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2019-12-14

目黒真澄の薫り高い名訳/『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン


 ・目黒真澄の名訳

『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 大きな仕事よりも、むしろ人格によって、その時世に非常な貢献(こうけん)をする人が、30年に一度か、60年に一度くらい出現することがある。そうした人物は、死後20~30年の間は、ただ功績をもって知られているのみであろうが、歳月の経(た)つにしたがって、功績そのものが、その人格に結びついて、ますます光りを放つ時がくる。たとえば軍人であるとすれば、その統率(とうそつ)した将士の遺骨が、墳墓(ふんぼ)の裡(うち)に朽(く)ちてしまい、その蹂躙(じゅうりん)した都城(とじょう)が、塵土(じんど)と化してしまった後までも、なおその人格と、人格より発する教訓とが、永遠に生ける力となってゆくからである。乃木大将は実にかくのごとき人であったのだ。
 乃木大将は、日本古武士の典型であり、軍人にして愛国者であった。そして1912年(明治45年)9月、明治天皇の崩御(ほうぎょ)し給(たま)うと同時に、渾身(こんしん)の赤誠(せきせい)を捧(ささ)げ、畢生(ひっせい)の理想を纏綿(てんめん)させていた。その対象を失ってしまったため、この上はいたずらに生きながらえるより、むしろ白刃(はくじん)を取って、自(みずか)ら胸を貫(つらぬ)くにしかずと思い定めたのである。

【『乃木大将と日本人』スタンレー・ウォシュバン:目黒真澄〈めぐろ・ますみ〉訳(講談社学術文庫、1980年/『乃木』目黒眞澄譯、創元社、1941年改題改訂/初訳は1924年、文興院/原書は1913年米国】

 大正12年(1923年)、幣原喜重郎〈しではら・きじゅうろう〉が原書を目黒に手渡した。幣原が外務大臣となる直前のことだから駐米大使時代か。翻訳当時、目黒真澄は東京高等商船学校(後の商船大学。現・東京海洋大学海洋工学部)の教授。100ページ足らずの小品でありながら乃木希典〈のぎ・まれすけ〉を見事に素描(そびょう)している。それを目黒が薫り高い名文で奏でる。

 子供があれば本書や『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』を素読させ、書写させるとよい。意味などわからずとも構わない。『万葉集』の時代から続く日本語の伝統の響きを感じ取れればそれでよい。日本人は一方では言の葉と軽んじ他方では言霊(ことだま)と重んじた。この両義性に言語の本質がある。言葉はサイン(象徴)であり事そのものを表しはしない。それでも人々は言葉を手掛かりにコミュニケーションを図る。ヒトの群れが国家にまで進化したのも言葉の成せる業(わざ)である。「始めに言葉ありき」(ヨハネによる福音書)というデマカセが西洋でまかり通るのも故(ゆえ)なきことではない。

 若い頃に司馬遼太郎の『殉死』を読んだがそれほど心を動かされることはなかった。ただ乃木が十文字に切腹したことだけが記憶に残っている。その後私が司馬遼太郎の小説を読むことはなかった。ウォシュバンはロンドン・タイムズの記者である。彼は従軍し乃木と親しく接することで「父」とまで仰ぐようになった。作家の想像力は特定の判断や評価に基づいている。いわば最初から色のついた人物像を見せつけられるわけだ。私が本書に注目するのは、世界で有色人種が劣った存在と見なされていた時代にあって白人記者を魅了してやまなかった武人が存在した事実である。


 乃木希典〈のぎ・まれすけ〉は水師営の会見で敗軍の将ステッセルに示した配慮で世界的な英雄となった。

 乃木はこの時ステッセルに対し、深い仁慈と礼節を以て接した。会見においてアメリカの映画関係者が一部始終の撮影を希望したが、乃木はそれは敗軍の将に恥辱を与えるとして許さず、ただ一枚の記念写真だけ認めた。乃木とステッセルが中央に坐り、その両隣りに両軍の参謀長、その前後が両軍の幕僚たち、ロシア側は勲章を胸につけ帯剣している。全く両者対等でそこには勝者も敗者もない。

 この有名な写真が内外に伝わるや、全世界が敗者を恥ずかしめぬ乃木の武士道的振舞、「武士の情」に感嘆したのである。世界一強い陸の勇将はかくも仁愛の心厚き礼節を知る稀有の名将と、賛嘆せずにいられなかったのである。欧米やシナの軍人には決して出来ぬことであった。

「敗軍ロシアの将にも救いの手 乃木希典が示した日本人の誉れ」岡田幹彦

 本書は乃木の死後に書かれた。明治大帝が 1912年〈明治45年/大正元年〉に7月30日崩御(ほうぎょ)。大喪の礼が行われた9月13日の午後8時頃、乃木は十文字に腹を切り、静子夫人の自害を見届けてから自身の喉を突いた。

 明治天皇の崩御と乃木の殉死は、国民に激しい衝撃を与え、それは小説など文化活動にも反映されて今に伝えられている。

 中でも夏目漱石が代表作『こゝろ』につづった一節は、明治世代の日本人の心情を、表象しているといえよう。(中略)

 このほか新渡戸稲造は乃木の殉死を「武士道といふものから見ては実に一分の余地も残さぬ実に立派なもの」と評し、森鴎外は「阿部一族」「興津弥五右衛門(おきつやごえもん)の遺書」など殉死をモチーフにした秀作を残した。

 だが一方、漱石が「時勢の推移から来る人間の相違」と書いたように、乃木の殉死を時代錯誤とみなし、むしろ茶化すような風潮が、とくに若い世代の一部に生まれていたのも事実だ。

 学習院出身で白樺派の代表格だった志賀直哉は日記で、乃木の殉死を「『馬鹿な奴だ』といふ気が、丁度下女かなにかゞ無考へに何かした時感ずる心持と同じやうな感じ方で感じられた」と突き放した。

 芥川龍之介も小説「将軍」の中で乃木を茶化し、登場人物に「(乃木の)至誠が僕等には、どうもはつきりのみこめないのです。僕等より後の人間には、尚更通じるとは思はれません」と語らせている。

昭和天皇の87年 乃木希典の殉死 明治の精神は「天皇に始まつて天皇に終つた」/社会部編集委員 川瀬弘至:産経ニュース 2018年9月2日

 倉前盛通の志賀直哉に対する評価は決して的外れなものではなかったことがわかる。他人の死を嘲笑うことのできる人物は精神のどこかが病んでいる。三島由紀夫の自決を愚弄した人々も同様だ(『昭和45年11月25日 三島由紀夫自決、日本が受けた衝撃』中川右介)。乃木の至誠がはっきりと飲み込めなかった芥川は「ぼんやりとした不安」に飲み込まれて服毒自殺をした。

 乃木希典と東郷平八郎を超える英雄を日本はいまだに輩出し得ないことを我々は深く思うべきである。最後に乃木の肉声を紹介しよう(経緯)。


2019-08-19

常識を疑え/『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治


『石原吉郎詩文集』石原吉郎
『望郷と海』石原吉郎
『シベリア抑留とは何だったのか 詩人・石原吉郎のみちのり』畑谷史代

 ・石原吉郎と寿福寺
  ・寿福寺再訪
 ・常識を疑え
 ・「戦利品」の一つとして、日本人捕虜のシベリヤ強制労働の道は開かれていた

『シベリア抑留 日本人はどんな目に遭ったのか』長勢了治
『シベリア鎮魂歌 香月泰男の世界』立花隆

 しょくん、しょくんは、テンノウとかコウシツとかゆうものをもち出されると、畏れ多いと頭を下げる。
 しかし、考えろ、いったい、テンノウがなぜ尊いのか? と。
 そんなことを考えちゃいけない、と言うやつがいる、また考えたってわかるもんじゃないなどとも。けれども、ほんとに尊く畏れ多いものなら、それを考えれば考えるほど、尊さありがたさがしみじみ魂にしみこむものでなければならないはずだ。
 しょくん、ごまかされちゃいけない。よく考えろ。それを考えるな、などとゆうのは、何か後ぐらいところがあるんだ。手品の種が、ばれそうなんだ。(※菅季治が京大で学びながら、京都府立五中の嘱託教師をしていた頃、試験問題の裏に鉛筆で書いた文章。1943.11.20)

【『内なるシベリア抑留体験 石原吉郎・鹿野武一・菅季治の戦後史』多田茂治〈ただ・しげはる〉(社会思想社、1994年/文元社、2004年)※社会思想社版は「シベリヤ」となっている】

 圧力や熱は物質を変化させる。シベリア抑留は人々の地金(じがね)を炙(あぶ)り出し、純化した。

 菅季治〈かん・すえはる〉が上記文章を書いたのは1943年(昭和18年)のことである。日本が開戦以来初めて大敗を喫したミッドウェー海戦の翌年にあたる。戦局が日増しに厳しくなる中で26歳の青年が放った疑問は軍部の焦りを見事に照射している。仮に管が共産主義にかぶれていたとしても決して安易な天皇批判になってはいない。彼が批判したのは「盲信」であった。

 石原吉郎・鹿野武一・菅季治は三者三様の戦後を歩んだ。否、瀬島龍三〈せじま・りゅうぞう〉も香月泰男〈かづき・やすお〉も内村剛介〈うちむら・ごうすけ〉もそれぞれの道を歩んだ。シベリア抑留は人間を変えた。二度と元に戻ることはなかった。

 菅季治はシベリアで何を見たのだろうか? それが何であったにせよ、彼はもっと悲痛なものを帰国した日本で見たに違いない。プリーモ・レーヴィと同じだ。真の地獄はありふれた平和な日常の中にこそあるのだ。人間は人間の邪悪に絶望する。信じられるものがなくなった時、人間は人間であることをやめる。

2019-05-05

型破りな天才/『評伝 小室直樹』村上篤直


 卒業が近づくにつれて、進路指導が始まる。
 二人きりの職員室で、小林(貞治)と向かい合って、小室はいった。
「大学へ行かねいし」
「大学へ行かないでどうするんだ」
磐梯山(ばんだいさん)の麓に庵(いおり)を結んで、三顧の礼をもって首相に迎えられるまで動かないつもりだし」
(中略)
 小林は、ちょっと聞いてみたくなった。
「一応、聞くが、もしお前に頼みに来たとして、首相になって何をするのだ」
「新憲法を数年間停止して独裁政治をやるし。この憲法では日本中がテンヤワンヤになってしまうし。そして会津に大学を創って小林先生を学長に任命するつもりだし」

