2009-04-17

国民的物語「忠臣蔵」に代表される「意地の系譜」と「集団主義」/『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄


 ・悪しき「私化」の進行
 ・社会学者が『妖怪人間ベム』を鮮やかに読み解く
 ・国民的物語「忠臣蔵」に代表される「意地の系譜」と「集団主義」

 文化は世代間で継承される。つまり、世代を超えて継承される普遍性があるわけだ。思い切り簡単に言ってしまえば、「老若男女みんなの好きな物語」となる。

「好き」とは「逆らえない状態」である。なぜか心が惹かれる、魅了される、虜(とりこ)になる――何らかの不満・鬱積・抑圧がカタルシスを求めて、かような内面的状況に至るのだろうと私は想像している。

 熊田一雄は、継承される文化としての「忠臣蔵」に注目する――

 それでは、近代日本における覇権的男性性はいかなる種類のものだろうか。関東学院大学の細谷実の研究をヒントに私なりに考えてみた。それは時代に応じて微修正を繰り返しながらも、基本的には「忠臣蔵」という国民的物語(四十七士的男性連帯)に代表される「意地の系譜」と「集団主義」にかたちづくられているといえないだろうか(そしていまでも依然としてある程度まではかたちづくられている)。  ここで言う忠臣蔵幻想とは、1702(元禄15)年に起こった史実としての赤穂浪士討ち入り事件のことではなく、事件を題材に日本人が300年間にわたって、時代によって微修正を繰り返しながら延々と紡ぎ続けてきた「国民の物語群」総体のことを指す。討ち入り事件発生直後から、江戸の庶民の世論は四十七士をスーパースターとみなした。庶民はこの事件を幕藩体制に対する「叛乱」の物語としてとらえ、世論に配慮した幕府は事件を「忠義」の物語という解釈を与え、両者は吉良上野介をスケープゴートとすることで一致し、この時点で四十七士は当時の日本社会の全階級から「男のなかの男たち」と称賛されることになった。

【『男らしさという病? ポップ・カルチャーの新・男性学』熊田一雄〈くまた・かずお〉(風媒社、2005年)以下同】

「覇権的男性性」とは、オーストラリア人の社会学者ボブ・コンネル(※性転換後、レイウィン・コンネルに改名)が提唱した概念で、「覇権的(hegemonic)/従属的(subordinated)/周縁的(marginarized)」という類型のこと。ジャイアン、スネ夫、のび太が見事に当てはまっている。固定されたヒエラルキー――あるいはステレオタイプによる人間関係――を掻き回すトリックスターがドラえもんなのだろう。

「史実としての赤穂浪士討ち入り」と「国民の物語群としての忠臣蔵」という二重性は、「ナチ・ホロコースト」と「ザ・ホロコースト」(ノーマン・G・フィンケルスタイン著『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』三交社、2004年)と響き合う。事実から創出された物語という点において。

 私は少なからずドラマを何度か見ており、大佛次郎〈おさらぎ・じろう〉の『赤穂浪士』も読んでいるが、まったく感情移入することができなかった。道産子特有の淡白さのゆえかと思ったがそうではない。私の目には、浅野内匠頭が短気な男として映った。であるからしてこの物語は、激情に駆られて刃傷沙汰を起こした主君のために、四十七士が犠牲になったというアウトラインとなり、主従関係という封建時代の矛盾を示した物語にしか見えないのだ。

 しかし、私が何をどう主張しようとも、年末になれば「忠臣蔵」がテレビで放映されることだろう。こうした文化そのものに、私は日本人特有の「短慮」を感じてしまう。

 熊田一雄は、「忠臣蔵」という物語に込められたテーマを、「プロジェクトX」に結びつける――

「意地の系譜」と「集団主義」の持続力を見せつけているのが、NHKのテレビ番組「プロジェクトX」(放映は2000年から)の国民的人気である。この番組では、「挑戦者たち」に女性が参加していても、ナレーションは必ずといっていいほど「その時、ひとりの男が立ち上がった」で始まり、男性の私生活(家事・育児・介護)は基本的には切り捨てられている。もちろん、「集団主義」がある程度は後退し、「男女共同参画社会」と少なくとも表面ではうたわれる時代に対応して、時々アリバイ工作程度には男性の私生活に触れることはけっして忘れられていないのだが。そして、「男の意地」を貫き通して、「挫折から最後には再生した」男たちの「男泣き」で締めくくられ、集団主義の男性の連帯が称揚され、中島みゆきの曲『地上の星』が、男たちを力づける「妹の力」(伝統的民俗信仰において兄弟を支える姉妹の霊力)として利用されている。

