2011-06-15

マネーゲームの作法/『騙されないための世界経済入門』中原圭介


 ・マネーゲームの作法

『2025年の世界予測 歴史から読み解く日本人の未来』中原圭介

 投資本は大仰(おおぎょう)なタイトルで人目を惹きつけ、欲望を煽り立て、甘く囁く。「一攫千金(いっかくせんきん)を願うならば、まずはこの本に投資しなさい」と。「普通預金の金利が0.02%だから、それ以上のリターンがあるなら一つやってみるか」となりやすい。

 こうしてカモのご来店となる。「いらっしゃいませ、賭場(とば)へようこそ」。ビギナーズラックは強烈な快楽となって脳内に刻印される。性的快感と同じ部位が反応することが医学的に明らかになっている。

 詐欺まがいの投資本が多い中で、中原圭介はいぶし銀のような光を放っている。経済の原則から合理性を追求する姿勢は信頼に値する。わけのわからん勝率や利益率とも無縁だ。彼は2007年のサブプライムショックを事前に予測した人物の一人でもある。

 住宅ローンの不良債権化が一服し、貸倒引当金の計上を減らしたことが好決算を支えています。
 これを明るい材料と見なし、あたかも米国の危機は去ったかのように報じられることが多いのですが、私はそうではないと考えています。
 なぜなら、【金融機関の業績回復は、単に民間の赤字が政府へ移転された結果にすぎない】からです。

【『騙されないための世界経済入門』中原圭介(フォレスト出版、2010年)以下同】

 これを「リスクの付け替え」と称する。簡単にいえば政府の赤字は国民の黒字ということであり、アメリカの借金は世界の財産を意味する。

日本は「最悪の借金を持つ国」であり、「世界で一番の大金持ちの国」/『国債を刷れ! 「国の借金は税金で返せ」のウソ』廣宮孝信

 つまりサブプライムショック、リーマンショックを経てアメリカは金融緩和政策を行ってきたが、リスクが政府に移動しただけで問題解決になっていないという指摘だ。すると、世界経済そのものがサブプライム化していると考えるべきなのだろう。これぞ、資本主義のインフレマジック。

 1980年代初頭には、米国の企業収益に占める金融機関の割合は全体の10%にすぎませんでしたが、2000年には全体の45%を金融機関が稼ぎ出すまでになりました。

 絶対におかしい。いつの間にか昔は株屋と蔑まされた証券会社がいっぱしのエリート面をしている時代になっている。銀行だって所詮金貸しだ。他人の褌(ふんどし)で相撲を取っているだけで、何ひとつ生産しているわけではない。右から左へお金を動かすだけで利益が出る商売なのだ。

 堀江貴文村上世彰〈むらかみ・よしあき〉が世間の耳目を集めた頃、「マネーゲームはダメだ。やはり額に汗して稼ぐことが正しい」という声がメディアに溢れた。

 馬鹿丸出しである。しかも、スタジオのスポットライトで額に汗する連中が市民面をして言うのだから、開いた口が塞がらない。経済行為はその全てがマネーゲームだ。労働と賃金を交換しようが、先月買った株を売却しようが本質は一緒である。経済行為とは交換の異名であることを弁える必要があろう。

 ヨーロッパを見ればもっとわかりやすい。富豪とは働かない人々を指すのだ。彼らは先祖から譲り受けた資産を運用しているだけだ。

 更に具体的に申し上げよう。我々が労働で得た賃金は預金となって必ずどこかへ投資されているのだ。だからマネーゲームを批判するのであれば、まず最初に銀行を槍玉に挙げることが正しい。

 話を戻そう。では1980年代に何があったのか? アジア諸国で準固定相場制度が普及したことと、プラザ合意(1985年)が大きな要因だと思われる。プラザ合意は日本をバブル景気へと導いた。1980年代後半には東京都の山手線内側の土地価格でアメリカ全土が買えるという話まで出たが、失われた10年で資産はアメリカに全部持っていかれた。実は日本から流れたマネーがアメリカの住宅インフレを支えていたのだ。

固定相場制以前、固定相場制時代、変動相場制時代の主な出来事

 財政を引き締めるということは、その国の経済が弱まることを意味しますから、通貨安の要因となります。
 また、金融緩和で市中に供給されるマネーの量が増えれば、需要と供給の関係で通貨の価値は下がります。
 よって、2011年に入っても、ごく自然な形でドル安傾向が維持されることになるわけです。

 これはアメリカの話。ま、貧血みたいな状態と考えてよかろう。円高ドル安は止まらない。

 ほかの国々は、このままの一方的なドル安を容認しないでしょう。
【今後は新興国を中心に、ドル買い自国通貨売りの為替介入が進み、ドル安を押し戻す動きが強まる】はずです。

 実際に世界的な通貨安競争となったわけだが日本は何もしなかった。指をくわえて眺めていただけだ。

【「経済の本質」から言って、物価が上がらない最大の原因は、労働者の賃金が上がらないところにあります】。私は「この本質」が、他のあらゆる経済理論に対して優先されるべきであると確信しています。
 健全なインフレは「労働者の賃金上昇→消費の拡大→物価の上昇」というプロセスで起こります。悪性のインフレは論外ですが、年2%程度の物価上昇が続く健全なインフレは、持続的な経済成長するためには不可欠なものです。

 中野剛志〈なかの・たけし〉が散々指摘しているように日本経済の最大の問題はデフレである。供給過剰で物が売れない状態がデフレだ。で、売れないものだから値下げ競争に拍車がかかる。当然、賃金も下がる。企業は安い労働力(派遣労働者、外国人労働者など)を確保する。軽自動車、ユニクロ、100円ショップが国内を席巻する。

【経済の本質では、財政再建を進めれば、景気は悪くなります。】
 それがわかっていれば、「景気が上向く」という予測などできないはずなのです。

 カンフル剤を打つべき時に政府は国民に献血しろと促している。TPPや増税は「臓器を提供しろ」と言っているようなものだ。

600兆円の政府紙幣を発行せよ/『政府貨幣特権を発動せよ。 救国の秘策の提言』丹羽春喜

【経済が成熟した国では、通貨安がインフレを招くことはありません】。輸入物価が上昇しても、消費減少による物価下落圧力が相殺してしまうからです。

 これはTPPへの反論にもなっている。

 私が高度情報化社会の弊害だと感じているのは、【人々のマインドの振れを大きく、かつ深化させてしまう】という点です。要するに、溢れるように流れ込んでくる情報の洪水が私たちの頭の中に蓄積され、いつしかそれが概念そのものになってしまう危険性があるということです。

 これは違う。なぜなら概念は情報であるからだ。行動情報化社会の弊害は、政府や広告代理店による情報操作だ。ディスクロージャー(情報公開)を問うべきであって、スピードを戒めるべきではない。

 総じて中原はマネーゲームの作法を誠実に教えいてる。

信仰者と科学者


 信仰者は合理性を無視する。科学者は他者への共感を欠いている。

グレッグ・ルッカ


 1冊読了。

 37冊目『耽溺者(ジャンキー)』グレッグ・ルッカ:古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉訳(講談社文庫、2005年)/アティカス・コディアック・シリーズの番外編で、ブリジット・ローガンが主役となっている。解説で北上次郎(目黒考二)が絶賛している。「ようやくブリジットに会えた! それが何よりもうれしい」と。金のために書かれたような文章だ。まったく信用ならない。鼻ピアスで身長が185cmのブリジットはシリーズ第1作に登場した時からやさぐれたキャラクターとして描かれている。そうであったにせよ、グレッグ・ルッカは本書で禁じ手を犯した。作品に対して作家は神の位置を占める。登場人物を堕落させたり蹂躙(じゅうりん)することは最もたやすい。つまり私に言わせれば、著者がブリジットを汚(けが)してしまったのだ。このためアティカスの配慮が優柔不断にしか見えない。ライザの身勝手さも底が浅く、そうならざるを得ない人間心理が描けていない。文書がいいから読めるものの、ストーリー性という点では全く評価することができない。

言葉は危険


 言葉は極めて重要だ。そして銃器のように危険でもある。(イビチャ・オシム)

【『オシムの言葉 フィールドの向こうに人生が見える』木村元彦〈きむら・ゆきひこ〉(集英社インターナショナル、2005年/集英社文庫、2008年)】

オシムの言葉 (集英社文庫)

2011-06-14

吉村昭


 1冊挫折。

 挫折27『高熱隧道』吉村昭(新潮社、1967年/新潮文庫、1975年)/「こうねつずいどう」と読む。文章のリズムが合わなかった。事実の羅列が長すぎて、私の脳にスッと入ってこなかった。黒部ダムを築いた人柱を描いた小説だ。電力と国策に興味がある人は必読のこと。

民主主義の正体/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル


 ツイッターにブロック機能というのがある。フォローされた相手のタイムラインに自分の投稿が表示されなくなるというもの。

 そもそもツイッターとは、呟(つぶや)き、囀(さえず)りといった意味合いなので独り言が基本である。だが妙な絡み方をする輩が必ず出てくる。目の前にいれば2~3発殴ってやれば済むのだが、光回線越しだとそうもいかない。

 だから私はどんどんブロックする。流れてきたリツイートやtogetterなどで癇に障る文章を見たら、片っ端からブロックする。後で間違えてフォローすることがないように先手を打っているのだ。

 大体、インターネット上にいる大半の人はまともではない。頭がおかしいというよりも、コミュニケーションスキルがなさすぎるのだ。文脈を無視して、つまらない印象を書いている人が目立つ。

 数年前からブログが大流行したが、読むに値するものは十に一つもないだろう。日記の類いが一番多いと思われるが、はっきり言って個人の日常に対して一片の興味も覚えない。

 次にこれは私も含まれるのだが、政治テーマや社会問題に対する意見・主張・文句・呪詛(じゅそ)がある。日本は民主主義国家なので、いくら首相を口汚く罵っても逮捕されることがない。ただし天皇の悪口を言うと右翼から襲われる可能性がある。

 我が国の民主主義は投票制度を意味するものであって民主的な合意形成とは無縁だ。私は既に半世紀近く生きているが、政治家から政治的な意見を求められたことが一度もない。我々は投票率や世論調査のパーセンテージを支える存在であっても政治の主体者ではない。

 政治制度の理論はどうでもいい。それよりも議院内閣制に国民の声が反映されていない事実を自覚すべきだ。福島の原発事故はその実態を白日の下にさらけ出した。

 そもそも政党政治である以上、選挙による政策の選択肢は限られている。原子力発電所の右側に保守、左側に革新勢力が鎮座している。国家権力があって、権力を牛耳る連中がいるゆえ、左右という政治ポジションが消えることは考えにくい。

 ま、こんなことをダラダラと書くこと自体、あまり意味のあることではない。それでも尚、私は何か言わずにはいられないし、書かずにはいられない。

 現代のもっとも大きな詐欺の一つは、ごく平凡な人に何か言うべきことがあると信じさせたことである。(ヴォランスキー)

【『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル:吉田城〈よしだ・じょう〉訳(大修館書店、1988年)】

 E・H・カーが近代以前の民衆は「歴史の一部であるよりは、自然の一部だった」としている(『歴史とは何か』)。驚くべき指摘だ。

 つまり、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)と言うまで、民衆に自我は存在しなかったのだ。近代の扉は「我」の発明によって開かれた。

 では私の意見を吟味してみよう。果たして本当に私の意見なのだろうか? 政治的な主張は田原総一朗の受け売りかもしれないし、人生の態度を説く場合はブッダやクリシュナムルティをパクっている可能性が高い(笑)。

 私はメディアからの情報に反応し、本を読んでは影響を受け、自分の感受性に適合した何かを編んでいるだけであろう。たとえ涙こらえて編んだセーターであったにせよ、毛糸を作ったのは他の誰かだ。

