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2020-03-14

インターネットを通じたイスラム教の宗教改革/『イスラム教の論理』飯山陽


『バガヴァッド・ギーター』上村勝彦訳
『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『日本人のためのイスラム原論』小室直樹

 ・インターネットを通じたイスラム教の宗教改革

・『イスラム2.0 SNSが変えた1400年の宗教観』飯山陽

宗教とは何か?
必読書リスト その五

 イスラム教の価値観を前面におしだすこうした現象が増加している背景のひとつに、インターネットを通じたイスラム教の「正しい」教義の普及があります。本来イスラム教の教義は民主主義も世俗主義も国民国家体制も認めませんし、イスラム教と他宗教の間の平等も認めませんから、インドネシアの現状はイスラム教に反しています。しかしこれまでは、インドネシア国民として生まれたイスラム教徒の多くが、自分たちの置かれている状況がイスラム教の教義に反しているなどとは考えもしませんでした。
 なぜなら、彼らにとってのイスラム教とは親や周囲の人が語り実践するものであり、自らコーランハディースと対峙して解き明かすようなものではなかったからです。イスラム教徒ではあっても戒律にそれほど頓着しない人ばかりが身近にいれば、自分もそれが当然だと思うのは無理もありません。それに、彼らの身近にいて、モスクで説教をしたりイスラム教について語ったりする穏健派法学者たちは軒並み体制派ですから、「実は西洋由来の民主主義は反イスラムである」とか、「イスラム教は他宗教との平等を認めない」などとは口が裂けてもいいません。彼らは現体制を守り社会を安定っせるのに好都合なコーラン章句だけを引用して、「民主主義とイスラム教は両立する」などと人々に伝えてきたため、人々はイスラム教をそういうものだと認識してきたのです。
 ところがインターネットの普及により、体制派の穏健派法学者がもっぱらイスラム教解釈を独占する時代は終焉を迎えました。というのもインターネット上ではコーランやハディースのテキストがいくらでも閲覧可能であり、それらを自国語に訳すのも簡単であるため、誰でも手軽に教義を知ることができるようになったからです。これにより、穏健派法学者たちが説き自分たちが「正しい」と信じてきたイスラム教のあり方が実は正しくないのではないか、と疑念を抱く人々が現れました。彼らはSNSやウェブ上のフォーラムなどを通して、イスラム教の教義について学び議論するようになりました。そしてインターネット上でイスラム教に関する情報や議論が増加するのに伴い、それまで穏健派法学者が説いてきたのととは異なる「正しい」教義が広まり始めたのです。

【『イスラム教の論理』飯山陽〈いいやま・あかり〉(新潮新書、2018年)】

 ツイッターでは喧嘩上等の飯山だが単に威勢がいいだけではなかった。「イスラム教の論理に基づけばイスラム国を否定することはできない」との指摘に始まり、アッラーに額(ぬか)づく精神世界が教義という合理性に貫かれていることが書かれている。筆致に独特の勢いがあり機関銃を連射するような小気味のよさが巻末まで続く。

 アブラハムの宗教を筆頭とする一神教とギリシャや日本のような多神教との違いは神の絶対性と相対性にある。イスラムは服従を意味する言葉だ。山や森のそこここに神が存在する多神教は和を重んじるが、その分だけ価値観が曖昧になる。一神教には「あれもこれも」といった鷹揚(おうよう)さはない。その厳しさは苛烈な砂漠が育んだものだ。温暖で水の豊富な環境にいれば、そりゃあ甘くもなる。

 イスラム教はたぶん宗教改革(『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通)を経験していないだろう。そうするとインターネットを通じたイスラム教の宗教改革が近代化に向かう可能性は十分ある。ただし近代化に向かわなかったとしてもイスラム社会は持続可能性をはらんでいる。

世界中でもっとも成功した社会は「原始的な社会」/『人間の境界はどこにあるのだろう?』フェリペ・フェルナンデス=アルメスト

 私たちは近代の世界に住んでいる。近代において人間を動かすものは何かと考えると、みんな、お金とか名誉とか、あと暴力~強制とか、そういうものだと信じている。っていうかそういうものでしか人間は動かないと思っている。だからテロが起こると「これは強制されたんだ」とか、「お金がない(貧しい)から」とか、そういう風にしか考えられない。自分の立脚している価値観だけに基づいてイスラム教徒が起こしているテロを見るからそうなっちゃう。私が言っているのは「あなたが思っている当たり前と彼らの当たり前は違うんですよ」ということ。彼らの当たり前に立脚するとあなたの言っていることは的外れだ、ということを私は言っている。

【飯山陽×池内恵「イスラム法の真実」】


 女性アナウンサーの知的レベルが低く、池内の口ごもった喋り方が聞き取りにくいので視聴は勧めないが、飯山の言葉は近代の陥穽(かんせい)を見事に突いている。

 人権だとか教育だとかを過大に信じる我々は自由に至上の価値を見出す。ところが絶対性という視点からすると、イスラム教の不自由さに我々の自由はかなわない。そして一番大事なことは人間が自由と同じように不自由を好むことだ。一番わかりやすいのはスポーツのルールである。一定の不自由を課すことで体力・知力・技術を競い合うのだ。その意味から申せばイスラム教はスポーツのルールたり得るが、資本主義経済の自由は肥大した好き勝手でしかない。

 飯山は世界のイスラム人口を18億人としている。


 イスラム教では4人までの妻帯が認められており、その他にも性奴隷が存在する。クリスチャンの出生率がわからないがムスリムの方が高いに違いない。あと数十年もすれば世界最大の宗教となりそうだ。

 その絶対性を思えば日本にムスリムの帰化を認めるのは危険だろう。彼らに「みんな仲良く」という志向はない。天皇陛下に敬意を表することも難しいのではあるまいか。

2020-03-08

宗教は集団形成のツールに過ぎない/『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター


『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド

 ・宗教は集団形成のツールに過ぎない

 キリストのはりつけ以来、多くのクリスチャンがキリストの再来を望んできたのであり、それが実現する特定の日付を予言した運動はまれではなかった。しかし、最初期にみられた運動の大部分については、予言のはずれがわかったときに信者たちが経験したかもしれないリアクションに関連して、確実だと思われる形での記録はない。そのようなリアクションについては、ヒューズがモンタヌス派に関して次のような記述を残したように、歴史家がたまたま何かのついでに触れていることがある。

 モンタヌスは2世紀の後半に現れたが、信仰上の問題に関する革新者として現れたのではない。彼が当時の世間に対して行なった個人的な貢献は、我が主の再来が間近に迫っているという固い確信であった。それは、ペブツァ――現在のアンゴラに近い――で起きるはずであった。そして、我が主の真の信者たちは皆、そこへ向かうべきであった。彼の言葉を権威づけるものは言わば内的な霊感であり、新たな予言者としての人格と雄弁によって彼は多数の信奉者を獲得したが、おびただしい数の信奉者が約束の地に群がり、彼らを受け入れるべく新しい町が出現した。【再臨が遅れたことも、その運動に終焉をもたらさなかった。むしろ逆に、そのことは運動に新たな生命と形態を与え】、一種の、選ばれた者たちのキリスト教となった。彼らにとっては、彼らに直接働きかける聖霊のほかには、どんな権威も彼らの新生を導くことはなかったのである……〔傍点は引用者による〕

 この短い記述のなかに、典型的なメシア運動の基本的な要素がすべて含まれている。すなわち、固い信念を持った信者たちがおり、彼等はそれまでの自らの生活を根絶やしにし、新たな場所へ行き、そこに新たな町をつくるという形でコミットする。だが、再臨(さいりん)は起こらない。しかし、我々が注目するように、その運動は止むどころか、この予言のはずれが運動に新たな生命を吹き込むのである。

【『予言がはずれるとき この世の破滅を予知した現代のある集団を解明する』L・フェスティンガー、H・W・リーケン、S・シャクター:水野博介〈みずの・ひろすけ〉訳(勁草書房、1995年/原書は1956年)】

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』で引用されていた一冊だ。原書刊行が昭和31年である。戦勝国アメリカの余裕が咲かせた花のひとつといっていいだろう。日本では経済企画庁が「もはや戦後ではない」と経済白書に記述し流行語となった頃である。

 キリスト教の代表的な予言(預言とは異なる)はキリスト再臨と終末(ハルマゲドン)である。未だ来ない未来のことは誰にもわからない。そこに人々は不安と希望を抱く。感情がプラスとマイナスに動く要因は経済だ。経済が低迷すると世の中を不安が覆う。ここに予言者が登場する。優れたリーダーとは大なり小なり予言者的性格を帯びている。「確かな未来」を指し示すのがリーダーの役割であるからだ。

 予言を信じて集まった人々が予言の成否を問題としないばかりか、外れても尚強固な結びつきを維持する実態に驚かされる。ヒトの脳にはそうした癖があるのだろう。つまり客観的な合理性よりも、主観的な納得に優位性があるのだ。検証や吟味を不問に付す様を見ると、我々は自分が信じる物語を貫くためならどんな嘘も無視することができる。結局、「予言の好きな人々のコミュニティ」が形成されているわけである。

 宗教は集団形成のツールに過ぎない。もちろん始めに宗教があるわけだが、その宗教は社会や時代という背景から生まれるのだ。ブッダの教えは教団を通して仏教に変質する。教団は教勢を拡大し領土を巡る攻防が繰り広げられる。インドにおいて仏教が廃(すた)れヒンドゥー教が永らえたのも、インド国民の集団形成にはヒンドゥー教の方が相応(ふさわ)しかったのだろう。国民の嗜好や風土に左右される問題で宗教的な正邪は関係がない。

 日本人の占い好きも予言の一種と考えることができよう。私と同世代であれば花びらを千切りながら「好き、嫌い」とやった人も多いはずだ。ま、最後の花びらが「嫌い」で終わると何度でもやり直すからデタラメ極まりないが。

 あらゆる宗教が幸福を約束する。高級な布団が安眠を保証するように。そして信者は不幸に目をつぶる生き方を強いられるのだ。彼らが説く幸福とは不幸への耐性に他ならない。

2020-01-20

祭りと悟り/『宗教批判 宗教とは何か』柳田謙十郎


 ・祭りと悟り

『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武

 これとともにみのがしてならないことは、まつりにおける慣習的な儀式の重要性ということである。われわれ文明人の宗教にとつては第一義的に重要なものは教義であり、内的な信仰ないし【さとり】にあるのであるが、古代人にとつては逆に社会的歴史的に伝統化された儀式そのものに最大の意義があるのである。だから発生史的にいえば神話や教義や哲学からまつりやその儀式が生まれたのではなく、まず【まつり】が行われその中から神話その他の観念的なものが発展してきたのである。

