2018-11-02

もしもアメリカが参戦しなかったならば……/『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ


『國破れて マッカーサー』西鋭夫
・『日本永久占領 日米関係、隠された真実』片岡鉄哉

 ・もしもアメリカが参戦しなかったならば……

日本の近代史を学ぶ

 日本との間の戦争は不必要であった。これは、お互い同士よりも共産主義の脅威をより恐れていた日・米両国にとって、悲劇的であった。われわれは、戦争から何も得るところがなかったばかりか、友好的であった中国を共産主義者の手に奪われることとなった。
 イギリスは、それ以上に多くのものを失った。イギリスは、中国に対しては、特別の利益と特権を有していたし、マレーシア、シンガポール、ビルマ、インドおよびセイロンをも失った。
 蒋介石は、オーエン・ラティモアの悪い助言を受け入れて、日本軍の中国撤兵を要求する暫定協定に反対した。同協定は、蒋介石の中国全土掌握を可能にしたかもしれない。これはヤルタ会談でルーズベルトがスターリンに譲歩を行なったその3年前のことである。
 われわれの同盟であったスターリンの共産軍に対して、満州侵攻を許す理由は何もなかったはずである。蒋介石は、米国の友人として、中国共産主義者の反攻を打ち砕くに必要な、すべての武器および資源を持ちえたはずであった。
 われわれが参戦しなかったならば、すなわち日本のパールハーバー攻撃がなかったならば、事態はどう進展していたか、という疑問はしばしば呈される。この疑問は、詳細な回答を与えられるに値する。
 私は、米国は簡単に日本との間で和平条約を締結できたであろうし、その条約の中で日本は、フィリピンとオランダ領東インドを含む極東における全諸国との交易権とひきかえに、中国およびインドシナからの友好的撤退に合意したであろうことを確信している。

【『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ:岡崎久彦監訳(PHP研究所、1985年/PHP文庫、1992年)】

 ハミルトン・フィッシュは共和党の党首を務めた下院議員で、戦時中の議会においてフランクリン・ルーズベルト(民主党)を批判した人物として広く知られる。

 開戦当初、フィッシュは議会で挙国一致を説きルーズベルト大統領を力強く支持した。ところが後にルーズベルトの秘密外交や日本を戦争にけしかけた手法、更には真珠湾攻撃を事前に知りながらアメリカ海軍を犠牲にしたことなどを知り、大統領を猛々しく糾弾するようになる。戦時中にありながらも議会やマスコミが正常に機能していたところにアメリカの真の勝因があったのだろう。

 フィッシュの指摘によればアメリカは戦略を誤り、友邦のイギリスをも凋落(ちょうらく)させてしまった。その後、ヤルタ体制(1945年)によって冷戦がソ連崩壊(1991年)まで続くことを思えばルーズベルトの判断がどれほどアメリカの国益を損ねたか計り知れない。それまでモンロー主義(孤立主義)を貫いてきたアメリカは以降、次々と世界各地で軍事介入をするようになる。トランプ大統領が掲げるアメリカ・ファーストはルーズベルト以前のアメリカを取り戻すということなのだろう。

 日本が開戦を決意したのは永野修身〈ながの・おさみ〉軍令部総長の言葉に言い尽くされている。「戦わざれば亡国必至、戦うもまた亡国を免れぬとすれば、戦わずして亡国にゆだねるは身も心も民族永遠の亡国であるが、戦って護国の精神に徹するならば、たとい戦い勝たずとも祖国護持の精神が残り、われらの子孫はかならず再起三起するであろう」(昭和16年〈1941年〉9月6日の御前会議)。

 最後の一言に慚愧(ざんき)の念を覚えぬ者があろうか。我々の父祖は子や孫を信じて敗れ去る戦いに臨んだのだ。

 もしもアメリカが参戦しなかったならば……日本は領土を拡大し、アメリカと手を組むことでソ連を封じ込め、中国の共産主義化を防ぐことができたに違いない。しかしながら帝国主義が50年から100年は続き、アジア・中東・アフリカ諸国は植民地のまま21世紀を迎えたことだろう。とすれば大東亜戦争は日米にとっては不幸な戦争であったが、世界のためには植民地の歴史にとどめを刺す壮挙であったと考えるべきだろう。日本人310万人、世界では5000-8000万人(病死・飢餓死を含む)の死者は大惨事であったが、もしも第二次世界大戦がなければ長期間に渡ってもっと多くの人々が殺されたに違いない。

