2018-09-21
歩道を走る勇気を持て
・自転車~幅寄せ対策と保険について
・歩道を走る勇気を持て
・チェーンとスプロケットの手入れ
動画はマウンテンバイク(MTB)のダウンヒルレース。
自転車に関する本やブログを読んで驚いたのは型破りなカネの掛け方と常軌を逸した根(こん)の詰め方である。まず、ロードバイクを複数台所有している人が珍しくない。しかも2台目、3台目になるほど高価になる傾向が見える。更にはビンディング・ペダルやシューズ、ホイールやハンドルの軽量化など、まるで深みにはまったギャンブル依存症を思わせるほどだ。そして彼らは雨が降ると自宅でローラー台に乗るのだ。「一体オマエらどこを目指しているんだ?」と言いたくなる。
ま、カネに余裕のある中高年であれば20万円前後のロードバイクを買うことにさほど問題はないだろう。私の場合は最初から10万円前後と決めていた。自転車の寿命を10年と考えたためだ。クロモリは最も頑丈な素材だが所詮鉄である。長期的に見れば錆(さび)付くつくことを避けられない。雨が降ると速攻で帰ってくるのは自分が濡れることよりも自転車の錆を怖れるためだ。寿命を10年とすれば20万円の自転車は年間2万円のコストが掛かる。私にとっては高い。むしろ10年後に10万円の自転車を買った方がいい。
前回、幅寄せ対策について書いたが、日本の道路状況を思えば自転車がクルマの走行を妨げる現実が確かにある。そこで私は深く反省した。やはり闇雲に喧嘩を吹っ掛けるよりも、ここは50代の円熟味を発揮すべきだと思い至った。それ以降、「歩道を走る勇気を持て」と自分に言い聞かしている。
自転車は道路交通法では軽車両に該当するので本来は車道を走らなければならない。一部歩道の走行が許されているが原則的には車道である。私は大抵山の中を走っているのだが上り坂は歩道を走るようにした。急坂だと時速5~6km程度になってしまうためだ。歩くスピードに毛が生えたようなものだ。これで車道を走ればドライバーが怒るのも当然だ。スピードが遅いのだからリム打ちパンクの可能性も低いだろう。ま、乗り越える段差が多いわけだから空気が多く抜けてゆくのは仕方がない。
つまり、だ。時速20km以下なら歩道を走るべきである。もちろん歩道を20kmで走るのは論外で15km程度にするのが望ましい。人が走る程度の速度だ。15kmならいつでも急停車できるだろう。
政府が本気で社会保障費を抑えようとするならば自転車購入に補助金を出せばよい。エコカー減税よりも安く済む上、健康増進で医療費の削減にもつながる。更に道路整備も望みたい。川という川にサイクリングコースを設けてくれれば私は有料でも一向に構わない。各企業も自転車通勤には高い通勤手当を支払って応えるべきだ。30~40km程度の距離なら十分自転車で通える範囲だ。
ギリシア人の主体性/『木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット
・『勝者の条件』会田雄次
・ギリシア人の主体性
ギリシアのエピダウロスには、1万4000人収容の古代劇場が残っている。丘陵の中腹に建てられたこの劇場からは、松の木々と山並に囲まれた壮観な景色を望むことができる。音響効果も完璧で、舞台上で1枚の紙をくしゃくしゃと丸める音が客席のどの場所からも聞こえるほどである。紀元前6世紀から紀元前3世紀ごろのギリシア人は、エピダウロスで上演される演劇を観たり朗読を聴いたりするために、朝から晩まで何日も旅を続けて、やっとの思いでこの地を訪れた。
ギリシア以外の当時の文明人たちは、概して独裁的な社会に生きていた。王の意思が法であって、それに逆らえば死が待っていた。人々はひとつの土地に縛られ、来る日も来る日も同じ農作業を繰り返していた。たとえ長旅に出て余暇を楽しんでみたいと思っても、統治者は国民が地方をうろうろと旅するのを認めることはなかっただろう。
【『木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット:村本由紀子訳(ダイヤモンド社、2004年)以下同】
エピダウロス(古代ギリシアの港湾都市)の劇場。紀元前4世紀の設計で現在も使用されている。 pic.twitter.com/adrz4WJoQU
— 小野不一 (@fuitsuono) 2018年9月20日
読み掛けの本だがタイミングがいいので紹介しよう。長文なので分けて引用する。エピダウロスの劇場がある種の衝撃を現代人に与えるのは、壮麗な建築物を脳の中で思い浮かべ、多くの人々を組織して工事を行った古代人の能力が我々の大半よりも優れているためだろう。私ならまず発想すらできない。まして設計には数学・物理学・工学的知識が不可欠だ。実際の工事に当たったのが奴隷だとしても事故やトラブルに対処する政治力も必要だ。しかもその建築物は穏やかな美しい佇(たたず)まいで完璧な音響効果を有するいうのだ。古代人恐るべし。
演劇はメタ思考から生まれる。提示するフィクションが人々の感情をどのように動かすかを理解するのは極めて抽象性の高い思考能力の為す業(わざ)である。騙すためには相手の思考や感情を読む知的作業が前提となる。もちろんそのフィクションを楽しめるのも想像力があるからだ。たぶん芸能は歌や踊りから始まったと思われるが、物真似などと演劇はやはり次元が異なる。
ギリシアには、戦闘中の都市国家をも一時休戦させるほどの国民的行事もあった。オリュンピア祭(古代オリンピック)である。国中の人々が武器を置き、選手や観客となってこれに興じたという話には、さすがに今日のわれわれも驚かされる。
ギリシア人には他のどんな古代人たちよりも、そして実際のところほとんどの現代人よりも明確に、個人の「主体性」の観念をもっていた。それはすなわち、自分の人生を自分で選択したままに生きるという考え方である。ギリシア人の幸福の定義には、制約から解き放たれた人生を謳歌するという意味が含まれていた。
娯楽は余暇とセットになっている。日本の江戸時代が文化の彩りに満ちているのは労働時間が短かったためだ。きっと現代人の方が奴隷に近い扱いを受けているのだろう。アニメやゲームなど一部の人が作って多くの人々に与える文化はあっても、皆が楽しむ文化はほぼ見られない。
「主体性」という観念は「環境は変えることができる」という信念に基づく。スポーツの喜びも「今までできなかったことができるようになる」ところにある。
ギリシア人がもっていた主体性の観念は、「自分とは何者か」についての強い信念(アイデンティティ)と連動していた。個人主義という概念を生み出したのがギリシア人かヘブライ人かは議論の分かれるところだが、いずれにせよ、ギリシア人が、自らを他人とは違った特徴や目標をもった「ユニークな(唯一の)」個人だと考えていたことは確かである。このことは、少なくとも紀元前8世紀ないし9世紀のギリシア詩人ホメロスの時代には動かしがたいものとなっていた。ホメロスが書いた『オデュッセイア』と『イリアス』では、神々も人間も、一人ずつ完全な個性を有していた。また、ギリシアの哲学者にとって個人は極めて重要な問題だった。
ギリシア人の主体性の観念はまた、討論(ディベート)の伝統を盛りあげる刺激にもなった。ホメロスは、人間の評価は戦士としての力強さと討論の能力で決まると明言している。一介の平民が君主に討論を挑むことさえ可能だったし、単に話をさせてもらえるというだけでなく、ときには聴衆を自分の側になびかせることもできたのである。討論は市場でも政治集会でも行われ、戦時下に討論がなされることさえあった。
日常的な問題のみならず、国家の重要事項であっても、しばしば権威者の布告ではなく公の場での論戦によって決定された。専制的な圧政はギリシアでは一般的ではなかったし、専制政治が始まっても、多くの場合は複数の実力者による寡頭制に取って代わられた。さらに紀元前5世紀の初頭には、民主政治が台頭した。都市によっては、役人が専制君主になるのを防ぐシステムを憲法に盛り込んだところもあった。たとえばクレタ島の都市ドレラスでは、行政のトップを務めた人間はその後10年間再任を禁じられた。
専制政治や全体主義は一度の戦争であれば有利に働くことがあっても、連続する戦争を勝ち続けることはできない。なぜなら「新しい発想」が生まれないためだ。社会は無気力に覆われ必ず澱(よど)んでゆく。民主政は自治体レベルの単位であれば有効だろうが国家に相応(ふさわ)しいシステムとは思えない。
古代ギリシアを羨ましく思うのは私が不自由な証拠なのだろう。キリスト教が世界に広まったのもギリシア精神を取り入れたトマス・アクィナスの成果といえそうだ。