【『宗教批判 宗教とは何か』柳田謙十郎〈やなぎだ・けんじゅうろう〉(創文社、1956年)】

 柳田謙十郎はクリスチャンで政治的には保守派であったが戦後になってマルクス主義に転向した人物。進歩的文化人の一人に挙げられ、稲垣武は「ソ連をユートピア視する元皇国論者の柳田謙十郎」と評している。聖書の引用が目立つ程度で妙な誘導や画策めいた筆致は見当たらない。敗戦という絶望状況が価値観を引っくり返す跳躍台となったことは何となく想像ができる。

 刊行されたのが昭和31年だから新興宗教が全盛の頃である。宗教をも情報と捉える現在からすれば古色蒼然ともいうべき内容だが静かな内省が窺える。

 人類史において宗教が確固として興ったのは農業革命~定住(新石器革命)の時期である。サルやチンパンジーの群れは十数頭~100頭で、ダンバー数が100~250人ということを踏まえると、最初の定住は数千人規模と見てよさそうだ。つまり数千、数万単位の人々を協力させるソフトとして宗教は誕生したのだろう。

 天変地異に対する祈りから始まった儀礼は宗教的天才の登場によって祭りに変貌する。二分心時代にはそうした連中がゴロゴロ存在したことだろう。宗教というものは感情に訴える。理を跳躍するところに宗教的感情が律動する。更に宗教はよそ者の通過儀礼(イニシエーション)として機能したはずだ。むしろ祭りへの参加を通して仲間入りした可能性もある。霊媒のお告げが当たれば人々は熱狂し結束を固めたのだろう。ヒトは社会的動物といわれるが、その社会性の根幹となったのは宗教であった。

 祭りから悟りへの素地を作ったのはヴェーダの宗教でブッダが決定的なものとした。

 信仰とは創造神を絶対と仰ぐ精神で、日本の信心はアニミズム的色彩が濃い。孔子は「民は信なくんば立たず」と。信こそはコミュニティを成り立たせる土台である。信頼と協力が薄くなれば社会は滅びる。一方、悟りに信は必要ない。真理は信じる対象ではなく理解するものである。

2020-01-08

貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一、小原克博


『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『道徳性の起源 ボノボが教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール
『動物感覚 アニマル・マインドを読み解く』テンプル・グランディン、キャサリン・ジョンソン
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 ・貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

宗教とは何か?

山極●世界宗教と呼ばれる宗教は、最初は価値の一元化、倫理の一元化を目指して文化を取り込んでいき、それぞれが交じり合うこともあったと思いますが、いずれも大きな壁にぶつかってしまった。それを追い越していったのは経済のグローバル化だと思うんですよ。

小原●経済活動の拡大が宗教に及ぼした影響は、間違いなく大きいです。

山極●貨幣が、モノの流通が宗教を追い越していった。宗教の境界があるにもかかわらず、モノはどんどん交換され、貨幣は流通していった。だから、貨幣はユーロという統一を果たしましたが、言語までは変えられなかった。つまり、言語の一元化はできなかった。同様に、文化の一元化もなかなか起こりえない。なぜならば、言語や文化というものは身体化されたものだからです。一方、貨幣というのは、いうなれば幻想の価値観を一定のルールのもとに共有しているに過ぎない。ですからそれは普及しやすい。それによって、宗教の力がどんどん圧縮されて、経済の方が実は宗教としての力を持つようになってきている。

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」がうまれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

 思いつくままに関連書を挙げたが一冊の本が脈絡を変える。何をどの順番で読むかで読書体験は新たな扉を開く。それは一種の「編集」と言ってよい。実は細胞の世界でもコピー、校正、編集が繰り返し行われている(『生命とはなにか 細胞の驚異の世界』ボイス・レンズバーガー)。ミクロからマクロに至るあらゆる世界で実行されているのは「情報のやり取り」だ。

「貨幣やモノの流通が宗教を追い越していった」理由は情報の速度にあったのだろう。人々が「信じる」ことによって価値は創出される。神は存在があやふやだし、祝福には時間を要する。その点キャッシュ(貨幣)はわかりやすい。誰もがその価値を信用しているから即断即決だ。祈り(労働対価)と救済(消費)が数秒で交換される。

 日本で貨幣が流通するようになったのは鎌倉時代である。つまり宗教改革と金融革命が同時に起こった。更に国家意識が高まった事実も見逃せない。元寇によってそれまでは地方でバラバラになっていた武士集団が日本を守るために一つとなった。

 敗戦後に新宗教ブームが興ったが、これも高度経済成長で熱が冷めた。宗教は経済に駆逐される。

 貨幣は万人が信ずるという点において最強の宗教と化した。今となっては疑う者は一人もあるまい(笑)。果たしてマネーの速度を超える情報は今後生れるのだろうか? 経済を超える交換の仕様は成立するのだろうか? 現段階では全く思いつかない。

2019-12-24

ルネサンスと宗教改革が近代化の鍵/『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編

 ・祭祀とテロ
 ・ルネサンスと宗教改革が近代化の鍵

『自然観と科学思想 文明の根底を成すもの』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

必読書リスト その四

 ロシアはまた、西欧や日本のようなルネッサンスや宗教改革を経験していなかった。(註。日本は鎌倉・室町期に一種の宗教改革をなしとげ、民衆心理に革命がおこった。文芸復興は室町・徳川時代に一応なしとげられたといってよい。日本の場合、西欧と異なる点は宗教改革の方が文芸復興に先行した点だけである。)ロシアは中世時代数百年にわたってモンゴル・タタールの支配下にあったため、ルネッサンスを内発的にひきおこすほど、文化的な年輪は積んでいなかった。僅かに帝政の末期にその走りがあらわれ始めていたが、革命にともなう大殺戮のため、それも中断された。そしてスターリンの死後、再びルネッサンス的な動きがあらわれたが、これも再び圧殺されかかっている。一方のロシア正教の方も宗教改革を一度も経験したことがなく、いわば中世ヨーロッパのようなおくれた宗教的心理が一般のロシア人を支配していたのであって、そのため、皇帝(ツアー)と神と教会の三位一体の支配機構が崩壊したあと、それに代って、党書記長(皇帝)とマルクス・レーニン(神)と党(教会)という三位一体の支配機構が出現したのである。根底を流れる支配と隷属の心理には何の変化もおこらなかった。

【『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(創拓社、1978年/Kindle版、2018年)】

 目から鱗(うろこ)が落ちた。憲法という観点からは小室直樹が西洋と日本の比較をしているが(『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』、『日本人のための憲法原論』)、ルネサンスと宗教改革はもっとわかりやすい。室町・徳川時代の文芸復興とはわび・さび文化、そして賀茂真淵〈かものまぶち〉・本居宣長〈もとおり・のりなが〉~平田篤胤〈ひらた・あつたね〉の国学思想だと思われる。これに水戸学を加えてもよさそうだ。

 宗教革命とは「権威の否定」であり「絶対の否定」ともいえよう。ルネサンスは原点回帰・伝統回帰である。温故知新〈おんこちしん/「子曰く、故(ふる)きを温(たず)ねて、新しきを知れば、以て師と為るべし」『論語』〉とは申すなり。ルターの宗教改革は聖書を聖職者の手から信徒の手に移した。鎌倉仏教は庶民自らが修行を行う方途を開いた。

 昨今日本の近代史を見直す風潮が高まっているのも一種のルネサンスといってよい。70年以上に渡って日本を悪しざまに罵ってきた左翼が嘘をつかざるを得なくなったところに左翼の行き詰まりがある。

 ところが事はそう簡単なものではない。外務省は歴史上の過ちを認めようとしない。また官学の親米派が日本悪玉史観を払拭できていない現実がある。


インターネットを通じたイスラム教の宗教改革/『イスラム教の論理』飯山陽

2019-12-02

ロックフェラーとニュー・ワールド・オーダー/『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹

 ・ロックフェラーとニュー・ワールド・オーダー

 現在アメリカで最も有名なジャーナリストのひとりであり、スタンフォード大学で歴史を学び、後にカリフォルニア州立大学で国際問題を研究したゲイリー・カレン著の『ロックフェラー・ファイル』の次の一文が目をひく。
“現在、ロックフェラー・グループは、世界の大衆を着実に「大合併」へと導くために、計画的に人口問題、石油危機、食糧危機、あるいは通貨不安を演出し、これらの「危機」を打開するためには「国際管理」が必要であると我々に訴えている。この驚くべき計画を立案するためにあたり、その基礎をほとんど手がけたのが、かの有名なキッシンジャー博士だ”

【『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(広済堂ブックス、1986年)】

「ゲイリー・カレン」となっているが正しくはゲイリー・アレンのようだ(『The Rockefeller File』/『ロックフェラー帝国の陰謀 見えざる世界政府 Part1』『ロックフェラー帝国の陰謀 見えざる世界政府 Part2』高橋良典訳、自由国民社、1984年、1986年)。

 ロックフェラーとロスチャイルドを比較したのが以下の図である。


 所謂「ニュー・ワールド・オーダー」(新世界秩序)である。この言葉はジョージ・H・W・ブッシュ大統領が湾岸戦争前に連邦議会で行った『新世界秩序へ向けて』というスピーチで有名になった。それが1990年の9月11日であったことから9.11テロ陰謀説が唱えられるようになった経緯がある。

 1989年にベルリンの壁が崩壊し、翌1990年にドイツが統一される。同年、マルタ会談にて冷戦の終結が宣言され、1991年にソ連が解体された。よく憶えている。私は20代後半だった。日本はバブル景気に浮かれて世間全体が祭りのような熱気に包まれていた。ビル・クリントン大統領が対日経済戦争を布告し、日本の富はあっという間に簒奪(さんだつ)され“失われた20年”が始まるのである(『この国の権力中枢を握る者は誰か』菅沼光弘)。

 アメリカはアジア・中東で好き勝手に戦争を行い、9.11テロ後は対テロの名目で経済制裁を加え、その一方で民主化を扇動してきた。カラー革命に資金援助をしていたのはジョージ・ソロスである。民主化さえ実現できれば後は金融とメディアで望む方向に動かすことができる。ユダヤ財閥はそう考える。

 キッシンジャーはロックフェラー家の番頭のような存在だ。日本にとって最大の問題はG2構想が生きているのかどうかである。私はなくなっていないと考える。米中貿易戦争はヤラセだろう。アメリカが世界から退いて保護主義に向かっているわけだから、その分中国が前に出るのは当然だろう。沖縄から米軍が撤退するのも数年以内のことと思われる。