 こいつあ、お見事。ジェンダー論の切れ味を鮮やかに示している。思想や価値観は、語り手次第でいかようにでも面白くなるという証拠だ。

2009-04-15

グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない/『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人


『エコノミック・ヒットマン 途上国を食い物にするアメリカ』ジョン・パーキンス

 ・環境・野生動物保護団体の欺瞞
 ・環境ファッショ、環境帝国主義、環境植民地主義
 ・「環境帝国主義」とは?
 ・環境帝国主義の本家アメリカは国内法で外国を制裁する
 ・グリーンピースへの寄付金は動物保護のために使われていない
 ・反捕鯨キャンペーンは日本人へのレイシズムの現れ
 ・有色人捕鯨国だけを攻撃する実態

『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン
『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン

必読書リスト その二

 目的にも大中小の種類がある。仏教ではこれを「上品(じょうぼん)・中品(ちゅうぼん)・下品(げぼん)」(九品〈くほん〉)と表した。現在使用している上品(じょうひん)・下品(げひん)の語源である。

 私が言いたいことはこうだ――小目的のために大目的が利用されてはいけない。そりゃそうだろう。今日、明日の何かのために人生を棒に振っていいはずがないのだから。

 動物保護運動の大目的は美しい。だが中身はといえば、保護の対象となる動物は意図的に選び抜かれ、自分達の暮らしにマイナスの影響が及ばないものに限定されていた――

 クジラ、アザラシ、象、海亀……。これらの動物に共通しているのは神秘性があり、十分な愛玩性を備えていることだろう。ペットにはできないが、観賞用としては野生動物の中では上位を占める。
 このような動物が有色人種によって無駄に殺され、資源が絶滅に向かっているとのキャンペーンは、欧米諸国で広く深く、そして急速に受け入れられた。そして「この動物を保護するために寄付を」との呼びかけに数百万人が反応した。グリーンピースは、80年代に年間約200億円のカネを集めている。だが、このカネは動物の保護に使われることはなく、組織の拡大と新たなキャンペーンへの経費に充てられた。

【『動物保護運動の虚像 その源流と真の狙い』梅崎義人〈うめざき・よしと〉(成山堂書店、1999年)】

 これが連中のやり方だ。誰も反対できない大義名分を掲げておいて、中目的・小目的はやりたい放題。しかも、環境問題・気候変動対策として国家予算が割り振られている現在においては、その気になればいくらでも金を引っ張り込むことが可能だ。

 人間の脳は納得させられると洗脳状態に陥る。自分の概念になかったテーマや問題を突きつけられると、なぜか逆らい難くなる性質を持っている。キャンペーンはお手の物だ。動物が殺される場面の背景に悲しい音楽を流せば、間違いなく人々の同情を集められる。プロパガンダ。

 ノーマン・G・フィンケルスタイン著『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』(三交社、2004年)によれば、ドイツがユダヤ人に対して行った戦後の賠償金の大半が被害者の手に渡らず、ユダヤ人組織が収奪しているという。

 嘘にも大中小がある。大きな嘘は見抜くことが難しい。

2009-04-11

信用創造のカラクリ/『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン


 ・信用創造のカラクリ
 ・帝国主義による経済的侵略

『エンデの遺言 「根源からお金を問うこと」』河邑厚徳、グループ現代
『円の支配者 誰が日本経済を崩壊させたのか』リチャード・A・ヴェルナー

 我々の社会における「信用」とは何であろうか? 本来であれば人柄が織りなす言葉や行動に対して向けられるべきものだが、実際は違っている。資本主義社会における信用とは、「どれだけのお金を借りることができるか」という一点に収斂(しゅうれん)される。信用=クレジット(credit)。つまり、“与信枠”を意味する。もちろん、ヒエラルキーの構成要素もこれに準じている。

