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2020-09-15

三島由紀夫『武士道と軍国主義』/『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝


・『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦 市ケ谷決起への道程と真相』山本舜勝
・『君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫』山本舜勝
・『サムライの挫折』山本舜勝
・『三島思想「天皇信仰」 歴史で検証する』山本舜勝

『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市

 ・三島由紀夫「檄」
 ・三島由紀夫『武士道と軍国主義』

70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

(※暑中見舞いの)手紙に同封されていたのはB5版24枚の書類であり、『武士道と軍国主義』『正規軍と不正規軍』と表題のついた2篇からなっていた。
 自刃の年の7月、三島は、当時の保利茂官房長官から、防衛に関する意見を求められた。送られてきた書類は、その時三島が日頃からの持論を口述し、タイプ印刷に付したものだ。佐藤栄作総理大臣と官房長官が目を通した後、閣僚会議に提出されるはずだったが、実際には公表はされなかった。
 当時の中曽根康弘防衛庁長官が、閣僚会議に出すことを阻止したのではないかと、私は思う。
 この二つの論文は、三島の考えを理解するためには不可欠の資料であり、彼が国民に訴えたいと考えていた、いわば建白書である。(中略)

『武士道と軍国主義』

 第一に戦後の国際戦略の中心にあるものは核であると規定する。核のおかげで世界大戦が回避されているが、同時に、各は総力戦態勢をとることをどの国家にも許さなくなった。総力戦は、ただちに核戦争を誘発するからである。従って、第二次世界大戦後の戦争は、米ソ二大核戦力の周辺地域で、限定戦争という形態をとって行われるようになった。
 限定戦争の最大の欠点は、国論の分裂をきたすという事である。総力戦の場合、国民の愛国心の昂揚が、必然的に祖国のために戦う気分を創り出す。しかし限定戦争の場合には、それが曖昧であるため、反対勢力は互角の戦いを国家権力に対して挑むことができる。従って、限定戦争のある国では、平和運動や反戦運動が大きな勢力を持ち得、国論は分裂する。これは、必ずしも共産国家の陰謀のせいばかりとは思えない。
 共産国家は、閉鎖国家でその中での言論統制を自由に行なえる体制であるから、国論統一は、自由主義国家よりもはるかに有利に行なうことができる。アメリカの反戦運動の高まりを見ると、限定戦争下における国論統一の困難さが、これと比較してよくわかる。
 さらに、代理戦争は、二大勢力の辺境地帯で行なわれる戦争であるから、その地域の原住民同士が相闘うという形をとる。そしてこれは、民族独立とか植民地解放などの理念に裏付けられて闘われる。自由諸国としては正規軍を派遣して、これに対処しなければならない。これに対し、共産圏は『人民戦争理論』をもって、不正規軍によるゲリラ戦を闘う。この『人民戦争理論』によって、国の独立と植民地解放という大義名分が得られる点で、共産圏の非常な利点となるのは、ヒューマニズムをフル活用できることである。
 ゲリラ戦は、女や子供も参加する以上、彼らも殺されることは多々ある。世のヒューマニストたちは、正規軍の軍人が死んでも、それは死ぬ商売の者が死んだだけだ、として深い同情など示さないが、女や子供が虐殺されたとなると、大いに感情移入してヒューマニズムの見地から反戦運動に立ちあがる、ということになる。
 また、自由諸国のマスコミュニケーションは、国論分裂が得意である故、ヒューマニズムの徹底利用という点で、むしろ共産圏に有利にはたらく。なぜなら、自由ということを最高最良の主義主張とする以上、自国が加担している限定戦争に反対することは、自由の最大の根拠となるからである。
 以上の観点から、自由諸国は、二つの最大の失点を初めから自らの内に包含していることになる。日本も、その意味では同じことである。
 しかし、日本は、天皇という民族精神の統一、その団結心の象徴というものを持っていながら、それを宝の持ち腐れにしてしまっている。さらに、我々は現代の新憲法下の国家において、ヒューマニズム以上の国家理念というものを持たないことに、非常に苦しんでいる。それは、新憲法の制約が、あくまでも人命尊重以上の理念を日本人に持たせないように、縛りつけているからである。
 防衛問題の前提として、天皇の問題がある。ヒューマニズムを乗り越え、人命よりももっと尊いものがあるという理念を国家の中に持たなければ国家たり得ない。その理念が天皇である。我々がごく自然な形で団結心を生じさせる時の天皇、人命の尊重以上の価値としての天皇の伝統。この二つを持っていながら、これをタブー視したまま戦後体制を持続させて来たことが、共産圏・敵方に対する最大の理論的困難を招来させることになったのだ。この状態がずるずる続いていることに、非常な危機感を持つ。
 我々は、物理的な、あるいは物量的な戦略体制というものにとらわれすぎている。例えば中国の核の問題。この核に対抗する手段を我々は持っていない。従って、集団安全保障という理念から、日米安保条約によってアメリカの核戦略体制に入ることを、国家の安全保障の一つの国是としている。しかし、アメリカはABM(弾道弾迎撃ミサイル)を持っているが日本は持っていない。従って、核に対しては、我々はアメリカの対抗手段に頼ることはできても、アメリカの防衛手段は我々から疎外されている。
 我々は、自分で防衛手段を持たなければならない。しかし、非核三原則をとる現政府下では、核に対しる核的防御手段も制限されていると言わねばならない。
 我々は核がなければ国を守れない。しかし核は持てない、という永遠の論理の悪循環に陥っているのである。
 この悪循環から逃れるには、自主防衛を完全に放棄して、国連の防衛理念に頼るしかない。国連軍に参加して、国連軍として海外派遣も行ない、国連管理下に核をおいてそれを使用することも時には行ない得る、こういう形で国防理念を完全に国連憲章に一致させることしかあり得ない。国連憲章の上に成り立っている新憲法を、論理的に発展させればそうなるだろう。
 しかし、どうしても自主防衛の問題が出て来る。これは、理念の問題ではなく、アメリカのベトナム戦争以来の戦略体制の政治的反映のせいである。ベトナム戦争の失敗以降のアメリカの孤立主義の復活が、アジア人をしてアジア人と闘わしめ、自らはうしろだてとなって、アメリカ人の血を流すことを避けるという方向にむかっている。つまり、これは『人民戦争理論』の反映であり、アメリカは、各国に自主防衛を強制して、自らは前面から撤退するという政策に変更しつつある。
 こうなると、日本はアメリカのアジア戦略体制に利用されるのだ、という左翼の批判にさらされても仕方がない。なぜなら、自由諸国は人民戦争理論というものを絶対に使わないからだ。
 そこで問題になって来るのが、日本人の自主防衛に対する考え方である。
 日本の防衛体制を考える時、最も重要で最も簡単なことは、魂の無い所に武器はないということである。すなわち、防衛問題のキイ・ポイントは、魂と武器を結合させることである。この結合が成り立てば、在来兵器でも、充分日本は守れると信ずる。この結論は、核の問題から導き出される。なぜなら、核は使えない、からである。
 使えない核は、恫喝(どうかつ)の道具として使うしかない。もし核を保有していなくても、そこに核があるのだと相手側に信じさせることができれば、それで充分に恫喝となり得る。持っていなくても、持っているぞと脅すことができれば充分に心理的武器となり得る。
 このことが、人間の心理に非常な悪影響を及ぼしたと思う。かつて、人間のモラルを支えたのは武器による決闘であった。自分の主張とモラルを通すためには、刀に頼るしかなかった。しかし、核の登場により、モラルと兵器との関係は、無限に離れてしまった。あるかないかわからないものに、人間はモラルをかけることなどできないからだ。
 故に、在来兵器の戦略上の価値をもう一度復活させるべきだと考える。つまり日本刀の復活である。むろん、これは比喩であり、核にあらざる兵器は、日本刀と同じであるという意味である。
 その意味で、武士と武器、本姿と魂を結びつけることこそが、日本の防衛体制の根本問題だとするのである。
 ここに、武士とは何かという問題が出て来る。
 自衛隊が、武士道精神を忘れて、コンピューターに頼り、新しい武器の開発、新しい兵器体系などという玩具に飛びつくようになったら、非常な欠点を持たざるを得なくなる。軍の官僚化、軍の宣伝機関化、軍の技術集団化だ。特に、技術者化が著しくなれば、もはや民間会社の技術者と、精神において何ら変わらなくなる。また官僚化が進めば、軍の秩序維持にのみ頭脳を使い、軍の体質が、野戦の部隊長というものを生み出し得なくなる。つまり、軍の中に男性理念を復活できず、おふくろ原理に追随していくことになる。こうして精神を失って単なる戦争技術集団と化す。この空隙(くうげき)をついて、共産勢力は自由にその力を軍内部に伸ばして来ることになる。
 では、武士道とは何か。
 自己尊敬、自己犠牲、自己責任、この三つが結びついたものが武士道である。このうち自己犠牲こそが武士道の特長で、もし、他の二つのみであれば、下手をするとナチスに使われた捕虜収容所の所長の如くになるかもしれない。しかし、身を殺して仁をなす、という自己犠牲の精神を持つ者においては、そのようにはなりようがない。故に、侵略主義や軍国主義と、武士道とは初めから無縁のものである。この自己犠牲の最後の花が、特攻隊であった。
 戦後の自衛隊には、ついに自己尊敬の観念は生まれなかったし、自己犠牲の精神に至っては、教えられることすらなかった。人命尊重第一主義が幅をきかしていたためだ。
 日本の軍国主義なるものは、日本の近代化、工業化などと同様に、すべて外国から学んだものであり、日本本来のものではなかった。さらに、この軍国主義の進展と同時に、日本の戦略、戦術の面から、アジア的特質が失なわれてしまった。
 日本に軍国主義を復活させよ、などと主張しているのではない。武士道の復活によって日本の魂を正し、日本の防衛問題の最も基本的問題を述べようとしているのだ。日本と西洋社会の問題、日本の文化とシヴィライゼーションの対決の問題が、底にひそんでいるのだ。

【『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉(講談社、2001年)】

「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(S・G・タレンタイア)。これが言論の自由であり、自由主義の基底をなす。共産主義と自由主義は意思決定の方法が異なる。極論すれば命令か合意かの違いに過ぎない。是非を問えばイデオロギーに堕する。要はまとまった方が強いわけで、自由主義が優れていると思い込むのは錯覚であろう。

 自由主義には嘘をつく自由もあり、腐敗する自由まである。国民には嘘を信じる自由があり、腐敗を見逃す自由もある。自由はあっという間に放縦へと傾き、得手勝手がまかり通る。

 その国の国情は政治と報道に表れる。政治の大黒柱は国民を守ることであり国防が基礎となる。遠くはシベリア抑留、近くは北朝鮮による日本人拉致を見れば日本政府が国民を守れない、あるいは守る意志がないことは火を見るよりも明らかである。たとえブルーリボンバッジを胸に着けていたとしても信用することは難しい。国民に至っては北朝鮮がミサイルを発射しても安閑としている有り様で、75年も平和が続くと精神が麻痺して生命の危機を察知できないようだ。中国が国境を無視して日本の領海を自由に航行しているのは既に戦闘行為に入ったと見てよい。それでも尚惰眠を貪り続ける我々はいつになったら目を覚ますのだろうか?