その古代ギリシアも古代ローマに敗れ、勝った古代ローマもやがて亡んだ。歴史の有為転変を実感するには人生は短すぎる。ゆえに歴史を生きることは難しい。だから歴史は自覚すべきものであると私は考える。日本史・世界史の中に我が身を置けばそれが次のメタ思考となる。些末(さまつ)な事柄が過ぎゆく日常にあっても高次に生きることは可能だ。
木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか
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2018-09-20
役の体系/『日本文化の歴史』尾藤正英
・『勝者の条件』会田雄次
・役の体系
・『原発危機と「東大話法」 傍観者の論理・欺瞞の言語』安冨歩
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
このような「家」の形成は、天皇や藤原氏に限らず、この時代の社会に広くみられる現象であって、その意味では、12世紀を画期とする古代から中世への移行は、「氏」の時代から、「家」の時代への移行として理解することができる。新しく台頭した武士の社会が、御家人といい、家来というように、「家」の組織で構成されていたことは、改めていうまでもない。ただし一般の庶民の間でまで「家」の形成がみられるのは、やや遅れて14~15世紀のころであり、その結果として全面的に「家」を単位とした近世の社会の成立をみることとなる。その意味では、12世紀から15世紀にかけての中世とは、「家」の形成にともなう社会変動の時代であったともいえよう。
ところで、その「家」の形成が始まった12世紀のころから、いわば「家」の原理に基づく新しい文化の発展があったことに注目しなければならない。「家」の原理とは何か。古代の「氏」も、中世以降の「家」も、共同体的な性格をもつ社会組織であった点では共通しているが、地方豪族のヤケを基礎とした「氏」に比べると、家業のために協力する「家」の方が、成員の平等性と、それに基づく自発性という点で、一歩進んでいたとみることができるように思われる。「家」は、それを構成する人々が、血縁の有無にかかわらず、相互に信頼し、その家業のために必要な役割を、それぞれが分担して遂行することにより、永続性を目指そうとする組織であった。武士の家の主従の関係には、その信頼の関係が明確に示されている。この信頼という人間関係と、それに基づく職分(役割)の遂行とが、「家」の原理であったとすれば、「信」と「行」(ぎょう)を基本とした鎌倉仏教は、その原理の宗教的表現であったといえるのではあるまいか。
【『日本文化の歴史』尾藤正英〈びとう・まさひで〉(岩波新書、2000年)】
安冨歩〈やすとみ・あゆむ〉のブログで知った一冊である。
・マイケル・ジャクソンの思想 福島原発:逃げたら怒る日本人・江戸時代の「役」システムは今も健在。
・「東大話法」と「立場主義」 - Togetter
リンクを貼って終わりにしてもいいのだが、それでは芸がなさすぎるので少しお茶を濁しておこう。
「ヤケ」とは初耳である。寡聞にして知らず。
・吉田孝「イへとヤケ」『律令国家と古代の社会』岩波書店 1983年 71-122頁 - 益体無い話または文
そう考えると『源氏物語』と『平家物語』というタイトルも意味深長に思えてくる。氏素性という言葉も廃(すた)れた。生き残っているのは藤原氏くらいか(『隠された十字架 法隆寺論』梅原猛)。
キリスト教は「天職」という言葉を発明した。
労働は、神がアダムとイヴに与えた呪いだった。古代ギリシャ文化においては、死すべき人間(=奴隷)に課せられた罰だった。そして、宗教改革が「天職」という新しい概念をつくり出した。アウシュヴィッツ強制収容所のゲートには「働けば自由になれる」と書かれていた。
【怠惰理論/『働かない 「怠けもの」と呼ばれた人たち』トム・ルッツ】
日本の「役」はもっと実務的で物語性が淡い。なぜなら日本人にとって労働は喜びであったからだ。
これにより武士と百姓・町人との、三つの身分が区分された。これを士・農・工・商と表現したのは、中世の古語に基づく学者らの用語であって、幕府や大名の公用の表現ではない。この身分制度は、職業による区分であるところに特色があり、それはこの時代の社会を構成した「家」が、それぞれ家業を営むことを目的とした組織であって、その家業の種類によって身分が分かれたことの結果である。職業による身分であるから、血統などによる身分とは違って、その区別は厳格ではない。しかも双系制の家族の伝統があるから、娘婿などの形で養子になれば、血縁のない者でも家業を継ぐことが可能であった。
「実は江戸では、武士が皆の上に立つ者という意識もありませんでした。『士農工商』という四文字熟語が普及したのは、明治の教科書でさかんにPRされたからです」(『お江戸でござる』杉浦日向子)。
「家業」という言葉がわかりやすい。血筋・遺伝子よりも業に重きを置く。これを進化論的に考えるとどうなるのか? DNAよりも技術や経済性を重んじるということか。
犬の血統は形質的なものだと思うが、サラブレッドの場合はどうなのか? 「近年の研究によれば、競走馬の競走成績に及ぼす両親からの遺伝の影響は約33%に過ぎず、残りの約66%は妊娠中の母体内の影響や生後の子馬を取り巻く環境によることであるとされているが、それでもなお競走馬の能力に血統が一定の大きな割合で寄与している事実がある」(競走馬の血統 - Wikipedia)。33%だって影響はでかいだろうよ。
血を重んじる文化は世界中にあるのだろうが、遺伝子が見つかる前から男系遺伝子をのこそうとする人類の本能が実に不思議である。
「役」という文字は、古代に中国から伝来したが、右のような役人や役所といった熟語は中国語にはない。役人という語はあっても、それは単に労働を強制される人という意味であるらしい。その意味での用法は、現代の日本語にもあって、労役・懲役などがそれであるが、その場合には漢音で「エキ」と訓(よ)んで区別している。これに対し古来の呉音(ごおん)による「ヤク」は、前記のように国家や地域、あるいは企業の一員としての自覚に基づき、その責任を主体的に担おうとする際の任務を表現するもので、誇りある観念である。このような自覚ないし自発性に支えられた役割分担の組織を、「役の体系」とよぶことができるとすれば、それこそが16世紀に成立した新しい国家の特色をなすものであるとともに、歴史の歩みの中で日本人が作り上げてきた独特の生活文化であったといえよう。
発展する社会を支えるのは役割分担の巧拙に掛かっているのだろう。ただし日本の場合、合理性よりも情緒に配慮して組織が機能停滞する傾向が強い。その上、社会の各階層に閥(ばつ)がはびこっている。自由競争という言葉はあるが実態は存在しない。
大東亜戦争に敗れてから自民党を中心とする政治家は自らの「役」を果たしてこなかった。官僚は東大閥が支配し国益よりも省益のために働いてきた。マスコミは商業主義に堕し、平然と嘘を垂れ流してきた。学者は文部官僚の顔色を覗いながら予算の分配にありつき、安泰の道を求めて御用学者に転身する。この国の武士やエリートは死んだ。そして親子ですらその「役」を見失ってしまった。夫婦別姓ともなれば「家」は完全に崩壊するだろう。宗教的バックボーンを欠いた我々が「個人」(『翻訳語成立事情』柳父章)になることは難しい。役という役がパートタイマー化して、ただバラバラにされた無表情な大衆と成り果てるに違いない。
2018-09-19
自転車~幅寄せ対策と保険について
・ペダリング革命の覚え書き
・自転車~幅寄せ対策と保険について
・歩道を走る勇気を持て
ロードバイクに乗り始めてから間もなくふた月になる。この間、二度ほど大型トラックに幅寄せされた。最初は箱車に5cmほどまで接近された。直ちに追い掛けてボコボコにしてやろうと思ったのだが上り坂で逃げられてしまった。以下の動画では幅寄せされた後で自転車が右から追い越す際に接触している。
怒るのは当たり前だ。怒らない方がどうかしている。とはいえ私も既に55歳だ。相手の体が私よりも大きくて、そこそこ場数を踏んだ若者なら逆襲される可能性が高い。タクティカルペンは普段から持ち歩いているが少々心許ない。武器になりそうなものといえばCO2インフレーター(ボンベ)とABUS(アブス)のチェーンロックくらいだ。ま、捨て身で闘うしかない。
