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2013-10-05

ブライアン・グリーン、ジェフリー・ディーヴァー、長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」、他


 17冊挫折、4冊読了。

脳の探究 感情・記憶・思考・欲望のしくみ』スーザン・グリーンフィールド:新井康允監訳、中野恵津子訳(無名舎、2011年)/図はよいのだが文章がまるでダメ。「脳の本 紹介・書評」で知った1冊。

覚醒(上)』山本譲司(光文社、2012年)/初の小説作品か。何となく言いわけめいたものを感じたのでやめた。

賭ける仏教 出家の本懐を問う6つの対話』南直哉〈みなみ・じきさい〉(春秋社、2011年)/南は僧衣をまとった哲学者だ。彼が宗教者である必要はないだろう。

ヒトはなぜ神を信じるのか 信仰する本能』ジェシー・ベリング:鈴木光太郎〈すずき・こうたろう〉訳(化学同人、2012年)/冗長。あまりにも冗長すぎる。それだけで説明能力を疑ってしまう。これほどの期待外れも久々。

人生がときめく片づけの魔法』近藤麻理恵(サンマーク出版、2010年)/良書。読み終えていないのだが「必読書」に入れた。このお嬢さんは顔つきがよい。文体にもそれが表れている。

素人が書いた複式簿記』岡部洋一(オーム社、2004年)/時間がないため後回し。

シーシュポスの神話』カミュ:清水徹訳(新潮文庫、1969年)/西洋の哲学は「考え過ぎ」だ。ま、それだけ神の束縛が強いのだろう。最初とシーシュポスの件(くだり)だけ飛ばし読み。

動物農場 おとぎばなし』ジョージ・オーウェル:川端康雄訳(岩波文庫、2009年)/新訳。高畠文夫訳と比較しようと思ったのだが時間がなかった。悪くはないと思う。

チャンピオンたちの朝食』カート・ボネガット・ジュニア:浅倉久志訳(早川書房、1984年/ハヤカワ文庫、1989年)/文章が肌に合わず。ボネガットはまだ1冊も読んでない。

ヒューマン なぜヒトは人間になれたのか』NHKスペシャル取材班(角川書店、2012年)/出だしの文章がよくない。まるでスピード感がない。

人間革命をめざす池田大作』高瀬広居〈たかせ・ひろい〉(有紀書房、1965年)/資料。確認したい文言があったため。

中国英傑伝(上)』海音寺潮五郎(文藝春秋、1971年/文春文庫、1978年)/宮城谷昌光が触れていたので読んでみた。過去に海音寺作品の数冊を手に取ったが読み終えた本は1冊もない。

複式簿記のサイエンス 簿記とは何であり、何でありうるか 簿記学対話』石川純治(税務経理協会、2011年)/知識のない私には難しすぎた。

カネと暴力の系譜学』萱野稔人〈かやの・としひと〉(河出書房新社、2006年)/文章の構成が悪い。萱野にしては雑な仕事だ。

身ぶりと言葉』アンドレ・ルロワ=グーラン:荒木亨訳(新潮社、1973年/ちくま学芸文庫、2012年)/こんなに厚いとは思わなかった。後回し。

「多様な意見」はなぜ正しいのか 衆愚が集合知に変わるとき』スコット・ペイジ:水谷淳〈みずたに・じゅん〉訳(日経BP社、2009年)/著者は集合知と群衆の叡智を混同している。日経らしくタイトルもおかしい。多様な意見が正しいのであれば、世界はとっくに平和になっているはずだ。

宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体(下)』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年)/詳細は下記に。

 42、43冊目『死の教訓(上)』『死の教訓(下)』ジェフリー・ディーヴァー:越前敏弥〈えちぜん・としや〉訳(講談社文庫、2002年)/佳作だが読む人を選ぶ作品だ。まだ人気がなかった頃の作品である。それでも面白かった。捜査主任のビル・コードが主人公だが本当の主役は娘のセアラだ。驚くべきことに読者が共感できるのは学習障害を抱えたこの少女に限られている。これは学習障害を理解させるために敢えて行った設定であろう。事件後の大学側の対応と比較するとより一層浮き彫りになる。

 44冊目『居場所を探して 累犯障害者たち』長崎新聞社「累犯障害者問題取材班」(長崎新聞社、2012年)/良書。新聞記事のため物足りなく感じるのは仕方あるまい。累犯障害者については本書から入り、次の順番で読むのがよい。『獄窓記』→『続 獄窓記』→『累犯障害者』→『自閉症裁判 レッサーパンダ帽男の「罪と罰」

 45冊目『宇宙を織りなすもの 時間と空間の正体(上)』ブライアン・グリーン:青木薫訳(草思社、2009年)/ブライアン・グリーンにも外れがない。血沸き肉踊る天才本だ。これこそ私が求めていた一書である。今まで知り得た科学知識も本書によって一段と整理された。が、しかしである。下巻で挫けた。チンプンカンプンだった。私の知識ではちょっと追いつけない。ってなわけで、2~3年勉強してから再び取り組む予定だ。こちらも「必読書」入り。

2014-09-16

必読書リスト その一


     ・キリスト教を知るための書籍
     ・宗教とは何か?
     ・ブッダの教えを学ぶ
     ・悟りとは
     ・物語の本質
     ・権威を知るための書籍
     ・情報とアルゴリズム
     ・世界史の教科書
     ・日本の近代史を学ぶ
     ・虐待と精神障害&発達障害に関する書籍
     ・時間論
     ・身体革命
     ・ミステリ&SF
     ・クリシュナムルティ著作リスト
     ・必読書リスト その一
     ・必読書リスト その二
     ・必読書リスト その三
     ・必読書リスト その四
     ・必読書リスト その五

『私の身に起きたこと とあるウイグル人女性の証言』清水ともみ
『命がけの証言』清水ともみ
『書斎の鍵  父が遺した「人生の奇跡」』喜多川泰
『あなたを天才にするスマートノート』岡田斗司夫
『たった1分で人生が変わる片づけの習慣』小松易
『メッセージ 告白的青春論』丸山健二
『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子
『新・人は皆「自分だけは死なない」と思っている』山村武彦
『人が死なない防災』片田敏孝
『あの時、バスは止まっていた 高知「白バイ衝突死」の闇』山下洋平
『「疑惑」は晴れようとも 松本サリン事件の犯人とされた私』河野義行
『彩花へ 「生きる力」をありがとう』山下京子
『彩花へ、ふたたび あなたがいてくれるから』山下京子
『証拠調査士は見た! すぐ隣にいる悪辣非道な面々』平塚俊樹
『臓器の急所 生活習慣と戦う60の健康法則』吉田たかよし
『医学常識はウソだらけ 分子生物学が明かす「生命の法則」』三石巌
『シリコンバレー式自分を変える最強の食事』デイヴ・アスプリー
『医者が教える食事術 最強の教科書 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方68』牧田善二
『医者が教える食事術2 実践バイブル 20万人を診てわかった医学的に正しい食べ方70』牧田善二
『免疫力が10割 腸内環境と自律神経を整えれば病気知らず』小林弘幸、玉谷卓也監修
『調子いい!がずっとつづく カラダの使い方』仲野孝明
『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』山口絵理子
『将棋の子』大崎善生
『地下足袋の詩(うた) 歩く生活相談室18年』入佐明美
『通りすぎた奴』眉村卓
『13階段』高野和明
『隠蔽捜査』今野敏
『果断 隠蔽捜査2』今野敏
『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー
『鷲は舞い降りた』ジャック・ヒギンズ
『女王陛下のユリシーズ号』アリステア・マクリーン
『狂気のモザイク』ロバート・ラドラム
『生か、死か』マイケル・ロボサム
『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ
『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック
『日日平安』山本周五郎
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『運転者 未来を変える過去からの使者』喜多川泰
『鳥 デュ・モーリア傑作集』ダフネ・デュ・モーリア
『廃市・飛ぶ男』福永武彦
『中島敦 ちくま日本文学12』中島敦
『雷電本紀』飯嶋和一
『孟嘗君』宮城谷昌光
『楽毅』宮城谷昌光
『千日の瑠璃』丸山健二
『人生論ノート』三木清
『ナポレオン言行録』オクターブ・オブリ編
『読書について』ショウペンハウエル:斎藤忍随訳
『魂の錬金術 エリック・ホッファー全アフォリズム集』エリック・ホッファー
『13日間で「名文」を書けるようになる方法』高橋源一郎
『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪
『アンベードカルの生涯』ダナンジャイ・キール
『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
『台湾を愛した日本人 土木技師 八田與一の生涯』古川勝三
『知的好奇心』波多野誼余夫、稲垣佳世子
『自動車の社会的費用』宇沢弘文
『山びこ学校』無着成恭編