 私は私の権利を主張する。これが人権感覚の基本となる。私が大事であればこそ、見知らぬ誰かも大切な存在と受け止めることができる。

 でもさ、本当はただの化学反応かもしれないね。

速く:A Time Lapse Journey Through Japan

 この動画を観ると人間がアリと変わらないように思えてくる。

 悩みや苦しみは多くの場合、社会的な関係性から生じる。現実的に考えれば、痛みや疲労を大声で訴えないと群れから置いてけぼりを食らう。周囲からの配慮がなければ自我は保てない。

 ネット上の人々を私が蔑んでいるように、政治家も私を見下しているはずだ。

 民主主義の正体はひとかどの意見を言うことで、何かを成し遂げたと錯覚することなのだろう。



ロラン・トポール「知性は才能の白い杖である」/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
毒舌というスパイス/『世界毒舌大辞典』ジェローム・デュアメル
フェミニズムへのしなやかな眼差し/『フランス版 愛の公開状 妻に捧げる十九章』ジョルジュ・ヴォランスキー属人主義と属事主義/『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』岡本浩一
目的や行為は集団に支配される
Mercedes Sosa - Todo cambia
犬のパンセ
非難されない人間はいない/『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ

料理進化論/『火の賜物 ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム


 ヒトとサルを分けるものは何か? 「服を着ているかいないかの違いだな」。確かに。「美容院にも行かないわね」。その口で美容を語らないでもらいたい。「タイムカードも押さないよな」。彼らの方が幸せなのかもしれない。

 ま、一般的には二足歩行・道具の使用(厳密には道具の加工製作)・火の使用・言語によるコミュニケーションといわれる。身体的な特徴としては何といっても「巨大な脳」である。二足歩行であるにもかかわらず、最も重い頭が一番上に位置している。

 脳は体重の2%ほどの重さしかないにもかかわらず、全体の20~25%ものエネルギーを消費する。他の霊長類では8~10%、哺乳類では3~5%にすぎない(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。

 このため人間は高カロリーの食べ物を必要とした。それが「肉」である。ま、よく知られた話だ。リチャード・ランガムはもう一歩踏み込む。

 本書において私は新しい答えを示す。すなわち、生命の長い歴史のなかでも特筆すべき“変移”であるホモ属(ヒト属)の出現をうながしたのは、火の使用料理の発明だった。料理は食物の価値を高め、私たちの体、脳、時間の使い方、社会生活を変化させた。私たちを外部エネルギーの消費者に変えた。そうして燃料に依存する、自然との新しい関係を持つ生命体が登場したのだ。

【『火の賜物 ヒトは料理で進化した』リチャード・ランガム:依田卓巳〈よだ・たくみ〉訳(NTT出版、2010年)以下同】

 つまり調理によってエネルギー摂取が劇的に高まるというのだ。実に斬新な視点である。生で食べると大半の栄養は吸収されないとのこと。そう考えると、案外「加工」にヒトの本質があるような気がする。

 変異の最初のシグナルは260万年前に見られる。エチオピアの岩から掘り出された鋭い石片で、丸い石を意図的に打ち削って道具にしたものだ。そういう単純なナイフを使って、死んだレイヨウから舌を切り取ったり、動物の肢の腱を切って肉を取ったりしていたことが、化石の骨についた傷からわかった。

 人類最初のテクノロジーは小さな斧だった。たぶん黒曜石のような石を使ったのだろう。もちろん武器にもなった。

 したがって、私たちの起源に対する問いは、アウソトラロピテクスからホモ・エレクトスを発生させた力は何かということになる。人類学者はその答えを知っている。1950年代以降もっとも支持されてきた学説によると、そこに働いた唯一の力は“肉食”である。

 結局のところ、二足歩行・道具の使用・火の使用は脳の巨大化に直結している。肉と脳。肉欲だ(笑)。

 料理した食物は生のものより消化しやすいのだ。牛、羊、子豚などの家畜は、調理したものを与えるとより早く育つ。

 ってことはだよ、本来なら調理することで人間は少ない食べ物で生きることが可能になったはずだ。エネルギー効率が上がるわけだから。発達した脳は農耕を可能にした。更に牧畜や漁業で計画的に食料を確保できるようになった。にもかかわらず我々は貪欲に地球を食い尽くそうとしている。

 結果はどちらのグループでもほぼ同じだった。料理した卵の場合には、タンパク質の消化率は平均91パーセントから94パーセントだった。この高い数値は卵のタンパク質が食物としてすぐれていることから当然予測できる。しかし、回腸造瘻術の患者について、生の卵の消化率を測定すると、わずか51パーセントしかなかった。

 回腸造瘻術とは、癌患者が小腸の一部に穴を開けて老廃物を排出させるもの。消化のメカニズムは複雑で奥が深い。

 着想は素晴らしいのだが本の構成が悪い。もうちょっと何とかならなかったのかなあ、というのが率直な感想だ。



『イーリアス』に意識はなかった/『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
野菜の栄養素が激減している/『その調理、9割の栄養捨ててます!』東京慈恵会医科大学附属病院栄養部監修
歯の種類と数に合わせた食事を/『万病を治せる妙療法 操体法』橋本敬三

2011-06-13

フランク・シェッツィング


 1冊挫折。

 挫折26『深海のYrr(イール) 上』フランク・シェッツィング/北川和代訳(ハヤカワ文庫、2008年)/120ページほどで止める。クライブ・カッスラーのダーク・ピット・シリーズと似た作風だ。エンタテイメント色が強すぎて好みではない。それでも翻訳がよくてスイスイ読める。巻末見返しに著者近影が掲載されているが、見るからにナルシストっぽい。登場人物の造形も鼻につく。致命的なのは、自己鏡像認知が可能なのは「チンパンジーとオランウータンだけ」(116ページ)としているところ。直前に象はできないと書いてあるが、これは完全な誤り。他の記述も眉に唾したくなる。

投げやりな介護/ブログ「フンコロガシの詩」


 妙なブログを見つけた。明らかに変だ。

フンコロガシの詩

 まず書き手の性別がわからなかった。で、古い記事を最初から辿ると、要介護者である父親は投資詐欺に引っ掛かっていた(5400万円!)。介護と詐欺被害が奏でる二重奏は、スキー場で骨折した直後、雪崩(なだれ)に襲われたも同然だ。あまりにも気の毒で、「気の毒」と書くことすらはばかられる。

 何の気なしに読み進むと更なる違和感を覚える。軽妙な筆致と投げやりな態度に。「ったく、面倒くせーなー」オーラが全開なのだ。

 介護は介が「たすける」で、護は「まもる」の謂いである。そして実はここに落とし穴があるのだ。人は弱者を前にすると善人を気取りたくなる。障害を「障がい」と書こうが、個性だと主張しようが、弱者であるという事実は1センチたりとも動かない。

 どんな世界にも論じることが好きな連中がいるものだ。実際に介護をする身からすれば、オムツ交換を手伝ってもらった方がはるかに助かる。

 この書き手は善人ぶらない。それどころか偽悪的ですらある。認知症はわかりやすくいえば「自我が崩壊する」脳疾患といってよい。じわじわと本人の記憶が侵食され、溶け出してゆく。介護は労多くして報われることが少なくなってゆく。

 多くのケースだと、親身になりすぎて介護者が音(ね)を上げてしまう。「ここまで一生懸命尽くしているのに……」となりがちだ。

 ところがどっこい、藤野ともねは「投げやりな態度」で一定の距離感を保っているのだ。ここ重要。星一徹は一方的に息子の飛雄馬(ひゅうま)を鍛えたが、これを介護とは呼ばない(←当たり前だ!)。介護者から要介護者への一方通行では関係性が成立しないのだ。相手に敬意を払うのであれば、たとえ寝たきりで閉じ込め症候群(locked-in syndrome)になったとしても、反応を確かめる必要がある。

 反応を確かめるわけだから、近づきすぎることなく適当な距離感が求められる。この距離感を藤野は「投げやりな態度」で表現しているのだ。

 ブログが書籍化されるようなんで一丁読んでみるか。

【※本が上梓されることとなったので、敢えて敬称を略した】

カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために

頑張らない介護/『カイゴッチ 38の心得 燃え尽きない介護生活のために』藤野ともね

犀の角のようにただ独り歩め


『日常語訳 ダンマパダ ブッダの〈真理の言葉〉』今枝由郎訳
『ブッダの真理のことば 感興のことば』中村元訳
『原訳「法句経(ダンマパダ)」一日一話』アルボムッレ・スマナサーラ
『原訳「法句経」(ダンマパダ)一日一悟』アルボムッレ・スマナサーラ
・『法句経』友松圓諦
・『法句経講義』友松圓諦
・『阿含経典』増谷文雄編訳
・『『ダンマパダ』全詩解説 仏祖に学ぶひとすじの道』片山一良
・『パーリ語仏典『ダンマパダ』 こころの清流を求めて』ウ・ウィッジャーナンダ大長老監修、北嶋泰観訳注→ダンマパダ(法句経)を学ぶ会
『日常語訳 新編 スッタニパータ ブッダの〈智恵の言葉〉』今枝由郎訳

 ・犀の角のようにただ独り歩め
 ・蛇の毒
 ・所有と自我
 ・ブッダは論争を禁じた

『スッタニパータ [釈尊のことば] 全現代語訳』荒牧典俊、本庄良文、榎本文雄訳
『原訳「スッタ・ニパータ」蛇の章』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒らないこと 役立つ初期仏教法話1』アルボムッレ・スマナサーラ
『慈経 ブッダの「慈しみ」は愛を越える』アルボムッレ・スマナサーラ
『怒りの無条件降伏 中部教典『ノコギリのたとえ』を読む』アルボムッレ・スマナサーラ
『小説ブッダ いにしえの道、白い雲』ティク・ナット・ハン
『ブッダが説いたこと』ワールポラ・ラーフラ
・『ブッダとクリシュナムルティ 人間は変われるか?』J・クリシュナムルティ
ブッダの教えを学ぶ

 水の中の魚が網を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。

【『ブッダのことば スッタニパータ』中村元〈なかむら・はじめ〉訳(岩波文庫、1958年/岩波ワイド文庫、1991年)】

ブッダのことば―スッタニパータ (ワイド版 岩波文庫)

Rhino

宗教とは何か?/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ
初期仏教の主旋律/『初期仏教 ブッダの思想をたどる』馬場紀寿

2011-06-12

教育の機能 2/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 前の段で教育とは何かを問うよう促し、教育の目的が「生の理解」にあることをクリシュナムルティは指摘した。

 それで、教師だろうと生徒だろうと、なぜ教育をしていたり、教育をされているのかを自分自身に問うことが重要ではないでしょうか。そして、生とはどういうものでしょう。生はとてつもないものでしょう。鳥、花、繁った木、天、星、河とその中の魚、このすべてが生なのです。生は貧しい者と豊かな者です。生は集団と民族と国家の間の絶え間ない闘いです。生は瞑想です。生は宗教と呼ばれているものです。そしてまた心の中の微妙で隠れたもの――嫉妬、野心、情熱、恐怖、充足、不安です。このすべてともっと多くのものが生なのです。しかし、たいがい私たちは、そのほんの小さな片隅を理解する準備をするだけです。私たちは試験に受かり、仕事を得て、結婚し、子供が生まれ、それからますます機械のようになってゆくのです。生を恐れ、怖がり、怯えたままなのです。それで、生の過程全体を理解するのを助けることが教育の機能でしょうか。それとも、単に職業やできるだけ良い仕事を得る準備をしてくれるだけなのでしょうか。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