相手を捕まえることができれば戦いようもあるわけだが如何せん逃げられるケースが多いと思われる。また、こちらが手を出した場合、向こうのドライブレコーダーに記録されることを覚悟する必要がある。するってえと、やはり動画で記録しておくのが一番だ。悪質な運転については暴行罪が成立する。「事が起こってから」では遅い。2017年に東名高速で煽り運転を繰り返された挙げ句に追越車線で停止させられたクルマが大型トラックに追突されて死亡する事件があった。これ以降、全国的に煽り運転の取り締まりが強化された。この流れを是非とも自転車にまで手繰り寄せたい。というわけで、自転車にアクションカメラを搭載して、どしどし警察に訴え出る運動を展開して参りたい。
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次に保険である。自転車保険の義務化が進捗(しんちょく)中である(自転車保険の義務化の動向|都道府県・自治体別まとめ | FPほけん相談室)。TSマーク付帯保険は「自転車に付帯されているので、自転車の所有者に限らず、友人や知人、家族がTSマーク付帯保険が付帯された自転車を運転する場合には補償されます」(自転車保険はTSマーク付帯保険加入で大丈夫? | FPによる生命保険・損害保険の選び方講座)。ただし、「TSマーク付帯保険には対物賠償の補償や、示談交渉サービスがない」(同ページ)。「自転車保険に加入する場合、この保険だけはやめましょう。なぜならこの保険は、保険金を支払う意思がないとしか思えないからです」(TSマーク保険をおすすめしない理由 | FPほけん相談室)との批判もある。
更に重複加入している場合があるので注意が必要だ。
・自転車保険(個人賠償責任補償)の重複(二重)加入に注意!保険料がムダになる? | FPによる生命保険・損害保険の選び方講座
色々と調べた結果、au保険が一番いいようだ。
・au保険
掛け金が安い(月額360円から)上にロードサービスまで付いている。
どれほど注意しても相手がデタラメな運転をしていれば事故に遭ってしまう。自分の努力だけでは防ぐことができないのが事故である。備えあれば患(うれ)いなしで平時の態度が賢愚を分ける。我々は被害者にも加害者にもなり得るのだ。
・本日提訴します | 自転車に家族を殺されるということ
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日本人の農民意識/『勝者の条件』会田雄次
・『アーロン収容所』会田雄次
・『敗者の条件』会田雄次
・『決断の条件』会田雄次
・日本人の農民意識
私たち日本人は、世界でも稀といってよいほど純粋に農民的な歴史を持っている。日本人は歴史の中で狩猟段階を持っていない。原始は拾集(しゅうしゅう)で生きていたようだ。したがって遊牧も知らない。有畜産業はもちろん存在しない。砂漠や草原や粗林帯や、さらにはヨーロッパのように下生えの灌木や草などがなく、騎馬軍が自由に通行できる森林から成り立っているところには、大規模な隊商隊が活躍する。しかし、日本の商業ではそれらが見られない。馬やロバなど貴重品で、上級武士の使用品で、町人や百姓が自由に使えるものとならなかったからである。馬や牛は家族のように養う。何十頭もを家畜として取り扱う習性は、日本人には与えられないからである。会場取引も、応仁期から瀬戸内や日本海には見られたが、表日本では寥々(りょうりょう)たるものだ。海外通商にいたっては荒波と大洋にさえぎられ、ヨーロッパ封建時代とくらべてはほとんど問題とするに足りぬ量である。
こういう国だから、商人精神や商人文化はいっこう自立できない。日本人の商人根性とか町人根性とかいわれたものは、実は農民根性を色づけしただけのことである。ヨーロッパでは、この農民根性と商人根性が、近代では生産者意識と流通関係者の意識が、それぞれ独自な理論と価値体系を持って両立し、対立し、争い、補充しあっている。しかし日本では、今日もなお、この商人意識は、独立し完結した体系を作るにはいたっていない。それに刺激されない生産者意識は、今もなお、農民根性そのままである。はっきりいえば、現在の日本人の意識も文化も、いまだに農民意識であり文化であるに過ぎぬ。最高技術を駆使する技師も、超高層ビルで電子計算機のつくりあげた数字にとりくむサラリーマンも、その精神の本質は、水田に腰をまげて対していた徳川時代の農民そのままである。国内では、何かというと、商社が仇敵視される。海外でのこの商社の行動は、農民のように不決断でいやしいとして嫌がられるのもそのためだ。変わったのは、火打石がガス・ライターに、もも引きと草鞋(わらじ)が、細手のズボンと編革の靴になっただけに過ぎぬ。
【『勝者の条件』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(雷鳥社、1976年/中公文庫、2015年)】
文章に苛立ちが見えるのは、やはり戦争に負けたためだろう。現在では商人を科学と言い換えた方がわかりやすい。要は個人意識の問題である。
英語のindividualは「神と向き合う個人」を意味すると柳父章〈やなぶ・あきら〉が指摘している(『翻訳語成立事情』1982年)。私は長らくキリスト教由来の文化と考えてきたのだが間違っていた。古代ギリシャに淵源があるようだ(『木を見る西洋人 森を見る東洋人思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット、2004年)。トマス・アクィナス(1225頃-1274年)がキリスト教をアリストテレスで味付けしたわけだが、これをギリシャ化と見立ててもよさそうだ。キーワードは交易、主体性、討論である。
日本人が議論を苦手とするのも同じ理由である。我々は個人である前に役(身分)を自覚する(『日本文化の歴史』尾藤正英、2000年)。そして合理性よりも道理を重んじるのだ。会議が予定調和になるのも当然である。意見や批判は「出る杭」として扱われて打たれることが珍しくない。
農民感覚に基づく村意識は責任の所在を曖昧にする。武士の切腹は一見すると責任を取っているように思えるが、実際は「誰かの首を差し出している」犠牲的な側面がある。私がつくづく不思議に思うのは国民に対して最も影響力が強いと考えられる官僚や教員の責任が不問に付されている現実だ。天下りは平然と行われ、それどころか斡旋・手配をしてきたトップが退官後に政府を批判してマスコミにもてはやされている。教員はいじめによる自殺があっても名前すら報じられることがない。また国旗や国歌を拒否する日教組教員が児童に偏った教育を施しても吊るし上げられることがない。きっと「役目であって本意ではない」との言いわけが通用するのだろう。
日本人に必要なのは「和を以て貴しとなす」(聖徳太子)と「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」(孔子)を両立させることではないか。
勝者の条件 (中公文庫)
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異常な経験/『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次
・異常な経験
・『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
・『敗者の条件』会田雄次
・『勝者の条件』会田雄次
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
この経験は異常なものであった。この異常ということの意味はちょっと説明しにくい。(中略)
想像以上にひどいことをされたというわけでもない。よい待遇をうけたというわけでもない。たえずなぐられ蹴られる目にあったというわけでもない。私刑(リンチ)的な仕返しをうけたわけでもない。それでいて私たちは、私たちはといっていけなければ、すくなくとも私は、英軍さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきたのである。異常な、といったのはそのことである。
【『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(中公新書、1962年/中公文庫、1973年/改版、2018年)以下同】
若い頃に何度か読んでは挫けた一冊である。その後、何冊もの書籍で引用されていることを知った。竹山道雄も本書に触れていたので直ちに読んだ。やはり読書には季節がある。それなりの知識と体力が調(ととの)わないと味わい尽くすのが難しい本がある。何気ない記述に隠された真実が見えてくるところに読書の躍動がある。