2018-04-05

懲役10年の満期前日に男はなぜ脱獄したのか?/『生か、死か』マイケル・ロボサム


『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
『初秋』ロバート・B・パーカー
『狂気のモザイク』ロバート・ラドラム
『鷲は舞い降りた』ジャック・ヒギンズ
『女王陛下のユリシーズ号』アリステア・マクリーン

 ・懲役10年の満期前日に男はなぜ脱獄したのか?

『誠実な嘘』マイケル・ロボサム
『ぼくと1ルピーの神様』ヴィカス・スワラップ

必読書リスト その一

「なぜあなたちは親しかったの?」
 興味深い問いであり、モスがいままで本気で考えたことがない問題だ。人はなぜだれかと親しくなるのか。共通の趣味。似た経歴。相性。自分でオーディの場合、どれもあてはまらない。服役中ということ以外に共通点はなかった。特別捜査官は返事を待っている。
「あいつは落ちなかった」
「どういうこと?」
「こういう場所で腐っていくやつもいる。歳を食って根性が曲がり、悪いのは世の中で、こうなったのは子供のころさんざんな目に遭ったからとか、環境に恵まれなかったからとか、そんなふうに自分を納得させる。神を罵(ののし)ったり追い求めたりして時間を過ごすやつもいる。絵を描いたり詩を作ったり古典文学を研究したりってやつもいる。ほかには、バーベルを持ちあげたり、ハンドボールをしたり、自分が人生を投げ出す前に愛してくれた女に手紙を書いたり。オーディはそんなことをひとつもしなかった」
「じゃあ何をしたの?」
「耐えつづけた」

【『生か、死か』マイケル・ロボサム:越前敏弥〈えちぜん・としや〉訳(ハヤカワ・ポケット・ミステリ、2016年/ハヤカワ文庫、2018年)以下同】

 よもや、これほどのミステリと遭遇するとは予想だにしなかった。やはり長生きはするものだ。10年間服役した男が出所予定日の前日に脱獄をする。その理由は最後まで判らない。

 主人公のオーディ・パーマーは現金輸送車強奪事件の共犯者とされた。700万ドルの行方は杳(よう)として知れなかった。服役囚はパーマーに群がり、脅し、痛めつけた。その上、刺客まで送り込まれた。

 モス・ジェレマイア・ウェブスターは黒人の中年でたった一人の友人だった。モスの話は続く。

「聖書を盾に2000年も屁理屈をこねてると、爆弾を落として人を殺しまくって、それを正しいと言い張るようになる。隣人を愛し、打たれたら別の頬を向けろと書いてあるのに」

 願わくは「2発の原爆」としてもらいたかったところだ。

「ここにいるたいがいの連中は自分が強いと思いこんでるが、そうじゃないことも毎日思い知らされてる。オーディは10年間耐え抜いた。週に一度は看守が房へ来て、赤毛の継子(ままこ)いじめみたいに殴ってあんたと同じようなことをあれこれ尋ねた。そのうえ、昼間はメキシコのマフィアだの、テキサスのシンジケートだの、アーリアン・ブラザーフッドだの、その他もろもろのちんけな与太者(よたもの)までが喧嘩を売ってきた。
 欲や権力と関係のない、特殊な思いをかかえたやつらもここにはいる。たぶん、オーディにはそういう連中がぶち壊したくなるものが具わっているんだろう――悠然(ゆうぜん)たる態度とか、心の平安とか。そういう屑(くず)どもは人を傷つけるだけでなく、むさぼりつくさないと気がすまない。相手の胸を切り開いて心臓を食らい、顔から血がしたたって歯が赤く染まるまでな。
 事情はどうあれ、オーディは入所初日から殺しの請け負いの対象で、1か月前にはそれがいっそう過激になった。刺され、首を絞められ、殴られ、ガラスで切りつけられ、火傷(やけど)を負わされた。それなのに、あいつは憎しみも後悔も弱気も見せなかった」

 オーディは刑務所にあって超然としていた。映画『ショーシャンクの空に』が監獄モノに与えた影響は大きい。周囲の環境に染まらず、流されることのない生き方がどこか出家の覚悟を思わせる。

 オーディにはある目的があった。彼は生き延びなければならなかった。たった一つの約束を守るために。

「溺れかけていたのを、ミゲルが助けてくれた」

 この一言を目にした時、涙が溢れ出た。山本周五郎宮城谷昌光にも通じる世界だ。

「ひとりの人間がこれほどの不運とこれほどの幸運を経験できるものなのね」

 FBI女性捜査官デジレー・ファーネスの言葉が本書の内容を見事に言い当てている。

 

2017-12-31

2017年に読んだ本ランキング


2015年に読んだ本ランキング
2016年に読んだ本ランキング

 ・2017年に読んだ本ランキング

2018年に読んだ本ランキング

 今年手をつけたのは400冊ほどで読了本は120冊前後だと思う。まずは再読本から紹介しよう。「必読書」たり得るかどうかの検証を兼ねている。

『脳はいかにして〈神〉を見るか 宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー・ニューバーグ、ユージーン・ダギリ、ヴィンス・ロース/再読。