 資本とはお金のことだ。で、お金は銀行にある。資本主義経済において銀行は心臓の役目を担っている。続いて銀行の機能を紹介しよう。

 一言でいえば、「銀行とは、準備預金制度のもとで信用創造を行う業態」のこと。話を単純にすれば、「銀行が日銀に金を預ければ、その1000倍貸し出しても構わないよ」(※「準備預金制度における準備率」〈500億円超〜5,000億円以下〉を参照)という仕組みになっている。上手すぎる話だ。私にも一口乗らせて欲しい。

 すると理論的には以下のようなことも可能となる――

 例えば、銀行は1ドルの資本につき、12ドルの貸付をするかもしれない。なぜこれが可能かと言えば、貸し出された資金は使われるか、再び銀行システムに預けられるのかの、いずれかだからだ。使われた場合、その資金は再び使われるか、再び預けられる。貸し出された資金はすべて預金として戻ってくるため、再び貸し出すことができる。理論的には、1ドルの資本で世界中の貸付金を賄うことも可能だ(実際にこれを試みる人たちもいる)。

【『ギャンブルトレーダー ポーカーで分かる相場と金融の心理学』アーロン・ブラウン:櫻井祐子訳(パンローリング、2008年)】

 2007年7月27日からマーケットにサブプライムショックが襲い掛かった。そして昨年9月15日に米大手証券会社のリーマン・ブラザーズが破綻し、世界最大の保険会社AIG(アメリカン・インターナショナル・グループ)が危機に見舞われた。

 一連の出来事を、「週刊スモールトーク」のR.B氏が絶妙な例えで解説している――

 ここで、今回の問題を整理しよう。個々は複雑だが、全体はいたってシンプルだ。身なりのいいセールスマンが、「100円+50円」と書かれた紙切れを売りさばいていた。曰く、
「この証書を100円で購入すると、1年後には150円になりますよ」
「集めたカネで宝くじを買って、それで支払うつもりです」
「大丈夫かって?」
「ご心配無用。保険をかけてありますから」
「宝くじにはずれても、保険会社が払ってくれますよ」

 こうして、セールスマンはこの紙切れを、世界中に売りさばいたが、運悪く? 宝くじははずれてしまった。ところが、あてにしていた保険会社は、額が多すぎて払えないという。金融世界を守る最後の砦が、いとも簡単に崩壊したのである。

【「世界恐慌I ビッグ3ショック」】

 結局のところ、問題の本質は「信用バブル」にあったという鋭い指摘だ。

 色々とネットを調べていたところ、物凄い動画を発見した。私がダラダラと何かを書くより、こちらを見た方が100倍以上も有益だ。タイトルは「Money As Debt」(負債としてのお金)。メディアが絶対に指摘しない資本主義システムの欺瞞が暴かれている。→「Money As Debt


学校の先生が絶対に教えてくれないゴールドスミス物語
ロスチャイルド家
「ロックフェラー対ロスチャイルド」説の研究
ある中学校のクラスでシャーペンの芯が通貨になった話
マネーサプライ(マネーストック)とは/『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『アメリカ:自由からファシズムへ』アーロン・ルッソ監督
『モノポリー・マン 連邦準備銀行の手口』日本語字幕版
・『Zeitgeist/ツァイトガイスト(時代精神)』『Zeitgeist Addendum/ツァイトガイスト・アデンダム』日本語字幕
・ファイナンシャル・リテラシーの基本を押さえるための3冊
・サブプライム問題と金融恐慌
モンサント社が開発するターミネーター技術/『自殺する種子 アグロバイオ企業が食を支配する』安田節子
マネーと民主主義の密接な関係/『サヨナラ!操作された「お金と民主主義」 なるほど!「マネーの構造」がよーく分かった』天野統康

2009-04-09

ザ・ホロコーストの神聖化/『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン


 ・目次
 ・エリ・ヴィーゼルはホロコースト産業の通訳者
 ・誇張された歴史を生還者が嘲笑
 ・1960年以前はホロコーストに関する文献すらなかった
 ・戦後、米ユダヤ人はドイツの再軍備を支持
 ・米ユダヤ人組織はなりふり構わず反共姿勢を鮮明にした
 ・第三次中東戦争がナチ・ホロコーストをザ・ホロコーストに変えた
 ・1960年代、ユダヤ人エリートはアイヒマンの拉致を批判
 ・六月戦争以降、米国内でイスラエル関連のコラムが激増する
 ・「ホロコースト=ユダヤ人大虐殺」という構図の嘘
 ・ホロコーストは「公式プロパガンダによる洗脳であり、スローガンの大量生産であり、誤った世界観」
 ・ザ・ホロコーストの神聖化
 ・ホロコーストを神聖化するエリ・ヴィーゼル
 ・ホロコースト文学のインチキ
 ・ビンヤミン・ヴィルコミルスキーはユダヤ人ですらなかった