【『評伝 小室直樹』村上篤直〈むらかみ・あつなお〉(ミネルヴァ書房、2018年)以下同】

 小室直樹は小学校低学年にして辞書・漢籍の類いまで読み漁り、学校でも神童振りを発揮していた。幼い頃に父が逝去。女手ひとつで育てられるがその母親も中学生の時に亡くなる。親友の渡部恒三〈わたなべ・こうぞう〉を始めとする支援者が現れ、小室は学業を成し遂げることができた。

 高校時代にあっては数学・物理で教師を凌(しの)ぐほどの知識を有していた。実際に教えることもあったという。そんな小室が唯一人信頼するのが小林先生だった。若き天才の野望は常人とスケールが違った。そして小室の魂には会津人の恨みと敗戦の屈辱が刻み込まれていた。

 進学した京都大学で弁論部が結成される。小室も勇んで馳せ参じた。

 所定の時間となると、内田の司会のもと、各自、自己紹介をした。
 小室の番となった。
「小室直樹です。理学部1回生。物理学科志望です。高校は会津高校です。日本は戦争には勝っていたが、原子爆弾で敗けました。だから、湯川さんの研究室に入って原子力を研究し、もっとすごい原爆をつくって“アメリカ征伐”に行く。そのために京都大学に来ました」
 これには皆、驚いた。その上、小室は続けてマルクス批判もした。
 小室の自己紹介を聞きながら真砂泰輔(まさごたいすけ)は「ごっついのがおるなぁ」と感心した。
 他の参加者も同じ思いだった。

 小室は終生、型破りの人であった。天才は枠に収まらない。世間の常識を軽々と超えるところに天才の個性が輝く。奇抜な人物ではあったが学問の基本にはどこまでも忠実で国際的に通用する方法論を示し続けた。

 もしも小室があと20年遅れて生まれたならば、アメリカか中国が三顧の礼をもって迎えたに違いない。

 良書であるがフォントの大きさと改行の多さを思えば4800円はチト高い。

評伝 小室直樹(上):学問と酒と猫を愛した過激な天才
村上篤直
ミネルヴァ書房 (2018-09-18)
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評伝 小室直樹(下):現実はやがて私に追いつくであろう
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2018-12-21

「外交官とその時代」シリーズ/『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦


『日米・開戦の悲劇 誰が第二次大戦を招いたのか』ハミルトン・フィッシュ
『繁栄と衰退と オランダ史に日本が見える』岡崎久彦

 ・「外交官とその時代」シリーズ

『陸奥宗光』岡崎久彦
『日本の敗因 歴史は勝つために学ぶ』小室直樹
『小村寿太郎とその時代』岡崎久彦
『幣原喜重郎とその時代』岡崎久彦
『重光・東郷とその時代』岡崎久彦
『吉田茂とその時代 敗戦とは』岡崎久彦
『村田良平回想録』村田良平『歴史の教訓 「失敗の本質」と国家戦略』兼原信克

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 そのころ、大和(やまと)の五条という天領にいた本屋の主人が、たまたま和歌山に来ていて、宗光が復讐(ふくしゅう)、復讐と叫ぶのを聞いて、これは面白い子だと思って、ぼっちゃん(紀州では、ぼんぼんという)、紀州家に仇討ちをされるなら、天領の代官になりなさい、と言ってくれた。
 宗光は雀躍(じゃくやく)して喜び、大和五条にある老人の家の食客(しょっかく)となって『地方凡例録』(じかたはんれいろく)とか、『落穂集』(おちぼしゅう)とかを勉強した。これらは、幕府の民政の書で、代官の教科書であった。後年、陸奥が、日本の近代化を一挙に促進した地租改正の議(ぎ)などを提案したのは、このときの素養があったからという。
 こんなものは、大人が読んでも面白いもののはずがない。それを、数え年10歳の少年が読んで、あとに残るほど理解し、吸収し得たとすれば、それは仇討ちの気魄(きはく)があって初めてできることと思う。昔話に、仇討ちの執念でたちまちに剣道が上達する話がよくあるが、やる気というものは、恐ろしいものである。(※ルビの大半を割愛した)

【『陸奥宗光とその時代』岡崎久彦(PHP研究所、1999年/PHP文庫、2003年)】

 岡崎は先に『陸奥宗光(上)』『陸奥宗光(下)』(PHP研究所、1987年/PHP文庫、1990年)を著しており、これを短く書き直したのが本書である。刊行年だけ辿ると『小村寿太郎とその時代』(1998年)を先に読みかねないので注意が必要だ。

「外交官とその時代」シリーズは英訳を視野に入れたもので日本の近代史を客観的に捉える工夫がなされており、ルビも聖教新聞並みに豊富で配慮が行き届いている。岡崎は親米保守の旗幟(きし)を鮮明にしているが、安易なコミュニズム批判は見受けられず、時代に寄り添い、時代の中に身を置いて世界の動きを体感しようと試みる。日本近代史の中で立憲制~政党政治がどのように育まれてきたかを俯瞰できるシリーズとなっている。

 陸奥宗光〈むつ・むねみつ〉は紀州藩(和歌山県)士で海援隊では坂本龍馬の右腕となり、任官してからは版籍奉還、廃藩置県、徴兵令、地租改正を始め、農林水産業に至るまでのグランドデザインを描いた人物である。岡崎久彦は伊藤博文と陸奥宗光を日本近代化における政党政治の立役者として描く。陸奥の志は死後に立憲政友会を生ましめる。

 私はかねがね、西郷(さいごう)など徳川時代の教養を深く身につけた人が西欧の合理主義になじまなかった罪は陽明学にあると思っている。陽明学は儒学の行きついた極致であり、すべて自己完結している。個人の人格さえ完成すれば、それが社会全体の幸福にまでつながると信ずれば、日々の生活になんの迷いも生じない。物質的な貧乏(後進性)も、毀誉褒貶(きよほうへん/世論〈よろん〉)も気にすることはない。何もかも失敗しても、天の道をふんでいるのだから、志は天に通じていると思っている。そんな思想に凝り固まっている「立派な人」に近代思想を説いても、結局は歯車が噛み合わないであろう。
 明治維新の過程をみると、行動を重んじる陽明学はたしかに革命の原動力にはなった。江戸時代唯一の革命の試みといえる1837年の乱を起した大塩平八郎も陽明学者だった。吉田松陰が長州の革命家を育てた役割も大きい。しかし、維新後の近代化の過程では西南戦争の西郷隆盛と言い、後に議会政治を弾圧した品川弥二郎(しながわやじろう)と言い、陽明学の士は、近代化の足を引っ張っている。しょせん革命には有用であっても、近代化にはなじまない思想なのであろう。

 儒家における大乗化みたいな代物か。人を動かすのは感情だが、人を糾合するためには理窟が必要となる。思想という物差しがなければ軍は成り立たず、一揆やゲリラ戦で終わってしまう。たぶん様式化した武士道と陽明学の親和性が高かったのだろう。

 陸奥の配下に岡崎邦輔〈おかざき・くにすけ〉がいたが、実は著者の祖父に当たる。本書には書かれていないが上下本では詳細が綴られている。

 人と時代を見事に描き切った傑作である。

2018-12-11

ソ連の予審判事を怒鳴りつけた石原莞爾/『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 ・天才戦略家の戦後
 ・ソ連の予審判事を怒鳴りつけた石原莞爾

『昭和陸軍謀略秘史』岩畔豪雄

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その四

 5月27日は、ソ連の予審判事が3人やってきた。陰湿な男で、いきなり満州事変について質問した。
 石原は昭和8年ジュネーブでの国際連盟臨時総会に出席する途中、招かれてソ連のエゴロフ総参謀長と会ったことを話した。するとソ連の検事は顔色を変え、一瞬言葉に詰った。相手が余りにも大物だったからである。
 ソ連の検事は「国体」について尋問した。石原は「天皇中心とした国家でなければ日本は治まらない」と理由を説明した。ところが共産党国家の検事はせせら笑って、スターリンのソ連国体を持ち出した。その時、石原はムッとして、
「自分の信仰を知らずして、他の信仰を嘲笑うような下司なバカ野郎とは話したくない。帰れ!」と激怒した。通訳官が慌てて、「この人は、ソ連では優秀な参謀です。話をすれば分かると思います。ぜひ進めてください」と頼んだ。
 すると石原は、「バカなことを言うな。こんなのはソ連では参謀で優秀かも知れんが、日本には箒で掃き出すほどいる。こんなバカとは口をききたくない、帰れ」と突っぱねた。
「分かるように話してやる。君らはスターリンといえば絶対ではないか。スターリンの言葉にはいっさい反発も疑問も許されないだろう。絶対なものは信仰だ。どうだ判ったか。自分自身が信仰を持っていながら、他人の信仰を笑うようなバカには用はない。もう帰れ」
 それきり、石原は口を固く閉じた。

【『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之(双葉新書、2013/双葉文庫、2016年)】

 天才とは規格外の才能を意味する。凡人が理解できるのは秀才までで天才が放つ光は時に「狂」と映る。やや礼賛に傾きすぎていて人物の描き方は浅いと言わざるを得ないが、それでもかつての日本にこうした人物がいたことを知る必要があろう。

 石原莞爾〈いしわら・かんじ〉は満州事変の首謀者で、1万数千名の関東軍を率いて23万人を擁する張学良〈ちょう・がくりょう〉軍を打ち破った。その名は軍事的天才として世界に知れ渡った。二・二六事件では単身で鎮圧に乗り出し、凄まじい剣幕で反乱軍兵士を怒鳴りつけ、青年将校にピストルを突きつけられても微動だにすることがなかった。

 二・二六事件のとき、石原は東京警備司令部の一員でいた。そこに荒木貞夫がやって来たとき、石原は「ばか! お前みたいなばかな大将がいるからこんなことになるんだ」と怒鳴りつけた。荒木は「なにを無礼な! 上官に向かってばかとは軍規上許せん!」とえらい剣幕になり、石原は「反乱が起こっていて、どこに軍規があるんだ」とさらに言い返した。そこに居合わせた安井藤治東京警備参謀長がまぁまぁと間に入り、その場をなんとかおさめたという。

Wikipedia

 後に昭和天皇は「一体石原といふ人間はどんな人間なのか、よく分からない、満洲事件の張本人であり乍らこの時の態度は正当なものであった」と述懐している(『昭和天皇独白録 寺崎英成御用掛日記』文藝春秋、1991年)。

 石原は満州国を建国した後は一貫して平和主義者の態度を変えていない。しかしながらさすがの彼も関東軍の暴走を抑えることはできなかった。ここが凡人にはわかりにくいところである。暴走した石原の腹心は石原の行動に倣(なら)っているつもりであったのだ。