 武士道とは侍の道であるが、侍は官人である。語源は従うを意味する「さぶらう」(侍ふ・候ふ)に由来する。服従するという意味から申せば「イスラム」と同じだ。音も似ている。並べ替えればスムライだ。主君に逆らうことができないところに武士道の限界がある。暴力を様式化し道にまで高めた文化は誇るべきものだが、権力の下位構造を脱するところには達していない。

 自衛隊については無論武士道が必要であろう。だがそれを精神性で捉えてしまえば大東亜戦争末期の日本軍と同じ轍(てつ)を踏んでしまう。スポーツに置き換えて考えれば理解できよう。具体性と合理性を欠けば精神論は戯言(たわごと)だ。

 三島は暴力とは無縁であった。その一方で激情の人であった。文で収まることを潔しとせず武に目覚めた。彼は思想のために死んだのではない。ただ美学を生きたのだろう。

2020-09-11

日本人の致命的な曖昧さ/『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹


『二・二六帝都兵乱 軍事的視点から全面的に見直す』藤井非三四
『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『あなたも息子に殺される 教育荒廃の真因を初めて究明』小室直樹

 ・日本人の致命的な曖昧さ
 ・二・二六事件の矛盾
 ・二・二六事件を貫く空の論理

『世界史で読み解く「天皇ブランド」』宇山卓栄
『〔復刻版〕初等科國史』文部省

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 そもそも(※二・二六事件の)決行部隊と正規軍との関係はいかなるものであったろうか。
 名前こそ“決行部隊”などとはいっても、勝手に軍隊を動かして、政府高官を殺し、首都の要衝を占領しているのである。いま仮に正当性の問題をしばらく措(お)いても、決行部隊は、反乱軍か、さもなくんば、革命軍(「維新軍」といってもよい)である。正規軍(政府軍)とは敵味方の関係である。生命がけで戦って、決行部隊が負ければ反乱軍として討伐され、勝てば、革命軍として新しい政府をつくる。
 これ以外の論理は、全くありえない。
 日本でも外国でも、これ以外の論理は、あったためしがない。その、ありうるはずのないことが、昭和11年2月26日の夜に起きた。(中略)
 決行部隊は、正規軍たる歩兵第三連隊長たる渋谷大佐の指揮下に入って、なんと、警備隊にくみこまれたのであった。
 想像を絶する出来ごとである。
 クロムウェルの鉄騎兵が、チャールズ二世の麾下(きか)に加わり、ロンドンを警備するようなものではないか。政府を潰滅(かいめつ)させ、東京を占領した決行部隊が、【政府】軍の指揮下に入って、自分たちが軍事占領している東京の警備にあたるというのである。

【『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹(天山文庫、1990年/毎日コミュニケーションズ、1985年『三島由紀夫が復活する』に加筆し、改題・文庫化/毎日ワンズ、2019年)以下同】

 二・二六事件を三島理論で読み解くという意欲的な試みである。宗教に造詣の深い小室ならではの着眼で、唯識を通した現象論を展開している。

 世界恐慌(1929年/昭和4年)は既に関東大震災(1923年/大正12年)、昭和金融恐慌(1927年/昭和2年)で弱体化していた日本経済に深刻な打撃を与えた。東北地方は1931-35年(昭和6-10年)にかけて冷害で大凶作となった。1933年(昭和8年)には昭和三陸地震で岩手県を中心に30メートル近い津波に襲われた。

 そのため恐慌時に打撃を受けていた農家経済はさらに悪化し、木の実や草の根を食糧とせざるをえない家庭や、身売りする娘、欠食児童の数が急増した。芸妓(げいぎ)、娼妓(しょうぎ)、酌婦、女給になった娘たちの数は、33年末から1か年の間に、東北六県で1万6000余名に達している。

小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)

二・二六事件と共産主義の親和性/『大東亜戦争とスターリンの謀略 戦争と共産主義』三田村武夫
『親なるもの 断崖』曽根富美子

 東北出身の兵士はじっとしていることができなかった。自分の姉や妹が芸者として売られているのである。戦時中の慰安婦は職業であったが、当時の性産業は奴隷のような扱いをしていたと考えて差し支えない。避妊すらまともに行われていなかった。

 格差が革命の導火線となることは必定である。そもそも動物の群れを支えているのは平等原則なのだ(チンパンジーの利益分配/『共感の時代へ 動物行動学が教えてくれること』フランス・ドゥ・ヴァール)。第一次世界大戦に敗れたドイツをいじめ過ぎてヒトラーが登場したのは歴史の必然と言ってよい。

 渦中の1932年(昭和7年)に血盟団事件五・一五事件が起こる。昭和維新の激流は二・二六事件へと至るが、天皇という巌(いわお)の前に水しぶきとなって弾けた。

「警備」が必要になったというのも、もともと、決起部隊が、政府を消滅させ、東京を占領したからではないのか。かかる事態に対処するために警備が必要になったというのに、ことを起こしたご当人が、その警備役を買って出るというのだから、放火魔に火の用心をさせるようなものだ。
 もっと重大なことはこれだ。
 かくまで、ありうべからざる事態に直面して、軍首脳が、これは不思議だとは思わないことである。
 軍首脳のほとんどは、「反乱軍」をそのまま正規軍にくみ入れるなんて、そんなベラボーな、と思うかわりに、これは名案だとばかりにとびついた。いきりたっている決行部隊を正規軍の指揮下に入れれば、気もやすまって、もうあばれないだろう、というのである。
 いずれにせよ、なんでこんなベラボーといっても足りないことが起きたのか。その合法的根拠は、いったい、どこにあるのか。
 それは、戦時警備令による。
「戦時警備令」によって、決行部隊は、「合法的」に警備隊の一部に編入された。
 歩兵第三連隊長の渋谷大佐もこれを許可し、決行部隊の側でも、ヤレヤレこれで官軍になれたワイとよろこんだ。
 ここに、われわれは、「日本人の法意識」を、端的にみる思いがする。
 決行部隊は、日本政府を潰滅させ、東京を軍事力で占領した。
 これが合法的であるはずはない。決行部隊は、大日本帝国の法律を蹂躙(じゅうりん)した。これは、たいへんな日本帝国にたいする挑戦である。しかし、彼らのイデオロギーからすれば、国家の法律なんかよりも、「尊王」「討奸」の大義のほうがずっと重いのである。
 でも彼らの行為は非合法である。
 だれだってわかる。
 まして、陛下の軍隊を勝手に動かした。
 これは軍人的センスからいえば、非合法のなかでも、最大の非合法である。ほかのどんな非合法が許せても、この非合法だけは、断じて許すことはできない。大逆罪以上の大罪なのである。
 決行部隊は、すでにこの大罪をおかしている。
 これは、大日本帝国の法に対する真っ向からの挑戦である。
 欧米的センスからすると、彼らの行為は、大日本帝国そのものの否定ということにほかならない。
 いや、天皇の地位の否定とも解釈されかねない。いや、ほとんど確実に、このように解釈されることであろう。

 彼らは尊皇・討奸を掲げながら天皇に弓を引いた。二・二六事件を知った天皇は激怒した。自ら賊を討ちにゆこうとされた。青年将校らに同情的だった軍首脳は慌てふためいた。

 当時の政党政治の腐敗に対する反感から犯人の将校たちに対する助命嘆願運動が巻き起こり、将校たちへの判決は軽いものとなった。このことが二・二六事件の陸軍将校の反乱を後押ししたと言われ、二・二六事件の反乱将校たちは投降後も量刑について非常に楽観視していたことが二・二六将校の一人磯部浅一の獄中日記によって伺える。

Wikipedia

 国民の人気ほど当てにならないものはない。民草はいともたやすく風になびく。助命嘆願運動に責任があったとは思えない。時代の暗がりの中でヒーローと錯覚しただけの話だろう。

 日本人の致命的な曖昧さは今日に至っても変わることがない。例えば朝日新聞の慰安婦捏造記事だ。日本人の信頼を地に落とし、どれほど国益を毀損したか測り知れない。木村伊量〈きむら・ただかず〉社長の辞任などで到底収まる話ではない。しかも英語版では執拗に「従軍慰安婦」の記事を配信し続けたのだ。発行停止処分にするべきだった。

 また慰安婦に関して言えば、外務省の誰が「comfort woman」と訳したのか? この語訳が国際理解を得られるはずもない。翻訳した者を投獄するのが当然だろう。

 尖閣諸島問題も同様で日中国交回復(1972年)の際、田中角栄首相は日本の領土であることをはっきりと言わなかったことに端を発している。自民党の首相は内弁慶ばかりで外国へゆくと相手の顔色を窺うの常だ。

 官僚は江戸時代であれば侍である。国益を損なうようなことがあれば切腹するのが当然だという意識を持つべきだ。

 昭和維新の余韻は宮城事件(1945年終戦前日)にまでつながった。



二・二六事件前夜の正確な情況/『重光・東郷とその時代』岡崎久彦

2020-09-10

三島由紀夫「檄」/『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝


・『三島由紀夫・憂悶の祖国防衛賦 市ケ谷決起への道程と真相』山本舜勝
・『君には聞こえるか三島由紀夫の絶叫』山本舜勝
・『サムライの挫折』山本舜勝
・『三島思想「天皇信仰」 歴史で検証する』山本舜勝

『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市

 ・三島由紀夫「檄」
 ・三島由紀夫『武士道と軍国主義』

70年安保闘争の記録『怒りをうたえ!』完全版:宮島義勇監督
『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介
『三島由紀夫と「天皇」』小室直樹
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四


楯の会隊長 三島由紀夫


 われわれ楯の会は、自衛隊によつて育てられ、いはば自衛たはわれわれの父でもあり、兄でもある。その恩義に報いるに、このやうな忘恩的行為に出たのは何故であるか。かへりみれば、私は4年、学生は3年、隊内で準自衛官としての待遇を受け、一片の打算もない教育を受け、又われわれも心から自衛隊を愛し、もはや隊の柵外の日本にはない「真の日本」をここに夢み、ここでこそ終戦後つひに知らなかつた男の涙を知つた。ここで流したわれわれの汗は純一であり、憂国の精神を相共にする同志として共に富士の原野を馳駆した。このことには一点の疑ひもない。われわれにとつて自衛隊は故郷であり、生ぬるい現代日本で凛烈(ママ/りんれつ)の気を呼吸できる唯一の場所であつた。教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない。しかもなほ、敢てこの挙に出たのは何故であるか。たとへ強弁と云はれようとも、自衛隊を愛するが故であると私は断言する。
 われわれは戦後の日本が、経済的繁栄にうつつを抜かし、国の大本を忘れ、国民精神を失ひ、本を正さずして末に走り、その場しのぎと偽善に陥り、自ら魂の空白状態へ落ち込んでゆくのを見た。政治は矛盾の糊塗、自己の保身、権力欲、偽善にのみ捧げられ、国家百年の大計は外国に委ね、敗戦の汚辱は払拭されずにただごまかされ、日本人自ら日本の歴史と伝統を潰してゆくのを、歯噛みをしながら見てゐなければならなかつた。われわれは今や自衛隊にのみ、真の日本、真の日本人、真の武士の魂が残されているのを夢みた。しかも法理論的には、自衛隊は違憲であることは明白であり、国の根本問題である防衛が、御都合主義の法的解釈によつてごまかされ、軍の名を用ひない軍として、日本人の魂の腐敗、道着の頽廃の根本原因をなして来てゐるのを見た。もつとも名誉を重んずべき軍が、もつとも悪質の欺瞞の下に放置されてきたのである。自衛隊は敗戦後の国家の不名誉な十字架を背負ひつづけて来た。自衛隊は国軍たりえず、建軍の本義を与へられず、警察の物理的に巨大なものとしての地位しか与へられず、その忠誠の対象も明確にされなかつた。われわれは戦後のあまりにも永い日本の眠りに憤つた。自衛隊が目ざめる時こそ、日本が目ざめる時だと信じた。自衛隊が自ら目ざめることなしに、この眠れる日本が目ざめることはないのを信じた。憲法改正によつて、自衛隊が建軍の本義に立ち、真の国軍となる日のために、国民として微力の限りを尽すこと以上に大いなる責務はない、と信じた。
 4年前、私はひとり志を抱いて自衛隊に入り、その翌年には楯の会を結成した。楯の会の根本理念は、ひとへに自衛隊が目ざめる時、自衛隊を国軍、名誉ある国軍とするために、命を捨てよといふ決心にあつた。憲法改正がもはや議会制度下ではむづかしければ、治安出動こそその唯一の好機であり、われわれは治安出動の前衛となつて命を捨て、国軍の礎石たらんとした。国体を守るのは軍隊であり、政体を守るのは警察である。政体を警察力を以て守りきれない段階に来て、はじめて軍隊の出動によつて国体が明らかになり、軍は建軍の本義を回復するであらう。日本の軍隊の建軍の本義とは、「天皇を中心とする日本の歴史・文化・伝統を守る」ことにしか存在しないのである。国のねぢ曲つた大本を正すといふ使命のため、われわれは少数乍ら訓練を受け、挺身しようとしてゐたのである。
 しかるに昨昭和44年10月21日に何が起こつたか。総理訪米前の大詰ともいふべきこのデモは、圧倒的な警察力の下に不発に終つた。その状況を新宿で見て、私は、「これで軍法は変らない」と痛恨した。その日に何が起つたか。政府は極左勢力の限界を見極め、戒厳令にも等しい警察の規制に対する一般民衆の反応を見極め、敢て「憲法改正」といふ火中の栗を拾はずとも、事態を収集しうる自信を得たのである。治安出動は不要になつた。政府は政体維持のためには、何ら憲法と抵触しない警察力だけで乗り切る自信を得、国の根本問題に対して頬つかぶりをつづける自信を得た。これで、左派勢力には憲法護持の飴玉をしやぶらせつづけ、名を捨てて実をとる方策を固め、自ら、護憲を標榜することの利点を得たのである。名を捨てて、実をとる! 政治家にとつてはそれでよからう。しかし自衛隊にとつては、致命傷であることに、政治家は気づかない筈はない。そこでふたたび、前にもまさる偽善と隠蔽、うれしがらせとごましかしがはじまつた。
 銘記せよ! 実はこの昭和45年(※筆者註:44年の誤記)10月21日といふ日は、自衛隊にとつて、決定的にその希望が裏切られ、憲法改正は政治的プログラムから除外され、相共に議会主義政党を主張する自民党と共産党が、非議会主義的方法の可能性を晴れ晴れと払拭した日だつた。論理的に正に、この日を堺にして、それまで憲法の私生児であつた自衛隊は、「護憲の軍隊」として認知されたのである。これ以上のパラドックスがあらうか。
 われわれはこの日以後の自衛隊に一刻一刻注視した。われわれが夢みてゐたやうに、もし自衛隊に武士の魂が残つてゐるならば、どうしてこの事態を黙視しえよう。我慢に我慢を重ねても、守るべき最後の一線をこえれば、決然起ち上るのが男であり武士である。われわれはひたすら耳をすました。しかし自衛隊のどこからも、「自らを否定する憲法を守れ」といふ屈辱的な命令に対する、男子の声はきこえては来なかつた。かくなる上は、自らの力を自覚して、国の論理の歪みを正すほかに道はないことがわかつてゐるのに、自衛隊は声を奪はれたカナリヤのやうに黙つたままだつた。
 われわれは悲しみ、怒り、つひには憤激した。諸官は任務を与へられなければ何もできぬといふ。しかし諸官に与へられる任務は、悲しいかな、最終的には日本からは来ないのだ。シヴィリアン・コントロールが民主的軍隊の本姿である、といふ。しかし英米のシヴィリアン・コントロールは、軍政に関する財政上のコントロールである。日本のやうに人事権まで奪はれて去勢され、変節常なき政治家に操られ、党利党略に利用されることではない。
 この上、政治家のうれしがらせに乗り、より深い自己欺瞞と自己冒瀆の道を歩まうとする自衛隊は魂が腐つたのか。武士の魂はどこへ行つたのだ。魂の死んだ巨大な武器庫になつて、どこへ行かうとするのか。繊維交渉に当つては自民党を売国奴呼ばはりした繊維業者もあつたのに、国家百年の大計にかかはる核停条約は、あたかもかつての五・五・三の不平等条約の再現であることが明らかであるにもかかはらず、抗議して腹を切るジェネラル一人、自衛隊からは出なかつた。
 沖縄返還とは何か? 本土の防衛責任とは何か? アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を守ることを喜ばないのは自明である。あと2年の内に自主性を回復せねば、左派のいふ如く、自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう。
 われわれは4年待つた。最後の1年は熱烈に待つた。もう待てぬ。自ら冒瀆する者を待つわけには行かぬ。しかしあと30分、最後の30分待たう。共に起つて義のために共に死ぬのだ。日本を日本の真姿に戻して、そこで死ぬのだ。生命尊重のみで、魂は死んでもよいのか。生命以上の価値なくして何の軍隊だ。今こそわれわれは生命尊重以上の価値の所在を諸君の目に見せてやる。それは自由でも民主々義でもない。日本だ。われわれの愛する歴史と伝統の因、日本だ。これを骨抜きにしてしまつた憲法に体をぶつけて死ぬ奴はゐないのか。もしゐれば、今からでも共に起ち、共に死なう。われわれは至純の魂を持つ諸君が、一個の男子、真の武士として蘇へることを熱望するあまり、この挙に出たのである。

