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2019-01-14

ハムストリングのストレッチは不要/『勝者の呼吸法 横隔膜の使い方をスーパー・アスリートと赤ちゃんに学ぼう!』森本貴義、大貫崇


 ・ハムストリングのストレッチは不要

・『間違いだらけ!日本人のストレッチ 大切なのは体の柔軟性ではなくて「自由度」です』森本貴義
『BREATH 呼吸の科学』ジェームズ・ネスター
『静坐のすすめ』佐保田鶴治、佐藤幸治編著

身体革命

 身体が硬いからとストレッチばかりしていると、骨盤を後ろから引っ張っておいてくれる縁の下の力持ちのようなハムストリングを伸ばしきってしまいます。それで力が出ないようにしてしまうのではなく、適切なトレーニングをすることでちゃんと力が出るようにしてあげましょう。これがPRIやDNSなどをベースとした私の持論です。
 もし、立った状態の前屈で指が地面に着かなくても、ハムストリングのストレッチは不要です。それはハムストリングの硬さが原因なのではありません。実は骨盤や胸郭、肋骨の位置などを変えることで指はどんどん地面に近づいていくのです。

【『勝者の呼吸法 横隔膜の使い方をスーパー・アスリートと赤ちゃんに学ぼう!』森本貴義〈もりもと・たかよし〉、大貫崇〈おおぬき・たかし〉(ワニブックスPLUS新書、2016年)】

 PRI(Postural Restoration Institute/姿勢回復研究所)、DNS(Dynamic Neuromuscular Stabilization/動的神経筋安定化)は呼吸に鍵がある。身体瞑想と名づけていいように思う。新しい概念で理解するのが容易ではない。

 ま、ヨガをやっていることもあり、「ハムストリングのストレッチは不要です」と言われて、ハイそうですかというわけにはいかない。私の場合、明らかに硬いのだ。伸ばしきってしまうと力が出ない、との指摘も根拠を示さなければ説得力を欠く。それでも尚、視点の新しさが蒙(もう)を啓(ひら)いてくれる。

 身体の総合性や関連性についてアメリカの研究に先を越されているのはどうも面白くない。もともと日本には古武術や忍術などの文化があったわけだから素地は失われていないだろう。

2019-01-12

思想する体/『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『究極の身体(からだ)』高岡英夫

 ・思想する体

『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『アイ・ボディ 脳と体にはたらく目の使い方』ピーター・グルンワルド
『運動能力は筋肉ではなく骨が9割 THE内発動』川嶋佑
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一
『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃
『月刊「秘伝」特別編集 天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』月刊「秘伝」編集部編

身体革命
必読書リスト その二

 われわれは自らの自己イメージ通りに行動する。この自己イメージは――他方ではわれわれのあらゆる行動を支配するが――程度の差こそあれ、遺伝、教育、自己教育という三つの要因に制約される。
 遺伝的にうけついだものは、もっとも不変の部分である。個人の生理学的資質――神経系、骨格、筋肉、体内組織、腺、皮膚、感覚器の形態と能力――は、なんらかの独自性が確立されるはるか以前に、身体的遺伝によって決定されている。その自己イメージは、自然の成り行きのなかで体験する行動と反応から生まれ発育する。
 教育は、ひとの言語を決定し、特定の社会に共通した概念と反応のパターンをつくりあげる。このような概念と反応は、生をうける環境次第でさまざまであろう。それらは種としての人間の特質ではなくて、ある集団や諸個人の特質なのである。
 教育が自己教育の方向を大部分決定するとはいえ、自己教育は、われわれの成長発展にとってもっとも積極的な要素であり、生物学的起源をもつ諸要素よりもはるかに多く社会的に活用される。自己教育は、外からの教育を身につける方法を左右するだけでなく、習得すべき材料の選択と同化できない材料の拒絶に影響を与える。教育と自己教育は断続的に行なわれる。

【『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス:安井武訳(大和書房、1982年/新装版、1993年)】

 フェルデンクライス・メソッドは動作法である。体操ではない。正式にはソマティック・エデュケーションというらしい。直訳すれば「身体教育」だが「心身技法」とすべきだろう。気づきや内発性に重きを置くところに特徴がある。

 ルドルフ・シュタイナーオイリュトミーリトミックよりも負荷は弱い。

 アレクサンダー・テクニーク成瀬悟策〈なるせ・ごさく〉の心療動作法と同じジャンルと考えてよい。モーシェ・フェルデンクライスはフレデリック・マサイアス・アレクサンダーからレッスンを受けていたとのこと(ソマティック・エデュケーションとは | アレクサンダーテクニークの学校)。

 肉体との対話によって思想する体が形成される。無自覚な姿勢や動きが体の自由を損ない、肩凝りや猫背、腰痛となって現れる。日常生活で筋肉や骨を意識することは殆どない。我々が体を意識するのは病気や怪我をした時に限られる。身体障碍者のリハビリは時に運動部の練習よりも過酷の度合いを増すという。であれば元気なうちから体の内側に眼を向け、耳を澄まし、鍛えておくべきだろう。

 プロスポーツ選手でもフェルデンクライス・メソッドを実践している人がいる。やはり人によるのだろう。私は全くやる気が起こらなかった。ところがである。フェルデンクライスの言葉は刮目(かつもく)に値する。竹内敏晴や高岡英夫と完全に共鳴している。むしろ思想性では一歩先を行っている。

 フェルデンクライスがいう「イメージ」とはスタイルと言い換えてよい。「表現のなかで、人間がいちばん惹(ひ)かれるのは、その文体、スタイルである。人間を好きになる場合でも、その人のスタイルを好きになるのだ。どう生きているか、といった対他的、対社会的スタイルに共鳴するかしないか、である」(『書く 言葉・文字・書』石川九楊)。

 自分が自分らしくあろうと努めて確立したスタイルの結晶が「私」である。つまり「私」とは単なるイメージに過ぎない。そこにあるのは「私」という反応だけだ。ひょっとすると「私」という情報すら錯覚かもしれない。

 しかしながら、観察者と観察されるものとのあいだに分裂があるときには、葛藤があります。
 私たちの、他の人たちとの関係というのはすべて――親密なものであろうとなかろうと――分裂や分離に基づいています。
 夫は妻についてのイメージをもち、妻は夫についてのイメージをもっています。そういったイメージが、何年にもわたり、快楽や苦痛、いらだち、その他もろもろを通じて、ひとまとめにされてきたのです――ご承知のとおりの、夫と妻とのあいだの関係です。
 ですから、夫と妻との関係というのは、実際にはふたつのイメージのあいだの関係なのです。性的なことすら――その行為のなか以外のところでは――そのイメージが重要な役どころを演じているのです。
 そういうわけで、人が自分を観察すると、関係のなかで絶えずイメージを構築し、それゆえ分裂を生じさせていることがわかります。
 そのため、実際には関係というものなどまったくないのです。
 人は家族や妻を愛していると言うかもしれませんが、それはイメージであり、それゆえそこには実際の関係などなにもないのです。
 関係とは、物理的な接触だけではなく、心理的になんの分裂もない状態をも意味します。(スタンフォード大学での四つの講話)

【『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ:竹渕智子〈たけぶち・ともこ〉訳(UNIO、1998年)】

 病気や障碍を受け容れることが難しいのも過去のイメージを手放すことができないためだ。我々はイメージを持つことで現実性を見失っているのだ。ジョン・レノンは「想像してごらん」と歌ったが、想像を振り捨てて目の前の現実をありのままにただ見つめることが正しい。

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あなたは世界だ
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2019-01-03

体幹の奥に背骨あり/『究極の身体(からだ)』高岡英夫


『だれでも「達人」になれる! ゆる体操の極意』高岡英夫
『高岡英夫の歩き革命』、『高岡英夫のゆるウォーク 自然の力を呼び戻す』高岡英夫:小松美冬構成
『人生、ゆるむが勝ち』高岡英夫

 ・体幹の奥に背骨あり

『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『運動能力は筋肉ではなく骨が9割 THE内発動』川嶋佑
『ウィリアム・フォーサイス、武道家・日野晃に出会う』日野晃、押切伸一
『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃
『月刊「秘伝」特別編集 天才・伊藤昇と伊藤式胴体トレーニング「胴体力」入門』月刊「秘伝」編集部編
『身体構造力 日本人のからだと思考の関係論』伊東義晃

身体革命
必読書リスト その二

 私の「運動化理論」の考え方で言うと、人間の身体というのは実は「魚類」なのだ。

【『究極の身体(からだ)』高岡英夫(講談社、2006年/講談社+α文庫、2009)以下同】

「!」――頭の中で電球が灯(とも)った。背骨が重要なのだ。腸腰筋や体幹が注目されるようになったのは最近のことである。体幹の奥に背骨あり。つまりはトレーニングの方向が背骨に向かっていたのだろう。私がピンと来たのは介護の視点からである。

 魚の動きをよく観察してみると、やはり全身の中間から後方の尾ひれ側のほうがよく動いている。魚の後半身の波動運動はまさに鞭のような動きだ。
 その魚類の鞭の動きを体現する二本足の人魚が、「究極の身体」の下半身なのだ。
「究極の身体」では、立ったり歩いたり走ったりジャンプしたりした時に、魚類の身体運動と同じように、胸椎の下端を中心に、足先までを鞭打たせる運動をしている。しかもその運動は、決して魚類と同じレベルではない。
 人間が鞭のような下半身の扱い方をできるようになった時は、魚類よりもはるかにハイレベルな運動になる。なぜかというと、人間の下半身の運動は交互運動だからだ。人間は身体をX・Y平面で割って左右交互に鞭打つことができるのだ。それに対し、魚類の鞭は一本だ。左右二本の鞭を振り回せる人類の運動のほうが、はるかに複雑な運動なのである。(中略)
 つまり「究極の身体」というのは、魚が尾ひれで立っている状態なのだ。

 スピードは失ったが複雑な動きに対応できるという意味なのだろう。我々は木登りができる。

 私は今、歩行困難なおばあさんを歩かせる計画を進行中で、まず第一段階として曲がった背中を伸ばすために鋭意努力をしているところである。背筋を鍛える運動を中心に行ってきたが、本書を読んで腰をひねる運動を取り入れることにした。90近い年齢のせいもあり可動域が狭いため、チューブやゴムまりを使って負荷を掛ける。