『あなたの知らない脳 意識は傍観者である』デイヴィッド・イーグルマン/再読。

『狂気のモザイク』ロバート・ラドラム/6回目。個人的には『暗殺者』よりも好きな作品だ。

ものぐさ精神分析』『続 ものぐさ精神分析』岸田秀/3回目。

『孟嘗君』宮城谷昌光/再読。

『楽毅』宮城谷昌光/再読。やはり『孟嘗君』の続篇として読むのがいいので必読書入り。

『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー/再読。

 膝痛本は十数冊読んだが一押しがこれ。

ひざの激痛を一気に治す自力療法No.1』マキノ出版ムック『安心』特別編集

 具体的な対処法がコンパクトにまとめられていて、健康本にありがちな誤謬もかなり少ない。

七帝柔道記』増田俊也
北の海(上)』『北の海(下)』井上靖
VTJ前夜の中井祐樹』増田俊也

 七帝(高専)柔道シリーズ。『北の海』は飛ばし読み。井上靖が経験者だとは知らなんだ。ランクインというわけではないのだが若い人に読んで欲しい。

 次に番外。

『台湾高砂族の音楽』黒沢隆朝

 飯嶋和一と宮城谷昌光はどれもオススメできる。

出星前夜 』飯嶋和一
狗賓童子の島』飯嶋和一
管仲(上)』『管仲(下)』宮城谷昌光
湖底の城』宮城谷昌光
草原の風』宮城谷昌光

 では、ランキングを。郡司ペギオ幸夫はまだ途中までしか読んでいない。

 15位『いま沖縄で起きている大変なこと』惠隆之介

 14位『春宵十話』岡潔

 13位『カルトの子 心を盗まれた家族』米本和広

 12位『群れは意識をもつ 個の自由と集団の秩序』郡司ペギオ幸夫

 11位『『闇の奥』の奥 コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』藤永茂

 10位『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫

 9位『日本教の社会学』小室直樹、山本七平

 8位『「ものづくり」の科学史 世界を変えた《標準革命》』橋本毅彦

 7位『人類を変えた素晴らしき10の材料 その内なる宇宙を探険する』マーク・ミーオドヴニク

 6位『世界をつくった6つの革命の物語 新・人類進化史』スティーブン・ジョンソン

 5位『デジタル・ゴールド ビットコイン、その知られざる物語』ナサニエル・ポッパー

 4位『しらずしらず あなたの9割を支配する「無意識」を科学する』レナード・ムロディナウ

 3位『ビッグデータの正体 情報の産業革命が世界のすべてを変える』ビクター・マイヤー=ショーンベルガー、ケネス・クキエ

 2位『〈インターネット〉の次に来るもの 未来を決める12の法則』ケヴィン・ケリー

 1位『サピエンス全史 文明の構造と人類の幸福』ユヴァル・ノア・ハラリ

サピエンス全史(上)文明の構造と人類の幸福
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サピエンス全史(下)文明の構造と人類の幸福
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2013-12-26

『ライ・トゥ・ミー 嘘は真実を語る』のモデル、ポール・エクマン


 精神行動分析学者であるカル・ライトマンが、「微表情」と呼ばれる一瞬の表情や仕草から嘘を見破ることで、犯罪捜査をはじめとするトラブル解決の手助けをする姿を描く。主人公であるカル・ライトマンは、実在の精神行動分析学者であるポール・エクマンをモデルにしている。実際にエクマンが体験したことが、そのまま主人公の過去として描かれている部分がある。

Wikipedia - ライ・トゥ・ミー



 ポール・エクマン(Paul Ekman、1934年 - )は感情と表情に関する先駆的な研究を行ったアメリカ合衆国の心理学者。20世紀の傑出した心理学者100人に選ばれた。アメリカのテレビドラマ『Lie to Me(ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間)』の主人公カル・ライトマン博士のモデルとなった。

 マーガレット・ミードを含む一部の人類学者の信念に反して、エクマンは表情が文化依存的ではなくて人類に普遍的な特徴であり生得的基盤を持つことを明らかにした。エクマンの発見は現在科学者から広く受け入れられている。エクマンが普遍的であると結論したのは怒り、嫌悪、恐れ、喜び、悲しみ、驚きである。軽蔑に関しては普遍的であることを示す予備的な証拠があるが、まだ議論は決着していない。

 エクマンはあらゆる表情を分類するためにFACS(Facial Action Coding System、顔動作記述システム)を考案した。これは表情に関連する精神医学や犯罪捜査の分野で幅広く利用されている。エクマンは表情以外にも広く非言語コミュニケーションの研究を行った。同情、利他的行為や平和的な個人関係の科学的解明にも尽くした。さらに人々が嘘をつくこと、嘘を見破ることの社会的な側面の研究にも貢献した。ディミトリス・メタクサスとともに視覚的嘘発見器の開発を行っている。

Wikipedia - ポール・エクマン

顔は口ほどに嘘をつく子どもはなぜ嘘をつくのか

ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン1 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン2 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]ライ・トゥ・ミー 嘘の瞬間 シーズン3 (SEASONSコンパクト・ボックス) [DVD]



関連書:キネシクス

ウォッチメイカー〈上〉 (文春文庫)ウォッチメイカー〈下〉 (文春文庫)スリーピング・ドール〈上〉 (文春文庫)スリーピング・ドール〈下〉 (文春文庫)

ロードサイド・クロス 上 (文春文庫)ロードサイド・クロス 下 (文春文庫)バーニング・ワイヤー

カルト教団のリーダーvsキネシクス/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー

2012-01-03

「なぜ入力するのか?」「そこに活字の山があるからだ」


「なぜ、そこまで入力するのですか?」という質問が寄せられた。

私はブック・キャッチャーである/『スリーピング・ドール』ジェフリー・ディーヴァー

「そこに活字の山があるからだ」と返事をした。私はかねがねジョージ・マロリー卿に強い憧れを抱いている。

『そして謎は残った 伝説の登山家マロリー発見記』ヨッヘン・ヘムレブ、エリック・R・サイモンスン、ラリー・A・ジョンソン

 高峰へのアタックはルート選びで成否が決する。未踏の領域には何があるのか? そこには誰も経験していない「山との対話」があるのだ。対話とはコミュニケーションである。天に近い領域に縁起的世界が広がる。私は山であり、山は私である。

 高尾山くらいしか登れない私でも、そんなことは容易に想像がつく。多くの人々によって踏み固められたコースに感動はないかといえばそうでもない。初めて往く道には新鮮な出会いがある。通勤や通学コースがつまらないのは「先がわかっている」ためだ。

 話を元に戻そう。入力は相手の思索を辿る行為である。その意味で「思想のトレース」といってよい。実際にやってみるとわかるが、読んだ時は感動したものの、入力するとキータッチが重くなることがある。これは文体が悪いためだ。文体の生命はリズムである。つまり思想が身体性に至っていないためにアンバランスが生じるのだ。

 法華経の法師品第十で五種法師が説かれ、法師功徳品第十九では「受持、読、誦、解説、書写」という五種の修行の功徳が宣言される。

 書写の目的は情報のコピーではなく、思想のトレースにあったというのが私の見立てである。日本でも明治初期まではこれが普通であった。勝海舟や福澤諭吉が学問と取り組む姿勢にひ弱なところは全くない。むしろ格闘技に近い。

日清戦争に反対した勝海舟/『氷川清話』勝海舟:江藤淳、松浦玲編
枕がないことに気づかぬほどの猛勉強/『福翁自伝』福澤諭吉

 彼らの時代は蘭書があると聞けば全国を渡り歩き、和紙を用意し、墨を磨(す)り、筆を振るって書き写した。その強靭な身体性が外国の思想に肉薄したことは間違いないだろう。

 だから本当であれば、やはり「書く」という行為が重要なのだ。また「声に出して読む」ことも大切であろう。テキストを演劇化すれば、もっと凄い領域に辿りつくはずだ。

 これはスポーツの世界においても同様で、徹底して基本の繰り返しが行われる。身体で「なぞる」のだ。例えば野球の素振りは100回を超えると無駄な力が抜けるといわれる。そして少しずつ理想のフォーム(型)が固まってゆくのだ。

「型にはまるな」という考えはここでは通用しない。型を身につけないと、型を超えることはできないからだ。名選手とはいずれも基本型から独自世界を生み出した人々の異名である。型を無視することは不自由につながる。

 悟りや知性は身体性を伴う。コンピュータが人間にかなわないのは身体性を欠いているためだ。我々は脳内ネットワークが言葉や思考で結ばれていると錯覚しているが、実際の反応を司っているのは五感の刺激であると思われる。つまり身体性を伴う刺激が脳を左右するのだ。

 私の直観が告げる。ここに呼吸が絡んでくる、と。呼吸法ではない。様々な呼吸の変化を見つめ、自覚するということだ。呼吸が生命のリズムを奏でる。

歩く瞑想/『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール

 生の本質は呼吸にある。自信のないまま断言してしまおう。今年も冴えてるぞ(笑)。

私のダメな読書法

2017-10-01

ヴァレリー艦長の威厳/『女王陛下のユリシーズ号』アリステア・マクリーン


『ボーン・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
『レイチェル・ウォレスを捜せ』ロバート・B・パーカー
『鷲は舞い降りた』ジャック・ヒギンズ