 大東亜戦争の戦線拡大に反対し続けた石原は遂に犬猿の中であった東條英機〈とうじょう・ひでき〉の暗殺にゴーサインを出す。その時刺客を務めることになったのが木村政彦であった(『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也)。また東京裁判の酒田出張法廷に出廷する際、病に伏していた石原をリヤカーに乗せて運んだのは大山倍達〈おおやま・ますたつ〉であったと伝えられる。

 極端から極端へと走る姿がいかにも日蓮主義者らしい。同時期の国柱会信者には宮沢賢治がいた。

2018-11-01

記憶喪失と悟り/『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介


『暗殺者』ロバート・ラドラム

 ・記憶喪失と悟り

必読書リスト その二

 こ れ か ら な に が は じ ま る の だ ろ う

 目のまえにある物は、はじめて見る物ばかり。なにかが、ぼくをひっぱった。ひっぱられて、しばらくあるく。すると、おされてやわらかい物にすわらされる。ばたん、ばたんと音がする。
 いろいろな物が見えるけれど、それがなんなのか、わからない。だからそのまま、やわらかい物の上にすわっていると、とつぜん動きだした。外に見える物は、どんどんすがたや形をかえていく。
 上を見ると、細い線が3本ついてくる。すごい速さで進んでいるのに、ずっと同じようについてくる。線がなにかに当たって、はじけとぶように消えた。すると2本になった。しばらくすると、こんどは4本になった。
 この線はなんなのだろう。なん本ついてくるのだろう。ふえたり、へったりして、がんばってついてくる線の動きがおもしろい。
 急に、いままで動いていた風景が止まった。すると、上で動いていた線も止まる。さいしょと同じ3本になっている。みんないっしょにきてくれたんだ。
 外に出されると、ぼくが見ていた細い線は、ずっとおくまでのびていた。上を見ていると、なにかがぼくの手をひっぱる。足がかってについていく。つぎに止まったばしょには、しずかで大きな物があった。
 それは見上げるほど大きい。どうしたらいいのか、まよっていると「ここがゆうすけのおうちやで」と言われた。おうちも、ゆうすけも、なんなのことかわからなくて、ただ立つだけだ。なにかにひっぱられて、そのまま入っていく。

【『記憶喪失になったぼくが見た世界』坪倉優介(幻冬舎、2001年『ぼくらはみんな生きている 18歳ですべての記憶を失くした青年の手記』改題/幻冬舎文庫、2003年/朝日文庫、2011年)】

 坪倉優介はスクーターで帰宅途中、トラックと衝突する事故に遭い意識不明の重体となる。10日後に意識は回復したものの記憶を完全に喪失していた。

 冒頭のテキストである。私は俵万智〈たわら・まち〉の解説を読むまで気づかなかったのだが「3本の線」とは電線のことだった。「やわらかい物」はクルマのシートだろう。空白マスを挿入した見出しが実にいい。そこはかとない不安と行方の知れぬ先行きを巧みに表している。

 自我とは記憶の異名である。過去をもとにした感情の反応や関係性の物語が「現在の私」を紡ぎ出すのだ。とすると記憶喪失はそれまで蓄積したデータやソフトなどを消去して初期状態に戻したパソコンのようなものと考えることができる。

 更に自我=記憶であれば、記憶喪失は無我を志向し、悟りに近い状態になるのではあるまいか、と私は考えた。が、違った(笑)。

 坪倉の奇蹟は物の意味すらわからなくなった状態に陥りながらも言葉を失わなかったことだ。言い方は悪いが、赤ん坊が無垢な瞳で世界をどのように見つめているかを知ることができる。その意味で若いお父さん、お母さんは必読である。

 電線に対して「がんばってついてくる」「みんないっしょにきてくれたんだ」という純粋な気持ちに涙がこぼれる。大人からすれば景観の邪魔でしかない電線にこれほど豊かな感情を添えている。そんな子供の心を踏みにじり、大人は競争の世界へと彼らを誘導する。

 真っ白な世界が少しずつ色合いを増してゆく。その後坪倉は大阪芸術大学工芸学科染織コースに復学し、努力の末、染物作家として活躍している(卒業生インタビュー | 大阪芸術大学)。

 疑問の一つが解けた。自我を打ち消すことが悟りなのではない。自我から離れることが悟りなのだろう。一瞬一瞬の時を経て経験を積み重ねてゆくわけだが、その経験にとらわれることなく離れることは、時間からも離れることを意味する。ここに至れば過去と未来は死ぬ。現在は過去の集積でもなければ、未来のために犠牲にする時間でもない。現在は「ただ、ある」のだ。

 よく考えてみよう。苦しみは過去から生まれ、不安は未来に向かって抱くものだ。つまり苦悩が現在性を見失わせるところに不幸の根本原因があるのだ。そんなことを気づかせてくれる読書体験であった。



悟ると過去が消える/『わかっちゃった人たち 悟りについて普通の7人が語ったこと』サリー・ボンジャース

2018-10-28

43年間に及んだサバイバル/『洞窟オジさん』加村一馬


『たった一人の30年戦争』小野田寛郎

 ・43年間に及んだサバイバル

・『失われた名前 サルとともに生きた少女の真実の物語』マリーナ・チャップマン
『メンデ 奴隷にされた少女』メンデ・ナーゼル、ダミアン・ルイス

必読書リスト その二

 なだらかな斜面を、持ってきたスコップを杖(つえ)代わりに登った。岩肌のところは四つんばいになってかけ登る。足場が悪く、小石が転がり落ちる。シロが前になり後ろになっておれを守ってくれる。
「シロ、大丈夫か。頑張れっ、頑張れっ! もう少しだ!」
 家を飛び出してからほぼ1週間、ほとんど寝ないで歩いてきた。13歳のおれには体力はもう残っていなかった。ただ、気力で岩肌を登るだけだ。シロに声をかけ続けたのは自分自身への励ましだったのかもしれない……。
(中略)
 加村一馬さん、57歳。昭和21年8月31日、群馬県の大間々町で生まれた。8人きょうだいの4男坊だった。両親のたび重なる折檻に耐え切れず、13歳で家出をし、後を追ってきた飼い犬のシロと足尾鉱山で獣や山菜を採って空腹を満たしながら生きる生活を選んだ。以来43年間、栃木、新潟、福島、群馬、山梨の山中などを転々としてきた。人里離れた山の洞窟で、ときには川っぺりで、ときには町でホームレスをしながら人とかかわることを避けて生き抜いてきた。子供のころの虐待やいじめ体験がトラウマとなっていた。後年、人の情けに触れることはあっても、結局は43年間人間社会から逃げ出すことしかできなかった。

【『洞窟オジさん』加村一馬〈かむら・かずま〉(小学館、2004年『洞窟オジさん 荒野の43年 平成最強のホームレス驚愕の全サバイバルを語る』改題/小学館文庫、2015年)】

 昔は折檻(せっかん)と言って親の虐待が罷(まか)り通っていた。雪が積もる外へ裸で投げ出されたり、物置に閉じ込められたりということが珍しくなかった。物置の中から外を覗いていた子供が慌てて扉を占めたために首を挟んで死亡した事故もあった。江戸時代の日本では子供が大切にされた。野放し状態の子供を避けるため往来では馬から人が降りたという。戦争や工業化の影響か。巨大な集団は多くの人々に様々なストレスを与える。

 加村はそれでも尚生きた。そして生き延びた。彼の命を救ってくれたシロは間もなく死んだ。43年間に及んだサバイバルを可能にしたのは彼に生きる知恵があったからだ。私なら10日間ほどで死んでいるだろう。火を熾(おこ)すこともできなければ、山菜の見分け方も動物の捌(さば)き方も知らないのだから。

 ある時、山の中で見知らぬ夫婦から声を掛けられる。おばさんが「黒い三角の物体」をくれた。生まれて初めて見たオニギリだった。親切なおじさんとおばさんは加村を家に招き、風呂に入れ、ご飯を食べさせた。人の情に触れ加村は涙を流し続けた。おじさんは「ずっといていいんだよ」と言った。ところが数日後、加村は去ることにした。この辺りの心の揺れはナット・ターナーや鹿野武一〈かの・ぶいち〉と通じている(ナット・ターナーと鹿野武一の共通点)。論理で探れば複雑であるが、情緒で読み解けば腑に落ちる。目の前の幸せを拒絶したところに加村の自由があったのだ。

 サバイバルは適応能力に左右される。加村は周囲のちょっとした情報から生き延びるヒントを得た。文字を書くことすらできなかった彼が商売をするまでになる。

 小学校の課程にサバイバルを設けてはどうか。家庭科・図工・理科・社会の要素も含まれている。何があっても一人で生きることのできる力が備われば、国力も大いに上がることだろう。併せて、いじめや虐待に遭遇した時の作法も教えるべきだろう。生きることを学ぶ。生きる能力を磨く。そこに生きる喜びが生まれるはずだ。

2018-08-15

祖父の教え/『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利


 ・祖父の教え

『春宵十話』岡潔
『風蘭』岡潔
『紫の火花』岡潔
『春風夏雨』岡潔
『人間の建設』小林秀雄、岡潔

 文一郎の教えはただ一つ、
「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」
であった。これは、前述したように私財をなげうって村のために尽くした文一郎の言葉だけに、幼い潔の胸にも非常な説得力を持って響いたことだろう。そして文一郎は、この唯一の戒律を潔がきちんと守っているかどうか、遠くから見守ったのであった。戒律というのは自ら進んで守らなければ意味がない。だから「遠くから見守る」ということが非常に大切だったのである。
 そして潔もその教えを徹底的に守り抜いたようである。潔は一時期、八重の自分に対する無条件でひたむきな愛情を利己的な愛情であると言って非難したことがあったというが、それは、母親がわが子を愛するのも「他人(ひと)を先にする」ことに反していると潔が思ってしまったからであった。つまり、文一郎の教えはそれほど徹底していたのである。

【『天上の歌 岡潔の生涯』帯金充利〈おびがね・みつとし〉(新泉社、2003年)】

 数学の天才が情緒を説くに至ったのは幼少時に受けた影響が大きいためか。岡潔は自らの随筆でも幼い日の思い出を実に生き生きと書いている。

 私が私淑(ししゅく)するクリシュナムルティ(1895年生まれ)や竹山道雄(1903年生まれ)とほぼ同世代である(岡は1901年生まれ)。岡潔の著作は当たり外れがあるのだが2~3冊は必読書に入れる予定である。その強いメッセージ性と仏教性が数学者から放たれる意外性に不思議な感興を覚える。