『人種戦争 レイス・ウォー 太平洋戦争もう一つの真実』ジェラルド・ホーン
『ヒトラーの経済政策 世界恐慌からの奇跡的な復興』武田知弘

 著者のノーマン・G・フィンケルスタインは、ホロコースト産業によって後々捏造(ねつぞう)された歴史を「ザ・ホロコースト」と呼び、実際に起こった歴史的事実を「ナチ・ホロコースト」と表現し、厳密に区別している。

 第二次世界大戦の余韻が残っていた時期、ナチ・ホロコーストはユダヤ人だけの事件とは考えられていなかったし、ましてや歴史に唯一無二の事件という役割をあたえられてなどいなかった。組織的アメリカ・ユダヤはむしろこれを普遍的な文脈に位置づけることに腐心していた。ところが六月戦争後、ナチの最終的解決の枠組みに過激な変化が起こった。ジェイコブ・ネウスナーは当時を振り返り、「1967年戦争以後に登場し、アメリカのユダヤ思想を象徴するものとなった主張がいくつかあるうちで、最初の、そしてもっとも重要なもの」は、「ホロコーストは……人類史上に比べるもののない唯一無二のもの」という主張だった、と述べている。また歴史家デイヴィッド・スタナードはその啓発的な論文で、「ホロコースト聖人伝作家の小規模産業が、神学的熱狂の精力と創意を総動員して、ユダヤ人の経験は唯一無二のものだと言い張っていた」と嘲笑している。要するに、唯一無二のものという教義は意味をなさないのである。
 根本的に言えば、あらゆる歴史的事件はどれも唯一無二であって、少なくとも時間と場所はすべて違っている。またすべての歴史的事件には、他の事件とは違う固有の特徴もあれば共通する点もある。ザ・ホロコーストの異様さは、その唯一性を無条件で決定的なものとしていることだ。無条件の唯一性を持った歴史的事件などあるだろうか。概してザ・ホロコーストについては、この事件を他のできごととまったく違う範疇に位置づけるために、固有の特徴ばかりが取り上げられている。しかし、他の事件と共通する多くの特徴が些末なものと認識されなければならない理由は、決して明らかにされない。

【『ホロコースト産業 同胞の苦しみを「売り物」にするユダヤ人エリートたち』ノーマン・G・フィンケルスタイン/立木勝訳(三交社、2004年)】

「ナチ・ホロコーストはユダヤ人だけの事件とは考えられていなかった」というのは極めて重要な指摘である。ただし、これは今後も様々な人の手で検証する必要がある。著者の指摘通りであれば、「ナチスによる大量虐殺」が「ナチスによる“ユダヤ人”大量虐殺」と書き換えられたことになる。

 ホロコースト産業は、唯一無二という絶対性を脚色し、被害を誇大にしてみせた。国際的な関心が寄せられれば、当然金も集めやすくなる。まして、国家予算から引き出すことができれば、疑念を抱く人々も出てこない。大衆は自分の財布にしか興味を持たないものだ。

「絶対」という言葉を連発するのは小学生である。それも3年生くらいか。私の記憶によれば、指切りげんまんをしなくなった頃から、「絶対」を使うようになったはずだ。これは、概念や抽象化が不確かなためだろう。言葉の定義すら曖昧なため、「絶対性」に固執するのだ。

 一方、信仰者も「絶対」を濫用(らんよう)する。「神のご加護と裁きは絶対です」――ヘエ、そうかい。じゃあ、ルワンダのクリスチャンが大量虐殺されていた時、神様は昼寝でもしたのか?(レヴェリアン・ルラングァ著『ルワンダ大虐殺 世界で一番悲しい光景を見た青年の手記』晋遊舎、2006年)

 いずれにせよ、科学的根拠や論理的整合性を欠いた「絶対」ほど危険なものはない。世界中の原理主義という原理主義を支えているのは「絶対性」なのだから。



『パレスチナ 新版』広河隆一
文学者の本領/『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクション第2巻』竹山道雄:平川祐弘編