 ・ヴァレリー艦長の威厳

必読書リスト その一

 また長い咳き込みがあり、長い間があり、ふたたび口をひらいたとき、声の調子はまったく変わっていた。それはあまりにしずかな声だった。
「私は諸君になにをたのんでいるか、よくわかっている。諸君のだれもが、いかに疲れ、いかにみじめな、苦しい思いをしているか、私にはわかる。私は知っている――だれよりも知っている――諸君がどんな目に会(ママ)ってきたか、いま諸君にとって、なにがいかに必要か、諸君が休養を得るにふさわしいか。休養はあたえられる。18日ポーツマスに入港、さらにアレキサンドリアで艦修復の予定だが、その間、乗組員全員に10日間の休暇が許される」自分にはなんの意味も持たないかのような、無造作な言葉だった。「だが、その前に――残酷な、人道を無視したことにきこえるだろうが――いや、きこえないはずはない――いまいちど諸君に、それも諸君がかつて味わったことのないほどのものに耐えてくれと、たのまねばならない。だが、私にはいかんともしがたい――だれにもしがたいのだ」ひとことごとに、ながい沈黙がつづいた。艦長の声はひくく、そして遠く、言葉をききわけるのがむずかしかった。
「だれにも、諸君にそれをやってくれという権利はない。だれよりも私にはない……この私には。だが、諸君がかならずやってくれることを、私は知っている。私は信じている。諸君が私を見すてないことを、諸君がユリシーズを送りとどけてくれることを。幸運を祈る。幸運と神のご加護を。そして、いい夜(グッド・ナイト)を」

 拡声器の音は消えた。だが、静寂はつづいた。だれもしゃべらず、だれもうごかない。目さえうごかない。拡声器をみつめていた者は、なおも呆然とみつめている。両手に目をおとしている者、疲れた目にひりひりとしみる煙も忘れて、禁じられたたばこの赤い火をじっと見ている者。それはまるで、だれもが自分ひとりになって、自分の心をのぞき、自分ひとりの考えをすすめようとしているみたいだった。ほかの者と目が会(ママ)えば、もう自分ひとりにはなれないと思っているかのようだった。それは異様な、一種幻妙な静寂、人間がおよそまれにしか味わうことのないあの無言の悟入であった。ヴェールがあがって、ふたたびおりる。人はなにかをかいま見たのか思いだすことはできないが、なにかを見たことを、二度とおなじものはあらわれないことを知っている。それはめったに、ほんと(ママ)にめったにあるものではない。それは絶妙なたぐいない日没の一瞬、偉大なシンフォニーの一断片、大闘牛士の剣があやまたず突き刺されたとき、マドリードとバルセロナの巨大なリングをつつむ恐ろしい静寂。スペイン人は、それをたくみによぶ――〈真実の瞬間〉と。

【『女王陛下のユリシーズ号』アリステア・マクリーン:村上博基〈むらかみ・ひろき〉訳(ハヤカワ・ノヴェルズ、1967年)/ハヤカワ文庫、1972年/原書は1955年】

「ジャック・ヒギンズを知らない? 死んで欲しいと思う」と内藤陳〈ないとう・ちん〉が見出しに書いたのは1983年であった(『読まずに死ねるか!』)。私がヒギンズを読んだのは丁度同じ頃で、それ以降ミステリや冒険小説にハマった。『鷲は舞い降りた』(ジャック・ヒギンズ:菊池光訳、早川書房、1976年/完全版、1992年)、『初秋』(ロバート・B・パーカー:菊池光訳、早川書房、1982年)、そして本書の3冊は金字塔といってよい。


 再読は一度挫けている。文章が硬質なため一定の覚悟を持たなければ読むのが困難だ。上記テキストは100ページの手前だが、ここに辿り着けば後は一気読みである。

 ヴァレリー艦長の威厳と影の濃い群像がユリシーズ号そのものであった。戦争の悲惨・矛盾を記しながらも決して子供じみた平和論に堕していない。

 フィクションということもあろうが、ここには旧日本海軍のようなビンタやリンチがない。私は日本文化をこよなく愛する者だが、日本に特有のいじめや村八分といった気風を嫌悪する。

 男の曲がった背中を正す物語として本書は永く読まれることとなるだろう。

2021-04-28

鋼の庖丁を選べ/『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』キャスリーン・フリン


 ・鋼の庖丁を選べ

『ゴースト・スナイパー』ジェフリー・ディーヴァー

【「包丁を買うときに考えるべきふたつのキーポイント。それは、“鋼”(はがね)であること、そして“フィーリング”です。あなたに必要なのは、よい状態を保つことができる鋼の包丁なんです」】すべての鋼が同じ工程で作られているわけではない。より硬い鋼のほうが研ぎやすく、それによってより鋭い包丁になってくれる。でもとんでもなく硬い鋼は砕けやすいし、メンテナンスがややこしい。
 硬さを言いだすと複雑な指針があるが、【小売りされている包丁のほとんどについて注目しなければならないのは、実はカーボンの含有量だ。】「カーボンは鋼をより強くします。“高炭素鋼”(こうたんそこう)なんて言葉を探してみたら、すぐに見つかるわ」現状では、スイスのアーミーナイフで有名なヴィクトリノックスが高炭素鋼の包丁を製造しており、万能包丁はだいたい30ドルぐらいから手に入る。

【『ダメ女たちの人生を変えた奇跡の料理教室』キャスリーン・フリン:村井理子〈むらい・りこ〉訳(きこ書房、2017年)以下同】

「包丁」は“同音の漢字による書きかえ”で元々は「庖丁」だ。新字体は致し方ないとしても書き換えは許し難い。漢字を平仮名扱いするような真似だろう。

 私が庖丁を意識したのはこのテキストによる(読んだのは2年前)。「硬い鋼」の代表は日本刀の材料にもなっている安来鋼(やすきはがね/登録商標:YSSヤスキハガネ)の青紙スーパーや青紙1号が広く知られている。硬度の高さは耐久性につながっており切れ味も長く続く。ただし靭性(じんせい)がないため欠けたり折れたりしやすい。最大の問題は研ぎにくいことだ(切れ味と硬度)。そして錆(さ)びる。硬度最強はセラミック庖丁である。硬すぎて砥石で研ぐことができない(高硬度の包丁は、家庭では扱いづらい)。

 炭素鋼複合材の庖丁は少し前に紹介した。

家庭用のおすすめ庖丁

「包丁が手に馴染むかどうかは“フィーリング”がすべて。包丁を多く取りそろえている調理器具のショップとか、厨房器具を売る店に行ってみて。違いや重さ、ハンドルのグリップなんかを確かめてみてほしい。【使い勝手のよい包丁というのは、人それぞれなんです】」

 非力な女性であればともかく、26cmの鉄フライパンを振る私にとって目方は問題とならない。

「30ドルから50ドルぐらいで、ちゃんとした包丁は買える。安い包丁セットを買うよりもお得なんだから」と私は言った。「【正直に言わせてもらうと、もしキッチンの中のものに投資するぐらいだったら、そのお金でよい包丁を買うほうがいい。ちゃんと使えば20年から30年はもってくれるから】」

 1万円の庖丁を20年使用すると考えれば年間500円のコストに過ぎない。

「もうひとつ覚えて欲しいことがあります。【包丁は犬と同じです。定期的なグルーミングが必要です。】1年に一度はきちんと研いであげましょう。調理用品や刃物店にはこの様なサービスがありますし、メンテナンスに持ち込める場所を知っています。包丁1本につき数ドルはかかりますけれども、その価値は絶対にあります」と私は言った。

