・『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』堀栄三
・『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
・『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
・瀬島龍三と堀栄三
・『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀』岡部伸
・『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』小野寺百合子
・『杉原千畝 情報に賭けた外交官』白石仁章
・『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
・『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
・『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
・『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
・『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
・『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
クリミアのヤルタで密約が交わされる4ヶ月前の1944年10月10日、ハルゼー提督率いるアメリカ海軍の太平洋艦隊第三艦隊の艦載機が、沖縄、奄美諸島、宮古島などを爆撃した。12日からは台湾にある飛行場が集中的に攻撃された。しかし、これは、レイテ島上陸作戦を敢行するためのアメリカ側の陽動作戦だった。当時の大本営はそれに気づかず、連合艦隊司令部は、この爆撃に対して、傘下の空母の航空部隊や南九州に控えていた第二航空艦隊の爆撃機にハルゼー艦隊を攻撃するように命じたのだった。
そこで12日からの4日間で、総数約900機の航空機が空母や各航空基地から飛び立ち、ハルゼー艦隊への攻撃を行った。
攻撃から帰還したパイロットの報告を受けて日本海軍は多大な戦果を挙げたとして、大本営発表は5回にわたり続けられ、19日の6回目の発表では、「5日間にわたる猛爆。空母19、戦艦4など撃沈破45隻、敵兵力の過半を壊滅、輝く陸空一体の偉業」という大戦果とされた。戦況が悪化の一途を辿っているなかで、日本軍が久々の大戦果と言うことで大本営にも国民にも異様な興奮があった。そこで戦局の行方にも期待が高まった。
台湾沖航空戦の大戦果に基づいて、捷(しょう)一号作戦として準備されていたルソン決戦は急遽レイテ決戦に変更された。
しかし、作戦は失敗する。陸軍は第十四方面軍の精鋭部隊や内地からも部隊を送ったが、大本営発表とは逆にほとんど無傷だったアメリカ艦隊に補給路を断たれ、結果としてレイテ島も玉砕、10万人近くの日本兵が戦死する莫大な人的損害を出した。連合艦隊は事実上壊滅した。
台湾沖航空戦の戦況認識に誤りがあったからだ。正確な戦果が判明するのは戦後になってからだが、実際には重巡洋艦2隻が大破にしたにすぎなかった。大戦果というのはまったくの虚報であった。その虚報をやみくもに信じた参謀本部の参謀たちの誤りによって、レイテ決戦の悲劇は引き起こされたのだった。
ところが、この「台湾沖航空戦の大戦果」に疑問を持ち、「点検の要あり」という電報を出張先から大本営に打って報告していた人物がいたのである。これが大本営情報参謀だった堀栄三である。レイテ決戦から42年を経た1986(昭和61)年、大本営の元参謀だった朝枝繁春が明らかにしたのだった。
第十六師団があるフィリピンに出張を命じられ、陸路で九州に向かった堀は、44年10月13日、フィリピンへの出発地である新田原(にゅうたばる)飛行場(陸軍航空機基地)に到着するや、同航空戦の影響と、悪天候のため離陸不可能と知らされた。そこで偶然にも台湾沖航空戦の本拠地となっていた鹿屋(かのや)飛行場に転進すると、事情の違いに驚かされた。帰還したばかりのパイロットから話を聞いてまわると、華々しい戦果の根拠が薄弱であることを突き止め、その場で参謀本部情報部長あてに、「戦果はおかしい。よく点検して作戦行動に移す必要あり」との暗号電報を打った。
惜しむらくは堀の情報は参謀本部首脳に届かず、作戦行動に生かされることはなかった。打った電報は戦後も行方不明のままとなっていた。
しかし、堀は、1958(昭和33)年になって、その電報の顚末について意外な人物から告白を受ける。その人物がシベリアから帰国した2年後のことであった。戦後、自衛隊に入っていた堀は第十四方面軍の元同僚から連絡を受け、虎ノ門にあった共済会館の地下食堂に向かい、その人物と対面した。