 ちょっと小馬鹿にしていたゆる体操を本気で15分ほどやってみた。ひたすら魚が泳ぐようにゆらゆらと体を揺らしただけである。次の日、背筋が筋肉痛になっていた。水泳が健康にいい理由もたぶん背骨の運動にある。フラダンスやフラフープは腰の動きに特徴があるが、背骨を中心とした肩甲骨~骨盤の運動が理想的だと思う。水泳、ダンス、木登り、ロッククライミング、スキーなど。

「丹田を意識する」というのも多分背骨の動きに関係しているのだろう。まったくの素人考えだが背筋を伸ばすというよりは肩甲骨を引き上げることによって胸骨を開く意味合いがあるのではないか。

 高岡英夫は東大卒だけあって説明能力が極めて高い。ただし書籍は重複した内容が多く粗製乱造気味でマーケティング目的が透けて見える。更に「ゆる体操指導員」になるためには数多くの著作やDVDを購入しなくてはならない。こうなると形を変えた代理店商法といってよい。よもや高岡教を目指しているとまでは思わないが、宗教やマルチ商法の臭いが漂ってくる。

 また我が田に水を引くように有名人を「ゆる理論」に利用する悪癖があり、誇大広告紛いの危うい記述が少なくない。読むに値するものは今のところ3~4冊ほどか。

2017-08-24

疲れないタイピングのコツ/『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖


『ことばが劈かれるとき』竹内敏晴
『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『本当のナンバ 常歩(なみあし)』木寺英史
『健康で長生きしたけりゃ、膝は伸ばさず歩きなさい。』木寺英史
『常歩(なみあし)式スポーツ上達法』常歩研究会編、小田伸午、木寺英史、小山田良治、河原敏男、森田英二

 ・疲れないタイピングのコツ
 ・体のセンサーが狂っていると疲れが取れない

『君あり、故に我あり 依存の宣言』サティシュ・クマール
『呼吸による癒し 実践ヴィパッサナー瞑想』ラリー・ローゼンバーグ

身体革命
悟りとは

 今度は、のせた指先とキーボードの間に薄皮1枚入っているようなイメージを持ってください。
 実際には手とキーボードは接触しているのですが、その間を隔(へだ)てる薄くて柔らかいシートのようなものが入っているイメージをすると、指先が柔らかくなって、肩や首の力がフッと抜けるのが感じられるはずです。
 そして、その「薄皮1枚入れる」感覚を持ったまま実際にタイピングしてください。
 肩や首がリラックスした状態が保たれるので疲れなくなり、むしろタイピングすればするほど、ほぐれると感じる方もいるかもしれません。

 では、なぜこんなちょっとしたイメージだけで力が抜けるのでしょうか?
 実は「薄皮1枚入れる」感覚で指先の皮膚感覚が活性化していることと関係があります。
 特にモノに触れるとき、皮膚はそのモノの情報を受けとるために重要な役割を果たしています。
 しかし、我々は一般的にモノに触れるときに皮膚感覚を意識しないので、外からの情報を受けとりにくくなっています。
 キーボードからの情報を受けとることなく、それを押すのにどの程度の力が必要化わからないので、必要以上に力を込めてしまうのです。

【『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖〈ふじもと・やすし〉(さくら舎、2012年/講談社+α文庫、2016年)】

 藤本靖はロルフィング®というボディワークの施術者である。意識を操作するよりも身体を操作する方が手っ取り早い。要は気や意識を内側へ向けることだ。これを内観という。

「薄皮1枚」感覚は携帯電話のボタン操作にも使えるという。薄皮を意識することで皮膚感覚が広くなる。点から面ほどの違いがある。私は歩く時や階段の昇り降りでも心掛けている。

 やってみると直ぐ気づくが「薄皮1枚」とは皮膚そのものを意識することである。大袈裟に言えば日常生活に接触の豊かさを取り戻す行為につながる。

 心も体もほんの少しの歪みによってバランスが狂う。本書は身体操作だけではなく五官の使い方にまで言及されており、五蘊(ごうん)を調(ととの)えるのに役立つ。疲労回復といった低い次元にとどまる内容ではない。

2014-05-20

何かに打ち込む/『だれでも「達人」になれる! ゆる体操の極意』高岡英夫


 ・何かに打ち込む

『ひざの激痛を一気に治す 自力療法No.1』
『5分間背骨ゆらしで体じゅうの痛みが消える 自然治癒力に火をつけて、首・肩・腰痛・ひざ痛を解消!』上原宏
『高岡英夫の歩き革命』、『高岡英夫のゆるウォーク 自然の力を呼び戻す』高岡英夫:小松美冬構成
『究極の身体(からだ)』高岡英夫

 どんなつまらないことでも、打ち込めればおもしろくなる。おもしろければさらに打ち込みたくなる。これをくり返し体験することで、身体と心の中に中心となるものが育ってくる。そうすると、それがない人には見えないさまざまな対象の中身がとらえられるようになり、自分の軸と対象の中心をきちっと向かい合わせることができるようになる。これができるようになると、必要であればどんなことにも打ち込めるようになるのです。
 そして、いずれ自分が本当にしたいことを見つけ、それに打ち込みつづけ、達人への道を切り開いていくことができるのです。
 だから、打ち込むものは基本的になんでもいいのです。それによって育てられる自分こそが重要で、打ち込む対象はなんでもいいのです。たとえ、それが大人に叱られるようないたずらでもいいのです。たいていのいたずらは、大人たちから見れば、打ち込む対象としてはまったく価値のないものでしょう。だけど、大人からは許されないようないたずらも、こっぴどく叱られる必要はもちろんあるものの、それをしたことで、その子どもの中に打ち込める自分が育っているのであれば、それはきわめて重要な経験だと言えるのです。

【『だれでも「達人」になれる! ゆる体操の極意』高岡英夫(講談社+α文庫、2005年/運動科学総合研究所、2003年『カガヤクカラダ』改題、新版)】

 ツイッターで五十肩を訴えたところ、後輩が教えてくれたのが「ゆる体操」だった。ゆらゆら、ブラブラさせるのが基本。一理あることは直ぐわかった。素人判断のリハビリが危険なのは筋力アップだけに意識が向いて筋肉を緩めないためだ(『脳から見たリハビリ治療 脳卒中の麻痺を治す新しいリハビリの考え方』久保田競、宮井一郎編著)。

 ストレスが過剰になると身体は常に強(こわ)張る。固まった筋肉が脳へのフィードバック情報を減少させる。外界への注意力が散漫になれば事故や怪我につながりかねない。

 高岡は何かに打ち込むことを勧める。「自分の軸と対象の中心をきちっと向かい合わせることができるようになる」とは言い得て妙だ。野球や剣道の「打ち込み」を思えばストンと腑に落ちる。来る日も来る日も素振りを繰り返すのは身体の軸を定めるためだ。ぎこちない動きも少しずつ無駄な力が抜けて理想的なフォームに近づく。

 一つの言葉が思考を劇的に変えることがあるように、一つの動きが運動神経を一変させることがある。私は50歳になった今でもありありと覚えているのだが、小学2年の時、ドッジボールでファインプレーをしたことがある。ライン際でジャンプし相手のパスボールを奪ったのだ。やんややんやの大喝采を浴びた。たったこれだけのことが私の運動神経を一変させた。生まれて初めて野球をした際にも同様のプレーができた。それからというもの球技全般において抜きん出た才能を示した。

 きっとそれまではつながっていなかった神経やシナプスがつながったのだろう。そんな風に考えている。何かに打ち込む。そして一つの自信を得る。たったそれだけで子供の人生は変わる。世界は信じられるものと化して光り輝く。「子の日わく、これを知る者はこれを好む者に如かず。 これを好む者はこれを楽しむ者に如かず」(『論語』金谷治訳注)と。我を忘れて打ち込むことは楽しい。

2014-05-19

必須音/『音と文明 音の環境学ことはじめ』大橋力


 物質の世界に必須栄養、例えばビタミンが在るように、情報の世界にも、生きるために欠くことのできない〈【必須音】〉が存在する。

【『音と文明 音の環境学ことはじめ』大橋力〈おおはし・つとむ〉(岩波書店、2003年)】

 実は都会よりも森の方が賑やかな音で溢れているという。恐るべきデータである。にもかかわらず人は森で落ち着きを見出す。喧騒とは認識しない。これは滝の音を想像すれば理解できるだろう。雨の音も同様だ。うるさいのは飽くまでも屋根が発する音だ。蝉の鳴き声だって、あれが赤ん坊の泣き声なら耐えられないことだろう。

 数週間前のことだが、とある公園を通りかかった時、頭の上からざわざわという音が降ってきた。見上げると30メートルほどもある木々が風に揺れていた。まるで樹木が何かを語っているかのようだった。その音は決して耳障りなものではなかった。

 音は空気の振動である。そしてコミュニケーションも振動(ダンス)なのだ(『急に売れ始めるにはワケがある ネットワーク理論が明らかにする口コミの法則』)。

 森の音が心地よいことは誰でも気づくことだ。それを「必須音」と捉えたところに大橋力の卓見がある。大橋は芸能山城組の主催者。耳と音の関係に興味のある人は必読。増刷されたようだが4400円から5076円に値段が跳ね上がっているので、興味のある人はまず『一神教の闇 アニミズムの復権』(安田喜憲)から入るのがよい。

音と文明―音の環境学ことはじめ ―
大橋 力
岩波書店
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風は神の訪れ/『漢字 生い立ちとその背景』白川静
介護用BGM 自然音

2013-12-01

『足の汚れ〈沈澱物〉が万病の原因だった 足心道秘術』官有謀〈かん・ゆうぼう〉(マイ・ブック、1986年)

足の汚れ(沈澱物)が万病の原因だった―足心道秘術 (マイ・ブック)官足法とともに

 もむだけで治る驚くべき中国医学の特効。なぜ、この方法がそんなに効くのか。来日以来、日本人の専門家も驚いた。爆発的ブームを呼んでいる足の反射区療法の決定版!