「なぜ教育をしていたり、教育をされているのか」とわずか一言で教育が手段と化している現状を言い当てている。教える側と教えられる側の向かい合う関係性が社会の奴隷を育成する。生徒は教師に隷属せざるを得ないからだ。大人が教えるのは「社会における正しい反応の仕方」である。

 コミュニティはルールで運営される。それがマフィアのオメルタであろうと村の掟であろうと一緒だ。ルールを破った者は制裁されるか、村八分となって保護を失う。社会の本質は交換関係にある。

「生は貧しい者と豊かな者です」という対比、「このすべてともっと多くのものが生なのです」というカテゴライズの超越、ここにクリシュナムルティ講話の真価がある。つまり細心の注意を払って言語化しながら、言語化された思考を破壊するのだ。なぜなら思考は生の一部ではあっても全体ではないからだ。

 ここに哲学と宗教の根本的な相違がある。哲学は言葉を信頼するあまり、現実から遠ざかってどんどん抽象化せざるを得ない。形而上へ向かって走り出した言葉は庶民の頭上を素通りしてゆく。私は半世紀近く生きているが、哲学によって生き方が変わったという人物を知らない。

 言葉の本質は翻訳機能である。コミュニケーションの道具といってもよい。こちらの表現が拙くて相手が誤解することは決して珍しいことではない。

 本来であれば宗教は悟りによって言葉を解体してゆくべきであるにもかかわらず、教団はドグマ(教条)でもって人々を支配した。教義は言葉である。教義が絶対的な真理であるならば、悟りや啓示は思考の範疇(はんちゅう)に収まることとなる。

 思考は様式化しパターン化に至ることを避けられない。我々は昨日と同じことを繰り返し、今日という日を見失うのだ。自我の正体は「私という過去」であろう。今まで行ってきたこと、言ってきたこと、思ってきたことの集成が自我である。

 同じことを一貫して繰り返す人を社会では「信念の人」と呼ぶ。信念を枉(ま)げることを我々は自由と認めない。変節漢は裏切り者の烙印(らくいん)を押される。

 人間は適度に束縛されることを好む。胎児の時は羊水に守られ、赤ん坊の時は母親に抱かれ、衣服で身を包む。人間が集団を形成する理由もここにあるのだろう。

 ブッダは「犀(さい)の角(つの)ようにただ独り歩め」と説いた。クリシュナムルティは「単独であれ」と教えた。

ただひとりあること~単独性と孤独性/『生と覚醒のコメンタリー 1 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ

 単純に社会を否定した言葉ではあるまい。関係性を問い直しているのだ。

 家族、地域、職場、自治体、国家の全てが帰属を要求する。「義務を果たせ」と言い募る。我々は依存することで生を見失ってゆく。そして経済はすべてのものを商品化し、売買対象へと貶(おとし)める。

 親は子供たちをいい学校へ、いい企業へ送り込もうと頑張る。子供を高い値段で買わせるのが目的なのだろう。学歴は付加価値である。



無記について/『人生と仏教 11 未来をひらく思想 〈仏教の文明観〉』中村元

キリスト教を知るための書籍


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・必読書リスト

『地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
『アメリカ人の半分はニューヨークの場所を知らない』町山智浩
『科学と宗教との闘争』ホワイト
『思想の自由の歴史』J・B・ビュァリ
『魔女狩り』森島恒雄
『奇跡を考える 科学と宗教』村上陽一郎
『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世
『世界史とヨーロッパ』岡崎勝世
『科学vs.キリスト教 世界史の転換』岡崎勝世
『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ
『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文
『黄金旅風』飯嶋和一
『出星前夜』飯嶋和一
『青い空』海老沢泰久
『戦国日本と大航海時代 秀吉・家康・政宗の外交戦略』平川新
『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹
『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世
『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『宗教の倒錯 ユダヤ教・イエス・キリスト教』上村静
『〈私〉だけの神 平和と暴力のはざまにある宗教』ウルリッヒ・ベック
『仏教とキリスト教 イエスは釈迦である』堀堅士
『イエス・キリストは実在したのか?』レザー・アスラン
・『仁義なきキリスト教史』架神恭介
『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス
『生活の世界歴史 9 北米大陸に生きる』猿谷要
『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット
『宗教は必要か』バートランド・ラッセル
『死生観を問いなおす』広井良典
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル
『神は妄想である 宗教との決別』リチャード・ドーキンス
『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクション第2巻』竹山道雄:平川祐弘編
『みじかい命』竹山道雄
『いかにして神と出会うか』J・クリシュナムルティ

エドワード・S・カーティス


 1冊読了。

 36冊目『ネイティヴ・アメリカンの教え』写真=エドワード・S・カーティス:井上篤夫訳(ランダムハウス講談社文庫、2007年)/10分で読了。924円は高い。だが彼らの風貌を目撃し、大地の中から生まれた言葉に接することを思えば値段は気にならない。ネイティヴ・アメリカンが自分のことを「インディアン」と呼ぶ哀しさ。それでも尚、先祖の教えを奉じ、大自然と共に生きた。ヨーロッパから流れ着いたキリスト者が彼らを虐殺した。宮崎駿〈みやざき・はやお〉が国債的な評価を受けていることを踏まえれば、アニミズム復興は可能だと思う。アニミズムはキリスト教思想を解体する有効な手段の一つであると私は考える。

不確かな道


 ただ独り、不確かな道を歩め。

【『蝿の苦しみ 断想』エリアス・カネッティ:青木隆嘉〈あおき・たかよし〉訳(法政大学出版局、1993年)】

2011-06-11

宗教的ユートピアを科学的ディストピアとして描く/『絶対製造工場』カレル・チャペック


『「絶対」の探求』バルザック

 ・宗教的ユートピアを科学的ディストピアとして描く

『木曜の男』G・K・チェスタトン

 カレル・チャペックを初めて読んだ。私は長らく「庭仕事をやっているオヤジだろ?」くらいに思っていた。20代で刻印された先入観はそう簡単に消えるものではない。その後、「ロボット」という言葉をつくったのがチャペックであることを知った。

 本書はバルザック著『「絶対」の探求』に対するオマージュである。

 物語の後半が失速していて文学性や作品の完成度はバルザックに及ばないが、「絶対」というテーマを別角度から照らしていて一読に値する。脳機能を司る理性と感情は、外へこぼれ落ちて科学と宗教となる。人間が絶対や真理を求めずにいられないのは脳が二つに割れているためだ、というのが私の持論である。

 カレル・チャペックの柔軟さにベルトルト・ブレヒトと相通ずるものを感じた。

人間を照らす言葉の数々/『ブレヒトの写針詩』岩淵達治編訳

 チェコスロバキアと東独が隣り合っていたことと関係しているのだろうか? ただし文化的な共通点は少ないようだ。

チェコとドイツは人々も建物もなんとなく似ているように見えるのですが、具体的にどの辺が違うのでしょうか?

 硬い性質はわかりやすいものの反発力に変化がない。柔軟さの奥深いところは、ぶつかった力を受け入れた後に反動を加えて投げ返すところだ。チャペックやブレヒトには弓や鞭のような精神のしなやかさがある。この弾力性がユーモアの源だ。

 発明
 収益性の非常に高い、どの工場にも好適のもの 個人的理由により即時売却――問い合わせ先ブジェヴノフ 1651 R・マレク技師

【『絶対製造工場』カレル・チャペック:飯島周〈いいじま・いたる〉訳(平凡社ライブラリー、2010年)以下同】

 新聞広告にボンディの目が留まる。マレクは青年時代の親友であった。

「(※現代技術の問題が)ビジネスだなんて全然ちがうよ、わかるか? 燃焼だ! 物質の中に存在する熱エネルギーの完全な燃焼だ! 考えてみろよ、石炭からは燃焼可能なエネルギーの、ほんの10万分の1しか燃やしていないんだよ! ちゃんとわかってるか?」(マレク)

 戯曲『ロボット(R.U.R.)』が1920年、その次に発表されたのが本書で1922年(大正11年)のこと。オットー・ハーンが原子核分裂を発見したのは1938年である。カレル・チャペックは明らかに原子力発電の可能性を見越していた。正真正銘のサイエンス・フィクションといってよい。しかもハードSF。

「聞いてるかい、ボンディ? あれは何十億も何千億もの金をもたらすぞ。でもその代わり、良心に対する恐ろしい害毒を引き受けなきゃならない。覚悟しろよ!」

「ぼくの完全カルブラートルは、完全に物質を分解することで、副産物を作り出す――純粋な、束縛されぬ【絶対】を。化学的に純粋な形の神を。言ってみれば、一方の端から機械的なエネルギーを、反対の端から神の本質を吐き出すのだ。水を水素と酸素に分解するのとまったく同じさ。ただ、それよりおそろしく大規模なだけだ」

 原子力発電の着想もさることながら、有害物質ではなく有益物質としたところにチャペックの卓抜したアイディアが光る。厳密にいえば有益というよりは、多幸症(ユーフォリア)を惹き起こす物質であった。

「ぼくは信じているが、科学は神を一歩一歩閉め出している、あるいは少なくとも、神の顕現を制限している。そしてそれが、科学の最大の使命だとぼくは信じる」

 マレクは自ら製造したカルブラートルに対して否定的だった。幸福が「状態」を意味するのであれば、棚ぼた式の啓示や悟りでも一向に構わないはずだ。しかしマレクは飽くまでも科学的真理を求めた。

「でも想像してみろよ、たとえば、本当にどんな物質の中にも神が存在すること、物質の中になんらかのやり方で閉じ込められていることを。そしてその物質を完全に破壊すれば、神はぱりっとした格好で飛び出すのだ。神は完全に解放されたようになる。物質の中から、まるで石炭から石炭ガスが蒸発するように蒸発する。原子を一つ燃焼させれば、地下室いっぱいの【絶対】が一気に得られる。【絶対】があっと言う間に広がるのには、びっくりするぜ」

 目に見えぬ放射能のように絶対は拡散する。信仰者が目指す理想を状況として描くことで、チャペックは宗教の安易さを暴き立てている。つまり宗教的ユートピアを科学的ディストピアとして描画(びょうが)したのだ。まさに天才的手法。

「その間に、地下室にあの大きなカルブラートルを設置して、稼働させた。きみに話したように、もう6週間、昼も夜も動いている。そこではじめて、【こと】の全容を認識した。その日のうちに地下室には【絶対】が満ちあふれて裂けんばかりになり、家の中全体を徘徊しはじめた。いいかい、純粋な【絶対】はどんな物質にも浸透してくるんだ。固い物質の場合は少しゆっくりだがね。大気の中では光と同じくらい速く拡散する。ぼくが地下室へ入って行った時は、きみ、まるで発作のように襲ってきた。ぼくは大声でわめいた。逃げ出すだけの力が、どこから湧いたのかわからない。それからここ、上の部屋で、全部のことをよく考えた。最初の考えでは、それは新しい、気分を高揚させるさせるガスかなにかで、物質の完全燃焼から生じたのだ、ということだった。そこで、外からあの空調機を取り付けさせた。3人の工事人のうち2人が作業中に啓示を受け、幻影を見た。3人目はアル中だったから、たぶんそのせいでいくらか免疫があったのだろう。それはただのガスだ、と信じていた間は、それについていろいろ実験をした。興味深いことに、【絶対】の中では、どの光もずっと明るく燃える。【絶対】を梨の形のガラス器に密封できれば、電球にしたいところだがね。だが彼は、この上なく厳重に閉じられたどんな容器からでも蒸発してしまう。だからぼくは、彼は一種の超放射能物質だろうと考えた。しかし、電気の軌跡は一切ないし、感光板にもなんの痕跡もない。3日目には、家の管理人をサナトリウムに送らなきゃならなかった。管理人は地下室のうえに住んでたんだよ、それにその妻も」
「どうしたんだい?」ボンディ氏は尋ねた。
「人が変わってしまったんだ。霊感を受けて。宗教的な説教し、奇跡を行なった。その妻は預言者になった」