2009-04-04

死の瞬間に脳は永遠を体験する/『スピリチュアリズム』苫米地英人


 ・江原啓之はヒンドゥー教的カルト
 ・平将門の亡霊を恐れる三井物産の役員
 ・死の瞬間に脳は永遠を体験する

『夢をかなえる洗脳力』苫米地英人
『洗脳支配 日本人に富を貢がせるマインドコントロールのすべて』苫米地英人
『「生」と「死」の取り扱い説明書』苫米地英人
『現代版 魔女の鉄槌』苫米地英人
『原発洗脳 アメリカに支配される日本の原子力』苫米地英人
『「言葉」があなたの人生を決める』苫米地英人

「死んだ後はどうなるのか?」――古(いにしえ)より議論されている大きなテーマである。果たして死後の生命はあるのかないのか。あるとすれば形状が問われ、ないとすれば倫理が崩壊する。

 ところが、だ。苫米地英人は「死ぬ瞬間」に着目する。これは斬新な視点だ――

 二つのことを事実として説明すればわかりやすいと思いますが、まずひとつはドーパミンをはじめとするありとあらゆる脳内伝達物質が、脳が壊れるときに大量に放出されます。ですからまず、気持ちが良い。脳幹の中心の中脳のところ、VTA領域からいくつかの経路が伸びていて、脳幹の中のドーパミン細胞からドーパミンが大量に出ます。要するに、臨死体験のときは超大量の脳内伝達物質が出て、凄く気持ちが良い体感をする。同時にありとあらゆる幻視・幻聴・幻覚が起こります。
 もうひとつは、時間が無限に長くなっていきます。時間感覚が変わっていくわけです。たとえば走馬灯のように自分の人生の歴史を見るとか言いますが、それはあたりまえのことで、脳内の神経細胞が壊れるにあたってとてつもない脳内伝達物質が放出されますから、最後の最後に脳が超活性化されるのではないかと思います。線香花火の最後の一瞬のようなものです。すると、たくさんの記憶を同時に見る。脳は元々超並列的な計算機なのです。我々の脳はふだん生きているときは凄くシリアルに(ひとつずつ順を追って)認識しますが、つまり、ひとつのことを認識しているときは他を認識できません。それが臨死体験のときは、同時に全部認識するわけです。走馬灯のように一生を経験するというのは、一生をリアルに経験しているのではなく、短い間に一生の体験を全部同時に認識するわけです。内省的には一生を全部ゆっくり体験したかのように感じています。時間の感覚がどんどん変わっていくからです。生という状態から限りなく死に近づいていく、死という接点に向かって永遠に近づき続ける接線のようなものです。死んでいく人にとって、体感としての時間はとてつもなく長くなっていきますから、もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません。

【『スピリチュアリズム』苫米地英人〈とまべち・ひでと〉(にんげん出版、2007年)】

 つまり、大量のドーパミンによって極限まで活性化された脳が、コンピュータのように超並列で動き出すということ。ご存じのように、パソコンというのは複数のアプリケーションやシステムが同時に目まぐるしく動いている。これと同じ働きが脳で起こるというのだ。

 脳内ではニューロンが猛烈なスピードで信号を放つ。そして思考(無意識も含めて)のスピードは光速に等しくなる(『数学的にありえない』アダム・ファウアー、文藝春秋、2006年)。

 この時、観測者(=遺族)から見れば、死者の動きは完全に止まって見える。なぜなら、「光は年をとらない」からだ(『エレガントな宇宙 超ひも理論がすべてを解明する』ブライアン・グリーン、草思社、2001年)。

「もしかすると死は永遠にやってきてないかもしれません」――これは人が死ぬ瞬間に光と化すことを示している。

 この指摘は凄い。時間と永遠というテーマは、宇宙の起源や宗教と密接に関わっている。そして歴史の奥底を貫く概念でもある。死の瞬間に向かって永遠(無限)が立ち現れるという発想は、ちゃぶ台を引っ繰り返すほどのパラダイムシフトと言ってよい。



キリスト教と仏教の「永遠」は異なる/『死生観を問いなおす』広井良典
『消えたい 虐待された人の生き方から知る心の幸せ』高橋和巳
過去世と来世/『死後はどうなるの?』アルボムッレ・スマナサーラ