍しくない。プラグマティズムの伝統が脈打っているのだろう。一方、鈴木大拙〈すずき・だいせつ〉によって日本の禅は世界で知られるようになったが、我が国で瞑想の潮流が深まることはなかった。かつて武士が禅に打ち込んでいた歴史を思えば武士道の衰退とも関係があるように思う。

 サティは八正道正念である。これが戒・定・慧の三学だと(じょう)=サマディ(三昧)となる。現在では三昧(ざんまい)と変化して残るが、無我夢中で没頭している様子を表す(贅沢三昧、読書三昧など)。

 吉田は「集中」を挙げているがこれは誤りで「注意」が正しい。集中と注意は異なる。一点に集中すれば周辺は見えなくなる。集中は眼、注意は耳と皮膚というのが私の持論だ。瞑想の観察は眼で行う性質ではない。仏像の半眼がそれを示している。眼は自己の内側を見ることができない。

 頭のなかの思考の世界に巻き込まれて、それに気づいていない状態です。そんな状態のことを「マインドレスネス」と言います。(中略)
 このように、「今、ここ」の現実とのつながりが失われ、なおかつそのことに気づいてもいない状態のことを「マインドレスネス」と言うのです。

 フルネス(fullness)は「満ちている状態」で、レスネス(lessness)は「より少ない状態」である。コマが回っている状態がフルネスである。フル回転しながら止まっているのが瞑想だ。その意味では自転車に乗る行為も瞑想と似ている。

 お釈迦様が仏教をつくったのは今から2500年前のインド。一方、世界初のペダル式自転車が登場したのは、150年ほど前のフランス。だから(あたりまえだが)お釈迦様は自転車を知らなかった。しかしもし、お釈迦様が自転車に乗ったなら、必ず「瞑想修行と自転車は似ている」と言ったに違いない。

【『日々是修行 現代人のための仏教100話』佐々木閑〈ささき・しずか〉(ちくま新書、2009年)】

 具体的な瞑想の方法が書かれていて、わかりやすい入門書となっている。クリシュナムルティは方法を否定したが、我々凡夫は何らかの手掛かりがなければ瞑想の入り口に立つことも不可能だ。例えば無実の罪で獄につながれた時、怪我や病気で体の自由を失った時、災害や戦争に巻き込まれた時など、絶体絶命という場面を想像すれば平時に瞑想を行うことは生きるための備えといってよい。

2020-07-16

麺つゆを作る


 なんとくなく麺つゆを作ってみる気になった。コストや添加物云々ではなく単純に既製品との違いを知りたかった。麺つゆに一手間かけて美味しくする方法を調べていたところ、以下のページを見つけた。

No.2ベストアンサー

回答者: mocachama 回答日時:2004/12/23 23:38

 市販のめんつゆにひと手間加えるくらいでしたら、濃縮めんつゆを御自分で作ってみてはいかがですか?とっても簡単ですよ。水を1滴も使っていないので、何ヶ月でも持ちますし、化学調味料も使っていないのでヘルシーですよ。

 作り方です、

材料(2L分)
 サバ荒削りだし 150~200G
 醤油1L
 みりん1L
 砂糖大さじ1~2(甘いのが苦手ならなしでOK)

 やかんに、材料すべてを入れ、一晩置きます。弱火で火に掛け、沸騰したら火をとめ、完全に冷まします。しょうゆとミリンのペットボトルにじょうご(100円ショップで売ってます)を差して、その上に茶漉しをのせて、めんつゆを注ぎます。

 市販の濃縮めんつゆ同様、薄めて、そうめんやてんぷらのつけ汁にしたり、いろんな煮物に使ったり、本当に重宝しますよ。作ってすぐに使うより、一ヶ月くらい置くと、味がまろやかになります。(うちはどんどんなくなるので間に合わなくていつもすぐになっちゃうんですが。)

 うちはなるべく安く作るため、醤油は100円ショップで1L100円で。サバだしは業務スーパー(そう言う名前のチェーン店です)で1キロ980円で。みりんはみりん風をジャスコなどで1Lを198円で買っていますので、1Lあたり、230円くらいで作っています。こんな材料でも、市販の安い、アミノ酸(グルタミン酸ナトリウム)入りのめんつゆとは比べ物にならないほどおいしいですよ。贅沢にだしを多めにして作ると(200G)、本当に、おそば屋さんのおつゆみたいです。