 大笑い。失礼。私が読んだのは福島の原発事故が起こる前だったのだ。許せ。

 スピリチュアル系の連中を嘲り笑うような場面である。現実離れした平和主義者も同じ俎(まないた)の上に載っている。

 マレクが逃げ出した姿が、映画『トゥルーマン・ショー』のラストシーンと重なり合う。自由が一切の束縛を拒絶するものであるならば、麻薬的な幸福感は隷属を意味する。

 チャペックは更に宗教を絡める。

「それはまちがってますよ、あなた」祝聖司教は快活に叫んだ。「まちがってますよ。教義(ドグマ)の欠けた学問はただの懐疑の集積です。もっと悪いのは、あなた方の【絶対】が教会の法律に反することです。真正さについての教えに対する抵抗です。教会の伝統を無為にするものです。三位一体の教えに対する乱暴な侵犯です。聖職者たちの使徒的な服従の無視です。教会の悪魔払い(エクソシズム)にさえも従わない、その他もろもろ。要するに、われわれが断固として拒否せねばならない振る舞いをしているのです」

 それまでは教会の専売特許であった啓示が工場で大量生産されるようになったのだから大変だ(笑)。ただし教会には神学という武器があるから理屈をこねくり回すのには事欠かない。彼らは現実よりもバイブル(聖書)を重んじるのだ。

 そしてほんのわずかな記述ではあるのだが、フリーメイソン神智学協会まで出てくる。恐るべき見識である。

 悪のない世界を描いたものとしては、福永武彦の「未来都市」(『廃市・飛ぶ男』所収)という作品があるが、両者に通い合うのは破壊の調べだ。

 カレル・チャペックは「絶対」という価値観に巣食うファシズム性をものの見事に暴いてみせた。



『カレル・チャペックの世界』
カレル・チャペック『絶対製造工場』
フリーメイソン

多幸症(ユーフォリア)


 多幸症とは、常識的には幸せに感じないことに対して、何もかも幸せに感じてニコニコしている不自然な上機嫌をいう。精神症状のひとつ。躁うつ病や認知症の症状として現れることが多い。また、男性ホルモンや副腎皮質ホルモン使用の副作用として現れることもある。

【『介護福祉士 基本用語辞典』田中雅子監修、エディポック編(エクスナレッジ、2007年)】

バブル時代の多幸症(ユーフォリア)/『戦争と罪責』野田正彰
宗教的ユートピアを科学的ディストピアとして描く/『絶対製造工場』カレル・チャペック

介護福祉士基本用語辞典

2011-06-09

教育の機能 1/『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ


 ・自由の問題 1
 ・自由の問題 2
 ・自由の問題 3
 ・欲望が悲哀・不安・恐怖を生む
 ・教育の機能 1
 ・教育の機能 2
 ・教育の機能 3
 ・教育の機能 4
 ・縁起と人間関係についての考察
 ・宗教とは何か?
 ・無垢の自信
 ・真の学びとは
 ・「私たちはなぜ友人をほしがるのでしょうか?」
 ・時のない状態
 ・生とは
 ・習慣のわだち
 ・生の不思議

クリシュナムルティ著作リスト
必読書リスト その五

 白川静によれば「教」の字は、左上が建物の千木(ちぎ)を象(かたど)り、その下に子、右側は鞭を振り上げる教師を表すとのこと。


週刊鉄学「絵で読む漢字のなりたち」

 当時の鞭にどのような意味があったのか私は知らない。文字から浮かび上がってくる印象は「叩き込む」ことであり、武道のような趣があったのかもしれぬ。

 知っている者が知らない者に何かをマスターさせるという意味では現在の教育も変わらない。児童らは「無知なる者」として扱われ、社会の規格にあった人間として成型される。教育とは国家の定めた鋳型(いがた)に精神をはめ込む作業である。

 本書の大部分はクリシュナムルティ・スクールに通う生徒への講話と質疑応答である。当時はインド、イギリス、アメリカの3ヶ国にあったと記憶している。細かいことはわからぬが、全寮制で小学校高学年から高校生までの生徒を擁する学校だ。

 本書は「教育の機能」と題する講話から始まる。

 君たちは教育とは何だろう、と自分自身に問うたことがあるのでしょうか。私たちはなぜ学校に行き、なぜさまざまな教科を学び、なぜ試験に受かり、より良い成績のために互いに競争し合うのでしょう。このいわゆる教育とはどういうことで、どのようなものであるのでしょう。これは生徒だけではなく、親や教師やこの地球を愛するすべての人にとって、本当にとても重要な問題です。なぜ苦労して教育を受けるのでしょう。それはただ試験に受かり、仕事を得るためなのでしょうか。それとも若いうちに、生の過程全体を理解できるように準備することが教育の機能でしょうか。仕事を持ち、生計を立てることは必要ですが、それですべてでしょうか。それだけのために教育を受けているのでしょうか。確かに生とは単なる仕事や職業だけではありません。生はとてつもなく広くて深いものなのです。それは大いなる神秘、広大な王国であり、私たちはその中で人間として機能します。もし単に生計を立てる準備をするだけなら、生の意味はすべて逃してしまうでしょう。それで、生を理解することは、単に試験に備えて、数学や物理や何であろうと大いに上達することよりもはるかに重要です。

【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)】

 私は雷に打たれたような衝撃を覚えた。英知の光を放つ言葉から慈愛が滴(したた)り落ちてくる。胸の奥深くで低く脈打っていた人間の鼓動を高鳴らせる響きがある。

 政治の支配下に置かれた学校は社会人養成所にすぎない。社会のルールを叩き込む以上、学校は社会の縮図と化す。ヒエラルキーと役割分担、協同と自治を旨(むね)とする。

 クリシュナムルティはこれを完膚なきまでに否定し破壊することで自由へといざなう。「君たちよ、断じて奴隷であってはならない!」との烈々たる雄叫(おたけ)びが行間からほとばしる。

 現代の教育現場には様々な形をした鞭が振るわれる。なぜなら集団におけるルールとは罰則規定を意味するからだ。昔と比べると体罰は影をひそめたが、目に見えない柔らかなファシズムが横行している。線から少しでも足をはみ出せば直ちにホイッスルが吹かれ、冷たい視線にさらされる。

 クリシュナムルティは晩年に至るまで子供たちとの対話を続けた。形だけの演説ではない。本当に平等な立場で自由に何でも話し合ったのだ。その慈愛に私はただ圧倒される。そして、もう一歩人間を信頼していこうという気持ちが湧き上がってくる。(続く)



■(サイ)の発見/『白川静の世界 漢字のものがたり』別冊太陽
血で綴られた一書/『生きる技法』安冨歩

ジョナサン・トーゴヴニク


 1冊読了。

 35冊目『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』写真、インタビュー=ジョナサン・トーゴヴニク:竹内万里子訳(赤々舎、2010年)/奥歯を噛み締めながら何とか読了した。30人の母親がルワンダ大虐殺を語る。母と子の写真、子供のポートレート、談話がそれぞれ1ページずつ。100日の間に80万人が切り刻まれる中で、彼女らは繰り返し繰り返し強姦された。ここに写っている子供たちは性的暴力から生まれた子だ。およそ2万人もいるという。30代であれば、私は本書を読むことができなかったことだろう。自分の内部で荒れ狂う暴力性を抑えることが困難なためだ。「子供を愛せない」と語る母親がいる。敵の子を生んだことで家族から見放される女性もいる。そして皆がHIVに感染していた。この世界は暴力にまみれている。「人類は滅んだ方がいい」と本気で思った。強姦をした男は凌遅刑(りょうちけい)にすべきだ。子供たちの瞳に撮影者が写っている。いや、それは私なのだ。ルワンダを知り得なかったことでジェノサイドに加担した私なのだ。

2011-06-08

指数関数的な加速度とシンギュラリティ(特異点)/『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル


『人類が知っていることすべての短い歴史』ビル・ブライソン
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
・『人間原理の宇宙論 人間は宇宙の中心か』松田卓也
全地球史アトラス
『2045年問題 コンピュータが人類を超える日』松田卓也

 ・指数関数的な加速度とシンギュラリティ(特異点)
 ・レイ・カーツワイルが描く衝撃的な未来図
 ・アルゴリズムが人間の知性を超える

意識と肉体を切り離して考えることで、人と社会は進化する!?【川上量生×堀江貴文】
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗
『トランセンデンス』ウォーリー・フィスター監督
『LUCY/ルーシー』リュック・ベッソン監督、脚本
『Beyond Human 超人類の時代へ 今、医療テクノロジーの最先端で』イブ・ヘロルド
『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』ケヴィン・ケリー
『世界2.0 メタバースの歩き方と創り方』佐藤航陽
メタバースと悟り
・『養老孟司の人間科学講義』養老孟司
『隠れた脳 好み、道徳、市場、集団を操る無意識の科学』シャンカール・ヴェダンタム
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『ホモ・デウス テクノロジーとサピエンスの未来』ユヴァル・ノア・ハラリ
『文明が不幸をもたらす 病んだ社会の起源』クリストファー・ライアン
『われわれは仮想世界を生きている AI社会のその先の未来を描く「シミュレーション仮説」』リズワン・バーク
『リアリティ+ バーチャル世界をめぐる哲学の挑戦』デイヴィッド・J・チャーマーズ

情報とアルゴリズム
必読書リスト その五

 レイ・カーツワイルが描く未来予想図は、ジョージ・オーウェルの『一九八四年』を軽々と凌駕している。鉄腕アトムですら足元にも及ばない。

 人間の頭脳や身体がテクノロジーの進化によって拡張されるという主張は比較的理解しやすい。

「体重支持型歩行アシスト」試作機(ホンダ)

 我々はあまり意識することがないが、既に身体化されたテクノロジーはたくさんある。杖や眼鏡は元より、衣服や靴が典型であろう。脳の拡張という点では文字の発明が決定的だと思われる。そして粘土板(ねんどばん)、木簡竹簡パピルス羊皮紙と保存ツールは進化してきた。今やテキストはデジタル化されている。テクノロジーの発達は桁外れのスピードを生む。

 レイ・カーツワイルは最終的な予想として、知性がナノテクノロジーによってミクロ化され、統一された意志が宇宙に広がってゆく様相を描いている。もうね、ため息も出ないよ。

 ホロコーストからのがれてきたわたしの両親は、いずれも芸術家で、子どもには、実際的で視野の広い宗教教育を施したいと考えた。それでわたしは、ユニテリアン派教会の教えを受けることになった。そこでは、半年かけてひとつの宗教について学ぶ。礼拝に出て、教典を読み、指導者と対話する。それが終わると、次の宗教について勉強する。「真理に至る道はたくさんある」という考え方がその中心にあるのだ。世界中の宗教の伝統には共通するところがたくさんあるが、一致しないところも明らかにあることに当然気付いた。おおもとの真実は奥が深くて、見かけの矛盾を超えることができるのだということが、だんだんとわかってきた。

【『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』レイ・カーツワイル:井上健〈いのうえ・けん〉監訳、小野木明恵〈おのき・あきえ〉、野中香方子〈のなか・きょうこ〉、福田実〈ふくだ・みのる〉訳(NHK出版、2007年)以下同】

 レイ・カーツワイルはドグマから自由であった。ホロコーストは固定観念から生まれる。親御さんの聡明さが窺える。信念・思想・哲学・宗教は価値観を固定化する。これは科学の世界においても同様で、人間が自由にものを考えることができると思うのは大間違いだ。それどころか脳科学の分野では自由意志すらないと考えられているのだ。