 この世代は前半生を戦争と共に過ごした人々である。祖父の文一郎はたぶん明治以前の生まれだろう。「他人(ひと)を先にして、自分をあとにせよ」との教えは維新後の混乱から導かれたものではなかったか。まだ情報化社会ではなかったがゆえに、人伝(ひとづて)に流れる情報は生々しく社会を動かしたことと想像する。

「他人に譲る」行為は心の余裕によって為(な)されるものである。自分しか見えていない人間には実践することができない。また譲る行為そのものが「競争を拒む」精神に彩られている。「どうぞ」と譲る一言に心の豊かさが凝結している。

 岡文一郎は「橋本市古佐田の丸山公園には、岡博士の祖父・文一郎氏の碑があります。文一郎氏は〝橋本のまちは高野街道と大和街道が交差する交通・文化の要衝〟として、当時、高野口町妙寺にあった伊都郡役所を橋本に移設した人物」(佐藤さん講演 | 高野山麓 橋本新聞)。また同ページによれば。「大人になった岡博士は、数学界の3大難問が解けたのは“祖父の徹底したこの教育があったから”と述懐している」とも。

天上の歌―岡潔の生涯
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新泉社
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2018-08-06

「児玉誉士夫小論」林房雄/『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫


『篦棒(ベラボー)な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』竹熊健太郎

 ・「児玉誉士夫小論」林房雄

『大東亜戦争肯定論』林房雄
・『われ敗れたり』児玉誉士夫
・『芝草はふまれても 巣鴨戦犯の記録』児玉誉士夫
・『悪政・銃声・乱世 児玉誉士夫自伝』児玉誉士夫
・『われかく戦えり 児玉誉士夫随想・対談』児玉誉士夫
・『随想 生ぐさ太公望』児玉誉士夫
・『児玉誉士夫 巨魁の昭和史』有馬哲夫

 児玉誉士夫を知って早くも30年が過ぎた。互いに仕事の場を異にしているので、会い語る機会は少なかったが、目に見えぬ心の糸はつながっていた。その糸の最も強いものの一つは、この不思議な人物がときどき発表する自伝風の著書である。
 巻数は少なかったが記された文字のすべてが、強く私の胸を打った。私も長く文字の道にたずさわっている者の一人だから、文章の真贋だけはわかるつもりだ。この人は嘘の言えない人、嘘を行えない人である。爆発する激情のみに身をまかせて生きてきた行動家であるかのような印象を、世間の一部の人々は持っているかもしれぬが、そんな単純な人物ではない。深い内省と謙虚を内に蔵している。生れながらの叛骨と権力者嫌いは生涯消えることはないであろうが、あふれる温情を胸底に秘めて、人情の正道を歩き通した。肩をいからした国士面と強面(こわもて)の愛国者顔のきらいな、永遠の憂国者。常に迅速、果断な行動によって裏づけられる適確無比の洞察力と決断力は、これまた天与のものであろう。ある公開の席上で、私は彼を「天才」と呼んだことがあるが、決してお世辞ではなかった。(「児玉誉士夫小論」林房雄、以下同)

【『獄中獄外 児玉誉士夫日記』児玉誉士夫〈こだま・よしお〉(アジア青年社出版局、1943年/広済堂出版、1974年)】

 ま、酒呑みの言葉をそのまま信用するほど私は初(うぶ)ではない。三島由紀夫も最後は林房雄に対して厳しい評価をせざるを得なかった。児玉誉士夫もまた毀誉褒貶(きよほうへん)の激しい人物である。この二人には似た面影(おもかげ)がある。良い意味でも悪い意味でも日本人的なのだ。志は清らかなのだが清濁併せ呑むことで自身を汚(けが)していったようなところがある。振り返れば大東亜戦争における旧日本軍もまた同様であった。

 意外と知られていないことだが児玉誉士夫は創価学会と間接的な縁がある。大日本皇道立教会(1911年設立)には牧口常三郎(創価学会初代会長)や戸田城聖(同二代会長)に遅れて参加しているし、岸信介と親(ちか)しいところも共通している。すなわち戦後の保守における本流にいたことは間違いないと思われる。

 私が児玉に注目したのは神風(しんぷう)特別攻撃隊の生みの親である大西瀧治郎中将(ちゅうじょう)の末期(まつご)に立ち会ったことを知った時である。

 終戦を迎えた翌日、1945年8月16日に児玉と懇意にしていた大西が遺書を残し割腹自決した。児玉誉士夫も急行し、駆けつけた児玉に「貴様がくれた刀が切れぬばかりにまた会えた。全てはその遺書に書いてある。厚木の小園に軽挙妄動は慎めと大西が言っていたと伝えてくれ。」と話した。児玉も自決しようとすると大西は「馬鹿もん、貴様が死んで糞の役に立つか。若いもんは生きるんだよ。生きて新しい日本を作れ」といさめた。

Wikipedia

継母への溢れる感謝/『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編

「児玉は死期が近づいた時、『自分はCIAの対日工作員であった』と告白している」(Wikipedia)。正力松太郎(元読売新聞社主)もポダムというコードネームを持つ工作員だった(『日本テレビとCIA 発掘された「正力ファイル」』有馬哲夫)。保守というよりは反ソ感情を利用されたのだろう。敵の敵と組むことには一定の利がある。やがては大きすぎる利に目が眩(くら)んだのかもしれない。

 敗戦後、独立独歩の道を塞(ふさ)がれた日本はGHQの占領期間において完全なコントロール下に置かれたと見てよい。それは今もなお解けない呪縛だ。

 児玉誉士夫は酒を飲まない。飲めないのではなく、飲まない。
 まだつきあいの浅かったころは、これは体質的なもので、即ち“下戸”なのだろうと思っていた。私の方は親譲りの“上戸”で、豪酒というよりも暴酒というべき、浴びるような飲み方をして、乱に及ぶこともしばしばであった。見兼ねたのであろう、彼は時折り私に言った。
「あんたは酒をつつしみなさい。わたしは、このとおり飲まぬ」
 その言葉の意味がわかったのは、だいぶ後になって、彼自身の口から次のような告白を聞いた時であった。
 若いころには、人並みに飲み、飲めばいい御機嫌にもなり、つきあいとなれば酒場の梯子も辞さなかった。ある晩、酒場のカウンターで友人たちとグラスを片手に放談し、さて帰ろうとして気がつくと、上着の背が鋭い刃物で縦一文字に切り裂かれていた。
「これはいけない」と思ったそうだ。「生死の覚悟というような問題ではない。酒場で酔って刺されるなどは男の名誉ではないし、しかも、刺されたのならまだしも、背中に刃物を当てられて、それに気がつかなかったというのは醜態以外何物でもない。こんな飲み方と酔い方はやめよう」
 以来、飲めないのではなく【飲まない】児玉誉士夫が生れた。

 国士とか壮士の気風が確かに残っているエピソードである。上場企業の社長がTシャツで公の場に出てくる時代は、もはや正すべき襟(えり)すらないのだろう。信念とは誰も見ていないところで貫かれるものである。口にして宣伝する道具ではない。

 児玉がCIAの工作員であることを吐露したのは、CIAに裏切られたためではあるまいか。そんな気がしてならない。日本人は人が好(よ)すぎて国際関係で失敗することが多い。最大の原因は情報機関と国軍がないことに因(よ)る(『インテリジェンスのない国家は亡びる 国家中央情報局を設置せよ!』佐々淳行)。帝国主義はまだ死んでいない。先進国と名前を変えてのうのうと生き続けている。

獄中獄外―児玉誉士夫日記 (1974年)
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2018-08-04

戦前の高度なインテリジェンス/『秘境 西域八年の潜行』西川一三


『たった一人の30年戦争』小野田寛郎
『F機関 アジア解放を夢みた特務機関長の手記』藤原岩市

 ・戦前の高度なインテリジェンス

・『チベット潜行十年 』木村肥佐生
・『チベット旅行記』河口慧海
・『城下の人 新編・石光真清の手記 西南戦争・日清戦争』石光真人編
『サハラに死す 上温湯隆の一生』長尾三郎編

「あなたは親切心で言ってくれるのでしょうが、私は、ヒマラヤを、この体でこの二本の足で七度も越えて鍛え上げているのだ。私がこんな姿をしているのは、あなたのそんな親切なめぐみを、待ち望んでしているのとは、まったく意味が違う。私達は戦争には負けた。しかし、私は、精神的には負けてはいないのだ」
 日本人と同じ顔をした、栄養状態のよいこの米人は、顔色ひとつ変えずに私のはげしい言葉を聞くと、その軍服を片づけた。
 私とこの通訳とは、さらにその後半年、この個室で同じ毎日をつづけた。私が、自分の足跡の一切を、相手の質問の尽きるまで語りつくしたときは、完全に一年間が経過していた。通訳がこの間に、私から調べ上げた調書の原稿は数千枚にも及ぶうず高いものだった。彼は、この功によって二階級特進した。
 八年間死地をくぐり、日本政府から一顧にも付せられなかった私は、この間、日当一千円を米軍から受取っていた。当時、私にはかなり高額の金である。私は貴重な情報を、アメリカに売るのかという、心のとがめを感じないわけではなかった。が、それならば何故、外務省が私んしかるべき態度をとらなかったのかという反撥の心があった。すべて、敗戦のしからしめるところであったと思う。しかし私は、通訳と向き合う生活をはじめて間もなく、すすめてくれる旧師もあって私なりのひそなか決心を固めていた。なんのためという具体的な目標があったわけではないが、決してGHQには売らない八年間の自分の足跡というものを、自分のものとして真実の記録として残すことを思い立ったのである。

【『秘境 西域八年の潜行』西川一三〈にしかわ・かずみ〉(芙蓉書房、1967年/中公文庫、1990年)】

 西川一三は戦前の情報部員である。チベットに巡礼に行くモンゴル僧「ロブサン・サンボー」(チベット語で「美しい心」)を名乗り、チベット・ブータン・ネパール・インドなど西域秘境の地図を作成し地誌を調べ上げた。その活動はなんと敗戦後の1949年まで続いた(敗戦は1945年)。帰国後、直ちに外務省に報告をするべく訪ねたが、全く相手にされなかったという。直後にGHQから出頭せよとの命令があり、西川の情報を引き出すべく1年にも及ぶ取り調べが行われた。

 小野田寛郎〈おのだ・ひろお〉のように敗戦後も戦い続けた日本軍兵士や諜報員は数多くいた。たぶん数千人規模でひょっとすると万を超えていた。大半の兵士はアジア諸国独立のために加勢した。そのまま現地で生活をし続け、骨となった人々もまた少なくない。大東亜会議で掲げた理想の旗は日本が敗れても尚、アジアの地で高々と翻(ひるがえ)った。そんな彼らに国家は報いることがなかった。否、見捨てたといってもよい。こうしたところに真の敗因があったと思われてならない。