ウォークマットⅡ (足踏み健康板)赤棒 (健康マッサージスティック)
【官足法グッズ】

2013-11-20

セックスとは交感の出来事/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 増刷されたようである。朗報。せっかくなので何か書いておこう。

 セックスとはほんとうは交感の出来事であり、感覚のコミュニケーションの出来事であったはずなのに、それが身体の特定部位の性能の問題にずらされてしまっているのだ。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 これは何も今に始まったことではあるまい。巨乳を昔はボイン(日本テレビの「11PM」で大橋巨泉朝丘雪路の胸をからかったのが嚆矢〈こうし〉)と言ったし、「小股の切れ上がった」なんて言葉は、「締まりがよい」とか「具合がよい」などと大差はないと思われる。

 結局のところ「性の商品化」と絡む問題なのだろう。鷲田の論考はここから急激に深まる。

 こういう読み物とかグラビアといった快楽情報が溢れているのは、ほんとうの快楽が他人とのあいだで得られていず、しかも情報は増える一方なので、恒常的な飢餓感や不足感だけが確実に膨らんできているということなのだろう。器官的なものとしての〈性〉ではなく、感情としての〈性〉がもうきちんと語りだされなくなってきている。
〈性〉は、個体と個体のあいだで起こる身体間のもっとも濃密な交通である。これを軸に、親子のあいだの親密な相互接触、さらにはじぶんの身体とのあいだの何重もの厚い関係が交叉しながら、これまで家庭という、複数の身体がなじみあう特異な空間を構成してきた。だから他人の家庭を訪れたとき、だれもが家庭というもののあの異様に濃密な空気にうろたえる。

 情報が性を貧しいものに変えた。当然、「性」は「生」とつながる。ジュディス・バトラーも同じ指摘をしている。

ポルノは経験に取って代わる/『触発する言葉 言語・権力・行為体』ジュディス・バトラー

 性を濃密な関係と押し広げているところが卓見だ。確かに他人の家庭は薄気味悪い。私の父は無口であったため、殆ど会話らしい会話がなかった。そんな私からすれば、父親と息子が話しているだけでぞっとさせられる。一方で我が実家は幼い弟妹が小学1年生になる頃までチューをし続けた。他所様から見れば気色悪いこと甚だしいに違いない。

 ま、夫婦の性行為から家族が生まれるわけだから、その延長線上に家族関係も構築されるのだろう。

性はアイスクリームを食べるのに似ている/『エロスと精気(エネルギー) 性愛術指南』ジェイムズ・M・パウエル

 氾濫する性情報のなかで〈性〉はむしろ義務のようなものになっており、そっとやりすごさないとせっかくの関係を壊しかねないという不安が、そこにはある。
〈食〉が自己への暴力へと転化することがあるように(過食や拒食)、〈性〉もまた自己への暴力となりうる。〈性〉の背景にあった〈愛〉や〈家族〉といった観念が、そしてそれを制度化してきた社会的装置が、さまざまな場面できしんでくると、〈性〉の不幸は社会的な問題性をますます深く内にはらむようになる。

 これは確か女性のケースだ。いわゆる処女喪失というテーマだ。「処女」とか「セックス」とか書くのをためらってしまうのも、私の古典的な性意識が為す業(わざ)だと思われる。

 これまた実に鋭い指摘である。不安定な家族関係で育った女性は特に注意が必要だ。特に父親の愛情を知らない――当然離婚も含む――少女が危うい。男性遍歴が激化するケースがある。

 新聞や雑誌を開ければ、援助交際、ブルセラ、投稿写真、ストーカー、家庭内強姦、あるいは中絶という自己への暴力のあとの底深い負い目、「純愛」として語りだされる不倫、自己解放としての身体毀損(ボディ・ピアシング)……と、気が落ち込むようなテーマがならんでいる。それぞれの性が、そしてそれぞれの世代が、共有できる物語を欠いたまま、問題としての〈性〉にむきだしで接触しているという感じがする。

 過剰な性愛は不毛だ。精神はやがて疲労と疲弊に覆われ、擦り切れ、必ず廃(すた)れてゆく。彼女たちの魂は放置自転車のように埃(ほこり)まみれで錆(さ)びついている。不足を補うための行為が、かえって空洞を広げてしまう。

 私がまったく違う例を挙げよう。義父の介護を献身的に行っているという評判の奥さんがいた。私が訪れたところ義父も義母もお嫁さんを手放しで褒めていた。何度か足を運んで気づいた。お嫁さんは義父の身体に触れることが殆どなかった。彼女にとって介護は嫁としての義務であったのだろう。甲斐甲斐しく身の世話をしていたが愛情は感じられなかった。身体の接触なくして要介護者とのコミュニケーションは難しい。仮に脳血管障害由来の失語症などで言葉を失っていても、手を取り肩を組むだけで喜ぶ人々は多い。人間という動物は好意を抱いていれば必ず触れ合うものだ。

 性は本来豊かなコミュケーションであったはずだ。そしてコミュニケーションは交換から交感へと変わり、更には交感が交歓へと昇華するのだ。商品としての性には金銭と肉体の交換しか存在しない。経済的な見返りを求めた結婚も長期的な売買春と考えることができよう。

 中学生となり初めてフォークダンスをした時のあの緊張感を思い出そう。密かに思いを寄せていた女子生徒の手を握った瞬間、私は確かに感電したはずだ(笑)。

2011-10-19

境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(下) 「判断妥当か」医師に重圧


境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(上) 「男子と女子、どっちがいい?」
境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(中) 「自分でなくなる」投薬中止
・境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(下) 「判断妥当か」医師に重圧

年月経て、疑問持つ患者も 未解明な「脳の性分化」

「カルテを開示してほしい」。3年前、診察室で向き合った20代の患者に言われた時、独協医大の有阪治教授は「その時が来たか」と覚悟を決めた。患者は男性として育ってきたが、性染色体は女性型のXXだった。カルテには書かれていたが、患者自身は知らないはずだった。

 患者は極端に大きな陰核の外見から、男児と判定されて育てられた。体の発達に違和感を覚えた両親が3歳の時、東京都内の大学病院を受診させ、性分化疾患の一つ「先天性副腎過形成」と診断された。子宮や卵巣はあるが、男性ホルモンが過剰に分泌され外性器などが男性化することのある疾患だ。

 このまま男児として生きた方がいいのか。染色体や内性器に合わせ女児に変えるべきか。当時20代の駆け出しの研修医だった有阪医師は、師事していた主治医の教授が治療方針に悩み、海外の文献をひもといて似た症例を必死に探す姿を見ていた。「夜も眠れない」と漏らすのを聞いたこともある。

 最後は両親の意向を尊重し、引き続き男児として育てる方針が決まった。その後、子宮は摘出した。教授は「将来、この子が自分の体に疑問を持って訪ねてきた時、自分はもうこの世にいないはずだ。誰が答えてくれるのだろう」と懸念を口にしていた。

 年月がたち、予想は的中した。

 この患者を引き継ぎ主治医となっていた有阪医師は、「事実関係をきちんと説明しよう」と連絡を待った。開示されたカルテを見て、電話をかけてきた患者は「俺を実験材料にしたんだろう」と怒りをあらわにした。「包丁で切り刻んでやる」とメールで脅されたこともあった。「詳しい理由は分からないが、やはり生き苦しさがあったのかもしれない」。やがて攻撃的な言動は収まったが、有阪医師には苦い思いが残った。

 昨春、一人の新生児が性分化疾患と診断され、独協医大に転院してきた。有阪医師は主治医として初めて中心的に性別判定にかかわった。1カ月にわたりさまざまな検査を行い、結果が出る度にどんな治療をすべきか迷った。「同じ立場になってみて、あの時の教授の重圧が分かった」。両親の希望で、新生児は染色体の型を重視して男性として育てる方針が決まり、形成手術も行った。判断は妥当だったのか、年月がたたないと答えは出ない。



「性別の確定は戸籍法の期限である14日にとらわれず、生後1カ月までに」。日本小児内分泌学会と厚生労働省研究班は、性分化疾患の新生児を診る医師に慎重な対応を求める手引をまとめた。だが実は、1年かけたとしても真に適切な性別判定はできない。未解明の「脳の性分化」という課題があるからだ。

 昨年12月に大阪府立大が開いたシンポジウム。性分化疾患の研究で世界的に知られるハワイ大医学部のミルトン・ダイアモンド教授が変わった言い回しで訴えた。「性別を決定するのは、両足の間にあるものではなく、耳と耳の間にあるものです」。大切なのは、性器の状態ではなく、自分自身を男だと思うのか女だと思うのか、つまり心(脳)の性だ、という意味だった。

 70種以上ある性分化疾患の中には、性別判定の難しさから、育てられた性と心の性が食い違いやすいものがある。例えば男性器が未発達で女性と判定されがちな「5α還元酵素欠損症」。女性として育てられても心では男性だと自覚する確率が59%という海外のデータがある。男性として育てた場合は0%だ。疾患ごとにこうした傾向がつかめれば、出生時に性別を判定する重要なポイントになりうる。

 厚労省研究班は全国の小児内分泌医と小児泌尿器科医に昨年初めて実施した実態調査を基に、数種類の疾患にしぼり追跡調査した。8月に出そろったデータを分析している山梨大名誉教授の大山建司医師によると、最も患者が多い性分化疾患の一つ「21水酸化酵素欠損症」の場合、約150症例のうち子どもの性同一性障害(心と体の性の不一致)の診断基準に当てはまる患者が3~4%いた。大山医師は「児童精神科医の協力も得ながら、データを詳しく読み解きたい」と話す。



 92年に複数の診療科の医師とケースワーカーなどで性別判定委員会を作るなど先進的な取り組みをしてきた大阪府立母子保健総合医療センター。一昨年から本格的に、看護師が親子それぞれと面談する「看護支援」を始めた。

 親は子どもが性分化疾患だと知った段階からショックや自責の念を持つことがある。40組以上の親子と面談してきた石見(いわみ)和世看護師は、「親の愛情が形成されるのを手助けしていくことが、子どもの成長のために何より重要」と話す。

 面談では、学校生活での心配、結婚や出産はできるか、子どもに病気をどう説明するか、さまざまな質問が出る。じっくり話し合い、時間を共有するなかで、多くの親が涙を流し、病気に立ち向かう決断をしていく姿を目にしてきた。「この病気について心を開いて話せる場所なんて、今までどこにもなかった」。その言葉に、石見看護師は、患者家族の孤独と強さを思うばかりだ。



 性分化疾患はかつて医療界でもタブー視されていたが、患者の立場に沿った対応も進み始めている。日本小児内分泌学会の堀川玲子・性分化委員長はいう。

 「性分化疾患に『正しい答え』はなく、第三者が当事者の決断を批判することはできない。普通と違う人をどれだけ受け入れられるか、社会の成熟度が問われている」



◇脳の性分化

 心(脳)が自覚する性のこと。人はどんな仕組みで自分の性を認識するのか、決定的な研究はまだない。容姿や言動が男性的なことと、心が自覚する性が一致するとも限らない。人の性別は染色体や性腺、性器の性などで総合的に決められるが、本人の「生きやすさ」のためには最終的に「脳の性」まで解明されることが必要だ。