【『自衛隊「影の部隊」 三島由紀夫を殺した真実の告白』山本舜勝〈やまもと・きよかつ〉(講談社、2001年)/『決定版 三島由紀夫全集34 評論9』三島由紀夫】

「檄」は三島由紀夫最後の声明文である。陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地のバルコニーで自衛官にクーデターを呼び掛けた際に森田必勝〈もりた・まさかつ〉、小川正洋〈おがわ・まさひろ〉らが撒布した。原文は三島直筆の走り書きである(画像)。

 同書は、当日に市ヶ谷会館にて、ジャーナリストの徳岡孝夫と伊達宗克にも封書に同封されて託された。三島は、徳岡孝夫と伊達宗克へ託した手紙の中で、「同封の檄及び同志の写真は、警察の没収をおそれて、差上げるものですから、何卒うまく隠匿された上、自由に御発表下さい。檄は何卒、何卒、ノー・カットで御発表いただきたく存じます。」と、檄の全文公表を強く希望した。

Wikipedia

 徳岡自身が著書で詳しく経緯を書いている(『五衰の人 三島由紀夫私記』文藝春秋、1996年)。

 1955年、日本共産党は武装闘争路線を放棄した。これに異を唱えて立ち上がったのが新左翼である。1958年、共産主義者同盟(ブント)を結成し暴力革命を標榜した。彼らは「共産主義者は、自分たちの目的が、これまでのいっさいの社会秩序の暴力的転覆によってしか達成されえないことを、公然と宣言する」(『共産党宣言』マルクス、エンゲルス、1848年)に忠実な道を選んだ。誤った思想内部における正義ほど手をつけられないものはない。原理主義は常に単純で美しい。

 新左翼の尖鋭的な行動は学生運動そのものを暴力的な色彩に染め上げていった。新宿騒乱が1968年で、10.21国際反戦デー闘争が1969年のこと。既に山本からゲリラ戦略の訓練を受けていた楯の会は騒擾(そうじょう)の渦中で実習を行った。

 三島の暴力性は自身に向けられたが、左翼の暴力性はテロ事件となった。テルアビブ空港乱射事件(1972年)、あさま山荘事件(1972年)、よど号ハイジャック事件(1970年)、ダッカ日航機ハイジャック事件(1977年)など(日本の新左翼の事件)。1970年代に入ると凄惨な内ゲバが始まった。正義に駆られた人々が仲間をリンチにし次々と殺害した。

 新聞も学者も文化人も学生運動を支持し続けていた。大衆は愛想を尽かしていた。国民の興味は学生運動よりもカラーテレビに向けられてていたように思う。そんな時に三島が決起したのだ。寝耳に水とはまさにこのことだ。高度経済成長の上り坂をひた走っていたサラリーマンは真っ黒になって働いていた。年を経るごとに生活は豊かになった。家の中には電化製品が増え、休日には家族でドライブをするようになった。人々が安穏と生きるさなかで時代の寵児(ちょうじ)ともいうべきスターがクーデターを企て、更には切腹までしたのである。

 時代も社会も三島の行動を拒んだ。多くの著名人が嘲笑った。国民にとっては一つの事件に過ぎなかった。ところがどうだ。三島の声は死して後、不思議な余韻を残し、長ずるにつれて反響し、一部の人々の胸を震わせた。北朝鮮が日本人を拉致し、中国の公船が尖閣領域に侵入しても、政府はただ抗議を繰り返すのみで、国民の生命と財産を守る覚悟があるようには見えない。拉致被害者の親御さんたちは我が子と再会することなく次々に黄泉路(よみじ)へ旅立った。

 三島由紀夫は昭和45年(1970年)の時点で現在の日本の姿を見据えていたのだろう。彼は指をくわえて亡国を眺めるわけにはいかなかったのだ。

 本書は特殊な内容で山本の言いわけめいた調子も好きではないが、藤原岩市の裏切りを描いた一点で必読書としたことを付言しておく。



昭和48年 警察白書
暴力革命の方針を堅持する日本共産党(警察庁)
日本赤軍 | 国際テロリズム要覧(Web版) | 公安調査庁

2020-09-06

外交レトリックを誤った大日本帝国/『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八


・『日本を思ふ』福田恆存
『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『日本人のための憲法原論』小室直樹
『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八

 ・国民の国防意志が国家の安全を左右する
 ・外交レトリックを誤った大日本帝国
 ・五箇条の御誓文

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ですから敗戦後の「東京裁判」では、真珠湾攻撃に先行する、こうした日本政府部内や陸海軍部内の文書が、米国人(多くが法曹職のバックグラウンドをもつ)によって、洗いざらい調べ上げられました。彼らは、日本政府と日本軍が「パリ不戦条約」をあっけらかんと破るのに、いったいどのような公式レトリックを用いていたのかに、特に興味があったのです。公人が公的な嘘をついたら恥じなければならない近代人として、また、法曹の学徒として、それが当然でしたろう。
 彼らはついに、いくつかのマジック・ワードを発見したと思いました。「自存自衛」と「交戦権」です。そして将来の日本政府におけるそのマジック・ワードの再使用は封じなければならないと思いました。だから、マック偽憲法の中には、特別に入念に、ダメを押すような文言が、ちりばめられているという次第なのです。

【『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(草思社、2013年/草思社文庫、2014年)以下同】

 本書は優れた外交論となっており他書とは一線を画している。ただしマッカーサーは後に上院軍事外交委員会の席上で、「日本があの戦争に飛び込んでいった動機は、安全保障の必要に迫られたためで、侵略ではなかった」と証言し、大統領になるチャンスを失った(マッカーサー「東京裁判は間違いだった」)。

 マッカーサーが語った「national security」がアメリカ人に何を示唆したのか。自衛にはself-defense 、self-protection、self-preservationなどの英語がある。

 マック偽憲法が押し付けられることになった第一原因は、日本の対米英開戦流儀にあります。同じ調子でまた将来あっけらかんとした侵略をやらせぬよう、アメリカ人の法律家たちは、念入りに文辞を練ったのです。
 しかし戦後のドイツに対してはそんな「憲法」を押し付ける必要は、ありませんでした。
 なぜなら、ドイツ人たちは「自衛」という言葉の厳密な意味を了解していて、ヒトラーすらそれを濫用(らんよう)してはいなかった(しようとしても外務省官吏や国際法学者たちに止められてできなかった?)のです。
 反して、日本の指導者層には、外務省官吏も含めて、それほどに大事な用語だという了解はなく、かつまた日本政府の誰にも、自国の重大な政策についての体外的な「説明責任」というものが、そもそも意識すらされていないように、外国からは見えた。この「落差」がきわだっていましたので、日本に対する占領政策は、ドイツに対する占領政策とは、すこぶる異なるものになったのでしょう。
 それゆえわたしたちは、ナチス・ドイツがスターリンのソ連に対して奇襲開戦を実行したときの「宣戦布告」のレトリックがどんなものだったか、またそれに応酬しているモスクワ政府のレトリックはどんなものだったか、知っておくことに価値があります。こうした外交上の正式の宣戦布告文や、応酬声明文は、どの法廷に出しても通用しそうな、近代的な説明文になっていることが、確かめられましょう。

 アメリカは日本軍の強さを恐れたと綴る書籍が多い。強い上に死ぬまで戦うことをやめない。降伏よりも玉砕を選ぶのが日本流だ。しかし兵頭の指摘は見落としがちな急所を抑えている。欧米からすると日本は「話が通じない相手」であったのだ。彼らは極東の島国に狂気を見た。

 二・二六事件から敗戦までの変遷に我が国の弱点が凝縮している。長崎に原爆が投下されたとき政府首脳は行方の定まらない会議を続けていた。鈴木貫太郎首相は策を講じて最終判断を天皇陛下に丸投げした。切腹した首脳もいたが腹を切ることで責任を果たせるとは思えない。

 外交レトリックを誤ったとすれば外務省の責任は重い。小野寺信〈おのでら・まこと〉の足を引っ張ったのも外務省だった。

 戦後の日本は経済の道をひた走った。バブル崩壊(1991年)まで46年を経た。その後失われた20年に入る。こうして敗戦を振り返る機会を失った。私は思う。修辞学や論理学という西洋の土俵に乗るよりは、子供でもわかるようなやさしい言葉で誠を貫くことが日本には向いている。1919年(大正8年)、世界で真っ先に人種差別の撤廃を叫んだ日本である(人種差別撤廃提案)。できないことはないだろう。

国民の国防意志が国家の安全を左右する/『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八


・『日本を思ふ』福田恆存
『いちばんよくわかる!憲法第9条』西修
『平和の敵 偽りの立憲主義』岩田温
・『だから、改憲するべきである』岩田温
『日本人のための憲法原論』小室直樹
『日本の戦争Q&A 兵頭二十八軍学塾』兵頭二十八

 ・国民の国防意志が国家の安全を左右する
 ・外交レトリックを誤った大日本帝国
 ・五箇条の御誓文

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 法理として「偽憲法」(これは菅原裕氏の言葉)以外のなにものでもない「当用憲法」(これは福田恆存〈つねあり〉氏の言葉)は、1946年から1950年にかけ、日本に共産主義が根付かない最大支障であるとモスクワがみなした天皇制を滅消したく念ずるソ連発の間接侵略工作を、阻止したというポジティヴな効用があります。

【『「日本国憲法」廃棄論 まがいものでない立憲君主制のために』兵頭二十八〈ひょうどう・にそはち〉(草思社、2013年/草思社文庫、2014年)以下同】

 やっとクイック編集ができるようになった。編集画面の仕様が新しくなったための混乱のようだ。古本屋を畳んでからはレンタルサーバーと無縁なので、今からWordPressを使うとなると先が思いやられる。設定はともかくとしてFTPソフトの使い方などはきれいさっぱり記憶から消えている。ブログも長くやっていると自分の分身みたいに思えてくる。それゆえに妙なこだわりが生じて、自我を強く意識させられる羽目となる。なかなか諸法無我というわけにはいかないものだ。

