現代の若い人の中には、勉強を軽視することも大人の世界への反抗と思って、もっぱら動物系の探求反射だけで、次の時代の道を見出そうとしている人が少なくない。それも当然だろう。ところが、大人の押しつけている勉強は、本当の勉強ではないのだから、本当の勉強をすることこそ、本当の反抗になるのである。
【『脳 行動のメカニズム』千葉康則(知的生き方文庫、1985年)】
若いうちに恐怖のない環境に生きることは、本当にとても重要でしょう。私たちのほとんどは、年をとるなかで怯えてゆきます。生きることを恐れ、失業を恐れ、伝統を恐れ、隣の人や妻や夫が何と言うかと恐れ、死を恐れます。私たちのほとんどは何らかの形の恐怖を抱えています。そして、恐怖のあるところに智慧はありません。それで、私たちみんなが若いうちに、恐怖がなく、むしろ自由の雰囲気のある環境にいることはできないのでしょうか。それは、ただ好きなことをするだけではなく、生きることの過程全体を理解するための自由です。本当は生はとても美しく、私たちがこのようにしてしまった醜いものではないのです。そして、その豊かさ、深さ、とてつもない美しさは、あらゆるものに対して――組織的な宗教、伝統、今の腐った社会に対して反逆し、人間として何が真実なのかを自分で見出すときにだけ、堪能できるでしょう。模倣するのではなく、発見する。【それ】が教育でしょう。社会や親や先生の言うことに順応するのはとても簡単です。安全で楽な存在方法です。しかし、それでは生きていることにはなりません。なぜなら、そこには恐怖や腐敗や死があるからです。生きるとは、何が真実なのかを自分で見出すことなのです。そして、これは自由があるときに、内的に、君自身の中に絶えま(ママ)ない革命があるときにだけできるでしょう。
しかし、君たちはこういうことをするように励ましてはもらわないでしょう。質問しなさい、神とは何かを自分で見出しなさい、とは誰も教えてくれません。なぜなら、もしも反逆することになったなら、君は偽りであるすべてにとって危険な者になるからです。親も社会も君には安全に生きてほしいし、君自身も安全に生きたいと思います。安全に生きるとは、たいがいは模倣して、したがって恐怖の中で生きることなのです。確かに教育の機能とは、一人一人が自由に恐怖なく生きられるように助けることでしょう。そして、恐怖のない雰囲気を生み出すには、先生や教師のほうでも君たちのほうでも、大いに考えることが必要です。
【『子供たちとの対話 考えてごらん』J・クリシュナムルティ:藤仲孝司〈ふじなか・たかし〉訳(平河出版社、1992年)以下同】
君たちはこれがどういうことなのか、恐怖のない雰囲気を生み出すことがどんなにとてつもないことになるのか、知っていますか。それは【生み出さなくてはなりません】。なぜなら、世界が果てしない戦争に囚われているのが見えるからです。世の中は、いつも権力を求めている政治家たちに指導されています。それは弁護士と警察官と軍人の世界であり、みんなが地位をほしがって、みんなが地位を得るために、お互いに闘っている野心的な男女の世界です。そして、信者を連れたいわゆる聖人や宗教の導師(グル)がいます。彼らもまた、ここや来世で地位や権力をほしがります。これは狂った世界であり、完全に混乱し、その中で共産主義者は資本主義者と闘い、社会主義者は双方に抵抗し、誰もが誰かに反対し、安全なところ、権力のある安楽な地位に就こうとしてあがいています。世界は衝突しあう信念やカースト制度、階級差別、分離した国家、あらゆる形の愚行、残虐行為によって引き裂かれています。そして、これが君たちが合わせなさいと教育されている世界です。君たちはこの悲惨な社会の枠組みに合わせなさいと励まされているのです。親も君にそうしてほしいし、君も合わせたいと思うのです。