 日本人は個々人の志操は高いのだが組織になると「村」レベルの惨状を露呈する。武士はいたものの貴族が存在しなかったゆえであろうか。社会学の大きなテーマになると個人的には考えているのだが、小室直樹が触れている程度で手つかずのような気がする。厳しい階級制度がなかったことも遠因の一つだろうし、天皇陛下の存在が悪い意味での安心感を生んでいることも見逃せない点である。長らく外敵の不在が続いたことも体制がシステマティックにならなかった要因だ。そして体制が変わると閥(ばつ)がはびこるのも我が国の悪癖であろう(戦後、組織化に成功した日本共産党や創価学会においても同様である)。優秀な人材がいながらも江戸時代に総合的な学問が発展しなかったのも同じ理由と思われる。

 時代は変わっても日本人には職人肌なところがあるように思う。オタクなどが好例だ。現代にあっても国際的な舞台で活躍する個人は多い(中村哲〈なかむら・てつ〉やビルマの内戦を止めた井本勝幸など)。スポーツ、芸術、音楽、美術においても白人と伍し、漫画に至っては世界を牽引(けんいん)している。我々のDNAは個人や小集団で発揮するようにできているのかもしれない。

 官僚が支配する息苦しい日本で出世競争に血道を上げるよりは、若者であれば単独者として世界を目指せと言いたい。

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2018-07-30

白虎隊の落し児、柴五郎/『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子


『動乱はわが掌中にあり 情報将校明石元二郎の日露戦争』水木楊
『ある明治人の記録 会津人柴五郎の遺書』石光真人
『守城の人 明治人柴五郎大将の生涯』村上兵衛

 ・白虎隊の落し児、柴五郎

『日露戦争を演出した男 モリソン』ウッドハウス暎子
・『辛亥革命とG・E・モリソン 日中対決への道』ウッドハウス暎子
『國破れてマッカーサー』西鋭夫

日本の近代史を学ぶ

白虎隊の落し児、柴五郎

 交民巷の要・王府の防衛は、籠城者全員の命にかかわる。この大役を柴が担い、日本軍は度胸をすえた。そこへ、イタリア軍がのこのこ入ってきた。このイタリア兵と日本兵の組合せが実に奇妙で、イタリア兵は心ならずも日本兵の引立て役を演ずることになってしまった。それについては、外国人の口から語ってもらおう。以下は、ピーター・フレミングの著書『北京籠城』の一節である。
「戦略上の最重要地・王府では、日本兵が守備のバックボーンであり、頭脳であった。日本を補佐したのは頼りにならないイタリア兵で、日本を補強したのはイギリス義勇兵であった。
 日本軍を指揮した柴中佐は、籠城中のどの国の士官よりも有能で経験も豊かであったばかりか、誰からも好かれ、尊敬された。当時、日本人とつき合う欧米人はほとんどいなかったが、この籠城を通じてそれが変わった。日本人の姿が模範生として、みなの目に映るようになったからだ。日本人の勇気、信頼性そして明朗さは、籠城者一同の賞賛の的となった。籠城に関する数多い記録の中で、直接的にも間接的にも、一言の非難も浴びていないのは、日本人だけである」
 P・C・スミス嬢の前述の書における柴観は次の通り。
「柴中佐は小柄な素晴らしい人です。彼が交民巷で現在の地位を占めるようになったのは、一に彼の智力と実行力によるものです。なぜならば、第1回目(6月21日)の朝の会議では、各国公使も守備隊指揮官も別に柴中佐の見解を求めようとはしませんでしたし、柴中佐も特に発言しようとはしなかったと思います。でも、今(7月2日)では、すべてが変わりました。柴中佐は王府での絶え間ない激戦で怪腕を奮(ママ)い、偉大な将校であることを実証したからです。だから今では、すべての国の指揮官が、柴中佐の見解と支援を求めるようになったのです」
 スミスの記述にはだんだん熱が入り、柴から日本兵へ、そしてイタリア兵へと及んでいく。
「彼(柴中佐)の部下の日本兵は、いつまでも長時間バリケードの後に勇敢にかまえています。その様子は、柴中佐の下でやはり王府の守護にあたっているイタリア兵とは大違いです。北京に来ているイタリア兵はイタリア本国の中でも最低の兵隊たちなのだ、と私はイタリアの名誉のためにも思いたいくらいです」
 清帝国海関勤めのイギリス人下級職員、23歳のB・レノックス・シンプソン(ペンネームはパットナム・ウイール)は、籠城中、義勇兵となり、柴のもとに派遣されて戦った。彼は当時の日記を、1907年になって出版した。『率直な北京便り』というその題が示すように、実に遠慮のない日記である。彼の6月21日付日記をみよう。
「数十人の義勇兵を補佐として持っただけの小勢日本軍は、王府の高い壁の守護にあたった。その壁はどこまでも延々と続き、それを守るには少なくとも500名の兵を必要とした。しかし、日本軍は素晴らしい指揮官に恵まれていた。公使館付武官・柴中佐である。彼は他の日本人と同様、ぶざまで硬直した足をしているが、真剣そのもので、もうすでに出来ることと出来ないこととの見境をつけていた。ぼくは長時間かけて各国受持ちの部署を視察して回ったが、ここで初めて組織化された集団をみた。
 この小男は、いつの間にか混乱を秩序へとまとめ込んでいた。彼は自分の注意を要する何千という詳細事を処理することに成功していた。彼は部下たちを組織化し、さらに、大勢の教民を召集して前線を強化した。実のところ、彼はなすべきことはすべてした。ぼくは自分がすでにこの小男に傾倒していることを感じる。ぼくは間もなく、彼の奴隷になってもいいと思うようになるだろう」
 このように、ウイール青年は籠城第1日目にして、柴にほれこんでいる。

【『北京燃ゆ 義和団事変とモリソン』ウッドハウス暎子(東洋経済新報社、1989年)】


 ウッドハウス暎子ジョージ・アーネスト・モリソン(タイムズ紙特派員/1862-1920年)の研究者である。著作はすべてモリソンに関するもので、ジャーナリストが歴史を見つめ、歴史を動かしゆく様を実証的に描く。カテゴリーを「自伝・評伝」としたが学術書である。

 日清戦争(1894-95年)後、義和団という白蓮教(びゃくれんきょう)の秘密結社が貧困に喘ぐ農民を糾合して戦闘に至ったのが義和団事変(北清事変/1900-01年)である。

 義和団は清国各地で外国人やクリスチャンを襲撃した。言うなれば帝国主義・キリスト教宣教に対する攘夷運動である。北京にあった列国大公使館区域に襲いかかり、西太后がこれを支持したことで戦争状態に突入した。最終的には日本を含む8ヶ国の連合軍が出動して鎮圧したが、公使館区域での籠城(ろうじょう)は2ヶ月間に及んだ。

 阿片戦争(1840-42年)からの100年は中国大陸にとって蹂躙(じゅうりん)の季節だった。結局、清朝は亡び、中華民国は台湾へ追いやられた。鬱屈したエネルギーが共産主義革命の原動力となったに違いない。

 阿片戦争は日本の進路をも変えた。明治維新の直接的なきっかけとなったのは黒船来航(1853年)だが、指導層や知識人の問題意識は阿片戦争によって生まれた。

 大航海時代(15世紀半ば-17世紀半ば)を通して帝国主義が生まれ、ヨーロッパ人はキリスト教宣教の旗をなびかせながら有色人種を殺戮(さつりく)し、あるいは奴隷にした。逸(いち)早くそれに気づいた日本は鎖国(1639-1854年)をして侵略から防いだ。そのおかげで戦乱とは無縁の平和な時代が200年にも渡った。

 選民思想はユダヤ教に基づくものだがキリスト教もこれを受け継いでいる。神を理解せぬ者は虫けら以下の扱いを受ける。我々のような「一寸の虫にも五分の魂」という情緒は彼らに通用しない。虫に魂を認めないのが西洋の流儀である。血塗られた思想は20世紀に入りナチズムと共産主義の母胎となった。

 薩長の陰謀によって逆賊とされた会津藩出身の柴五郎がヨーロッパ人からの信頼を勝ち得たことに妙味を覚えてならない。しかも事変が起こった翌日は柴の40歳の誕生日であった。北京籠城を共にしたモリソンの報道や、イギリス公使クロード・マクドナルドの柴に対する篤い信頼が、やがて日英同盟(1902年)として花開く。1822年から「光栄ある孤立」を貫いてきたイギリスが初めての同盟国に選んだのが日本であった。

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2018-07-18

昭和黎明期のバンカラ柔道部/『北の海』井上靖


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也
『七帝柔道記』増田俊也

 ・昭和黎明期のバンカラ柔道部

『VTJ前夜の中井祐樹』増田俊也
『木村政彦外伝』増田俊也

「稽古はそんなに烈しいですか」
「まあ、烈しいと言えましょうね。朝稽古、昼稽古、夜稽古」
「ほう、すると、勉強は?」
「勉強なんて、そんな余分なものはしませんよ。勉強しに学校へはいって来たんじゃないから」
「じゃ、何のためにはいったんです」
 遠山が訊くと、
「もちろん、柔道をやるためですよ。僕は今年入学して来た1年下の連中に言ったんです。学をやりに来たと思うなよ、柔道をやりに来たと思え」
「ほう」
 洪作は、ここでもまた“ほう”と言う以外仕方なかった。

【『北の海』井上靖(中央公論社、1975年)、新潮文庫、1980年】

『しろばんば』、『夏草冬濤』(なつぐさふゆなみ)、そして本書で自伝三部作となる。井上靖は明治40年(1907年)生まれだから、旧制四高(しこう/現金沢大学)に入ったのは昭和2年(1927年)である。私と同じ旭川出身だとは知らなかった。旧制中学に主席で入学したというのだから元々秀才だったのだろう。主人公の洪作は複雑な家庭環境で育ち、非常に冷めた性格の持ち主となる。ところが受験を控えた時期に蓮見と出会い、春秋の色合いが深まる。

「それにしても、たいへんな学校ね。よくそんなところへはいる者がいると思うね。勉強もしないで、柔道ばかりやって」
「そう思うでしょう。僕もそう思う。だから、考えたらだめなんですよ。考えたら、柔道なんて、やれません。別に柔道家になるわけじゃない。高専大会で優勝することだけが目当なんですからね。でも、練習量がすべてを決定する柔道というものを、僕たちは造ろうとしている。そういう柔道があると思うんです。そういう柔道があるかどうかは、僕たちが自分でやってみないことには判らない。それをやろうと思っている」