人間に自由意思はない/『脳はなにかと言い訳する 人は幸せになるようにできていた!?』池谷裕二

 詩人のミュリエル・ルーカイザーは、「宇宙は、原子ではなく物語でできている」と語った。

 さすが詩人である。ものの見事に本質を一言で衝(つ)いている。物語とは「時系列に因果をあてはめてしまう脳の癖」と考えればよい。3年ほど考え抜いて私はそう結論するに至った。

「物語」関連記事

 誰しも、自分の想像力の限界が、世界の限界だと誤解する。
  ――アルトゥール・ショーペンハウアー

 これが本書を読む際の注意事項だ。上手いよね。

 21世紀の前半にどのような革新的な出来事が待ち構えているのかが、少しずつ見えてくるようになった。宇宙のブラックホールが、事象の地平線〔ブラックホールにおいて、それ以上内側に入ると光すらも脱出できなくなるとされる境界〕に近づくにつれ、物質やエネルギーのパターンを劇的に変化させるのと同じように、われわれの目の前に迫りくる特異点は、人間の生活のあらゆる習慣や側面をがらりと変化させてしまうのである。性についても、精神についても。
 特異点とはなにか。テクノロジーが急速に変化し、それにより甚大な影響がもたらされ、人間の生活が後戻りできないことに変容してしまうような、来るべき未来のことだ。それは理想郷でも地獄でもないが、ビジネス・モデルや、死をも含めた人間のライフサイクルといった、人生の意味を考えるうえでよりどころとしている概念が、このとき、すっかり変容してしまうのである。

 特異点(シンギュラリティ)とは因果が崩壊する地点を意味する。続いて『成長の限界 ローマ・クラブ人類の危機レポート』で示された「幾何級数的成長の限界」の例として有名な「睡蓮の例え」を紹介。レイ・カーツワイルは「指数関数的な成長」と表現している。

環境経済学入門 Chihiro's web

 つまり、テクノロジーが右肩上がりで急速な上昇を遂げた後に、全く新たな地平(=特異点)が現れるということだ。自動車が製造されるとアスファルトの道路ができる。交通手段の発達は移動時間を短縮した分だけ人生の密度を高める。通信技術の進化は移動する手間すら省(はぶ)いてしまった。江戸時代の人々からすればテレパシーも同然だ。このように技術は世界を変えるのだ。世界観や概念が激変すれば、世界の風景は完全に変わる。パラダイムシフト

 人間の脳は、さまざまな点でじつにすばらしいものだが、いかんともしがたい限界を抱えている。人は、脳の超並列処理(100兆ものニューロン間結合〔シナプスでの結合〕が同時に作動する)を用いて、微妙なパターンをすばやく認識する。だが、人間の思考速度はひじょうに遅い。基本的なニューロン処理は、現在の電子回路よりも、数百万倍も遅い。このため、人間の知識ベースが指数関数的に成長していく一方で、新しい情報処理するための生理学的な帯域幅はひじょうに限られたままなのである。

 後で詳しく解説されているが、結局のところ光速度が最後の壁となる。真の特異点とは光速度を意味する。そしてレイ・カーツワイルは光速度を超えることは可能だとしている。

 われわれは今、こうした移行期の初期の段階にある。パラダイム・シフト率(根本的な技術的アプローチが新しいものへと置き換わる率)と、情報テクノロジーの性能の指数関数的な成長はいずれも、「曲線の折れ曲がり」地点に達しようとしている。この地点にくると、指数関数的な動きが目立つようになり、この段階を過ぎるとすぐに、指数関数的な傾向は一気に爆発する。今世紀の半ばまでには、テクノロジーの成長率は急速に上昇し、ほとんど垂直の線に達するまでになるだろう――そのころ、テクノロジーとわれわれは一体化しているはずだ。

 凄い。特異点の向こうの世界が示しているのはビッグバンそのものだ。しかも爆発(ビッグバン)から誕生した宇宙にある星々は爆発で死を迎えるわけだから、生と死をも象徴している。「芸術は爆発だ!」と岡本太郎は言ったが、宇宙全体が爆発というリズムを奏でているのだ。人類が戦争好きなのも、こんなところに由来しているのかもしれない。

 1950年代、伝説的な情報理論研究者のジョン・フォン・ノイマンがこう言ったとされている。「たえず加速度的な進歩をとげているテクノロジーは……人類の歴史において、ある非常に重大な特異点に到達しつつあるように思われる。この点を超えると、今日ある人間の営為は存続するすることができなくなるだろう」ノイマンはここで、【加速度】と【特異点】という二つの重要な概念に触れている。加速度の意味するところは、人類の進歩は指数関数的なものであり(定数を【掛ける】ことで繰り返し拡大する)、線形的(定数を【足す】ことにより繰り返し増大する)なものではない、ということだ。

 現在使用されている殆どのパソコンは「ノイマン型コンピュータ」である。そのノイマンだ。ま、上に貼り付けたWikipedia記事の「逸話」という項目を読んでごらんよ。天才という言葉の意味が理解できるから。

 非線形性については以下の記事を参照されよ。

バイオホロニクス(生命関係学)/『生命を捉えなおす 生きている状態とは何か』清水博

 このテーマは実に奥が深く、チューリングマシンゲーデルの不完全性定理とも絡んでくる(停止性問題)。

 その限界はテクノロジーで打ち破れるとレイ・カーツワイルは叫ぶ。やがて宇宙は人類の意志と知性で満たされる。そのとき神が誕生するのだ。すなわちポスト・ヒューマンとは神の異名である。

 今日はここまで。まだ一章分の内容である(笑)。

ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき

ロン・マッカラム:視覚障害者の読書を可能にした技術革新
脳は宇宙であり、宇宙は脳である/『意識は傍観者である 脳の知られざる営み』デイヴィッド・イーグルマン
情報理論の父クロード・シャノン/『インフォメーション 情報技術の人類史』ジェイムズ・グリック
宗教学者の不勉強/『21世紀の宗教研究 脳科学・進化生物学と宗教学の接点』井上順孝編、マイケル・ヴィツェル、長谷川眞理子、芦名定道
機械の字義/『青雲はるかに』宮城谷昌光
『歴史的意識について』竹山道雄
ジョン・ホイーラーが示したビッグクエスチョン/『量子が変える情報の宇宙』ハンス・クリスチャン・フォン=バイヤー
デジタル脳の未来/『プルーストとイカ 読書は脳をどのように変えるのか?』メアリアン・ウルフ

2011-06-07

インターネット上に巣食う揶揄・中傷文化~山本弘の場合


 最近、武田邦彦の動画を山ほど観ている。

斧チャン:武田邦彦

 理路整然としていてわかりやすい上、プレゼンテーション能力が高い。それでいて人懐っこくて朗らかだ。東日本大震災以降は、自分が原子力発電に関わってきた責任感から、具体的なメッセージを次々と発信した。

武田邦彦公式サイト

 あまりに面白いので古い動画も探した。武田は「環境問題は幻想であり、何ら科学的根拠がない」とテレビで主張し注目を集めた。これに対してSF作家の山本弘が「武田はデータ捏造をしている」という内容の著作を発行した(山本弘著『“環境問題のウソ”のウソ』楽工社、2007年)。

 そして直接対決となったのが以下の番組である(URLは音声のみ)。


 http://youtu.be/xwS6WZH0NNQ
 http://youtu.be/Jle5Iu5-pvQ
 http://youtu.be/JsN0FWCfkMo
 http://youtu.be/sxX3txksS48
 http://youtu.be/wkFvTeoUBi4
 http://youtu.be/bwTt7DmJrto

 見るからにオタクである。容貌も声も薄気味悪い。細かいデータを持ち出し指を差す仕草に嫌悪感を覚える。こういう輩(やから)は議論するよりも殴ってやった方がいい、とまで思う。

 山本弘が行っているのは単なる「突っ込み」である。武田邦彦は世界に布かれつつあるルールが欺瞞である可能性を指摘しているのだ。山本はそこを問わずに些細な間違い探しに執心している。しかも薄ら笑いを浮かべながら。結果的に権力者を利している自覚もないのだろう。

 山本は「と学会」の一員としても知られるが、結局あいつらのやっていることはこういうことなのだ。趣味としての粗(あら)探し。木を見て森を見ず、枝を見て花を見ず。唐沢俊一なんかも話は面白いが人間として信用できるタイプではない。

 インターネットに巣食う揶揄・中傷文化は、ひょっとしたら彼らのような連中が先導した可能性もある。一般人からするとオタクの胡散臭さは直ぐわかる。東浩紀宮台真司が信用ならないのは、言葉の端々に2ちゃんねる用語が出てくるためだ。小田嶋隆も同様。

 彼らは全てを面白がってしまうために基本的な礼節を欠くところがある。掲示板のノリなのだ。確かにその軽さが魅力でもあるのだが、山本みたいな軽薄さを私は許すことができない。

 昆虫の触覚が反応するかのように彼らは瑣末な知識を集める。そんなものがいくらあったところで、人の心を打つことは不可能だ。

 ツイッターなどでも、ただ印象を垂れ流す連中が多い。相手が著名人であることをいいことに、口汚く罵る姿も珍しくはない。せめて相手の正面に立って言えることだけ書くべきではなかろうか。

 身の丈に応じた言葉づかいができない限り、インターネット上の議論が成熟することはないだろう。

2011-06-06

自閉症者の可能性/『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン


『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ

 ・宗教の原型は確証バイアス
 ・自閉症者の可能性

『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『AIは人類を駆逐するのか? 自律(オートノミー)世界の到来』太田裕朗

 順番だと、レイ・カーツワイル著『ポスト・ヒューマン誕生 コンピュータが人類の知性を超えるとき』を書くはずなのだが、今日はそれほどの体力がない。万全の体調でなければ歯が立たない代物だ。そこで『ポスト・ヒューマン誕生』と併読すべき本書を紹介することにした。

 実は全く畑違いの本ではあるが、知性という一点において恐るべき共通性がある。テンプル・グランディンは自閉症の動物学者だ。知能は優れていることから、アスペルガー障害と思われる。彼女は幼い頃から動物の気持ちを理解することができた。

 私は動物はどんなふうに考えているかわかるのだが、自閉症でない人は、それがわかった瞬間はどんな感じだったときまってたずねる。直感のようなものがひらめいたと思うらしい。(中略)
 子供のころは、自分が動物と特別な結びつきがあるとは思ってもいなかった。動物は好きだったが、小さい犬は猫ではないのだということを理解するだけでも苦労した。これは人生の一大事だった。私が知っていたいのはどれもみな、とても大きかったから、犬は体が大きいものだと思っていた。ところが近所の人がダックスフントを買ってきて、さっぱりわけがわからなくなった。「なんでこれが犬なの?」といいつづけ、謎を解こうとしてダックスフントをじっくり観察した。ダックスフントがうちのゴールデンレトリーバーと同じ種類の鼻をしていることに気づいて、ようやく納得した。

【『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン:中尾ゆかり(NHK出版、2006年)以下同】

 本書が凄いのは、自閉症と動物心理という別次元の話を何の違和感もなく縦横に織り込んでいるところだ。この文章からはカテゴリー化に苦労していることがわかる。つまり自閉傾向がある人は細部を中心に見るのだ。

