・『自衛隊失格 私が「特殊部隊」を去った理由』伊藤祐靖
・天皇陛下はエンペラーに非ず
・日本国憲法の異常さ
・『とっさのときにすぐ護れる 女性のための護身術』伊藤祐靖
・『自衛隊最高幹部が語る令和の国防』岩田清文、武居智久、尾上定正、兼原信克 2021年
・『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克
・日本の近代史を学ぶ
「何て書いてあるの? 訳してよ」
「本気で訳すから、一日待て」
翌日、その詔書を英語に翻訳したものを印刷し、仰々しく額に入れて渡した。読み終えた彼女は、「この時の日本の人口は、何人?」と訊いてきた。
「6000万弱かな」
「これ、本当にエンペラーが書いたものなの?」
「そうだよ。エンペラーというか、TENNOU・HEIKA」
「あぁ、HIROHITOね」
「違う。先代だ」
「すごいね、本当にすごい」
「何がすごいんだ?」
「あなたの国は、すごい」
「だから何が、すごいんだ?」
「あなたは、これは、エンペラーが書いた命令文書だと言った。でも、違うわよ」
「何を言ってんだ。これは確かにエンペラーが書いたものだ」
「でも、命令なんかしてないじゃない。願ってるだけじゃない。“こいねがう”としか言ってないわよ」
「そういう言葉を使う習慣があるんだよ」
「エンペラーは、願うんじゃなくて、命令するのよ。エンペラーが願っても、何も変わらないでしょ。願うだけで変えられるのは、部族長だけよ」
「部族長? 天皇陛下は部族長だって言うのか?」
「“こいねがう”と言ってるんだから、これを書いた人は部族長なの。これは、部族長が書いた、リクエストなのよ」
「部族長か……、願うだけで変えられるか……」
「6000万人全部が一つの部族で、それに部族長がリクエストを出すっていうのがすごい。私のところとは、規模が違う」
あまりのショックで、私はしばらくしゃべれなかった。
6000万人全部が一つの部族――。エンペラーではなくて部族長――。エンペラーが願っても何も変わらない――。“こいねがう”と言っているから部族長――。
すべてが腑に落ちた。
同時に激しい自己嫌悪を感じた。
なぜ、ミンダナオ島の二十歳そこそこの奴から、詔書の真意と日本という国の本質を教えられてしまうんだ。日本に生まれて、日本語を母語としていて、40年以上日本で生きていたのに、なぜ、それが見えなかったのだろう。どうして、こいつは一瞬で見抜いたのだろう。“こいねがう”というたった一つの単語で、彼女は断言した。部族長であってエンペラーではないし、命令文書でもない、と。
だが、自己嫌悪の裏側には、喜びと高ぶりもあった。この島にいることで、自分の祖国の実相が見えてくるかもしれないという予感が、正しかったのだ。(中略)
つい最近まで国家元首が“こいねがう”ことによって、国家が動いていた。ここに私の祖国日本の本質があるように思えた。
【『国のために死ねるか 自衛隊「特殊部隊」創設者の思想と行動』伊藤祐靖〈いとう・すけやす〉(文春新書、2016年)】
弟子のラレインが海底60メートルで拾ったのは額入りの「国民精神作興ニ関スル詔書」であった。「関東大震災などによる社会的な混乱を鎮(しず)めるために大正天皇が発したもの」と書かれているが、社会的な混乱とは「民本主義や社会主義などの思想」を指す(小学館 日本大百科全書〈ニッポニカ〉)。
エンペラーの語源はインペラトルで「インペリウム(命令権)を保持する者」(Wikipedia)との意。司令との訳語が実際的であるが「司」だと少し弱い。我々日本人にとって命令権者という概念を理解するのは難しい。
ラレインは詔勅から「日本の呪術性」を見抜いた。私がいう呪術性とは合理性の埒外(らちがい)にあるものを指す。呪術性と聞いて直ちに否定する輩は合理性の奴隷で人の感情(情動)を理解していない。何歳であろうと人が人生を振り返った時に心の中を流れるのは感情だ。合理性ではない。ここに人間理解の鍵がある。
天皇は祭祀王(さいしおう)である(『ゴーマニズム宣言SPECIAL 天皇論』小林よしのり)。神と人の間に立って祭祀を司(つかさど)り、ひたすら祈りを捧げる存在が天皇なのだ。その天皇の「願い」に国民が身を寄せるところに日本の民族性がある。もちろん明治維新が天皇を神格化した歴史的経緯は見逃せないが、代々続いてきた天皇システムを軽んじるのも誤っている。
呪術性とは以心伝心であり阿吽(あうん)の呼吸である。民族特有の「気」といってもよい。理窟よりも意気や気魄(きはく)を重んじるのが日本のエートス(気風)であろう。
当時は既に詔勅で世の中が動く時代ではなかった。いつの時代も自由とは過去の否定を意味する。大正デモクラシーも例外ではなかった。政党政治という大輪の花は咲いたがかつての王政復古を支えた志や武士道は廃(すた)れた。昭和に入るとその空隙(くうげき)を軍政が衝(つ)くのである。
東日本大震災を通して天皇は再び日本の中心に据(す)わった感がある。この事態に逸(いち)早く反応したのが左翼勢力で団塊の世代を中心に日本を貶(おとし)める工作活動が激化して今日に至る。
「兵隊は国家の意思を具現化するために命を捨ててもいいと自ら志願してきた人です」(小林よしのり×伊藤祐靖 新・国防論 日本人は国のために死ねるのか 2)と伊藤は言い切る。憲法9条が自衛隊の軍事性を否定する以上、命を捨てる覚悟が強ければ強いほど不毛な結果が見えてくる。日本が普通の軍隊を持つことができないのは「守るに値する国民」がいないためだ。