 歴史は死者の存在によって変わる。これが人類の宿痾(しゅくあ)であろう。

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2018-11-01

記憶喪失と悟り/『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介


『暗殺者』ロバート・ラドラム

 ・記憶喪失と悟り

必読書リスト その二

 こ れ か ら な に が は じ ま る の だ ろ う

 目のまえにある物は、はじめて見る物ばかり。なにかが、ぼくをひっぱった。ひっぱられて、しばらくあるく。すると、おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、ばたんと音がする。
 いろいろな物が見えるけれど、それがなんなのか、わからない。だからそのまま、やわらかい物の上にすわっていると、とつぜん動きだした。外に見える物は、どんどんすがたや形をかえていく。
 上を見ると、細い線が3本ついてくる。すごい速さで進んでいるのに、ずっと同じようについてくる。線がなにかに当たって、はじけとぶように消えた。すると2本になった。しばらくすると、こんどは4本になった。
 この線はなんなのだろう。なん本ついてくるのだろう。ふえたり、へったりして、がんばってついてくる線の動きがおもしろい。
 急に、いままで動いていた風景が止まった。すると、上で動いていた線も止まる。さいしょと同じ3本になっている。みんないっしょにきてくれたんだ。
 外に出されると、ぼくが見ていた細い線は、ずっとおくまでのびていた。上を見ていると、なにかがぼくの手をひっぱる。足がかってについていく。つぎに止まったばしょには、しずかで大きな物があった。
 それは見上げるほど大きい。どうしたらいいのか、まよっていると「ここがゆうすけのおうちやで」と言われた。おうちも、ゆうすけも、なんなのことかわからなくて、ただ立つだけだ。なにかにひっぱられて、そのまま入っていく。

【『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介(幻冬舎、2001年『ぼくらはみんな生きている 18歳ですべての記憶を失くした青年の手記』改題/幻冬舎文庫、2003年/朝日文庫、2011年)】

 坪倉優介はスクーターで帰宅途中、トラックと衝突する事故に遭い意識不明の重体となる。10日後に意識は回復したものの記憶を完全に喪失していた。

 冒頭のテキストである。私は俵万智〈たわら・まち〉の解説を読むまで気づかなかったのだが「3本の線」とは電線のことだった。「やわらかい物」はクルマのシートだろう。空白マスを挿入した見出しが実にいい。そこはかとない不安と行方の知れぬ先行きを巧みに表している。

 自我とは記憶の異名である。過去をもとにした感情の反応や関係性の物語が「現在の私」を紡ぎ出すのだ。とすると記憶喪失はそれまで蓄積したデータやソフトなどを消去して初期状態に戻したパソコンのようなものと考えることができる。

 更に自我=記憶であれば、記憶喪失は無我を志向し、悟りに近い状態になるのではあるまいか、と私は考えた。が、違った(笑)。

 坪倉の奇蹟は物の意味すらわからなくなった状態に陥りながらも言葉を失わなかったことだ。言い方は悪いが、赤ん坊が無垢な瞳で世界をどのように見つめているかを知ることができる。その意味で若いお父さん、お母さんは必読である。

 電線に対して「がんばってついてくる」「みんないっしょにきてくれたんだ」という純粋な気持ちに涙がこぼれる。大人からすれば景観の邪魔でしかない電線にこれほど豊かな感情を添えている。そんな子供の心を踏みにじり、大人は競争の世界へと彼らを誘導する。

 真っ白な世界が少しずつ色合いを増してゆく。その後坪倉は大阪芸術大学工芸学科染織コースに復学し、努力の末、染物作家として活躍している(卒業生インタビュー | 大阪芸術大学)。

 疑問の一つが解けた。自我を打ち消すことが悟りなのではない。自我から離れることが悟りなのだろう。一瞬一瞬の時を経て経験を積み重ねてゆくわけだが、その経験にとらわれることなく離れることは、時間からも離れることを意味する。ここに至れば過去と未来は死ぬ。現在は過去の集積でもなければ、未来のために犠牲にする時間でもない。現在は「ただ、ある」のだ。

 よく考えてみよう。苦しみは過去から生まれ、不安は未来に向かって抱くものだ。つまり苦悩が現在性を見失わせるところに不幸の根本原因があるのだ。そんなことを気づかしてくれる読書体験であった。