 兵頭二十八は当たり外れがある。文章には独特の臭みがあって好き嫌いが分かれるところだ。上記テキストも長すぎて文章の行方がわかりにくい。このあたりは編集者にも半分程度の責任がある。資料を渉猟しているためと思われるが時折びっくりするほど古めかしい言い回しが出てくるのだが、それが様になっていない。ちぐはぐな印象を受けて、微妙に音程のずれた歌を聴いているような気分になる。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」と憲法第一条で謳ったことが32年テーゼを防いだ。本来であれば天皇の存在は日本国の形成よりも先んじているから本末転倒といえよう。しかしながら主権在民を糊塗する苦し紛れの文章が戦後の激動を雄弁に物語っている。

 左翼は国家をシステムとして捉え、文化を見落とした。欧州ではキリスト教、日本では天皇が憲法の屋台骨となっている。これを「打倒」することは国家を漂白することに等しい。日本の公を重んじる精神性は社会主義と親和性がある。それを思えば天皇制社会民主主義に舵を切っていれば、二・二六事件前後で日本の運命は変わっていた可能性がある。

 そもそも国民の自由を担保してくれるのは国家だけです。国家が安全でなくなれば、国民の自由もなくなります。その国家の安全は、標榜(ひょうぼう)する憲法の文章が保障してくるわけではない。ただ、国民の抱く「国防の意志」が保障するのです。しかるに利己的で嫉妬深い人間は、不自然な中心点に向かっては、なかなか団結ができないものです。日本国民には自然な精神的な団結の中心はひとつきりしかありません。それが天皇です。もしも日本から天皇が消えてなくなれば、日本国民は間接侵略によって著しく分断されやすくなり、日本国家の防衛力は内側から脆(もろ)くなり、それにつれ、日本人の自由は、一見、合法的なきまりごとを装って、日本人ではない者たちの手の中に、回収されて行くでしょう。

 マッカーサー憲法は日本人から「国防の意志」を見事に奪い去った。戦後、国民の間からは国体意識すら消え失せた。守るべきはものは今日の食糧と自分の命に変わった。敗戦は事実上「魂の一億玉砕」であった。

 だが不思議なことに敗戦を経て日本国民は自由の空気を呼吸し始めた。戦時中の不自由さは社会主義国と遜色がなかった。自由にものを言うこともできなかった。政治家は軍の顔色を窺い、軍はいたずらに兵員を餓死に至らしめた。大東亜共栄圏は絵に描いた餅と化した。国家は国民を守れなかった。

 終戦前後のギャップが精神の真空地帯に風を吹かせた。国民が手にした自由は何の責任も伴わなかった。胃袋は相変わらず不自由なままだった。人々は食べることにしか関心がなかった。何とか食べられるようになると終戦前後に生まれた大学生たちが騒ぎ始めた。学生運動は戦争の余波と見ることができよう。60年安保に反対した彼らの姿は戯画的ですらある。新世代もまた玉砕を望んだのであろう。

 日本国が国民を守れないことはシベリア抑留北朝鮮による拉致被害が証明している。GHQに牙を抜かれた日本はスパイ天国となり、中国や南北朝鮮がほしいままに日本の国益を毀損している。



GHQはハーグ陸戦条約に違反/『世界史講師が語る 教科書が教えてくれない 「保守」って何?』茂木誠

2020-08-31

瀬島龍三と堀栄三/『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸


『情報なき国家の悲劇 大本営参謀の情報戦記』堀栄三
『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行
『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治

 ・瀬島龍三と堀栄三

・『「諜報の神様」と呼ばれた男 連合国が恐れた情報士官・小野寺信の流儀』岡部伸
・『バルト海のほとりにて 武官の妻の大東亜戦争』小野寺百合子
・『杉原千畝 情報に賭けた外交官』白石仁章
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 クリミアのヤルタで密約が交わされる4ヶ月前の1944年10月10日、ハルゼー提督率いるアメリカ海軍の太平洋艦隊第三艦隊の艦載機が、沖縄、奄美諸島、宮古島などを爆撃した。12日からは台湾にある飛行場が集中的に攻撃された。しかし、これは、レイテ島上陸作戦を敢行するためのアメリカ側の陽動作戦だった。当時の大本営はそれに気づかず、連合艦隊司令部は、この爆撃に対して、傘下の空母の航空部隊や南九州に控えていた第二航空艦隊の爆撃機にハルゼー艦隊を攻撃するように命じたのだった。
 そこで12日からの4日間で、総数約900機の航空機が空母や各航空基地から飛び立ち、ハルゼー艦隊への攻撃を行った。
 攻撃から帰還したパイロットの報告を受けて日本海軍は多大な戦果を挙げたとして、大本営発表は5回にわたり続けられ、19日の6回目の発表では、「5日間にわたる猛爆。空母19、戦艦4など撃沈破45隻、敵兵力の過半を壊滅、輝く陸空一体の偉業」という大戦果とされた。戦況が悪化の一途を辿っているなかで、日本軍が久々の大戦果と言うことで大本営にも国民にも異様な興奮があった。そこで戦局の行方にも期待が高まった。
 台湾沖航空戦の大戦果に基づいて、捷(しょう)一号作戦として準備されていたルソン決戦は急遽レイテ決戦に変更された。
 しかし、作戦は失敗する。陸軍は第十四方面軍の精鋭部隊や内地からも部隊を送ったが、大本営発表とは逆にほとんど無傷だったアメリカ艦隊に補給路を断たれ、結果としてレイテ島も玉砕、10万人近くの日本兵が戦死する莫大な人的損害を出した。連合艦隊は事実上壊滅した。
 台湾沖航空戦の戦況認識に誤りがあったからだ。正確な戦果が判明するのは戦後になってからだが、実際には重巡洋艦2隻が大破にしたにすぎなかった。大戦果というのはまったくの虚報であった。その虚報をやみくもに信じた参謀本部の参謀たちの誤りによって、レイテ決戦の悲劇は引き起こされたのだった。
 ところが、この「台湾沖航空戦の大戦果」に疑問を持ち、「点検の要あり」という電報を出張先から大本営に打って報告していた人物がいたのである。これが大本営情報参謀だった堀栄三である。レイテ決戦から42年を経た1986(昭和61)年、大本営の元参謀だった朝枝繁春が明らかにしたのだった。
 第十六師団があるフィリピンに出張を命じられ、陸路で九州に向かった堀は、44年10月13日、フィリピンへの出発地である新田原(にゅうたばる)飛行場(陸軍航空機基地)に到着するや、同航空戦の影響と、悪天候のため離陸不可能と知らされた。そこで偶然にも台湾沖航空戦の本拠地となっていた鹿屋(かのや)飛行場に転進すると、事情の違いに驚かされた。帰還したばかりのパイロットから話を聞いてまわると、華々しい戦果の根拠が薄弱であることを突き止め、その場で参謀本部情報部長あてに、「戦果はおかしい。よく点検して作戦行動に移す必要あり」との暗号電報を打った。
 惜しむらくは堀の情報は参謀本部首脳に届かず、作戦行動に生かされることはなかった。打った電報は戦後も行方不明のままとなっていた。
 しかし、堀は、1958(昭和33)年になって、その電報の顚末について意外な人物から告白を受ける。その人物がシベリアから帰国した2年後のことであった。戦後、自衛隊に入っていた堀は第十四方面軍の元同僚から連絡を受け、虎ノ門にあった共済会館の地下食堂に向かい、その人物と対面した。

「そのとき【かれ】が言うんです。『ソ連抑留中もずっと悩みに悩み続けた問題の一つは、日本中が勝った勝ったといっていたとき、ただ一人それに反対した人がいた。あの時に自分が、きみの電報を握り潰した。これが捷一号作戦の根本的に誤らせた。日本に帰ったら、何よりも君に会いたいとずっと思っていた』と。握り潰したという言葉は、このとき初めて私が耳にした言葉でした。これが事実です」(保阪正康『瀬島龍三 参謀の昭和史』)

「握り潰した」という言葉を聞いて堀は言葉を失った。この意外な人物に、死活的な情報が大本営上層部に届けられる前に抹殺されていた。誤った過大な戦果情報を訂正することなく、その情報をもとにルソン決戦をレイテ決戦に作戦変更し、日本軍は玉砕し、幾万の命が散って行ったのであった。
 この人物こそ大本営作戦参謀だった瀬島龍三であった。開戦時から参謀本部作戦課に所属していた瀬島は、いうまでもなく堀が書簡で指摘した「奥の院」の実力者であった。
 堀は、この瀬島の告白を長い間、胸に収めて伏せていた。瀬島と同じ大本営作戦参謀だった朝枝には伝えたが、公表することはなかった。その朝枝が1986年になって初めて公にしたのだった。
 ところが、瀬島は後に、この告白を覆している。
「堀君の誤解じゃないかなあ」「記憶がない」
 多くのインタビューでは、否定を貫いた。自伝『幾山河』では、「この時期、自宅療養中」のため参謀本部にいなかったことにして、やはり、「堀君の思い違いではないないか」と告白したことを否定している。
「瀬島さんが父に告白したことは間違いありません。実は、その場(虎ノ門の共済会館地下食堂)に私も同席して聞いていましたから」
「賀名生(あのう)皇居」の屋敷で筆者を向かえてくれた堀の長男、元夫は柔和な笑顔で断言した。堀の電報を握り潰したことへの贖罪意識があったのだろうか、瀬島は、元夫に就職の斡旋を持ちかけた。大手商社マンだった元夫は断わり、その代わりに夫人が、瀬島が会長まで上り詰めた伊藤忠商事に勤務することになったという。瀬島が“手打ち”をしたのかもしれない。(中略)

 証言の確認は取れていないが、大本営参謀の間で密かに語られている次のような事実がある。

「堀の暗号電報は解読されたうえで、作戦課にも回ってきた。この電報を受けとった瀬島参謀は顔色をかえて手をふるわせ、『いまになってこんなことを言ってきても仕方がないんだ』といって、この電報を丸めるやくず箱に捨ててしまったという。そのときの瀬島の異様な表情を作戦課にいた参謀たちは目撃しているというのである」(『瀬島龍三』)

 瀬島が属していた超エリート集団である大本営作戦部作戦課は、堀が「奥の院」と指摘するように、どうにもならないほどに硬直化していた。自分たちが立てた作戦に合致する情報だけを選択し、それ以外は不都合なものとして抹殺していたのである。あくまで作戦上位、そのため主観的願望に溺れるということだ。この許し難い官僚主義こそ情報軽視の本質であった。それは日本型官僚機構が持つ倨傲(きょごう)であった。堀の電報握り潰し事件は、瀬島ひとりの責任ではなく、官僚化した作戦課という「奥の院」が生んだ悲劇であったのかもしれない。

【『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸〈おかべ・のぶる〉(新潮選書、2012年)】

 戦後日本を振り返ると瀬島龍三はキーマンの一人であると考える。瀬島は戦前の超エリートで陸軍中枢にいた。大東亜戦争はエリートが判断を誤ったところに大きな敗因があった。終戦後はシベリアに抑留されソ連に洗脳を施された。帰国後、堀栄三に謝罪したのはまだ良心の炎が辛うじて消えていなかったのだろう。彼の転向・二枚舌・無責任・経済的成功が日本の姿とピッタリと重なる。

 田中清玄入江相政侍従長から直接聞いた話として、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」という昭和天皇の発言を自著に記している(Wikipedia)。

【『田中清玄自伝』大須賀瑞夫〈おおすが・みずお〉インタビュー(文藝春秋、1993年/ちくま文庫、2008年)】

 この無責任こそが新生日本の方向を決定づけた。善悪を不問に付して政策は経済一辺倒に傾き、国防はアメリカに委ねた。高度経済成長を経てバブル景気に至る中で国民が憲法改正を望むことはなかった。占領期間に日本から牙を抜くことが戦後レジームだとすればそれは見事に成功した。

 小野寺信〈おのでら・まこと〉はバルト三国の公使館附武官を兼務した後、スウェーデン公使館附武官となりヤルタ会談の密約を入手し日本に打電したが、これを揉み消された。ここにも瀬島龍三が関与していると考えられる。その後、スウェーデン国王の仲介による和平を推し進めたが岡本季正〈おかもと・すえまさ〉駐スウェーデン公使の妨害で頓挫する。外務省の罪を検証する必要があるだろう。

 戦後レジームから脱却できない理由はただ一つだ。それは我々日本国民が自分たちの手で敗戦の責任を問うていないためだ。その意味から申せば、国民による「新東京裁判」が必要であると考える。

天皇陛下が歴史上初めて全国民に向けて発したメッセージが「終戦の詔勅」


「玉音」とは天皇陛下のお声のこと。我が国の歴史の中で天皇陛下が全国民に向けて玉音を発せられたのは歴史上3回しかない。(中略)一つが終戦の時の玉音放送、二度目が東北地方太平洋沖地震に関するビデオメッセージ、三度目はご譲位を表明されたメッセージ。


【玉音放送】わかりやすく解説 日本人なら知っておくべき昭和天皇による『終戦の詔勅』の意味|小名木善行(ねずさん)