 そのしかけが目にとまったとたんに、私はおばに車を停めてもらい、車から降りて見物した。締めつけ機の中にいる大きな牛から目がはなせなくなった。こんなに大きな金属製の工作物でいきなり体を締めつけられたら、牛はさぞかしおびえるだろうと思うかもしれないが、まったく逆だ。牛はじつにおとなしくなる。考えてみればわかるのだが、だいたい誰でもじわりと圧力をかけられると気持ちが落ち着く。マッサージが心地いいのも、じわりと圧力を感じるからだ。締めつけ機で締められると、新生児が産着(うぶぎ)に包まれたときやスキューバダイバーが水にもぐったときに感じる、おだやかな気持ちになるのだろう。牛は喜んでいた。

 少女時代のエピソードである。言われてみればなるほどとは思うものの、そこまで動物を観察することは難しい。羊水に浮かぶ胎児や抱っこされる赤ん坊を思えば、締めつけられることが心地いいというのは納得できる。

 馬はとりわけ10代の子どもに好ましい。マサチューセッツ州で精神科医をしている友人は、10代の患者をたくさん診(み)ているが、乗馬をする子には、かくべつの期待をかけている。同じ程度の障害で同じ問題をもつふたりの子供のうち、ひとりは定期的に乗馬をし、もうひとりは乗馬をしない場合、最後には、乗馬をする子のほうがしない子よりも改善が見られるというのだ。ひとつには、馬をあつかうときに大きな責任がともなうため、世話をしている子は好ましい性格を発達させるということがある。だが、もうひとつ、乗馬は見た目とちがって、人が鞍に腰かけて、手綱を引いて馬に命令するものではないということもある。ほんものの乗馬は、社交ダンスがてらのフィギュアスケートによく似ている。おたがいの関係で成り立っているのだ。

 これなんかは、自閉症のお子さんがいるならば試すべきだと思う。たぶん情愛ではなく、システマティックな関係となっているのだろう。それでも関係性を広げることは大切だ。

 マーク・ハッドン著『夜中に犬に起こった奇妙な事件』の主人公である少年もアスペルガー障害だが、彼は表情があらわすサインを読み解くことができない。人間関係のトラブルを防ぐために、感情別の顔マークが書かれたカードを持ち歩いていた。

 彼らは我々と異なる世界で生きているのだ。まずそれを認めることから始める必要があろう。異なる価値観ではなく異なる世界を認めること。そうすれば、無理に「こちらの世界」へ引きずり込もうとする努力も不要になる。

 自閉症をもつ人は動物が考えるように考えることができる。もちろん、人が考えるようにも考える――そこまでふつうの人とちがううわけではない。自閉症は、動物から人間へいたる道の途中にある駅のようなものだ。そのおかげで、私のような自閉症の人は「動物のおしゃべり」を通訳する絶後の立場にある。私は、動物の行動のわけを飼い主に説明できる。
 好きだからこそ、自閉症を抱えていながら成功できたのだと思う。

 とすると自閉症は前頭葉の機能障害なのかもしれない。「障害」というべきかのかどうかも微妙だ。なぜなら自閉傾向の強い人は増えていて、発達障害、LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、更にはパーソナリティ障害などの症例で知られている。

 ってことはだよ、ひょっとすると進化している可能性もあるのだ。都市部の人口密度の高さ、満員電車、高速道路の渋滞、汚れた空気、ジャンクフードなどの環境リスクを回避するために、脳機能が変化したと考えても不思議ではない。

『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス

 動物はサヴァン自閉症の人に似ている。それどころか、動物は、じつはサヴァン自閉症だとさえいえるのではないだろうか。自閉症の人がふつうの人にはない特殊な才能をもっているのと同じように、動物もふつうの人にはない特殊な才能をもっている。たいていの場合、動物の才能は、自閉症の人の才能があらわれるのと同じ理由であらわれると私は考えている。自閉症の人と動物に共通してみられる脳のちがいだ。

九千冊の本を暗記する男 サヴァン症候群とは

 私は会話の中の特定の言葉や文章をほとんどおぼえていないから、なにをきかれたか記憶にない。自閉症の人は絵で考えるからだ。頭の中では、まったくといっていいほど、言葉はめぐっていない。次から次へとイメージが流れているだけだ。だから、質問の内容はおぼえていないが、質問をされたということだけはおぼえている。

 これを直観像記憶(映像記憶)という。手っ取り早く言ってしまおう。彼らはたぶん物語を必要としないのだ。だからこそ感情や意味を読み解くことができないのだろう。豊かな感情=善ではない。行き過ぎた恋愛感情が刃傷沙汰(にんじょうざた)に発展することは珍しくない。生真面目な人が精神疾患となりやすいのも、相手の感情を考えすぎることが原因になっているような気がする。ステップを相手に合わせよう合わせようと努力して主体性を喪失する羽目となる。

 テンプル・グランディンは自らの自閉症を通して、動物の世界を我々に見せてくれる。私は本書を読むまで少なからず、動物を知能の劣った人間みたいに考えていた。

 世界とは世界観を意味する。世界観とは何らかの情報に基づいたシステム(系)のことだ。それが直観像だろうと感情だろうと世界であることに変わりはないし、何の問題もない。ただ、一般人とのコミュニケーションに齟齬(そご)をきたすことがあるというだけの話だ。

 自閉症の世界は決して貧しい世界ではない。むしろ人間の別の可能性を示す豊かな世界であるといってよい。

 私が設計した「中央トラック制御システム」は北アメリカのおよそ半分の向上に設置されている。

 マクドナルドも彼女のシステムを導入している。動物の気持ちがわかる彼女ならではの見事な社会貢献だ。



テンプル・グランディン:世界はあらゆる頭脳を必要としている
自閉症者の苦悩
サヴァン症候群~脅威の記憶力
ラットにもメタ認知能力が/『人間らしさとはなにか? 人間のユニークさを明かす科学の最前線』マイケル・S・ガザニガ
野生動物が家畜化を選んだ/『家畜化という進化 人間はいかに動物を変えたか』リチャード・C・フランシス
カーゴカルト=積荷崇拝/『「偶然」の統計学』デイヴィッド・J・ハンド

デイヴィッド・ベニオフ


 1冊挫折。

 挫折25『卵をめぐる祖父の戦争』デイヴィッド・ベニオフ/田口俊樹訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2010年)/120ページで挫ける。文章は大層巧みなのだがプロットが肌に合わず。主人公が卑屈すぎて、コーリャとの対比が残酷さを帯びている。たぶん作品の問題というよりは、私が年をとりすぎていることに原因があるのだろう。注目すべき作家であることは間違いない。

2011-06-05

スイス政府


 1冊挫折。

 挫折24『民間防衛 あらゆる危険から身をまもる』スイス政府編/原書房編集部訳(原書房、1995年)/スイス政府が国民に配布しているハンドブックである。戦争や災害に対する備えは、永世中立国であることの緊張度を示している。核攻撃を受けた場合の対処法まで書かれている。多分「一家に一冊」常備すべき本なのだろうが、如何せん本の作りがよくない。レイアウトから構成に至るまで全部ダメだ。原書房の怠慢を戒めたい。版型を四六版にして、フォントサイズも大きくすべきだ。更には縦書きが望ましい。私は横書きのテキストが苦手なのだ。

40代後半の人口構成が景気を左右する/『最悪期まであと2年! 次なる大恐慌 人口トレンドが教える消費崩壊のシナリオ』ハリー・S・デント・ジュニア


「歴史は繰り返す」と喝破したのは古代ローマの歴史家クルティウス=ルーフスであった。人間の愚かさをものの見事に衝いている。更に人間が過去に束縛されることをも示している。

 歴史とは権力者の事跡である。私が結婚したとか、ウチの親父が死んだとかは全く関係がない。これが文化や学問、宗教などの場合は「権威の移り変わり」と見ればよい。つまり過去の権力者の政治手法、経済体制、軍事行動を学んでいるうちに思考がパターン化してしまうのだろう。将棋でいえば定跡だ。

 歴史は繰り返すとなれば、そのサイクルに注目するのは当然の流れだ。ハリー・S・デント・ジュニアは人口トレンドによって景気サイクルを読み解こうとしている。

【だが、人間はやがて、世の中のいろいろな場面で一定のパターンが繰り返されていることに気がついた。そして、そのサイクルを理解することで将来を予測する能力を高め、以前よりも人生をコントロールできるようになった。社会が複雑になり、人口が増えて都市化が進み、コンピューターやナノテクノロジーが発達し、グローバル化が進むようになっても、この過程は続いている。】

【『最悪期まであと2年! 次なる大恐慌 人口トレンドが教える消費崩壊のシナリオ』ハリー・S・デント・ジュニア:神田昌典監訳、平野誠一訳(ダイヤモンド社、2010年)以下同】

 一言でいえば「お金のコントロール」である。貯蓄を始め、保険や投資によって人生の経済リスクをコントロールできるようになった。戦後、先進国においては避妊によって出産も制限可能となった。

【つまり私は、長期的な成長とサイクルの変化を生み出しているのはシンプルなトレンドであること、そして事業や経済のトレンド予測では人口と科学技術(テクノロジー)のサイクルが決定的に重要であることをこの仕事で学んだのである。】

 補足しておくと著者は、全体の複雑さはシンプルなサイクルが数多く集まって形成されているとしている。トレンドとは傾向や趨勢(すうせい)を意味する言葉であるが、川の流れに例えるとわかりやすい。中央の流れは速く岸辺は遅い。上と下でも速度や温度が微妙に異なる。しかし川全体としては海を目指して下ってゆくのだ。

 ここにいたって私は、経済の最大の原動力は「人口トレンド」であると、そしてその経済の基礎を変えるのが「画期的な新技術」であり、そうした事実は「革新(イノベーション)─成長─淘汰─成熟」という4段階から成るライフサイクルに従うことを理解しはじめた。また消費者がしだいに裕福になってきた結果、消費者の行動が経済に及ぼす影響は昔よりはるかに大きくなっており、それを背景に人口統計学的な要因が新技術の革新と普及をますます推進しているように見えることにも気がついた。

 人口トレンドとは消費者数で、イノベーションは消費性向を示す。「新しいものが欲しい」というストレートな欲望が景気を上昇させる。例えばミシン、自動車、ラジオ、三種の神器(じんぎ/白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機)など。最近だと携帯電話やパソコン、ゲーム機器といったところ。そして高度情報化社会となりメディアが視聴者を扇動し、広告会社が人々の欲望に火を点ける。

 過去のバブル・ブームから教訓を学ぶとしたら、それは「すべての資産が値下がりして銀行が巨額の不良債権を抱え込み、それが償却されることで不況になるというパターン」でかならず終わるということである。

 不況とは供給過剰によって物価が下落することだから必ず不良債権が発生する。というよりは、むしろ「債権の不良化」が進むと見るべきなのだろう。物の価値が下がるので相対的にお金の価値は上がる。しかし賃金も下がるのでお金は貯蓄に回される。で、みんなが買い物をしなくなるからデフレスパイラルに陥る。

 若者たちは何かとコストがかかるうえに、たいした生産活動は行わないため、現代社会ではそれをもたらす最大の要因になっている。一方、40代後半の働き盛りは先進国では最も生産性が高く支出も多いため、生産性向上や経済成長のけん引役となっている。
 米国のベビーブーム世代のように人口の多い新世代は、年を重ねるごとに世帯所得や支出、生産性といった予測可能なサイクルを押し上げ、好況を長期化させる。1942年から68年にかけての好況の背景にはボブ・ホープ世代がいたし、1983年から2008年までの好況期にはベビーブーム世代がいる。

 これが骨子となっている。つまり40代後半の人口構成が景気を左右するというのだ。単純にいってしまえば、大学生の子を持つ親と考えてよろしい。

 日本のバブル景気を支えたのも実は団塊の世代(1947-1949年生まれ)であった。だからハリー・S・デント・ジュニアの予測は当たっている。

 米労働省の調べによれば、平均的な世帯がポテトチップスに最もお金を使うのは、親が42歳のときである。なぜか。平均的に言えば、親は28歳の時(ママ)に第一子をもうける。そして複数の研究によれば、子どものカロリー摂取量は14歳のときにピークを迎える。したがって、子どもは親が42歳のときに最も多くため、親の財布に最も大きなダメージを与える傾向があるのだ。

