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『「悪魔祓い」の戦後史 進歩的文化人の言論と責任』稲垣武
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『こんな日本に誰がした 戦後民主主義の代表者・大江健三郎への告発状』谷沢永一
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『悪魔の思想 「進歩的文化人」という名の国賊12人』谷沢永一
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『誰が国賊か 今、「エリートの罪」を裁くとき』谷沢永一、渡部昇一
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『いま沖縄で起きている大変なこと 中国による「沖縄のクリミア化」が始まる』惠隆之介
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『北海道が危ない!』砂澤陣
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『これでも公共放送かNHK! 君たちに受信料徴収の資格などない』小山和伸
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『ちょっと待て!!自治基本条例 まだまだ危険、よく考えよう』村田春樹
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『自治労の正体』森口朗
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『戦後教育で失われたもの』森口朗
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『日教組』森口朗
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左翼とは何か
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「リベラル」と「左翼」の見分け方
・マルクス思想の圧倒的魅力
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売国保守』森口朗
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『愛国左派宣言』森口朗
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『知ってはいけない 金持ち 悪の法則』大村大次郎
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必読書リスト その四
日本は欧米に並ぶ先進国のはずです。それなのに何故、アメリカのリベラルやヨーロッパの社会民主主義のような健全な左派が存在しなのでしょうか。それは、戦前からインテリの間に共産主義ブームがあり、1933年から1945年の間だけ弾圧されましたが、戦後すぐに息を吹き返したために、ほとんどの人が共産主義者の枠組みで思考するという悪弊から抜け出せていないからだと考えます。
そして、恐ろしいことに、その思考スタイルは中等教育(中学・高校)や高等教育(大学以降)を通じて、今でもほとんどの人の意識下に浸透しています。その代表例が「資本主義VS共産主義」という思考スタイルです。
高校の政治経済だけでなく、大学の教育でさえも資本主義と共産主義が対立的なものと教えます。しかし、資本主義と共産主義は決して対立的なものではありません。なぜなら、資本主義は人類の歴史の中で徐々に形成された現在の経済の仕組みであるのに対して、共産主義はマルクスの思想とそれを信じた人々が創った人工国家の理念の中にしか存在しない、つまりこの世に一度も存在したことのない妄想だからです。
アダム・スミスは近代経済学の祖と言われますが、資本主義はアダム・スミスが考えたものでも提唱したものでもありません。これに対しマルクス経済学はマルクスが提唱した考え方やその発展を学ぶ学問です。近代経済学は先に「経済という現実」があるのに対し、マルクス経済学は先に「理念」があり、この二つはまったく異なる学問です。事実、この二つを対立的に考えるのは、先進国の中では日本だけです。他の先進国においてマルクス経済学など、ほとんど相手にされない「経済学を自称する一派」にすぎません。
これは、残念ながら欧米先進国と異なり近代日本にとって、資本主義も自然発生的なものではなく、外来の人工的な香りのするものだったかもしれません。渋沢栄一をはじめとする天才的な実業家が、ほとんど一代で欧米資本主義国家に近い仕組みを創り上げることができたのだから、共産主義者が政権を取れば数十年で「労働者の楽園」を創れると夢想しても無理はありません。
もう一度書きますが、資本主義と共産主義が対立するという思考スタイルは、資本主義社会の次に共産主義社会が到来すると信じる共産主義者だけです。確かに冷戦時代は資本主義国家群と社会主義国家群は対立しましたが、これは軍事外交上の対立にすぎません。