2020-08-29

陸軍中将の見識/『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三


 ・陸軍中将の見識
 ・大本営の情報遮断

『消えたヤルタ密約緊急電 情報士官・小野寺信の孤独な戦い』岡部伸
『日本のいちばん長い日 決定版』半藤一利
『機関銃下の首相官邸 二・二六事件から終戦まで』迫水久恒
『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫
『陸軍80年 明治建軍から解体まで(皇軍の崩壊 改題)』大谷敬二郎
『徳富蘇峰終戦後日記 『頑蘇夢物語』』徳富蘇峰

日本の近代史を学ぶ

 堀はここで生れて初めて情報電報に目を通す身となった。大多数の電報は、枢軸国といわれた独、伊、ルーマニヤや中立国の武官、大公使からの電報で、右肩に親展、極秘という朱肉の大きな角印が目にしみた。その他は内外の通信社の速報ニュース、外国系ラジオ放送、新聞などが机の上に並べられていた。
 家に帰った堀はその晩、父堀丈夫〈たけお〉に情報をやることになった旨を話した。父は晩酌の盃を置いて、一瞬考えてから、
「俺も40年近く軍人生活をしてきたが、情報だけはやったことがない。強いて言えば大佐時代に2年間フランスに航空の勉強にいったのが、情報といえばいえるだけ。情報は結局相手が何を考えているかを探る仕事だ。だが、そう簡単にお前たちの前に心の中を見せてはくれない。しかし心は見せないが、仕草は見せる。その仕草にも本物と偽物とがある。それらを十分に集めたり、点検したりして、これが相手の意中だと判断を下す。相手といっても、第一線の指揮官には自分の正面の敵の指揮官になるし、大本営だったら国家の主権の中枢が相手ということになろう。主権の中枢から直接聞くことが出来たら一番良いが、それは至難であって、時には嘘もつかれる。そうなるといろいろ各場面で現われる仕草を集めて、それを通して判断する以外にはないようだな」
 父は何度も「仕草」という言葉を使った。仕草とは軍隊用語でいう徴候のことである。情報のことは知らないという父から受けた初めての情報教育であった。

【『大本営参謀の情報戦記 情報なき国家の悲劇』堀栄三〈ほり・えいぞう〉(文藝春秋、1989年/文春文庫、1996年)】

 堀栄三は「正確な情報の収集とその分析という過程を軽視する大本営にあって、情報分析によって米軍の侵攻パターンを的確に予測したため、『マッカーサー参謀』とあだ名された」(Wikipedia)。上念司〈じょうねん・つかさ〉が毎年8月15日に繰り返し読む書籍と知って興味を抱いた。

 俚諺(りげん)に「一葉落ちて天下の秋を知る」とある。孔子は「一を聞いて十を知る」(『論語』)と説き、日蓮も「一をもつて万を察せよ。庭戸(ていこ)を出でずして天下をしるとはこれなり」(「報恩抄」)と述べる。わずかな予兆から変化を見抜くことは生存率を高める。堀栄三の養父はそれを「仕草」と表現した。陸軍中将の高い見識に驚かされる。法華経方便品(ほうべんぽん)に「諸法実相十如是」とある。仕草という言葉が十如是に通じる。

 私は上念ほどの感動を覚えなかったのだが、小野寺信〈おのでら・まこと〉を知り再読せざるを得なくなった。

2020-08-23

創価学会の思想は田中智学のパクり/『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一


『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
『化城の昭和史 二・二六事件への道と日蓮主義者』寺内大吉
・『石原莞爾と昭和の夢 地ひらく』福田和也
・『死なう団事件 軍国主義下のカルト教団』保阪正康
・『血盟団事件 井上日召の生涯』岡村青

 ・創価学会は田中智学のパクり

 その結果、智学は決意する。日輝の教学は時勢の推移のなかでは妥当だと思われることもあったが、万代不易の道理ではない。しかし、日蓮の主張は万古を貫いて動かざるものである。いまこそ、「祖師に還る」「純正に、正しく古に還らなければならぬ」、と。
 日輝は摂受を重視しる「折退(しゃくたい)・摂進(しょうじん)」論を採ったのにたいして、智学は「超悉檀(ちょうしつだん[大谷註:悉檀とはサンスクリットのsiddhāntaの音訳で、教説の立てかたの意]の折伏)」にもとづく「行門の折伏」(実行的折伏)を強調した。折伏が祖師・日蓮の根本的立場であると捉え、それへの復古的な回帰を唱えたのである。この折伏重視の立場性こそが、智学生涯の思想と運動を貫く通奏低音であり、政府にたいする「諌暁(かんぎょう)」(いわゆる国家諌暁)もこの折伏の精神にもとづく。
 明治12年(1879)1月、病気再発の兆しがみえたため、智学は、横浜にいた医師の次兄・椙守普門(すぎもりふもん)の家で療養した。病気は小康を得たが、同年2月、還俗の意思を兄に伝え、病気療養を理由として、17歳で還俗することになる。また、3月には日蓮宗大教院の教導職試補の辞任届も提出している。以後、生涯を通じて、智学は在家仏教者として活動することになる。

【『日蓮主義とはなんだったのか 近代日本の思想水脈』大谷栄一〈おおたに・えいいち〉(講談社、2019年)】

 田中智学・本多日生北一輝〈きた・いっき〉-大川周明〈おおかわ・しゅうめい〉は昭和初期の軍人に多大な影響を及ぼしたが、これを日蓮主義で括ると視野が狭まる。むしろ大正デモクラシーの流れを汲んだ社会民主主義と捉えるのが正当だろう。佐藤優がわざわざ保守論客の関岡英之に近づいて大川周明を持ち上げているのも社会民主主義というタームで考えると腑に落ちる。

 大谷栄一は宗教社会学者である。それゆえ宗教や教団に固執して近代史全体の流れが見えにくくなっている。むしろ話は逆で、時代が揺れ動く波しぶきの一つに日蓮主義があったと私は見る。鎌倉時代にあって日蓮ほど国家意識を持った宗教指導者はいない。出家の身でありながら迫害に迫害を加えられても尚、政治的意見を進言し続けた。昭和初期は内憂外患の時代であり鎌倉の時代相と酷似している。

 日蓮主義は戦後にも継承された、と私は考える。田中智学の国立戒壇論が創価学会に継承されたのである。戦後の一時期まで、智学の国立戒壇論は創価学会の運動の中核部分に保持されていた。創価学会の国立戒壇論は「国柱会譲り」のものだった。

 創価学会は元々日蓮正宗の一信徒団体であったが、戦前より折伏(しゃくぶく)を標榜し原理主義に傾いていた。初代会長の牧口常三郎〈まきぐち・つねさぶろう〉にも田中智学の影響が及んでいた事実が興味深い。戦後、国柱会の勢いは已(や)んだが、創価学会は共産主義的な組織運営で教勢を拡大した。折伏はオルグと化した。公明党が政権与党入りしてからは尖鋭(せんえい)さを失い、与党内野党みたいな中途半端なブレーキ役に甘んじている。創価学会もまた本質的には社会民主主義傾向が顕著なため、外患の多い現代にあって国政をリードすることは不可能だろう。

 尚、大谷栄一には『近代日本の日蓮主義運動』(法蔵館、2001年)との著作もある。

2020-08-01

高砂義勇隊員は糧秣を届けた直後に餓死した/『証言 台湾高砂義勇隊』林えいだい


・『高砂族に捧げる』鈴木明

 ・高砂義勇隊員は糧秣を届けた直後に餓死した

 私は帰還した朝鮮人特別志願兵を韓国に訪ねた。
 日本軍は敵の物量作戦による徹底的な攻撃にさらされた。熱帯特有の人間を寄せつけない自然環境による病気、そして飢餓で兵士はバタバタと倒れていった。戦闘よりも大部分の兵士が、病気と飢餓で命を落としたのであった。
 いよいよ食べる物がなくなるにつれて、自分の小便を飲んだり、友軍の兵士を殺して食べたと、元皇軍兵士たちは告白した。
「敵兵よりも友軍の日本兵のほうが怖かった。将校でさえも例外ではなく、殺人集団に入って戦友を射殺して食った」といった。
 それまで射殺した敵兵の人肉を食べた話が戦友会で語られているということは聞いたことがある。しかし、友軍の日本兵の人肉を食べたとは、私にはとても信じられないことだった。飢餓に陥ると、人間は最後の一線さえも越してしまうものかと、戦争のもたらした悲劇に息をのんだ。飢餓は人間を変えてしまうものだ。もし自分自身が、生か死かの極限の状況に置かれた場合、あえて死を選ぶ勇気が果たして自分にあるのだろうかと自問した。
 ソウルの張炳黙さんの第二十師団第七十八連帯では、千数百人のうち二人しか帰還しなかったという。彼は五十余回の戦闘で、負傷二十五個所、貫通傷五個所、盲貫二十余個所、体は蜂の巣のように穴だらけ、いまも銃弾や破片が残っている。まさに生きていることが不思議である。
 糧秣がなくなった時、張さんは同胞が友軍の人肉を飯盒で煮て食べているのを見た。食べたい誘惑にかられて、つい手を出そうとして止めた経験を語ってくれた。
「台湾の高砂義勇隊がわが部隊に糧秣を担送していたが、彼らの律儀さには驚いたよ。自分は食べないで、担送してきた途端に死んじゃった」
 と、全羅南道の金在淵は語るのだった。
 その高砂義勇隊員は、ジャングルの湿地帯を通り、険しい山を越えて四十キロの行程を、何日もかけて背負子で担送してきて、飢えのために死んだと説明した。
「俺なら自分で食ってしまうよ。日本軍に義理立てして死ぬことはない。馬鹿馬鹿しいったらないよ。とにかく高砂義勇隊は正直というか、日本の国のためにといって死んでいったよ。朝鮮人の志願兵なら、まず自分が生きることを先に考える」
 自分は飢えても、担送した糧秣を届けて死んだという話に、私は深い感動を覚えた。

【『証言 台湾高砂義勇隊』林えいだい(草風館、1998年)】

 わざわざ「元皇軍兵士たち」と書いたのは林の父親が特高警察に拷問されて死んだことに対する恨みが込められているのだろう(Wikipedia)。日本を愛することはできなかったに違いない。国家の誤ったハンドリングが敵対者を作ることは決して少なくない。戦時中の思想取り締まり、シベリア抑留の放置、水俣病患者の補償問題、野放し状態の学生運動、薬害問題、災害対策、そして拉致被害など、この国はきちんと国民を守る気があるようには見えない。その延長線上にいじめ被害がある。

 高砂義勇隊軍属であった。原住民ということで何らかの差別があったのかもしれない。優れた五感、抜きん出た身体能力で高砂族は行き詰まった日本軍を強力にサポートした。そんな彼らに対して日本は無保証・給与未払いで応じた(Wikipedia)。こんな国は戦争に敗れて当然だ。私はどうしても大東亜戦争を賛美する気になれない。

 台湾には今でも「日本精神」(リップンチェンシン)という言葉がある(日本精神│日本台湾平和基金会)。そして高砂族は戦後も大和魂のままに生きた。東日本大震災の時は人口2350万人の台湾が253億円もの義捐(ぎえん)金を寄せてくれた(データで見る東日本大震災の台湾からの義援金250億円 | nippon.com)。先日物故された李登輝元総統や蔡英文総統は常々日本語でメッセージを送ってくれている。そんな世界一の親日国である台湾と日本は国交すら結んでいないのだ。中国に侵略されるのは時間の問題だろう。安全保障はアメリカに依存し、経済は中国に依存するというだらのしない国に落ちぶれてしまった。「自主・独立」といった言葉を気安く語る政治家を絶対に信用してはならない。

 日本は直ちに台湾と国交を結び、重ねて安全保障条約を締結すべきである。

2020-07-20

近代日本の進路を決定する視察/『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武


 ・近代日本の進路を決定する視察

日本の近代史を学ぶ

 本書は岩倉(いわくら)使節団の公式記録『特命全権大使 米欧回覧実記』の抜粋現代語訳と註釈です。
 岩倉使節団とは特命全権大使・岩倉具視(ともみ/右大臣)を団長、木戸孝允(きどたかよし/参議〈さんぎ〉)、大久保利通(おおくぼとしみち/大蔵卿〈おおくらきょう〉)、伊藤博文(工部大輔〈こうぶいたいふ〉)、山口尚芳(やまぐちなおよし/外務小輔)を副使として、以下、書記官、理事官、随行員(新島襄〈にいじまじょう〉など)、さらには留学生(津田梅子〈つだうめこ〉、山川捨松〈やまかわすてまつ〉、中江兆民〈なかえちょうみん〉など)を含め総勢107名からなる一行が明治4年から6年にかけて1年半余りの長期にわたりアメリカおよび欧州諸国を歴訪、外交交渉と各国事情視察にあたったものです。