 庖丁と犬は違う。こういう表現に白人特有のがさつさが現れる。本来であれば自分で研ぐべきだが、そんな気になれない人には貝印のダイヤモンド&セラミックシャープナーをお勧めしよう。刃の減りは早くなるが切れ味の悪いストレスは回避することができる。尚、刃物専門店で研いでもらっても1000円程度である。私に頼めば500円でやってあげるよ(笑)。

2020-03-23

飛田野裕子


 シャノンがうなずいた。左の前腕には、ペンテルのマジックで自分が書いた、X-メンのまた別のメンバー、ガンビットの刺青が入っている。

【『静寂の叫び』ジェフリー・ディーヴァー:飛田野裕子〈ひだの・ゆうこ〉訳(早川書房、1997年/ハヤカワ・ミステリ文庫、2000年)】

ぺんてる」は企業名で、「マジック」は商品名である。ぺんてると来れば普通はサインペン(水性)だ。マジックインキは油性なので滅茶苦茶な文章となっている。因みに私が読んでいるのはハードカバーだ。「ぺんてるのサインペン」あるいは「ぺんてるのフェルトペン」と書くのが正しい。

2009-01-10

長寿は“価値”から“リスク”へと変貌を遂げた/『恍惚の人』有吉佐和子


 ・長寿は“価値”から“リスク”へと変貌を遂げた

『認知症の人の心の中はどうなっているのか?』佐藤眞一
『アルツハイマー病は治る 早期から始める認知症治療』ミヒャエル・ネールス

 初版は1972年6月新潮社刊。昭和47年である。老人介護に先鞭をつけた記念碑的作品。高度経済成長の真っ只中で書かれている。

 日本は敗戦後、朝鮮特需(1950-1952、55)によって経済的な復興の第一段階を遂げた。で、日米安保が1960年に締結される。ま、先に餌をもらった格好だわな。ベトナム戦争が1959年から始まっているので、アメリカとしては是が非でも日本を反共の砦にする必要があった。そして日本経済はバラ色に輝いた。これが高度経済成長だ。1973年からバブルが弾ける1991年までは「安定成長期」と呼ばれている。ってことはだ、東京オリンピック(1964)や大阪万博(1970)は、アメリカからのボーナスだった可能性が高い。

 日本人の大半が豊かさを満喫し、丸善石油が「オー・モーレツ!」というテレビCMを流し、三波晴夫が「こんにちは」と歌い、水前寺清子は「三百六十五歩のマーチ」でひたすら前に進むことが幸せだと宣言した。フム、行進曲だよ。遅れたら大変だ。

 そんなイケイケドンドンの風潮の中で、有吉佐和子はやがて訪れる高齢化問題を見据えた。

 主人公の昭子の言葉遣いや、杉並区に住んでいる設定を考えると、当時の山の手中流階級一家といったところだろう。以下に紹介するのは、昭子と老人福祉指導主事とのやり取り――

「それに分って頂きたいんです。私は仕事をもっていますし、夜中に何度も起されるのは翌日の仕事に差しつかえますし、世間は女の仕事に対して理解が有りませんけど、そんなものじゃないってことは貴女(あなた)なら分って頂けますね」
「それは分りますけど、お年寄りの身になって考えれば、家庭の中で若いひとと暮す晩年が一番幸福ですからね。お仕事をお持ちだということは私も分りますが、老人を抱えたら誰かが犠牲になることは、どうも仕方がないですね。私たちだって、やがては老人になるのですから」

【『恍惚の人』有吉佐和子(新潮社、1972年/新潮文庫、1982年)】

「老人を抱えたら誰かが犠牲になる」――これが介護の本質だ。これこそが答えなのだ。介護保険が導入された2000年4月以降も変わらぬ実態だ。

 北イラクのシャニダール洞窟で発掘されたネアンデルタール人(※約20万〜3万年前)の化石は、右腕が萎縮する病気でありながらも比較的高齢(35〜40歳)だった。このことから、仲間によって助けられている可能性が指摘されている(『人類進化の700万年 書き換えられる「ヒトの起源」』三井誠)。つまり、介護だ。「人間とは“ケアする動物”である」という見方もある(『死生観を問いなおす』広井良典)。

 そうでありながらもコミュニティが崩壊し、人間が分断される社会が出現してしまった。これこそ、政治が持つ致命的な欠陥のなせる業(わざ)であろう。歪(いびつ)な社会は、歪な政治を裏に返した姿だ。

 今年の4月から介護報酬が引き上げられる。果たして全体で3%のアップがどの程度の効果を生むことやら。「焼け石に雀の涙」となりそうな気がする。多分、有吉佐和子が書いた現実は変わらない。介護は女性の手に押しやられ、ストレスまみれになった挙げ句、家庭は崩壊し、社会のあらゆる部分にダメージを与えることとなる。高齢者がお荷物扱いされるとすれば、我々はお荷物になる人生を歩んでいることになる。



電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー

2014-05-05

気は電気?/『気功革命 癒す力を呼び覚ます』盛鶴延


 ・気は電気?

西山創が教えるスワイショウ

 気とはつまり命のことです。だからそれはさまざまな表われ方をします。寿命の長い人、短い人、気の強い人、弱い人、病気になる人、ならない人、いい人生を送る人、そうでない人、人の生き方はまったく個人によってさまざまです。そのさまざまのことの中に、すべて気が関係しているのだとしたらどうでしょうか。運のいい人、悪い人、そういうことの中にも気は関係しています。

【『気功革命 癒す力を呼び覚ます』盛鶴延〈セイ・カクエン〉(太田出版社、1996年/コスモスライブラリー、2004年)】

「気功の源流は、陰陽五行思想、古代医術やシャーマニズム、中国武術、導引や按摩など民間の養生法、仏教道教などの宗教の修行法など多岐にわたる」(Wikipdia)。いくらなんでも仏教はないと思う。そもそも瞑想=仏教ではない。ヨーガが仏教と結びつき瑜伽行唯識派(ゆがぎょうゆいしきは)を生んだ。瑜伽(ゆが)はヨーガの音訳である。その流れが気功へ混入した可能性はある。

 思想的にはやはり道教と親和性が高いと思われる。太極図が巧みに気を描いている。


 スポーツの試合などで気合いを入れる場面がよくある。私は昔から日常生活でも気魄を込めることが多い。気とは生命の基本的なエネルギー――あるいは無意識――の方向性(上下)を示したものと考えてよいだろう。

 自動車の運転をしていて急ブレーキをかけた時、実は「見える」前にブレーキペダルを踏んでいることが認知心理学の実験で判明している。「虫の知らせ」も気の働きであろう。英語にすれば「sixth sense」(第六感)だ。

 ヒトは言葉をつくり、言葉に頼り、そして言葉に支配されてしまった。言葉とは意識そのものである。言葉はまたコミュニケーションの道具でありながら、コミュニケーションを阻害する武器にもなっている。我々がスポーツ観戦に昂奮を覚えるのは、言葉以前のコミュニケーションが喚起されるためではないだろうか。好調な選手は何も考えない。一旦スランプに陥ると言葉の罠に絡め取られる。原因・理由・打開策はすべて言語化されたものだ。

 遺伝情報の目的が種の保存にあるならば動物はもとより昆虫や植物にもコミュニケーションの方法があるに違いない。シェルドレイクの仮説は気に通じる。ま、論より証拠だ。犬の不思議な能力をご覧あれ。