「そのとき【かれ】が言うんです。『ソ連抑留中もずっと悩みに悩み続けた問題の一つは、日本中が勝った勝ったといっていたとき、ただ一人それに反対した人がいた。あの時に自分が、きみの電報を握り潰した。これが捷一号作戦の根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いたいとずっと思っていた』と。握り潰したという言葉は、このとき初めて私が耳にした言葉でした。これが事実です」(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』)
「握り潰した」という言葉を聞いて堀は言葉を失った。この意外な人物に、死活的な情報が大本営上層部に届けられる前に抹殺されていた。誤った過大な戦果情報を訂正することなく、その情報をもとにルソン決戦をレイテ決戦に作戦変更し、日本軍は玉砕し、幾万の命が散って行ったのであった。
この人物こそ大本営作戦参謀だった瀬島龍三であった。開戦時から参謀本部作戦課に所属していた瀬島は、いうまでもなく堀が書簡で指摘した「奥の院」の実力者であった。
堀は、この瀬島の告白を長い間、胸に収めて伏せていた。瀬島と同じ大本営作戦参謀だった朝枝には伝えたが、公表することはなかった。その朝枝が1986年になって初めて公にしたのだった。
ところが、瀬島は後に、この告白を覆している。
「堀君の誤解じゃないかなあ」「記憶がない」
多くのインタビューでは、否定を貫いた。自伝『幾山河』では、「この時期、自宅療養中」のため参謀本部にいなかったことにして、やはり、「堀君の思い違いではないないか」と告白したことを否定している。
「瀬島さんが父に告白したことは間違いありません。実は、その場(虎ノ門の共済会館地下食堂)に私も同席して聞いていましたから」
「賀名生(あのう)皇居」の屋敷で筆者を向かえてくれた堀の長男、元夫は柔和な笑顔で断言した。堀の電報を握り潰したことへの贖罪意識があったのだろうか、瀬島は、元夫に就職の斡旋を持ちかけた。大手商社マンだった元夫は断わり、その代わりに夫人が、瀬島が会長まで上り詰めた伊藤忠商事に勤務することになったという。瀬島が“手打ち”をしたのかもしれない。(中略)
証言の確認は取れていないが、大本営参謀の間で密かに語られている次のような事実がある。
「堀の暗号電報は解読されたうえで、作戦課にも回ってきた。この電報を受けとった瀬島参謀は顔色をかえて手をふるわせ、『いまになってこんなことを言ってきても仕方がないんだ』といって、この電報を丸めるやくず箱に捨ててしまったという。そのときの瀬島の異様な表情を作戦課にいた参謀たちは目撃しているというのである」(『瀬島龍三』)
瀬島が属していた超エリート集団である大本営作戦部作戦課は、堀が「奥の院」と指摘するように、どうにもならないほどに硬直化していた。自分たちが立てた作戦に合致する情報だけを選択し、それ以外は不都合なものとして抹殺していたのである。あくまで作戦上位、そのため主観的願望に溺れるということだ。この許し難い官僚主義こそ情報軽視の本質であった。それは日本型官僚機構が持つ倨傲(きょごう)であった。堀の電報握り潰し事件は、瀬島ひとりの責任ではなく、官僚化した作戦課という「奥の院」が生んだ悲劇であったのかもしれない。
【『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸〈おかべ・のぶる〉(新潮選書、2012年)】
戦後日本を振り返ると瀬島龍三はキーマンの一人であると考える。瀬島は戦前の超エリートで陸軍中枢にいた。大東亜戦争はエリートが判断を誤ったところに大きな敗因があった。終戦後はシベリアに抑留されソ連に洗脳を施された。帰国後、堀栄三に謝罪したのはまだ良心の炎が辛うじて消えていなかったのだろう。彼の転向・二枚舌・無責任・経済的成功が日本の姿とピッタリと重なる。
田中清玄は入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」という昭和天皇の発言を自著に記している(Wikipedia)。
【『田中清玄自伝』大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉インタビュー(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】
この無責任こそが新生日本の方向を決定づけた。善悪を不問に付して政策は経済一辺倒に傾き、国防はアメリカに委ねた。高度経済成長を経てバブル景気に至る中で国民が憲法改正を望むことはなかった。占領期間に日本から牙を抜くことが戦後レジームだとすればそれは見事に成功した。
小野寺信〈おのでら・まこと〉はバルト三国の公使館附武官を兼務した後、スウェーデン公使館附武官となりヤルタ会談の密約を入手し日本に打電したが、これを揉み消された。ここにも瀬島龍三が関与していると考えられる。その後、スウェーデン国王の仲介による和平を推し進めたが岡本季正〈おかもと・すえまさ〉駐スウェーデン公使の妨害で頓挫する。外務省の罪を検証する必要があるだろう。
戦後レジームから脱却できない理由はただ一つだ。それは我々日本国民が自分たちの手で敗戦の責任を問うていないためだ。その意味から申せば、国民による「新東京裁判」が必要であると考える。