 洪作は四高受験を決めた。「練習量がすべてを決定する柔道」との言葉が胸の内に響き渡り、全身を震わせた。まず感心するのは柔道部のスカウト活動である。様々な地域に足を運び、柔道経験者を次々と寝技の餌食にし、「勝つために力を貸して欲しい」と熱弁を振るうのだ。共産党のオルグ活動や日蓮系の折伏といい勝負である。柔道部の人間関係も軍隊というよりは宗教的な次元に近い。二十歳前後の若者とは到底思えぬほど立派な振る舞いである。

 杉戸は説明してくれた。なるほど少し登ると折れ曲り、また少し行くと折れ曲っている。
「腹がへると、何とも言えずきゅうと胃にこたえて来る坂ですよ。あんたも、あしたから、僕の言っていることが嘘でないことが判る。稽古のひどい時には、この辺で足が上らなくなる。なんで四高にはいって、こんなに辛い目にあわかねればならぬかと、自然に涙が出て来る」
「ほんとに涙が出るんですか」
「そりゃあ、出る。1年にはいって、1学期の間は、毎日のように、この坂の途中で涙を出す。実際に足が上らなくなるんだから、涙だって出て来ますよ。だが、1学期が終ると、大体諦めてしまう。こういうものだと思ってしまう。僕などは、現在、そうしたとこへ来ている。鳶のように深刻に考えたりしない。たいしたことではない。3年間、捨ててしまうだけの話なんだ」
「鳶さんも1年ですか」
「そう」
「僕は2年生かと思いました」
「2年の部員はすじ金入りですよ。人間らしい血なんて、1滴も持たなくなる。さかさにして振っても、人間の血なんか1滴も出て来ない。出て来るのは汗ばかりだ。そうなると、みごとですよ。六高(※現岡山大学)に勝つことしか考えなくなる。親のことも、兄弟のことも考えなくなる。考えることは、六高に勝つことばかりだ。人生も、学校の成績も、落第も、及第も考えなくなる。全く、ねえ、変な学生があるものだ」

 バンカラという言葉はハイカラをもじったもので蛮カラとも書く。だが、ここまでくると野蛮そのものである。獣のように力だけが支配する世界のわかりやすさがヒトの古い脳を刺激する。我々の社会にはびこる悪知恵や誤魔化しは一切通用しない。

 読み進むうちに『七帝柔道記』との違いがわからなくなり、不思議な混迷に襲われる。時代は違えども彼らは全く同じ青春を生きているからだろう。

 余談ではあるが、井上が育った静岡の言葉が味わい深く、洪作の四高行きを知った人々が集まってくる場面では、田舎の人々が実にしっかりとした口上で挨拶をしており、失われた文化を思い知らされる。

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2018-07-16

美しい青春/『七帝柔道記』増田俊也


『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也

 ・美しい青春

『北の海』井上靖
『VTJ前夜の中井祐樹』増田俊也
『木村政彦外伝』増田俊也

 ひたすら苦しく辛い練習が続いた。
 北大キャンパスで柔道部の時計だけが進まなかった。遅々として進まなかった。たった一日の休みである日曜日が来るまでがあまりに長かった。あまりに苦しかった。拷問のような時間だった。
 いや、毎日の練習が終わるまでの数時間でさえ、それまで経験した時間の流れの100倍にも200倍にも感じられた。500倍にも1000倍にも1万倍にも感じられた。ときに乱取り一本の6分間が数百時間にも感じられた。毎日毎日、残りの本数を数えながら乱取(らんど)りを繰り返した。汗の蒸気のなかで寝技乱取りを繰り返した。道場には汗の蒸気とうめき声しかなかった。いったい引退までにこの乱取りを何万本こなさなければならいのか――。

【『七帝柔道記』増田俊也〈ますだ・としなり〉(角川書店、2013年/角川文庫、2017年)】

 柔道の関連書として山口絵理子著『裸でも生きる 25歳女性起業家の号泣戦記』を挙げておく。七帝柔道(ななていじゅうどう/しちていじゅうどう)は高専柔道の流れを汲むもので寝技が中心である。異種格闘技で名を馳せるグレイシー柔術(ブラジリアン柔術)も同じ流れの中にある。一般的に知られるのは講道館柔道でかなりルールが違う。講道館ルールでは投げ技に続く寝技しか認められていないが、七帝柔道では引き込みが可能で、「待て」がなく、場外もなしで、勝敗は「一本」のみとなっている。関節技が決まっても「参った」をしない選手が多く、骨折に至ることが珍しくない。武道の中でも最も苛酷を極める。

 本書は増田俊也の学生時代を描いた自伝である。高校で柔道を経験した増田ですら悶絶するほどの苦しい練習だった。北海道警察への出稽古シーンなどはまさに修羅場といってよい。絞め技・関節技が中心で人体の限界を思わせるほどの壮絶さである。

 多くの人々がスポーツに魅了される理由は、彼らの苦行に秘密があるのだろう。ストイックな日々は修行そのものだ。のんべんだらりと毎日を過ごす我々は自分が見失った理想を彼らに見出す。宗教が色褪せたのは自らを苦しめる真剣さをなくしたためだろう。

 そしてこれだけの練習をしても北大は最下位だった。語り継がれる伝統と勝利への貪欲な責任感が宗教的な次元にまで高められ、その他の青春を全て犠牲にする。充実した青春は多いが美しい青春は稀(まれ)だ。




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2018-06-18

高いブロック塀は危険/『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎

 ・日常生活における武士道的リスク管理
 ・少女監禁事件に思う
 ・高いブロック塀は危険

『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ
必読書リスト その一

 娘である私に関することだけでなく、父は周囲に潜む危機にも敏感な人でした。
 例えば、高いブロック塀は危険だと言うので、わが家は東京あたりでは珍しく、格子状の白塗りのピケット・フェンスで囲まれていました。父が台湾の台南海軍航空隊に配属されていた頃、租界地の洋館でこれを見て、中の芝生で遊ぶ親子の姿に憧れたことも理由の一つです。しかし、見た目はおしゃれでも、間がスカスカ空いた木製ですから、素人考えでは防御機能は低そうに思われるため、ご近所の高く立派なブロック塀と比べた母は、「うちはこれでいいんですか」と心配します。
「いや、ブロック塀はかえって危ない」
 何が危ないかというと、父が言うには、まずは古くなって倒れたりすれば、どちらに転んでも危険だし、またもし車が突っ込んだ時も、板のピケット・フェンスならなぎ倒しておしまいですが、ブロック塀はぶつかった側に倒れ込み、そばにいた歩行者も車に乗っている人も怪我させることになりかねないと言います。ましてや、日本は有数の地震国、倒れたブロック塀の下敷きになったら「死ぬぞ!」と、真顔で説明します。
 父のブロック塀攻撃はさらに続き、ブロック塀は防犯上も危険だと言い始めます。悪い奴はたかだか2メートルの塀はゆうゆう乗り越すもので、いったん入ってしまえば、塀が死角となり、外を巡回するおまわりさんからも見えなくなります。侵入した泥棒にはしめたもの、ゆっくり仕事ができるじゃないか――。
 このように、あたかも機銃の集中射撃のごとく、ブロック塀の弱点に砲火を浴びせます。
 父はこのブロック塀危険論を、母だけでなくご近所にも熱く語っていました。もしかしたら、父の集中砲火を浴びてブロック塀に変えるのを取り止めた方もいらしたかもしれません。

【『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子(産経新聞出版、2012年/光人社NF文庫、2019年)】

 今朝の大阪北部地震で小学校のブロック塀が倒壊し小4女児が死亡した。坂井三郎が高いブロック塀の危険を指摘したのは50年ほど前のことだ。戦闘機乗りとして数々の修羅場をくぐり抜けてきた彼は生命に関わることをゆるがせにしなかった。危険を察知し見抜く力は如何(いかん)なく娘の子育てに生かされた。

 文明の進歩が逆に自然災害を甚大化させている。文明は効率を目指し、人々を効率に従わせる。集団の居住、集団の移動、そして集団から生まれる疎外。こうした問題は都市部において尖鋭化(せんえいか)する。

 高層ビルや自動車の内部にいると妙な安心感がある。外部の危険を捉えることは難しい。住宅も密閉率が高まり、外の音や匂いを遮断する。風向きすらわからない。

 生きることは迫りくる死の危険と戦うことでもある。少女の死を思えば我々は直ちにブロック塀対策を行うべきだろう。

2018-04-19

天才数学者の墓碑銘/『放浪の天才数学者エルデシュ』ポール・ホフマン


 ・天才数学者の墓碑銘

『My Brain is Open 20世紀数学界の異才ポール・エルデシュ放浪記』ブルース・シェクター

 やっと、これ以上愚かにならずにすむ。
          ――ポール・エルデシュが自分のために残した墓碑銘

 ポール・エルデシュは、本当にまれにしか現れない、たいそう特別な天才のひとりだった。にもかかわらず、わたしのようなただの人間といっしょに数学を研究することを、意識的に選んでくれたとわたしは思う。そして、そうしてくれたかれに感謝してやまない。かれが朝の4時にわが家の玄関先をうるとき、わたしのベッドへやって来て、「きみの頭は営業中かね」と尋ねることがなくなって残念だ。問題や予想だけでなく、およそあらゆる話題に関しても刺激的な会話が失われてしまったことが残念だ。しかしなによりも、人間としてのポールがいなくなってしまった、そのことが寂しい。わたしは心からかれを愛していた。
          ――トム・トロッター

【『放浪の天才数学者エルデシュ』ポール・ホフマン:平石律子訳(草思社、2000年/草思社文庫、2011年)】

 天才は風変わりだ。常識に縛られた我々の瞳にはそう映る。日本人の多くはエルデシュの生き方に惹かれることだろう。放浪よりも漂泊が相応しい。多くの数学者と共同論文を発表した姿が、どこか松尾芭蕉や小林一茶と重なる。

 それにしてもエルデシュの墓碑銘は皮肉が効いていて含蓄深い。凡人は努力することで能力が少しずつ増してゆくと考えがちだが、天才たちの能力に対する自覚はスーパーカーのメンテンナンスを思わせる。彼らは自分の最大出力を見極めた上で、余計な情報や加齢によって衰えてゆくことに歯止めをかけるよう心掛けているのだろう。とすると人の能力が変わることはない。残念ながら。振れ幅があるのは23歳くらいまでか。