気配の正体

 気配の正体が電磁波であるとすれば、「気は電気」ということになる(笑)。

 昔からの教えに「煉精化気(れんせいかき)、煉気化神(れんきかしん)、煉神還虚(れんしんかんきょ)」という言葉があります。精を練って気に変え、気を練って神に変え、神を練って虚に帰るという教えです。虚というのは虚しいという意味ではなく、自分よりもっと大きな存在の知恵という意味です。

 私は48歳の時、生まれて初めて肩凝りとなった。スーツの上着に左腕を通そうとしたところ激痛が走った。ま、それから1週間で治したのだが、以来肩凝り防止委員会の一人として日夜研究を行っている。本書で紹介されていた「セイシュ」は今でも時々実践している。

盛鶴延ホームページ

 テレビや動画を見ながら行うとよい。コツは肩甲骨を意識することだ。肩甲骨は翼の名残りである。そう思うと何となく羽ばたくような気分になってくるから不思議だ。

 気功の入門書としては本書が一冊あれば十分だ。

気功革命―癒す力を呼び覚ます

気功革命・治癒力編―気功・按摩・薬膳・陰陽バランスを使って病気を治す・パワーを溜める気功革命 秘伝・伝授編〈巻の1〉気を知る (正しく気功革命に入門するためのDVDブックシリーズ)気功革命 秘伝・伝授編〈巻の2〉功に成る (正しく気功革命に入門するためのDVDブックシリーズ 2)あなたの帰りがわかる犬―人間とペットを結ぶ不思議な力

電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー

2012-04-13

宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある/『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹


『青い空』海老沢泰久

 ・キリスト教の「愛(アガペー)」と仏教の「空(くう)」
 ・「異民族は皆殺しにせよ」と神は命じた
 ・宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある

『イエス』ルドルフ・カール・ブルトマン
『世界史の新常識』文藝春秋編
『日本人のためのイスラム原論』小室直樹
目指せ“明るい教祖ライフ”!/『完全教祖マニュアル』架神恭介、辰巳一世

キリスト教を知るための書籍
宗教とは何か?
必読書リスト その五

宗教」という言葉は、明治時代になって「religion」の訳語として作られた新しい言葉で、もともとのレリジョンの意味は、「繰り返し読む」ということ。
 欧米人のほとんどはキリスト教こそが本当の宗教だと想っているから、宗教といえばキリスト教、そして文字で表された最高教典、すなわち啓典(正典ともいう)のある啓典宗教と考える。

【『日本人のための宗教原論 あなたを宗教はどう助けてくれるのか』小室直樹(徳間書店、2000年)以下同】

 キケロはレリゲーレ[relegere](「とり集める」ないしは「再読する」を意味する)に由来すると考えていた。

宗教の語源/『精神の自由ということ 神なき時代の哲学』アンドレ・コント=スポンヴィル

 教団は文献を取り集め、信者に再読を促す。再読は「考える力」を奪う。そして教団は迷える人々を取り集め、金銭を取り集めるのだ。

 マックス・ヴェーバーはかくいった。宗教とは何か、それは「エトス(Ethos)」のことであると。エトスというのは簡単に訳すと「行動様式」。つまり、行動のパターンである。人間の行動を意識的及び無意識的に突き動かしているもの、それを行動様式と呼び、ドイツ語でエトスという。英語では、エシック(ethic)となる。
 ここで注意を一つ。英語の場合、どこに注意するかというと、語尾にsがないこと。sがあったらエシックス(ethics)となり「倫理」という意味になる。
 倫理というのは、ああしろこうしろという命令もしくは禁止を指すが、その上位(一般)概念であるエシックはもっと意味が広い。禁止や命令も含むが、さらに正しいだとか正しくないだとかいうことも含む。そればかりか、さらに意味は広く、思わずやってしまうことまでも含むのである。

エトス 通信し合えないぼくらの時代
最狭義と最広義の宗教/日本教的宗教観

 簡単にいってしまえば、エシックス(倫理)は思考に訴え、エトスは情動を支配するのだ。倫理は社会の機能で、エトスは個人を規定するものと考えてもよさそうだ。「内なる良心の声」がエトスの正体だ。我々はこれを疑うことを知らない。

 なぜヴェーバーの定義がいいのかというと、宗教だけでなくイデオロギーもまた宗教の一種であると解釈できるところにある。どういうことなのかというと、マルキシズムも宗教である。資本主義も宗教である。そして、武士道などというのも一種の宗教だといえる。

 つまり宗教とは「行動様式原理」を意味する。悪くいえば洗脳だ。

 これから本格的に宗教の議論に入る前にコメントを一つ挙げておく。それは、宗教には啓典宗教とそれ以外の宗教がある、ということだ。
 これは、イスラム教徒による宗教分類であるが、比較宗教学のために便利な分類でもあるので、この本においても採用したい。
「啓典宗教(revealed religion)」とは啓典(正典=canon, Kanon, cannon)を持つ宗教である。ユダヤ教キリスト教イスラム教は啓典宗教である。仏教儒教ヒンドゥー教道教、法教(中国における法家〈ほうか〉の思想)などは啓典宗教ではない。

 啓典という言葉は日本人にあまり馴染みがない。それゆえ「教典(経典)宗教」と言い換えてもよかろう。神の言葉を絶対視することで、信徒は「言葉の奴隷」とならざるを得ない。「言葉に従わせる」という操作性に宗教の本質があるとすれば、ここに絶対的権力が立ち現れる。

 啓典宗教は、存在論、すなわちオントロジー(ontology)に貫かれている。啓典宗教であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教においては、神の存在が最大の問題なのである。

 西洋哲学は存在を巡る議論である。「天にまします我らが父」を目指して形而上学へ傾くことは必然であった。そう考えると西洋と東洋では「生きる」という意味合いすら異なっている可能性が高い。我々日本人は存在に無頓着だ。生きるの語源は「息をする」こと。だから死ぬことを「息を引き取った」と表現する。また人生は川に喩(たと)えられるが、存在性よりも「流れ」と考える人が多い。六道輪廻(ろくどうりんね)を意味する生死流転(しょうじるてん)という言葉も、輪ではなく川をイメージする。

 このままでは言葉が通じない。その深き溝を翻訳する作業が必要だ。日本の外交音痴も「言葉の問題」が本質的な原因と考えられる。

「啓典宗教」というキーワードが閃(ひらめ)きを与えてくれる。大乗仏教は仏教の啓典宗教化を目指したのだろう。つまりコミュニティの人数が多くなれば、「言葉の支配」を避けられないのが人類の宿命なのだ。

 啓典宗教が誤っていることは簡単に証明できる。言葉は絶対のものではない。それは所詮、「解釈される」性質のものだ。ゆえに同じ言葉であったとしても受け止め方は千差万別だ。こうして教義論争が始まる。「religion」の意味が「結びつける」ではないことが明らかだ。



エートスの語源/『ソクラテスはネットの「無料」に抗議する』ルディー和子
自由を達成するためには、どんな組織にも、どんな宗教にも加入する必要はない/『自由と反逆 クリシュナムルティ・トーク集』J・クリシュナムルティ
教条主義こそロジックの本質/『イエス』R・ブルトマン
歴史的真実・宗教的真実に対する違和感/『仏教は本当に意味があるのか』竹村牧男
宗教と言語/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
宗教の社会的側面/『宗教を生みだす本能 進化論からみたヒトと信仰』ニコラス・ウェイド
アブラハムの宗教入門/『まんが パレスチナ問題』山井教雄
電気を知る/『バーニング・ワイヤー』ジェフリー・ディーヴァー
信じることと騙されること/『日本人はなぜキツネにだまされなくなったのか』内山節