日本以外の先進国の住人にとって資本主義は所与であり、それゆえに改良し続けるべきものです。それは右派自由主義者も左派平等主義者も同じです。ところが、日本はインテリ層のほとんどが(資本主義の側に立つ人まで)共産主義的思考スタイルの中でモノを考えるので、今の社会を所与として改良を重ねるというこ健全な思考が苦手です。
【『左翼老人』森口朗〈もりぐち・あきら〉(扶桑社新書、2019年)以下同】
なるほど。
進歩史観だと資本主義が共産主義の前提となるわけだ。Wikipediaにも「ただし、現実には合ってなく、社会主義・共産主義国で経済学とは社会を分析する道具でなく、理念を擁護するプロパガンダのため、マルクス経済学を学んでも経済をまともに理解するのは難しい」とある。高橋洋一は「
学生時代にマルクスの『資本論』を読んで、こいつは馬鹿だなと思った」と語った。需給関係を無視した労働価値説を嘲笑ったものだ。
ところが、高校の政治経済では「資本主義国家は市場の失敗から社会主義に近づき、社会主義国家も市場原理を導入して資本主義に近づいた」と教えているのです。「市場の失敗」という概念は存在しますし、20世紀の資本主義国家が福祉国家の理念の下に社会保障を充実させたのは事実ですが、それは資本主義国家が社会主義国家に近づいたのではありません。資本主義国家がより成熟したのです。これを「社会主義国家に近づいた」と称するためには、社会主義国家が資本主義国家以上に社会保障が充実していなければならないはずです。
しかし、日本よりも医療保険制度が充実している社会主義国家など、どこにも存在しません。だからこそ、中国人がこの制度を悪用して日本の優れた医療を受けに来るのです。日本の年金制度は世界のトップレベルではありませんが、それでも老人が発展途上国で悠々自適の暮らしをするくらいはできます。旧ソ連や東ヨーロッパで悠々自適な老後を過ごせる人など共産党幹部くらいしかいなかったはずです。
資本主義国家は社会主義、少なくとも共産主義者のいうところの社会主義(共産主義の前段階)などに近づいてはいません。ところが、リベラルや社会民主主義という穏健な左派が根付かず、「資本主義VS共産主義」という思考スタイルの者には、その現実が見えないのです。
文科省の汚染は酷い。安倍晋三の肝煎りで萩生田光一〈はぎうだ・こういち〉が大臣に起用されたが、徹底的な文科省改革を断行してほしい。
戦後、教科書を墨で塗ったことが想像以上に教育を軽んじる結果になったような気がする。
昭和一桁生まれの少国民世代が反日に傾いたのもむべなるかな。そして戦後生まれが学生運動に没頭するのである。敗戦の影響は若い世代の心の傷となって長く国家を蝕む。
なぜ、マルクスは戦前戦後を通じてインテリを魅了したのでしょう。私は、彼らが「神に挑戦したからだ」という仮説を持っています。マルクス思想が宗教だからと言い換えてもよいでしょう。言い古された表現ではありますが、それゆえ一面の真実を表しています。(中略)
ちなみに、アメリカ国内の政治的左派を「リベラル」と呼ぶようになるきっかけについて、キリスト教的価値からの自由を指したことが始まりであるとする説が有力です。確かにアメリカの共和党と民主党が激しく対立する価値観の一つに「堕胎(だたい)の自由」(民主党が認め、共和党が認めない)があることを考えれば、この説には説得力を感じます。本当に日本にリベラリストが育つためには、その人たちこそがマルクス教からの自由を主張しなければ無理でしょう。
これは卓見だ。ニーチェが「神は死んだ。神は死んだままだ。そして我々が神を殺したのだ」(『
喜ばしき知恵』『
悦ばしき知識』)と書いたのが1882年だが、マルクスはニーチェに先んじていた。「哲学が批判すべきは宗教ではなく、人々が宗教という阿片に頼らざるを得ない人間疎外の状況を作っている国家、市民社会、そしてそれを是認するヘーゲル哲学である」(『
ヘーゲル法哲学批判序説』1844年)。
「1782年にスイスで行われた裁判と処刑が、ヨーロッパにおける最後の魔女裁判であるとされる」(
Wikipedia)。マルクスが生まれたのは1818年である。ちょうど明治維新の半世紀前だ。魔女狩りの血腥(なまぐさ)い臭いはまだヨーロッパに立ち込めていたことだろう。宗教を阿片と切り捨てるには、まだまだ勇気を必要とした時代だ。その思い切った姿勢は
マルティン・ルター以来のロックスターとして持ち上げる価値は十分にあったことだろう。
森口は日本のリベラルを信用してはならないと警鐘を鳴らす。
「左翼」思想を「リベラル」と詐称するくらいの嘘つきですから、左翼集団の話の内容は基本的に嘘ばかりです。2018年に彼らが積極的に話題にしたLGBTなどはその代表でしょう。
社会主義国では同性愛者がこれでもかと抑圧されてきた。結局、キリスト教の呪縛から脱却し得ていないことがわかる。
まともな右派政党や左派政党が登場しないのは、それを求める民意がなかった証拠であろう。だが今、中国の軍事的脅威が高まるにつれて日本の輿論(よろん)も少しずつ変化している。親中派に対する批判は民意の成熟ぶりを示している。
風頼みの国政選挙ではなく、地域に根を張った地方議会からコツコツと実績を上げ、卓越した政治理念を示すことが望ましいように感じる。