 第二次世界大戦以降、「東アジアを不安定にする」のがアメリカの戦略であった。日本を取り巻く島嶼(とうしょ)部の国土紛争もアメリカが蒔(ま)いていった種だ。

 9.11テロを経て「世界は多極化に向かう」というのが玄人(くろうと)筋の見立てであった。多極化には必ず紛争が伴うがそれを予測する人を私は知らない。東アジアと中東で戦乱が起こるのは必至だろう。

 話は変わるがユダヤ資本に牛耳られた世界を変えようとして誕生したのがビットコインであった(『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー)。

 ヨーロッパに銀行大帝国を築いたロスチャイルド家の兄弟の母は、戦争の勃発を恐れた知り合いの夫人に対して「心配にはおよびませんよ。息子たちがお金を出さないかぎり戦争は起こりませんからね」と答えたという。

【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年/新潮文庫、2002年)】

 テクノロジーが世界を変えようとした試みは呆気なく頓挫した。ビットコインの流通を許せば銀行システムは不要となる。そんな真似を彼らが許すはずもない。

 欧米の超エスタブリッシュメントが今も尚、ワン・ワールド体制を目指しているのかどうかはわからない。ただドルを見捨てることだけは明らかだろう。

2019-11-26

紋章の情報美学/『自然観と科学思想』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通

 ・紋章の情報美学

『世界のしくみが見える 世界史講義』茂木誠
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

 日本の伝統文化を考える上で忘れてはならない事は、日本の紋章の事である。世界で紋章を有する地域は西欧と日本のみである。これは正当な意味の封建社会の成立した地域であり、古代官僚制や古代帝王制が最近まで続いていた地域には紋章は発生しなかった。シナ、ロシア、インドのような雑然たる農業社会にも、中央アジア、アラブのような遊牧社会にも家紋は発達せず、日本や西欧のように農業社会に専門武士団が発生し、封建領主が一定の領域を確保して統治するという地方自治的な、自律的な武士団のすんでいた社会に、それぞれの家系を示す紋章が生れてきたと云える。遊牧社会などでも家畜の識別のため、焼印を押したりするのに、ごく簡単な符号は存在しているが、高度に情報化され、すぐれたデザインによって洗練された美しさを持つ紋章は生じなかった。
 遊牧社会などでは部族という意識がつよく、それぞれが独立自営する家族という意識が余り育たなかった。それゆえ、家紋を象徴する紋章が発達しなかったのであろう。封建制の下では、家族単位の自立自営がすすんだので紋章が必要になったと考えられる。
 紋章の美しさでは、日本は世界に比類がない。西欧の紋章は王家や貴族のものとして、主にライオンや熊や鷲のような猛獣や猛禽をかたどったものが主である。そして庶民には紋章はない。
 それに比べ、日本の紋章は花鳥風月を題材にえらび、簡潔で美しいデザインを完成した。その紋章の数は6000に達し、今や、どこの家庭でも紋章を持っている。戦後の憲法が家族制度を否定する立場を示しているにもかかわらず、日本人は核家族化してゆきながら、それぞれが紋章を有するようになった。日頃は意識しなくても、何かの時には紋章が気になるし、きちんとした正式の服装には紋が入る。洋装の場合でもカフス・ボタンに紋章入りのものを使ったりする。(中略)
 情報科学と云う言葉は最近非常に普及してきたが、日本の紋章は「情報美学」の結晶である。日本人は四季の美的情感を紋章の形に情報化したのである。

【『自然観と科学思想』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(南窓社、1976年/Kindle版、2018年)】

 紋章については稲垣栄洋〈いながき・ひでひろ〉著『弱者の戦略』も参照せよ。

 私は辛うじて古書を手に入れることができたがamazonにも在庫はない。序盤は西洋を中心に自然観の変遷を辿る科学史を俯瞰し、日本古来の自然観と宗教的感覚の相違を論じ、更に最新の科学的知見を網羅している。書籍では初めてルイセンコ論争を目にしたが、武田邦彦はきっと本書を読んでいたのだろう。入手しにくいので教科書本としておくが、もう一度読んで必読書にするかもしれない。

 封建時代とは前近代的な有り様を罵る言葉と化した感があるが実はそうではなかった。藩は一種の独立国であり軍隊を持っていた。参勤交代は幕府による人質戦略で諸藩の軍事力を削ぐ目的があった。最終的には明治維新で幕府は薩長の軍事力に膝を屈した。封建制とは農業革命の次の段階と考えてよい。

 私が小学生だった1970年代は家制度家父長制を嘲笑する教師が多かった。現在は夫婦別姓を唱えている連中がその類いだ。打倒天皇制とともに家族意識を薄めることで日本を弱体化させることができる。形を変えた御家断絶といってよい。

 

日清戦争によって初めて国民意識が芽生えた/『日本人と戦争 歴史としての戦争体験 刀水歴史全書47』大濱徹也

2019-11-24

祭祀とテロ/『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通


『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通
『新・悪の論理』倉前盛通
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編

 ・祭祀とテロ
 ・ルネサンスと宗教改革が近代化の鍵

『自然観と科学思想 文明の根底を成すもの』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

必読書リスト その四

 祭祀(さいし)という言葉と、テロという言葉を並べることは、いかにも奇妙に読者には映るかもしれない。しかし、古代から、祭祀と、何らかの「血の祭り」つまり、テロとは不可分のものであった。「血祭りにあげる」という言葉は日本にも昔から存在している。
 日本のようなうっそうと茂った照葉樹林帯の中で、静寂でおとなしい自然祭祀を数千年来、続けてきた国でさえ、時として、「血祭り」とか「人柱」とか「人身御供(ひとみごくう)」という発想が、あらわれた。これは多分に狩猟民の系譜が、シベリア方面から日本列島へ流入してきた影響かも知れないが、現生人類には本来、そのような「情動(エモーション)」が大脳皮質の奥深いところに潜在しているのかも知れない。
 殊に、日本列島のように、温和な気候に恵まれ、食糧の豊富な環境で民族形成をなしとげた民族と違って、アラビア半島のような、酷烈で非情な風土の中で、苦しい生活にあえぎながら、ひとときのやすらぎを、ほんの僅かの間、熱烈な祈祷の陶酔の中に見出してきたグループにとっては、祭壇に血塗られた「いけにえ(犠牲)」を供することが、祭祀の必須条件であった。
 羊や牛の首を打ち落し、その溢れ出る血潮が、神の祭壇を血塗るとき、はじめて、彼等が奉ずる呵責なき嫉む神の怒りを鎮めることができる。しかも、異なる神を拝む者、つまり、異教徒は動物であって、人間ではないというドグマが、アラビアに発生した三大宗教では、特に顕著にあらわれた。
 キリスト教徒が、つい最近まで、異教徒を人間として遇しなかった事は歴史の証明する所である。
 このような宗派が異常な熱狂を帯びた時、異教徒に対する大量虐殺が、祭祀のための「いけにえ」として、歴史上、数限りなくおこなわれてきた。
 その中で、例えば流浪のユダヤ人などは、「血祭り」にあがるには最も良き対象であった。チブスが流行したといってはユダヤ人を大量に殺害し、ペストが流行したといってはユダヤ人を大量虐殺してきたのが、ヨーロッパのキリスト教社会の特色である。ユダヤ人は異教徒であるから人間でなく、動物の一種にすぎないという宗教的免罪符が、彼等キリスト教徒の良心を麻痺させた。
 ヒトラーのユダヤ人虐殺は、このようなヨーロッパの歴史の一貫にすぎない。これは、まさに、「祭祀とテロ」の不可分の関係を示すものである。

【『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(創拓社、1978年/Kindle版、2018年)】

 倉前盛通の著作はなぜか図書館にも少ない。一度国会図書館から取り寄せたのだが「禁コピー」指定されていて驚いたことがある。本気で取り組もうと思えばKindle版で読むのがいいだろう。ただし、amazonタブレットFireは頗(すこぶ)る評価が低いので、個人的には「Vankyoタブレット10インチ」か「Dragon Touch タブレット10.1インチ」あたりを狙っている。

読書とは手の運動」(草森紳一)と考えてきたが鈴木傾城〈すずき・けいせい〉のテキストを読んで大いに考えさせられた。

もう紙の書籍にこだわるな。電子書籍に完全移行を成し遂げよ │ ダークネス:鈴木傾城
変われないと生き残れない。今の日本が必要としているのは新しい人間だ │ ダークネス:鈴木傾城
紙の本・紙の資料・紙の写真からの脱却。私はこのようにやることにした │ ブラックアジア:鈴木傾城

 今日現在で私が保存している書籍のページ画像は11.7GBである。2011年から9年間で6万ページ分の撮影をしてきたわけだ。これだけで300ページの書籍200冊分に相当する。情報は無限に増殖する。死の間際まで。私がただただ欲するのは有能な秘書だ。

 倉前盛通の全集が出て然るべきだと思うのだが指をくわえて待っていても仕方がない。いよいよ電子書籍の海に船出する時が来たのだ、と覚悟を決めた。

 刊行された1978年においてテロとはハイジャックなどを中心とする赤色テロのイメージが強かった。しかし倉前はもっと広義に捉えており、「政治的・宗教的目的を果たすための暴力行為」と考えてよかろう。

 似たようなテーマは立花隆著『文明の逆説 危機の時代の人間研究』(1976年)にもあり、「戦争は人類の人口調節機能」と書いてあったはずだ。

 人類の歴史において「暴力の噴出」は至るところにある。あたかも句読点のように散りばめられているといっても過言ではない。魔女狩り~白人帝国主義による植民地での殺戮~インディアン虐殺が近代の歴史であり、二度の大戦を経てからは社会主義国で粛清の嵐が吹き荒れた(スターリン、毛沢東、ポル・ポト、ヒトラー)。そしてルワンダ大虐殺(1994年)に至るのである。

 高度に情報化された社会では憎悪が一気に拡大・増幅される。なかんずくインターネットでつながる人々は条件反射的に感情を拡散する傾向が強い。ここに新たな英雄や教祖が誕生すれば世界は右にでも左にでも動いてしまうことだろう。

 人類史において武器を手放した実績があるのはたぶん日本だけだ。16世紀には世界最大の銃保有国でありながら鉄砲を廃止し、明治維新では武士が刀を捨てた。子孫に誇るべき歴史である。人類の暴力性を抑制するには武士道を再興する以外にない。武士がひとたび刀を抜く時は切腹する責任が問われた。「殺す」ためには「死ぬ」覚悟が必要だった。幼少期からの厳格な教育がミラクル・ピースといわれた江戸200年の平和を支えてきたことは確かだろう。

