反体制、反商業主義こそが、フォークソングの本質という生硬なフォークファンからは大きな批判を浴びたが、拓郎はマーケットに迎合したわけではなく、日々の生活の中で抱くまったく個人的な心情を、より日常的な言葉で歌ったに過ぎない。むしろそうすることで、旧態依然としたフォークソングの閉鎖性から訣別しようとしたのである。
フォークシンガーが内省的となる傾向のある中で、平凡でストレートに思いを表現する潔さがあったとされる。罵声が飛んでも歌い続ける姿勢が支持者を増やした。全ての若者がプロテスト系のフォークを支持しているわけではなく、同世代の普通の若者からは絶大な支持を受けた。
北中正和は「1972年に連合赤軍 あさま山荘事件が起こり、彼らのリンチ殺人事件が発覚すると、学生運動に何らかの共感を抱いていた人たちの気分も引いてしまった。1960年代の余燼はどんどん消えていった。吉田拓郎の人気浮上は、そんな世相の変化を感じさせた」と論じている。
寺島実郎は「吉田拓郎の『結婚しようよ』と井上陽水の『傘がない』を聴いたとき、『政治の季節』が終わったことを確認した」と論じている。
最初はメッセージ・フォークを歌っていて、1971年のフォークジャンボリーでは、同イベントの形骸化批判の口火を切ったにも関わらず、その半年後には「結婚しようよ」をリリースするという"変節"に関して、伊藤強は「1972年には日本はすでに政治の季節を終えていた。終わってしまった季節に対して何を言っても意味はない。吉田拓郎は時代の好みを鋭敏に嗅ぎとったのに違いない」などと述べている。
菊池清麿は「吉田拓郎の登場は、自作自演のスタイルはもちろんのこと、世代感をアピールする強烈なリアリティーを持つ新しい若者文化だった。これによってフォークの形態が大きく変わった」と論じている。
スポーツニッポンの音楽担当記者だった小西良太郎は、「吉田拓郎が1970年『イメージの詩』でシングル・デビューして、歌謡曲の歌い手がよくやるプロモーション行脚で僕を訪ねて来たのには不審の念を飲み込んだ。それまで会ったフォーク勢は、マスコミにも白い眼を向け、レコードが売れることを拒否、自作の宣伝など以ての外の筈だった。その後吉田が、反抗するメッセージ臭のかけらもない曲を連発すると、案の定戦闘的なファンから猛反発を受けたがしかし、それらの曲が大ヒットすると吉田は時代を歌う旗手の一人になった。吉田はみんなの連帯ソングから"我が道をゆく"個人の精神を取り戻し、狙い撃ちでヒット曲を書き続けた。終始衰えを見せなかったのは、胸中の熱い血と歌声に色濃い覇気、作品にある鮮度、独自の姿勢を貫く意思の強さがあった」などと評している。
60年代のカレッジフォークや社会派フォークとは全く異なる地平で自身の「うた」をクリエイトしていた拓郎の音楽が瞬く間に大衆に受け入れられたのは、旧来の〈フォークソング〉が〈フォーク〉へと変貌していく時代の要請であると同時に、ある種の必然でもあった。
筒美京平は「吉田拓郎の『結婚しようよ』がヒットしたとき、初めて脅威を感じた」と述べている。
馬飼野元宏は「フォーク史のいくつかの転換期の中でも、吉田拓郎の登場と、その後数年間の活動は日本のフォークシーン最大の山場といえる。拓郎がデビューから5年間に切り開いた功績と音楽シーンへの影響は計り知れないが、何よりプロテストソング全盛だったフォークシーンから時代の舵を奪い取ったことが大きいのではないか」と述べている。
恩蔵茂は『ニッポンPOPの黄金時代』という2001年の著書で戦後の日本のポピュラー・ミュージック(ポップス)の歴史を、序章「ザ・ヒット・パレードの興亡」から11章に分け論じているが、第10章である最終章、1970年代から今日(2001年)までのタイトルを「拓郎からJ-POPへ」としている。富澤一誠は「吉田拓郎が出なければ、今のJ-POPはないといっても過言ではない」と述べている。
【Wikipedia > 吉田拓郎 】
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読みやすくするために適宜改行を加えた。実に興味深い記述である。「政治の季節は終わった」との表現にはある種の感傷が潜んでいるが、実態は「大学生の革命ごっこが終了した」という程度の事実に過ぎない。最大の問題は学生をきちんとたしなめる大人がいなかったことだ。三島由紀夫がただ一人気を吐いて見せたが学生運動の暴力性を鎮静させるまでには至っていない。
そしてもう一つ重要な事実がある。1972年は日中国交回復がなされた年でもある。その意味から申せば「政治の季節は移り変わった」といえよう。同年の主要な出来事を紹介しよう。
・1月24日 - グアム島で元日本陸軍兵士横井庄一発見。
・2月3日 - 札幌オリンピック開催。2月13日まで。
・2月19日 - 連合赤軍によるあさま山荘事件。2月28日に全員逮捕。
・4月1日 - 札幌市、川崎市、福岡市が政令指定都市に指定。
・4月16日 - 川端康成が逗子市でガス自殺。
・5月13日 -大阪府 大阪市南区(現・中央区)千日前の千日デパートで火災。死者118人、負傷者81人。日本のビル火災史上、最悪の惨事
・5月15日 - アメリカから日本へ沖縄返還、沖縄県発足。
・6月11日 - 田中角栄通産相が「日本列島改造論」発表。
・6月17日 - 佐藤栄作首相退陣表明。新聞記者を全員退去させ“テレビ主導”となった前代未聞の退陣会見に。
・7月7日 - 第1次田中角栄内閣発足。
・7月21日 - 日本テレビ系で刑事ドラマ『太陽にほえろ!』放送開始。1986年まで14年続く長寿番組となった
・8月3日 - カシオ計算機が世界初のパーソナル電卓「カシオミニ」を発売。
・9月29日 - 田中首相訪中し、日中国交正常化の共同声明。
・10月 - ツクダから「オセロ」発売。
・10月28日 - 日中国交正常化を記念して上野動物園にジャイアントパンダのランラン、カンカンが来園。
・11月6日 - 羽田空港発福岡空港行きの日航機がハイジャックされる(日本航空351便ハイジャック事件)。
【1972年の日本 - Wikipedia 】
私は小学3年生だった。これらの出来事は大方憶えている。高度経済成長をひた走る国民にとって学生運動は所詮他人事であった。ところが連合赤軍による
あさま山荘事件 が生中継で延々と報じられ、無関心から否定的な方向に国民感情が動いたのだ。
学生運動世代(=団塊の世代)がまだまだ社会の上層部に巣食っている。日本のエスタブリッシュメントはほぼ左翼と考えていいだろう。自民党を始めとする保守層は鷹揚(おうよう)に構えすぎた。憲法改正は疎(おろ)かスパイ防止法すら制定できない有り様である。元々国際的な視点で見れば自民党の政策は中道左派に位置する。親中派が多いことを考慮すると保守政党と呼ぶことにも疑問がある。