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2018-10-31

「書く」行為に救われる/『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄、柳澤桂子


『免疫の意味論』多田富雄
『こんな夜更けにバナナかよ 筋ジス・鹿野靖明とボランティアたち』渡辺一史

 ・「書く」行為に救われる

『逝かない身体 ALS的日常を生きる』川口有美子

必読書リスト その二

 先生は一晩にして、声が出ないためにお話ができない(構音障害)という状態になられました。これはどんなにかお辛いことだったと存じますが、失語症(言葉が理解できなくなる)になられなくてほんとうに良かったと存じます。言葉を失うということは、人格を否定されるのと同じくらい辛いことではないかと思います。
 それに致しましても、たおられてから半年も経たないうちに、この「文藝春秋」の原稿を書き上げられるというのは、何というエネルギーでしょう。
 私は思わず字数を数えてしまいました。6000字余り、原稿用紙にして15枚。先生は右半身麻痺になられ、左手しかお使いになれないはずです。左手でワープロを打つと書いておられますが、6000字全部を左指で打ち込まれるご苦労はどんなだったでしょうか。それに締め切りのある原稿は、健康な人にとってもきついものですのに。
 何かに憑かれたように、左手でワープロを打っておられる先生のお姿が目に浮かびます。お座りになることはできるのでしょうか。先生も書くということの不思議を強く感じられたと存じます。
 私も次第に動けなくなり、たいせつにしてきたマウスの研究もやめなければならなかったときに、書くということがどれだけ私を救ってくれたかしれません。私は先生のように有名ではなかったので、書いた原稿が本として出版されるかどうかはまったくわかりませんでした。それでも、書いて書いて、書くことが生きることだったのです。(柳澤桂子)

【『往復書簡 いのちへの対話 露の身ながら』多田富雄〈ただ・とみお〉、柳澤桂子〈やなぎさわ・けいこ〉(集英社、2004年/集英社文庫、2008年)】

 幾度となく読むことを躊躇(ためら)った本である。高齢・病気・障碍(しょうがい)というだけで気が重くなる。ブッダは生老病死という人生の移り変わりそのものを苦と断じた(四苦八苦の四苦)。まして功成り名を遂げた二人である。落魄(らくはく)の思いがあって当然だろう。「露の身」というタイトルが露命の儚(はかな)さを象徴している。

 恐る恐るページを繰った。指の動きがどんどん速度を増して気がついたら読み終えていた。私の懸念は完全な杞憂であった。むしろ自分の浅はかさを暴露したようなものだ。人間の奥深さを知れば知るほど謙虚にならざるを得ない。人の偉大さとは何かを圧倒することではなく、真摯な姿を通して内省を促すところにある。

 私はまず老境のお二方が男と女という性の違いを豊かなまでに体現している事実に驚いた。男の優しさと女の気遣いが際立っている。しかも尊敬と信頼の情に溢れながらも慎ましい静謐(せいひつ)さが漂う。エロスではない。プラトニックラブでもない。これはもう「日本の男と女」としか形容のしようがない。

 老いとは衰えの季節である。老いとは弱くなることで、今までできたことができなくなることでもある。そして「死んだ方がましだ」という病状にあっても尚生きることなのだ。

 多田富雄は脳梗塞で一夜にして構音障害失語症とは別)、嚥下障害、右麻痺の体となった。臨死体験から生還した彼は雄々しく「新しい生」を生き始める。過去の自分と現在の自分を比較するのではなく、ただ現在の自分をひたと見据えた。

「書く」行為に救われたと柳澤桂子が書いているが、我々が普段当たり前にできることの中に実は本当の幸せがあるのだろう。話すこと、聞くこと、書くこと、読むこと……。ひょっとすると生そのものが幸福なのかも知れない。私は生きることをどれほど味わっているだろうか? 美酒を舐め、ご馳走に舌鼓を打つように瞬間瞬間を生きているだろうか? 渇きを癒やすように生の水を飲んでいるだろうか? そんな疑問が次々と湧いて止まない。

「詩は、『書くまい』とする衝動なのだ」と石原吉郎〈いしはら・よしろう〉は書いた(『石原吉郎詩文集』)。多田富雄と柳澤桂子は「動くまい」とする体の衝動と戦うために書いたのだ。

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アメリカが行ったベトナム・ホロコースト/『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』ニック・タース