【『現代語縮訳 特命全権大使 米欧回覧実記』久米邦武編著:大久保喬樹訳註(角川ソフィア文庫、2018年/岩波文庫全5巻、1977-82年/水澤周訳注、慶應義塾大学出版会、2005年)】

「前書き」の冒頭より。『特命全権大使 米欧回覧実記』は、岩倉使節団の使節紀行纂輯(さんしゅう)専務心得(資料収集、記録係)を命じられた久米邦武〈くめ・くにたけ〉が明治11年に全100巻として完成したもの。各巻はそれぞれ400ページ近くある。


 検索して知ったのだが津田梅子は満年齢だと8歳である。また山川捨松は会津藩家老の娘だが、会津戦争(1968年)からわずか3年後に留学生として選ばれている。誰がどのような基準で選んだのかが不明だが、幼い留学生たちは後に大輪の花を咲かせる。

 岩倉使節団は新生日本国の耳目となり米欧を見聞した。薩英戦争(1863年)と下関戦争(1863、1864年)を経て既に薩長では攘夷の概念は粉砕され開国を志向していた。維新の立役者であった岩倉・木戸・大久保の三人が長期間外遊すること自体が常識外れで思考の柔軟性を示している。

 使節団のほとんどは断髪・洋装だったが、岩倉は髷と和服という姿で渡航した。この姿はアメリカの新聞の挿絵にも残っている。日本の文化に対して誇りを持っていたためだが、アメリカに留学していた子の岩倉具定らに「未開の国と侮りを受ける」と説得され、シカゴで断髪 。以後は洋装に改めた。

Wikipedia

 世界の風に吹かれる中で古い思い込みから脱却してゆく様子が窺える。結果的に不平等条約改正の予備交渉は少しも上手くゆかなかったが、近代日本の進路を決定する視察となった。使節団の帰国後、西郷隆盛の征韓論は斥(しりぞ)けられ西南戦争に至るのである。更に欧州のバックボーン(背骨)がキリスト教であることを見抜き、後の憲法制定では伊藤博文が天皇に置き換えることで憲法に息を吹き込んだ(『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹)。


【※右は岩波文庫版5冊セット】

明治150年 インターネット特別展- 岩倉使節団 ~海を越えた150人の軌跡~
『田中清玄自伝』田中清玄、大須賀瑞夫

2020-06-28

アメリカに逆らうことができない日本/『戦後史の正体 1945-2012』孫崎享


 ・アメリカに逆らうことができない日本

日本の近代史を学ぶ

 しかしその後、発案者の高村(こうむら)大臣が内閣改造で外務省を去ります。ここで外務省内の風向きが変わりました。米国からの圧力によって、日本はハタミ大統領を招待するような親イラン政策をとるべきでないという空気がしだいに強くなったのです。
 けれども私も官僚として長年仕事をしてきましたので、物事を動かすためのそれなりのノウハウをもっています。そちらを総動員し、なんとかハタミ大統領の訪日にこぎつけました。このときハタミ大統領訪日の一環として、日本はイラクのアザデガン油田の開発権を得ることになったのです。この油田の推定埋蔵量は、260億バレルという世界最大規模を誇ります。非常に大きな経済上、外交上の成果でした。
 しかし、イランと敵対的な関係にあった米国は、
「日本がイランと関係を緊密にするのはけしからん、アザデガン油田の開発に協力するのはやめるべきだ」
 と、さらに圧力をかけてきました。日本側もなんとか圧力をかわそうと努力しましたが、結局最後は開発権を放棄することになりました。
 もし、日本がみずからの国益を中心に考えたとき、アザデガン油田の開発権を放棄するなどという選択は絶対にありえません。エネルギー政策上、のどから手がでるほどほしいものだからです。しかし米国からの圧力は強く、結局日本はこの貴重な権益を放棄させられてしまったのです。その後、日本が放棄したアザデガン油田の開発権は中国が手に入れました。
 私がかつてイランのラフサンジャニ元大統領と話をしたとき、彼が、
「米国は馬鹿だ。日本に圧力をかければ、漁夫の利を得るのは中国とロシアだ。米国と敵対する中国とロシアの立場を強くし、逆に同盟国である日本の立場を弱めてどうするのだ」
 といっていたことがありますが、まさにその予言どおりの展開です。アザデガン油田の開発権という外交上の成功は、結局、米国の圧力に屈したのです。
「なぜ日本はこうも米国の圧力に弱いのだろう」
 この問いは、私の外務省時代を通じて、つねにつきまとった疑問でもありました。

【『戦後史の正体 1945-2012』孫崎享〈まごさき・うける〉(創元社、2012年)】

 アメリカからの圧力は現場で働く官僚にまで及ぶという。もはや属国というレベルを超えている。市町村扱いだ。更にアメリカは圧力を掛けやすくするため首相周辺に権力が集中するよう仕向けているそうだ。

 アメリカに葬られた政治家といえば田中角栄が真っ先に浮かぶ。情報を寄せたアメリカの民間航空会社は司法取引で無罪放免だった。個人的にはロッキード事件を名を売った立花隆や堀田力〈ほった・つとむ〉はアメリカの犬だったと考える。小室直樹が孤軍奮闘して田中角栄を擁護したが刀の切っ先はどこにも届かなかった。

 田中が抹殺された理由は二つある。まず日中国交回復をアメリカに先んじて行ったこと。次にウラン取引に手を出したこと。一国の政治としては何もおかしなところはない。しかしアメリカは縄張りを侵されたと激怒した。我々が信じる資本主義における自由競争は全くの錯覚だ。

 読んでから7年ほど経つので記憶が曖昧だ。孫崎の政治的スタンスもよくわからない。刊行直後はネットやテレビによく登場していたが、その言動はやや思い込みが強く、老人特有の狷介(けんかい)さが滲(にじ)んでいた。ただし佐藤優がけちょんけちょんに貶(けな)していたので読む価値はあると考えてよい。

 まともな軍隊を持たない国は国家として一人前の扱いを受けない。もしも民主政が優れたシステムであれば中小国連合が覇権に対抗し得るはずだ。それが実現しないのは核兵器と金融によって世界がコントロールされているからだ。『沈黙の艦隊』は秀逸な軍事的なアイディアだが、もっと巧妙かつ静穏な長期的戦略でアメリカに対抗することが望ましい。

2020-06-01

島田洋一「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」


 どういうわけか島田論文がGoogle検索でヒットしない。私が確認しただけでも15ページあるのだが、Googleでは1と2しか表示されない。エキサイト・ブログはブログ内検索もできないようなので、こちらにリンク集を作成した次第である。

「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(1)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(2)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(3)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(4)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(5)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(6)北岡伸一論文批判(その1)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(7)北岡伸一論文批判(その2)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(8)北岡伸一論文批判(その3)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(9)北岡伸一論文批判(その4)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(10)北岡伸一論文批判(その5)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(11)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(12)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(13)
「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」(14)
【資料】 「対華21カ条要求――加藤高明の外交指導」

北岡君、日本を侵略国家にする気かね 伊藤隆(東京大名誉教授)

 ・加藤高明と対華21ヵ条要求
 ・『日本国紀』読書ノート(145) | こはにわ歴史堂のブログ

2020-05-24

「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆/『逝きし世の面影』渡辺京二


『日本人の誇り』藤原正彦
『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン

 ・失われた日本の文明
 ・幕末の日本は「子どもの楽園」だった
 ・「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆

『幕末外交と開国』加藤祐三
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『近代の呪い』渡辺京二

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 子どもが馬や乗物をよけないのは、ネットーによれば「大人からだいじにされることに慣れている」からである。彼は言う。「日本ほど子供が、下層社会の子供さえ、注意深く取り扱われている国は少なく、ここでは小さな、ませた、小髷をつけた子供たちが結構家族全体の暴君になっている」。ブスケにも日本の「子供たちは、他のどこでより甘やかされ、おもねられている」ように見えた。モースは言う。「私は日本が子供の天国であることをくりかえさざるを得ない。世界中で日本ほど、子供が親切に取り扱われ、そして子供のために深い注意が払われる国はない。ニコニコしている所から判断すると、子供達は朝から晩まで幸福であるらしい」。いちいち引用は控えるが、彼は『日本その日その日』において、この見解を文字通り随所で「くりかえし」ている。
 イザベラ・バードは明治11年の日光での見聞として次のように書いている。「私はこれほど自分の子どもに喜びをおぼえる人々を見たことがない。子どもを抱いたり背負ったり、歩くときは手をとり、子どもの遊戯を見つめたりそれに加わったり、たえず新しい玩具をくれてやり、野遊びや祭りに連れて行き、子どもがいないとしんから満足することがない。他人の子どもにもそれなりの愛情と注意を注ぐ。父も母も、自分の子どもに誇りをもっている。毎朝6時ごろ、12人か14人の男たちが低い塀に腰を下して、それぞれ自分の腕に2歳にもならぬ子どもを抱いて、かわいがったり、一緒に遊んだり、自分の子どもの体格と知恵を見せびらかしているのを見ている大変面白い。その様子から判断すると、この朝の集まりでは、子どもが主な話題となっているらしい」。彼女の眼には、日本人の子どもへの愛はほとんど「子ども崇拝」の域に達しているように見えた。

【『逝きし世の面影』渡辺京二〈わたなべ・きょうじ〉(平凡社ライブラリー、2005年/葦書房、1998年『逝きし世の面影 日本近代素描 I』改題)】

 乳幼児の死亡率が高かった背景もあるのだろう。子供が死ぬことは珍しくなかった。そんな状況が戦前まで続いた。

 赤ん坊はただただ可愛い。私が生まれた北海道では「めんこい」と言う。赤ん坊を抱っこすれば誰もが笑顔になる。特に女性の場合、妊娠・出産を通して脳内のホルモン分泌が変化しオキシトシンが急増する。オキシトシンは「愛情ホルモン」とか「幸せホルモン」などと呼ばれている。つまり赤ん坊を可愛いと思えない母親は何らかの異常があると考えてよい。幼児を可愛がるのは動物の本能なのだ。

 生意気になるのは言葉を覚える3歳前後からである。私に子はいないが年の離れた弟妹(ていまい)3人を育てた経験がある。同じ年頃の子供と一緒になると性格の違いがくっきりと浮かび上がる。3歳児はとにかくわがままだ。私は過酷な訓練を行った。おもちゃで遊んでいたり、お菓子を食べている時に「ちょーだい!」と私が手を差し出す。当然寄越すことはない。で、軽くビンタをする。それでも渡さない。ビンタは少しずつ強くなり、泣いても許さない。最後は泣きながら寄越すことになる。これを日常的に繰り返すと3歳児は1週間ほどでゲームの仕組みを理解する。ま、寄越せば直ぐに返すから当たり前なのだが(笑)。こうすることでよその子と遊んでいる時に何でも譲る親切な振る舞いが身につく。直ぐ下の弟たちも私の真似をするため訓練は速やかに行われる。

 かつて『スポック博士の育児書』(原書は1946年、アメリカ/日本語版は1966年、暮しの手帖社)というベストセラーがあった。世界各国で5000万部以上売れた。「抱き癖が子供の自立を妨げる」「夜泣きをしても無視」など、明らかに誤った育児法が紹介されていた。親が鵜呑みにして育てられた子供は後に愛着障害となった。核家族化というタイミングが重なったことも大きい。生殖後の余命が異常なまでに長いのがヒトの特徴であるが、これは幼児を育成するためと考えられている。子供を舐(な)めるように可愛がるのが日本の伝統だ。そうやって育てられた子供たちが後に日清戦争・日露戦争を戦ったことは偶然ではあるまい。自分が愛されたがゆえに、愛するもののために命を犠牲にしたのだ。

 いじめが社会問題化した背景には子供が愛されなくなった情況があるように思われる。中野富士見中学いじめ自殺事件(1986年)で受けた衝撃を忘れることができない。1970年代生まれから何が変わったのだろうか? 「1970年の こんにちは」(「世界の国からこんにちは」)は大阪万博(1970年3月~9月)のテーマソングだが、やはり豊かになったことが最大の理由だろう。1954年(昭和29年)12月から始まった高度経済成長が1970年(昭和45年)7月まで続く。

 それまでのいじめは先輩が後輩に対して行うものだった。戦時中の陸軍や高校・大学の運動部では常態化していた。私もバレーボール部に所属していた高校1年生の時は毎日ヤキを入れられた。母親に告げると「ざまあみろ」と言われた。絶対に忘れてはならないのは帰還した特攻隊への仕打ちだ(『月光の夏』毛利恒之)。日本人の陰湿さが極まった事例といえる。

 日本で子供が大切にされなくなったとすれば、やがて滅びることは必定だ。振り返ると認知症が知られるようになったのも1970年代のことだ(『恍惚の人』有吉佐和子、1972年)。この国の行く末は甚だ危うい。