【毎日新聞 2011年10月19日 東京朝刊】

2011-10-18

境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(中) 「自分でなくなる」投薬中止


境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(上) 「男子と女子、どっちがいい?」

「普通の男性」望んだが 成人後始める治療、継続困難

 大学1年の冬、サークルの合宿で仲間と風呂に入るのが急に恥ずかしくなった。21歳になっていたが、陰毛はなく、声も小学生のままだった。新潟大歯学部5年の大田篤さん(24)は人目をはばかり民間病院を受診したが、結局自ら通う大学に紹介され、2年の夏に性分化疾患の一つ「低ゴナドトロピン性性腺機能低下症」と診断された。ホルモンの異常で2次性徴が起きない疾患だった。

「原因があったんだ。治療すれば治るんだ」。ショックはなく、むしろ肯定的に受け止めた。

 週1回、腹部に自己注射するホルモン治療を始めると、数カ月で変化が表れた。声が低くなり、ひげや陰毛が生え、初めて射精した。「なよなよした体」は筋肉質に変わり、鏡を見るのが楽しくなった。初めて経験する性欲には戸惑った。「無意識のうちに視線が女性の胸元に行くなんて、思ってもみなかった」

 しかしある時、ふと疑問がわいた。「これは望んでいたことか」。治療は「普通の男性」になるためだったのに、まるで飢えた獣にでもなってしまった感覚だった。大田さんは「それこそが思春期なのかもしれないが、僕の場合は薬で人工的に変化したので、何かが違うと感じた」。

 治療を始めて1年9カ月後の昨冬、すっぱりと治療をやめた。ホルモンが足りず不健康になるだろうし、子どもを作ることもできなくなるが、それでもよかった。主治医に告げると「最近、中性がはやってるからね」と笑い、反対もしなかった。「自分は男」という認識が揺らいだことは一度もない。医師の言葉にカチンときたが「そうじゃない。自分が自分でなくなるのが嫌なんだ」という心の叫びはぐっとのみ込んだ。

 こうした疾患を診ることが多い池田クリニック(熊本県合志市)の池田稔院長は、治療が持続するかどうかは開始した年齢と深く関係すると感じている。不妊をきっかけに結婚後に治療を始めた患者は、男性ホルモンの重要性を理解はしても、妻が妊娠するとほとんど来なくなる。一方、10代で始めた患者は今も全員が治療を継続しているという。

 池田院長は「思春期に男性ホルモンが低い状態で自己を確立した人は、成人後に治療でホルモンを平常値にしても、自分でないような感覚になるのではないか」との仮説を立てる。

 ホルモン治療をした大田さんは、後悔の念にさいなまれている。「注射を打つたび男らしくなっていくのが、あれほどうれしかったのに」。太くなった声や筋肉質の体は元に戻らない。ひげや体毛にも嫌悪感がある。一度は劣等感から解放してくれた治療が今は恨めしい。下宿の隅に積んでいた未使用のアンプルは、捨てた。



「娘の人生を私が決めてしまった」「いいえ、選んだのは私」。神奈川県在住の佐藤真紀さん(45)と長女(24)には互いを思いやるやさしさがあふれている。

 89年正月、帰省先の福島県で長女は脱腸を起こし、緊急手術を受けた。手術中に廊下に出てきた医師の言葉に佐藤さんは耳を疑った。「睾丸(こうがん)が見つかりました。腸と絡み合っているので切り取ります。おなかを開いたままなので時間がありません。いいですね」。長女は出生時に膣口(ちつこう)が開いていなかったが、染色体をはじめ10日ほどかけてじっくり調べ、女性で間違いないと診断されていた。

 東京にいる夫とは連絡がつかない。「娘は男だったんだ。でも、私の一存で男として生きる可能性を断ち切ることになる」。そんな思いが頭を駆け巡ったが、医師は「お母さん、どうしますか」と迫ってくる。「じゃあ、切ってください」と言うしかなかった。手術室のドアがしまると、義母の前で号泣した。すべてが終わった後、ようやくつながった電話で夫は「そばにいてあげられなくてごめん。一人で大変な決断をさせてしまったね」と謝った。

 東京の大学病院で再検査を受けると、女性としての発達が不十分になる「ターナー症候群」だが、性染色体に男性化とかかわりが深いY染色体のかけらがある特殊な例だと分かった。

 佐藤さんには他に3人の子がいる。「弟や妹と比べると違いがよく分かる。男女どっちでもないというか、どっちでもあるというか……」という。

 小学4年のとき、学校での性教育が近いと知り、佐藤さんは長女に初めて詳しい話をした。「おなかの中にあるはずの赤ちゃんの部屋がないかもしれないんだ」

 長女は答えた。「他の子と違うみたいだと、何となく思っていた。赤ちゃんを産むのは怖いからいいよ」。しかし「本当はショックだった」と今、打ち明ける。

 中学生になると、骨粗しょう症の防止などでホルモン治療が必要になった。幼少時の手術の決断を十字架のように背負っている佐藤さんは「男女どっちを選んでもいいんだよ」と言ったが、長女は女性ホルモンを選んだ。「あまり女性的にはなりたくない」と生理が来ない程度の量にした。17歳のときには「簡単な手術で膣口も作れる」と医師から勧められたが、断った。

 「本人の意思を尊重しているが、決まった道を行くのと違い自己責任がある。可哀そうな面がある」。佐藤さんはいう。

 長女はいま税理士事務所で働く。一人でも生きていけるようにと、税理士を目指している。「両親はずっと『どんな道を選んでも、あなたが好きなことに変わりはない。味方だからね』と言い続けてくれた。それが私を支えている」。長女は穏やかな表情でふり返る。



「男性ならこう生きるべきだ」「女性ならこんな治療を受けるべきだ」。性分化疾患の当事者たちは、男女に二分された社会でプレッシャーを受けながら、自分らしい生き方を模索している。



◇低ゴナドトロピン性性腺機能低下症

 精巣の働きに深く関係する脳の視床下部や下垂体からのホルモン分泌が悪いために2次性徴や精子形成ができなくなる疾患。陰茎の発達も悪く、陰毛や脇毛が生えない、においを感じにくい、といった症状が出ることもある。若年では見過ごされることも多く、不妊をきっかけに見つかるケースが少なくない。

【毎日新聞 2011年10月18日 東京朝刊】

境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(下) 「判断妥当か」医師に重圧

境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(上) 「男子と女子、どっちがいい?」


思春期に男性化する疾患の長女、小4で告知受け混乱

 染色体やホルモンの異常により男性か女性かの区別がはっきりしない「性分化疾患」。医学的には未解明な部分が残り、男性と女性の枠組みしかない社会で生きる難しさも伴う。性の選択を迫られた時、治療方針を決める時――。当事者と家族、医療者のそれぞれの決断の場面を追った。



 昨年7月、大阪市の大阪警察病院。夏休みに入った小学4年の長女(当時9歳)に付き添い、関西地方の夫婦が小児科を受診した。「そろそろ私から本人に説明しましょうか」と切り出した望月貴博医師に、夫婦は顔を見合わせ黙ってうなずいた。病気のこと、受けることになるかもしれない性器の手術のことを話した後、医師は長女に尋ねた。

「男の子にもなれるし、今のまま女の子を選ぶこともできる。どっちがいい?」。しばし流れる沈黙。父は「男と言ってくれ」と祈ったが、長女は消え入るような声で「女の子がいい」と答え、しくしく泣いた。

 父が「男」を願ったのには理由がある。

 夫婦には2人の子がいる。いずれも女の子と思っていたが5年前、陰核(クリトリス)の肥大などをきっかけに性分化疾患の一つ「5α還元酵素欠損症」とそろって診断された。性染色体はXYの男性型だが、ホルモンの異常が原因で男性器が発達せず生まれ、大半が出生時に女性と判定される。しかし2次性徴期になると、程度の差はあれ確実に男性化する特徴がある。

 日本では下腹部に隠れている精巣を摘出して女性ホルモン剤を服用する治療が行われてきたが、欧米では女性として育った人の多くが性別の違和感に悩み、約6割が男性に性別変更したとのデータもある。

 長女が思春期を迎えた時、声も体形も男性化し、小さめの陰茎(ペニス)ほどに陰核が育っていったら……。本人の驚きと戸惑いを想像すると胸が痛んだ。

 病気がわかったとき、望月医師から「将来、妊娠はできない。男性としてなら子を作れる可能性はある」と言われた。小学校入学が目前に迫り、ピカピカの赤いランドセルも準備していた。夫婦は入学を心待ちする長女を男の子に変える気持ちにはなれなかった。

 翌年、今度は次女の幼稚園入園が迫った。望月医師は「性別を変えるなら、新しい社会に入り人間関係も変わる今のタイミングがいい」と促した。1年前から悩み抜いてきた夫婦は、長女の時とは逆の決断をした。「出生時の性別判定は間違い」との診断書を家庭裁判所に提出し、入園直前に次女の戸籍は「長男」となり、名前も変わった。

 男の子になった弟はとても陰茎が小さく、立ち小便ができないため個室トイレしか使えない不便はあるが、学校生活を楽しんでいる。夫婦の心配は長女だ。制服以外はスカートをはかず、野球やサッカーが大好きで、遊び相手も男の子だ。

 父は「男性化が進んでも女の子でいたいというなら、人格を無視してまで性別を変えることなどできない。男の子を望むなら、誰も何も知らない町に転居して、再スタートする覚悟はできている」と唇をかむ。



 主治医の望月医師にとっても、治療方針の決定は容易ではない。

 次女の入園が迫った時、性別をどうすべきかを症例の豊富な医師たちに尋ねたが、男の子に変えるのは反対だというメールが次々返ってきた。「ちんちんがあまりに小さく、将来コンプレックスになる」という率直な意見もあった。診断にかかわった藤田敬之助・大阪市立総合医療センター元副院長も「思春期にどれだけ男性化するかは個人差がある。本人に性別を選ばせたいので、留保してはどうかと伝えた」と振り返る。

 望月医師は「絶対的な答えがあるわけではないが、私はより新しい国際的な知見を重視した。時代は変わってきているのです」と胸を張る。長女については、男性的な2次性徴が始まったら薬でいったん止め、本人に考える猶予を与える治療法を検討している。