2019-11-12

経済が宗教を追い越していった/『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一、小原克博


『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン
『人間この信じやすきもの 迷信・誤信はどうして生まれるか』トーマス・ギロビッチ
『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース:茂木健一郎訳
『なぜ、脳は神を創ったのか?』苫米地英人
『解明される宗教 進化論的アプローチ』 ダニエル・C・デネット
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
『神はなぜいるのか?』パスカル・ボイヤー
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ
『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』石弘之、安田喜憲、湯浅赳男

 ・経済が宗教を追い越していった
 ・キリスト教の教えでは「動物に魂はない」

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書リスト その五

山極●貨幣が、モノの流通が宗教を追い越していった。(90ページ)

【『人類の起源、宗教の誕生 ホモ・サピエンスの「信じる心」が生まれたとき』山極寿一〈やまぎわ・じゅいち〉、小原克博〈こはら・かつひろ〉(平凡社新書、2019年)】

神は、脳がつくった 200万年の人類史と脳科学で解読する神と宗教の起源』(E・フラー・トリー:寺町朋子訳、ダイヤモンド社、2018年)がつまらなかったので、さほど期待してなかった。むしろ批判的に読もうとすら思っていた。ところがどっこい引きずり込まれた。これはキャスティングの勝利だろう。霊長類学者(山極)と神学者(小原)の組み合わせが弦楽器と鍵盤のようなハーモニーを生んでいる。若い小原が下手に出ているのが功を奏している(写真を見れば一目瞭然だ。顎の位置に注目せよ)。更に小原の正確なキリスト教知識が驚くほど勉強になる。『環境と文明の世界史 人類史20万年の興亡を環境史から学ぶ』を直前に入れるのが私の独創性だ。

2019-10-25

病苦への対処/『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ


『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子
『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子

 ・病苦への対処
 ・老人ホームに革命を起こす

『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『アナタはなぜチェックリストを使わないのか? 重大な局面で“正しい決断”をする方法』アトゥール・ガワンデ
『悲しみの秘義』若松英輔

必読書リスト その二

 超高齢者にとっての行き場所が火山に行く(※スピリット湖のハリー・トルーマン)か、人生のすべての自由を捨てるかの二者択一になってしまったのはどうしてなのだろう。何が起こったのかを理解するためには、救貧院がどのようにして今ある施設に置き換えられたのか、その歴史を辿る必要がある――そして、それは医療の歴史にもなっている。今あるナーシング・ホームは、弱ったお年寄りに悲惨な場所とは違う、よい暮らしを与えようという願いから始まったものではない。全体を見渡し、こんなふうにまわりに問いかけた人は一人もいなかった、「みなが知っているように、人生には自分一人では生活できない時期というのがある、だから、その時期を過ごしやすくする手段を私たちは見つけなければいけない」。このような質問ではなく、かわりに「これは医学上の問題のようだ。この人たちを病院に入れよう。医師が何とかしてくれるだろう」。現代のナーシング・ホームはここから始まった。成り行き上そうなったのである。
 20世紀の中ごろ、医学は急速な歴史的な変革を経験した。それまでは重病人が来たとき、医師は家に帰らせることが通常だった。病院の主な役割は保護だった。
 偉大な作家兼医師であるルイス・トーマスが、1937年のボストン市立病院でのインターンシップの経験をもとにこのように書いている。「もし病院のベッドに何かよいものがあるとしたならば、それはぬくもりと保護、食事、そして注意深くフレンドリーなケア、加えてこれらを司る看護師の比類ないスキルだ。生き延びられるかどうかは疾病それ自体の自然な経過にかかっている。医学それ自体の影響はまったくないか、あってもわずかだ」
 第二次世界大戦後、状況は根本的に変わった。サルファ剤やペニシリン、そして数え切れないほどの抗生物質が使えるようになり、感染症を治せるようになった。血圧をコントロールしたり、ホルモン・バランスの乱れを治したりできる薬が見つかった。心臓手術から人工呼吸器、さらに腎臓移植と医学の飛躍的な進歩が常識になった。医師はヒーローになり、病院は病いと失望の象徴から希望と快癒の場所になった。
 病院を建てるスピードは十分ではなかった。米国では1946年に連邦議会がヒル・バートン法を成立させ、多額の政府資金が病院建設に投じられることになった。法の成立後、20年間で米国全体で9000以上の医療施設に補助金が下りた。歴史上初めて、国民のほとんどが近くに病院をもつようになった。これは他の工業国でも同様である。
 この変革の影響力はいくら強調しても強調しすぎることはない。人類が地球に出現してい以来、ほとんどの間、人は自分の身体から生じる苦痛に対して自分自身で対処することが基本だった。自然と運、そして家族と宗教に頼るしかなかった。

【『死すべき定め 死にゆく人に何ができるか』アトゥール・ガワンデ:原井宏明〈はらい・ひろあき〉訳(みすず書房、2017年)】

 シッダールタ・ムカジーに続いてまたぞろインド系アメリカ人である。しかもこの二人は文筆業を生業(なりわい)とする人物ではないことまで共通している。ガワンデは現役の医師だ。

 長々とテキストを綴ったのは最後の一文で受けた私の衝撃を少しでも理解して欲しいためだ。人類が宗教を必要とした理由をこれほど端的に語った言葉はない。

 都市部に集中する人口や核家族化によって、年老いた親の面倒を子供が見るというそれまで当たり前とされた義務を果たすことができなくなった。手に負えない情況に陥ればあっさりと親は老人ホームや介護施設に預けられる。保険報酬と低賃金で運営される施設の介護とは名ばかりで、まともな客としてすら扱っていない。老人は籠の中の鳥として生きるのみだ。ま、苦労と苦痛のアウトソーシングといってよい。あるいは親を殺す羽目になることを避けるための保険料と言い得るかもしれない。

「自然と運、そして家族と宗教に頼るしかなかった」人類は病院と薬を得て人生の恐怖を克服した。家の中から死は消え去った。数千年間に渡って人類を支えてきた宗教は滅び去り、家族は小ぢんまりとしたサイズに移り変わった。そこに登場したのがテレビであった。核家族はテレビの前で肩を寄せ合い、団らんを繰り広げた。未来の薔薇色を示した情報化社会は逆説的に灰色となって複雑な問題を露見し始めた。校内暴力~親殺し~いじめ~学級崩壊~引きこもりは社会の歪(ひず)みが子供という弱い部分に現れた現象である。

 宗教を手放した人類はバラバラの存在になってしまった。もはや我々はイデオロギーのもとに集まることもない。ただ辛うじて利益を共有する会社に身を置いているだけだ。その会社が経費のかからない手軽な人材の派遣を認めれば、もはやつながりは社会から失われる。

 幕末の知識人はエコノミーを経世済民と訳した。「世を経(おさ)め民を済(すく)う」のが経済の本義である。ところが21世紀の経営者は低賃金を求めて工場を海外へ移転して日本を空洞化し、国内においては移民政策を推進して安い労働力の確保に血道を上げている。その所業は「民を喰う」有り様を呈している。所業無情。

 今元気な人もやがて必ず医療・介護の世話になる。日本人の平均寿命から健康寿命を差し引けば10年となる。これが要介護年数の平均だ。スウェーデンは寝たきり老人ゼロ社会であるという(『週刊現代』2015年9月26日・10月6日合併号)。『欧米に寝たきり老人はいない 自分で決める人生最後の医療』という本もある。社会的コストを軽減するための形を変えた姥(うば)捨て文化なのだろう。もちろんそういった選択肢をする人がいてもよい。ただし老病と向き合う姿勢が忌避であることに変わりはなかろう。

 生き甲斐は現代病の一つである。生き甲斐という物語を想定すると「生き甲斐がなければ死んだ方がまし」と単純に思い込んでしまう。本当にそうなのか? そうかもしれないし、そうでないかもしれない。

 まずは介護環境を変えることから始める必要がある。保険報酬も予防に重きを置くべきだ。基本は食事療法と運動療法が中心となる。運動→武術→ヨガ→瞑想という流れが私の考える理想である。

 介護施設に関しては施設内のコミュニティ化・社会化を目指せばよい。実際に行うのは何らかの作業と会話であるが、コミュニケーションに最大の目的がある。誰かとコミュニケートできれば人は生きてゆけるのだから。

2019-09-27

乾極と湿極の地政学/『新・悪の論理』倉前盛通


『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲
『増補 日本美術を見る眼 東と西の出会い』高階秀爾
『昭和の精神史』竹山道雄
『小室直樹vs倉前盛通 世界戦略を語る』世界戦略研究所編
『悪の論理 ゲオポリティク(地政学)とは何か』倉前盛通

 ・乾極と湿極の地政学

『情報社会のテロと祭祀 その悪の解析』倉前盛通
『自然観と科学思想 文明の根底を成すもの』倉前盛通
『悪の超心理学(マインド・コントロール) 米ソが開発した恐怖の“秘密兵器”』倉前盛通
『悪の運命学 ひとを動かし、自分を律する強者のシナリオ』倉前盛通
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『悪の宗教パワー 日本と世界を動かす悪の論理』倉前盛通

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

アラビア半島と日本

 地球に北極と南極があり、また、地球磁気の北極と南極もある。同じように乾湿を一つの目やすにすれば地球には乾極と湿極も存在する。
 世界の乾極はアラビア半島であり、世界の湿極は日本列島である。この乾と湿の地政学。これは単に政治的、地理的な問題だけでなく、宗教的な問題、民族的な問題、その他世界の歴史上のさまざまの問題で重要な意義と役割をもつ地政学上の重要視点である。
 まず、世界の乾極アラビア半島の遊牧民であったユダヤ人は世界で最も乾いたこのアラビア砂漠を生活空間として、ユダヤ教という唯一絶対神をつくり上げた。
 人類は本来、自然の神々を崇拝する宗教をもっていた。それを否定し唯一絶対神という人工的な神を考え出したということは、アラビアという酷烈な自然風土の中で、徹底的に苦しい生活を強いられた結果、自然を崇拝するより、自然を拒否することによって、唯一絶対神という人格神を考えることになったのかもしれない。しかも、その神は“妬む神”であって、自分以外の神を礼拝するものには罰を下して滅すという“不寛容な神”であった。
 このユダヤ教をもとにしてキリスト教が生じ、また、マホメット教が生まれた。つまりユダヤ教、キリスト教、マホメット教という世界の三大宗教は、同じ根から発生したものであり、同じ旧約聖書を基本にしている。彼らは共に「聖書の民」である。この三者はみな唯一絶対神を奉じている。そして自分たちの奉ずる神以外の神を否定するという点において、きわめて狭量であり、寛容さがない。これは世界の乾極アラビア半島の風土が生んだ特殊な精神構造であると考えられる。
 それは水がないということが第一の問題かもしれない。淡水があるか、ないかということが人を変える。もちろん目の前に塩水があったとしても、それは辛い水であって、人間をうるおす甘い水ではない。この甘い水があるかないかということが人間精神に非常に大きな影響を与えたように思われる。それが、その後の世界政治においてあるいは世界の宗教において、あらゆる面において重大な影響を与えてきた。