美しき日本の面影 その5 子供の情景

2020-05-18

幕末の日本は「子どもの楽園」だった/『逝きし世の面影』渡辺京二


『日本人の誇り』藤原正彦
『鉄砲を捨てた日本人 日本史に学ぶ軍縮』ノエル・ペリン

 ・失われた日本の文明
 ・幕末の日本は「子どもの楽園」だった
 ・「日本ほど子供が大切にされている国はない」と外国人が驚嘆

『幕末外交と開国』加藤祐三
『明治維新という過ち 日本を滅ぼした吉田松陰と長州テロリスト』原田伊織
『龍馬の黒幕 明治維新と英国諜報部、そしてフリーメーソン』加治将一
『シドモア日本紀行 明治の人力車ツアー』エリザ・R・シドモア
『武家の女性』山川菊栄
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛
『近代の呪い』渡辺京二

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 日本について「子どもの楽園」という表現を最初に用いたのはオールコックである。彼は初めて長崎に上陸したとき、「いたるところで、半身または全身はだかの子供の群れが、つまらぬことでわいわい騒いでいるのに出くわ」してそう感じたのだが、この表現はのちのち欧米人訪日者の愛用するところとなった。
 事実、日本の市街は子どもであふれていた。スエンソンによれば、日本の子どもは「少し大きくなると外へ出され、遊び友達にまじって朝から晩まで通りで転げまわっている」のだった。1873(明治6)年から85年までいわゆるお雇い外国人として在日したネットーは、ワーグナーとの共著『日本のユーモア』の中で、次のようにそのありさまを描写している。「子供たちの主たる運動場は街上(まちなか)である。……子供は交通のことなどすこしも構わずに、その遊びに没頭する。かれらは歩行者や、車を引いた人力車夫や、重い荷物を担いだ運搬夫が、独楽を踏んだり、羽根つき遊びで羽根の飛ぶのを邪魔したり、紙鳶(たこ)の糸をみだしたりしないために、すこしの迂り道はいとわないことを知っているのである。馬が疾駆して来ても子供たちは、騎馬者(うまののりて)や馭者を絶望させうるような落着きをもって眺めていて、その遊びに没頭する」。
(中略)こういう情景はメアリ・フレイザーによれば、明治20年代になってもふつうであったらしい。彼女が馬車で市中を行くと、先駆けする別当は「道路の中央に安心しきって坐っている太った赤ちゃんを抱きあげながらわきへ移したり、耳の遠い老婆を道のかたわらへ丁重に導いたり、じっさい10ヤード(=9.144m)ごとに人命をひとつずつ救いながらすすむ」のだった。

【『逝きし世の面影』渡辺京二〈わたなべ・きょうじ〉(平凡社ライブラリー、2005年/葦書房、1998年『逝きし世の面影 日本近代素描 I』改題)】

「子は授(さず)かりもの」と日本人は考える。誰から授かったのであろうか? 天である。ただしシナのとは異なり天地(=人智の及ばぬ大自然)の意味合いが強い。

 人力車が発明されたのは明治に入ってからのことだから往来はまだまだ人のものであった。それでも尚、外国人の目を瞠(みは)らせる何かがあったのだろう。欧米の児童教育は矯正を目的としており、子は鞭打たれる存在であった。そんな彼らからしてみると日本の子供たちはさながら野生動物のように見えたのだろう。

 私の小学生時代がちょうど100年後(1973年)である。札幌ではアスファルト舗装されていない道路も多かった。モータリゼーションが興ったのは1960年前後からで80年代までクルマは増え続けた。それでもまだ私が子供の時分は道路で遊ぶことができた。時折走るクルマはけたたましいクラクションを鳴らした。ドライバーからすれば子供と年寄りは交通を妨げる邪魔な存在でしかなかった。道路はクルマのものとなったのだ(『自動車の社会的費用』宇沢弘文)。

 渡辺京二は『苦海浄土 わが水俣病』(石牟礼道子〈いしむれ・みちこ〉著)の編集者として知られる。「当初『海と空のあいだに』と題されたこの小説の原稿を郷土文化雑誌の編集者として受け取ったのが、評論家・思想史家の渡辺京二さんだ」(88歳の思想史家・渡辺京二が語る「作家・石牟礼道子の自宅に通った40年」 | 文春オンライン)。原稿の校正はもとより、掃除から食事に至るまで面倒を見たという。戦後の一時期は左翼として活動していた過去を持つ人物だ(【インタビュー】渡辺京二(思想史家・87歳)「イデオロギーは矛盾だらけ。だから歴史を学び直し人間の真実を追究するのです」 | サライ.jp)。

『苦海浄土』は紛(まが)いなく傑作である。私が「必読書」に入れなかったのは小説であるにもかかわらずノンフィクションとして扱われることを石牟礼がよしとしたためだ。水俣の被害者を左翼が支援したのは当然だろう。しかしそれが政治臭を帯びると反権力闘争のために水俣病が利用される本末転倒が起こる。チッソは違法行為を犯したわけではなかった。文明が発達する時には必ず何らかの犠牲が生じる。そこで国家の振る舞いが問われるのだ。

 1990年代まで知識人が赤く染まっていた事実を踏まえれば石牟礼道子はまだリベラルと言えるのかもしれないが、どうも私は好きになれない。渡辺京二も本書を通して古きよく日本を懐かしんでいるわけではなく、断絶した時代として相対化しているのである。「逝きし世」は「滅んだ文明」を意味する(『荒野に立つ虹』)。

 石原吉郎と比べると石牟礼や渡辺はヒモ付きに見えてしまう。

2020-03-30

勝者敗因を秘め、敗者勝因を蔵す/『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹


『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦

 ・勝者敗因を秘め、敗者勝因を蔵す

『戦争と平和の世界史 日本人が学ぶべきリアリズム』茂木誠

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 勝者敗因を秘め、敗者勝因を蔵(ぞう)す。
 勝った戦争にも敗(ま)けたかもしれない敗因が秘められている。敗けた戦争にも再思三考(さいしさんこう)すれば勝てたとの可能性もある。
 これを探求して発見することにこそ勝利の秘訣(ひけつ)がある。成功の鍵(かぎ)がある。行き詰まり打開の解答がある。これが歴史の要諦(ようてい)である。(まえがき)

【『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹〈こむろ・なおき〉(講談社、2000年/講談社+α文庫、2001年)以下同】

 21世紀の日中戦争はもはや時間の問題である。マーケットはチャイナウイルス・ショックの惨状を呈しており、4月に底を打ったとしても実体経済に及ぼす影響は計り知れない。既にアメリカでは資金ショートした企業が出た模様。既に東京オリンピックの延期が決定されたが、国民全員が納得せざるを得なくなるほど株価は下落することだろう。そして追い込まれた格好の中国が国内の民主化を抑え込む形で外に向かって暴発するに違いない。

 小室直樹は学問の人であった。自分の知識を惜し気(げ)もなく若い学生に与え、後進の育成に努めた。赤貧洗うが如き生活が長く続いた。あまりの不如意に胸を痛めた編集者が小室に本を書かせた。こうしてやっと人並みの生活を送れるようになった。日本という国には昔から有為な人材を活用できない欠点がある。小室がもっと長生きしたならば中国が目をつけたことと私は想像する。

 日本はアメリカの物量に敗(ま)けたのではない。たとえば、ミッドウェー海戦において、日本は物量的に圧倒的に優勢だった。それでも日本は敗けた。ソロモン消耗戦においても、アメリカの物量に圧倒されないで、勝つチャンスはいくらでもあった。
「勝機(しょうき/勝つチャンス)あれども飛機(ひき/飛行機)なし」などと、日本軍部は、勝てない理由を飛行機不足のせいにしたが、この当時、ソロモン海域(ウォーターズ)における日本の飛行機数はアメリカに比べて、必ずしもそれほど不足してはいなかった。
 アメリカの物量に敗けた。これは、敗戦責任を逃れるための軍部の口実にすぎない。
 あの戦争は、無謀な戦争だったのか、それとも無謀な戦争ではなかったのか。答えをひとことでいうと、やはり、あの戦争は無謀きわまりない戦争だった。
 しかし、無謀とは、小さな日本が巨大なアメリカに立ち向かったということではない。腐朽官僚(ロトン・ビューロクラシー)に支配されたまま、戦争という生死の冒険に突入したこと。それが無謀だったのである。
 明治に始まった日本の官僚制度は、時とともに制度疲労が進み、ついに腐朽(ふきゅう)して、機能しなくなった。軍事官僚制も例外ではない。いや、軍事官僚制こそが、腐朽して動きがとれなくなった。典型的なロトン・ビューロクラシーであった。
 そんな軍部のままに戦争に突入したのは、たしかに無謀だった。その意味で、あの戦争は「無謀」だったのである。

 大東亜戦争の敗因が腐朽官僚にあったとすれば、戦後の日本は「敗者敗因を重ねる」有り様になってはいないだろうか。特に税の不平等が極めつけである。官僚は省益のために働き、天下りを目指して働いている。巨大な白蟻といってよい。日本のエリートがエゴイズムに傾くのは教育に問題があるのだろう。やはり東大が癌だ。

 侍(さむらい)は官僚であった。語源の「侍(さぶら)ふ」は服従する意だ。責任を問われれば切腹を命じられた。個人的には主従の関係性を重んじるところに武士道の限界があると思う。主君が道に背けば大いに諌め、時に斬り捨てることがあってもいいだろう。

 日本は談合社会であり腐敗しやすい体質を抱えている。特に戦後長く続いた自民党の一党支配は政治家を堕落させた。金券腐敗は田中角栄の時代に極まった。そんな政治家に仕えている官僚が腐敗せずにいることは難しい。政官の後を追うように業も落ちぶれたのはバブル崩壊後のこと。日本からノブレス・オブリージュは消えた。

 国防を真剣に考えることのない国民によって国家は脆弱の度を増す。この国の国民は隣国からミサイルが飛んできても平和憲法にしがみついて安閑と過ごしている。日中戦争は必至と考えるが、負けるような気がしてきた。

2020-03-28

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説/『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子


『工藤写真館の昭和』工藤美代子

 ・読書日記
 ・張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説

『軍閥 二・二六事件から敗戦まで』大谷敬二郎

日本の近代史を学ぶ

 昭和3年に入るとにわかに時局があわただしさを増した。日本の満州外交についてひと通り見ておこう。
 6月4日、奉天駅から南へ1キロの地点で満州軍閥の総領、張作霖が乗った列車が爆破され死亡する事件が起きた。時の首相田中義一はこの事件の処理を誤り、さまざまな手遅れをきたした挙句、結果的には満州の空に青天白日旗を招き寄せる結果になった。
 日本の対満州外交の失敗はこれより前の幣原外交から始まっていた。幣原喜重郎はそもそも中国内の軍閥間の内戦である奉直戦争(大正13年)のとき、日本軍の支援を仰いだ張作霖がやはり軍閥の呉佩孚(ごはいふ)の逆襲にあって満州そのものが危機にさらされる情勢となったが、浜口首相、幣原外相は動かなかった。
 しかし、呉佩孚の部下だった馮玉祥(ふうぎょくしょう)の反乱にあって、呉陣営は敗退し日本の介入は結果的には必要なくなった。そのため幣原外交は一時的には名を上げたが、馮の反乱は裏で日本の軍部による暴力だったことがやがて判明した。よくいわれる幣原の“軟弱外交”の結果として、軍が文官の指揮を越えて手を出すきっかけとなった事件だったといえる。
 ところが近年になってモスクワの新情報が開示され、そもそもこの事件はソ連側スパイの謀略によって動かされていたことが、イギリスの調査でほぼ確実になった。事件から七十余年経ったころである。
 イギリス情報部の秘密文書によれば、実は馮の背後にはソ連=コミンテルンが張り付いていた。馮がモスクワからの指令で動いていた事実は、コミンテルンからの通信を逐一解読していたイギリス情報部の発表とも一致した。
 だとすれば、宇垣一成(うがきかずしげ)、板垣征四郎(いたがきせいしろう)といった日本の陸軍首脳は、イギリスとソ連の手のひらの上で「反日勢力」を支援していたことになる。
 ところがさらに、この事件にはまだ隠されていた重大な陰謀があったという驚くべき事実が伝えられた。
 平成17年末に刊行された『マオ』(ユン・チアン、ジョン・ハリデイ)には、恐るべき謀略の実態が書かれている。
「張作霖爆殺は一般的には日本軍が実行したとされているが、ソ連情報機関の資料から最近明らかになったところによると、実際にはスターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴン(のちにトロツキー暗殺に関与した人物)が計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだという」
 かつて『ワイルド・スワン』を著した信頼度の高い著者の調査である。とはいっても、我々がこの論証の確度を確かめることはたやすくない。今現在、モスクワの情報開示は極めて不十分な環境に逆戻りしているからだ。
 だが、どうやら馮の問題だけにとどまりそうもないということは分かってきた。少なくとも張作霖爆殺事件に始まる満州事変から一次、二次上海事件、さらにはゾルゲ事件へ至る過程にスターリンの手が入らなかったものはないという可能性を知った上で、我々は昭和の激動をみてゆかなければならないだろう。
 顧問てるんの手先による諜報作戦、あるいは毛沢東のスパイ活動による策謀が、これから先、昭和の日本を随所で翻弄することになると思わなければならない。
 残念ながら、国際共産主義のそうした諜報活動=インテリジェンスに対するわが方の防衛意識ははなはだ心もとないものだった。また、たとえ現地の日本側から正確な情報が上がってきても、参謀本部がそれを選択しなかった事例もあったろう。
 こうした諜報活動の新事実は戦後60年近く経って、今ようやく明るみに出ようとしているのであって、昭和初期にそれを知る者は誰もいない。