 技ありのネタ(笑)。ま、エンゲル係数的視点といってよい。

 本書の後半において世界各国の未来予想図が描かれている。一人っ子政策を実施してきた中国は翳(かげ)りを見せ始め、2050年に向けて世界を牽引(けんいん)するのはインドとブラジルらしいよ。また世界経済は2023年まで不況と予測している。長期的視野に立てば、人口が多いアジア・アフリカ地域に発展の可能性があるとも。

 このイノベーションと人口トレンドという視点は、歴史を分析する場合にも有効だと思う。

2011-06-04

行間に揺らめく怒りの焔/『自動車の社会的費用』宇沢弘文


『記者の窓から 1 大きい車どけてちょうだい』読売新聞大阪社会部〔窓〕
『交通事故鑑定人 鑑定暦五〇年・駒沢幹也の事件ファイル』柳原三佳

 ・行間に揺らめく怒りの焔
 ・新自由主義に異を唱えた男

『交通事故学』石田敏郎
『「水素社会」はなぜ問題か 究極のエネルギーの現実』小澤詳司

必読書リスト その二

「生きた学問」は偉大なる感情に裏打ちされている。そのことを思い知った。宇沢は1964年にシカゴ大学経済学部教授に就任した人物。門下生の中にジョセフ・E・スティグリッツがいる(2001年ノーベル経済学賞受賞)。市場原理主義の総本山で、宇沢はシカゴ学派を批判した。気骨の人という形容がふさわしい。

 宇沢の怒りが青い焔(ほのお)となって行間で揺らめいている。本物の怒りは静かなものだ。熱い怒りは長続きしない。読み手はおのずから襟を正さずにはいられなくなる。

 しかし、このように歩行者がたえず自動車に押しのけられながら、注意しながら歩かなければならない、と言うのはまさに異常な現象であって、この点にかんして、日本ほど歩行者の権利が侵害されている国は、文明国といわれる国々にまず見当たらないと言ってよいのである。

【『自動車の社会的費用』宇沢弘文〈うざわ・ひろぶみ〉(岩波新書、1974年)以下同】

 文明が人間を押しのける。我々はテクノロジーの前にひれ伏す。昔であればきれいに舗装されたばかりの道路を歩くと、何となく遠慮がちになったものだ。

 日本における自動車通行の特徴を一言にいえば、人々の市民的権利を侵害するようなかたちで自動車通行が社会的に認められ、許されているということである。(中略)ところが、経済活動にともなって発生する社会的費用を十分に内部化することなく、第三者、特に低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたちで処理してきたのが、戦後日本経済の高度成長の家庭のひとつの特徴でもあるということができる。そして、自動車は、まさにそのもっとも象徴的な例であるということができる。

 これが本書のテーマである。社会的費用とは公害や環境破壊などにより社会が被る損失を意味する。

「低所得者層に大きく負担を転嫁するようなかたち」とは、国が税金でカーユーザーを経済的に支援してきたということであろう。

 ま、普通に道路を歩いていれば誰もが実感していることだ。歩行者優先は掛け声だけで、実際は邪魔だといわんばかりにクラクションを鳴らされる。

 近代市民社会のもっとも特徴的な点は、各市民がさまざまなかたちでの市民的自由を享受する権利をもっているということである。このような基本的な権利は、単に職業・住居の選択の自由、思想・信条の自由という、いわゆる市民的自由だけでなく、健康にして快適な最低限の生活を営むことができるという、いわゆる生活権の思想をも含むものである。このような基本的権利のうち、安全かつ自由に歩くことができるという歩行権は市民社会に不可欠の要因であると考えられている。
 近代市民社会の特徴はさらに、他人の自由を侵害しないかぎりにおいて、各人の行動の自由が認められるという基本的な原則が守られているということであるが、自動車通行によってまさにこの市民社会における最も基本的な原則を破られている。

 生活権という言葉に目から鱗(うろこ)が落ちる思いがする。そして、この国がいかに法の精神を蔑ろにしてきた実体がよく見えてくる。

 時折、真夜中にオートバイの爆音が聞こえると私は殺意を抱く。前もって来る時間がわかっていれば、バットか木刀を持って待ち受けるところだ。彼らは自分の好き勝手のために、病人や障害者に迷惑をかけている自覚すらないのだろう。っていうか、大体どうしてあんな騒音を撒(ま)き散らす物の販売が認められているのか? バイクショップやメーカーに規制をかけるべきだと思う。それから病人の生活権を守るために、オートバイの免許取得は30歳以上に引き上げるべきだ。

 カーユーザーの自由のために、他の人々の自由が損なわれている。その原因はどこにあるか?

 というのは、近代経済学の理論的支柱を形成しているのは新古典派の経済理論であるが、新古典派の理論的フレームワークのなかでは、一般に社会的費用を発生するような経済現象を斉合的に分析することは、その理論的前提からの制約によってすでに不可能であると言ってもよいからである。

 経済理論に穴が空いていたのだ。それでも人の健康や命に重い価値を置いていれば、賠償請求によって社会は軌道修正してゆくことができるはずだ。つまり、この国は人間を軽んじているのだ。それゆえ国策に乗じた大手企業は絶対に潰れることがない。原発や製薬会社を見れば一目瞭然だ。特に製薬会社は名前を変えて生き残っている。石井部隊の末裔(まつえい)は断じて死なない。

 自動車の普及のプロセスをたどってみると、そのもっとも決定的な要因のひとつとして、自動車通行にともなう社会的費用を必らずしも内部が負担しないで自動車の通行が許されてきたということがあげられる。すなわち自動車通行によって、さまざまな社会的資源を使ったり、第三者に迷惑を及ぼしたりしていながら、その所有者が十分にその費用の負担をしなくてもよかったということである。

 道路・信号・標識・横断歩道と排気ガス・騒音など。本来であれば、自動車税やガソリン税をもっと高くすべきなのだろう。結果的に自動車所有者が得をする仕組みになっていたわけだ。持てる者と持たざる者の間にアスファルトの道路が存在する。

 自動車の普及を支えてきたのは、自動車の利用者が自らの利益をひたすら追求して、そのために犠牲となる人々の被害について考慮しないという人間意識にかかわる面と、またそのような行動が社会的に容認されてきたという面とが存在する。

 利便性と所有欲が人間を犠牲にしてきたという指摘だ。そして車を所有できない人々は沈黙を強いられてきた。

 要するに、ホフマン方式によって交通事故にともなう死亡・負傷の経済的損失額を算出することは、人間を労働提供して報酬を得る生産要素とみなして、交通事故によってどれだけその資本としての価値が減少したかを算定することによって、交通事故の社会的費用をはかろうとするものである。
 このホフマン方式によるならば、もし仮りに、所得を得る能力を現在ももたず、また将来もまったくもたないであろうと推定される人が交通事故にあって死亡しても、その被害額はゼロと評価されることになる。また、こう所得者はその死亡の評価額が高く、低所得者は低くなることも当然である。したがって、老人、身体障害者などが交通事故にあって死亡・負傷したときにはその被害額は小さくなるのである。

 このような急速方法が得られるのは、人間をひとつの生産要素とみなすからである。労働サーヴィスを提供して、生産活動をおこない、市場で評価された賃金報酬を受取る、という純粋に経済的な側面にのみに焦点を当てようとする考え方が、その背後には存在する。この考え方はじつは、人間のもつさまざまな社会的・文化的側面を捨象して、純粋に経済的な側面に考察を限定し、希少資源の効率的配分をひたすらに求めてきた新古典派の経済理論の基本的な性格を反映するものである。

 蒙(もう)が啓(ひら)かれる。真の学問は光を発して周囲の世界を照らす。GDP(国内総生産)という発想も同様であろう。国家が最も必要とするのは労働者と兵隊である。生産要素とは納税者の異名でもある。すなわち国家は国民を搾取対象と見なすのだ。

 官僚が経済論を基準に法律を作成し、政治家が業界の意向を汲んで修正を加え、法律ができあがる。そこに人権への配慮はない。こうやって法の精神は魂を抜かれ、試験のために記憶するだけの条文と化すのだろう。

 法律が本当に機能しているのであれば、国家賠償訴訟などで世の中がよくなっているはずだ。しかしそんな気配は微塵もない。そもそも法律や憲法なんぞは宗教の教義みたいなもので、信じる人々の間で有効に働く程度の代物であろう。いつの時代にもアウトローは存在する。

 本当なら、大学が最後の砦(とりで)として世の中を正してゆくべきだと思うが、既に産学協同で大学は企業の下部組織となりつつある。「一緒にポーカーをやろうぜ」ってわけだよ。大学は優良企業へ就職するための通過点にすぎない。

 資本主義経済は人の命にまで値段をつけて差別をするのだ。経済学が欺瞞(ぎまん)の笛を鳴らし、国家はそれに合わせて踊るという寸法だ。世界経済を牽引(けんいん)するアメリカも中国も恐るべき格差社会となっている。極端な集中が崩壊の引き金となる。先行投資として社会保障を手厚くしておかなければ大変な事態に陥る。

 このままグローバリゼーションの波に乗っていれば、日本の優良企業や一等地はアメリカと中国に買われてしまうことだろう。

「パックス・アメリカーナの惨めな走狗となって」宇沢弘文

2011-06-03

須賀敦子、菊地信義、グレッグ・ルッカ


 2冊挫折、1冊読了。

 挫折22『遠い朝の本たち』須賀敦子(筑摩書房、1998年/ちくま文庫、2001年)/開くなり「調布のカルメル会修道女」と出てきてウンザリ。これだけで「敬虔なクリスチャン」という印象が黒々と浮かび上がってくる。強信(ごうしん)のブードゥー教信者とか厳格なムスリムだったら書けない。それだけでもずるいと思う。「わたくし、クリスチャンですのよ。オホホホホ」という忍び笑いが聞こえてきそうだ。エッセイを読んでいると、水で薄めたウイスキーみたいに感じて、パラパラとめくってパタンと閉じてしまった。

 挫折23『樹の花にて 装幀家の余白』菊地信義(白水社、1993年/白水Uブックス、2000年)/菊地は装丁の第一人者。文章が巧みだ。上手すぎて鼻につく。見事なデッサンなんだが、どうも線が気に入らぬ。銀座の様々な表情が描かれている。


 34冊目『暗殺者(キラー)』グレッグ・ルッカ/古沢嘉通〈ふるさわ・よしみち〉(講談社文庫、2002年)/アティカス・コディアック・シリーズの第三弾。600ページ近いが一日で読了。やはり順番で読むのが正しい。サービス過剰のあまり冗長な部分もあるが、文章がいいので苦にならない。ブリジット・ローガンの使い方が実に上手い。登場しないことで存在感を際立たせている。巨大な煙草メーカーを告発する重要証人の警護を行う。この爺様が不思議な魅力を放っている。

2011-06-02

世界の構造は一人の男によって変わった/『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ


『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世

 ・世界の構造は一人の男によって変わった

『殉教 日本人は何を信仰したか』山本博文

 政治・経済・文化という次元で世界を理解しようと思えば、キリスト教を避けて通るわけにはいかない。欧米を中心とする世界基準はキリスト教であるからだ。思想的背景が異なると言葉の意味すら変わってくる。日本語で人間といえば同じ生き物としての平等性を感じるが、これが英語だと神の僕(しもべ)として何らかの役割を担っている雰囲気がある。

社会を構成しているのは「神と向き合う個人」/『翻訳語成立事情』柳父章

 ポール・ヴェーヌは古代ローマ史を研究する碩学(せきがく)とのこと。はっきりと断っておくが面白くない本である。にもかかわらず、私が長らく抱いていた疑問が解けた。それは「いつからキリスト教が西洋のスタンダードになったのか?」というものだ。

 で、犯人がコンスタンティヌスであることはわかっていた。問題は犯行の手口だった。

 西洋史、さらには世界史にあってさえ決定的だった出来事のひとつが、312年に広大なローマ帝国内で生じた。

【『「私たちの世界」がキリスト教になったとき コンスタンティヌスという男』ポール・ヴェーヌ:西永良成〈にしなが・よしなり〉、渡名喜庸哲〈となき・ようてつ〉訳(岩波書店、2010年)以下同】

 312年にコンスタンティヌスは西ローマ帝国を制覇した。で、歴史を揺るがす大事件とは何であったのか?

