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2015-11-20

会津藩の運命が日本の行く末を決めた/『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛


『逝きし世の面影』渡辺京二
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

 ・会津藩の運命が日本の行く末を決めた

・『日本人の底力 陸軍大将・柴五郎の生涯から』小山矩子
『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子
『國破れてマッカーサー』西鋭夫
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ

 新政府軍は、警固をキビしくし、「脱走者は発見しだい斬り捨て」の命令を下した。藩主松平容保(かたもり)の謹慎している滝沢村妙国寺でも、警戒はいっそう厳重になった。万一に備えて、大砲の砲口を容保の居室に向けている、という噂もあった。
 そこに夜陰の暴風雨に乗じて、また5人の少年が脱走した。その中には山川健次郎、赤羽四郎、そして柴四朗ら、かつてのフランス語仲間もまじっていた。
 ――これは、じつは会津藩の重役たちの「命令」によるものだった。
 重役の関心事は、藩に下される罪の程度であった。彼らは、さすがに藩士全員が斬罪などということは考えなかったが、家老の何人かが切腹、あるいは斬罪は免れまい――と、覚悟していた。問題は、藩主容保に対する処分である。
 その寛厳をうらなうために、重役たちは少年たちを脱走させた。少年たちは若松城にある政府本営に出頭して、主君の助命嘆願をおこなう。そして、それに対する「敵」の出方をうかがってみよう、という目論見だった。
 まかり間違えば、斬り捨てである。あるいは脱走の罪に問われ、みせしめに切腹におよぶかも知れない。
 しかし、十五、六歳の少年たちには、よもやそこまでの厳科は下さないだろう。そして、その処罰の程度によって藩の将来をうらない、考えよう。……それが藩の重役たちの腹づもりであった。

【『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉(光人社、1992年/光人社NF文庫、2013年)以下同】

 まだ読み終えていないのだが書き残しておく。文庫で774ページの大冊。読書日記としては155冊目の読了本ということにしておく。光人社は2012年に同系列の潮書房と合併し、現在は潮書房光人社となっている。潮書房は軍事雑誌『丸』で知られる。光人社NF文庫も殆どが戦争・軍事・戦記ものである。NFはノンフィクションの略だろう。

 柴四朗は五郎の兄で、白虎隊の一員であったが病で戦線から離れ生き永らえた。西南戦争では谷干城〈たに・たてき〉に目をかけられた。その後、岩崎弥太郎の援助を得てアメリカへ留学。帰国後、東海散士〈とうかい・さんし〉のペンネームで帝国主義と小国の民族解放を描いた小説『佳人之奇遇』(かじんのきぐう/4篇全16巻)を著しベストセラーとなる。1892年(明治25年)以降は長く政治家を務めた。

 山川健次郎は東京帝国大学・京都帝国大学総長、九州帝国大学の初代総長。赤羽四郎は外交官となる。いずれも日新館出身の逸材といってよい。そして柴五郎は、乃木希典東郷平八郎に先んじて世界に勇名を馳せた日本軍将校である。

 参謀の乾退助(のち板垣)の部下、伴中吉が少年たちを引見した。「自分らは藩主の身を思うあまり、あえて規則を破って推参したものでございます。どうか主君の処置を寛大にして頂きたい」との申し立ては「聞きおく」にとどめられたが、彼らの命がけの行為には好感が寄せられた。長く待たされた後、贅(ぜい)を尽くした膳が供された。

「遠慮なく、食べるがよい」
 係の侍はそういって退いたが、頃を計って部屋に戻ってみると、誰一人箸をつけている者がない。
「いかが致した……?」
 山川健次郎が5人を代表してこたえた。
「謹慎中の藩士たちは、十分な食事も摂(と)らずにおります。せっかくのご好意ながら、私どものみが、このようなご馳走をいただくわけには参りませぬ」

 敗者であり、かつ力弱き少年たちの嘆願を知った瞬間、頭の中で閃光がほとばしった。「これは大東亜戦争に敗れた日本の姿そのものではないか!」と。日本の首脳陣は国体すなわち天皇陛下の処遇を最優先事項とし、提出した憲法草案は明治憲法と変わるところがなかった(『國破れてマッカーサー』西鋭夫、1998年)。京都守護職を務め、孝明天皇からも信頼されていた会津藩がなにゆえ朝敵となったのか? ここに明治維新の矛盾がある。新生日本を牛耳ったのは薩長閥で、やがて大東亜戦争を招き(『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織、2012年)、現在にまで影響を及ぼす(『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人、2008年)。

 もともと朝敵であった長州藩がなにゆえ官軍となり得たのか? その疑問はまだ晴れていない。調べれば調べるほど南北朝の歴史、岩倉具視や徳川慶喜の役割がはっきりしなくなる(落合莞爾『南北朝こそ日本の機密 現皇室は南朝の末裔だ』2013年、『明治維新の極秘計画 「堀川政略」と「ウラ天皇」』2012年)。

 更にたった今、驚くべき事実を知った。戊辰戦争を前にした会津・庄内両藩がなんとプロイセン(ドイツ)のビスマルクに北海道の一部売却を打診していたというのだ。

維新期の会津・庄内藩、外交に活路 ドイツの文書館で確認

 東大史料編纂(へんさん)所の箱石大准教授らが、会津、庄内両藩が戊辰戦争を前にプロイセン(ドイツ)との提携を模索したことを物語る文書をドイツの文書館で確認した。日本にはまったく記録がないが、薩摩、長州を中心とした新政府軍に追いつめられた両藩が、外交に活路を求めていたことが明らかになった。

 ドイツの国立軍事文書館に関連文書が3通あった。1868年7月31日、プロイセン駐日代理公使フォン・ブラントは「会津、庄内両藩から北海道などの領地売却の打診があった」として、本国に判断を仰ぐ手紙を出した。両藩は当時、北方警備のため、幕府から根室や留萌などに領地を得ていた。手紙には「交渉は長引かせることができる。どの当事者も困窮した状況で、優位な条件を引き出せる」と記されていた。

 船便なので届くのに2カ月ほどかかったようだ。「軍港の候補になるが、断るつもりだ」と宰相ビスマルクは10月8日に海相に通知。この日は、新政府軍が会津若松の城下に突入した日に当たる。ほぼ1カ月後に会津、庄内は降伏。戦争がこれほど早く展開するとは、プロイセン側は予想していなかったのだろう。

◆顧みなかったビスマルク

 ビスマルクは欧米列強間の協調と戦争への中立という視点から、両藩の提案を退けた。それに対して海相は「日本が引き続き混迷の一途をたどった場合は、他の強力な海軍国と同様に領地の確保を考慮すべきだ」と10月18日に返信していた。

 箱石さんらは当時の政治状況や人間関係も調査、研究した。新政府の背後には英国がいて、新式の武器や弾薬は英国商人が供給していた。幕府が頼りにしてきた仏国は中立に転じていた。

「会津、庄内両藩は新政府軍の最大の標的であり、懸命に活路を見いだそうとしてブラントの意向と合致したのだろう」と箱石さんは見る。

 ドイツの公文書と同時に東大には貴重な資料がもたらされた。スイス在住のユリコ・ビルト・カワラさん(86)が長年調査したシュネル兄弟の記録だ。会津藩の奉行で戊辰戦争で戦死したカワラさんの曽祖父と親交があった。

 国学院大栃木短大の田中正弘教授によると、新潟港を拠点に東北諸藩に武器をあっせんしたシュネル兄弟は会津藩の軍事顧問をつとめたが、国籍不明で謎の人物とされてきた。兄が政治面を、弟がビジネス面を、分担したという。

 カワラさんの調査で兄弟の出自が判明。プロイセンの生まれで、父の仕事の都合でオランダの植民地だったインドネシアで育ち、開港直後に横浜にやってきていた。

 オランダ語ができたことが兄弟の強みだったようだ。プロイセンの外交文書は、ドイツ語の原文をオランダ語に訳し、2通そろえて幕府に出した。そうした文書が東大史料編纂所に残っており、ボン大のペーター・パンツァー名誉教授が調べて、オランダ語への翻訳に兄のサインを見つけた。武器商人に転じるまで兄はプロイセン外交団の一員だったことが確認された。「会津、庄内両藩とプロイセンを結びつけたのはシュネル兄弟でしょう」と田中さん。

 一連の研究は明治維新に新たな視点をもたらした。「英―仏の対抗図式に目を奪われるあまり、維新や戊辰戦争をより広い世界の中に位置づけることや、東北諸藩が武器、弾薬をどのように調達したのか分析する視点が不足していた」と東大の保谷徹教授は話している。

朝日新聞DIGITAL 2011年2月7日

戊辰戦争の史料学』を読まねばなるまい。

 最後にもう一点だけ。村上兵衛は「あとがき」で「『ある明治人の記録』もすでに出版されているが、潤色がある。私はそれには拠(よ)らなかった」と記す。私が確認し得たのは、犬の肉に難儀する少年五郎を父が叱責する場面くらいだ。村上は「自著に潤色なし」と言いたいのであろう。表現者としてはいささか狭量の謗(そし)りを免れない。原文と違うから潤色では短絡が過ぎるだろう。老境の柴本人から聞いた可能性も考えられる。事実を重んるあまり想像力の翼を畳んでいる印象を全体から受ける。ただしそれで柴五郎という素材が曇るわけではない。

【付記】「お家存続」は日本の価値観のテーマたり得ると思う。山本七平が「日本において機能集団は共同体(擬制の血縁集団)と化す」と指摘している(『日本人と「日本病」について』岸田秀、山本七平、1980年)。小室直樹も同じことを主張する。これは日本全体が天皇陛下を中心とする「家」を形成しているためと考えてよさそうだ。血脈信仰といってよいかどうかは今のところ判断しかねる。女系天皇を巡る問題の本質もこのあたりにあるのだろう。尚、藤田紘一郎〈ふじた・こういちろう〉によれば、血液型と性格には相関性があるという(『脳はバカ、腸はかしこい』2012年)。



マッカーサーが恐れた一書/『アメリカの鏡・日本 完全版』ヘレン・ミアーズ

2014-11-28

アメリカからの情報に依存する日本/『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘


『日本はテロと戦えるか』アルベルト・フジモリ、菅沼光弘:2003年
『この国を支配/管理する者たち 諜報から見た闇の権力』中丸薫、菅沼光弘:2006年

 ・国益を貫き独自の情報機関を作ったドイツ政府
 ・アメリカからの情報に依存する日本

『この国のために今二人が絶対伝えたい本当のこと 闇の世界権力との最終バトル【北朝鮮編】』中丸薫、菅沼光弘:2010年
『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎:2010年
『この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘:2011年
『この国の不都合な真実 日本はなぜここまで劣化したのか?』菅沼光弘:2012年
『日本人が知らないではすまない 金王朝の機密情報』菅沼光弘:2012年
『国家非常事態緊急会議』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄:2012年
『この国はいつから米中の奴隷国家になったのか』菅沼光弘:2012年
『誰も教えないこの国の歴史の真実』菅沼光弘:2012年
『この世界でいま本当に起きていること』中丸薫、菅沼光弘:2013年
『神国日本VS.ワンワールド支配者』菅沼光弘、ベンジャミン・フルフォード、飛鳥昭雄
『日本を貶めた戦後重大事件の裏側』菅沼光弘:2013年

 今日、人類はグローバルな時代を迎え、国境を越えて地球規模の交流が積極的に行われ、「ボーダーレス」という言葉が流行語になっているほどである。しかし、グローバルな世界といっても、それを構成する人間集団の単位は、あくまでも国家である。
 現在190余りの国々で構成される国際社会には、国連をはじめとするさまざまな国際機関が存在し、国際法もあるにはあるが、個々の主権国家の上に立つ超国家的な公権力は存在せず、無政府状態にあると言っていい。
 政治力や経済力、特に軍事力において優位に立つ国が、世界を支配している。こんな国が思うがままに国際機関を動かし、国際法を踏みにじり、自由自在に世界を動かしているのである。国際協調といっても、本心は国益のためだ。これが現実の世界である。