「どちらの性別で育てますか?」

 東海地方の主婦(28)は2年前に長男を出産してから医師に「選択」を迫られ続けてきた。性器の発達が不十分だった。産院を退院してすぐ、大学病院にかかりさまざまな検査を受けた。「断定はできないが、染色体は男性型だから男で大丈夫では」。あいまいな言葉でも医師を信じるしかなく、2週間の期限ぎりぎりに長男として役所に届けた。性別を保留できることは当時は知らなかった。

 その後、別の医師からは「精巣がなく、子宮がある可能性がある。女の子として生きる方がいいのでは」と言われた。迷い続けてたどり着いた小児専門病院でも、男性の外性器の形成手術が難しいことを理由に、女の子を勧められた。「心も女の子になるんですか」と尋ねても明確な答えはなかった。

 この春、詳しい検査で子宮や卵巣のないことが分かり、男の子として育てていく気持ちがやっと固まった。まずは陰茎を大きくする。将来子どもを持つのは難しいが、声も体も大人の男性になれるよう、定期的に男性ホルモンを注射していく。

 「来年はスカートかも」。少し前は子ども服を買うのもためらったが、いま、性別そのものへの迷いは晴れた。

関西地方の夫婦が次女の性別選択で考慮した点(望月医師の説明による)

◇女性の場合
・子宮と卵巣はなく膣(ちつ)も不完全
・外陰部や膣の形成は男児にする場合より容易
・妊娠できない
・精巣を放置すれば思春期に男性化する可能性
・乳房の発達などのため女性ホルモンの内服が生涯必要

◇男性の場合
・精巣はある
・外陰部の形成は女児にする場合より難しい
・子どもが作れる可能性
・思春期に自然に男性化する可能性
・陰茎が小さいままの可能性



「境界を生きる」とは

 連載「境界を生きる」は09年9月にスタート。近年まで医療界でさえタブー視されてきた性分化疾患や、心と体の性別が一致しない性同一性障害の子どもたちの苦悩を追い、社会の無理解などを問いかけてきた。

【毎日新聞 2011年10月17日 東京朝刊】

境界を生きる:性分化疾患・決断のとき(中) 「自分でなくなる」投薬中止

2011-09-20

コミュニケーションの可能性/『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子


『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史
『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子

 ・コミュニケーションの可能性

必読書リスト その二

 ALS(筋萎縮性側索硬化症)は神経細胞が徐々に死んでゆく病気(神経変性疾患)で、筋力低下により身体が動かなくなる。進行が早く3年から5年で死に至る。今現在、有効な治療法はない。素人の目には筋肉が死んでいくような症状に見え、筋ジストロフィーと酷似している。

 生老病死(しょうろうびょうし)が倍速で進むのだから、本人にとっても家族にとっても過酷な病気である。

 母の身体だけではなく、私の人生の歯車も狂いだしているとぼんやりと感じられもした。実際、その日(※母から国際電話があった日)を境に私の関心は、子どもたちから日本の母へと移らないわけにはいかなくなった。

【『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子〈かわぐち・ゆみこ〉(医学書院、2009年)以下同】

 川口一家は夫の赴任先であるイギリスで暮らしていた。母親が難病となった以上、帰国しなければならない。自分の負担もさることながら、家族にも新たな負担をかけることになる。子供たちはまだ幼かった。

 ロックトイン・シンドロームという名称は医学用語ではなく、状態を示す言葉である。なかでも、まったく意思伝達ができなくなる「完全な閉じ込め状態」はTLSという別名を与えられていた。

 TLSとは「トータリィ・ロックトイン・ステイト(Totally Locked-in State=TLS)」のこと。私は本書で初めて知った。精神活動が閉じ込められることを意味するのだろう。

 ALSの場合だと最後の砦は瞬(まばた)きや目の動きである。それが失われると次に訪れるのは呼吸停止である。人工呼吸器を装着したとしても最終的に心臓が止まる。意外と見落としがちだが、心臓も筋肉で動いているのだ。

 病いの物語に多数の伏線が生じるのは病人のせいばかりではないし、母ではなく私の物語りも始まってしまうのは仕方がないことなのだ。病人たちの傍らにいるうちに、私の物の見方が変化したために夫が離れていったのである。夫の専業主婦だった私が「変わった」のは間違いではないが、夫も妻の体験にはいっさい興味をもたなかった。

 介護における夫婦の擦れ違いは決して珍しいことではない。熱意があるほど心理的なギャップが生じる。まず現実の問題として時間が奪われる。当然、介護のために別の何かが犠牲となる。その犠牲に対して齟齬(そご)が生じるのだ。例えば子供にとっては弁当を作ることや、参観日に来ることなどが切実な問題と化すケースがある。川口夫妻は後に離婚する。

 強気で生きてきた母親が少しずつ弱音を吐くようになる。

 こうして思い返してみると、母は口では死にたいと言い、ALSを患った心身のつらさはわかってほしかったのだが、死んでいくことには同意してほしくはなかったのである。

 病気自体がそもそも矛盾をはらんでいる。因果関係に思いを馳せ、「どうして私が」「なぜ今なのか」となりがちだ。難病や重病になるほど本人が放つメッセージも混乱することが多い。矛盾した言葉から本人の気持ちをすくい取ることは想像以上に難しい。

 筋力が低下する様相を母親はこう語る。

「地底に沈み込むような感じ」
「体が湿った綿みたい」
「重力がつらい」
「首ががくんとする」

 知覚から恐怖が忍び寄る。沈みゆく船の中でじっと浸水を見つめているような心境であろう。そして言葉を失った後の領域を我々は知ることができないのだ。24時間続く金縛り状態、これが「閉じ込め症候群」だ。

 神経内科医のもっとも重要な仕事のひとつに、家族をいかにその気にさせられるか、ということがある。「できる」と思わせるか、それとも「できない」と思わせるかは、その医師の心掛けしだいなのだが。

「人工呼吸器といってもメガネのようなものです」との言葉で装着を決意する。やはり命に関わる仕事には、物語を紡ぐ力が求められる。メガネという軽い言葉の裏側に生命を重んじる態度が窺える。しかしながら、これは結構勇気のある発言で、あとあと「メガネと違いますよね?」とケチをつけられるリスクを含んでいるのだ。それ相当の責任感がなければ言えるものではない。

 それは予想をはるかに超えた重労働であった。介護疲れとは、スポーツの疲労のように解消されることなどない。この身に澱(おり)のように溜まるのである。

 看護師を雇えば、1ヶ月400万円を超す作業を川口は妹と二人で行っていた。介護や看病は労多くして報われることが少ない。実際、「子供なんだから親の面倒をみるのは当然」と考えている親も多く、認知症が絡んでくると虐待に至ることも珍しくない。閉ざされた空間に自分を見失う機会はいくらでも転がっている。介護をしている人たちにも何らかのケアが必要なのだ。

 もっとも重要な変化は、私が病人に期待しなくなったことだ。治ればよいがこのまま治らなくても長く居てくれればよいと思えるようになり、そのころから病身の母に私こそが「見守られている」という感覚が生まれ、それは日に日に重要な意味をもちだしていた。

 諦(あきら)めには2種類ある。達観と無気力だ。後者は関係性を断絶する。我々の価値観は生産性に支配されている。教育も政治も効果が問われる。実際問題として治る見込みのない病人は病院を追い出され、よくなる見通しの立たない障害者のリハビリ治療は打ち切られる。私はこれを「悪しきプラグマティズム」と名づける。

 効用を重んじるあまり、我々はコミュニケーション不能となり、生の重みを見失ったのだ。

 川口の達観は一種の悟りといってよい。わけのわからない哲学よりも遥かな高みに辿り着いている。

 たとえ植物状態といわれるところまで病状が進んでいても、汗や表情で患者は心情を語ってくる。
 汗だけでなく、顔色も語っている。

 私は頬を打たれたような衝撃を受けた。川口が示しているのはコミュニケーションの可能性であったのだ。「コミュニケイト」は「つながっている」ことを意味する。その状態とは理解-共感である。これは理解から共感に至るのではなくして同時であらねばならない。すなわち理解即共感であり共感即理解なのだ。

 コミュニケーションは情報交換から始まる。通常であれば言葉や声のイントネーション、目つき、仕草、顔色、態度、その他諸々をひっくるめた情報を受け取る。ところが川口は「汗」でわかるというのだから凄い。

 やはり、「見る人が見ればわかる」のだ。私の目はまだまだ節穴であることを痛感した。

 そう考えると「閉じ込める」という言葉も患者の実態をうまく表現できていない。むしろ草木の精霊のごとく魂は軽やかに放たれて、私たちと共に存在することだけにその本能が集中しているというふうに考えることだってできるのだ。すると、美しい一輪のカサブランカになった母のイメージが私の脳裏に像を結ぶようになり、母の命は身体に留まりながらも、すでにあらゆる煩悩から自由になっていると信じられたのである。

 母は病身を通して娘をここまで育てたのだろう。コミュニケーションとはかくも荘厳なのだ。そして理解-共感という悟性がこれほど人生を豊かにするのだ。

 実は証拠がある。

「閉じ込め症候群」患者の72%、「幸せ」と回答 自殺ほう助積極論に「待った」

 健常者からすれば「不自由な身体」に見えるが、実際は精神が身体に束縛されているのかもしれないのだ。自由と不自由は紙一重である。川口は介護という不自由の中から自由な境地を開いた。何と偉大なドラマだろう。12年間に及んだ修行といってよい。

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「沈黙の身体が語る存在の重み 介護で見いだした逆転の生命観」柳田邦男
植物状態の男性とのコミュニケーションに成功、脳の動きで「イエス」「ノー」伝達
パソコンが壊れた、死んだ、殺した
ストレスとコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
いちばん大切なことは、コミュニケーションがとれるということ/『紙屋克子 看護の心そして技術/別冊 課外授業 ようこそ先輩』
対話とはイマジネーションの共有/『ユーザーイリュージョン 意識という幻想』トール・ノーレットランダーシュ
コミュニケーションの第一原理/『プロフェッショナルの条件 いかに成果をあげ、成長するか』P・F・ドラッカー
死線を越えたコミュニケーション/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
孤独感は免疫系統の力を弱める/『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール
コミュニケーションの本質は「理解」にある/『自我の終焉 絶対自由への道』J・クリシュナムーティ
言葉によらないコミュニケーションの存在/『あなたは世界だ』J・クリシュナムルティ
現代人は木を見つめることができない/『瞑想と自然』J・クリシュナムルティ
介護