【『新・悪の論理 日本のゲオポリティクはこれだ』倉前盛通〈くらまえ・もりみち〉(日刊工業新聞社、1980年/増補版、1985年『新・悪の論理 変転する超大国のゲオポリティク』/Kindle版、2018年『悪の論理完全版 地政学で生き抜く世』所収)】

 最近の読書遍歴としては竹山道雄三島由紀夫小室直樹(三島論、天皇論)を経て倉前盛通に辿り着いた。私にとっては大きな波のうねりに身を任せたような経験であった。やはり誰と会い、何を読んだかで人生は決まる。確かに映像は情報量が多いが人格に与える衝撃度は読書より劣る。

 既に主要な倉前作品は読み終え、現在二度目の読破を試みている。40年前の国際情勢が元になっているとはいえ、的外れな指摘が少ないのは倉前の卓見を示すものだ。約10年後の1991年12月25日にソ連が崩壊する。さすがに本書では中国の経済発展まで見通すことはできていないが、崩壊前の中国を想像することは可能だろう。

 アラビア半島は人類がアフリカで生まれユーラシア大陸に移動していった架け橋であり、「沙漠の半島」に残されている人類の足跡は、120万年前のシュワイヒティーヤ遺跡に遡る。また「沙漠の半島」周辺は古代文明の生まれた場所であり、北にはアシュール、ウバイド、ウルクなどを含む世界最古のメソポタミア文明が興り、バハレインと呼ばれた東部海岸にはディルムーン文明やさらに南のサイハド沙漠には古代イエメン文明が生まれた。これらの文明やその交流を示す遺跡や遺物が「沙漠の半島」には数多く残されている。

History of Peninsula - 古代から続く歴史:高橋俊二

 アラビア半島は殆どが砂漠地帯である。私の知識が及ばず、出アフリカ説出エジプト記モーセ)の関係、アブラハムメソポタミア文明との関連性もよくわからない。


 確実なことはアラビア半島を中心とする中東(エジプト+西アジア)から文明が誕生したことだ。そして今から4~5万年前までに人類は世界中に散らばった。


 メソポタミアよりも古い文明(ギョベクリ・テペ)がトルコとシリアの間で見つかっている。ま、大雑把に言えばメソポタミアを頂点として西はエジプト、東はインドまで含めても構わないだろう。

 乾極と湿極の科学的根拠は不明だ。しかし文明論としては卓抜した見解である。アメリカ人が室内でも靴を履くのは彼らの祖先が寒いヨーロッパを生き抜いたことの証である。日本の気候が恵まれた条件であることは温暖湿潤気候の地図を見れば一目瞭然だ。


 湿度はまた世界一種類が豊富な発酵食品を誕生させた。文明とは人類進化の軌跡である。背景には生活の安定、経済的余裕、時間的ゆとり、そして何にも増して感情と知性の連帯がある。

 岡目八目という言葉があるが、倉前盛通や小室直樹は凡百の宗教学者よりも遥かに鋭い宗教的論考を提示している。

2019-08-04

小賢しい宗教批判/『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健


『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎
『嫌われる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教え』岸見一郎、古賀史健

 ・小賢しい宗教批判

・『失敗の科学 失敗から学習する組織、学習できない組織』マシュー・サイド
『ザ・ワーク 人生を変える4つの質問』バイロン・ケイティ、スティーヴン・ミッチェル

青年●わかります。人間の「心」にまで踏み込んでいくのが哲学であり、宗教である、と。それで両者の相違点、境界線はどこにあるのです? やはり「神がいるのか、いないのか」という、その一点ですか?

哲人●いえ、【最大の相違点は「物語」の有無】でしょう。宗教は物語によって世界を説明する。言うなれば神は、世界を説明する大きな物語の主人公です。それに対して哲学は、物語を退(しりぞ)ける。主人公のいない、抽象の概念によって世界を説明しようとする。

青年●……哲学は物語を退ける?

哲人●あるいは、こんなふうに考えてください。真理の探究のため、われわれは暗闇に伸びる長い竿(さお)の上を歩いている。常識を疑い、自問と自答をくり返し、どこまで続くかわからない竿の上を、ひたすら歩いている。するとときおり、暗闇の中から内なる声が聞こえてくる。「これ以上先に進んでもなにもない。ここが真理だ」と。

青年●ほう。

哲人●そしてある人は、内なる声に従って歩むことをやめてしまう。竿から飛び降りてしまう。そこに真理があるのか? わたしにはわかりません。あるのかもしれないし、ないのかもしれない。ただ、【歩みを止めて竿の途中で飛び降りることを、わたしは「宗教」と呼びます。哲学とは、永遠に歩き続けることなのです】。そこに神がいるかどうかは、関係ありません。

【『幸せになる勇気 自己啓発の源流「アドラー」の教えII』岸見一郎、古賀史健〈こが・ふみたけ〉(ダイヤモンド社、2016年)】

 文章の巧みな詭弁で小賢しい宗教批判といってよい。そもそも「竿の上を歩く」という喩えが悪い。竿で想起されるのは釣り竿や物干し竿でその上を歩くという行為がピンと来ない。そもそもあんたが書いている対話自体、物語だろーが(笑)。

 多分頭のどこかに「哲学は神学の婢(はしため)」という言葉があったのだろう(河野與一『哲学講話』)。もちろん心理学はそれ以下だ。

 古賀史健は「抽象の概念」もまた物語であることを見落としている。すなわちアドラーが行う心理療法は「物語の書き換え」に過ぎない。しかも岸見はアドラーに依存し、古賀は岸見に依存しているのである。そこを見過ごしておきながら宗教の物語性を否定するとは片腹痛い。

 社会心理学はアッシュやミルグラムによって巧みな実験が行われてきた(『服従の心理』スタンレー・ミルグラム)。だが心理学や心理療法の世界で厳密な検証やフィードバックが行われているとは言い難い。フロイトは無意識を発見して西洋でもてはやされたが仏教では2000年前からの常識である。何でもかんでもリビドーや性欲に結びつける考え方は拙劣極まりなく、既に過去の人物といった印象が強い。

 一片のデータすら示さずに宗教を批判する姿勢は、新興宗教が既成宗教を批判する手口と一緒だ。マシュー・サイド著『失敗の科学』ではカール・ポパーによるアドラー批判が紹介されている。

2019-06-29

死の恐怖を免れる簡単な方法/『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦


 ・死の恐怖を免れる簡単な方法

『ほんとうの環境問題』池田清彦、養老孟司
『正義で地球は救えない』池田清彦、養老孟司
・『生物にとって時間とは何か』池田清彦

 死の恐怖を免れる最も簡単な方法は、体は滅んでも心は不滅であると信ずることだ。言わずと知れたことだが、これは宗教である。すべての宗教はその教説の中に死後の世界についてのお話が入っている。天国(あるいは極楽)に行くにしても地獄に行くにしても、死んだ後もとりあえず心の存在は保証される。宗教とは、脳が巨大化して死の恐怖などという余計なことを考えるようになった人間が発明した、心が安楽になるための極めて優秀な装置である。死の恐怖も宗教も脳の発明品であることでは共通している。こういうのもマッチポンプと言うのだろうか。

【『やがて消えゆく我が身なら』池田清彦(角川書店、2005年/角川ソフィア文庫、2008年)】

 生と死にまつわるエッセイ集だ。テレビで見受ける酔っ払いみたいな口調とは打って変わって文章は端正である。

 私も生命は永遠だと長らく思っていたのだが10年ほど前に考えを改めた。スマナサーラ長老が「テーラワーダ仏教では最初に過去世を悟る」みたいな話を書いていたが私としては腑に落ちない。過去世だろうが来世だろうがその情報は現在の脳に収まっている。つまり何を語ろうとも現在の脳内情報であって、それを生前や死後にまで延長するのはどう考えても無理がある。

 よくインドあたりで生まれ変わり伝説がまことしやかに喧伝されているが、私は生まれ変わりというよりも何か生命の波長みたいなものがピタッと合致して、強く死者の生命を観じる(※「感じる」ではない)ことがあるのだろうと推察する。

 大体我々が思う生まれ変わりなんてえのあ身内や歴史上の有名人に限られていて、去年の夏に死んだ蝉や、日々食卓に上がる畜類の来世を思うことはない。

 本音を言えば死後の生命はあって欲しい。若い頃に後輩を亡くしているので彼らと会いたいからだ。ルワンダで殺戮された多くの人々も怨霊となって無慈悲な人類を祟(たた)ればいいと本気で思う。でも多分そうはならない。

 私は死と眠りは極めて似た状態だと考える。眠ってしまえば私という存在はなくなる。夢を見ているのは脳が半分覚醒しているためで完全に死んではいない。ま、幽霊なんてのがこの状態なのだろう。眠れば私は消える。これが答えだ。

 本当は永続する何かがあるかもしれないが、それは我々が考えているような「私」ではない。エネルギーの慣性みたいなものが働く可能性はある。ただし生まれ変わるような性質ではないだろう。

 諸法無我とは「物語から離れる」生き方である。因果応報で死後の極楽行きや地獄行きが決まるというのはいい物語だとは思うが、所詮物語の領域を出ていない。善因善果・悪因悪果は飽くまでも現在に収まるのである。私は死後の存在を否定するようになってから「死ねば仏」という言葉は案外正しいのかもしれないと考えるようになった。「死の瞬間に脳は永遠を体験する」(『スピリチュアリズム』苫米地英人、2007年)なら時間が止まる可能性もある。

やがて消えゆく我が身なら (角川ソフィア文庫)
池田 清彦
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2019-06-04

再解釈という息吹/『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン


 ・再解釈という息吹

『仏教と西洋の出会い』フレデリック・ルノワール
『エスリンとアメリカの覚醒』ウォルター・トルーエット・アンダーソン
『新板 マーフィー世界一かんたんな自己実現法』ジョセフ・マーフィー