【『菅沼レポート・増補版 守るべき日本の国益』菅沼光弘(青志社、2012年/旧版、2009年)】

 グローバリゼーションを推進するのはアメリカだ。それがアメリカの国益のためのグローバル化であるのは当然だろう。黒船襲来の歴史を思え。アメリカは自国の不足を補う目的で世界に歩を進める。オバマ政権でいえば雇用の確保だ。つまり失業を輸出しようと目論んでいるわけだよ。

 現在、円安が進行中だがこれによって日本は原油安の経済効果を享受することができない。目下のところ欧米(ドル・ユーロ・ポンド)は日本への輸出価格は不利になるが原油安で潤っている。

 アメリカの長期金利(10年債)が下がっているにも関わらずドルが高いのはどう考えてもおかしい。原油安と連動しているとしか考えようがない。そしてドル円が調整なしで上がり続け、日経平均が上昇しているのは、今回の解散総選挙と絡んでいる。安倍政権への追い風だ。安倍首相は消費税増税延期を口実にしているが真の狙いは別のところにある。

 オバマ大統領訪日後、安倍首相がやったことといえば、特定秘密保護法の制定と集団的自衛権の行使である。これがアメリカからの意向であることはまず間違いない。衆院解散は日本の安全保障のあり方を変えるところに目的がある。アメリカは軍事費の削減をしており、「自分の国は自分で守ってくれ」ということなのだろう。

 中国はアメリカに対して「太平洋を二分しよう」と持ちかけ、オバマが「太平洋は広い」と応じた。日本が軍事的独立を図るとなれば、核武装に舵を切ることとなるだろう。個人的には好機到来であると考える。かつて核保有国同士が戦争をしたことはない。所謂、核の抑止力が働くためだ。日中の全面戦争を防ぐ手立ては核武装以外に求めようがない。

 その時、ドイツが日本に続くかどうか。ドイツが続けば第二次世界大戦の戦後レジームは劇的に変わる。日本の国連常任理事国入りも速やかに承認されることだろう。

 隣国のロシア・中国・北朝鮮が核を保有する地政学的状況にあって、アメリカ頼みがまかりならないと言われたら、核武装するのは当然だろう。もちろん戦争を防ぐための核武装である。

 アメリカが「ならず者国家」と指定して間もなくイラクのサダム・フセイン大統領とリビアのカダフィは殺害された。ところが北朝鮮の金正日は殺されなかった。それどころか「ならず者国家」のリストから外された。なぜか? 核を保有したからだ。

 世界の主要な国々は、第二次世界大戦後、過去の苦い経験を踏まえて、いずれも強大な中央情報機関を設立し、自らの判断で、国民の安全と繁栄を守ろうとしている。
 そしてわが国だけが、そのような中央情報機関の設立を拒否し、不可欠な対外情報を友好国、特にアメリカに依存しているのが現状である。
 しかしこれもあたり前のことだが、たとえ最も親しい友好国といえども、自国に都合の悪い情報は提供してくれないし、決して自国の国益に反する情報などくれるわけがない。情勢判断を一致させるためだ。
 外国の情報に依存するということは、その国の意向に沿った政策しか採用できないということでもある。最近のイラク戦争や北朝鮮問題でも、常にアメリカに従属した、アメリカの意向に沿った政策しか取れないのはそのためだ。

 GHQの占領はわずか7年間であったが、日本の歴史と伝統を寸断するには十分な時間であった。一言でいえば日本は天皇制を守るためにアメリカの属国となる道を選んだ。マッカーサーが吉田茂首相に警察予備隊(陸上自衛隊の前身)の創設を指示したのが1950年(昭和25年)で、翌年には再軍備を求めている。朝鮮戦争が勃発し、冷戦構造がグローバル化する中で、アメリカは日本を骨抜きにすることよりも、自分たちの陣営に取り込むことを優先した。

 日本は経済的恩恵を被りながら高度経済成長を遂げ、現在にまで至っている。取り込まれっ放しだ。アメリカは日本のバブル景気を狙い撃ちにし、それ以降、日本の国富はアメリカに流れてしまう。直接奪われたわけではないが、あいつらは「奪うシステム」を巧みにつくり上げるのだ。

 中央情報機関は設立しただけでは機能しない。情報の積み上げと経験が必要になるためだ。菅沼によれば「10年は掛かる」という。特定秘密保護法はその第一歩である。日本が独立するためには官僚の中から左翼の残党とアメリカの手先を一掃する必要がある。

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情報ピラミッド/『隷属国家 日本の岐路 今度は中国の天領になるのか?』北野幸伯

2018-08-27

日本の憲法学が憲法を殺した/『日本人のための憲法原論』小室直樹


『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温

 ・日本の憲法学が憲法を殺した

『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八
『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八
『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖

小室直樹
必読書リスト その四

 現在の日本には、さまざまな問題があふれかえっています。
 10年来の不況、財政破綻(はたん)、陰惨(いんさん)な少年犯罪、学級崩壊、自国民を拉致(らち)されても取り返さない政府……実はこうした問題の原因をたどっていくと、すべては憲法に行き着くのです。
 現在日本が一種の機能不全に陥(おちい)って、何もかもうまく行かなくなっているのは、つまり憲法がまともに作動していないからなのです。
 こんなことを言うと、みなさんはびっくりするかもしれませんが、今の日本はすでに民主主義国家ではなくなっています。いや、それどころか近代国家ですらないと言ってもいいほどです。
 憲法という市民社会の柱が失われたために、政治も経済も教育も、そしてモラルまでが総崩れになっている。これが現在の日本なのです。
 では、なぜ日本の憲法がちゃんと作動しなくなったのか。
 その理由は憲法学そのものにあると、私は考えます。
 たしかに大学の法学部に行けば、そこでは憲法の講義が行われています。しかし、その中身はといえば、要するに司法試験や国家公務員試験を受験するためのもの。憲法の条文をどのように解釈すれば、試験に合格できるかが講じられているに過ぎません。こんな無味乾燥(むみかんそう)な「憲法学」に誰が興味を持つでしょう。こんなことで、誰が憲法に関心や理解を示すでしょう。(まえがき)

【『日本人のための憲法原論』小室直樹(集英社インターナショナル、2006年/集英社インターナショナル、2001年『痛快!憲法学 Amazing study of constitutions & democracy』改題、愛蔵版)】

 その無味乾燥な憲法学を学び教える憲法学者が数年前に平和安全法制関連法案(いわゆる安保関連法案)は「違憲である」と表明した。憲法学の中身は知らないが憲法学者の飯の種であることはわかる。憲法で飯を喰っている以上、憲法を金科玉条と奉(たてまつ)り解釈の違いを訳知り顔で解説し、学問の世界で徒弟関係を構築しているのだろう。もちろん彼らに国家の行く末を案じるような責任感はない。日本の憲法学が憲法を殺したとの指摘はあまりにも重い。

 小室直樹は世の混乱を「憲法がまともに作動していない」ためだと喝破(かっぱ)する。なぜ作動していないのか? まともな日本語じゃないからだよ。元が英語だからおかしな日本語になっているのだ。占領期間中に、しかも多くの人々が公職追放される中でマッカーサーの指示でアメリカ人が作った憲法が作動するわけがない。

「憲法とは、統治の根本規範(法)となる基本的な原理原則に関して定めた法規範をいう(法的意味の憲法)」(Wikipedia)。その根本規範がどのような経緯で作られたかを教えられることもなく、我々日本人は経済成長の中で漫然と憲法を軽んじてきた。私自身、数日前に生まれて初めて憲法全文を読んだ。憲法に対する無関心は大東亜戦争敗北に対する無関心と深く響き合っている。

 憲法の本義を思えばいたずらにテクニカルな文言を盛り込むより、五箇条の御誓文(ごせいもん)を軸として抽象度の高い格調ある文章にするのが望ましい。解釈の余地を多く残した方が安易な憲法改正を防げるだろう。

2018-07-30

白虎隊の落し児、柴五郎/『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子


『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛

 ・白虎隊の落し児、柴五郎

『日露戦争を演出した男 モリソン』ウッドハウス暎子
・『辛亥革命とG・E・モリソン 日中対決への道』ウッドハウス暎子
『國破れてマッカーサー』西鋭夫

日本の近代史を学ぶ

白虎隊の落し児、柴五郎

 交民巷の要・王府の防衛は、籠城者全員の命にかかわる。この大役を柴が担い、日本軍は度胸をすえた。そこへ、イタリア軍がのこのこ入ってきた。このイタリア兵と日本兵の組合せが実に奇妙で、イタリア兵は心ならずも日本兵の引立て役を演ずることになってしまった。それについては、外国人の口から語ってもらおう。以下は、ピーター・フレミングの著書『北京籠城』の一節である。
「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。
 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである」
 P・C・スミス嬢の前述の書における柴観は次の通り。
「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、第1回目(6月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。でも、今(7月2日)では、すべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で怪腕を奮(ママ)い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」
 スミスの記述にはだんだん熱が入り、柴から日本兵へ、そしてイタリア兵へと及んでいく。
「彼(柴中佐)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後に勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり王府の守護にあたっているイタリア兵とは大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだ、と私はイタリアの名誉のためにも思いたいくらいです」
 清帝国海関勤めのイギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウイール)は、籠城中、義勇兵となり、柴のもとに派遣されて戦った。彼は当時の日記を、1907年になって出版した。『率直な北京便り』というその題が示すように、実に遠慮のない日記である。彼の6月21日付日記をみよう。
「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守護にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも500名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。ぼくは長時間かけて各国受持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。
 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」
 このように、ウイール青年は籠城第1日目にして、柴にほれこんでいる。

【『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子(東洋経済新報社、1989年)】


 ウッドハウス暎子ジョージ・アーネスト・モリソン(タイムズ紙特派員/1862-1920年)の研究者である。著作はすべてモリソンに関するもので、ジャーナリストが歴史を見つめ、歴史を動かしゆく様を実証的に描く。カテゴリーを「自伝・評伝」としたが学術書である。

 日清戦争(1894-95年)後、義和団という白蓮教(びゃくれんきょう)の秘密結社が貧困に喘ぐ農民を糾合して戦闘に至ったのが義和団事変(北清事変/1900-01年)である。

 義和団は清国各地で外国人やクリスチャンを襲撃した。言うなれば帝国主義・キリスト教宣教に対する攘夷運動である。北京にあった列国大公使館区域に襲いかかり、西太后がこれを支持したことで戦争状態に突入した。最終的には日本を含む8ヶ国の連合軍が出動して鎮圧したが、公使館区域での籠城(ろうじょう)は2ヶ月間に及んだ。

 阿片戦争(1840-42年)からの100年は中国大陸にとって蹂躙(じゅうりん)の季節だった。結局、清朝は亡び、中華民国は台湾へ追いやられた。鬱屈したエネルギーが共産主義革命の原動力となったに違いない。

 阿片戦争は日本の進路をも変えた。明治維新の直接的なきっかけとなったのは黒船来航(1853年)だが、指導層や知識人の問題意識は阿片戦争によって生まれた。

 大航海時代(15世紀半ば-17世紀半ば)を通して帝国主義が生まれ、ヨーロッパ人はキリスト教宣教の旗をなびかせながら有色人種を殺戮(さつりく)し、あるいは奴隷にした。逸(いち)早くそれに気づいた日本は鎖国(1639-1854年)をして侵略から防いだ。そのおかげで戦乱とは無縁の平和な時代が200年にも渡った。

 選民思想はユダヤ教に基づくものだがキリスト教もこれを受け継いでいる。神を理解せぬ者は虫けら以下の扱いを受ける。我々のような「一寸の虫にも五分の魂」という情緒は彼らに通用しない。虫に魂を認めないのが西洋の流儀である。血塗られた思想は20世紀に入りナチズムと共産主義の母胎となった。

 薩長の陰謀によって逆賊とされた会津藩出身の柴五郎がヨーロッパ人からの信頼を勝ち得たことに妙味を覚えてならない。しかも事変が起こった翌日は柴の40歳の誕生日であった。北京籠城を共にしたモリソンの報道や、イギリス公使クロード・マクドナルドの柴に対する篤い信頼が、やがて日英同盟(1902年)として花開く。1822年から「光栄ある孤立」を貫いてきたイギリスが初めての同盟国に選んだのが日本であった。

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2018-12-09

大東亜戦争は武士の時代から商人の時代へと日本を変えた/『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉


『國破れて マッカーサー』西鋭夫
『日本の秘密』副島隆彦

 ・大東亜戦争は武士の時代から商人の時代へと日本を変えた

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 総体的に、日本の保守政治は、選挙区への利益誘導と、その海外への延長である利権ばら撒きしかないのである。それ以外のことは無関心で、全部アメリカに任せてある。
 いま、ブッシュ政権に憎悪され敵視されているのは、この体制なのである。
 日本は悪いことはしないと誓いを立て、悪いことを避けるのを最大限の目標にして生きてきた。戦争は最大の悪だから、絶対これを避ける。自衛の戦争は、することになっているが、領海3マイルから外では、何が置きても関知しない。これを国家の最大限の目標にしてきたのである。
 そうしているうちに、日本は萎縮した。矮小化した。卑俗化した。気品を失った。
 大きなこと、美しいこと、善いこと、勇敢なこと、ノーブルなこと。これらのすべてを日本は拒否するようになったのである。
 戦争と軍隊は手段であり、悪にも善にも奉仕する。ところが、日本人は、戦争と軍隊を悪に見立てることによって、【悪と善の双方を避けるようになったのである】。

【『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉〈かたおか・てつや〉(講談社+α文庫、1999年/講談社、1992年『さらば吉田茂 虚構なき戦後政治史』の改訂増補版)】

 ノーブル(noble、英語)とは高貴さのこと。ノブレス・オブリージュ(noblesse oblige、高貴なる者の義務)のノブレス(フランス語)と同じ意味だ。

 片岡鉄哉のスケッチは実にわかりやすい。55年体制が自民党内に腐敗を生み、社会党は時代の変化に対応することなく野党の位置に甘んじてきた。この体制を38年間にわたって国民は支持した。かつては武士道のイメージで見られた日本人は、貧相な顔と体そして眼鏡とカメラというアイコンに変わり果てた。戦時中から敗戦後に抱えた「生活さえよければ」との願望はバブル景気に至っても止(や)むことがなく、バブル崩壊後長い低迷期を経てますます強くなっている感がある。日本人が目指したのは飽食だったのだろう。国家を顧みる人はいなかった。

 大東亜戦争は武士の時代から商人の時代へと日本を変えた。経済的成功者を英雄と見なす風潮がはびこった。政治家や官僚、学者や僧侶までもが商人と堕した。いかにマネーを獲得するかというゲームが現代の狩猟である。

 かつては投資=利殖ではない時代があった。タニマチのような存在が各所にいた。まだ若く貧しかった勝海舟を見込んだ渋田利右衛門〈しぶた・りえもん〉は初めて会ったその日に200両もの大金を渡して「あなたの好きな本を買って、読み終えたら私に送って下さい」と申し出た(『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編)。かような金満家は現在いるだろうか?

『世界!ニッポン行きたい人応援団』を見ると、日本の伝統工芸が落ちぶれてゆく様子がありありとわかる。売れない物は淘汰されてゆくのが資本主義の原則である。篤志家がいないのであれば国が補助金を出すべきだと思うのだが、クールジャパンに出すカネはあっても伝統工芸に回すカネはないようだ。

 人を育て才を伸ばすために喜捨されたカネがどれほど日本を豊かにしてきたことか。現代のスポンサーシップはメディアに向かってのみ発揮される。新聞・テレビが新たな利殖の温床と化し、広告代金を分配するシステムが構築されている。芸人と呼ぶのも躊躇(ためら)われるようなお笑いタレントが数千万円~数億円もの年収を稼ぐ時代となった。世も末である。

2015-10-30

言葉の空転/『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩


『生きる技法』安冨歩

 ・言葉の空転

『東京電力 暗黒の帝国』恩田勝亘
『原子力ムラの陰謀 機密ファイルが暴く闇』今西憲之+週刊朝日取材班

 現代日本人と原発との関係は、戦前の日本人と戦争との関係に非常によく似ているのです。そしてまた、この行動パターンは、江戸時代に形成された日本社会の有様とも深い相同性を持っています。特に私は、日本社会が暴走する際に、独特の言葉の空転が起きるように感じています。

【『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉(明石書店、2012年)】

「言葉の空転」を生ましめるのは情緒か。最近だと郵政民営化、改革、国際貢献など。小泉政権はシングルイシューポリティクスと批判された。一つの争点で政権選択を迫る手法だ。我々日本人はイシュー(争点)の内容を吟味することなく感覚で付く側を選ぶ。当時、私も郵政民営化に賛同した一人だ。今振り返るとまったくもって恥ずかしい限りである。不明はいつだって後で判明するものだ。馬鹿の知恵。

 情緒といえば聞こえはいいが、実態は感情に基づく気分・雰囲気であり、もっと言ってしまえば空気であろう。日本人は伝統的に思考や論理を回避する傾向が強いのかもしれない。善し悪しは別にして同調性が高い民族といってよい。

 日本はもともと教育立国であった。18世紀半ばから19世紀半ばにかけて寺子屋の数は5万以上に及んだ(寺子屋の教育-師弟愛による全人格的教育)。「江戸の識字率は、世界でもまれに見るくらいの高さ」(『お江戸でござる』杉浦日向子監修、2003年)であった。しかし寺子屋で教えたのは読み書き算盤(そろばん)であってリベラルアーツではなかった。

 戦前までは庶民も句歌を嗜(たしな)んだ。日本といえば真っ先に思い浮かぶのはやはり世界最古の長篇小説『源氏物語』だろう。日本文化の特徴は文学性と諧謔(かいぎゃく)か。俳句や俳優の「俳」はおかしみとの意。

 日本の一般的な学問レベルは生活から離れることがなかった。そう。真理よりも実用を重んじるのだ。西洋には「神」という客観的な視点があった。

 大東亜戦争の際には八紘一宇(はっこういちう)という言葉があった。この言葉や精神性そのものに私は異議を挟もうとは思わない。だがそれを現実化する知的格闘がなかった。リアリズムの欠如。言葉は踊り、空転した。

 実は明治維新も同様であった。開国派も攘夷派も「尊王」であった。そして「言葉の空転」は拍車をかける。「明治維新」というキーワードそのものが欺瞞に満ちているのだ。下級武士や農民・町人が活躍できたのは外国人企業の支援があったればこそ。坂本龍馬のパトロンであったトーマス・ブレーク・グラバージャーディン・マセソン商会の一員であり、同社の前身はイギリス東インド会社だ。つまりアヘン戦争の主役連中が明治開国のプロデューサーを務めたわけだ。

 そして明治維新の志士たちを英雄と仰ぐ風潮も「言葉の空転」と無縁ではない。ともすると停止しやすい思考をどこまで推し進めることができるか。ここに日本変革の鍵がある。

【追記】マッカーサー憲法以降、「言葉の空転」の最たるものは「平和」に尽きる。誰だって平和には反対しない。で、反対しないことをいいことに現状維持としての平和に甘んじ、アメリカの戦争で繁栄を謳歌しながら無責任なぬるま湯に我々はぬくぬくと浸(つ)かってきた。反原発にも同様の響きがある。

2014-10-22

中西輝政、森三樹三郎、リチャード・マシスン、他


 5冊挫折、2冊読了。

縮みゆく人間』リチャード・マシスン:吉田誠一訳(ハヤカワ文庫、1977年)/訳文が肌に合わず。本間有訳を読む予定。

KGB格闘マニュアル アルファチーム極秘戦闘術』パラディン・プレス編:毛利元貞訳、稲垣収訳(並木書房、1994年)/読むのは二度目。いい本なのだが、古めかしいイラストがわかりにくい。写真に差し替えれば多少は売れるだろう。システマの技術が導入されているのがわかる。

完本 ベストセラーの戦後史』井上ひさし(文藝春秋、1995年/文春学藝ライブラリー、2014年)/2冊モノが文庫1冊で復刊。これまた読むのは二度目。飛ばし読み。マッカーサーの記述が参考になった。

「無」の思想 老荘思想の系譜』森三樹三郎(講談社現代新書、1969年)/文章に馴染めず。

老子・荘子』(講談社学術文庫、1994年/『人類の知的遺産 5 老子・荘子』講談社、1978年)/これまた同様。

 78冊目『日本人が知らない世界と日本の見方 本当の国際政治学とは』中西輝政(PHP文庫、2014年/『日本人が知らない世界と日本の見方』PHP研究所、2011年)/京都大学総合人間学部の講義をまとめたもの。これは勉強になった。見事な教科書本。保守論客の本音が披露されている。「現代国際政治」のアウトラインをこの一冊で知ることができる。

 79冊目『日本人として知っておきたい外交の授業』中西輝政(PHP研究所、2012年)/こちらはもっと面白かった。中西輝政は侮れない。松下政経塾33期生に対して行われた「歴史観・国家観養成講座」を編んだもの。中西の指摘は菅沼の主張と非常に近い。にもかかわらず政治的リアリズムを追求する中西が日米安保を支持するのが解せない。恩師であった高坂正堯〈こうさか・まさたか〉の影響なのだろうか。高坂といえば吉田茂を持ち上げたことで知られる人物だ。孫崎享〈まごさき・うける〉は吉田を親米従属派の元祖であるとしている。いずれにせよ日本の近代史が一望できるという点でオススメ。

2018-09-25

東亜の解放/『朝鮮・台湾・満州 学校では絶対に教えない植民地の真実』黄文雄


『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『ナット・ターナーの告白』ウィリアム・スタイロン

 ・東亜の解放

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明
『世界が語る大東亜戦争と東京裁判 アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集』吉本貞昭
『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温

「植民」とは「ある国の国民または団体が、本国と政治的従属関係にある土地に永住の目的で移住して、経済的活動をすること。また、その移住民」を意味する言葉です(『広辞苑』第6版)。つまり単なる移住や移民ではなく、征服やその他の隷属手段によって「政治的従属関係」を伴うのが「植民」ということになります。
 一般的には、比較的高度・強力な文化を持った国や民族が、文化の低い属領に移住して、その開発・利用することを指します。ここでの「高度な文化」とは、特に生産や貿易などの技術において社会的発展していることを意味します。インドのように高度な宗教文化を持っていても、イギリスの植民地になっている例があり、精神的文明の高低とは関係ありません。
 またオランダやイギリスの東インド会社のように、国家でなくても行政権を行使して従属関係を形成する場合があります。
 もう一つ、植民の特徴としてあげられるのは、植民者が現地に同化するのではなく、先住民の同化・隷属を目的としている点です。植民者の所属する社会的関係を強引に再現するのですから、先住民との間に必ず不平等が生じることになります。

【『朝鮮・台湾・満州 学校では絶対に教えない植民地の真実』黄文雄〈コウ・ブンユウ〉(ビジネス社、2013年)】

 植民という言葉からは「人間栽培」といった印象を受けるが実態としては「人間の畜産化」であった。植民地の歴史を古代にまでさかのぼっているのでやや焦点がぼやけてしまい、各節の流れが悪い。少々忍耐力が必要だ。

 黄文雄は台湾人である。冷静な視点で朝鮮・台湾・満州を統治した大日本帝国の歴史を取り上げる。

 明治維新以降、日本は脱亜入欧・富国強兵・殖産興業の道をひたすら突き進んできました。西洋近代化のコースをひた走るうち、欧米と同じアジア侵略を意図するようになった、と指摘されることもあります。しかし実際はどうだったのでしょうか。
 ヨーロッパ諸国がアジアに進出するさなか、日本は独立自尊を維持するために必死に戦っていました。日本の安全を確保するにはアジアの保全が不可欠だったにもかかわらず、中国や朝鮮は西洋化を進める日本を見下し、これに味方しようとしませんでした。
 台湾、朝鮮、満州といった地域を清国から解放し経営することが、列強と渡り合うために不可欠でした。清の支配下にある限り、これらの地域は列強に奪われ、日本、そしてアジア全体が危機にさらされることになります。
 日本は朝鮮を独立、近代化させて共にアジア防衛にあたろうと図りました。しかし清は日清戦争でそれを妨害し、さらにロシアと提携して日露戦争を起こしました。アジアを守るため、まず列強と戦わなければならなかったのです。
 清が崩壊した後、中国は英米やロシア(ソ連)の操り人形となっていきます。日本はアジア防衛の陣地である満州、そして中国での権益を守るため、支那事変、大東亜戦争への道を歩んでいきました。
 日本にとってそれまで最も脅威だったのはロシアであり、国防の中心は朝鮮、満州、華北(中国北部)でした。しかし強大になっていく日本を「黄禍」(おうか)と英米が敵視するようになると、アジア防衛の重点は英米の植民地である東南アジアに移っていきます。これは当然の流れで、「日本がアジアに野望の牙をむけた」というには当たりません。
「東亜の解放」の名のもとに日本は逆襲し、それによって英米の支配から解放された東南アジア諸国は実際に独立を果たしていきます。1943年にはビルマ、フィリピン、1944年にはインドシナがそれぞれ独立を果たしました。
 その他にも、日本が組織したインドネシア義勇軍(PETA)、マレー興亜訓練所、インド国民軍などは、その後の独立運動に大きく貢献しています。
 これらの史実に対して「『東亜の解放』はただの建前だ。日本の真の目的はアジア侵略であって、植民地の独立はたまたまに過ぎない」という見方もあります。もちろん「東亜の解放」のためだけに戦争したわけではありませんし、現地住民からの抵抗や反発もありました。
 しかし当時の日本人にとって、「列強を追い出し、アジアの諸民族と共存共栄をはからなければ、日本の生存権は守れない」という意識を多くの国民が持っていました。「東亜の解放」は決して形だけのスローガンだったのではなかったのです。