『ベトナム戦記』開高健
『人間の崩壊 ベトナム米兵の証言』マーク・レーン

 ・アメリカが行ったベトナム・ホロコースト

『アメリカの国家犯罪全書』ウィリアム・ブルム
『ショック・ドクトリン 惨事便乗型資本主義の正体を暴く』ナオミ・クライン

必読書リスト その二


「アメリカが戦争に勝ってよかったと思う。日本が勝ったらアメリカ人に対してどれほど残虐なことをしたか知れない」「アメリカのお蔭で日本は民主主義になった」――20~30年前まではこう考える人々が多かった。日本人に対して戦争の罪を刷り込ませるGHQの宣伝工作(ウォー・ギルト・インフォーメーション・プログラム)は見事なまでに成功し、長期間にわたって日本人の精神を呪縛した。

 東京裁判では「平和に対する罪」というそれまでなかった概念を創作し、新しい基準を設けて過去の罪を裁くトリックまで行った。「平和に対する罪」を犯した人々がA級戦犯で25名中7名が処刑された。誤解している人々が多いが、ABCは罪のランク付けを意味するものではなく、A項・B項・C項の違いにすぎない。

 アメリカは日本に平和憲法を与えた。そのアメリカが第二次世界大戦後、朝鮮戦争(1950-53年)・ベトナム戦争(1955-75年)を行った。米兵はベトナムで何をしたのか。ご覧いただこう。