市販のめんつゆをおいしくする裏技 -料理に大変重宝するめん汁ですが市- 食べ物・食材 | 教えて!goo

 そして次のページで「業務スーパー」の文字を見た時私の心は決まった。

業務スーパーの業務用削り節とアゴだしの素を使って究極のそば・うどん出汁を作る! | 人はネット収入だけで生活できるのか?能なしアラフィフおっさんの無職日記

 秤(はかり/クッキングスケール)を持っていないので分量は適当だ。削り節の量を125gとして、あご出汁をスプーン1杯、更にみりんが1Lなかったので400ccの水を加えた。あと中々使う機会が訪れない干し椎茸も少量(うちのめんつゆ♫~ほぼ “3倍濃縮” by meg115)。

 作業はつい先程終えた。逸(はや)る心を抑えて明日を待つ。こういうのは観葉植物と似ていて「育てる楽しみ」がある。最大の調味料は時間なのだ。

2020-07-15

少年時代の出会いが人生を大きく変える/『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司


『将棋の子』大崎善生

 ・少年時代の出会いが人生を大きく変える

『傑作将棋アンソロジー 棋士という人生』大崎善生編
『決断力』羽生善治
『真剣師 小池重明 “新宿の殺し屋"と呼ばれた将棋ギャンブラーの生涯』団鬼六

 試験将棋第一局から1週間ほどがたったある夜。
 会社から帰宅した僕はいつものように、その日に届いた郵便物を母から受け取って自室に入った。いつものように、名前も知らない人からの手紙ばかりに見えた。
 ところが、そのなかに一通、不思議な葉書があった。ドラえもんの絵が大きく印刷された葉書だった。その子どもっぽさに違和感(いわかん)があった。
 誰だろう?
 僕は子どもの頃、ドラえもんが好きだった。そのことを知っている人だろうか。ネクタイをゆるめながら葉書を裏返し、差出人の名を見る。
 あっ。
 葉書をもう一度ひっくり返し、ドラえもんの絵の上に書かれた文字を追う。
「だいじょうぶ。きっとよい道が拓(ひら)かれます」
 いままで心の中で押し殺していたものが、堰(せき)を切ったようにこみ上げてくるものを感じた。嗚咽(おえつ)でのどが震(ふる)え、文面が涙(なみだ)で見えなくなる。それをぬぐっては何度も読み返す。そのたびにまた、新しい涙があふれてくる。
 そうだった。すべては、この人のおかげだった。
 何に対しても自信が持てなかった僕が、自分の意志で歩けるようになったのも、ここまでいろいろなことがあったけれどなんとか生きてきて、いま夢のような大きな舞台(ぶたい)に立つことができたのも。
 もとはといえば、すべてこの人のおかげだった。
 この人に教えられたことを、僕はすっかり忘れていた。いつのまにか僕は、僕でなくなっていた。僕は、僕に戻(もど)ろう。僕は、僕でいいのだから。

【『泣き虫しょったんの奇跡 サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司〈せがわ・しょうじ〉(完全版、講談社文庫、2010年/講談社、2006年)】

 プロ編入試験将棋の第一局に敗れた場面から始まる。既に瀬川一人の闘いではなくなっていた。それまでプロ棋士になるためには奨励会という徒弟制度を経て四段になることが決まりであった。しかも26歳という年齢制限があった。少年時代は地元で天才棋士と褒めそやされた綺羅星が次々と夜の闇の中へ消えてゆく世界である。才能だけではプロになれなかった。瀬川晶司は21歳で三段になっていたが惜しくも年齢制限に阻まれた。その瀬川が10年を経て35歳でプロ編入試験に臨んだのだ。

 1944年(昭和19年)に真剣師の花村元司〈はなむら・もとじ〉がプロ入りしているが、当時はまだ奨励会が制度化されていなかった。ま、相撲や歌舞伎みたいな世界と考えてよい。家元制度もよく似ている。要は結果的に実力者を排除するシステムとして機能するところに問題があるのだ。ハゲは相撲取りになれないし、相撲部屋に属さない一匹狼も存在しない。力と技に加えて様式を重んじる世界なのだ。

 瀬川のプロ入りは奨励会制度に風穴を開ける壮挙である。これに失敗すれば古いシステムは寿命を永らえてしまう。将棋ファンは色めき立ち、実力者は固唾を呑んで見守った。その第一局に瀬川は敗れる。絶対に落としてはならない勝負であった。茫然自失の態(てい)で家路に就く記憶も飛んでいた。

 ドラえもんの葉書は小学校時代の恩師が書いたものだった。全く目立たない児童だった瀬川はこの女性教師と出会い大きく変わる。プロ棋士を目指したのもこの先生からの励ましによるものだった。瀬川は初心に返る。

 心の綾(あや)というものは実に不思議だ。理窟(りくつ)だけで人の心は動かない。感情は理性よりも脳の深部に宿る。心の土台をなすのは感情だ。その情は絶えず流れながらも右に左に蛇行する。ここ一番という檜舞台で怖気づいたことは誰にでもあるだろう。失敗に対する恐れや不安が優れば本来の実力は発揮できない。