2011-10-01

歴史の本質と国民国家/『歴史とはなにか』岡田英弘


『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘
『歴史とは何か』E・H・カー

 ・歴史の本質と国民国家

『世界システム論講義 ヨーロッパと近代世界』川北稔

世界史の教科書
必読書リスト その四

 必ずE・H・カー著『歴史とは何か』を事前に読んでおきたい。そうでないと本書の迫力は理解できない。

 結局、学問とは原理を指し示し、そこへ導く営みであることがよくわかった。つまり学問の最終形態は数学と宗教に辿り着く。ザ・原理。

 岡田英弘の主張には鉈(なた)のような力が働いている。まさしく一刀両断という言葉が相応(ふさわ)しい。

 なにが歴史かということが、なぜ、なかなか簡単に決まらないか。その理由を考えてみる。理由はいくつもある。いちばん根本的な理由は、歴史が、空間と同時に、時間にもかかわるのだという、その性質だ。
 空間は、われわれが体を使って経験できるものだ。両手両足を伸ばしてカバーできる範囲の空間は知れたものだけれども、2本の足を使って歩いて移動すれば、もっと遠くまでカバーできる。行ってみて確かめることができる。
 しかし、時間はそうはいかない。むかしの時間にちょっと行って、見て、またもどってくるということはできない。空間と時間はここが違う。この違いが、歴史というものの性質を決める、根本的な要素だ。

【『歴史とはなにか』岡田英弘(文春新書、2001年)以下同】

 時間の不可逆性といっていいだろう。時間を計ることはできても、同じ時間を計り直すことはできない。

 個人の経験だけに頼って、その内側で歴史を語ろうとしても、それは歴史にはならない。歴史には、どうやら「個人の体験できる範囲を超えたものを語る」という性質があるようだ。
 そこで、私の考えかたに従って歴史を定義してみると、

「歴史とは、人間の住む世界を、時間と空間の両方の軸に沿って、それも一個人が直接体験できる範囲を超えた尺度で、把握し、解釈し、理解し、説明し、叙述する営みのことである」(岡田英弘『世界史の誕生』ちくま文庫、32頁)

 ということになる。ここでは、「一個人が直接体験できる範囲を超え」るということがだいじだ。そうでなければ、歴史をほかの人と語り合う意味がなくなる。つまり、歴史の本質は認識で、それも個人の範囲を超えた認識であるということだ。
 つぎにだいじなことは、歴史は人間の住む世界にかかわるものだ、ということだ。人間のいないところには、歴史はありえない。「人類の発生以前の地球の歴史」とか、「銀河系ができるまでの宇宙の歴史」とかいうのは、地球や宇宙を人間になぞらえて、人間ならば歴史に当たるだろうというものを、比喩として「歴史」と呼んでいるだけで、こういうものは、本来は歴史ではない。

 一発目の右フックだ。歴史はコミュニティ内部で成立する。

 少々敷衍(ふえん)しておくと、時間とはそもそも概念である。それゆえ永遠は存在しない。なぜなら計測する人がいないためだ。

月並会第1回 「時間」その一

 ここで念を押すと、直進する時間の観念と、時間を管理する技術と、文字で記録をつくる技術と、ものごとの因果関係の思想の四つがそろうことが、歴史が成立するための前提条件である。言いかえれば、こういう条件のないところには、本書で問題にしている、比喩として使うのではない、厳密な意味の「歴史」は成立しえないということになる。

 権力の本質に関わる定義ともなっていて興味深い。そして権力者は歴史を検閲し、修正し、改竄(かいざん)するのだ。

 もう一つの歴史の重要な機能とは、「歴史は武器である」という、その性質のことである。文明と文明の衝突の戦場では、歴史は、自分の立場を正当化する武器として威力を発揮する。

 物語としての正当性は具体的には大義名分として機能する。文字をもたぬ文明が滅んでしまうのも、ここに本質的な原因があるのだろう(アフリカ人、インディアンなど)。

 国民国家という観念が19世紀に誕生してから、国家には歴史が必要になってきた。それで、いまではあらゆる国で国史を作りはじめているが、18世紀までの世界では、自前の歴史という文化を持っている文明は、たった二つしかなかった。一つは中国文明で、もう一つは地中海文明だ。

世界史は中国世界と地中海世界から誕生した/『世界史の誕生 モンゴルの発展と伝統』岡田英弘

 岡田史観によれば、歴史はヘロドトス(紀元前485年頃~前420年頃)と司馬遷(紀元前145年~?)から始まる。この件(くだり)も恐るべき指摘で、国家はもちろんシステムとして作用するわけだが、国家を成り立たせているのは歴史なのだ。

 中国文明と地中海文明とでは、まず歴史を語る物語の筋が違う。人間の頭には、筋のない物語は入らない。物語がなければ叙述できない。名詞や数字を雑然と列挙したのでは歴史にならない。

 歴史とは「書かれたもの」である。否、「書かれたもの」だけが歴史なのだ。そして今、世界史は西洋のコンテクストで描かれている。

 司馬遷が『史記』で書いているのは、皇帝の正統の歴史である。世界史でもないし、中国史でもない。第一、「中国」という国家の観念も、「中国人」という国民の観念も、司馬遷の時代にはまだなかった。こういう観念は、19~20世紀の国民国家時代の産物である。

 正史という概念である。皇帝が支配する世界を「天下」と称し、その範囲内を記したのが司馬遷の『史記』であった。

 言いかえれば「正史」は、中国の現実の姿を描くものではなく、中国の理想の姿を描くものなのだ。理想の姿は、前漢の武帝の時代の天下の姿である。なんどもくりかえし言っているが、中国的な歴史観のたてまえでは、天下に変化があってはならない。実際には変化があっても、それを記録したら、歴史にはならない。

 先ほどの文脈からいえば国家は歴史的存在であり、歴史とは政治であるといえよう。この三位一体によって国家は成立する。

 この『ヒストリアイ』の序文でヘロドトスが言っていることは、三つの点に要約できる。
 その一は、世界は変化するものであり、その変化を語るのが歴史だ、ということ。
 その二は、世界の変化は、政治勢力の対立・抗争によって起こる、ということ。
 その三は、ヨーロッパとアジアは、永遠に対立する二つの勢力だ、ということ。

 2500年前にヘロドトスが歴史を悟った瞬間から、人類は歴史的な存在となったのだろう。「万物は流転する」(ヘラクレイトス、紀元前540年頃~前480年頃)。

Herodotus

 こうして、世界最初の一神教王国が誕生した。これがユダヤ教の起源である。
 その35年後、新バビュロニア帝国のネブカドネザル王がイェルサレムを攻め落とし、ヤハヴェの神殿を破壊し、ユダ王国の民をバビュロニアに連れ去った。これを「バビュロニア捕囚」と言う。
 連れ去られたユダ王国の民は、ヤハヴェ神との契約を守って、それから半世紀のあいだ、捕囚の生活のなかで、独自の種族としての意識を持ち続けた。これがユダヤ人の起源である。政治に関係なく、ヤハヴェ神との契約を守るものがユダヤ人、ということになったわけだ。

 ここが急所だ。ユダヤ教を長男とするアブラハム三兄弟が歴史を牛耳っている。連中は「神が創造した世界」という前提で思考する。それゆえ中国文明との遭遇は少なからず西洋に衝撃を与えた(『聖書vs.世界史 キリスト教的歴史観とは何か』岡崎勝世)。