 端的でわかりやすい文章だ。このような歴史すら知らない人々がまだまだ多い。日本が統治した国々は白人の植民地とは全く異なっていた。欧米は植民地から搾取するだけであったが日本は国家予算を割いてインフラを整備し、帝国大学を設け、医療・教育・民族文化の学術的な保全まで行った。奴隷にすることがなかったのはもちろんのこと、努力次第では出世をすることも可能だった。

 たぶん本当に頭のいい白人が日本の植民地経営を見て、「このままゆけば日本が世界を支配するに違いない」と危機感を募らせたことだろう。有色人種が決して劣っていないことを日本人が証明してしまったのだ。白人の怒りがどれほど凄まじかったかは日本の敗戦処理を見れば一目瞭然だ。マッカーサー率いるGHQは「日本が軍事的に二度と立ち上がることができないようにする」のが目的だった。その目論見は見事成功した。

 数百年にわたって欧米の支配から逃れられなかった植民地諸国を、日本はわずか数年で解放へと導きました。そして一度支配から解き放たれた植民地は、もはや欧米の言いなりにはならなかったのです。
 東アジアにおけるイギリスの最大拠点だったシンガポールが日本の手で陥落した際、フランスの軍人(のちの大統領)ド・ゴールは「アジアの白人帝国の終焉(しゅうえん)だ」と日記に書き記しています。

 白人帝国を終わらせたがゆえにいまだ日本は国際社会で悪者扱いをされるのだ。イギリスが旧植民地に対して謝罪したことはただの一度もない。

 やはり白人と日本人は情緒が異なる。結果的に利用される同盟関係となることを避けられないように思う。歴史的なつながりを考えれば、台湾・インド・トルコと連携するのが望ましい。

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2015-11-07

マッカーシズムは正しかったのか?/『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア


『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫
『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』有馬哲夫
『秘密のファイル CIAの対日工作』春名幹男
・『ハリウッドとマッカーシズム』陸井三郎

 ・マッカーシズムは正しかったのか?

『日本の敵 グローバリズムの正体』渡部昇一、馬渕睦夫
・『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する』馬渕睦夫

 さらに重大なのは、驚くほど多くの数のアメリカ政府高官がソ連とつながっていたことが、「ヴェノナ」解読文によって判明したことだった。彼らは、そうと知りつつソ連情報機関と秘密の関係をもち、アメリカの国益をひどく損なう極秘情報をソ連に渡していたのである。アメリカ財務省におけるナンバー2の実力者で、連邦政府の中でも最も影響力のある官僚の一人であり、国際連合創立のときのアメリカ代表団にも参加していたハリー・デクスター・ホワイトが、どのようにすればアメリカの外交をねじまげられるかをKGBに助言していたこともわかってきた。
 また、フランクリン・ルーズベルトの信任厚い大統領補佐官だったラフリン・カリーは、ソ連のアメリカ人エージェントとして重要な地位にあったグレゴリー・シルバーマスターをFBIが調べ始めたとき、そのことをKGBに通報していた。このため、米政府内の大変有益なスパイ一団を指揮していたシルバーマスターは、捜査を逃れてスパイ活動を続けることができた。当時のアメリカの主要なインテリジェンス機関であったOSS(戦略事務局)で調査部長の地位についていたモーリス・ハルパリンは、数百ページものアメリカの秘密外交通信をKGBに渡していたのであった。
 アメリカ政府のすぐれた若手航空科学者だったウィリアム・パールは、アメリカのジェット・エンジンやジェット機についての極秘の設計試験結果をソ連に知らせており、彼の裏切りのおかげで、ソ連はジェット機開発でアメリカが技術的にリードしていた大きな格差を克服し、早期に追いつくことができた。朝鮮戦争で、米軍指導部は自分たちの空軍力なら戦闘空域で敵を制圧できると考えていたが、これは北朝鮮や共産中国の用いるソ連製航空機がアメリカのものにはとうてい太刀打ちできない、と考えていたからである。しかし、ソ連のミグ15ジェット戦闘機はアメリカのプロペラ機よりはるかに速く飛行できただけでなく、第一世代のアメリカのジェット機と比べても明らかに優っていたため、米空軍は大きな衝撃を受けた。その後、アメリカの最新ジェット機のF-86セイバーの開発を急ぐことででやっと、アメリカはミグ15の技術的能力に対抗することができた。アメリカ空軍はようやく優位を得たが、それはアメリカ航空機の設計よりも大部分、米軍パイロットの技量によるものであった。

【『ヴェノナ』ジョン・アール・ヘインズ、ハーヴェイ・クレア:中西輝政監訳、山添博史〈やまぞえ・ひろし〉、佐々木太郎、金自成〈キム・ジャソン〉訳(PHP研究所、2010年/扶桑社、2019年)以下同】

 ほぼ学術書である。中西輝政は自著で「ヴェノナ文書によってマッカーシズムが正しかったことが証明された」と言い切っているが、私にその確信はない。ただ明らかなのは米国首脳部にまでKGB(カーゲーベー)の手が及んでいた事実である。はたまたルーズヴェルト本人が左翼であったという説もある(『アメリカの社会主義者が日米戦争を仕組んだ 「日米近現代史」から戦争と革命の20世紀を総括する』馬渕睦夫、2015年)。

 日本の読者がこの本の中でとくに関心をもつのは、ソ連がアメリカの原爆開発「マンハッタン・プロジェクト」に多くのスパイを送り込んでいたため、アメリカの原爆開発の実態を非常によく知っていた、という部分だと思います。事実、1945年の7月にポツダムでトルーマン大統領はスターリンに会い、アメリカは非常に強力な新兵器をすぐに日本に対して使用することができる、と話しましたが、そのときスターリンには驚いた様子は全くありませんでした。おそらくスターリンは原爆について、トルーマンよりも早く、そしてより多くのことを知っていたのでしょう。(日本語版に寄せて)

 また、今日読み終えた『ひと目でわかる「GHQの日本人洗脳計画」の真実』(水間政憲、2015年)によれば、実は長崎に原爆は2発落とされていて、もう1発の不発弾はソ連に渡った可能性があるという。証拠として瀬島龍三元中佐が署名した「原子爆弾保管ノ件」という機密文書を掲載している(ロシア国防省中央公文書館所蔵)。

 冷戦前夜の第二次世界大戦は米ソのスパイが暗躍する時代であった。日本だとソ連の手先としてはリヒャルト・ゾルゲ尾崎秀実〈おざき・ほつみ〉が知られる(いずれも死刑)。

 ひょっとすると帝国主義を葬ったのはコミンテルンの指示を受けた工作員の活躍によるところが大きいのかもしれない。彼らに下された使命は国家転覆を狙った破壊と混乱であった。

 マッカーシズムを否定的に篤かった書籍に陸井三郎著『ハリウッドとマッカーシズム』(1990年)がある。個人的に読み物としてはどちらもあまり評価できない。

 これだけだと「ヴェナノ文書」を理解することはできないと思われるので動画と関連書を紹介する。








憲法9条に埋葬された日本人の誇り/『國破れて マッカーサー』西鋭夫

2012-01-06

旧日本軍の武装解除と9条の誕生は何の関係もない

「戦後、米は日本を武装解除するために9条をつくった」。ある護憲派学者の発言。これは間違い。旧日本軍の武装解除と9条の誕生は何の関係もない。武装解除完了は1945年10月。マッカーサーノートは1946年2月。
Jan 06 via webFavoriteRetweetReply


◎『武装解除 紛争屋が見た世界』伊勢崎賢治
◎「私たちは大量虐殺を未然に防ぐ努力を怠ってきた」/『NHK未来への提言 ロメオ・ダレール 戦禍なき時代を築く』ロメオ・ダレール、伊勢崎賢治

2018-11-30

外務省の極秘文書『日本外交の過誤』が公開/『敗戦への三つの〈思いこみ〉 外交官が描く実像』山口洋一


 ・外務省の極秘文書『日本外交の過誤』が公開

『腑抜けになったか日本人 日本大使が描く戦後体制脱却への道筋』山口洋一
『植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす』山口洋一
『驕れる白人と闘うための日本近代史』松原久子

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 やがて元勲たちが国政の表舞台から退き、軍人がわが世の春を謳歌する時代となるにつれて、外務省は軍部追随の色彩を徐々に強めていく。この間の事情を最もよく物語っているのは、外務省資料『日本外交の過誤』である。
 2003年4月、外務省は極秘文書『日本外交の過誤』の秘密指定を解除し、これを公表した。これは1951年に作成された外務省の文書であるが、吉田茂総理の命により、課長クラスの若手省員が精力的に作業を行い、満州事変から敗戦までの日本外交の過誤を洗い出し、後世の参考にせんとして作成したものである。この資料の本体は、膨大な作業の結論としてまとめられた、50ページ程度の『調書』であるが、これに加えて、『調書』についての堀田正昭、有田八郎、重光葵、佐藤尚武、林久治郎、吉沢謙吉ら、先輩外交官や大臣の所見(インタビューでの談話録)および省員の批評があり、これも付属文書(以下においてはこれを『所見』と記すことにする)として公開された。さらに、『調書』作成の基礎となった259ページに及ぶ『作業ペーパー』が残されており、これは『調書』『所見』からは1年以上遅れて、2004年6月に公表された。こうして『調書』『所見』『作業ペーパー』の3点セットが2004年には完全に揃うこととなった。これらの資料は、満州事変以降、終戦に至る日本の対外政策を考える上で、よりどころとなる貴重な手がかりを与えている。

【『敗戦への三つの〈思いこみ〉 外交官が描く実像』山口洋一(勁草書房、2005年)以下同】

『植民地残酷物語』で山口洋一は竹山道雄を引用していた。そして本書では岡崎久彦を引用している。竹山道雄~山口洋一~岡崎久彦という流れが今年の読書遍歴の中軸を成した。本物の知性は良識に支えられている。学者は専門知識に溺れて世間を侮る。そして知らず知らずのうちに社会から離れてゆく。彼らが語る死んだ知識は生きた大衆の耳に届かない。山口は外交官、岡崎は外務官僚、竹山は文学者である。彼らは自分の専門領域を超えて歴史に着手した。実務経験に裏打ちされた確かな眼が人間の姿をしっかりと捉える。更に歴史と人間の複雑な絡み合いやイレギュラーをも見据えている。

 元勲たちに代わって登場してきたのは、陸軍大学校、陸軍士官学校、海軍大学校、海軍兵学校などで教育を受けた軍事エリートたちだった。明治になってからの、こうした軍の高等教育機関は、欧米列強の軍事れべるに追いつかねばならないという焦りから、目先のことに役立つ軍事教育に専念するようになった。政戦合わせた国家戦略を構築するというステーツマンとしての教育はなおざりにされ、国家経営のジェネラリストではなく、軍事に特化したスペシャリストを育成したのである。そしてこのような軍事スペシャリストが徐々に国家の枢要ポストを占めるようになる。