 ニューソート(新思考)とは、歴史的宗教の伝統的な諸教理を再解釈しようとする根本的な試みである、と言えよう。私の古い友人であるチャールズ・S・ブレイデンが1963年出版の『反抗者たち』(Spirits in Redellion)の中で強調したように、ニューソートの代表者たちは自分たちを元来のキリスト教の真の擁護者と見做しながらも、実際に正統派のキリスト教に反抗したし、また現在も反抗している。そして確かに衝突や迫害が起こっている。

【『ニューソート その系譜と現代的意義』マーチン・A・ラーソン:高橋和夫、木村清次、鳥田恵、井出啓一、越智洋訳(日本教文社、1990年)以下同】

 神智学協会が西洋における比叡山であれば、ニューソートは神仏習合といってよい。宗教的天才は社会の常識を否定しながら大いなる一歩を踏み出す。ところが大衆が求めるのは「肯定の論理」である。徹底した否定の厳しさについてゆけないためだ。いかなる「教え」も時を経るにつれて形骸化してゆく。そこで「再解釈という息吹」が吹き込まれるのだろう。大乗や神仏習合、はたまたプロテスタントやニューエイジについても同様だと思われる。

 宗教そのものにはとくに共鳴しなかった数多くの著名な人びとがニューソートの思想を認め採り入れたことは注目に値する。こうした人びとのうちには、ブルック農場のグループ、ラルフ・ウォルドー・エマソン、および、父のほうのヘンリー・ジェームズがいた。サミュエル・テイラー・コールリッジ、ブラウニング夫妻はスウェデンボルグ主義者であり、ニューソートの擁護者であった。クィンビーが精神療法を始めたとき、彼はにせ医者と呼ばれた。しかし彼は、自分に向けられた批判に多大な成果をもって応え、その成功で彼は不動の座についた。

「受け容れられた思想」は時代の中で拡がってゆく。人と人とがシナプスのように結合され新しい回路を形成する。人類の意識はこのようにして少しずつ変わってゆくのだろう。

 言葉(教義)に束縛されると言葉が指し示すものを見失う。悟りは言語化し得ない。つまり言葉を手繰って悟ることはできないのだ。宗教には教義がある。そしてその教義が宗教性を失わせるのだ。幸福とは感情である。立派な論理をいくら積み重ねても幸せにはなれない。

 ニューソートは文献が少ない。その意味では貴重な作品だが読み物としてはつまらない。クリスチャン・サイエンスから何と生長の家までを網羅する射的距離の長さには驚かされた。アラン・ワッツがクリシュナムルティの影響を受けた事実にも触れている。

2019-01-16

創価学会の墓地ビジネス/『週刊東洋経済 2018年9/1号 宗教 カネと権力』


『創価学会秘史』高橋篤史
『ジャーナリズムの現場から』大鹿靖明

 ・創価学会の墓地ビジネス

 当初、学会は運動公園なども併設しようと、ゴルフ場全体を買収する方針だった。が、交渉の最終段階で半分に絞り込んだ。それでも買収価格が引き下げられることはなかった。「牧口さんの出身地だからどうしても欲しかったんでしょう」と前出の役員は振り返る。
 もっとも、ここでも地元の反対がネックだった。12年11月、久米地区が住民投票を実施したところ、反対が6割に達したのである。
 それでも利害が一致していた学会側と柏崎黒姫観光は断念しなかった。当初は集落に近い海側のアウトコースを墓地に充てる計画だったが、山側のインコースに変更。さらに地元へのアメも用意した。集会施設の駐車場拡張など4000万円の整備費と、年120万円の町内会費を10年間納め続けることを約束したのだ。関係者は70戸余りの集落を1軒1軒回り同意書を取っていった。
 前出の役員によると、話がほぼまとまると、学会御用達で知られる不動産会社「東京昇栄」が交渉に加わった。学会関係者が初めて顔を見せたのは、市内の学会施設で行われた契約調印の場だった。(高橋篤史)

【『週刊東洋経済 2018年9/1号 宗教 カネと権力』(東洋経済新報社、2018年)】

 2019年11月に完成予定の「牧口記念墓地公園」である。牧口常三郎〈まきぐち・つねさぶろう〉は創価学会の初代会長で柏崎(新潟県)出身だ。ま、カジュアルな聖地主義といってよい。ネット上に東京昇栄の企業情報は見当たらず。隠密企業というわけだ。

 5000万円もの余計なカネを支払うのは先行投資に決まっている。金額に見合うだけのリターンがあるのだ。それを負担するのはもちろん創価学会員である。教団とは信者からカネを毟(むし)り取るシステムのことだ。自ら喜んで騙される人々を信者とは申すなり。

 それに対してつべこべ言うのはお門違いだ。むしろ経済活動に貢献していることを称(たた)えるべきだろう。創価学会以外の新宗教も取り上げられているのだが、書き手に依存した誌面作りとなっていて底が浅い。電車で読むにはうってつけの内容だ。

 宗教ネタを扱う時点で東洋経済新報社に知恵のないことがわかる。他人の財布の中身を心配するのが彼らの仕事なのだろう。


2018-04-19

化儀/『儀礼 タブー・呪術・聖なるもの』ジャン・カズヌーヴ


 ・化儀

『ピダハン 「言語本能」を超える文化と世界観』ダニエル・L・エヴェレット
『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド

 しかし、このような結論へと急ぐことはやめなくてはならない。なぜなら、個別的な儀礼は、一定の場所にしか見出されないが、儀礼という一般的事実は、普遍的に存在するからである。むしろ、民族(ママ)学者の調査領域の中では、儀礼的なものを全く欠いた社会は、変則となろう。われわれにとって不合理に見えるものを、経験は、正常な、いつも存在する現象として示すのです。したがって、信仰を持つ者は、摂理の計画の中で、問題とされている儀礼は、もっと真実な原初的崇拝の堕落としての位置を持ってはいなかったか、あるいは、それらの儀礼は、むしろ、知的に啓蒙される以前に、救済に必要な宗教を求めた、人間のぎごちない努力を示すものではないかと自問することができよう。

【『儀礼 タブー・呪術・聖なるもの』ジャン・カズヌーヴ:宇波彰〈うなみ・あきら〉訳(三一書房、1973年)】

 天台系の仏教用語に「化儀」(けぎ)というものがある。仏が説いた方を化法(けほう)といい、説く方式を化儀と名づける。つまり形式・儀式を指すわけだが実際は「社会の中に展開する様相」を意味する。ずっと心に引っ掛かっていた言葉で集中的に調べた時期がある。

 人が集えば社会となる。社会には一定の形式が必要だ。例えば挨拶。礼儀、儀礼といってもよい。スタイルも様々で日本だとお辞儀、西洋だと握手。相手に対して「敵ではない」ことを意思表示しなくてはならない。ジャン・カズヌーヴは偉そうに御託を並べているが、私はもっと単純な本質があると考えている。形式とはスポーツや楽器演奏などのルールみたいなものだろう。

 スポーツや芸術から得られる喜びは決して合理性で割り切れるものではない。「なぜ歌うのか?」と問われれば「だって楽しいから」としか答えようがない。この場合、喜ぶことが悟りで歌が化儀となる。

 喜びが失せると化儀は形骸化し単なる儀式に堕落して葬式仏教ができあがる。スポーツや芸術も仕事となれば苦しみの方が多くなる。楽しむことではなく結果を出すことが目的と化すためだ。漁師と釣り人は同じ行為であっても心理状況が異なる。

 化儀をゲーム化と置き換えるところまでは思索が進んだのだが、そこで興味が潰(つい)えてしまった(笑)。

儀礼―タブー・呪術・聖なるもの (1973年)
J.カズヌーヴ
三一書房
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2017-08-22

神通力のオンパレード/『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ


・『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド
『人類の知的遺産 53 ラーマクリシュナ』奈良康明

 ・神通力のオンパレード

『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

悟りとは

(1)魂の進化を霊的に指導する師をグル(guru)という。サンスクリットの語源は「やみ(gu)を追放するもの(ru)]
(2)「ヨガ」を行ずる者を「ヨギ」という。「ヨガ」はサンスクリットの“一体になる”の意で、神との意識的合一を得るための、インド古来の瞑想の科学である。(※脚註より)

【『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ:SRF日本会員訳(森北出版、1983年)以下同】

 原書が刊行されたのは1946年。パラマハンサ・ヨガナンダ(1893年1月5日-1952年3月7日)はアメリカでクリヤ・ヨガを広めた人物である。数年前に一度挫折しているのだが今回は読了できた。人によっては受け入れることが難しい本である。神通力のオンパレードで、クリシュナムルティと正反対に位置するといってよかろう。ヴァガバット・ギータースッタニパータ、ヨガナンダとクリシュナムルティという構図だ。迷いに迷った挙げ句、「必読書」に入れた。これにまさるスピリチュアリズムはない。ヨガナンダが創設したSRF(セルフ・リアリゼーション・フェローシップ)の目的の一つに「イエス・キリストの教えとバガヴァン・クリシュナが教えたヨガの根本的な一致を明らかにする」とある。八百万(やおよろず)の神のモデルはヒンドゥー教にあるのかもしれない。いずれにしても悟りを開いたと思われる人物が陸続と登場する。彼らの言葉に耳を傾けることは決して無駄ではない。(読書日記より)

 本書はスティーブ・ジョブズがこよなく愛した一書として広く知られるようになった。10代の時に出会い、毎年読み返していたという。エルヴィス・プレスリーやビートルズにも強い影響を与えた。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムジャケットにはヨガナンダと師匠のスリ・ユクテスワ・ギリが描かれている。

(上段左端がスリ・ユクテスワ・ギリ)

(ボブ・ディランの左下がヨガナンダ)