 もう一つ付言しておくと、インディアンも聖書には書かれていないため、ヨーロッパ人はどう扱えばよいのか慌てた事実がある。

 中国文明は歴史のある文明だから、それに対抗して独自性を確立しようとすれば、中国文明の有力な武器の一つである歴史を、日本文明も持たなければならない。
 そこで『日本書紀』という、日本で最初の歴史が描かれることになった。
 天武天皇が歴史の編纂を命じたのが681年、『日本書紀』30巻が完成したのは720年で、39年かかっている。これが日本最初の歴史である。ふつうには『古事記』が日本で最初の歴史だということになっているが、712年に『古事記』が書かれたというのはうそだ。『古事記』は、ほんとうは『日本書紀』の完成から約100年後の平安朝の初期、9世紀のはじめにつくられた偽書であることは、あとでくわしく述べる。

 歴史のでっち上げだ。歴史に偽書はつきものだ。

 日本人がおなじみの「正統史観」は、西ヨーロッパにはない。西ヨーロッパとは、つきつめて言うと、ローマ市の支配が及んだ範囲だ。ところで中国では、「正統」の皇帝が支配した範囲が天下だった。外見は似ているが、まず枠組みの中心になる軸が違う。

 地政学がヨーロッパ基準であることがわかる。中国や日本の歴史は系譜といってよい。

 歴史は物語であり、文学である。言いかえれば、歴史は科学ではない。
 科学を定義すれば、まず第一に、科学はくりかえし実験ができる性質がある。歴史は一回しか起こらないことなので、この点、科学の対象にならない。
 第二に、もっと重要なことだが、それを観察する人がどこにいるかの問題がある。
 科学では、粒子の違いは問題にならない。みんな同じだとして、それらを支配する法則を問題にする。
 ところが歴史では、ひとりひとりはみんな違う。それが他人に及ぼす機能も違う。それを記述する歴史を書く人も、歴史を読む人も、みんなが同じ人間だ。
 そういうわけだから、歴史は科学ではなく、文学なのだ。

 歴史の相対性理論だ。「それを観察する人がどこにいるか」との指摘には千鈞(せんきん)の重みがある。

「理想的年代記」は物語を紡げない/『物語の哲学 柳田國男と歴史の発見』野家啓一

 現代史は、国民国家の時代の歴史であり、国民国家は18世紀の末までは存在しなかった、(以下略)

 我々の頭にある国家の概念は国民国家を意味する。当たり前の話だが鎌倉時代には国という概念はあったが、国家としての枠組みは確立していない。これは多分、情報伝播(でんぱ)の速度とも関係しているのだと思う。すなわち通信や乗り物などの技術革新が国民国家を形成したのだろう。だから産業革命(1760年~19世紀)と市民革命(ピューリタン革命 1641~1649年、フランス革命 1789年~1799年、アメリカ独立革命 1775年~1783年)はセットで考えるべきだろう。

 結局、人間が時間を分けて考える基本は、「いま」と「むかし」、ということだ。これを言いかえれば、「現在」と「過去」、さらに言いかえれば、「現代」と「古代」、という二分法になる。二分法以外に、実際的な時代区分はありえない。

 これは歴史が進歩するという唯物史観に対して書かれたもの。そして歴史家の立ち位置は「いま」に束縛される。現在から過去を見つめる視線の中にしか歴史は存在しない。

 ちゃんとした歴史では、善とか悪とかいう道徳的な価値判断も、なにかの役に立つとか立たないとかいう功利的な価値判断も、いっさい禁物だ。こうした価値判断は、歴史家がついおちいりやすい落とし穴だが、ほんとうを言えば、対立の当事者以外には意味がない、よけいなおせわであり、普遍的な歴史とは無縁のものなのだ。

 溜め息をつきすぎて酸欠状態になるほどだ。結局、善悪を判定することは政治的行為なのだ。しかもそれは、現在の権力者の都合で決まるのだ。歴史は常に書き換え可能であることを踏まえる必要がある。

(※君主の土地と自治都市が入り乱れており)国境線がないのだから、ひと続きの国土というものもなく、国家など、存在しようがなかった。
 そういう状態のところで革命が起こると、市民が王から乗っとった財産、つまり「国家」は、だれのものか、ということが問題になる。市民と言っても、だれが市民で、だれが市民でないかの範囲は漠然としているから、もっとはっきりしただれかを、王の財産権の正当な相続人として、設定しなければならないことになる。そこで「国民」という観念が生まれて、「国民」が「国家」の所有者、つまり主権者だ、ということになった。「国民国家(nation-state)」という政治形態は、このときはじめて生まれたのだ。

 自分のデタラメな言葉遣いを思い知らされた。我々が使う「国家」とはこういう意味だったのだ。隙間だらけの脳味噌に岡田の放つピースが一つずつきっちりと収まってゆく。それでも尚、ジグソーパズルが完成することはない。

 たとえば、「日本建国」と言うと、つい、「大和民族」が結集して、日本という「国家」を創ったことだ、と思いたくなる。ほんとうは、「日本天皇」という称号を帯びた君主が出現し、その日本天皇の宮廷が列島の政治の中心になった、ということであり、日本天皇のもとに統合された人たちが、外から「日本人」と呼ばれるようになった、ということであるにすぎない。

 民族も国家も一つの現象にすぎない。

 結局、世界史の上で現代(Modern Age)を特徴づけるものは国民国家であって、国民国家という政治形態をとることが、すなわち近代化(modernization)である、と考えればいい。
 この国民国家というものは、「歴史の法則」などによって、必然的に生まれてきたものではない。北アメリカと西ヨーロッパに、続けざまに起こった二つの革命によって、偶然に生まれた政治形態だ。しかも、それが世界中に広まったのは、国民国家のほうが戦争に強いという理由があって、国民国家にならなければ生きのこれなかっただけのことだ。

 鳩尾(みぞおち)にボディブローが突き刺さる。意識が遠のいてゆく。国民国家の誕生は、人と人との関係性や脳内情報の構造をも変えたはずだ。我々が生きるのは「国民国家世界」といえる。ただし民主主義の内実が伴っていないが。

 ところで、国民というものは、ばらばらの名前のない人たちの集まりだから、目に見える国民統合の象徴は、どうしても必要だ。だから、共和制の大統領は、任期中、かれの人格をもって、もともとは決まった形のない国民国家というものに、個性を与えているわけだ。ところが、大統領が交代すると、人格はひきつげない。つぎには違う大統領が、違う個性を国家に与えることになる。
 共和制の国家が一貫した個性を持てないことの弊害は、アメリカ合衆国の対外政策にめだっている。アメリカの世界政策は、大統領の任期が終わるたびにころころ変わり、つぎにどちらの方向に向かうか、大統領選挙まで待たなければわからない。しかもアメリカの大統領は、世界でもっとも強大な権力を手にしているために、その人のちょっとした癖や、間違った思いこみで、どんな大きな結果が生じるかわからない。

 私はホール・ケイン著『永遠の都』を読んで以来、何となく共和国に憧れを抱いていたのだが、あっさりと吹き飛ばされた。もはや完全に見えなくなった。

 国民国家というのは、観念の上のものだ。言いかえれば、理想であっても、実在のものではない。

 所詮、国家なんてものは脳の枠組みにすぎないのだ。痺れる。実に痺れるではないか。

 人間は概念世界を生きる動物である。E・H・カーや岡田英弘はその概念を激しく揺さぶる。堪(たま)らない快感だ。



修正し、改竄を施し、捏造を加え、書き換えられた歴史が「風化」してゆく/『一九八四年』ジョージ・オーウェル
物語の本質~青木勇気『「物語」とは何であるか』への応答
超高度化されたデータ社会/『ソウル・コレクター』ジェフリー・ディーヴァー
古代イスラエル人の宗教が論理学を育てた/『数学嫌いな人のための数学 数学原論』小室直樹
シオニズムと民族主義/『なるほどそうだったのか!! パレスチナとイスラエル』高橋和夫
歴史という名の虚実/『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一