会田雄次は敗戦後、1年9ヶ月にわたってビルマでイギリス軍の捕虜となった。その経験を元に「西欧ヒューマニズム」の欺瞞を日本文化から照らしてみせたのが本書である。
それはとにかくとして、まずバケツと雑巾、ホウキ、チリトリなど一式を両手にぶらさげ女兵舎に入る。私たちが英軍兵舎に入るときには、たとえ便所であるとノックの必要はない。これが第一いけない。私たちは英軍兵舎の掃除にノックの必要なしといわれたときはどういうことかわからず、日本兵はそこまで信頼されているのかとうぬぼれた。ところがそうではないのだ。ノックされるととんでもない恰好をしているときなど身支度をしてから答えねばならない。捕虜やビルマ人にそんなことをする必要はないからだ。イギリス人は大小の用便中でも私たちは掃除しに入っても平気であった。
一読して理解できる人がいるだろうか? 特に我々日本人は汚れ物に対する忌避感情が強く、トイレを不浄と表現することからも明らかなように、人目を忍ぶのは当然である。今、無意識のうちに「人目」と書いた。私なら幼子に見られるのも嫌だね。「人の目」であることに変わりはないからだ。つまり白人にとって有色人種の目は「人目」ではないのだ。きっと「人目」に該当する語彙(ごい)もないことだろう。
会田が「異常」と記したのは、人種差別の現実が日本人の想像も及ばぬ奇っ怪な姿で目の前に現れたためだ。私の世代だと幼い頃にウンコを踏んだだけで周りから人が去ったものだ。かくもウンコには負のパワーがある。それがウンコをしている姿を見られても平気だと? すなわち彼らにとって有色人種の人間は文字通り「動物以下の存在」なのだ。これが「喩(たと)え」でないところに彼らの恐ろしさがある。
その日、私は部屋に入り掃除をしようとしておどろいた。一人の女が全裸で鏡の前に立って髪をすいていたからである。ドアの音にうしろをふりむいたが、日本兵であることを知るとそのまま何事もなかったようにまた髪をくしけずりはじめた。部屋には二、三の女がいて、寝台に横になりながら『ライフ』か何かを読んでいる。なんの変化もおこらない。私はそのまま部屋を掃除し、床をふいた。裸の女は髪をすき終ると下着をつけ、そのまま寝台に横になってタバコを吸いはじめた。
入って来たのがもし白人だったら、女たちはかなきり声をあげ大変な騒ぎになったことと思われる。しかし日本人だったので、彼女らはまったくその存在を無視していたのである。
このような経験は私だけではなかった。
有色人種は白人女性の性行為の対象にすらなり得ないということなのだろう。インドのカースト制度を軽々と超える差別意識である。無論、彼女たちは「差別」とすら感じていないことだろう。人種の懸隔は断崖のように聳(そび)える。まさに犬畜生扱いだ。
はじめてイギリス兵に接したころ、私たちはなんという尊大傲慢な人種だろうかとおどろいた。なぜこのようにむりに威張らねばならないのかと思ったのだが、それは間違いであった。かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。女兵士が私たちをつかうとき、足やあごで指図するのも、タバコをあたえるのに床に投げるのも、まったく自然な、ほんとうに空気を吸うようななだらかなやり方なのである。
イギリス兵にとって最大の侮辱は日本軍が優勢であった時に、捕虜として市中を行進させ、便所の汲み取りを行わせたことだった。七つの海を支配してきた大英帝国の威信は地に墜(お)ちた。黄禍(おうか/イエロー・ペリル)が現実のものとなったのだ。イギリスがアメリカを引きずり込んで第二次世界大戦の戦況は大きく動いた。勝った側となったイギリス人が日本人に思い知らせてやろうとするのは当然である。この流れは現在にまで引き継がれている。イギリス・フランス・オランダは自分たちを潤す植民地を失ってしまったのだ。戦前と比べて貧しくなった状況を彼らが簡単に忘れることはない。
こうした文脈の上に南京大虐殺や従軍慰安婦というストーリーが作成されていることを日本人は知る必要がある。憲法9条もそうだ。アメリカは玉砕するまで戦う日本軍を心底から恐れた。二度と戦争に立ち上がることができないように埋め込まれたソフトが憲法9条なのだ。アメリカは原爆ホロコーストを実行しておきながら、日本の報復を恐れいているのだ(『日本最後のスパイからの遺言』菅沼光弘、須田慎一郎)。
その人種差別の頂点にいるイギリス女王やローマ教皇ですら天皇陛下に対しては敬意を払わざるを得ないところに日本の不思議がある。
アーロン収容所 改版 - 西欧ヒューマニズムの限界 (中公新書)
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会田 雄次
中央公論新社
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中央公論新社
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2018-09-16
苛烈にして酷薄なヨーロッパ世界/『敗者の条件』会田雄次
・『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
・『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
・『アーロン収容所 西欧ヒューマニズムの限界』会田雄次
・苛烈にして酷薄なヨーロッパ世界
・『勝者の条件』会田雄次
ヨーロッパ人というものは、勝者となりえたのちもなお闘争の精神を失わない。かれらは復讐でも何でも、ここまで執拗に、計画的に、そして徹底的に実行するのである。
【『敗者の条件』会田雄次〈あいだ・ゆうじ〉(中公新書、1965年『敗者の条件 戦国時代を考える』/中公文庫、1983年)以下同】
大東亜戦争敗戦直後のビルマでイギリス人中尉がこう語った。「ジャップは、死ぬことを、とくに天皇のために死ぬことをなんとも思っていない。おれたちは、ジャップの英軍捕虜への残虐行為と大量殺害に復讐する。戦犯(ワー・クライムド)の処刑はその一つだ。だが、信念を持っている人間は殺されても平気だし、信念を変えようとも思わない。そういう人間に肉体的苦痛を与えても、なんの復讐にもならない。だからおれたちは、ジャップの精神を破壊(デストロイ)してから殺すのだ」。
会田雄次が戦地で直接聞いた言葉である。具体的には死刑を宣告した上で一旦減刑し、時間を置いてからまた死刑の宣告をした。「再び家族と会える」「帰れないと思っていた祖国に戻ることができる」――何ものにも代え難い喜びに全身を震わせたことだろう。その希望を英軍は絶(た)つのだ。イギリス兵は甘美な復讐の味に酔い痴れた。
敵を倒すにはその弱点をつけ。油断は大きい弱点である。相手に好意を持つものは、相手に対してどこか油断し、すきを見せるものだ。そこを見破り、突いて倒せ。自分を愛し信頼する叔父、自分に好意を持つ飯番――それが第一の餌食となる人間なのである。
私が示した2例は、この論理を忠実に実行し、成功したある男の姿なのだが、ここにも、さきに言及した、ヨーロッパ人のうちに流れる勝負への徹底性を読みとることができる。
このようにはげしく執拗な闘争の精神は、別に西ヨーロッパ人だけのものではない。アメリカ人やロシア人を含む白人全部に共通するものだ。それは彼らの住む風土と歴史の産物なのである。ヨーロッパの歴史をちょっとひもとくなら、そのことはすぐ理解できるだろう。
自分が助かるためなら味方をも犠牲にする酷薄極まりない例が挙げられている。殺すか殺されるかという苛烈な世界だ。会田は事実を示すだけで批判をしているわけではない。かくの如きヨーロッパに立ち向かうだけの気構えが日本にあるのかと問い掛けているのだ。本書はヨーロッパ世界に比較的近いと思われる戦国武将のエピソードがメインである。戦乱のさなかから逞しい精神が立ち上がる。後に長過ぎる江戸時代の平和が日本人から逞しさを奪っていったのだろう。
しりぞくことは死を意味する闘争の世界――それがヨーロッパである。それは同時に与えることが餓死を意味する世界でもある。このような条件下で数千年間鍛えられた人間性が、現在のヨーロッパ人のなかに生きている。いわば彼らは、ヨーロッパの歴史的風土のなかでそれを骨肉化してきたものなのだが、勝負に関し、かれらが私たちには想像外の徹底さと執拗さを持ちつづけているのは当然といわねばならない。