 ところが、その翌年の312年、およそ予測することも不可能だったひとつの出来事が生じた。すなわち、共同皇帝の別のひとり、この壮大な物語=歴史のヒーローであるコンスタンティヌスが(「おまえはこの徴(しるし)のもとに勝利するであろう」という)夢のお告げのあと、キリスト教に改宗したのである。当時のキリスト教とは〈帝国〉の人口(おそらくは7000万人)のわずか5ないし10パーセント程度でしかなかったと考えられている。だからこそJ・B・ペリーは、「312年、大多数の真価が考えていたことに挑戦し、これを軽蔑しつつコンスタンティヌスの成しとげた宗教革命はたぶん、かつてひとりの専制君主が敢行したうちでも、最も大胆な行為だったことをけっして忘れてはならない」と書いているのである。

 有名なエピソードである。キリスト教世界は夢のお告げから誕生したのだ。啓示、あるいは悟りと考えてよかろう。現在、世界の宗教人口はキリスト教33.4%、イスラム教22.2%、ヒンドゥー教13.5%、仏教5.7%となっている(百科事典『ブリタニカ』年鑑2009年版)。

 しかしながら、王の改宗自体は決して珍しいものではない。この時何が変わったのか?

 すなわち、ローマの玉座がキリスト教になり、〈教会〉が権力になったということである。もしコンスタンティヌスがなかったなら、キリスト教はひとつの前衛的宗派にとどまっていたことだろう。

 これだよ、これ。権力の移行を伴ったことが最大の違いであった。見ようによっては、政治権力を政教という形で分散したようにも考えられる。本質的には政治が現実生活の枠組みを規定し、宗教が内面の物語を構成する以上、全く新しい「大文字の歴史」が誕生したといってよい。

 彼は自分の臣下たち全員がキリスト教徒になるのを見たいと心底願っていたにもかかわらず、彼らを改宗させるという不可能な任務に手を染めることはなかった。これは異教徒を迫害しなかったし、異教徒の発言を封じもしなかったし、異教徒の出世を不利にすることもしなかった。迷信家どもが身を滅ぼしたいというのなら、それは彼らの勝手だ、というわけである。コンスタンティヌスの後継者たちもやはり異教徒を強制せず、彼らの改宗の務めをもっぱら〈教会〉にゆだねたのであり、そしてこの〈教会〉も又迫害よりも説得を用いることになった。

 これは凄い。コンスタンティヌスはキリスト教を「公正なもの」に変えたのだ。すなわち、彼の「人間としての振る舞い」がキリスト教を世界基準にまで高めたのだ。コンスタンティヌスは命令よりも感化を選んだ。人間への限りない信頼によって、言葉の意味すら重みが増したことだろう。

 コンスタンティヌスは又、たとえ犯罪者であろうとも、キリスト教徒に罪を償わせる合法的な義務を免除してやった。当時、有罪者の一部は強制的に剣闘士として闘う刑に処されていた。ところが、聖なる〈戒律〉は「汝、殺すなかれ」と定めている。だから、剣闘士たちは久しく〈教会〉にはいることを認められていなかった。そこでコンスタンティヌスは、キリスト教徒には「受刑者が流血を見ることなく、自らの大罪の罰が感じられるように」と、闘技場での闘いの刑を鉱山や採石場での強制労働に代える決定をくだしたのである。この偉大な皇帝の後継者たちも以後、これと同じ法律を尊重することになるだろう。

 彼はまた、キリスト教を「法」へと高めたのだ。劇的なパラダイムシフトといってよい。完璧なソフトパワー革命だ。

 要はこうだ。コンスタンティヌスという人間の思考回路は時代を超越していた。ある日、夢が引き金となってシナプスの構成が一変した。彼はいまだかつてなかった常識と道理を政治レベルで示した。その瞬間、人々の脳の構造も変わった。かくしてキリスト教世界が生まれたわけだ。一人の脳内ネットワークがそのまま社会ネットワークと化した。

 コンスタンティヌスは最初のマグマだったのだ。312年に始まった噴火は中世まで続いた。そして全く新しい山脈が出来上がった。

 その後のキリスト教の歴史を見れば、キリスト教そのものに力があったとは思えない。世界の混乱の大半はキリスト教に原因があると私は考えている。神と人間、そして人間と動物の差別意識が征服や侵略を可能にしたと思う。

動物文明と植物文明という世界史の構図/『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 とすると、コンスタンティヌスによるキリスト教の「扱い方」に最大の勝因があったのではなかろうか。それはそのまま「人間に対する扱い方」でもあった。

 世界の構造は一人の男によって変わったのだ。万人が納得し得る合理性こそがその鍵となる。



コンスタンティヌス家 Constantinus
コンスタンティヌス1世 (AD307-AD337)
キリスト教の創立者/コンスタンティヌス
映画『Zeitgeist(ツァイトガイスト) 時代の精神』ピーター・ジョセフ監督
欽定訳聖書の歴史的意味/『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
サードマン現象は右脳で起こる/『サードマン 奇跡の生還へ導く人』ジョン・ガイガー
イエスの復活~夢で見ることと現実とは同格/『サバイバル宗教論』佐藤優

武田邦彦「日本社会は原子力という巨大技術を実施するポテンシャルがない」


 痺れた。数学的思考が具体的な答えを導き出している。

「私は原子力の技術に関しては絶対に大丈夫だと思っている。だけど日本社会は原子力という巨大技術を実施するポテンシャルがない。例えば非常に具体的に言えば東大教授を全員クビにして、天皇陛下の叙勲を全部なくして、官僚を全部教育し直して、万機公論(ばんきこうろん)に決するようにして、という条件がなけりゃダメだ」(武田邦彦)

『そのまま言うよ!やらまいか』 第14回「民主主義 part6」

世界は狭い


 世界は知覚で構成されている。つまり知覚の限界が世界の涯(はて)である。その意味ではいかなる世界であっても狭い。大切なことは世界を広げることよりも、狭い世界に対する自覚である。しなやかな精神の持ち主は、世界を柔らかに再構成してゆくことができる。

信仰者は言葉の奴隷である


 信仰者は教えられた答えにしがみつく。教義が絶対的なものであるなら、彼らは言葉の奴隷といってよい。かつて教義が変わらなかった教団は存在しない。信者は大きな口で変更された教義を鵜呑みにする。

一票の格差が諸悪の根源なのか?


 ツイッターで一票の格差に関する声が散見され、その中で紹介されていた記事。

首相のリーダーシップ欠如は、「地方の有力者」が優遇される仕組みから生まれた:出口治明

 回らぬ頭で読んでいたので、繰り返し読み直す羽目となった。これほど違和感を覚える文書も珍しい。挙げ句の果てには「歪(いびつ)な構造を生み出した諸悪の根源は、一票の格差ではないか」とまで書いている。チト、面倒なんで箇条書きにする。

・G8サミットは(中略)、日本が全体としては安全でありそしてわが国の経済が間違いなく回復することを、「具体的に」世界に訴える格好の機会だった。

 経済回復の具体性がない。(経済成長率の推移経済成長率の推移〈主要国・地域〉

・では、菅首相が退任したら、すべての問題は解決するのだろうか。

 解決するかもしれないし、解決しないかもしれない。どうして、わざわざ「すべての問題」に帰着させるのか理解に苦しむ。この段落はフラフラした文章で、非常にわかりにくい。

・そもそも、こういった問題の所在を、個人の能力や資質に帰すアプローチは、果たして正しいのだろうか。

 正しい。「個人の能力や資質」を問わないのであれば選挙をする必要もなくなる。

・4代(あるいは5代)連続して首相を務めるに足る能力や資質に欠けたリーダーを、この国は選び続けてきたのだろうか。

 国民から政権を付託された政権与党の党内人事にすぎない。意図的に「この国」と書くことで、あたかも国民が選出したかのような印象を盛り込んでいる。

・およそビジネスの世界ではあり得ないような異常事態を、この国は続けている。

 ビジネスと政治は異なる。

・では、このような政治リーダーを次々と産み出してきたこの国の「構造的な歪み」とは何か。突き詰めて考えると、一票の格差こそが諸悪の根源だと思えてならない。

 要はこれが書きたくて、色々な材料を引っ張り出しているだけだ。

・問題を単純化して考えてみよう。1票の格差が存在するということは、地方の有力者が政治リーダーに選ばれやすいということとほぼ同義である。

「突き詰めて考える」最初の段階で、問題を単純化していいのか? そんな突き詰め方で大丈夫なのか?

・グローバルな問題よりも国内の問題に注力しがちになることは、ある意味、当然ではないだろうか。

 問題を単純化して導いた結論を「当然だ」と言い切っている。

・以上のように考えてみると、(中略)一票の格差という淵源に突き当たるのである。

 最初から的を決めているわけだから「突き当たる」のは当然だ。

・有力なアイデアは、インターネット投票の導入である。

 インターネット投票や電子投票は嘘をつかれる恐れがある。

 彼の論理は、小学生が授業における発表を失敗した場合に置き換えるとわかりやすい。ナオト君の失敗は家族の構造に問題があるってわけだよ。

 明らかに論理が破綻しているのは、ヒューマンファクター(人的要因)と構造的要因が異なる視点であるにもかかわらず、そこに優劣をつけているためだ。

 犯罪を考える場合なども社会的背景に目を奪われてしまうと、犯罪者=社会の犠牲者と問題が変質してしまう。

 一票の格差は確かに問題だろう。だが、一票の格差が解消されることで政治状況が変わるというのは行き過ぎた楽観論だ。

 突き詰めて考えるのであれば、女性に投票権がなかった時代や、それこそ政治意識すら芽生えていなかった江戸時代とも比較考証すべきであろう。更に外国で格差是正成功例があるならデータで示すべきだ。

 そもそも本気で民主政治を行うのであれば、議員選出法はくじ引きにすることが正しいのだ。

民主的な議員選出法とは?/『民主主義という錯覚 日本人の誤解を正そう』薬師院仁志

 私は一票の格差よりも、憲法違反が平然とまかり通っている事実の方が恐ろしいと思う。国家権力に縛りをかける憲法が有名無実であることは、権力の暴走を許していることになるからだ。

 結論――政治の構造的問題を一票の格差に帰着させる考えは、全ての問題を菅直人首相のせいにする人々と五十歩百歩であると思う。

一人一票に関心が湧かない

2011-06-01

ダニエル・カーネマン


 1冊挫折。

 挫折21『ダニエル・カーネマン 心理と経済を語る』ダニエル・カーネマン:友野典男、山内あゆ子訳(楽工社、2011年)/著者は心理学者であるが、ノーベル経済学賞を受賞した人物だ。記述がまどろっこしい上、文章に迫力がない。プロスペクト理論を学びたかったのだが相性が合わず。