 武士から明治維新の志士を経て国士となったのが元勲である。明治開国で不平等条約を結ばされ、治外法権を受け入れた日本がステーツマン(見識のある政治家)やジェネラリスト(広範な分野の知識・技術・経験をもつ人)を育成する余裕はなかった。半植民地状態を脱するには廃藩置県によって誕生した国軍を強化する他ない。富国強兵・殖産興業は国家としての一大目標であった。惜しむらくは大正デモクラシー後に政党政治が育たなかったことである。

 山口の文章には日本から武士が滅んでしまった歴史への恨みが滲み出ている。もはや国士も見当たらない。ステーツマン・ジェネラリストであるべき官僚は省益のために働くサラリーマンと化してしまった。国が亡びないのが不思議なくらいだ。きっと人の知れないところで日本という国家を支えている人々が存在するのだろう。

 外務省資料『日本外交の過誤』には伏線があった。

 しかし、人間でも国家でも失敗の経験というのは貴重なものである。大失敗などめったにするものでもないし、またすることが許されるわけでもないのだから、ここから教訓を学びとらない手はない。
 ところが、戦後の史観は、真珠湾攻撃が悪かったというだけならまだしも、統帥権(とうすいけん)の独立があったから、さらには明治憲法があったから、しょせん日本は滅びたということで、あれだけ全国民が全身全霊で打ち込んだ大戦争をしながら、そこから具体的な教訓を得ようという姿勢に乏しかった。
 じつは敗戦直後、天皇は東久邇宮成彦〈ひがしくにのみや・なるひこ〉総理に対して「大東亜戦争の原因と敗因を究明して、ふたたび日本民族がこういう戦争を起さないようにしたい」とのお言葉があり、幣原喜重郎〈しではら・きじゅうろう〉内閣も敗戦の原因究明こそ日本再建にとって最重要課題の一つと考えて、昭和20年12月20日に戦争調査会が設置され、幣原自身が会長となった。ところが昭和21年7月、対日理事会でソ連代表が、会に旧軍人が参加していることを理由として、これは次の戦争に負けないように準備しているのだと非難し、英国もこれに同調した。当時の吉田茂総理からマッカーサーの了承を得ようとしたがそれも失敗し、幣原の憤懣(ふんまん)のなかで廃止された経緯がある。この作業がきちんと行われていれば、日本もあの戦争から多々教訓を学びえたはずであるが、もうその後は占領軍の言論統制のなかで、日本の過去はすべて悪だったのだから、戦略の是非など論じるのはおこがましい、極端な場合は「むしろ負けてよかった」というような史観だけが独り歩きすることとなった。

【『重光・東郷とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、2001年)/PHP文庫、2003年】

 偶然にも先ほど読んだ箇所に出てきた。読書の醍醐味は知識と知識がつながり、人と人とがつながるところにある。敗戦はつくづく残酷なものだ。日本は反省する機会すら奪われたのだから。しかしながら敗戦から半世紀を経て近代史を見直す動きが現れたことは日本人の魂がまだ亡んでいなかった証左といえよう。

 老人が生活を憂(うれ)えるのは構わない。若者であれば貧しくとも国家を憂(うれ)えよと言いたい。一身の栄誉など踏みつけて国家の行く末を案じるべきだ。

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戦争調査会 幻の政府文書を読み解く (講談社現代新書)
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2018-08-07

東亜百年戦争/『大東亜戦争肯定論』林房雄


『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫
『日本人の誇り』藤原正彦

 ・東亜百年戦争

・『緑の日本列島 激流する明治百年』林房雄

必読書リスト その四
日本の近代史を学ぶ

 さて、やっと私の意見をのべる番がめぐってきたようだ。
 私は「大東亜戦争は百年戦争の終曲であった」と考える。ジャンヌ・ダルクで有名な「英仏百年戦争」に似ているというのではない。また、戦争中、「この戦争は将来百年はつづく。そのつもりで戦い抜かねばならぬ」と叫んだ軍人がいたが、その意味とも全くちがう。それは今から百年前に始まり、【百年間戦われて終結した】戦争であった。(中略)
 百年戦争は8月15日に終った。では、いつ始まったのか。さかのぼれば、当然「明治維新」に行きあたる。が、明治元年ではまだ足りない。それは維新の約20年前に始まったと私は考える。私のいう「百年前」はどんな時代であったろうか?(中略)

 米国海将ペルリの日本訪問は嘉永6年、1853年の6月。明治元年からさかのぼれば15年前である。それが「東亜百年戦争」の始まりか。いや、もっと前だ。この黒船渡来で、日本は長い鎖国の夢を破られ、「たった四はいで夜も寝られぬ」大騒ぎになったということになっているが、これは狂歌的または講談的歴史の無邪気な嘘である。
 オランダ、ポルトガル以外の外国艦船の日本近海出没の時期はペルリ来航からさらに7年以上さかのぼる。それが急激に数を増したのは弘化年間であった。そのころから幕府と諸侯は外夷対策と沿海防備に東奔西走させられて、夜も眠るどころではなかった。

【『大東亜戦争肯定論』林房雄(中公文庫、2014年/番町書房:正編1964年、続編1965年/夏目書房普及版、2006年/『中央公論』1963~65年にかけて16回に渡る連載)】

 歴史を見据える小説家の眼が「東亜百年戦争」を捉えた。私はつい先日気づいたのだが、ペリーの黒船出航(1852年)からGHQの占領終了(1952年)までがぴったり100年となる。日本が近代化という大波の中で溺れそうになりながらも、足掻き、もがいた100年であった。作家の鋭い眼光に畏怖の念を覚える。しかも堂々と月刊誌に連載したのは、反論を受け止める勇気を持ち合わせていた証拠であろう。連載当時の安保闘争があれほどの盛り上がりを見せたのも「反米」という軸で結束していたためと思われる。『国民の歴史』西尾幹二、『國破れてマッカーサー』西鋭夫、『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八、『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉の後に読むのがよい。「必読書」入り。致命的な過失は解説を保阪正康に書かせたことである。中央公論社の愚行を戒めておく。西尾幹二か中西輝政に書かせるのが当然であろう。(読書日記転載)

 目から鱗(うろこ)が落ちるとはこのことだ。東京裁判史観に毒された我々は【何のために】日本が戦争をしてきたのかを知らない。「教えられなかったから」との言いわけは通用しない。朝日新聞が30年にもわたってキャンペーンを張ってきた慰安婦捏造問題や、韓国が世界各地に設置している慰安婦像のニュースは誰もが知っているはずだ。少しでも疑問を持つならば自分で調べるのが当然である。その程度の知的作業を怠る人はとてもじゃないが自分の人生を歩んでいるとは言えないだろう。情報の吟味を欠いた精神態度は必ず他人の言葉を鵜呑みにし、価値観もコロコロと変わってしまう。

 林房雄を1845年(弘化元年)から1945年までを100年としているが、私は、マシュー・ペリーがアメリカを出港した1852年(嘉永5年)からGHQの占領が終った1952年(昭和27年)までを100年とする藤原正彦説(『日本人の誇り』)を支持する。更に言えば東亜百年戦争の準備期間として2世紀にわたる鎖国(1639年/寛永16年-1854年/嘉永7年)があり、日本人が外敵に警戒するようになったのは豊臣秀吉バテレン追放令(1587年/天正15年)にまでさかのぼる。

 つまりだ、15世紀半ばに狼煙(のろし)を上げたヨーロッパ人による大航海時代(-17世紀半ば)の動きを日本は鋭く察知していたのだ。帝国主義の源流を辿ればレコンキスタ(718-1492年)-十字軍(1096-1272年)にまで行き着く。モンゴル帝国が西ヨーロッパまで征服しなかったことが悔やまれてならない。

 こうして振り返れば西暦1000年代が白人覇権の時代であったことが理解できよう。そして大航海時代は有色人種が奴隷とされた時代であった。豊臣秀吉はヨーロッパ人が日本人を買い付けて奴隷にしている事実を知っていたのだ。その後日本は鎖国政策によってミラクルピース(世界史的にも稀な長期的な平和時代)と呼ばれる時代を迎えた。一旦は採用した銃を廃止し得たのも我が国以外には存在しない。

 戦前の全ての歴史を否定してみせたのが左翼による進歩史観である。「歴史は進歩するから昔は悪かった、否、悪くなければならない」という馬鹿げた教条主義だ。これを知識人たちはついこの間まで疑うことがなかった。鎖国も単純に閉鎖的な印象でしか語られてこなかった。武士という軍事力が植民地化を防ぐ力となった事実も忘れられている。

 世界史の動きや日本の来し方に思いを致さず、ただ単に大東亜戦争を侵略戦争だからという理由で国旗や国歌を拒否する人々がいる。しかも児童の教育に携わる教員の中にいるのだ。国家反逆罪で逮捕するのが筋ではないか。いかなる思想・宗教も自由であるべきだが国を否定する者はこの国から出てゆくべきである。

大東亜戦争肯定論 (中公文庫)
林 房雄
中央公論新社 (2014-11-21)
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2016-04-22

砂川裁判が日本の法体系を変えた/『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治


・『本土の人間は知らないが、沖縄の人はみんな知っていること 沖縄・米軍基地観光ガイド』須田慎太郎・写真、矢部宏治・文、前泊博盛・監修

 ・米軍機は米軍住宅の上空を飛ばない
 ・東京よりも広い沖縄の18%が米軍基地
 ・砂川裁判が日本の法体系を変えた

・『戦後史の正体』孫崎享
・『本当は憲法より大切な「日米地位協定入門」』前泊博盛編著

 少し高台にのぼると、
「ああ、米軍はあの海岸から1945年に上陸してきて、そのままそこに居すわったんだな」
 ということが非常によくわかります。
【つまり「占領軍」が「在日米軍」と看板をかけかえただけで、1945年からずっと同じ形で同じ場所にいるわけです】。

【『日本はなぜ、「基地」と「原発」を止められないのか』矢部宏治〈やべ・こうじ〉(集英社インターナショナル、2014年/講談社+α文庫、2019年)以下同】

 正確さを欠く危うい記述である。サンフランシスコ講和条約(1951年)で沖縄はアメリカの施政下に置かれた。日本に返還されたのは1972年(昭和47年)のこと。沖縄はアメリカの領土であった。

 岸信介首相が1960年に日米安保を改定(60年安保)。学生運動の反安保闘争は激しさを増し、東大の女子学生・樺美智子〈かんば・みちこ〉の死によって頂点に達した。追い込まれた岸は辞意を表明する。その直後に岸は右翼暴漢に襲われた。


 政権は池田勇人〈いけだ・はやと〉を経て岸の弟・佐藤栄作に渡る。つまり兄が安保を改定し、弟が沖縄返還を実現させたのだ。佐藤は「核抜き本土並みの返還」を目指した。それに対してアメリカは日米安保を維持するために沖縄返還を決意する(沖縄返還と密約 アメリカの対日外交戦略)。佐藤の密使は京都産業大学教授の若泉敬〈わかいずみ・けい〉であった。

 そこで歴史を調べていくと、憲法9条第2項の戦力放棄と、沖縄の軍事基地化は、最初から完全にセットとして生まれたものだということがわかりました。つまり憲法9条を書いたマッカーサーは、沖縄を軍事要塞化して、嘉手納基地に強力な空軍を置いておけば、そしてそこに核兵器を配備しておけば、日本本土に軍事力はなくてもいいと考えたわけです。(1948年3月3日/ジョージ・ケナン国務省政策企画室長との会談ほか)
 だから日本の平和憲法、とくに9条第2項の「戦力放棄」は、世界じゅうが軍備をやめて平和になりましょうというような話ではまったくない。沖縄の軍事要塞化、核武装化と完全にセット。いわゆる護憲論者の言っている美しい話とは、かなりちがったものだということがわかりました。

 佐藤の沖縄返還交渉ワシントン訪問に同行した石原慎太郎(当時参議院議員)が若泉からのアドバイスでアメリカの核戦略基地を見学しにゆく。「その時にアメリカの警戒システムが全然日本をカバーしていないことが分かった」。石原が司令官に「アメリカの核の抑止力は全然『傘』になっていないじゃないですか」と問うと、「当たり前じゃないか、石原君。日本なんて遠過ぎて、とてもじゃないけれど及ばない。お前たち危ないんだったら、なぜ自分で核兵器を開発しない」と言い返された(今だから話せるこの国への思い(後編)――石原慎太郎氏(作家)×德川家広氏)。