 瀬川は念願のプロ入りを果たした。タイトルを毛嫌いして長らく手をつけてこなかったことが大いに悔やまれた。尚、恩師からの葉書は動画の中でも紹介されている。




長距離ハイキング/『トレイルズ 「道」を歩くことの哲学』ロバート・ムーア

2020-07-13

金融工学という偽り/『新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性』原丈人


『あなたを支配し、社会を破壊する、AI・ビッグデータの罠』キャシー・オニール
鉄オタ父子鷹と思いきや……原丈人が描く壮大な日本の未来図
原丈人〈はら・じょうじ〉の父と祖父

 ・金融工学という偽り

・『「公益」資本主義 英米型資本主義の終焉』原丈人

必読書リスト その二

 だが、そのようにして金融ばかりを大きくすればするほど、実業の部分はどんどん疎(おろそ)かにされ、力を失っていく。金融に都合のいい仕組みを振りまわせば振りまわすほど、価値の源泉を踏みにじり、壊してしまう。そこで、「金融工学」なるものを駆使して、お金がお金を生む方法ばかりを加速させるしかなくなってしまったのである。
 この金融工学が、また曲者(くせもの)である。なぜなら、まず経済学そのものが、「完全競争」「参入障壁はない」などといった、いくつものありえない話を構築しているものだからである。前提が狂ってしまったら、すべてが文字どおり台無しだ。「サブプライムローンがあれほどの破綻(はたん)に見舞われたのも、その前提が間違っていたから」というのは、まさに象徴的だろう。
 そのような架空の前提に立って、さらに数式で表現できない部分を捨て去ることで組み立てられているものこそ「金融工学」なのである。
 端的にいおう。「幸せ」を数式で表すことができるだろうか。人間の感情を数式で表すことができるだろうか。新しい技術の芽はどこにあるかを数式が教えてくれるだろうか。たとえば、社員の家族の健康まできちんと見てくれるような経営であれば、みんな喜ぶだろうが、社員の家族の健康と株価をどう評価できるだろう。

【『新しい資本主義 希望の大国・日本の可能性』原丈人〈はら・じょうじ〉(PHP新書、2009年)】

21世紀の国富論』(平凡社、2007年)は挫折していたので、やや腰が引けたのだが驚くほど読みやすく、動画の語り口そのものだった。原丈人〈はら・じょうじ〉は威勢がいい。気持ちのよい躍動感がある。更に実務的で観念を弄(もてあそ)ぶところがない。そして見逃すことができないのは相槌の深さである。「この人は武士だな」と私は直観した。

 新自由主義に異を唱えた人物としては宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉が有名だが、原はより具体的かつ実際的にアメリカ型の株主資本主義の誤りを説く。

 経済学の基本的な考え方だと「会社は株主のもの」である。会社の目的は利潤追求だから株主利益を最大化するのが社長の仕事となる。しかもアメリカ型経営ではヘッドハンティングで経営者の首をすげ替えることが日常的に行われている。経営と労働が棲み分けされているのだ。経営者はより短期間で収益を上げることを求められるので一番簡単なコストカットに手を染める。こうして工場は低賃金の海外へ誘致され、技術が流出する。日本のメーカーも同じ道を歩み、そして日本経済の地盤沈下が今も尚続いている。

 原が提唱するのは「公益資本主義」だ。会社は社会の公器であり、社中(しゃちゅう/社員・顧客・仕入先・地域社会・地球)に貢献することで企業価値を上げる。日本の伝統的な価値観ではあるが、多くの企業がバブル崩壊以降これを否定してきた。その結果としてもたらされたのが経済格差である。

 文明の発達は移動・通信を飛躍的に進化させ、国家という枠組みが融(と)け始めた。しかしながら国際ビジネスで行われているのは国力を背景にした熾烈な競争であり、その実態は経済戦争である。一方でGDP世界第2位までに経済発展した中国は一国二制度の約束を踏みにじり香港を弾圧している。中国では国家の枠組みを強化し、アメリカの衰退を待ち構えている。社会主義国は国家の負の側面を見事に象徴している。

 経済の語源は経世済民(けいせいさいみん)である。「世を経(おさ)め民を済(すく)う」と読む。経済とは利益分配に尽きると私は考える(チンパンジーの利益分配)。なぜ分配する必要があるのか? それは集団を維持するためだ。数十人単位で移動しながら生活していた古代を想像すればいい。集団は分業を可能にし子孫の生存率を高める。集団であれば他集団からの暴力にも対抗できる。一匹狼という言葉はあるが実際に一匹で生きる狼は存在しない。そもそも子ができないだろう。人類の集団は中世において国家へと成長を遂げた。これを超えることはないだろう。世界政府は言語や宗教を思えば現実的ではない。分裂と統合を繰り返すのが人間にはお似合いだ。