【『われ巣鴨に出頭せず 近衛文麿と天皇』工藤美代子〈くどう・みよこ〉(日本経済新聞社、2006年/中公文庫、2009年)】

 読ませる。とにかくグイグイ読ませる筆力に圧倒される。否、筆力というよりは「物を語る力」というべきか。『快楽(けらく) 更年期からの性を生きる』(2006年)とは桁違いである。

 上記テキストは最も驚かされた内容の一つであるが、少しばかり調べたところ事実と認められるまでに至っていないことを知った。つまり史実ではなく異説に過ぎない。文章の巧みな人物が嘘を書くと素人はとてもじゃないが見抜くことが難しい。それが読み物であったとしても禁じ手であろう。というわけで「必読書」から外した。

 この説は「旧ソ連共産党や特務機関に保管されたこれまで未公開の秘密文書から判明した事実」として紹介されているが、『正論』2006年4月号のインタビュー記事のプロホロフの説明によると「従来未公開のソ連共産党や特務機関の秘密文書を根拠とする」ものではなく「ソ連時代に出版された軍指導部の追想録やインタビュー記事、ソ連崩壊後に公開された公文書などを総合し分析した結果から、張作霖の爆殺はソ連特務機関が行ったのはほぼ間違いない」としている。

張作霖爆殺事件ソ連特務機関犯行説 - Wikipedia

 張作霖爆殺事件は、ロシアの歴史作家ドミトリー・プロホロフにより、スターリンの命令にもとづいてナウム・エイティンゴンが計画し、日本軍の仕業に見せかけたものだとする説が主張されたことがあった。2005年に邦訳が出版されたユン・チアン『マオ 誰も知らなかった毛沢東』でも簡単に紹介され、一部の論者から注目された。プロホルフは産経新聞においても同様のことを語っている。ただし、歴史学界で、通説を再検討するに値する説として取り上げられたことはない。

張作霖爆殺事件 - Wikipedia

 その後、河本大作〈こうもと・だいさく〉の処分が曖昧なことを天皇陛下が問題視し田中義一内閣が総辞職した(張作霖爆殺事件/満州某重大事件)。

 河本の後任として関東軍に赴任したのが板垣征四郎〈いたがき・せいしろう〉と石原莞爾〈いしわら・かんじ〉である。二人が柳条湖事件(1931年)を起こしたことを鑑みても関東軍の謀略体質が窺える。

 大東亜戦争については後知恵の大東亜共栄圏構想をもって義戦と位置づける歴史の見直しが保守層から起こっているが、果たして陸軍の動きが大御心(おおみごころ)にかなっていたかどうか甚だ疑問である。石原莞爾について昭和天皇は「わからない」と心情を吐露されている。

 工藤美代子は後に新しい歴史教科書をつくる会の副会長を務めた。かような立場にある人物が異説を歴史として語る行為は決して許されるものではない。

2020-03-16

アメリカ陸軍史上最強の軍団/『二世兵士 激戦の記録 日系アメリカ人の第二次大戦』柳田由紀子


日系2世に与えた東條英機のメッセージ

 ・アメリカ陸軍史上最強の軍団

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 ジャポネと恐れられた二世兵は、最終的に大統領部隊感状、名誉勲章をはじめとする勲章を1万8000個以上も獲得し、米陸軍史上最強の軍団と賞された。けれども、史上最強軍団はまた史上最大の戦死傷者部隊でもあった。アメリカでは、戦死したり重傷を負った兵士に、ハート型のメダルに紫のリボンの「パープルハート勲章」を贈るが、日系部隊の別名は「パープルハート隊」である。

 陸軍史上最強――日系部隊はなぜ、そんなに強かったのだろう?
「帰するところ、名誉の問題ということです」
 ダニエル・イノウエは、きっぱりと結論づける。
「出征時、欧州に向かう航海はおよそ30日間かかりました。最初はウクレレやギャンブルで騒がしかった私たちも、最後にはしーんとなって水平線を見つめていました。私は周囲の二世に尋ねたんです、なぜ志願したのかと。すると誰もが例外なく、『家名を汚すな』と答えました」
「家名を汚すな」は、船上の二世兵だけでなく、私が出逢った二世ほぼ全員が言及した言葉だ。一世が、武士や明治の精神を二世に教訓したことは前にも触れた。その薫陶とは、煎じ詰めれば『八犬伝』の「仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌」であり、『葉隠』(はがくれ)の「武士道といふは死ぬ事と見付けたり」だった。だから、「『国のために死ぬのは名誉』と母に送り出された」(ススム・イトウ)者もいれば、「『お前の顔はもう見たくない。命をかけて戦え』と父親に言われた仲間も多かった」(ロナルド・オオバ)。
 オオバは言う。
「二世戦死兵の中には、手榴弾で自決したと思われる者もいました。捕虜になって恥をかくくらいなら、ってことです。我々は、それほど日本的な考え方をしたし、だからこそ、あれだけの戦功を立てられたのだと思います」 「生みの親より育ての親」、これもしばしば二世が口にする言葉だ。武士は二君に仕えず。これまで育ててくれたアメリカには義理がある。その恩を返すという意味である。
 こういった日本的信念に支えられた二世を、さらに強い兵士にしたのが差別という負の現実だった。
「私たちは、出世や成功の夢がない貧乏所帯のせがれです。でも、なんとか逆境を抜けたいと、歯を食いしばって生きてきた。並みの努力では這い上がれないことを、二世は知っていました」(ダニエル・イノウエ)
 したがって戦争は、否定的な社会価値を打ち消し、真のアメリカ人であることを示すチャンスでもあった。そして、二世はそれを存分に証明した。
 
【『二世兵士 激戦の記録 日系アメリカ人の第二次大戦』柳田由紀子〈やなぎだ・ゆきこ〉(新潮新書、2012年)】

 日本では「郷(ごう)に入れば郷に従え」という。一神教のような思想の厳しさを持たない民族性を思えば、郷(ごう)の違いは小異であったことだろう。そこに奴隷のような不自由さはなかった。異なる地域・家・人が有する伝統への敬意は我々にとっても自然な感情である。アメリカに渡った日本人は人種差別と戦いながらも、真のアメリカ人になろうと努めた。彼らはアメリカを守るために若き命を花と散らした。

 日系一世の多くは明治生まれである。二世は明治の気質を受け継いだ。その意味では(昭和の)日本人以上に日本人であった。異国の地で武士道が脈々と流れていた。

 日系二世部隊は激戦地を転戦し次々と突破口を開いた。凄まじい戦果はグルカ兵を超えたといっても過言ではない。

 ダニエル・イノウエが死去した際、オバマ大統領は「真の英雄を失った」との声明を発表した。



2020-03-15

「シナ」と「中国」の区別/『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹、渡部昇一


・『危機の構造 日本社会崩壊のモデル』小室直樹
『新戦争論 “平和主義者”が戦争を起こす』小室直樹
『悪の戦争学 国際政治のもう一つの読み方』倉前盛通
『日本教の社会学』小室直樹、山本七平
『税高くして民滅び、国亡ぶ』渡部昇一

 ・「シナ」と「中国」の区別

『日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する』小室直樹
・『世紀末・戦争の構造 国際法知らずの日本人へ』小室直樹
・『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
・『新世紀への英知 われわれは、何を考え何をなすべきか』渡部昇一、谷沢永一、小室直樹

〔付記〕

 対談の中で、「シナ」と「中国」は区別して用いた。中国は中華人民共和国や中華民国の略称としてのみ正当と言うべきであり、地理的、文化的概念としては用いることはできない。地理的概念、あるいは古代以来の文化的概念を指す場合は、「シナ」(英語のチャイナ)を用いることが正当であると、私は考える。中国という言葉の背景には、外国を夷狄戎蛮(いてきじゅうばん)と見なし、自らを高いものとする外国蔑視がある。
 また、コリアという擁護は、現在の北朝鮮、大韓民国の双方を含んで呼ぶ場合や、朝鮮半島を地理的概念として呼ぶ場合に用いている。
渡部昇一


【『封印の昭和史 [戦後五〇年]自虐の終焉』小室直樹〈こむろ・なおき〉、渡部昇一〈わたなべ・しょういち〉(徳間書店、1995年)】

 かつて石原慎太郎が「三国人」(2000年)とか「シナ」(2012年)とか言って問題にされたことがある。この発言をヘイトスピーチの嚆矢(こうし)とする人もいる。私自身、報道を真に受けて問題だと考えていた。本書を読むまでは。冒頭の付記で日本を取り巻く言論情況が一瞬にして理解できた。ちょっと考えてみれば誰でも気づくことだが「東シナ海」や「支那そば」に差別意識は全くない。「支那(しな)とは、中国またはその一部の地域に対して用いられる地理的呼称、あるいは王朝・政権の名を超えた通史的な呼称の一つである。日本では、江戸時代中期から第二次世界大戦末期まで広く用いられていた」(Wikipedia)。

 中華思想によれば朝廷に帰順しない民族は東夷(とうい)・北狄(ほくてき)・西戎(せいじゅう)・南蛮(なんばん)と呼ばれ、禽獣(きんじゅう)と同じ扱いを受ける(四夷)。つまり我々が中国と呼ぶことは日本人を東夷と貶(おとし)めていることに通じる。

都市革命から枢軸文明が生まれた/『一神教の闇 アニミズムの復権』安田喜憲

 現在左翼が糾弾するヘイトスピーチは在特会(在日特権を許さない市民の会)が始めたものだ。彼らはコリアンタウンで「良い韓国人も悪い韓国人もどちらも殺せ」「朝鮮人首吊レ毒飲メ飛ビ降リロ」などと書いたプラカードを掲げ、「殺せ、殺せ!」と街宣活動を行った。



「不逞鮮人を死ぬまで追い込め」「朝鮮人をガス室に送り込め」「朝鮮人なんて人間じゃないぞ」…今日の新大久保・嫌韓デモで飛び交った醜悪なシュプレヒコールをあえて記す。許さないためにも。

「ばーかばーか」「あっかんべー」とはデモのコーラーが用いていた表現です。この他、「ウジ虫」「ゴキブリ」「殺せ殺せ」「死ね」「不逞朝鮮 人を死ぬまで追い込むぞ」「ガス室に朝鮮人を叩き込め」「ぶさいく」「クサレマンコ」等の聞く(読む)に堪えない表現が多数用いられています。

日刊ベリタ : 記事 : 新大久保でまたもや在特会デモ  2月9日、「良い韓国人も 悪い韓国人も どちらも殺せ」のプラカード掲げ

 百田尚樹は桜井誠の選挙演説を「カッコいいね」と称えた。竹田恒泰は「(在特会の主張は)部分的には正しいことも言っている」とテレビで語った。彼らの性根が垣間見えた瞬間である。

 新しい歴史教科書をつくる会が結成される2年前に週刊文春編『徹底追及 「言葉狩り」と差別』(文藝春秋、1994年)が出た。『週刊金曜日』の創刊が1993年である。失われた20年はリベラルな雰囲気に包まれた時代であった。折しも1986年に施行された男女雇用機会均等法によって看護婦・スチュワーデス・保母さんが禁句となった。そういえば径書房〈こみちしょぼう〉編『『ちびくろサンボ』絶版を考える』(径書房、1990年)を読んだのもこの頃だ。ダッコちゃん人形が製造停止(1988年)となり、カルピスのマークも使用停止(1990年)に追い込まれた(黒人差別をなくす会)。

 平等を極限まで推し進めて古い伝統や文化を破壊するのが左翼の手口である。「言葉狩り」に異を唱えた書籍は他にもあったが、まだまだ左派系作家の影響が大きかった。現在でも『「徘徊」使いません 当事者の声踏まえ、見直しの動き』(朝日新聞デジタル、2018年3月24日)といった記事からも明らかなように一部の声を居丈高に拡大して言葉狩りを行っている。

 戦時中の「シナ人」という言葉に差別感情があったのは確かだろう。だが、「中国」という言葉が中華民国(現在の台湾)と中華人民共和国の違いすら見えなくし、第二次世界大戦後に建国された中華人民共和国があたかも戦勝国の一員であったかのような錯覚を抱かせる現状を思えば、我々はもっと歴史に忠実であるべきだ。青少年に反日教育を施す中国や韓国に遠慮するのは実に馬鹿げた行為だ。