更に神の計画を元とした欧米人の計画性を挙げておくべきだ。国際条約の恣意的な運用、世界銀行や国際通貨基金を通した経済支配、メディアを通じた世論操作、人種差別や奴隷文化の歴史的漂白など、第二次世界大戦~ソ連崩壊を経た後は完全にアングロサクソン・ルールが罷(まか)り通っている。
大東亜戦争の歴史認識は少しずつ正しい方向に向いつつあるが国民的な気運の上昇には至っていない。学者やジャーナリストの影響力はそれほど大きくないのだろう。カリスマ性をまとった天才政治家の出現を待つ他ないのかもしれない。しっかりとした史観を持つ人なら、我が子の担任が日教組教員であればこれを断乎拒否すべきである。迂遠な道のりに見えるができることを一つひとつやってゆくしかない。
ペダリング革命の覚え書き
・ペダリングの悟り
・ペダリング革命の覚え書き
・自転車~幅寄せ対策と保険について
動画はシクロクロスという競技である。巡航性を基準にすると、TT(タイムトライアル)バイク→ロードレーサー(ロードバイク)→エンデュランスロード→シクロクロス→グラベルロードとなる。エンデュランスは長距離向きで、シクロ・グラベルは舗装路以外も走るため太いタイヤとディスクブレーキに特徴がある。空気抵抗を考慮する必要がないのでポジションはアップライト。タイヤが太くなればサスペンションの機能を果たすので乗り心地がよくなる。でもまあ、乗り心地の悪い道を走るので相殺(そうさい)されてしまうわけだが(笑)。
年をとると用意周到になる。私は自転車に乗ることを決意してから直ぐにストレッチを開始した。頭は柔らかいのだが体が硬い。前屈すると床に手が届かない。10cmほどの距離があった。ふた月ほどで床に親指が着くようになった。長く険しい道のりだった。そして週に二度エアロバイク(フィットネスバイク)を30分ほど漕(こ)いでいる。
エアロバイクにはモニターがあり、距離、ケイデンス、心拍数、負荷などの数値が表示される。自転車に乗るのは風を感じるのが目的だ。風がないわけだから視覚情報で誤魔化すしかない。いつもだと負荷は最低の1で、ラスト10分になると2分間隔で5まで上げてゆく。ところがどうだ。ペダリングのコツを掴んでしまった私は勢い余って負荷を10まで上げてしまった。変われば変わるものである。なぜ回せるか? ふくらはぎに力を入れないためだ。より太い腿の筋肉を使うことで効率がよくなっているのだ。
ここで慌ててはいけない。自転車に乗っても調子に乗ってはダメだ。オーバーワークが怪我の原因となる。そこで逸(はや)る脚を抑えて近所のパトロールに向かった。坂はいくらでもある。
忘れないうちに覚え書きを残しておこう。まず「泥こそぎペダリング」だが、足指を軽く曲げて指の付け根でペダルの前方を掴み、拇指球で前に回す感覚で行う。こうすると1時の位置で力が加わる。股関節の動きも自然に大きくなる。私はギョサン以外で漕いだことがないのでスニーカーを履いたら再検証する。
登坂の土踏まずペダリングは何も考える必要がない。斜度に合わせて頭を前方向に傾けるだけだ。重心を前に掛けても手には体重を乗せない方がいいと思う。ハンドルには手を添える程度で、残酷な上り坂に対してはハンドルを引いて立ち向かう。
少し前までなら絶対に避けて通った坂道を次々とクリアした。輪っかの坂(真空コンクリート舗装のO型滑り止め)も辛うじて制覇した。上り坂はもはや敵ではない。きっと人生も上り坂となるはずだ。
2018-09-14
ヨーロッパは苛烈な力と力の世界/『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
・『昭和の精神史』竹山道雄
・『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
・『見て,感じて,考える』竹山道雄
・『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
・ヨーロッパは苛烈な力と力の世界
・『敗者の条件』会田雄次
・『ビルマの竪琴』竹山道雄
・『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
・『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
・『歴史的意識について』竹山道雄
・『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
・『精神のあとをたずねて』竹山道雄
・『時流に反して』竹山道雄
・『みじかい命』竹山道雄
・キリスト教を知るための書籍
・日本の近代史を学ぶ
・必読書リスト その四
目次
一 力と力の世界
二 ベルリンに住んで
三 古都めぐり
四 中世のおもかげ
五 カトリック地方
六 ダハウのガス室
七 人民にとっての東と西
八 東の人々
九 ドイツ問題解決への提案
十 壁がきずかれるまで
十一 神もいる、悪魔もいる
あとがき
【『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄(文藝春秋新社、1963年)以下同】
「じつにヨーロッパは苛烈な力と力の世界である! それはわれわれには想像がむつかしい」
私は西ベルリンのティアガルテン公園のベンチに坐って、あたりを見廻しながら、よくこう考えた。目の前に、白いジャスミンの花が垂れている。
「われわれ日本人には、人間性がこのように非情でありうることは考えられない。われわれは人間をもっとおだやかな醇化されたものだと思っている。一つにはこれがあるので、日本で行われる世界理解は見当がちがうのだろう」
ちかごろ人々はナチス映画を見て、その惺惨な歴史におどろいているが、ああいうことはヨーロッパ人にとっても十分不可解ではるのだが、しかしわれわれにとってほど不可解ではないだろう。私はあの事実を比較的はやくに知ったが、それを人に話しても、日本人は、「そんなことが起りうるものか。それはデマだ。お前の妄想だ」とて、信用する人はいなかった。また、「壁」ができるまでベルリンを通って毎月200万人の人間が逃亡していたのだが、その事実を報告しても、すべてを善意から解したがる人々は、「そういうことを考えるのは後向きである」とて、意識から排除してうけつけない。
『剣と十字架 竹山道雄著作集5』林健太郎、吉川逸治監修(福武書店、1983年)は、一、二、六、七、八の抄録で、『 スペインの贋金 竹山道雄著作集2』(福武書店、1983年)には二が収録されている。更に、『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』平川祐弘編(藤原書店、2016年)は、一、二、六、七、十、十一、あとがきの抄録となっている。カバー装丁は神野八左衛門。表紙にはラファエルの絵が配されている。
日本人は諍(いさか)いがあっても「水に流す」ことができる。なぜか? 国土の水が清らかだからだ。このことも私は竹山道雄から教わった。歴史上の内戦における死者数も少ないのが特徴で万を超えることは滅多にない。島原の乱3万7000人、織田信長の第三次長島侵攻2万1000人というあたりが最多で、西南戦争でさえ双方7000人である。
一方ヨーロッパは土地が貧しく水が汚れている。多量のビールやワインを飲むのも水の汚れに由来するといわれる。欧州域内における戦争の死者数は数百万単位である。三十年戦争の死者数は400万人でドイツの人口は激減した。ナポレオン戦争の死者数は約500万人である(図録▽世界の主な戦争及び大規模武力紛争による犠牲者数)。第一次世界大戦の死者数が1600万人で第二次世界大戦が5000~8000万人である。つまりヨーロッパの戦争を歴史的に俯瞰(ふかん)すれば近代戦争に匹敵する死者を出していることがわかる。
土地が貧しいゆえに寒冷化が激しくなると人々が移動する(ゲルマン人の大移動)。水は世界中どこでも紛争の種となっている。井戸を巡る殺し合いは各地であった(日本においても水利権〈すいりけん〉はあまりにも複雑で政治が手をつけることができない)。更にヨーロッパではキリスト教の正義が殺戮(さつりく)を後押しする。異教徒を殺すのは神の命令であり宗教上正しい行為と見なされる。日本人の感覚でいえば害虫駆除に近いのだろう。
一番わかりやすいのは「アメリカ大陸発見」の歴史である。数千万人のインディアンが暮らしていたにも関わらず欧州白人は「発見」と位置づける。発見したわけだから発見以前の歴史は無視される。ところがインディアンはおとなしくなかった。彼らは勇敢に戦った。そして殺された。殺しすぎて人手が足りなくなった。ヨーロッパ人はアフリカ大陸から黒人を奴隷として輸入した。勇敢な者は殺され、友好的な者は奴隷にされる。これが歴史の真実だ。憲法9条信者はよくよく歴史を見つめるべきだ。