「なんだってSFはわしに風邪をひかせるとこにしたんだ。理解できん」(SFは至上〈スプリーム〉のファシスト、天上にいるナンバーワンのやつ……エルデシュのメガネを隠したり、ハンガリーのパスポートを盗んだり、もっと悪いことに、ありとあらゆる興味深い数学の問題の明解な証明をひとり占めしていて、エルデシュをいつも苦しめる神のことだ)。
「SFは、わしらが苦しむのを見て楽しむために、わしらを創りたもうた。早世すれば、それだけ早くかれの計画を阻むことになる」とエルデシュは言ったものだった。

 神をも恐れぬ火星人は口癖のように悪態をつく。あからさまにキリスト教を批判するよりも洒落っ気があって楽しい。たとえクリスチャンであってもニヤリとしてしまうことだろう。

文庫 放浪の天才数学者エルデシュ (草思社文庫)
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2018-03-27

言うべきことを言い書くべきことを書いた教養人/『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘


『昭和の精神史』竹山道雄

 ・言うべきことを言い書くべきことを書いた教養人
 ・志村五郎「竹山を今日論ずる人がないことを私は惜しむ」

『見て,感じて,考える』竹山道雄
『西洋一神教の世界 竹山道雄セレクションII』竹山道雄:平川祐弘編
『剣と十字架 ドイツの旅より』竹山道雄
『ビルマの竪琴』竹山道雄
『人間について 私の見聞と反省』竹山道雄
『竹山道雄評論集 乱世の中から』竹山道雄
『歴史的意識について』竹山道雄
『主役としての近代 竹山道雄セレクションIV』竹山道雄:平川祐弘編
『精神のあとをたずねて』竹山道雄
『時流に反して』竹山道雄
『みじかい命』竹山道雄

 竹山道雄(1903-84)は、昭和前期は旧制第一高等学校のドイツ語教師であったが、敗戦後は『ビルマの竪琴』の著者として知られた。しかしそれ以上に日本の戦後の論壇では一大知識人として群を抜く存在感があった。左翼陣営からは「危険な思想家」とレッテルを貼られたが、その立場ははっきりしていた。語の根源的な意味における自由主義である。1936(昭和11)年の二・二六事件の後に軍部批判の文章を書くという反軍国主義であり、1940(昭和15)年にナチス・ドイツの非人間性を『思想』誌上で弾劾し、そしてそれと同じように敗戦後は、反共産主義・反人民民主主義で一貫していた。戦前戦後を通してその反専制主義の立場を変えることはなく、本人にゆらぎはなかった。日本の軍部も、ドイツのヒトラーのナチズムも、ソ連や東ドイツの共産主義体制も、中国のそれも批判した。その信条は自由を守るということで一貫しており、そのために昭和30年代・40年代を通しては、雑誌『自由』によって日本が世界の自由主義陣営に留まることの是(ぜ)を主張した。豊かな外国体験と知見に恵まれた文化人の竹山は、当代日本の自由主義論壇の雄で、この存外守り通すことの難しい立場を「時流に反して」守り通した。その洗練された文章には非常な魅力があり、論壇の寵児と呼ばれたこともあり、少なからぬ愛読者や支持者もあったと私は考えている。

【『竹山道雄と昭和の時代』平川祐弘〈ひらかわ・すけひろ〉(藤原書店、2013年)】

 平川祐弘は竹山の教え子であり娘婿でもある。身贔屓(みびいき)とならぬよう努めているのは確かだが、思い出の甘い味が筆を滑らせたような箇所がいくつか見受けられた。例えば上記テキストに「ナチス・ドイツの非人間性を――弾劾し」とあるが、私には「穏当な批判」としか感じられなかった(『独逸・新しき中世?』)。

 竹山が政治的にはリベラル志向であったことは確かだが彼は「主義者」ではなかった。オールド・リベラルに位置づけられるのはやむを得ないが、決して政治的メッセージを目的にした文章を書くことがなかった。つかみどころのない大きさがあり「作家」「評論家」という肩書きも相応(ふさわ)しいとは思えない。一言でいえば「教養人」となろうか。

 当初、「穏やかな批判者」と題したのだが、どうもしっくりこなかった。竹山は確かに批判したのだが「批判者」ではない。むしろ、「言うべきことを言い書くべきことを書いた教養人」と呼ぶのが適切だろう。

『昭和の精神史』と本書および『見て,感じて,考える』は佐渡出張で、『西洋一神教の世界』は新潟出張で読んだ。仕事ではあったが私の精神は竹山道雄を旅した。幼い頃から散々本を読んできたにもかかわらず、これほど大きな人物を見逃していたということは、やはり百田尚樹が言うように「朝日新聞によって抹殺された」というのが事実であったのだろう。更にその温厚な人柄や、ダンディを絵に描いたような風采、学生や外国人との人間交流は、日本人の美質を示しているように感じられた。

2017-08-22

神通力のオンパレード/『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ


・『ローリング・サンダー メディスン・パワーの探究』ダグ・ボイド
『人類の知的遺産 53 ラーマクリシュナ』奈良康明

 ・神通力のオンパレード

『クリシュナムルティの神秘体験』J・クリシュナムルティ

悟りとは

(1)魂の進化を霊的に指導する師をグル(guru)という。サンスクリットの語源は「やみ(gu)を追放するもの(ru)]
(2)「ヨガ」を行ずる者を「ヨギ」という。「ヨガ」はサンスクリットの“一体になる”の意で、神との意識的合一を得るための、インド古来の瞑想の科学である。(※脚註より)

【『あるヨギの自叙伝』パラマハンサ・ヨガナンダ:SRF日本会員訳(森北出版、1983年)以下同】

 原書が刊行されたのは1946年。パラマハンサ・ヨガナンダ(1893年1月5日-1952年3月7日)はアメリカでクリヤ・ヨガを広めた人物である。数年前に一度挫折しているのだが今回は読了できた。人によっては受け入れることが難しい本である。神通力のオンパレードで、クリシュナムルティと正反対に位置するといってよかろう。ヴァガバット・ギータースッタニパータ、ヨガナンダとクリシュナムルティという構図だ。迷いに迷った挙げ句、「必読書」に入れた。これにまさるスピリチュアリズムはない。ヨガナンダが創設したSRF(セルフ・リアリゼーション・フェローシップ)の目的の一つに「イエス・キリストの教えとバガヴァン・クリシュナが教えたヨガの根本的な一致を明らかにする」とある。八百万(やおよろず)の神のモデルはヒンドゥー教にあるのかもしれない。いずれにしても悟りを開いたと思われる人物が陸続と登場する。彼らの言葉に耳を傾けることは決して無駄ではない。(読書日記より)

 本書はスティーブ・ジョブズがこよなく愛した一書として広く知られるようになった。10代の時に出会い、毎年読み返していたという。エルヴィス・プレスリーやビートルズにも強い影響を与えた。『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のアルバムジャケットにはヨガナンダと師匠のスリ・ユクテスワ・ギリが描かれている。

(上段左端がスリ・ユクテスワ・ギリ)

(ボブ・ディランの左下がヨガナンダ)

 スリ・ユクテスワが謎めいた言い方をされることはめったになかった。私が先生の意中をはかりかねていると、先生は、私の心臓のあたりを軽くたたかれた。
 とたんに、私のからだは根が生えたように動かなくなってしまった。そして、肺の中の空気が、何か巨大な磁石にでも吸い寄せられるようにすっかり抜き取られたかと思うと、魂と心はたちまち肉体の監禁から解き放されて、透過性の光の流れとなって全身の気孔から外に流れ出てしまった。肉体は生気を失って抜けがらのようになってしまったが、私の意識は逆にはっきりとして、生きているという実感がかつてないほど強く感じられた。今まで肉体という小さな殻に限定されていた感覚の領域が拡大されて、周囲のいっさいの原子までも自分のからだとして感じられるようになった。遠くの道を行く人々も、私自身の中でゆっくり移動しているように見えた。そして、地中の草や木の根が薄暗い透かし絵のように透けて見え、その樹液の流れまでが見分けられた。
 近くのものは、すべてあらわに見ることができた。ふつう前方のみに限られている視野が、今や広大な全方位的視野に変わって、上下左右前後のいっさいのものが同時に知覚された。頭の後ろの方には、ライ・ガート小路(レーン)を散歩する人々の姿がはるかに見下ろせ、一頭の白い牛がゆっくりとこちらへ近づいて来るのが見えた。牛が僧院のあけ放たれた門の前まで来たとき、私には、それが肉眼で見るのと同じように観察された。そして、それが門の前を通り過ぎて、れんが塀の向こう側へ行ったあともなおはっきりと見るこができた。
 私が見つめているパノラマのような光景は、映画の画像のように、たえず小刻みに振動していた。私のからだ、先生のからだ、柱に囲まれた中庭、家具と床、樹木と陽光――これらはときおり激しく動揺したが、やがてすべてが一つの光の海に溶け込んでいった。それはちょうど、コップの水に砂糖を入れてかきまぜたときしだいに溶けてゆく結晶のありさまに似ていた。一方また光の海からは、同じ光の素材によって次々と新しいものが形成された。そして移り行くそれらの変化は、創造活動における因果の法則を示していた。
 突然、大海のうねりのような歓びが、私の魂の静かな岸辺に押し寄せて来た。『神の霊は尽きることのない至福だ!』私は悟った。『そしてそのみからだは、無数の光の織物だ!』。内なる栄光はしだいに膨張して私の町を包み、大陸をおおい、さらに地球、太陽系、銀河系、希薄な星雲、浮遊する島宇宙をも包含しはじめた。全宇宙はやわらかな光を放ち、無限に広がった私自身の中で、遠い町の灯のようにちかちかとあちこちで明滅している。そしてその外周を、明瞭な球形の輪廓を描いて、まばゆい光の層が取り巻いていた。さらにその外側のやや輝きの衰えたところに、一つのやわらかな美しい光が見えた。その光は、終始落ち着いたえも言われぬ霊妙な光で、これに比べると、星座を織りなしている光は、はるかに質の粗い光であった。
 永遠なるものの源から放射される聖なる光が燃えあがって星座を形成すると、それはたえなる霊光(オーラ)に変貌していった。私は何度も見た――創造の光が凝縮して星座をつくり出し、そしてそれがやがて透明な炎の広がりの中に溶け込んでゆくのを――。幾億兆とも知れぬ無数の世界が、律動的な周期とともに、透明な炎の輝きの中に溶け込むと、その炎の広がりは大空となった。
 私は、その大空の中心が、自分の心の奥底にある直覚の先端であることを認識した。壮麗な光は、私自身の中心から宇宙組織のあらゆる部分に放射されていた。永遠の至福の甘露が、私の体内を水銀のように流れながら脈打っている。そして、神の創造のみ声が、宇宙原動機の振動音オームとなって鳴りひびくのが聞こえた。
 突然、息が肺に戻って来た。私は、自分の無限の広大さが失われてしまったことを知って、耐えがたいほどの大きな失望に襲われた。