そこで、この腐った社会秩序の型に服従するのを単に助けるだけが、教育の機能でしょうか。それとも、君に自由を与える――成長し、異なる社会、新しい世界を創造できるように、完全な自由を与えるのでしょうか。この自由は未来にではなくて、今ほしいのです。そうでなければ、私たちはみんな滅んでしまうかもしれません。生きて自分で何が真実かを見出し、智慧を持つように、ただ順応するだけではなく、世界に向き合い、それを理解でき、内的に深く、心理的に絶えず反逆しているように、自由の雰囲気は直ちに生み出さなくてはなりません。なぜなら、何が真実かを発見するのは、服従したり、何かの伝統に従う人ではなく、絶えず反逆している人たちだけですから。真理や神や愛が見つかるのは、絶えず探究し、絶えず観察し、絶えず学んでいるときだけです。そして、恐れているなら、探究し、観察し、学ぶことはできないし、深く気づいてはいられません。それで確かに、教育の機能とは、人間の思考と人間関係と愛を滅ぼすこの恐怖を、内的にも外的にも根絶することなのです。
NHKの関係者から「すさまじい勢いで受信契約世帯が増えている」という話をきいていた。昭和33年のNHK受信契約世帯は100万世帯だったが、1年後には500万世帯に迫る勢いだという。すごい伸び率である。こんな伸びを示しているものが他にあるだろうか。
それに輪をかけるように、34年2月に東芝がカラーテレビ第1号を完成させていた。カラーテレビはまだまだぜいたく品で1台52万円だが、各方面から問い合わせが多いという。さらにソニーが昭和35年4月に向けてオールトランジスターテレビを発売するという噂も聞いていた。小売価格は6万9800円だという。
確実にテレビは普及する。
白黒(モノクロ)からカラーになり、サイズも自由になる、と渡辺晋は予測した。
【『ナベプロ帝国の興亡』軍司貞則〈ぐんじ・さだのり〉(文藝春秋、1992年/文春文庫、1995年)以下同】
映画は確実にテレビに喰われ始めていた。劇場へ行く観客が減っているのだ。全盛期の昭和33年に年間11億2700万人を数えた映画館入場者数は、36年には8億6300万人へと激減していた。
戦後、映画は娯楽の王者であり、テレビ創成期も映画俳優はテレビを「電気紙芝居」と蔑んで絶対にブラウン管には登場しなかった。ところが昭和37年にはNHKの受信契約世帯は1000万台を突破し、4月からTBS系で始まったアメリカのテレビ映画「ベン・ケーシー」が視聴率50パーセントを超えるという事態が生じる。徐々にではあるが「テレビ」と「映画」の関係の逆転現象が起こり始めていた。
晋と美佐はそれに気づいていた。
1.もっと使わせろ、2.捨てさせろ、3.無駄使いさせろ、4.季節を忘れさせろ、5.贈り物をさせろ、6.組み合わせで買わせろ、7.きっかけを投じろ、8.流行遅れにさせろ、9.気安く買わせろ、10.混乱をつくり出せ【電通「戦略十訓」】(@take23asn)
30になろうと40になろうと奴らは言い続ける…
自分の人生の本番はまだ先なんだと…!
「本当のオレ」を使っていないから
今はこの程度なのだと…
そう飽きず 言い続け 結局は老い…死ぬっ…!
その間際 いやでも気が付くだろう…
今まで生きてきたすべてが
丸ごと「本物」だったことを…!(『賭博黙示録 カイジ』)
【『福本伸行 人生を逆転する名言集 覚醒と不屈の言葉たち』福本伸行著、橋富政彦編(竹書房、2009年)以下同】
リスクを恐れ 動かないなんてのは
年金と預金が頼りの老人のすることだぜ(『賭博黙示録 カイジ』)
あの男は死ぬまで
純粋な怒りなんて持てない
ゆえに本当の勝負も生涯できない
奴は死ぬまで保留する…(『アカギ』)
一生迷ってろ
そして失い続けるんだ……
貴重な機会(チャンス)を…!(『賭博黙示録 カイジ』)
教えたる
正しさとは【つごう】や……
ある者たちの都合にすぎへん…!
正しさをふりかざす奴は…
それは ただ
おどれの都合を声高に主張しているだけや(『銀と金』)
無念であることが
そのまま“生の証”だ(『天 天和通りの快男児』)
みんな… 幸福になりたいんだよね…
だから… 危ないことはしたくないの
自分にとって都合のいい条件を
どんどん揃えていくの──
そして限りなく安全地域(セーフエリア)に入っていって
そこで今度は絶望的に煮詰まってゆくんだわ
揃えた好条件に囲まれて…
身動きもできない──
なんて不自由なんだろう(『熱いぜ辺ちゃん』)
棺さ…!
お前は「成功」という名の棺の中にいる…!