日本に長らく祟(たた)り信仰があって、討ち取った敵将を神として祀(まつ)る習慣があった。ヨーロッパ人には想像もできないことだろう。この他、「一寸の虫にも五分の魂」「一視同仁」「盗人にも三分の理」「弱きを助け強きをくじく」「判官贔屓」(ほうがんびいき)、「天は人の上に人を作らず」(福澤諭吉)などの文化が底流にあり、理よりも情に重きを置く伝統が流れている。
日本人であれば「何もそこまで」と思うところを徹底して「そこまで」行うのがヨーロッパの流儀である。ナチスドイツによるジェノサイドも、アメリカによる東京大空襲・原爆投下もその背景にはキリスト教文化が脈動している。近代においては社会主義・共産主義国での粛清や失政の犠牲者は数千万人単位であることが判明しているが、共産主義そのものがキリスト教文化から派生したものでキリスト教由来と考えてよい。
ヨーロッパの植民地と日本の植民地を比較すれば万人が日本を支持するのは間違いない。日本は大幅な国家予算を割いて植民地のインフラを整備し、帝国大学を設立し、医療を充実させ、相手国の文化を保存する事業を行った。日本は一視同仁の思いで植民地政策を行った。
剣と十字架―ドイツの旅より (1963年)
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竹山 道雄
文藝春秋新社
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ペダリングの悟り
・中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ
・ペダリングの悟り
・ペダリング革命の覚え書き
恐るべきスピードである。彼はペダルと一緒に交通ルールをも踏みつける。きっと小さな政府を望む自転車新自由主義者なのだろう。アメリカにはこの手の愚か者が多い。時折、後輪をドリフトさせているのはシングルスピードの固定ギアでブレーキが付いてないためだ。見た感じだと時速50kmくらいか。決して真似をしないように。
どんなスポーツでもそうだが経験者は素人を一瞬で見抜く。野球であればバッティングにおけるドアースイングやゴロに対するグラブさばきなど。経験者は壁から腕一本分のスペースがあればバットを振り抜けるし、ゴロを捕る場合はグローブを下から上に動かしてキャッチする。バレーボールならスパイクでドライブ(前回転)を掛けているかどうか。こうしたプレイは一朝一夕で身につくものではない。コツコツと練習を積み重ねて、ある瞬間に突然できるようになるのだ。その意味から申せばスポーツの技術は徐々に上達する代物ではなく、階段を上がるように急上昇するものである。
ブレイクスルー(突破)を経験すると概念が変わる。ま、パラダイムシフトといってよい。このため私はスポーツを始める際は概念を掴むことを最優先している。最近だとバドミントンのスマッシュで行う回内運動がまさしく「概念」に相当する(回内運動のコツ)。
自転車にも当然概念があるに違いない。私はそう睨(にら)んだ。乗り始めてから1ヶ月半を経過したがこの間、書籍に当たりホームページやブログを参照し続けた。プロだから説明能力が高いとも言えないし、ネット情報は些末(さまつ)な内容が多すぎる。時に全く相反する主張に遭遇することも珍しくない。例えば骨盤を起こすのか寝かせるのかなど。
人類は動物であり、歩いたり走ったりする機能はDNAに刻み込まれている。しかし、ペダルを「回す」機能は本来もっていない。この地上で脚を回して移動する動物は、多分人間だけではないだろうか。つまりペダリングは本来もって生まれた運動能力ではなく、技術として身につけなければ習得できないのである。
【瀬戸圭祐の 「快適自転車ライフ宣言」 3-2)心臓と肺で走る!ペダリングの極意【ファンライド】】
私のような素人が湖を目指して山道を70kmも走っていると疲れ果ててこの世の全てがどうでもよくなってくる。「生きてる意味? そんなものねーよ」と言いたくなる。コース選択の誤りを後悔する気力も残っていない。ただペダルを踏むだけの苦しい作業が続く。脚力がないのは当然なんだが、それ以前の非効率があるはずだ。でね、遂に見つけましたぜ。
ペダリングは足裏の泥をこそげ落とすように……ペダリングは膝関節を動かす筋肉よりも股関節を動かす筋肉で行う方がいい(以下略)
【難しい事は抜きにして、とにかく太ももで漕げ! : 自転車コギコギ日記】
読んだ瞬間に頭の中で電球が灯(とも)った。立て続けにネット上を調べてゆくと「腸腰筋の使い方」というのを見つけた。
次に右の写真のように太腿の付け根から手のひら1つ分くらい膝寄りに手を置いて脚が上がらないように押さえつけます。そして脚を持ち上げるように力を入れてみてください。・・・そうすると大腿四頭筋ではなく脚の付け根の部分の筋肉を使ってませんか?多分それが腸腰筋を使ってるんだと思います。
【ヒルクライム対策の効果が出た。グランフォンド軽井沢に完勝してきた! | Fertile-soil】
これまたピンポーンと脳内で音が鳴った。私はサンダル履きなので引き足は関係ないのだが腸腰筋を意識することは可能だ。時折、大腰筋の筋トレも行ってきた(『寝たきり老人になりたくないなら大腰筋を鍛えなさい』久野譜也)。
プロ選手のふくらはぎが細いのは、ふくらはぎを使っていないためです。つまり、ふくらはぎは自転車のペダリング力を生み出す主な筋肉ではないということです。
【自転車のペダリングのやり方でふくらはぎが変わる!? | BICYCLE POST】
やはり私のペダリングは間違っていた。ふくらはぎだけボディビルダー状態だよ。
森本誠師匠に助けを乞うたところ、バスケットボールでドリブルしろとの事。ドリブルのボールを弾くタイミングが、ペダルに力を入れるタイミングだと言うのだ。しかも力を入れるのは一瞬で良いと。
【「ペダリングは1日にして成らず」 “39.3%”のどん底からの復活劇 - cyclist】
ロードバイク歴5年の人のペダリング効率が39.3%という衝撃の事実に腰を抜かした。
これを別のイメージに翻訳してみると,ちょうど,子どもが座ったブランコを後ろから押すのと同じイメージだと思います。
【ペダリング考察 ── 踏むのは一瞬でいい? - ロードバイクの理科的考察】
絶妙なアシスト記事だ。
「つま先を押し下げるようにペダリングすると、ふくらはぎを介してパワーが失われてしまいます」と彼は指摘する。「足首を固定して、かかと、あるいは足の裏でペダルを押し込むことで最大のパワーを伝えることができるのです」
【今すぐヒルクライムが速くなる6つの方法】
これまた目から鱗(うろこ)が落ちる。私は拇指球(ぼしきゅう)でふくらはぎをギンギンに張らせながら漕(こ)いできた。
見よ、これが情報のブレイクスルーである。探し求めていた答えが一つ見つかると次々と必要な情報が現れるのだ。
早速、次の日にまずエアロバイクで試みた。リカンベントタイプなのだが明らかに感覚が変わった。確かによく回る。そして登坂の土踏まずペダリングもやってみた。負荷を強くしても踏める。ふくらはぎの負担が少ないとこうも違うものか。面白くてどんどん負荷を上げていった。
帰宅すると脚が疼(うず)いた。新しい感覚を忘れたくなかった。少しばかり走ろう。まず、泥こそぎペダリングだが足を前方向へ動かすことで1時の位置でペダルを捉えられるようになった。そして膝が高く上がることで股関節の動きを実感できる。サドルの位置が低いことまで体感した。もはや昨日までとは異なる新しい世界が開けた。ペダリングの悟りといってよい。
次に土踏まず登坂(とうはん)である。確かに楽だ。ふくらはぎに力が入らないためだ。踵(かかと)ペダリングも試した。筋肉ではなく骨で踏む感触が強い。小雨が降ってきた。いつもは避ける坂を通って帰路に就(つ)く。そのままの勢いで近所の短い激坂(たぶん20%超)に向かった。後輪のスリップに注意しながらゆっくりと登った。難なく登りきった。
高々10km余りの距離であったが、私の自転車人生は新しい段階に突入した。脳と身体(しんたい)に新しい神経回路が構築された。
引用した記事のサイクリスト諸兄に満腔(まんこう)の感謝を捧げる。
2018-09-11
中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ/『サヴァイヴ』近藤史恵
・『サクリファイス』近藤史恵
・『エデン』近藤史恵