 若泉敬は自著『他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』(文藝春秋、1994年)の英語版を完成させると、核密約の責任をとるべく青酸カリを服して自裁を遂げる。享年66歳。


 占領中の1950年から第2代の最高裁判所長官をつとめた田中耕太郎という人物が、独立から7年後の1959年、駐日アメリカ大使から指示と誘導を受けながら、在日米軍の権利を全面的に肯定する判決を書いた。その判決の影響で、在日米軍の治外法権状態が確定してしまった。またそれだけでなく、われわれ日本人はその後、政府から重大な人権侵害を受けたときに、それに抵抗する手段がなくなってしまった。

“「戦後再発見」双書”の仕掛け人である矢部は『検証・法治国家崩壊 砂川裁判と日米密約交渉』(吉田敏浩、新原昭治、末浪靖司/創元社、2014年)を紹介している。そのうち読んでみるつもりだ。

【つまり安保条約とそれに関する取り決めが、憲法をふくむ日本の国内法全体に優越する構造が、このとき法的に確定したわけです】。
 だから在日米軍というのは、日本国内でなにをやってもいい。住宅地での低空飛行や、事故現場の一方的な封鎖など、これまで例に出してきたさまざまな米軍の「違法行為」は、実はちっとも違法じゃなかった。日本の法体系のもとでは完全に合法だということがわかりました。ひどい話です。

 吉田茂は国体を護持し、経済復興を優先するために軍事力をアメリカに押しつけた。岸・佐藤兄弟は日米安保を軸に沖縄返還を実現させた。いずれも国益のための戦略で、政治家の識見やリーダーシップが存在した。だが日米安保からのスピンオフである砂川裁判には何の正当性もない。最高裁判決にはアメリカからの圧力があった(砂川事件 最高裁判決の背景)。判決の下った当時(1959年)は第二次岸内閣である。ここに国際法を無視した大東亜戦争と同じ精神性が垣間見える。方針だけ決めて後はまっしぐらに突き進むというやり方だ。我々日本人は細部にこだわることをよしとしない。求められるのは散る桜の如き潔さであり、不平不満を言うことなく阿吽(あうん)の呼吸で空気に従うことだ。そうすれば何とかなる。

 でも、何とかならないんだな、これが(笑)。戦争に負けても我々の精神性が変わることはなかった。この皺寄せは戦後を通して日本社会全体に行き渡る。それを象徴するランドマークが米軍基地と原子力発電所なのだ。



敵前逃亡した東大全共闘/『彼らが日本を滅ぼす』佐々淳行

2018-08-29

過去の歴史を支配する者は、未来を支配することもできる/『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明


『学校では絶対に教えない植民地の真実』黄文雄

 ・過去の歴史を支配する者は、未来を支配することもできる

『世界が語る大東亜戦争と東京裁判 アジア・西欧諸国の指導者・識者たちの名言集』吉本貞昭
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『人種差別から読み解く大東亜戦争』岩田温
『植民地残酷物語 白人優越意識を解き明かす』山口洋一

日本の近代史を学ぶ

 過去の歴史を支配する者は、未来を支配することもできる。日本は先の戦争に敗れてから、自国の歴史を盗まれた国となってしまった。
 歴史は記憶だ。記憶を喪失した人は、正常な生活を営むことができない。国家についても、同じことである。

【『大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか』加瀬英明〈かせ・ひであき〉(ベスト新書、2015年)以下同】

 著者は加瀬俊一〈かせ・としかず〉の子息である。名前は知らなくても誰もが必ず一度は見たことがあるはずだ。日本が大東亜戦争に敗れ、ミズーリ号で降伏を調印した際、重光葵〈しげみつ・まもる〉外相に付き添っていた外交官である(※当時42歳、Wikipedia、右上の画像)。

 加瀬英明の著作や言論にはやや脇の甘さがあるものの貴重な証言が多い。

「(小学3年生の)私は『東京がこんなにめちゃくちゃになったが、日本は大丈夫なのか』とたずねた。父は『アメリカは日本中壊すことができるが、日本人の魂を壊すことはできない』といった」「(ミズーリ号降伏文書調印式の)その前夜、祖母が父を呼んで、『あなた、ここにお座りなさい』といった。座ると、『母はあなたを降伏の使節にするために、育てたつもりはありません』と叱って、『行かないでください』といった。父は『お母様、この手続きをしないと、日本が立ち行かなくなってしまいます』と答えて、筋を追って説明した。祖母は納得しなかった。『私にはどうしても耐えられないことです』といって立つと、嗚咽(おえつ)しながら、父の新しい下着をそろえたという」(【戦後70年と私】加瀬英明氏 ミズーリ号で降伏文書調印に臨んだ父の無念と誇りを胸に - 政治・社会 - ZAKZAK)。

「私は重光さんに晩年まで可愛がられました。よく存じ上げて、いろいろ話を伺う機会がありました。重光さんは私の父とミズーリの艦上に立ったときのことを、次のように述懐されました。『あの日、敗れたという屈辱感よりも、日本が今度の戦争で多くの犠牲を払ってアジアを数世紀にわたった白人・西洋の植民地から解放したという高い誇りを胸に抱きながら、ミズーリ号の甲板を踏んだ』」(戦艦ミズーリ号上での降伏文書調印と戦争犯罪(加瀬英明氏のコラム) - 東アジア歴史文化研究会)。

 冒頭の指摘はジョージ・オーウェルと完全に一致している。「そして他の誰もが党の押し付ける嘘を受け入れることになれば――すべての記録が同じ作り話を記すことになれば――その嘘は歴史へと移行し、真実になってしまう。党のスローガンは言う、“過去をコントロールするものは未来をコントロールし、現在をコントロールするものは過去をコントロールする”と」(『一九八四年』ジョージ・オーウェル)。

 オーウェルの『一九八四年』や『動物農場』は社会主義国家の風刺といわれるが敗戦後の日本と重なって仕方がない。GHQの半分が左翼であったことが判明しているが、マッカーサー以下GHQの総意として、白人に歯向かった日本の歴史を書き換える必要があったのは確実だ。上書き更新された歴史は半世紀に渡って日本を蝕み続け、今もなお余燼(よじん)がくすぶっている。

 ルーズベルト大統領が中国を愛して、日本を疎(うと)んでいたことが、日米戦争の大きな原因となった。
 ルーズベルトの母サラの父は、帆船(クリッパー)時代の清朝末期に、阿片貿易によって巨富を築いて、香港にも豪邸を所有していた。サラは少女時代に香港に滞在して、中国を深く愛するようになった。(中略)
 多くのアメリカ国民が、中国をアメリカの勢力圏のなかにあると、みなしていた。
 中国は、多くのキリスト教宣教師をアメリカから受け入れていたし、アメリカ国民が“巨大な中国市場”を夢みて、中国に好意を寄せていた。ところが、日本は市場が地位さすぎたし、伝統文化を守って、キリスト教文明に同化することを拒み、アメリカに媚(こ)びることがない、異質な国だった。(中略)
 ルーズベルトはそれにもかかわらず、日本が中国を侵略したとみなした。(中略)
 ルーズベルトは盧溝橋事件も、第二次上海事変も、日本が中国を計画的に侵略したと、曲解した。
 日華事変は、日本から仕掛けたのではなかった。
 戦後になって、日華事変は日中戦争と呼ばれるようになったが、日本も中国も、日米戦争が始まるまで、互いに宣戦布告をしなかった。事変と呼ぶのが正しい。
 ルーズベルト政権は、日本がアメリカに対して、いささかの害も及し(ママ)ていなかったのにもかかわらず、日本を敵視した。(中略)
 ルーズベルト政権は、中国へ惜しみなく、援助資金と、兵器、軍需物資を注ぎ込んだ。
 多くのアメリカ国民が、蒋介石総統とその宋美齢夫人がキリスト教徒だったために、キリスト教国である中国が、異教の日本による侵略を蒙(こうむ)っているとみなした。
 蒋政権はアメリカの世論を工作するために、アメリカのマスコミや、大学、研究所に、ふんだんに資金をばら撒(ま)いた。
 翌年、シェンノートは大佐として、中華民国空軍航空参謀帳に任命された。
 シェンノートは、蒋介石政権に戦闘機と、アメリカ陸軍航空隊のパイロットを、「義勇兵」(ボランティア)として、偽装して派兵する案を、ルーズベルト政権に提出した。ルーズベルト大統領はこの提案を、ただちに承認した。
 これは、重大な国際法違反だった。シェンノートの航空機は、機首に虎の絵を描いていたので、「フライング・タイガース」として知られた。アメリカが戦闘機を供給した。中国の「青天白日」のマークをつけて、アメリカの「義勇兵」が操縦する「フライング・タイガース」は、アメリカで大きく報道された。

 検索したのだが中々これだという情報が見つからない。フライング・タイガースと日本軍の初戦が1941年(昭和16年)12月25日(加藤隼戦闘隊 VS フライングタイガース - かつて日本は美しかった)だとすれば、Wikipediaの「実際に戦闘に参加し始めたのは日米開戦後であったため、このような経緯から『義勇軍』の意義もうやむやになった」という指摘は正しい。正しいのだが、「昭和16年7月23日、ルーズベルト大統領は、陸海軍長官の連名で(7月18日付)提出された合同委員会の対日攻撃計画書『JB355』にOKのサインをした」(「宣戦布告」をせずに戦争を仕掛けたのはアメリカだった。 真珠湾攻撃、その真実の歴史  正しい日本の歴史 | 正しい日本の歴史 | 正しい歴史認識)のだから、先に戦争を始めたのはアメリカだったという見方ができるのだ。

 しかも戦後、毛沢東率いる共産党に敗れつつあった蒋介石を根本博中将が助けるのである。歴史というものはつくづく厄介だと思われてならない。個人的には孫文や蒋介石を評価する気にはなれない。

 ナチス・ドイツがポーランドに進攻して第二次世界大戦の幕が開く。イギリス、フランスは2日後ドイツに宣戦布告をし、2週間後にはソ連も参戦した。ヨーロッパで死闘が繰り広げられる時に、ルーズベルトは反戦・孤立主義の公約を掲げて3選目の大統領選挙に勝利したのだった(1940年)。大衆はいつの時代も愚かだ。世論なんぞは雰囲気や感情で一夜にして変わる性質のものである。そもそも大衆には責任がないのだから。そして世論は常に誘導・操作される。

 インディアンを大量虐殺し、黒人を奴隷にして栄えたアメリカが、黄色人種の国日本に原爆を2発落とした。アメリカの歴史を1行に要約すればこうなる。

 せめて我々の世代が「正しい記憶」を取り戻し、子々孫々が「正しい判断」をできるようにしておくことが責務であると強く思う。

大東亜戦争で日本はいかに世界を変えたか (ベスト新書)
加瀬 英明
ベストセラーズ
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2015-08-21

吉田たかよし、早瀬利之、松原久子、パオロ・マッツァリーノ、笹本恒子、川島小鳥、他


 7冊挫折、8冊読了。

首斬り人の娘』オリヴァー・ペチュ:猪股和夫訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2012年)/1ページで挫ける。3人称で書いておきながら、息子の視点が混ざったりする。致命傷といってよい。

秘録 東京裁判』清瀬一郎(読売新聞社、1967年/中公文庫、2002年)/清瀬一郎は東京裁判で東條英機の弁護人を務めた人物。後半は飛ばし読み。基本的なテキストなので「日本の近代史を学ぶ」には入れてある。

好奇心ガール、いま97歳』笹本恒子(小学館、2011年)/笹本恒子は日本の報道カメラマンの草分け。カメラウーマンとすべきか。ま、本にするほどの生き方とは思えない。

サイコパス 秘められた能力』ケヴィン・ダットン:小林由香利訳(NHK出版、2013年)/心理学者が書いたインチキ本だと思う。サイコパスをきちんと定義もせずに「サイコパス」を連発する。パーソナリティ障害や発達障害との区分けについても触れていない。サイコパスを肯定的に捉えた内容。