2011-09-03

連合型失認の患者は視覚体験に意味を付与することができない/『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー


 つまり、連合型失認の患者は、視覚体験は問題ないが、その体験に意味を付与することができない。これがどのようなものかを想像するには、ふつうの西洋人が漢字を前にしてどう感じるかを考えてみてほしい。

【『もうひとつの視覚 〈見えない視覚〉はどのように発見されたか』メルヴィン・グッデイル、デイヴィッド・ミルナー:鈴木光太郎、工藤信雄訳(新曜社、2008年)】

 とすると「見る」行為は「読み解く」能力を意味する。連合型視覚失認と関連性があるかどうかはわからないが、長期間にわたって眼の不自由な人が手術で見えるようになると様々な視覚障害が報告されている。彼らは錯視画像を見ても錯覚することがない。また顔の表情も認知できない。

 失認は心理レベルにおいて数多く見受けられる。先入観や差別意識に染まった人は物事を正しく見ることが極めて困難である。

 同じ本を読んでも感じ取るものは人によって千差万別である。感受性の乏しい人は意味の浅い世界で生きているのだろう。

「悟る」とは「見える」ようになることである。ウロコだらけの目に真実は映らない。

もうひとつの視覚―〈見えない視覚〉はどのように発見されたか

2009-12-19

所有のパラドクス/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・身体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 11月の課題図書。面白い本は何度読んでも新しい発見があるものだ。意外かもしれないが、本書を読むと仏教の五蘊仮和合(ごうんけわごう)がよく理解できる。

〈私〉と世界の境界はどこにあるのだろうか? そんなのはわかりきった話だ。もちろん身体である。冒頭で少年や少女が身体に負荷をかけている現実が指摘されている。例えばピアス穴、リストカット、タトゥー(刺青)、ボディをデザインするシェイプアップ、反動としての摂食障害……。ここにおいて身体は自分自身が所有する「物」と化している。

 そういや臓器移植も似てますな。切ったり貼ったりできるのは「物」である。彼等の論理は単純である。「自分の身体なんだから、私の好きにさせてくれ」というものだ。自分の身体=自分の物、となっている。

 そもそも所有できるのは「物」である。そして処分できるのも「物」である。

 ひとはじぶんでないものを所有しようとして、逆にそれに所有されてしまう。より深く所有しようとして、逆にそれにより深く浸蝕される。ひとは自由への夢を所有による自由へと振り替え、そうすることで逆にじぶんをもっとも不自由にしてしまうのである。そこで人びとは、所有物によって逆既定されることを拒絶しようとして、もはやイニシアティヴの反転が起こらないような所有関係、つまりは「絶対的な所有」を夢みる。あるいは逆に、反転を必然的にともなう所有への憎しみに駆られて、あるいは所有への絶望のなかで、所有関係から全面的に下りること、つまりは「絶対的な非所有」を夢みる。専制君主のすさまじい濫費から、アッシジのフランチェスコや世捨て人まで、歴史をたどってもそのような夢が何度も何度も回帰してくる。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)以下同】

 人間の欲望は具体的には「飽くなき所有」を目指す。国家という国家は版図(はんと)の拡大を目指す。所有物が豊かであるほど自我は大きくなる。否、所有物こそは自我であるといってもよいだろう。

 走行する自動車を比べてみれば一目瞭然だ。大型トラックの運転手の自我は肥大し、軽自動車あるいは原付バイクに乗っていると自我は卑小なものになる。自転車はもっと小さいかもしれないが、値段の高価なものになると自我は拡大する。「私は物である」――。

 意図的に「持たざる者」を演じている連中は、所有への対抗意識を持っている以上、所有に依存していると考えられる。つまり、マイナスの所有である。彼等の念頭にあって離れることのないテーマは所有なのだ。そこには欲望を解放するか抑圧するかというベクトルの違いしかない。

 さて、所有関係の反転が、所有関係から存在関係への変換となって現象するような後者のケースについては、マルセルはそのもっとも極限のかたちを殉教という行為のうちに見いだしている。殉教という行為のなかでひとはじぶんの存在を他者の所有物として差しだす。じぶんの存在を〈意のままにならないもの〉とする。そのことではじめてじぶんの存在を手に入れる。じぶんという存在をみずからの意志で消去する、そういう身体の自己所有権(=可処分権)の行使は、その極限で、存在へと反転する。そういう所有のパラドックスが、ここでもっとも法外なかたちであらわれる。

 人は思想のために死ぬことができる動物だ。信念に殉ずることはあっても、欲望に殉ずることはまずない。せいぜい身を任せる程度である。殉教は完結の美学であろう。己(おの)が人生に自らが満足の内にピリオドを打つ営みだ。それは酔生夢死を断固として拒絶し、人々の記憶の中に生きることを選ぶ行為である。人は捨て身となった時、紛(まが)うことなき「物」と化すのだ。自爆テロを見てみるがいい。彼等は殉教というデコレーションを施された爆弾へと変わり果てている。

 信念に生きる人は信念のために死ぬ人である。だが多くの場合、信念を吟味することもなく、ある場合は権力の犠牲となり、別の場合には教団の犠牲になっている側面がある。静かに考えてみよう。正義のために死ぬ人と、正義のために殺す人にはどの程度の相違があるだろうか? 天と地ほど違うようにも思えるし、紙一重のような気もする。ただ、いずれにしても暴力という力が作用していることは確実だろう。

 所有が奪い合いを意味するなら、それは暴力であろう。お金も暴力的だ。今や人間の命は保険金で換算されるようになってしまった。幸福とはお金である。その時、我々は所有物であるお金と化しているのだ。暴力の連鎖が人類の宿命となっているのは所有に起因している。





あらゆる蓄積は束縛である/『生と覚醒(めざめ)のコメンタリー 2 クリシュナムルティの手帖より』J・クリシュナムルティ
自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他
所有と自我/『ブッダのことば スッタニパータ』中村元訳

2009-03-30

ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々/『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・幼少期の歪んだ価値観が肉体を破壊するほどのストレスと化す
 ・ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々
 ・ストレス依存
 ・急性ストレスと慢性ストレス
 ・心のふれあい

『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『あなたはプラシーボ 思考を物質に変える』ジョー・ディスペンザ
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 この本ではやたら「多発性硬化症」という病気が出てくるが、これは日本人には少ない病気だ。斎藤秀雄の最初の奥方(ドイツ人)がこの病気にかかっている。

 小児麻痺は感染症の一種であり、一度重くなった症状が回復すると、足などに障害が残るものの、そこで症状が固定するのが特徴である。一方、多発性硬化症の場合は中枢神経を冒す原因不明の自己免疫疾患で、再発を繰り返すことが多い。この病気は欧米人に頻度が高い。日本人が10万人に4〜5人の割合で発症するのに対し、欧米人は100人から150人である。若い人の手足の麻痺の原因疾患としては、まず最初に疑われるべき頻度の高い病気なのである。 【『嬉遊曲、鳴りやまず 斎藤秀雄の生涯』中丸美繪〈なかまる・よしえ〉(新潮社、1996年)】

 自己免疫疾患とは、免疫機能が過敏に働いてしまい体内の正常な組織や細胞を攻撃してしまう病気である。

 ストレスの観点から多発性硬化症を検討した論文に実例としてあげられた患者たち、そして私がインタビューした患者たちは、この研究で用いられた不運なラットたちと非常によく似た状態にあったといえる。彼らは子供時代の条件づけのせいで慢性的なきびしいストレスにさらされ、必要な「闘争か逃走」反応を起こす能力を損なわれていたのだ。根本的な問題は、いろいろな論文が指摘している人生上の一大事件など外部からのストレスではなく、闘争あるいは逃走するという正常な反応をさまたげる無力感、環境によって否応なく身につけさせられた無力感なのである。その結果生じた精神的ストレスは抑圧され、したがって本人も気づかない。ついには、自分の欲求が満たされないことも、他者の欲求を満たさざるを得ないことも、もはやストレスとは感じられなくなる。それが普通の状態になる。そうなればその人にはもはや戦う術がない。

【『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ:伊藤はるみ訳(日本教文社、2005年)】

「逃げる」と「挑む」はシンニュウとテヘンしか違わない。ま、中身は天地雲泥の差であるが、ベクトルの向きが異なるだけとも言える。しかし、その選択すらできない状況下に置かれた人々がいるのだ。つまり、幼児期から“心を死なせる”ことで生き延びている人々だ。

 この文章は実に恐ろしいことを指摘している。なぜなら、「無力感」とは「自分が必要とされていないことに対する自覚」であり、「否定された自分を抱えながら生きてゆく」ことに他ならないからだ。大事なのは、それが客観的な事実であるかどうかではなく、子供自身がそう感じてしまっていることだ。完全無欠な疎外感、と言っていいだろう。幼児は論理的思考ができない。だから、「この世とは、そういうものなのだ」と割り切ることができてしまうのだろう。すると、助けを求めることすら出来なくなってしまう。

 それでも、精神は耐える。彼女達は静かに微笑んでみせることもできる。そして10年、20年を経た後に、身体が悲鳴を上げるのだ。これが、ガボール・マテの主張である。

2009-03-26

体から悲鳴が聞こえてくる/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
・『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 近年、脳科学本が充実しているが、身体論と併せて読まなければ片手落ち(※差別用語じゃないからね)となる。人体にあって、確かに脳は司令塔であるが、五官からの情報によって脳内のネットワークが変化することもある(池谷裕二著『進化しすぎた脳 中高生と語る〔大脳生理学〕の最前線』朝日出版社、2004年)。つまり、脳と身体はフィードバックによる相互関係で成立している。

 いつの頃からか、若者が自分の身体を傷つけるようになった。一般的に攻撃性は他者に向かう。だから、いじめは昔からあった。それどころか、実はチンパンジーの世界にもいじめが存在する(フランス・ドゥ・ヴァール著『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』早川書房、2005年)。社会を構築する動物の世界には、確固たる“権力”が存在する。そして社会はピラミッド型の序列(ヒエラルキー)を形成する。で、下の奴が上の奴にいじめられるってわけだ。