・余生をサドルの上で過ごす~55歳の野望
・中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ
・ペダリングの悟り
・『キアズマ』近藤史恵
・『スティグマータ』近藤史恵
・『逃げ』佐藤喬
もちろんこの程度の坂で速度が変わることもなく、足が乱れることもない。だが、感触の違いは脚に伝わってきて、それがおもしろい。徒歩ならば気づかないことが、自転車に乗っていればわかる。
ロードバイクに乗り始めて、すでに10年以上経つ。今では、歩くよりも、ただ立っているよりも、自転車の上にいる方が楽だ。そう言えば多くの人は驚く。
身体が自転車によって変えられるのだ。自転車に、乗る人間の癖がつくのと同じことだ。歩くのに必要な筋肉は次第に衰え、ペダルを回す筋肉だけが発達してくる。
【『サヴァイヴ』近藤史恵〈こんどう・ふみえ〉(新潮社、2011年/新潮文庫、2014年)】
昨日は大山を目指したのだが雨に祟(たた)られて途中で引き返してきた。「裏切りの天気予報」というタイトルが浮かんだ。1時間ほどコインランドリーの軒下で雨宿りをしていたのだが、時折私は大山目掛けて大きく息を吐いた。ブラジルの蝶の羽ばたきがテキサスに竜巻を引き起こすなら、私の吐息が大山の雲を払うことも十分あり得ると考えたのだ。雨は強くなるばかりだった。多分山の反対側で誰かが息を吐いているのだろう。帰宅すると中華サイコンが成仏していた。
伊東の川奈に富士急が開発した別荘地がある。海越しに小さい三角形の山がきれいに見える。道往く人に訊ねたところ、「あれは大山ですよ」と呆れ顔で答えた。私は胸の内で呟いた。「大山はのぶ代と倍達〈ますたつ〉しか知らねーよ」と。後日、江戸時代にはお伊勢参りに次いで関東で人気の高い山だったと物の本で読んだ気がする。
今日も時間があったので再び大山を目指した。家を出てから道順を記したメモを忘れたことに気づいた。神奈川の県央地域は道路が入り組んでいる。マッカーサーが厚木飛行場(綾瀬市、大和市)から日本入りするためにこの界隈は爆撃を免れているという話がある。地図かメモがなければ辿り着くことは難しい。意外と起伏に飛んでいて山の姿も直ぐに見えなくなる。きっと山の神に嫌われているのだろう。
中高年初心者は距離よりも時間を重視せよ、と申し上げたい。っていうか私が現在心掛けていることだ。距離を目標にするとどうしても疲れる。しかも私は山の中を走ることが多いので遭難しかねない。いや、ホントの話ですぜ。チューブ交換で済む程度のパンクならどうってことはないが、タイヤが破損したり、衝突でホイールが変形したり、クルマにひき逃げされたりした暁には徒歩で数十kmの道のりを歩く羽目となる。私は夜のサイクリストなのだ。
ロードバイクを買う前から私の心はなぜか湖を目指していた。宮ヶ瀬湖、津久井湖、相模湖を制覇してわかったのだが、私が求めていたのは湖ではなくせせらぎの音だった。湖の近くを走っているとどこからともなく水の流れる音が聞こえてくる。生命を支えているのは水と空気だ。苦しみながらペダルを踏んでいると生きる実感が湧いてくる。
しかも湖付近には必ず道がある。地図を見ていて不思議に思ったのだが多分湖が山の中でも低い位置にあるためなのだろう。それに気づいた瞬間、私の興味は峠に向かった。つまり地図で波打っている道路に注目したのだ。まあ、あるわあるわ。いくらでもある。日本の国土の7割は山間部といわれるのだから当然だ。一生困らないほど峠道はある。
坂道をじっくりと登ることで脚力がつく。衰えつつある体に鞭を打ち、念仏を唱えるように「踏む、踏む」と呟くと、「不無、不無」という瞑想の境地に至る。更には「クランクを回せ、回せ」と念じていると「輪廻」(りんね)の文字が頭を支配するようになる。凡夫ゆえ転法輪(てんぽうりん)とならないところが悲しい。
ひと月半ほどで700km走った。ふくらはぎの筋肉は造形が変わり、心拍は20近く減った。
本書は短篇集で『サクリファイス』以前の物語も描かれている。最初に読んでも問題はない。
サヴァイヴ (新潮文庫)
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近藤 史恵
新潮社 (2014-05-28)
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2018-09-10
「戦うこと」と「逃げること」は同じ/『逃げる力』百田尚樹
・「戦うこと」と「逃げること」は同じ
逃げることが積極的な行為であることは、次のことからもいえます。「戦うとき」は脳内にアドレナリンが放出されることはご存知だと思います。アドレナリンは動物が敵から身を守るときに、副腎髄質(ふくじんずいしつ)から分泌されるホルモンで、運動器官への血液供給増大や、心筋収縮力などを引き起こします。
実はこのアドレナリンは「戦うとき」だけではなく、「逃げるとき」にも分泌されるのです。つまり生命にとって、「戦うこと」と「逃げること」は同じなのです。両方とも、命を守るための行動を起こすときに分泌されるものなのです。英語でアドレナリンのことは、「fight-or-flight」(闘争か逃走か)ホルモンと呼ばれるのはそのためです。
つまり、逃げたほうがいいのに逃げられないでいるということは、アドレナリンが分泌されにくい状態になっているともいえます。これは危険なことです。
【『逃げる力』百田尚樹〈ひゃくた・なおき〉(PHP新書、2018年)】
学校や職場でのいじめを苦に自殺する人が後を絶たない。ハラスメントとは「嫌がらせ」の意であるがカタカナ語にすることで暴力性が薄められているような気がする。「いじめ」、あるいは「心理的暴行」とすべきだろう。
まず、暴力に対する耐性を培う必要がある。弱い者いじめは絶対に許さない。やられたら必ずやり返す。これだけ教えれば小学生なら何とかなる。あとは友達が多ければ心配ないが、少ないとなると何か考える必要がある。ゆくゆく行き詰まることが見えれば、武道や格闘技を習わせるのも一つの手である。
親子の間で腹蔵なく話し合える関係性があれば、子供は悩みを打ち明けることができる。学校でのいじめ問題は30年ほど前から顕著になっているのだから、親としては備えておくのが当然である。子供にとっては学校が世界の殆どを占めている。そこから「逃げ出す」可能性を想像することもできない。だから、いつでも「逃げられる」ことを教えておくべきなのだ。
私の場合、自殺する可能性はまずないのだが他殺に及ぶ心配がある。幼い頃から異様に正義感が強く、困っている人を放って置くことができない。悪い人間を見れば遠慮会釈なく攻撃する。もしも知り合いの中にいじめを苦に自殺を考える者がいれば、私は迷うことなくいじめた相手に制裁を加える。それゆえ、悪い人間を見たら近づかないようにしている。つまり「逃げて」いるのだ。
「逃げる力」という言葉で思い出さずにいられないのは、やはり東日本大震災である。膨大な数の動画を繰り返し見ては、いざ我が身に降り掛かった場合を想定した。そして普段の生活にあっても「集団同調性バイアスと正常性バイアス」(『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている 自分と家族を守るための心の防災袋』山村武彦)を排除するよう心掛けている。
戦っても勝ち目がないとわかっていれば逃げた方が早いのだ。特に組織の中では喧嘩のやり方を知らないと後々大変な目に遭う。悪い上司がいたら、2~3発殴って、速やかに辞めるのが正しい。
・カルマの仕組み/『自動的に夢がかなっていく ブレイン・プログラミング』アラン・ピーズ、バーバラ・ピーズ
わかりやすいニュース解説を求める「池上彰」化/『ジャーナリズムの現場から』大鹿靖明
・わかりやすいニュース解説を求める「池上彰」化
・『創価学会秘史』高橋篤史
・『週刊東洋経済 2018年9/1号 宗教 カネと権力』
――そういう気概が報道機関全体で失われてきていませんか? 訴訟はもとより抗議や苦情に恐ろしくナーバスになってしまい、安全運転しかなくなっています。
高橋篤史●そういう業界全体の空気は感じます。とりわけ雑誌ジャーナリズムの衰退を感じますね。「FACTA」ぐらいですよ。がんばっているのは。
【『ジャーナリズムの現場から』大鹿靖明〈おおしか・やすあき〉(講談社現代新書、2014年)以下同】