動けない…
もう満足に… お前は動けない
死に体みたいな人生さ…!(『天 天和通りの快男児』)
今時、強欲は流行らない。世は共感の時代を迎えたのだ。
2008年に世界的な金融危機が起き、アメリカでは新しい大統領が選ばれたこともあって、社会に劇的な変化が見られた。多くの人が悪夢からさめたような思いをした――庶民のお金をギャンブルに注ぎ込み、ひと握りの幸運な人を富ませ、その他の人は一顧だにしない巨大なカジノの悪夢から。この悪夢を招いたのは、四半世紀前にアメリカのレーガン大統領とイギリスのサッチャー首相が導入した、いわゆる「トリクルダウン」(訳注 大企業や富裕層が潤うと経済が刺激され、その恩恵がやがて中小企業や庶民にまで及ぶという理論に基づく経済政策)で、市場は見事に自己統制するという心強い言葉が当時まことしやかにささやかれた。もうそんな甘言を信じる者などいない。
どうやらアメリカの政治は、協力等社会的責任を重んじる時代を迎える態勢に入ったようだ。
【『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール:柴田裕之訳、西田利貞解説(紀伊國屋書店、2010年)以下同】
私たちはみな、同胞の面倒を見るのが当たり前なのだろうか? そうする義務を負わされているのだろうか? それとも、その役割は、私たちがこの世に存在する目的の妨げとなるだけなのだろうか? その目的とは、経済学者に言わせれば生産と消費であり、生物学者に言わせれば生存と生殖となる。この二つの見方が似ているように思えるのは当然だろう。なにしろ両者は同じころ、同じ場所、すなわち産業革命期にイングランドで生まれたのであり、ともに、「競争は善なり」という論理に従っているのだから。
それよりわずかに前、わずかにきたのスコットランドでは、見方が違った。経済学の父アダム・スミスは、自己利益の追求は「仲間意識」に世で加減されなくてはならいことを誰よりもよく理解していた。『道徳感情論』(世評では、のちに著した『国富論』にやや見劣りするが)を読むとわかる。
人間と動物の利他的行為と公平さの起源については新たな研究がなされており、興味をそそられる。たとえば、2匹のサルに同じ課題をやらせる研究で、報酬に大きな差をつけると、待遇の悪い方のサルは課題をすることをきっぱりと拒む。人間の場合も同じで、配分が不公平だと感じると、報酬をはねつけることがわかっている。どんなに少ない報酬でも利潤原理に厳密に従うわけではないことがわかる。不公平な待遇に異議を唱えるのだから、こうした行動は、報酬が重要であるという主張と、生まれつき不公平を嫌う性質があるという主張の両方を裏付けている。
それなのに私たちは、利他主義や高齢者に満ちた連帯意識のかけらもないような社会にますます近づいているように見える。
アトランタ北東にある私たちのフィールド・ステーションでは、屋外に設置した複数の囲いの中でチンパンジーを飼っていて、ときどきスイカのような、みんなで分けられる食べ物を与える。ほとんどのチンパンジーは、真っ先に手に入れようとする。いったん自分のものにしてしまえば、他のチンパンジーに奪われることはめったにないからだ。所有権がきちんと尊重されるようで、最下位のメスでさえ、最上位のオスにその権利を認めてもらえる。食べ物の所有者のもとには、他のチンパンジーが手を差し出してよってくることが多い(チンパンジーの物乞いの仕草は、人間が施しを乞う万国共通の仕草と同じだ)。彼らは施しを求め、哀れっぽい声を出し、相手の面前でぐずるように訴える。もし聞き入れてもらえないと、癇癪(かんしゃく)を起こし、この世の終わりがきたかのように、金切り声を上げ、転げ回る。
つまり、所有と分配の両方が行なわれているということだ。けっきょく、たいていは20分もすれば、その群れのチンパンジー全員に食べ物が行き渡る。所有者は身内と仲良しに分け与え、分け与えられたものがさらに自分の身内と仲良しに分け与える。なるべく大きな分け前にありつこうと、かなりの競争が起きるものの、なんとも平和な情景だ。今でも覚えているが、撮影班が食べ物の分配の模様をフィルムに収めていたとき、カメラマンがこちらを振りむいて言った。「うちの子たちに見せてやりたいですよ。いいお手本だ」
と言うわけで、自然は生存のための闘争に基づいているから私たちも闘争に基づいて生きる必要があるなどと言う人は、誰であろうと信じてはいけない。多くの動物は、相手を譲渡したり何でも独り占めしたりするのではなく、協力したり分け合ったりすることで生き延びる。
したがって、私たちは人間の本性に関する前提を全面的に見直す必要がある。自然界では絶え間ない闘争が繰り広げられていると思い込み、それに基づいて人間社会を設定しようとする経済学者や政治家があまりに多すぎる。だが、そんな闘争はたんなる投影にすぎない。彼らは奇術師さながら、まず自らのイデオロギー上の偏見というウサギを自然という防止に放り込んでおいて、それからそのウサギの耳をわしづかみにして取り出し、自然が彼らの主張とどれほど一致しているかを示す。私たちはもういい加減、そんなトリックは見破るべきだ。自然界に競争がつきものなのは明らかだが、競争だけでは人間は生きていけない。