 リーマン・ショック以降、各国の中央銀行が驚くべき量の金融緩和をしているにもかかわらず景気が上向かない。マネーがどこかで堰(せ)き止められているのだ。ダムとなっているのは会社と金融市場である。緩和マネーは社内留保となって動きを失い、余剰マネーはマーケットに流れ込んで高い株価を支えている。

 戦争の原因は寒冷化にあるというのが私の持論だが、経済的な冷え込みは寒冷時の食物不足と同じ意味を持つと考えてよい。

 アメリカでは2011年に「ウォール街を占拠せよ」の運動が興(おこ)り、今年になって「ブラック・ライヴズ・マター」(BLM)が猛威を振るっている。前者はリベラルな抵抗であったが、後者は単なる破壊活動で左翼の存在がちらついている。ただ、いずれにしても格差が背景にあることは間違いないだろう。金融工学の成れの果てを見ている心地がする。



農業の産業化ができない日本/『脱ニッポン型思考のすすめ』小室直樹、藤原肇

全地球史アトラス


 ・全地球史アトラス

『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗


2020-07-12

進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる/『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦


『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一

 ・頭隠して尻隠さず
 ・進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせる

『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
『ビルマの竪琴』竹山道雄

 竹内は、『竪琴』の主人公である水島安彦が累々たる同胞の骨を見捨てて立ち去ることに恥を覚えたことについて、回心の動機には、「同胞愛と人類愛」があるとし、その動機は、「私を打つのである。たしかにわれわれは、この種の人道的反省に足りぬものがある」とする。
 そのうえで竹内は、「いったいこの世には、何故このような悲惨があるのだろうか」という設問を水島が発し、次のように水島によって自答されているくだりを引用している。

 この「何故に」ということは、所詮人間にはいかに考えても分らないことだ。われらはただ、この苦しみの多い世界にすこしでも救いをもたらす者として行動せよ。その勇気をもて。そうして、いかなる苦悩・背理・不合理に面しても、なおそれにめげずに、より高い平安を身をもって証しする者たりの力を示せ、と。

 この叙述に対し、竹内はこう論評した。

 これは解決ではなくて、解決の回避である。心の平安がすべてであるという、水島の口を借りて述べられている作者の中心思想が、本来は美しい物語に結晶すべきこの作品に、いくつかの致命的破綻を与えているように思う。

 この「解決の回避」という一語に、竹内好が『竪琴』に抱いた疑念が集約されている。水島が同胞の骨を打ちすてては帰れないと反省するさいの回心の動機は、「同胞愛と人類愛」であった。そこで日本兵であることを放棄し、ビルマ僧となって人類愛の地平に経った。そして鎮魂と和解が敵味方の傷ついた兵士同士で達成された。だが、このプロセスは一足飛びのプロセスである。その間の鎮魂と和解をつなぐ結節環が省かれてしまっている。
 この竹内の違和感を筆者もまた共有する。普遍的な人類愛の立場に立って敵味方双方に和解が成立したようにみえて、実は一方的自己愛にすぎないのではないか。敵味方が双方なじんだ歌を唱って、感情の共鳴板が和音を奏でても、それは戦争が投げかけた問題を解消することにはつながらないのではないか。少なくとも、そこで心を動かしてはいけないのではないか。

【『『ビルマの竪琴』をめぐる戦後史』馬場公彦〈ばば・きみひこ〉(法政大学出版局、2004年)】

 谷沢永一が「北京政府の忠実な代理人」と評した竹内好〈たけうち・よしみ〉である。同胞愛と人類愛は宗教的感情である。「心の平安」という言葉からもそれが窺える。竹内や馬場が思い描く「解決」とは“人民による革命”なのだろう。古い体制を転覆せずして訪れる平和を彼らは認めないのだ。

 テキストに目を凝らそう。「自己愛にすぎないのではないか」「戦争が投げかけた問題を解消することにはつながらないのではないか」と来て、「心を動かしてはいけないのではないか」と踏み込む。冷静な筆致で「感動するな」と他人に強要しているのだ。「心を動かすな」という言葉は普通の人間では思い浮かばない。唯物論者でもない限り、人の心をこれほど簡単に扱うことはできまい。

 本書の目的は進歩的文化人の亡霊を甦(よみがえ)らせることにあるのだろう。こんな本を出版する法政大学出版局も賊の一味と考えてよかろう。