勘違いしていた。沖縄の米軍基地反対運動で山城博治が沖縄防衛局職員を暴行した動画を撮影したのは「THE FACT」で幸福の科学が運営している。一方、「FACTA」は元日経新聞論説委員の阿部重夫が立ち上げた情報誌で企業批判や宗教批判に特徴がある。すっかり混同していた。高橋が持ち上げる「FACTA」だが、実は楽天の三木谷浩史が影のスポンサーで捏造記事によって株価を操作しているとの噂もある(地に堕ちた出版社「ファクタ」の裏の顔 : 真相の扉)。
高橋●いまのジャーナリズムを覆っているのは、わかりやすいニュース解説を求める「池上彰」化ですよ。
池上さん自身の功績は大いにあるとは思いますが、あまりにそればっかりだと読者のリテラシーが一向にあがってこない。それどころか今の読み手は、書き手に対して「もっとわかりやすく解説してくれ」とか「どうすればいいのか答えを教えてほしい」と求めてばかりいるようになってしまう。かつての読み手はもっと向上心、向学心をもって書物に触れていたと思います。
「池上彰」化だってさ(笑)。言い得て妙だ。テレビ番組で何も考えていない若い女性タレントや頭の悪そうな若手芸人を起用するのは、視聴者のレベルに合わせているためか。これをツイッター化と言い換えてもよい。140字以内で説明せよ、と。
池上彰は馬脚を露(あら)わし始めており、ツイッターでも批判する向きが増えつつある。メディアリテラシーを磨くためには格好の人物で、「何を言ったか」よりも「何を言っていないか」に注目する必要がある。池上彰は意図的に情報を隠蔽(いんぺい)し、ありきたりの見方で一般化し、ひっそりと誤った結論に導く。私は池上を「ソフト左翼」と呼んできたが、実態としては「ソフトな語り口の左翼」に傾いている。
ただし池上を軽んじるのは危険で、田原総一朗に辟易した視聴者を取り込んでいると思われるが、テレビ局において一定の権力を握りつつあるようだ。
・八幡和郎氏「池上彰の番組から取材があってさんざん時間を取らされたあと『池上の番組の方針で、番組では八幡さんの意見ではなく池上の意見として紹介しますがご了解いただけるでしょうか』といわれた」~ネット「そうか!そうだったのか!」 | アノニマスポスト ネット
高橋篤史の発言は一見するともっともなのだが、その言葉がジャーナリストにも跳ね返ってくることを自覚すべきだろう。取材情報を盛り込みすぎて結論の抽象度が低すぎる記事やノンフィクションが、読者の向上心を奪っているケースも少なくない。「わかりやすい解説」「安易な答え」に需要があるのならばそれを書けばよい。一定数の読者を獲得しながら自分の好きなように書いても遅くはあるまい。やろうと思えば有料メールマガジンの配信やオンデマンド出版は誰にでもできるのだから、書き手にとっては追い風が吹いていると考えてよい。
大鹿靖明は朝日新聞の記者である。それだけで信用ならない。従軍慰安婦捏造記事によって日本の国威を失墜させたり、中国共産党によるチベット侵略を擁護してきた新聞社(『チベット大虐殺と朝日新聞』岩田温〈いわた・あつし〉)の人間にジャーナリズムを語る資格があるのだろうか? 講談社ノンフィクション賞を受賞した程度で増長するのは早すぎる。本書に安田浩一が入っているのも人選に政治色があり過ぎる。
特定の政治信条や宗教思想に被(かぶ)れた人々は嘘に目をつぶることができる。理想や目的を目指す彼らの言動・言論はプロパガンダとならざるを得ない。大衆の操作・誘導を旨とする姿勢はやがてファシズムに向かうことを避けられない。自分たちを高みに置いた途端、見えなくなるものが増えてくる。「見える」ことには「見えない」ことを含んでいる。その自覚を忘れてしまえば、彼の言葉の結論は「私に従え」というメッセージとなってしまうだろう。
2018-09-09
読む愉しみ/『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
・『昭和の精神史』竹山道雄
・『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘
・『見て,感じて,考える』竹山道雄
・『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
・『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
・『ビルマの竪琴』竹山道雄
・『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
・『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
・『歴史的意識について』竹山道雄
・読む愉しみ
・『精神のあとをたずねて』竹山道雄
・『時流に反して』竹山道雄
・『みじかい命』竹山道雄
・必読書リスト その四
こんなことを、あなたはもう覚えてはいないでしょう。しかし、私はあの光景を、ときどき――夜眠りに落ちる前ならまだしも、混んだ電車の中に立っているときとか、新聞を読んでいる最中などに、ちらと思いだすのです。とはいっても、こうした思い出はあまりに断片的だし、人に話して感慨をつたえるよしもなく、ただ自分ひとりの記憶にしまっているのです。
これまでの生涯の中からのこんなきれいな思い出を、私はどれほどたくさんもっていることでしょう――。そしてそれを自分ひとりで惜しんでいることでしょう――。
これは誰でも同じことだろうと想像します。どんな波瀾のない単調な生活をした人でも、いやそういう人であればなおさら、こうした小さな体験を大きな意味を持つものとして記憶しているのでしょう。こういうものはとらえがたく、とらえても言うことができず、言うことができても語る相手もありません。何もある場面の刹那の印象ばかりではありません。私は子供のときに、ある人が何気なくいった言葉をきいて、それをそののち10年ほどもつねに思いかえしていたことがありました。言った人が知ったらさぞおどろくことと思います。私たちの内心には、こうしたいつどこから来たかも分らないものがたくさん潜んでいるのです。
私たちの心は、海に似ているのではありませんか。さまざまのものを中に蔵して、測りがたい深みをもった、さだかならぬ塊です。それは蒼く不断にゆれて、潮騒の音をたてています。夜に、昼に、あらあらしく嘆いたりやさしく歌ったりしています。しかし、その底に何がひそんでいるのかは自分にもよく分りません。その潮騒にじっと耳を傾けてききいると、その深みからつたわってくるのは、われらの胸の鼓動のひびきばかりです。(「知られざるひとへの手紙」)
【『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉編(藤原書店、2017年)】
少女は二つの白い卵でお手玉をしていた。家の外にはシチューにされたウサギの毛皮が吊るしてあった。多分竹山がドイツで仮寓(かぐう)していたお宅でのワンシーンであろう。「こんなこと」とはその切り取られた場面を指している。じわじわと読む愉(たの)しみが胸に広がる。感興がさざなみとなって押しては返す。奇を衒(てら)った修飾は一つもなく、文体を凝らした形跡もない。にもかかわらず何とも言えぬ優しさと温和に溢れている。同じ通奏低音で「思い出」「あしおと」「磯」と続く。文章の調子からすると女性誌『新女苑』(しんじょえん)に連載したものかもしれない。
易(やさ)しい文章が優(やさ)しいだけで終わらぬところが竹山の凄さである。最後の一段落で何と阿頼耶識(あらやしき/蔵識)に迫るのだ。波しぶきのように浮かぶ古い思い出から意識下の深層をまさぐる知性の切っ先にただただ驚嘆するばかりである。そして最後は「胸の鼓動のひびき」という現在性に立ち返ってくる。
竹山がイデオロギーを嫌ったのは、流動性(諸行無常)という存在にまつわる性質を固定化する政治性を見抜いていたためだと気づく。政治性は党派性に堕し、宗教性は宗派性に成り下がった現代において、与えられた理想と論理で成形された精神は一定の方向へ曲げられ、反対方向にある「きれいな思い出」を捨象してゆく。イデオロギーは感情をも操作し、情緒を損なう。
煩悩に覆われた凡夫の思考は分別智(ふんべつち)となって世界を分断する。戦時中に暴走した帝国陸軍も、敗戦後徹底して軍部批判をした新聞や知識人も分別智の人々であった。人の心は揺れ、時代は動く。そうした安易な動きに「待った」を掛けたのが竹山道雄であった。
主役としての近代 〔竹山道雄セレクション(全4巻) 第4巻〕
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竹山 道雄
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