 若者の自傷行為は、引きこもりと相前後していると思われる。と言うよりも、むしろ引きこもり自体がある種の自傷行為と考えていいのかもしれない。

 鷲田清一は、身体が本来持っていた智慧が失われ、悲鳴を上げていると指摘している――

 なにか身体の深い能力、とりわけ身体に深く浸透している智恵や想像力、それが伝わらなくなっているのではないか。あるいは、そういう身体のセンスがうまく働かないような状況が現れてきているのではないか。
 そんな身体からなにやら悲鳴のようなものが聞こえてくる気がする。身体への攻撃、それを当の身体を生きているそのひとがおこなう。化粧とか食事といった、本来ならひとを気分よくさせたり、癒したりする行為が、いまではじぶんへの、あるいはじぶんの身体への暴力として現象せざるをえなくなっているような状況がある。
 たとえばピアシング。芹沢俊介は、ある新聞記事のなかで(『朝日新聞』1995年8月30日夕刊)、「一つの穴(ピアス用の)を開けるたびごとに自我がころがり落ちてどんどん軽くなる」という男子の言葉を引き、次のようにのべている。
「気になることというのは、彼らが自己の体に負荷をかけ続けることで自我の脱落という感覚を手に入れている点である。自分を相手にしたこの取引において、彼らは自己の体への小さな暴力といっていいような無償の負荷──フィジカルな負荷──を自分から差し出すことによって、精神的な報酬を得ている。教団という契機を欠いているけれど、私にはこれが宗教に近い行為のように映るのである」、と。
 あるいは摂食障害という、食による自己攻撃。
 あるいは、生理がなくなって、なのにそれがうれしい、身軽になった感じという、20代の女性の感覚。
 あるいはセックス。〈食〉と同じように〈性〉という現象にも過敏になって、とりあえず早くやりすごしたいと思う思春期の女性が増えているという。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 自傷行為は“生”の暴走なのか落下なのか。はたまた、“生きる側”に必死でしがみつく行為なのか。あるいは自分で自分に下す罰なのか――私にはわからない。

「彼女達は“生きるため”にリストカットをする」と宮台真司が言っていた。しかしながら、やってることは自分自身に対する暴力である。つまり、「生きるための暴力」を正当化することになりかねない。

 私は違うと思う。彼女達はリストカットをするたびに「死んでいる」のだ。そして、手首から滴り落ちる血の中から再び生まれてくるのだろう。

 若者の自傷行為は、「生きるに値しない世の中」に対する絶望的な抗議である。



自我と反応に関する覚え書き/『カミとヒトの解剖学』 養老孟司、『無責任の構造 モラル・ハザードへの知的戦略』 岡本浩一、他

2008-12-23

なぜ私達は声が出ないのか/『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一

 ・なぜ私達は声が出ないのか

『リズム遊びが脳を育む』大城清美編著、穂盛文子映像監督
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『心をひらく体のレッスン フェルデンクライスの自己開発法』モーシェ・フェルデンクライス
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『身体感覚を取り戻す 腰・ハラ文化の再生』齋藤孝
『息の人間学 身体関係論2』齋藤孝
『武学入門 武術は身体を脳化する』日野晃
『スーパーボディを読む ジョーダン、ウッズ、玉三郎の「胴体力」』伊藤昇

 竹内敏晴は演出家である。若い頃、一時的に聴覚を失った経験があり、独自のボイストレーニングを行っている。言うなれば「声と身体」のプロ。理論をもてあそぶような姿勢がなく、経験に裏打ちされた論理は雄々しい説得力に富んでいる。

 竹内は嘆く。「現代人は声が出なくなった」と。建物がコンクリートで造られるようになってから、子供は騒ぐことを禁じられた。何せ、赤ん坊の泣き声を嫌悪する父親がいるご時世だ。

 こえの面から見たことばとは、本来からだの発する音、さらに主体とそのからだそのものに即して言えば、からだの動きに他ならぬことになる。こえを、そしてことばを発するとは、からだの内に発した動きを、もっとも敏感にからだ全体に拡大した時、呼吸器官の部分に現れる動きの一部である。だから、からだが充分に解放され、内なる情報に対して敏速に反応できるだけ柔軟である時、充分に豊かなこえが発せられるのは当然のこととなるだろう。こえの問題は、本来発声器官の問題ではなく、からだ全体の問題なのである。
 気がつき始めてみると、こえの状態が悪い人があまりに多いので、私は不安になってきた。
 なぜ私たちは、これほどこえが出ないのか。
 なぜ私たちは、こんなにからだが歪んでいるのだろう。

【『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴(思想の科学社、1975年/ちくま文庫、1988年)】

 発語と言葉の認識という観点からすれば、脳機能の働きが抜け落ちているが、それでも説得力は色褪せていない。我々は音の出なくなったスピーカーみたいな身体を抱えているのだ。

 飽食よりも、むしろ身体を動かさなくなった生活様式の方が問題なのだろう。文明の発達は、額に汗して働くことを人々から奪い去った。私が流す汗の多くは冷や汗だ。

 自分の声が反響しない身体は、他人の声に震えることもない。そして、共感は失われ、共鳴は途絶える。声の大小ではなく、相手に届いているかどうかが問われるのだ。

 ストレスが多くなると身体は硬直する。硬直した身体はコントロールしにくくなる。そして、精神は拘縮する一方となる。

 ポピュラーミュージックの多くが「泣き声」みたいに聞こえるのも、声が出なくなっている証拠なのだろう。

 声を解放するには、身体の姿勢と生きる姿勢を変える必要がある。

2008-10-19

幼少期の歪んだ価値観が肉体を破壊するほどのストレスと化す/『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ


『悲鳴をあげる身体』鷲田清一
『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴

 ・幼少期の歪んだ価値観が肉体を破壊するほどのストレスと化す
 ・ストレスにさらされて“闘争”も“逃走”もできなくなった人々
 ・ストレス依存
 ・急性ストレスと慢性ストレス
 ・心のふれあい

『生きぬく力 逆境と試練を乗り越えた勝利者たち』ジュリアス・シーガル
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『クレイジー・ライク・アメリカ 心の病はいかに輸出されたか』イーサン・ウォッターズ
『心と体を強くする! メガビタミン健康法』藤川徳美
『最強の栄養療法「オーソモレキュラー」入門』溝口徹
『食事で治す心の病 心・脳・栄養――新しい医学の潮流』大沢博
『オーソモレキュラー医学入門』エイブラハム・ホッファー、アンドリュー・W・ソウル
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『あなたはプラシーボ 思考を物質に変える』ジョー・ディスペンザ
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

虐待と知的障害&発達障害に関する書籍
必読書リスト その二

 珍しい名前なんでアジア人かと思いきや、カナダ人医師だった。「ストレス理論」の提唱者ハンス・セリエ博士の弟子でもある。

「2200円でソフトカバーはねーだろーよ」と思ったが、400ページあったので許そう。

 自己免疫疾患やALS、はたまた乳癌やアルツハイマー型痴呆症までが、ストレス由来の可能性があると指摘している。

 ハンス・セリエ博士がストレス学説を発表したのは、1936年(昭和11年)の『ネイチャー』誌上(「種々の有害作用から生ずる一症候群」)でのこと。そんなに古かったんだね。で、誤解している人が多いが、ストレスそのものは否定されるべき代物ではない。人間には「適度なストレス」が必要とされている。

 問題は負荷の掛かり方だ。例えば互いに好意を抱いている男女がいたとしよう。やがて、二人の間には愛情が芽生え、ムフフという関係になる。この時点でムフフは快感だ。時は移ろい、四季は巡る。ある時、女性の中に秘められていた性的嗜好が目を覚ます。女は鞭とローソクを用意して男を縛り上げたのだった。男が感じたのは痛みだけであった。とまあ、性的なコミュニケーションと暴力ですら、力の加減によるものなのだ。

 そもそも、産道を通る時だってストレスを感じたであろうし、我々は24時間地球に引っ張られているのである。自分の体重ですらストレスの要因となりかねない。ストレス解消のために食べる→体重が増える→膝関節と靴底に負荷が掛かる→またぞろ食べる、これがストレス性デブの無限スパイラルだ。数年後には地面の中に足がめり込んでいることだろう。

 メアリーのからだは、彼女の心ができなかったことを実行していたのではないだろうか? 子供のころは無理やり押しつけられ、大人になってからは進んで自分に課してきた執拗な要求――常に自分より他者を優先する生き方――を拒絶するということを。1993年、医学コラムニストとして初めて『グロー、アンド・メイル』紙に執筆した記事で、私はメアリーのケースを採りあげ、今ここに記したような見解を披露した。そしてこう記した。「ノーと言うことを学ぶ機会を与えられずにいると、ついには私たちのからだが、私たちの変わりにノーと唱えることになるだろう」。コラムには、ストレスが免疫系におよぼす悪影響に関する医学論文もいくつか引用しておいた。

【『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ:伊藤はるみ訳(日本教文社、2005年)】

 価値観は選べない。なぜなら、生まれて来る時に親を選ぶことができないからだ。人は誰もが「正しくありたい」と望み、「正しくあろう」と努力する。ところが、そうした正義感が教条主義と化せばストレスとなってしまう。「大義のために死ね」ってことだ。

 ところが「正しい行為」が習慣化されていると、行動しない場合、更なるストレスに襲われる。こうなると背水の陣どころか、四方八方すべて海だ。がんじがらめの緊縛プレイ。縛り上げられたマゾは、動くだけでもロープが食い込み身体が痛む。

 このような人生を歩むことによって、「ノー」と言えなくなる。だが、負荷は掛かり続ける。そして、信号機が黄色になるように、ウルトラマンの胸のカラータイマーが点滅するように、肉体がシグナルを発する。これが病気だ、というのが本書の骨子。

 かなり説得力がある。私なんぞは完全に鵜呑みにしている。本のページ数に限りがあるためと思われるが、反対意見を紹介すれば、更なる説得力が増すことだろう。女性で、その辺の下らないカウンセラーに金を払っている人がいれば、本書を読んだ方がましだ。自分を理解する一助となることだろう。

2008-05-19

美は生まれながらの差別/『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ


『迷惑な進化 病気の遺伝子はどこから来たのか』シャロン・モアレム、ジョナサン・プリンス

 ・美は生まれながらの差別

整形手術の是非あるいは功罪
『売り方は類人猿が知っている』ルディー和子
『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール
『ママ、最後の抱擁 わたしたちに動物の情動がわかるのか』フランス・ドゥ・ヴァール

必読書リスト その三

「まともなコラムニストが読めば、死ぬまでネタには困らないだろう」――と思わせるほど、てんこ盛りの内容だ。タイトルはやや軽薄だが、内容は“濃厚なチョコレートケーキ”にも似ていて、喉の渇きを覚えるほどだ。著者は心理学者だが、守備範囲の広さ、興味の多様さ、データの豊富さに圧倒される。アメリカ人の著作は、プラグマティズムとマーケティングが根付いていることを窺わせるものが多い。