音のない記憶 ろうあの天才写真家井上孝治の生涯』黒岩比佐子(文藝春秋、1999年)/表紙を飾っているのは私の大好きな写真だ。著者が「私」を語りすぎていて読むに堪えない。

他策ナカリシヲ信ゼムト欲ス』若泉敬〈わかいずみ・けい〉(文藝春秋、1994年/新装版、2009年)/新装版に手嶋龍一が寄稿している。若泉敬は佐藤栄作の密使として沖縄返還の交渉に当たった大学教授である。核密約の責任をとって本書の英訳版が完成した翌日、毒を飲んで自裁した。ほんの一部を飛ばし読み。大冊すぎて手のつけようがない。

経費で落ちるレシート・落ちないレシート』梅田泰宏(日本実業出版社、2013年)/タイトルの勝利。内容はそれほどでもない。っていうか平均以下だと思う。

 94冊目『未来ちゃん』川島小鳥〈かわしま・ことり〉(ナナロク社、2011年)/未来ちゃんは佐渡ヶ島に住む仮名の少女である。どこをどう見ても1970年代の昭和の匂いがプンプンしている。これほどの洟垂れ小僧はもう何十年も見ていないような気がする。眺めているだけで幸せな気分に浸れる。

 95冊目『恒子の昭和 日本初の女性報道写真家が撮影した人と出来事』笹本恒子(小学館、2012年)/話題となった写真展を書籍化。やはりこの人は文章よりも写真がいい。著名人を撮影した作品が多いが中でも浅沼稲次郎の写真が目を惹く。

 96冊目『小学館版学習まんが 八田與一』許光輝:監修、平良隆久:まんが、みやぞえ郁雄:シナリオ(小学館、2011年)/内容は劣るのだが図や写真で初めてダムの全容がわかった。子供向けながら細君の死にもきちんと触れている。

 97冊目『誰も調べなかった日本文化史 土下座・先生・牛・全裸』パオロ・マッツァリーノ(ちくま文庫、2014年/二見書房、2011年『パオロ・マッツァリーノの日本史漫談』を加筆改題、文庫化)/似非イタリア人は相変わらず読ませる(笑)。副題を見てもわかる通り、「誰も調べねーよ」と言いたくなるテーマばかりだ。パオロ・マッツァリーノの本は社会学的センスを学ぶ入門書と捉えるべきだ。

 98冊目『臓器の急所 生活習慣と戦う60の健康法則』吉田たかよし(角川SSC新書、2009年)/吉田たかよしは東大で量子化学を専攻し、東大大学院で分子細胞生物学を学び、NHKアナウンサーとなる。その後NHKを退職し、北里大学医学部を卒業。加藤紘一元自民党幹事長の公設第一秘書を経て、現在は開業医をしながら東京理科大学客員教授も務める。医学と科学に関してはポスト池上彰になるかもね。中高年は本書を座右に置くべし。というわけで「必読書」入り。

 99冊目『言挙げせよ日本 欧米追従は敗者への道』松原久子(プレジデント社、2000年)/私は松原久子の文体(スタイル)に惹かれる。どうしようもなく惹かれる。近代化で失った日本の心を復興すると同時に、白人による禍(わざわい)を世界に知らしめる必要があろう。これも「必読書」入り。

 100冊目『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之(双葉新書、2013年)/心を撃たれた。やや筆が走りすぎるきらいはあるものの行き過ぎた礼賛の一歩手前にとどまっている。これほどの日本人がいたとは。その天才ぶりと豪胆を仰ぎ見る。「俺を戦犯にしろ。裁判で言いたいことがある」と石原は言い切った。これまた「必読書」入り。

 101冊目『世界は「ゆらぎ」でできている 宇宙、素粒子、人体の本質』吉田たかよし(光文社新書、2013年)/吉田たかよしは説明が巧みである。しかもわかりやすい。諸行無常とは変化の謂(いい)であるが、諸法の実相は「ゆらぎ」である。宇宙はゆらぎから生まれ、人体の臓器もゆらいでいる。

2015-12-09

真珠湾攻撃の宣戦布告が遅れた真相/『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八


『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『國破れて マッカーサー』西鋭夫

 ・黒船の強味
 ・真珠湾攻撃の宣戦布告が遅れた真相

『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八

日本の近代史を学ぶ

Q●宣戦布告を定めた国際法はどのようなものでしたか。

A●「開戦に関する条約」といい、日本の代表は1907年10月18日に、オランダのハーグ会議の場で署名をした。欧州の主だった国々の間で効力を発生したのは、1910年1月26日からである(これ以前は、まだどの国も義務を負わされない)。日本は、1911年12月13日に批准書を寄託し、日本に関しては、条約の効力は、1912年2月11日から発生した。それに先立つ1912年1月13日に、政府が日本国民に向けて公布している。
 条約が国際法として有効になるためには、出席した代表者のサイン(調印)だけではだめで、本国の国会の批准が必要である。アメリカ合衆国であれば、連邦議会上院の外交委員会で審議の上、上院が批准する。日本でも、貴族院や枢密院が反対すれば、批准はできないようになっていた。
「開戦に関する条約」は、「戦争は予告なくして之を開始せざるべし。また、戦争状態は遅滞なく之を中立国に通告すべし」と謳(うた)い、これが主な趣意である。

【『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉以下同】

 1907年は明治40年。1912年は明治45年で7月30日以降は大正元年となる。19世紀末、多くの国々が普仏戦争(1870-71年)に勝ったドイツ軍の動員奇襲に学ぶべくドイツ軍人を招聘(しょうへい)した。日本陸軍はメッケルを教官として受け入れた。本書はQ&Aの体裁となっているが、陸軍参謀の兒玉源太郎が動員奇襲によってロシアを防ぎ、満州国を最初に発想し、それが後に不良資産となってゆく様を詳述する。

 兵藤は真珠湾奇襲を「卑劣」と断じている。日米開戦の情況について再確認しておこう。

 アメリカ東部時間午後2時20分(ハワイ時間午前8時50分)野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が、コーデル・ハル国務長官に日米交渉打ち切りの最後通牒である「対米覚書」を手交する。日本は「米国及英国ニ対スル宣戦ノ詔書」を発して、米国と英国に宣戦を布告した。この文書は、本来なら攻撃開始の30分前にアメリカ政府へ手交する予定であったのだが、駐ワシントンD.C.日本大使館の井口貞夫元事官や奥村勝蔵一等書記官らが翻訳およびタイピングの準備に手間取り、結果的にアメリカ政府に手渡したのが攻撃開始の約1時間後となってしまった。そのため「真珠湾攻撃は日本軍の騙し打ちである」と、アメリカから批判を受ける事となった。

Wikipedia

 事務上の責任が問われる井口・奥村の罪は切腹ものだ、と指摘する声も少なくない。ところが実際はこの二人、戦後になって重用(ちょうよう)されているのである。対米覚書の手交が遅れた模様については、以下の説明が一般的だ。

【外務省の本性】“日米開戦”という国難において『自国破壊行為』を行った2名の在米キャリア外交官はどう処分されたか

 ところが2012年に新事実が判明する。

真珠湾攻撃の通告遅れ 大使館の怠慢説に反証/通信記録を九大教授発見 外務省の故意か

 1941年12月8日の日米開戦をめぐる新事実が明らかになった。最後通告の手直しが遅れ、米国に「だまし討ち」と非難された問題で、修正を指示する日本から大使館への電報が半日以上を経て発信されていたことを示す傍受記録が米国で見つかった。これまで不明だった発信時刻が判明。「在ワシントン大使館の職務怠慢による遅れ」とする通説に一石を投じそうだ。

 米メリーランド州にある米国立公文書記録管理局で9月末、記録を発見したのは九州大学の三輪宗弘教授。外務省が東京中央電信局からワシントンの大使館に向けた電報の発信時刻や、米海軍がそれを傍受した時刻などを記録した資料だ。
 開戦直前に外務省が大使館に送った公電は901号に始まり、911号まである。中核となる電報は902号で、米政府が戦争回避のための条件を日本に突きつけた文書、いわゆるハル・ノートに対し、これ以上の交渉を打ち切るとした覚書がその中身である。それ以外の電報は、誤字訂正や暗号解読機の破壊を命じた訓電などだ。

■誤字など175カ所

 902号電報は長文のため14部に分かれ、第1部から第13部までほぼ予定通りの時刻に発信された。しかし、12月7日午前1時(日本時間)までに発信するはずの14部は15時間以上遅延した。

 しかも902号電報には多くの誤字脱字があり、外務省は175カ所に及ぶ誤字などの訂正を903号、906号の2通に分けて大使館に送信した。
 外務省は戦後に、この2通の原本を紛失したとして、発信時刻に関して謎が残ったままだったが、三輪教授が今回の調査で2通の発信時刻を突き止めた。前に送った電報に誤りなどがあれば直ちに訂正電報を打つのが通例だが、調査結果によって、2通の発信時刻は前の電報(902号第13部)から十数時間後と大幅に時間がたっていることがわかった。

 当時は文書の清書にタイプライターを使っていた。ワープロと違って、字句の修正や挿入、削除があると最初から打ち直さなければならない。つまり訂正電報が届かない限り、大使館は通告文書を清書できないが、この2通の遅れが、最終的に米政府に通告文書を手交する時刻が遅れる大きな要因となった。

 なぜ2通は遅れたのか。訂正電報2通の発見は、通告遅延の真相解明に大きな意味を持つが、三輪教授は「発信の大幅遅れは、陸軍参謀本部のみならず外務省も関与していたことを示す証拠」と語り、外務省が故意に電報を遅延させた可能性が高いという。

 元外務官僚で退官後に東海大学などで近現代史を教えた井口武夫氏は、こうした問題を長年にわたり追究、戦後の極東軍事裁判での証言、関係者の手記などを基に902号第14部の遅延は陸軍参謀本部が関与、これに外務省が協力した結果と推定している。今回、見つかった新資料はそれを補完するものとなる。

 米国の通信会社が、日本からの暗号化したこれら電報を大使館に届けたのは7日午前9時前後(米国東部時間)とみられ、大使館が暗号を解読してタイプで清書、コーデル・ハル国務長官の手に渡ったのは真珠湾攻撃が始まった後の7日午後2時20分(同)だった。

 遅くとも真珠湾攻撃の30分前と設定していた最後通告が攻撃の後になったのは、大使館の怠慢によるとされてきた。米国で客死した大佐の葬儀に大使が参列しミサが長引いたほか、届かない公電を待ちくたびれて帰宅、翌朝になって出勤したため、米政府に手交する通告文書作成が遅延したというものだ。
 が、井口氏はそれを否定。「真実を歪曲(わいきょく)した開戦物語が一人歩きして国民に誤った印象を与えている」と指摘する。

■奇襲成功“支援”

 近年の研究によって様々な事実も明らかになっている。開戦直前の緊迫した状況だったにもかかわらず、大使館宛てのこれらの訓電の「至急」の指定が取り消され、「大至急」を「至急」に引き下げたものがあった。
 また、大佐の葬儀も、遅延には無関係だったことが長崎純心大学の塩崎弘明教授の研究によって明らかになった。
 さらに今回とは別に、三輪教授は国立公文書館で「A級裁判参考資料 真珠湾攻撃と日米交渉打切り通告との関係」を発見している。通告文の遅れを在米大使館に責任転嫁するとした弁護方針を記した資料だ。目的は東郷茂徳外相が重い罰を科されないようにするためとされる。
 今回の資料発見について、塩崎教授は「真珠湾の奇襲を成功させるため意図的に電報を遅らせたことがこれで明らかになった。打電時間についての新資料自体は細かなことだが、正確な歴史認識を得るためには、こうした史実を丁寧に掘り起こしていく必要がある」と語る。
 また、東京大学の渡辺昭夫名誉教授は「通告の前に攻撃が始まったという問題の本質は(新資料によっても)変わらないと思うが、隠されていた事実を明らかにし、政策決定における問題を追究するのは学問的に意味がある」と評している。

【日本経済新聞 2012年12月8日付】

 わかりにくい。実にわかりにくい。ストンと腑に落ちるものが一つもない。

 一方では、「宣戦布告の有無など大した問題ではない」「アメリカはベトナムやイラクに宣戦布告していない」との意見も多い。ただし、ベトナムやイラクは軍事制裁であって戦争ではないとの声もある。そもそも「開戦に関する条約」は日露戦争に由来する。日本が宣戦布告なしで戦闘に突入したことを問題視したわけだ(宣戦布告の歴史については「宣戦布告とは何か」を参照せよ)。