 スリ・ユクテスワが謎めいた言い方をされることはめったになかった。私が先生の意中をはかりかねていると、先生は、私の心臓のあたりを軽くたたかれた。
 とたんに、私のからだは根が生えたように動かなくなってしまった。そして、肺の中の空気が、何か巨大な磁石にでも吸い寄せられるようにすっかり抜き取られたかと思うと、魂と心はたちまち肉体の監禁から解き放されて、透過性の光の流れとなって全身の気孔から外に流れ出てしまった。肉体は生気を失って抜けがらのようになってしまったが、私の意識は逆にはっきりとして、生きているという実感がかつてないほど強く感じられた。今まで肉体という小さな殻に限定されていた感覚の領域が拡大されて、周囲のいっさいの原子までも自分のからだとして感じられるようになった。遠くの道を行く人々も、私自身の中でゆっくり移動しているように見えた。そして、地中の草や木の根が薄暗い透かし絵のように透けて見え、その樹液の流れまでが見分けられた。
 近くのものは、すべてあらわに見ることができた。ふつう前方のみに限られている視野が、今や広大な全方位的視野に変わって、上下左右前後のいっさいのものが同時に知覚された。頭の後ろの方には、ライ・ガート小路(レーン)を散歩する人々の姿がはるかに見下ろせ、一頭の白い牛がゆっくりとこちらへ近づいて来るのが見えた。牛が僧院のあけ放たれた門の前まで来たとき、私には、それが肉眼で見るのと同じように観察された。そして、それが門の前を通り過ぎて、れんが塀の向こう側へ行ったあともなおはっきりと見るこができた。
 私が見つめているパノラマのような光景は、映画の画像のように、たえず小刻みに振動していた。私のからだ、先生のからだ、柱に囲まれた中庭、家具と床、樹木と陽光――これらはときおり激しく動揺したが、やがてすべてが一つの光の海に溶け込んでいった。それはちょうど、コップの水に砂糖を入れてかきまぜたときしだいに溶けてゆく結晶のありさまに似ていた。一方また光の海からは、同じ光の素材によって次々と新しいものが形成された。そして移り行くそれらの変化は、創造活動における因果の法則を示していた。
 突然、大海のうねりのような歓びが、私の魂の静かな岸辺に押し寄せて来た。『神の霊は尽きることのない至福だ!』私は悟った。『そしてそのみからだは、無数の光の織物だ!』。内なる栄光はしだいに膨張して私の町を包み、大陸をおおい、さらに地球、太陽系、銀河系、希薄な星雲、浮遊する島宇宙をも包含しはじめた。全宇宙はやわらかな光を放ち、無限に広がった私自身の中で、遠い町の灯のようにちかちかとあちこちで明滅している。そしてその外周を、明瞭な球形の輪廓を描いて、まばゆい光の層が取り巻いていた。さらにその外側のやや輝きの衰えたところに、一つのやわらかな美しい光が見えた。その光は、終始落ち着いたえも言われぬ霊妙な光で、これに比べると、星座を織りなしている光は、はるかに質の粗い光であった。
 永遠なるものの源から放射される聖なる光が燃えあがって星座を形成すると、それはたえなる霊光(オーラ)に変貌していった。私は何度も見た――創造の光が凝縮して星座をつくり出し、そしてそれがやがて透明な炎の広がりの中に溶け込んでゆくのを――。幾億兆とも知れぬ無数の世界が、律動的な周期とともに、透明な炎の輝きの中に溶け込むと、その炎の広がりは大空となった。
 私は、その大空の中心が、自分の心の奥底にある直覚の先端であることを認識した。壮麗な光は、私自身の中心から宇宙組織のあらゆる部分に放射されていた。永遠の至福の甘露が、私の体内を水銀のように流れながら脈打っている。そして、神の創造のみ声が、宇宙原動機の振動音オームとなって鳴りひびくのが聞こえた。
 突然、息が肺に戻って来た。私は、自分の無限の広大さが失われてしまったことを知って、耐えがたいほどの大きな失望に襲われた。

 宗教的スーパービジョンといっていいだろう(※本来、スーパービジョンは教育方法を指す用語だが、敢えて「超視覚」の意味で使った)。ただし自力ではないのが気になるところだ(最初は「悟りの光景」という記事タイトルにしていた)。まだ天人五衰(てんにんのごすい)の域を脱していないようにも見える。

「見てみたい」と望むことも執着であるし、「再び見たい」と願うこともまた執着なのだ。不可思議を経験するよりも、ありのままを見つめることが正しい。

 上記リンクを私は「悟り四部作」と名づけたが、ラーマクリシュナやヨガナンダはヒンドゥー色が濃くて苦手である。単なる超能力者としか思えない(笑)。ま、ローリング・サンダーも超能力者だわな。

 ヨガナンダは胸が厚く堂々たる体躯の持ち主だが元々は痩せており、ある朝目覚めると体重が20kgも増えていたという。西洋世界に打って出るための変身であったと書かれている。

 2014年にはドキュメンタリー映画『永遠のヨギー ヨガをめぐる奇跡の旅』が公開された。


 高価な本であるにもかかわらずamazonでは89件のレビューが寄せられ、その殆どが星五つの評価をつけている。

あるヨギの自叙伝
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2017-08-14

観照が創造とむすびつく/『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治


『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 ・観照が創造とむすびつく

『カミとヒトの解剖学』養老孟司
『死と狂気 死者の発見』渡辺哲夫
『神々の沈黙 意識の誕生と文明の興亡』ジュリアン・ジェインズ
『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

 そこに不思議の場所がある。
 眼を閉じておのれの内部を凝視すると、そこに淡い灰色の空間がひろがっているのを感ずるが、その空間の背後に、不思議な場所があるように思われるのである。不用意にそこに近づいてそれを見ようとすると、その場所は急ぎ足に遠ざかってしまう。しかし、おのれを忘れ、その場所の存在をも忘れていると、それが意外に近いところにやってきて何事かを告げる。そういう不思議の場所が、すべてのひとの魂の内部から、身体の境をこえて外部に、どこまでもひろがっているように思われるのである。
 その場所、その未知の領域をさぐってみたい。

【『カミの人類学 不思議の場所をめぐって』岩田慶治〈いわた・けいじ〉(講談社、1979年/講談社文庫、1985年)以下同】

 真の学問は独創に向かう。それは何らかの領域に一人踏み込んでゆく時の必然的なスタイルなのだろう。岩田慶治の場合、独創が文体にまで及んでいる。文化人類学という水脈を掘り下げ、真理という鉱脈を探る営みに圧倒される。

 アニミズム(精霊信仰)は「不思議の場所」から生まれたのだろう。自然の営為に神の意志を読み取ることでヒトは共生してきた。天神地祇(てんじんちぎ)を信ずればこそ人々は地鎮祭を行い、力士は土俵で塩をまくのだ。太陽をお天道様と呼び、その眼差しを感じれば、悪行にブレーキがかかる。

 その場所にたどり着いてみると、この世界が違って見える。おのれ自身が違って見える。そういう予感がしたのである。そこでは、木々の緑がより濃く、より鮮やかにみえるのではないか。生きものたちがより生き生きと活動し、おのれの生を超えたやすらぎをえているのではないか。われわれの尊敬してやまない古人の言葉が、単に観念として知的に理解されるだけではなく、現実に、ありありと、たしかな存在感をともなって聞こえてくるのではないか。その意味で、そこはわれわれにとってもっとも根源的な創造の場なのではないか。
 そこでは見ることが形づくることであり、観照が創造とむすびついている。

「観照が創造とむすびつく」との指摘がクリシュナムルティと重なる。岩田には『木が人になり、人が木になる。 アニミズムと今日』(人文書館、2005年)という著作もある。「私たちはけっして木を見つめない」(『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ)。

 この文章を読んではたと気づくのは、人類の原始的な宗教感情が言葉以前に生まれた可能性である。それはフィクションの原形といっていいだろう。

カミの人類学―不思議の場所をめぐって (1979年)
岩田 慶治
講談社
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2017-08-10

エホバの証人による折檻死事件/『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広


『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広

 ・エホバの証人による折檻死事件

『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる
『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS
『マインド・コントロール』岡田尊司
『服従の心理』スタンレー・ミルグラム

 しかし、智彦だけはうまくいかなかった。そのために父親は智彦に暴力を振るい、なんとか更生させようと努めてきた。智彦の父親だけがとりわけ暴力的というわけではない。父親は教団が強調する聖書の次の言葉を忠実に実行してきただけのことである。
「子どもを懲らしめることを差し控えてならない。むちで打っても、彼は死ぬことはない。あなたがむちで彼を打つなら、彼のいのちをよみから救うことができる」(箴言〈しんげん〉23章)
 他のキリスト教団は箴言特有の誇張した表現と解釈するが、エホバの証人は字句通りに受けとめる。

【『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広(文藝春秋、2002年文春文庫、2004年/論創社、2021年)以下同】

『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』の続篇的内容でオウム真理教、エホバの証人(ものみの塔聖書冊子協会)、統一教会、幸福会ヤマギシ会を取り上げる。ヤマギシ会は宗教団体ではないが、その閉鎖性や洗脳を考慮すればカルトの名に十分値する。正義を掲げる彼らの暴力性は弱者である子供に向けられる。そして正しいがゆえに全く手加減されない。

「ある姉妹(女性信者)が目撃したところによれば、所沢(埼玉県所沢市)の長老は鉄のパイプや自転車のチェーンで叩いていたそうです」

 長老とはエホバの証人における会衆のリーダーで、地域の集まりは教会単位となっている。

「当時の長老は、『泣く、ということは悔い改めていない、反抗の表れだ。泣くのをやめるまで叩きなさい』と教え諭した。それで私もそうした」

 宗教的な正しさはいともたやすく邪悪に結びつく。キリスト教の暴力性は歴史を振り返れば誰もが理解できよう。異端とされるエホバの証人が正当性を示すためには教義や行動を過激化するしかない。

 事件が起きたのは、今から7年前の93年11月23日のことだった。
 広島市の北警察署に、市内に住むAが自首してきた。
 北署員が現場に急行したところ、4歳の二男がA宅の脱衣場で死亡していた。検死を行ったところ、両頬やくるぶしなどに数ヵ所の痣や内出血が認められた。血が滲んだ新しい傷痕のほか、数日は経っていると思われる痣も多くあった。このため、Aを殺人容疑で逮捕するとともに、折檻を知りながら放置していた妻も保護責任者遺棄致死の疑いで逮捕した。
 夫婦が属していた会衆は広島市の安佐南区にあった祇園会衆(現在は発展して三つの会衆に分かれている)だった。ここでの懲らしめのムチは長さ50センチのゴムホースだった。当時この会衆にいた元女性信者は「子どもが集会中に居眠りをすれば、親はトイレに連れていき、ゴムホースで叩きました。“体罰”は日常的でした」と語る。