 クアンナム省と同様クアンガイ省でも、すさまじい砲撃や空爆が加えられる一方、地上部隊による目を覆うばかりの残虐行為がくり広げられた。数年後、エスクァイ誌の記者、ノーマン・ポワリエが軍の記録をもとに、そうした恐ろしい出来事のひとつを生々しく再現した記事を書いた。このような残虐行為の詳細が雑誌に掲載されるのは、戦争中としては異例のことだったが、そこに書かれた民間人の受難は、少しもめずらしくない、むしろありふれたものだったのだ。
 ポワリエの記事によれば、1966年9月23日、海兵隊のある部隊がスアンゴック集落に降り立った。彼らの狼藉は、まず1軒の家に押し入るところからはじまった。家の主人はコメ農家兼大工のグエン・ルウという61歳の男性だった。海兵隊員たちはこの武器を持たない住人に殴る蹴るの暴行を加えた。ひとりの兵士が「このベトコン野郎め!」と叫んでいたという。彼らはルウの民間人身分証明書を破り、家のなかを荒らした。ルウの若い姪たちは恐怖のあまり悲鳴をあげた。70歳近い妻は手荒な扱いを受け、ルウの妹も容赦なく足蹴にされた。
 それからほどなく、38歳の農民、グエン・チュックの家の扉がさっと開いた。チュックの妻は5人の子供たちのもとへ駆け寄ろうとしたが、海兵隊員たちにつかまって外へ放り出された。そのあとチュックはさんざんに殴られ、立ち上がることもできなくなった。やがてふたりの兵士が彼の両脚をつかんで逆さ吊りにし、もうひとりが彼の顔を力いっぱい蹴りつけた。悲鳴とすすり泣く声が部屋に満ちた。
 何度もあがったその叫び声は、16歳のグエン・チ・マイの家まで聞こえてきた。彼女は母とおばといっしょに地下壕に逃げ込んだ。3人が身をすくめてしゃがんでいると、海兵隊員たちが上からのぞき込み、手招きで出てこいと指示した。母とおばは従ったが、マイは恐怖のあまり動けなかった。手が伸びてきて、片脚をつかまれ、彼女は引きずり出されてしまった。兵士たちは3人の民間人身分証明書を破り捨てた。アメリカ人のひとりがマイの首すじに手をあてがい、もう一方の手で彼女の口をふさいだ。すると別のふたりの兵士が彼女の両脚をつかんで地面に引き倒し、荒々しくズボンを剥ぎ取った。
 海兵隊員たちはこのようにしてさらに5~6軒の家に押し入って集落を恐怖に陥れたが、武器も禁制品も見つからず、敵に関する情報さえも入手することができなかった。彼らが次に襲ったのは、18歳のブーイ・チ・フォンとその20歳の夫、ダオ・クアン・ティンの家だった。ティンは農民で、病気のために兵役につけなかったのだ。ふたりは3歳の息子と、ティンの母、姉、その5歳になる娘といっしょに暮らしていた。海兵隊員たちは、ティンをベトコンと決めつけ、ほとんど意識がなくなるまで殴った。彼らはティンを外へつれ出し、家の前の壁にもたせかけておいて、その横に恐怖にすくみ上がった姉と母親とふたりの子供を立たせた。
 妻のフォンは家のわきへと引きずっていかれた。ひとりの兵士が彼女の口を手で覆い、ほかの者が両腕と両足を地面に押さえつけた。米兵たちは彼女のズボンを脱がせ、シャツを引き裂き、体をまさぐった。そして輪姦がはじまった。最初はひとりの兵士が、次に別の兵士が襲いかかり、合計5人で彼女を陵辱した。ティンは妻のすすり泣きを聞き、大声で叫んで抗議した。すると海兵隊員たちはまた彼を殴りはじめた。やがて銃が乱射され、その声がやんだ。次の一連射がティンの母親の嗚咽に終止符を打ち、さらなる銃撃が姉を黙らせた。まもなく、子供たちの声もフォンの耳に届かなくなった。パン!という音に続いて閃光が弾け、灼けるような痛みが走ったかと思うと、フォンはどっと倒れた。
 海兵隊員たちは、現場の「見栄えをよくする」ために手榴弾を爆発させ、無線で戦果を報告した。ベトコン3名を殺害した、と。だが指揮所に戻ると、彼らは中尉に、あらかじめ決めておいた待ち伏せ場所では銃撃戦が起こらず、誤って民間人を数人死なせてしまったと話した。中尉は隊員たちに集落へ案内させ、自分の目で事実を確かめた。
 中尉は部下が大量虐殺を犯したことにショックを受けたが、すぐに犯罪の隠蔽に取りかかった。ティンの遺体を、当初計画していた1キロほど先の待ち伏せ場所まで運んでいき、細工をして、そこで銃撃があったように見せかけた。彼らはスアンゴック集落の殺戮現場にも手を入れた。ティンの5歳の姪は血まみれになり、裸で倒れていた。その体を抱きあげたとき、いきなり彼女が泣きだした。死んでいなかったのだ。しかしジョン・ポッター上等兵が二度と生き返らないようにした。彼はほかの兵士たちにカウントしろと言い、ある隊員によれば、たっぷり時間をかけて「ライフルでぐしゃぐしゃにした」という。別の隊員はこう証言している。「わたしは、1……2……3……と数えました。すると上等兵は(ライフルの)台尻であの子を何度も何度も殴りつけたんです!」
 じつはブーイ・チ・フォンもまだ生きていたのだが、隊員たちは気づかなかった。彼女は銃で撃たれたあと、意識を失っていた。数時間後、激しい痛みを感じて目を覚ました。どこもかしこも血まみれだった。手当てをしてもらうため、村人のひとりがもよりの米国海兵隊基地まで彼女をつれていってくれた。そこでフォンはベトナム人通訳者に、自分がレイプされたこと、家族が惨殺されたことを話した。通訳はこのことを同情的なアメリカ人医師に伝えてくれた。医師はフォンを診察し、性暴力被害に遭った確証を得ると、大隊指揮官に犯罪行為がおこなわれたことを報告した。フォンが一命をとりとめなければ、そして海兵隊員たちが戻ってきたあいだも意識が戻らず、基地へ運ばれてから勇気ある通訳者に話をし、その人物がフォンのために働いてくれそうなアメリカ人士官を見つけてくれなければ、ほかの多くの大量虐殺事件と同様、スアンゴック集落の事件も闇に葬られていたことだろう。しかしフォンの証言に基づく公式の捜査が実施されたにもかかわらず、殺戮にかかわったアメリカ人9名のうち、3名は無罪となり、4名は短期の懲役刑を受けただけですんだのだった。

【『動くものはすべて殺せ アメリカ兵はベトナムで何をしたか』ニック・タース:布施由紀子〈ふせ・ゆきこ〉訳(みすず書房、2015年)】

 かような事実が300ページにわたって羅列されている。一片の罪もない婦女子や老人を暴行し、切り裂き、銃で撃ち、家屋には火を放ち、避難壕に手榴弾を放り込み、ナパーム弾で焼き尽くした。ありとあらゆる兵器が試され、白リン弾クラスター爆弾も投入された。白リン弾は破片が体内に刺さっても燃え続ける兵器で、クラスター爆弾は1発の爆弾に数百もの子爆弾が搭載され、金属片の飛散によって人間の手足を吹き飛ばしたり人体を切り刻む。意図的に殺傷能力を低くして多数の怪我人を出すことで社会機能にダメージを与える目的がある。