 更に二つある。「日本の暗号をアメリカはとっくに解読していたのだから、真珠湾攻撃は事前に知っていたはずだ」との指摘が一つ(真珠湾攻撃陰謀説)。そして「支那事変においてアメリカはフライング・タイガース(アメリカ合衆国義勇軍との位置づけ)を派遣して国民党を支援した時点において日米は戦闘状態に入った」とする説である。

 どの指摘ももっともらしく聞こえる。が、すっきりしない。兵藤は「日本が意図的に遅らせた」と言い切る。

Q●1941年12月の対米開戦前に、野村吉三郎大使がすでに2月からワシントンに赴任していたのに、11月になって、あとからもう一人、来栖大使を二重にアメリカへ送り込んだのは、なぜなのですか? 来栖大使を送って野村大使を呼び戻すというのならばともかく、野村大使はそのまま残り続けて、駐米の特命全権大使が二人も居ることになってしまった。しかも、日米交渉の打ち切りの通告は、元から居た野村大使が、アメリカの外務大臣であるハル国務長官に手交していますよね。だったら来栖大使は、何をしに来ていたのか? これを説明してくれる参考書がみつかりません。

A●二人の大使の帯びていた任務が180度サカサマであったと考えれば、得心がしやすいだろう。簡単に言えば、野村大使の使命は、赴任の最初から、来た(ママ)るべき対米開戦通告をできるだけ遅らせることにしかなかった。つまり米国海軍を奇襲することしか頭にない帝国海軍の利害の、暗黙の代理人だった。それに対して、外務省のプロ外交官である来栖大使は、〈昭和天皇の避戦の意向を、東条内閣としては大いに尊重し、このように動いておりますから〉という、いわば昭和天皇を騙すための芝居をさせられたのだ。
 対米開戦のプログラムはすでに9月から走り始めていて、11月ではもう誰にも止めようがない。来栖大使の派遣は、東条の天皇に対するポーズに過ぎなかっただろう。
 もちろん外務省は、子飼いの来栖の方を重く用いたかったろう。しかし、帝国海軍(海軍省、軍令部、連合艦隊)は、野村を無理に使わせ続けた。
 野村大使は元海軍大将だ。(中略)
 野村にしかできぬと大いに期待された仕事とは、日本海軍の秘密の願望――つまり開戦通告を遅らせて、いざというときに以心伝心で大使館業務のサボタージュ(もし開戦通告が実際の攻撃開始時刻よりも前すぎるなと思われた場合は、それを独断で攻撃開始直後まで遅らせてしまう)をやってのけることだったろう。
 日本外務省としても、外交官出身ではない野村などを駐米大使に発令されるのは、初めから面白くはなかった。大いに不満だったのだが、明治いらい(ママ)、日本外務省は、帝国陸海軍の奇襲開戦に奉仕するのが秘密の使命になっていたので、さいしょから米国に奇襲開戦する意欲に燃えていた海軍省からの露骨な人事要求を呑んでいたまでだ。

 ヘッケルから教わったプロシア式動員奇襲の伝統から日本軍は抜け出すことができなかった。真相はやはり「真珠湾奇襲」であったのだろう。

 確かに真珠湾奇襲は卑劣な行為であった。だが戦争行為そのものが罪とされるわけではない。ナチス・ドイツが第二次世界大戦において殆どの戦争において宣戦布告をしていないにもかかわらず、なぜ真珠湾だけが特筆されるのか? それはアメリカの開戦理由による。フランクリン・ルーズベルトは「アメリカの青少年をいかなる外国の戦争にも送り込むことはない」と公約して大統領になった。だが彼はイギリスがナチス・ドイツに苦戦するのを見て、参戦せずにはいられなかった。アメリカは世論の国である。大統領といえどもこれを無視することはできない。そこでエネルギーや資源の乏しい日本を禁輸で締め上げ、暴発する瞬間を待った。ルーズベルトは真珠湾奇襲を神に感謝したことだろう。モンロー主義を堅持してきたアメリカの世論は完全に引っくり返った。

 近代日本の迷走は明治維新に始まり大東亜戦争で頂点に至り、敗戦以降、東京裁判史観に覆われた挙げ句に国家観を見失った。奇襲は卑劣な行為であったとしても、戦争行為そのものが卑劣とされるわけではない。「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」(クラウゼヴィッツ)。国家には戦争をする権利があるのだ。戦後教育は戦争=悪という図式を児童に刷り込んだ。そんな国民が安全保障や憲法改正を正しく考えることなど不可能だろう。

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2015-11-27

会津戦争の悲劇/『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人


『逝きし世の面影』渡辺京二
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『武家の女性』山川菊栄
・『覚書 幕末の水戸藩』山川菊栄
・『武士の娘』杉本鉞子
『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン
『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊

 ・会津戦争の悲劇

『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子
『敵兵を救助せよ! 英国兵422名を救助した駆逐艦「雷」工藤艦長』惠隆之介
『國破れてマッカーサー』西鋭夫
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

必読書リスト その四
日本の近代史を学ぶ

 いくたびか筆とれども、胸塞がり涙さきだちて綴るにたえず、むなしく年を過して齢(よわい)すでに八十路(やそじ)を越えたり。
 多摩河畔の草舎に隠棲すること久しく、巷間に出づることまれなり。粗衣老軀を包むににたり、草木余生を養うにあまる。ありがたきことなれど、故郷の山河を偲び、過ぎし日を想えば心安からず、老残の身の迷いならんと自ら叱咤(しった)すれど、懊悩(おうのう)流涕(りゅうてい)やむことなし。
 父母兄弟姉妹ことごとく地下にありて、余ひとりこの世に残され、語れども答えず、嘆きても慰むるものなし。四季の風月雪花常のごとく訪れ、多摩の流水樹間に輝きて絶えることなきも、非業の最期を遂げられたる祖母、母、姉妹の面影まぶたに浮びて余を招くがごとく、懐かしむがごとく、また老衰孤独の余を憐れむがごとし。
 時移りて薩長の狼藉者も、いまは苔むす墓石のもとに眠りてすでに久し。恨みても甲斐なき繰言(くりごと)なれど、ああ、いまは恨むにあらず、怒るにあらず、ただ口惜しきことかぎりなく、心を悟道に託すること能わざるなり。

【『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人〈いしみつ・まひと〉編著(中公新書、1971年)以下同】

 柴五郎は会津藩の上級武士の家に生まれた。会津戦争に敗れ、斗南(となみ/下北半島)の地で少年時代を極貧のうちに過ごした。その後12歳で単身上京。陸軍幼年学校、陸軍士官学校で学ぶ。士官学校の同期に秋山好古〈あきやま・よしふる〉がいる。柴はフランス語・シナ語・英語に堪能。北清事変(義和団の乱)で8ヶ国の公使館連合で抜きん出たリーダーシップを発揮し世界各国から絶賛される。これがきっかけとなって日英同盟(1902-23年)が結ばれる。そして1919年(大正8年)に陸軍大将となる。

 冒頭「血涙の辞」はこう締め括られる。

 悲運なりし地下の祖母、父母、姉妹の霊前に伏して思慕の情やるかたなく、この一文を献ずるは血を吐く思いなり。

 それは単なる形容詞ではなかった。柴五郎は大東亜戦争の敗北を見届け、85歳で割腹自殺を図る。だが衰えた力は止(とど)めを刺すに至らなかった。その怪我によって死亡したことを思えば自決は成功したと見るべきか。

 村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉の批判について一言書いておこう。

 少年時代の五郎の自筆回顧録は、ほとんど同じ内容の和綴じの3冊が遺されていることが判った。その1冊が底本となって、『ある明治人の記録』(石光真人著)もすでに出版されているが、潤色がある。私はそれには拠らなかった。(「あとがき」)

【『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉(光人社、1992年/光人社NF文庫、2013年)】

「潤色」との一言が嫌な匂いを放つ。せめて石光本人に確認すべきではなかったか。そもそも石光は「この書は柴五郎翁が、死の3年前に、私に貸与されて校訂を依頼された、少年期の記録である。その折、特に筆者保存を許され、さらに内容については数回お話をうかがった」(「本書の由来」)と記し、重ねて「内容があまりにもショッキングなものであったために、たびたびお会いして多くの補足的説明をしていただかねばならなかった。したがって本書は、草稿に、さらに聞きとったものを補足して整理したものである」と断っている。村上は「拠らなかった」としているが、実際読んでみると大きな相違は感じられない。私が気づいたのは犬の肉で父親に叱咤される場面くらいである。「潤色」は批判というよりも自著を高みに引き上げる宣伝文句と考えてよかろう。

 女子は祖母つね(81歳)、母ふじ(50歳)、太一郎妻とく(20歳)、姉そい(19歳)、妹さつ(7歳)の5名なり。これら女子の始末は、それぞれの家にまかせあり、去るもよし、籠城するもよしとのことなり。

 五郎少年は大叔母に誘われてキノコ狩りへ出掛けた。それが女家族との永訣となる。会津戦争(1868年)が勃発したのだ。

 戦闘に役立たぬ婦女子はいたずらに兵糧を浪費すべからずと籠城を拒み、敵侵入とともに自害して辱めを受けざることを約しありしなり。

 会津では男児に武士道を教えるのは女性の役割だった。「江戸時代は200年以上にわたって 戦乱のない世界史上では ミラクル・ピースと言われる 平和な時代だった」(『新・ゴーマニズム宣言SPECIAL 戦争論』小林よしのり)。それゆえ武士道は「生きる規範」として伝えられた。死を覚悟する生きざまは日常的に教えられた。

 清助翁まず奥の部屋より難民を去らしめてのち、余を招き身じまいを正して語る。
「今朝のことなり、敵城下に侵入したるも、御身の母をはじめ家人一同退去を肯(き)かず、祖母、母、兄嫁、姉、妹の5人、いさぎよく自刃されたり。余は乞われて介錯いたし、家に火を放ちて参った。母君臨終にさいして御身の保護養育を委嘱されたり。御身の悲痛もさることながら、これ武家のつねなり。驚き悲しむにたらず。あきらめよ。いさぎよくあきらむべし。幼き妹までいさぎよく自刃して果てたるぞ。今日ただいまより忍びて余の指示にしたがうべし」
 これを聞き茫然自失、答うるに声いでず、泣くに涙流れず、眩暈(めまい)して打ち伏したり。幾刻経たるや知らず、肩叩かれて引きおこさるれば、すでに夜半なり。

 これが8歳の子供に起こった現実であった。『セデック・バレ』そのものである。会津藩はルワンダと化した。

 あれは何時のことだったろう……? 二人だけのとき、【さつ】が懐ろからそっと懐剣を出して見せ、
「いざ大変のときは、わたしもこれで黄泉路(よみじ)に行くのよ」と、誇らしげに五郎に言ったことがあった。
「ふん、生意気な……」
 五郎は、そんなことが起ころうなど、だいいち現実のこととは思えなかった。いや、はるかに遠い、遠い夢のできごと……といった感じで、妹の「たわごと」を聞いたような気もする。しかし、いま大叔父からの報知に接して、あのときの妹の顔が、【うっとり】とあどけない表情で、まざまざと脳裏に立ち戻ってくるのであった。

【『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛〈むらかみ・ひょうえ〉(光人社、1992年/光人社NF文庫、2013年)】

 さつは7歳だった。村上本によれば母親が胸を突いたという。功成り名を遂げた柴五郎は晩年に至って書くことで再び会津戦争を生きたのだろう。「この一文を献ずるは血を吐く思いなり」――。その思いを肚(はら)で受け止めようと渾身の力で踏みとどまる。「勝てば官軍」の陰にはこれほどの悲劇があった。とてもじゃないが西郷隆盛を尊敬する気は起こらない。



日英同盟を軽んじて日本は孤立/『日本自立のためのプーチン最強講義 もし、あの絶対リーダーが日本の首相になったら』北野幸伯
死ぬ覚悟があるのなら相手を倒してから死ね/『国家と謝罪 対日戦争の跫音が聞こえる』西尾幹二