 人びとは美の名のもとに極端なことにも走る。美しさのためなら投資を惜しまず、危険をものともしない。まるで命がかかっているかのようだ。ブラジルでは、兵士の数よりエイヴォン・レディ(エイヴォン化粧品の女性訪問販売員)のほうが多い。アメリカでは教育や福祉以上に、美容にお金がつぎこまれる。莫大な量の化粧品――1分あたり口紅が1484本、スキンケア製品2055個――が、売られている。アフリカのカラハリ砂漠のブッシュマンは、旱魃(かんばつ)のときでも動物の脂肪を塗って肌をうるおわせる。フランスでは1715年に、貴族が髪にふりかけるために小麦粉を使ったおかげで食糧難になり、暴動が起きた。美しく飾るための小麦粉の備蓄は、フランス革命でようやく終わりを告げたのだった。

【『なぜ美人ばかりが得をするのか』ナンシー・エトコフ:木村博江訳(草思社、2000年)以下同】

 もうね、最初っから最後までこんな調子だよ(笑)。学術的な本なんだが、「美の博物館」といった趣きがある。雑学本として読むことも十分可能だ。それでいて文章が洗練されているんだから凄い。

 手っ取り早く結論を言ってしまうが、「美人が得をする」のは遺伝子の恵みであり、進化上の勝利のなせる業(わざ)だった。

 美は普遍的な人間の経験の一部であり、喜びを誘い、注意を引きつけ、種の保存を確実にするための行動を促すもの、ということだ。美にたいする人間の敏感さは本性であり、言い換えれば、自然の選択がつくりあげた脳回路の作用なのだ。私たちがなめらかな肌、ゆたかで艶(つや)のある髪、くびれた腰、左右対称の体を好ましく感じるのは、進化の過程の中で、これらの特徴に目をとめ、そうした体の持ち主を配偶者に選ぶほうが子孫を残す確率が高かったからだ。私たちはその子孫である。

 科学的なアプローチをしているため、結構えげつないことも書いている。例えば、元気で容姿が可愛い赤ちゃんほど親に可愛がられる傾向が顕著だという。つまり、見てくれのよくない子に対しては本能的に「劣った遺伝情報」と判断していることになる。更に、家庭内で一人の子供が虐待される場合、それは父親と似てない子供である確率が高いそうだ。

 ビックリしたのだが、生後間もない赤ん坊でも美人は判るらしいよ。実験をすると見つめる時間が長くなるそうだ。しかも人種に関わりなく。するってえと、やはり美は文化ではなく本能ということになる。

 また背の高さが、就職や出世に影響するというデータも紹介されている。

 読んでいると、世間が差別によって形成されていることを痛感する(笑)。そう、「美は生まれながらの差別」なのだ。ただし、それは飽くまでも「外見」の話だ。しかも、その価値は異性に対して力を発揮するものだ。当然、「美人ではあるが馬鹿」といったタイプや、「顔はキレイだが本性は女狐(めぎつね)」みたいな者もいる。男性であれば、結婚詐欺師など。

 人びとは暗黙のうちに、美は善でもあるはずだと仮定している。そのほうが美しさに惹かれるときに気持ちがよく、正しい世界に感じられる。だが、それでは人間の本性にある矛盾や意外性は否定されてしまう。心理学者ロジャー・ブラウンは書いている。「なぜ、たとえばリヒャルト・ワーグナーの謎に関する本が2万2000種類も書けるのか。その謎とは、崇高な音楽(『パルジファル』)や高貴でロマンチックな音楽(『ローエングリン』)、おだやかな上質のユーモアにあふれる音楽(『マイスタージンガー』)を書けた男が、なぜ熱心な反ユダヤ主義者で、誠実な友人の妻(コジマ・フォン・ビューロー)を誘惑し、嘘つき、ペテン師、策士、極端な自己中心主義者、遊蕩(ゆうとう)者でもあったかということだ。だが、それがいったい意外なことだろうか。本当の謎は、経験を積み、人格や才能にはさまざまな矛盾がまじりあうことを承知しているはずの人びとが、人格は道徳的に一貫しているべきだと信じている、あるいは信じるふりをしていることだ」

 でも、幸福の要因は「美しい心」「美しい振る舞い」「美しい生きざま」にあるのだと思う。



「虐待の要因」に疑問あり/『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
秘教主義の否定/『アドラー心理学入門 よりよい人間関係のために』岸見一郎
シリーズ中唯一の駄作/『疑心 隠蔽捜査3』今野敏

2001-07-12

蝶のように舞う思考の軌跡/『悲鳴をあげる身体』鷲田清一


 ・蝶のように舞う思考の軌跡
 ・体から悲鳴が聞こえてくる
 ・所有のパラドクス
 ・身体が憶えた智恵や想像力
 ・パニック・ボディ
 ・セックスとは交感の出来事
 ・インナーボディは「大いなる存在」への入口

『ことばが劈(ひら)かれるとき』竹内敏晴
『身体が「ノー」と言うとき 抑圧された感情の代価』ガボール・マテ
『身体はトラウマを記録する 脳・心・体のつながりと回復のための手法』べッセル・ヴァン・デア・コーク
『日本人の身体』安田登
『サピエンス異変 新たな時代「人新世」の衝撃』ヴァイバー・クリガン=リード
『ストレス、パニックを消す!最強の呼吸法 システマ・ブリージング』北川貴英
『「疲れない身体」をいっきに手に入れる本 目・耳・口・鼻の使い方を変えるだけで身体の芯から楽になる!』藤本靖
『フェルデンクライス身体訓練法 からだからこころをひらく』モーシェ・フェルデンクライス
『カシミールの非二元ヨーガ 聴くという技法』ビリー・ドイル
『ニュー・アース』エックハルト・トール
『瞬間ヒーリングの秘密 QE:純粋な気づきがもたらす驚異の癒し』フランク・キンズロー

必読書リスト その二

 これは随分と前に読んだ本。ちょっと気になる箇所があるので書き残しておこう。

 竹内敏晴などに興味がある人は必読。石川九楊や養老孟司のバランス感覚が好きな方にもお薦め。写真家とのコラボレーションである最新作は文体が気になり、読み終えることができなかったことを付け加えておく。

 著者は臨床心理学の提唱者で、身体(しんたい)についての考察は並々ならぬものがある。

 確かに産業革命による分業は、人々から“太陽と共に働き、月星と語る”生活を奪ったといってよいだろう。そもそも機械化は、人間の労力を削減するところに眼目があった。現代の労基法の考え方では、仕事=質量×距離といった物理的なものではなくして、時間の切り売りということになっている。その結果、我々は身体能力をフルに発揮する手立てを失った。幼少の頃からペットボトルをラッパのようにがぶ飲みしている子供が目につき、現代人を悩ませている問題の一つに「肥満」が挙げられることに異論を挟む人は少ないであろう。

 何を隠そう、この私もその一人である。上京してからというもの、胴回りは成長するだけ成長し、76cmだったウエストが現在では93cmという飛躍を示している。せめてこの半分だけでも身長が伸びて欲しかった。それも出来ることならば脚を……。それにしても、給料が上がらないのに肥え続けるというのは不思議である。“出る杭は打たれる”という格言があるが、“出る腹はくたびれる”と言う他ない。

 で、私が気になった箇所というのは以下の部分である。

 たとえば風呂に入ったり、シャワーを浴びたりするのが気持ちいいのは、湯、あるいは冷水といった温度差のある液体に身体を浸すことによって、皮膚感覚が強烈に活性化されるからだ。ふだん視覚的には近づきえない自分の背中の輪郭が、この背中の皮膚感覚の覚醒によってひじょうにくっきりしてくるわけだ。これは、幼児があぐらをかいている父親の膝の上に座りにくる、あるいは押入れなど狭苦しいところに入りたがるのととてもよく似ている。このような視角から考えると、スポーツや飲酒、喫煙についても同様のことが言える。激しい運動をすると、汗の気化熱で肌が収縮して身体表面の緊張が高まるし、また筋肉が凝って、ふだんはぼんやりしている身体の物質的な存在感が増す。アルコールを摂取すれば、血液が皮膚の表面に押し寄せてくるような感覚があるし、煙草や香辛料を口にしたときにも局部的に同様の効果が発生する。他人との身体の接触やマッサージについても同じことが言えそうだ。

【『悲鳴をあげる身体』鷲田清一〈わしだ・きよかず〉(PHP新書、1998年)】

 これは凄い指摘だ。私は読んだ瞬間、目の前がパッと開ける思いがしたものだ。鷲田が言うには「身体というのは部分的にしか見ることができない。だから、我々が“自分の身体”という時、それは想像された〈像〉(イメージ)でしかありえない」とのこと。

 大いに首肯できる。例えば日常生活では全く意識されない歯なども、虫歯による痛みがあれば自覚される。それは他の全てを忘れさせてくれるほどの強烈さである。

 つまりだ。上記の文章で鷲田が言っているのは、自分の身体を心地よく実感できる場合に人は快感を覚えるということなのだ。

 そう考えると様々なことに気がつくのである。例えば若者に人気があるオートバイ、スキー、サーフィン、ジェットコースター、バンジージャンプ等々。これらは、スピードを出すことにより風を受けて、自分の身体を実感することができるのが人気の理由かも。

 お茶やコーヒー、あるいはパイプ煙草、ワインなどの嗜好品は嗅覚を実感させる。日焼けや化粧なども肌を実感するためであろう。指輪、イヤリング、ネックレスなどの装飾品も、その部位を意識するものであろう。まあ、呑み屋に入るたびに指輪を外す律儀な男性もいるらしいが……。

 結局のところ、五感に刺激を受けることによって“失われた身体能力”への郷愁のようなものが掻き立てられているのかも知れない。余りにも強い刺激を求めるようになると SMクラブや覚醒剤に手を出すことになるので要注意。まあ、人間は見境のつかないところがあるから、自虐的なまでに刺激を求めてしまうのだろう。自分の身体を苛め抜くという点では、ストイックな宗教の修行と規を一にするのが何とも不思議。

 今までは只単に心地いい・気持ちいいぐらいにしか思ってなかった事柄が、実は自分を感じることによって得られる感覚だということが、実に斬新であった。とはいうものの、シェイプアップは一向に進まない。