白リン弾
ローラ・ブシュナク: クラスター爆弾の破壊的な負の遺産 | TED Talk

「平和に対する罪」を規定したアメリカの残虐行為をどう考えればいいのだろう? きっと彼らが説く「平和」とは「アメリカに逆らわないこと」なのだろう。かつてアメリカ大陸を【発見】したヨーロッパ人は先住民インディアンを大量虐殺した(『インディアスの破壊についての簡潔な報告』ラス・カサス)。合衆国政府はインディアンの頭皮に懸賞金をかけた。インディアンは報復のために白人の頭の皮を剥(は)いだ。あろうことかハリウッドは映画作品を通して皮剥ぎの刑をインディアンの一方的な蛮行として描いた。自分たちの悪行を相手になすりつけるプロパガンダを行ったわけだ。日本に対して行われた戦後のイメージ操作もこれとよく似ている。

 白人なかんづくアングロサクソンの暴虐振りは人類史の中で際立っている。アジアは平和的であったがゆえに侵略されたのだろう。アジア人がボノボであれば白人はチンパンジーほどの違いがある(『あなたのなかのサル 霊長類学者が明かす「人間らしさ」の起源』フランス・ドゥ・ヴァール)。

 米軍が行ったベトナム民間人の大虐殺は「ベトナム・ホロコースト」と名づけるべきだ。日本に対して行った「原爆ホロコースト」や「東京ホロコースト」(東京大空襲)と同じく人類史に大書される歴史的蛮行である。やがて彼らの血に流れる暴力性によって自ら滅びる時が訪れることだろう。

 それにしても北ベトナムはよくぞアメリカの攻撃に耐えたものだ。私がベトナム戦争を意識したのは8歳の頃である。テレビで聴き、児童雑誌で見るたびにベトナム戦争は永遠に続くのだろうと思った。

 上記テキストの直後に韓国軍の残虐行為が描かれている。「1961年11月、クーデターにより政権を掌握した朴正煕〈パク・チョンヒ〉国家再建最高会議議長はアメリカを訪問するとケネディ大統領に軍事政権の正統性を認めてもらうことやアメリカからの援助が減らされている状況を戦争特需によって打開すること、また共産主義の拡大が自国の存亡に繋がるという強い危機感を持っていた為にベトナムへの韓国軍の派兵を訴えた。ケネディ大統領は韓国の提案を当初は受け入れなかったが、ジョンソン大統領に代わると1964年から段階的に韓国軍の派兵を受け入れた」(Wikipedia)。カネ目当てで投入された韓国軍は米兵同様、非道の限りを尽くした。韓国兵による強姦でライダイハンと呼ばれる子供が5000~3万人も生まれた。実際は犯された後で手足や頭部を斬り落とされる女性も数多く存在した。韓国は現在でも性犯罪大国でアジアの中では強姦犯罪率が突出している。そんな自分たちの残虐性を基準にして旧日本軍を見ているのだろう。従軍慰安婦にまつわる嘘の物語も韓国の似姿としか思えない。

 組織の理想型は軍隊であるが、どの軍隊も必ず嘘をつく現実がある。戦果を偽り、戦争犯罪を誤魔化し、平然と政治家や国民に対して嘘をつく。ここに軍隊の致命的な問題があるように思う。戦闘の最前線では何があるかわらかない。であればこそ「君命をも受けざる所有り」(『香乱記』宮城谷昌光)との孫子の言は重い。時にシビリアン・コントロール(文民統制)を無視する局面があってもおかしくない。ただし、軍という組織の暴走に向かう傾向を踏まえれば、軍法を厳しくするのが望ましい。

 私は心底驚いたのだが、クアンナム省もクアンガイ省も南ベトナムである。クアンガイ省にはあのソンミ村がある。ソンミ村虐殺事件を本書ではミライ事件と表記されているが、米兵に殺された500人以上の村人(男149人、妊婦を含む女183人、乳幼児を含む子供173人)は本来なら米兵が守るべき人々であった。この事件に関与した者も曖昧で中途半端な処分しか受けていない。