 信者とは他人に操られることを自ら選ぶ生き方を意味する。ま、洗脳希望者といってもよい。

 事件前日の夜、Aはゴムホースで血が滲むほどに二男を叩いたあと、家から閉め出した。翌朝様子を見に行くと、息子の息は止まっていた。そのあとあわてて脱衣場に運んだという。
 判決はAに保護背筋者遺棄致死罪は適用して懲役3年(執行猶予4年)の刑を申し渡し、事件は終わった。
 この折檻死事件は、エホバの証人の中では特異なケースである。私が恐ろしいと思ったのは、事件そのものよりもそのあとの会衆の空気である。同じ会衆に属していた当時はまだ信者だった人が語ったところによれば、一人の子どもが死んだというのに、自分を含め会衆の誰一人としてムチによる懲らしめを反省せず、「組織と教えは正しいが、あの人が個人的にやりすぎたんだ」と仲間うちで話しただけで終わった。事件をきっかけに組織を離れた人は一人もいなかった。祇園会衆の長老も「不幸な事件が起きた。今後Aさんの家に近づかないように」と報告しただけだった。不幸な事件ゆえにA一家を支えるのが宗教の役割だと思うのだが、Aと仲の良かった信者が拘置所に面会に行くと、長老が自宅にやってきて、「なぜ指示を守らないのか。Aさんには会ってはなりません」と叱責した。
 事件後、一つだけ会衆内で変わったことがある。それはムチがゴムホースからアクリル樹脂の棒に変わったことだ。

 自分の中で一番最初に芽生えた小さな疑問を手放した瞬間から人は判断力を奪われる。もちろん何を信じようが自由ではあるが、信じることによって情報処理能力が狂うのだ。信者の脳は現実よりも教団の正しさを証明することを重視する。そしてより大きな善のために小さな悪がまかり通るようになる。

 社会の価値観は時代によって移り変わるが道徳には時代を経てきた人間の良心がある。徳を拒む人がいないのはやはりそこに普遍性があるためだろう。宗教が興(おこ)る時、必ず社会的価値との衝突がある。多くの人々を苦しめる手垢まみれの常識を否定するのが宗教の役割であると思うが、道徳まで否定すれば単なる反社会的集団に転落してしまうだろう。そのようなあり方が人々の共感を得るのは難しい。

 いつの時代も子供は殺されてきたがエホバの証人による折檻死事件は教義が事件を教唆(きょうさ)した可能性が窺える。

 これに対するエホバ信者の反論が以下のページにある。

「エホバの証人せっかん死事件の嘘」:エホバの証人を攻撃する道具にされてしまうブロガー達

 信者は事実に目をつぶる。彼が見つめているのはエホバの正義だけだ。余談になるが偶像を否定するエホバのくせにマイケル・ジャクソンの肖像をアイコンにしていて笑った。親がエホバ信者であるのは広く知られているがマイケル本人もそうだったのだろうか?

 閉鎖的なカルト集団が行う児童虐待は「現代のミルグラム実験」(『服従の心理』スタンレー・ミルグラム)といってよい。

 尚、本書は万人が読むべき秀逸なノンフィクションであると思うが、米本和広と統一教会に妙な関係があるようなので必読書には入れていない(やや日刊カルト新聞:本紙記者を誹謗中傷する自称“ルポライター”米本和広氏、その社会的問題性に迫る)。

2017-08-06

創価学会というフィクション/『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS


『カルト村で生まれました。』高田かや
『洗脳の楽園 ヤマギシ会という悲劇』米本和広
『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広
『ドアの向こうのカルト 九歳から三五歳まで過ごしたエホバの証人の記録』佐藤典雅
『杉田』杉田かおる

 ・創価学会というフィクション

『乱脈経理 創価学会 VS. 国税庁の暗闘ドキュメント』矢野絢也
『創価学会秘史』高橋篤史

 学会本部とともに、この“学会村”の中核をなす聖教ビルの最上階7階が、聖教新聞社社主でもある沼田太作専用の“貴賓室”として生まれ変わったのは、58年8月のことだった。
『本社では、来客用の部屋が古くなったため、改装工事を進めていたが、このほど新装なり、この日、社主である名誉会長も、その模様を視察した』
 当時の聖教新聞紙上には、“貴賓室”についてたったこれだけの記事でしか触れられていない。だからこれを読んだ一般の学会員は、応接間をちょっと改装した、という程度にしか思わなかったことだろう。
 しかし、実際には、ビル中央のエレベーターホールの東側にあった記念館をとりこわし、それまでの沼田の執務室とあわせて、7階の全フロア約300坪を沼田太作専用フロアに改装するための工事に、半年間も費やしたのである。
 わざわざイタリアから取り寄せて、壁一面に張りめぐらした大理石は、重厚な光沢をたたえている。
 欧風の執務室と大会議室には、壮大なシャンデリア。フロア全体には、思わず体が沈みこんでしまうような感触をおぼえる、ぶ厚いペルシャ製のシャギーとジュウタンがしきつめられている。
 特注のテーブル、椅子、サイドボード、記帳台……すべてが“一流”好みの沼田の趣向によるものばかりだ。
 記帳台ひとつとってみても、皇居で天皇がお使いになっているものを「はるかにしのぐもの」というふれこみの、1000万円もしたという高価なものだ。
 それだけではない。南側に面した執務室の隣と北西の角部屋には、白木をふんだんに使った最高級の和室になっていて、大きな掘りごたつも作られ、沼田がゆっくりとくつろぐための部屋になっている。
 空調設備も、7階だけはビル本体と切り離して、沼田の体質にあわせて操作できるように作り変えられていた。
 当初、この改装工事の見積もりは7億1600万円だったが、沼田好みの贅(ぜい)をつくすうちに、追加追加で2億円もオーバーし、たった1フロアを沼田専用に改装するために、総額9億円もの費用が投じられたのである。

【『小説 聖教新聞 内部告発実録ノベル』グループS(サンケイ出版、1984年)以下同】

 意外と知られていない書籍である。私も偶然知った。池田大作が沼田太作という仮名になっているが、登場人物の殆どがこんな調子で実名を少し変えただけの名前となっている。

「坊主丸儲け」とはよく言ったもので、税制を優遇されている宗教法人が贅沢(ぜいたく)三昧をするならば国民は課税を望むに違いない。創価学会員は真面目な人が多い。彼らが爪に火を灯すように蓄えてきたお金を喜捨し、教団トップが湯水のように散財する。まるで資本主義を絵に描いたような構図である。


 聖教新聞社に勤務する中堅幹部複数名が内部告発した体裁となっているがもちろん正体は不明だ。ただし詳細に渡る内部情報を鑑みると極めて妥当性が高い。他の関連本に引用されていないのが不思議なほどである。例えば上記テキストでも天皇に「陛下」という敬称を付けていないところがいかにも学会員らしい(笑)。

 沼田の原稿は、ふつう、下書きを専門にしている文書課の者が元になる原稿を書く。それを第一庶務(沼田の秘書室)を通して沼田に提出するのである。
 聖教新聞に随時連載している『忘れ得ぬ同志』をはじめ、月刊誌『潮』などに掲載される沼田の原稿は、その大半が文書課所属の編集メンバーの手によるものだ。
 沼田の原稿を代作する編集メンバーには、聖教新聞社別館の4階にある専用室が与えられている。専用室には、沼田がこれまでに“書いた”著作類がそろえられており、歳時記などの参考文献がズラリとならんでいる。すぐ下の2階、3階は聖教新聞の資料室だ。編集メンバーは必要に応じて、資料室から資料をふんだんに持ち出し、これまでの沼田の著作物との間に、内容や文体上、矛盾や違和感がないように心をくばりながら、執筆に当たるのである。
 こうして元原稿ができあがる。
 原稿の内容が核軍縮問題など、国際政治への提言といったようなものであった場合は、論説委員長の松原正がアンカー役としてチェック、そのうえで第一庶務に渡すのである。日常的な学会内部に関する原稿の場合は、編集局長の佐川祐介がアンカーを務めている。

 ゴーストライターの実態については更に詳しく述べられている。

 沼田の一般的な文章は、聖教新聞の文書課のメンバーがすべて代筆していたが、思想的なものや教学に関するものなどは、彼ら教学畑の人間たちがそのほとんどを代筆していた。
 昭和45年に沼田が出した『私の人生観』は、全文桐谷康夫の書き下ろしだったし、50年発刊の『法華経を語る』は、原山直と野川弘元と沼田の対話集という形になっているが、実際は、そのほとんどを野川が書いたものだ。そのくせ本の著作者は沼田一人だけになっている。
 また、沼田がこれまで自分の勲章のように自慢してきた、トインビー博士との対話集『二十一世紀への対話』も、実は沼田自身はまったくタッチしていないのと同じだった。
 沼田は47年にトインビー博士とたしかに対面はしたのだが、そこで出た話はほんのあいさつ程度。ところが、沼田としてはとにかく実際に合ったという事実をなんとか利用して、自分のステイタスを高めるPRのために使いたいと思い、桐谷に「対話集を作れ」と命じたのだった。
 しかし、トインビー博士と沼田太作の間には、つっこんだ“対話”など実際には行われてはいない。そこで桐谷は、長文の書簡をトインビー博士との間で交わし、それを対談形式にまとめあげたのである。
 もちろん桐谷とて、一人で世界有数の知性であるトインビー博士と“対等”に渡りあえるわけがない。実際には、これもまた野川と現在SGI(創価学会インターナショナル)グラフの編集長をしている麻生孝也、それに聖教新聞社会部長の吉田雄哉らが学会本部3階の一室に1年以上も閉じこもり、ぼう大な数の本や資料を参考にしながら書いたものを、桐谷がまとめて書簡という形にしたのだった。

 実際に池田が書いているのは句歌の類いのみという。こうなると大川隆法の霊言を嘲笑うわけにはいかない。過去にもゴーストライター説はあったが推測や風説でしかなかった。ここまで具体的に言及した例はない。尚、『二十一世紀への対話』は池田の代表的な著作でかつて東北のローカル紙が一面コラムで絶賛したこともある。

 一読して伝わってくる雰囲気は昭和期の創価学会が池田崇拝主義に陥っていない事実である。職員の間では平然と池田批判がまかり通っていた。ところが1979年(昭和54年)に会長を勇退した池田は、平成に入り日蓮正宗との抗争をテコに再び権力を手中にした。

 学会本部の中枢にいる幹部は当然こうした事実を知っていることだろう。とすると偽りの姿に目をつぶってもついてゆきたいほどの人間的な魅力があるか、あるいは何らかの見返りがあるのだろう。かつて諫言したことのある人物は元教学部長の原島嵩〈はらしま・たかし〉ただ一人である。

 創価学会が毎年財務で集める金額は2000~3000億円で総資産は10兆円に上る。学会員の経済的負担は1970年代後半から増大し始めた。書籍の購入や聖教新聞の多部数購読も目に余る。かつて「拝み屋」と呼ばれた学会員は現在、「選挙屋」「新聞屋」に変貌してしまった。

 創価学会というフィクションにはまだ力がある。しかしながらかつて「宗教革命」を標榜して世直しに挑んだ情熱は翳(かげ)りを帯びている。

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