 ベトナム民主共和国は圧倒的な軍事力を誇る米軍にゲリラ戦で勝った。ナチス・ホロコーストはその量において圧倒したが、ベトナム・ホロコーストはその質において人類史上最悪の大虐殺といえよう。こう考えると、ジョン・F・ケネディ、リンドン・B・ジョンソン、リチャード・ニクソンら米大統領はヒトラーと肩を並べる十分な資格がある。

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2018-10-28

43年間に及んだサバイバル/『洞窟オジさん』加村一馬


『たった一人の30年戦争』小野田寛郎

 ・43年間に及んだサバイバル

必読書リスト その一

 なだらかな斜面を、持ってきたスコップを杖(つえ)代わりに登った。岩肌のところは四つんばいになってかけ登る。足場が悪く、小石が転がり落ちる。シロが前になり後ろになっておれを守ってくれる。
「シロ、大丈夫か。頑張れっ、頑張れっ! もう少しだ!」
 家を飛び出してからほぼ1週間、ほとんど寝ないで歩いてきた。13歳のおれには体力はもう残っていなかった。ただ、気力で岩肌を登るだけだ。シロに声をかけ続けたのは自分自身への励ましだったのかもしれない……。
(中略)
 加村一馬さん、57歳。昭和21年8月31日、群馬県の大間々町で生まれた。8人きょうだいの4男坊だった。両親のたび重なる折檻に耐え切れず、13歳で家出をし、後を追ってきた飼い犬のシロと足尾鉱山で獣や山菜を採って空腹を満たしながら生きる生活を選んだ。以来43年間、栃木、新潟、福島、群馬、山梨の山中などを転々としてきた。人里離れた山の洞窟で、ときには川っぺりで、ときには町でホームレスをしながら人とかかわることを避けて生き抜いてきた。子供のころの虐待やいじめ体験がトラウマとなっていた。後年、人の情けに触れることはあっても、結局は43年間人間社会から逃げ出すことしかできなかった。

【『洞窟オジさん』加村一馬〈かむら・かずま〉(小学館、2004年『洞窟オジさん 荒野の43年 平成最強のホームレス驚愕の全サバイバルを語る』改題/小学館文庫、2015年)】

 昔は折檻(せっかん)と言って親の虐待が罷(まか)り通っていた。雪が積もる外へ裸で投げ出されたり、物置に閉じ込められたりということが珍しくなかった。物置の中から外を覗いていた子供が慌てて扉を占めたために首を挟んで死亡した事故もあった。江戸時代の日本では子供が大切にされた。野放し状態の子供を避けるため往来では馬から人が降りたという。戦争や工業化の影響か。巨大な集団は多くの人々に様々なストレスを与える。

 加村はそれでも尚生きた。そして生き延びた。彼の命を救ってくれたシロは間もなく死んだ。43年間に及んだサバイバルを可能にしたのは彼に生きる知恵があったからだ。私なら10日間ほどで死んでいるだろう。火を熾(おこ)すこともできなければ、山菜の見分け方も動物の捌(さば)き方も知らないのだから。

 ある時、山の中で見知らぬ夫婦から声を掛けられる。おばさんが「黒い三角の物体」をくれた。生まれて初めて見たオニギリだった。親切なおじさんとおばさんは加村を家に招き、風呂に入れ、ご飯を食べさせた。人の情に触れ加村は涙を流し続けた。おじさんは「ずっといていいんだよ」と言った。ところが数日後、加村は去ることにした。この辺りの心の揺れはナット・ターナーや鹿野武一〈かの・ぶいち〉と通じている(ナット・ターナーと鹿野武一の共通点)。論理で探れば複雑であるが、情緒で読み解けば腑に落ちる。目の前の幸せを拒絶したところに加村の自由があったのだ。

 サバイバルは適応能力に左右される。加村は周囲のちょっとした情報から生き延びるヒントを得た。文字を書くことすらできなかった彼が商売をするまでになる。

 小学校の課程にサバイバルを設けてはどうか。家庭科・図工・理科・社会の要素も含まれている。何があっても一人で生きることのできる力が備われば、国力も大いに上がることだろう。併せて、いじめや虐待に遭遇した時の作法も教えるべきだろう。生きることを学ぶ。生きる能力を磨く。そこに生きる喜びが生まれるはずだ。

洞窟オジさん (小学館文庫)
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