 宗教的スーパービジョンといっていいだろう(※本来、スーパービジョンは教育方法を指す用語だが、敢えて「超視覚」の意味で使った)。ただし自力ではないのが気になるところだ(最初は「悟りの光景」という記事タイトルにしていた)。まだ天人五衰(てんにんのごすい)の域を脱していないようにも見える。

「見てみたい」と望むことも執着であるし、「再び見たい」と願うこともまた執着なのだ。不可思議を経験するよりも、ありのままを見つめることが正しい。

 上記リンクを私は「悟り四部作」と名づけたが、ラーマクリシュナやヨガナンダはヒンドゥー色が濃くて苦手である。単なる超能力者としか思えない(笑)。ま、ローリング・サンダーも超能力者だわな。

 ヨガナンダは胸が厚く堂々たる体躯の持ち主だが元々は痩せており、ある朝目覚めると体重が20kgも増えていたという。西洋世界に打って出るための変身であったと書かれている。

 2014年にはドキュメンタリー映画『永遠のヨギー ヨガをめぐる奇跡の旅』が公開された。


 高価な本であるにもかかわらずamazonでは89件のレビューが寄せられ、その殆どが星五つの評価をつけている。

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2016-10-13

東條英機首相暗殺計画/『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也


『北の海』井上靖
『七帝柔道記』増田俊也

 ・『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』関連動画
 ・東條英機首相暗殺計画

『VTJ前夜の中井祐樹』増田俊也
『木村政彦外伝』増田俊也

『武術の新・人間学 温故知新の身体論』甲野善紀
『惣角流浪』今野敏
『鬼の冠 武田惣角伝』津本陽
『透明な力 不世出の武術家 佐川幸義』木村達雄
『石原莞爾 マッカーサーが一番恐れた日本人』早瀬利之
・『ヤクザと妓生が作った大韓民国 日韓戦後裏面史』菅沼光弘、但馬オサム
・『ナポレオンと東條英機 理系博士が整理する真・近現代史』武田邦彦
・『黎明の世紀 大東亜会議とその主役たち』深田祐介

日本の近代史を学ぶ

 もし暗殺が決行され、木村が東條とともに死んでも、牛島も間違いなく逮捕されて死刑になっていただろう。だから牛島は木村に仕事を押しつけたわけではない。決行するには若い木村の方が成功率が高くなると考えていたのだ。天覧試合時にも木村だけにきつい思いをさせることは絶対になかった牛島だ。全国民を守るため弟子の木村もろとも玉砕の覚悟だったのだ。
 勝負師牛島は、国の大事に、絶対に成功させなければならない計画に、自身が最も信頼する超高性能の“最終兵器”木村政彦を選んだのだ。もし内閣総辞職があと数日遅れれば、木村が東條暗殺を決行し、人間離れした身体能力と精神力で間違いなくそれを成功させたであろう。日本史は大きく塗り替っていたに違いない。

【『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』増田俊也〈ますだ・としなり〉(新潮社、2011年/新潮文庫、2014年)】

 第43回大宅壮一ノンフィクション賞、第11回新潮ドキュメント賞をダブルで受賞した作品である。『ゴング格闘技』誌上連載時(2008年1月号~2011年7月号)から話題騒然となった。ハードカバーは上下二段700ページの大冊である。単なる評伝に終わってなく、戦前戦後を取り巻く日本格闘技史ともいうべき重厚な内容だ。にもかかわらず演歌のような湿った感情が行間に立ち込めているのは、著者が七帝柔道の経験者であるためか。実際、増田は泣きながら連載を執筆し、「これ以上書けない」と編集者に弱音を漏らした。

 東條英機首相暗殺を計画したのは津野田知重〈つのだ・ともしげ〉少佐と木村の師匠・牛島辰熊〈うしじま・たつくま〉である。相談を受けた石原莞爾〈いしわら・かんじ〉が賛同した。東條英機は最悪のタイミングで首相となった。東條は陸軍大臣として対米開戦派であったが首相となって対米和平を強いられた。また性格に狭量さがあり敵対する人物を決して許さなかった。昭和天皇が後に「憲兵を使いすぎた」と東條を評したことも見逃せない。国家の舵取りが極めて困難な中で東條の負の部分が露呈したようにも感ずる。暗殺計画は青酸ガス爆弾を使うものだった。そして万一失敗した時に備えて木村政彦が用意された。言わば最終兵器といってよい。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

 表紙に配されたのは木村が18歳の時の肖像である。一見してわかるが「見せるための筋肉」ではない。鍛錬に次ぐ鍛錬から生まれた肉体が人間離れしており異形といってよい。木村に特定の政治信条は見受けられない。ただ師匠の命に従ったのだろう。ところが暗殺計画は東條内閣の総辞職によって実行されることはなかった。

 尚、東條英機については武田邦彦が「ナポレオン以上の英雄」と位置づけている。また菅沼本では力道山や大山倍達と彼らの祖国である朝鮮にまつわる記述があり、こちらも関連書として挙げておく。動画ページを既にアップしているがリンク切れが多いので再度紹介しよう。



2016-04-03

少女監禁事件に思う/『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子


『国民の遺書 「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選』小林よしのり責任編集
『大空のサムライ』坂井三郎

 ・日常生活における武士道的リスク管理
 ・少女監禁事件に思う
 ・高いブロック塀は危険

『新編 知覧特別攻撃隊 写真・遺書・遺詠・日記・記録・名簿』高岡修編
『今日われ生きてあり』神坂次郎
『月光の夏』毛利恒之
『神風』ベルナール・ミロー
『高貴なる敗北 日本史の悲劇の英雄たち』アイヴァン・モリス

日本の近代史を学ぶ

 災いを招くような行動をしないように気をつけていても、災いはいつどこでふりかかってくるか分かりません。しかし、常に心を引き締めて、覚悟していれば、より冷静に対応できると、父は言います。
「辻斬りは必ず後ろから、自転車で来るぞ」(中略)
「自転車辻斬り」(父はひったくりのことをそう呼んでいました)に、ハンドバッグをひったくられそうになっている時、ただ「きゃあ!」と叫んでも、無駄なことです。
「そんな暇があったら、相手の自転車を蹴れ!」
 反撃に驚いた相手が手を緩めたら、すかさずバッグを取り返し、逆方向に走れというのです。(中略)
 もし「辻斬り」と格闘になってしまったら?
 肥後守も懐剣も、持ち歩く時はバッグの底にあって、とっさには手に取れません。そういう場合は、ペンでも鍵でもハイヒールでも、手近のとがった備品で応戦できるように心の準備をしておくのが、父に言わせれば、サムライの娘のたしなみです。
「指輪もいいぞ!」
 そして後は、気迫です。
「殺されても、相手を無傷で帰すな。相手の首も取る気合で戦え」
 そのためにも、「手の爪は伸ばしておけ」と言われました。いざとなれば、それで相手をバリバリひっかくのです。その逆襲で相手を一瞬でもひるませたら、それこそバッグの底の懐剣や手近なとんがり備品でもって、首を取る気迫で応戦しろということです。
 父から見れば、この10本の爪は、いつも身につけていられる格好の武器なのです。

【『父、坂井三郎 「大空のサムライ」が娘に遺した生き方』坂井スマート道子(産経新聞出版、2012年/光人社NF文庫、2019年)以下同】

 坂井は娘の道子が小学校に上がるとナイフで鉛筆を削ることを教えた。長じてからは「護身用にもなる」と肥後守(ひごのかみ/折りたたみ式の片刃のナイフ)を渡した。学校もまだそれほどうるさくなかった時代の話である。それから刃渡り7cmほどの懐剣を持たせた。道子は現在でもベッド脇に置き、父からもらった砥石(といし)で手入れを行っているという。

 窃盗犯は音を立てるバイクを使わないと坂井は言ったが、バブル崩壊以降はバイクによる窃盗の方が目立つようになった。外国人の犯罪集団や窃盗団が日本に侵入してくることまでは予想できなかったことだろう。

「相手の首も取る気合で戦え」との一言に娘を持つ父親の杞憂(きゆう)が窺える。女性は性犯罪の対象となる。人類が行ってきた戦争の歴史は強姦の歴史でもあった。

 先日、大学生による少女監禁事件の被害者が2年振りに保護された。

 娘を持つ父親は必ず本書を読むべきだ。

(2階から)駆け下りてきた父は、古くなって色焼けした新聞紙を食卓に広げます。一面に、大きく一枚の写真が載っていました。(中略)
「これは、社会党委員長の浅沼稲次郎を、17歳の山口二矢(おとや)が壇上で刺殺せんとするところの図だ」(中略)
 なぜ時代劇から山口二矢の事件が飛び出してきたのか、父は熱心にその説明を始めました。山口が浅沼委員長を刺殺した動機について、世間では右翼思想にかぶれたためだと言われているが、そうではなくて、実のところは親の仇討ちだというのです。
 山口の父親は自衛官でした。そして当時の社会党は、自衛隊廃止論を盛んに展開していました。自衛隊を廃止するということは、山口にとっては自分の父親が職を失うということです。

Assassination of Asanuma


 ここで父は改めて、写真の中の山口の姿を私に示しました。
「この足のふんばりを見てみろ」
 父によれば、興奮して包丁を振り回すような人は全く腰が入っていませんが、山口は外足を直角にふんばり内足は相手に向け、短刀の束を腰骨にあてがい、戦闘の構えが理屈にかなっていると言うのです。武道の訓練を受けていたのかもしれませんが、それにしてもこの若さでこの構えはなかなかできない。山口の構えには覚悟が見えると。
 父はこの写真を通じて、本当の覚悟というものを私に教えたかったのではないかと思います。(中略)
 さて、このお説教の後、父は不意に「お前も練習だ」と言い出しました。「七つ道具」から出した竹の定規を私に握らせ、山口を同じ構えをせよ、と言います。
 もう難しい話は終わったようだと見計らって戻ってきた母が、「まあ、そんなことまで娘にさせるなんて」と眉をひそめますが、父は耳を貸しません。
「士族の娘なら、十三を過ぎれば敵と刺し違える技や覚悟、乱れない死に方ぐらいは心得ているものだ」
 その練習がしばらく続き、戸惑う自分と妙に興奮する自分に、不思議な感覚が走ったのを覚えています。嫌ではなかったのです。最後には、二人とも笑ったりしたものですが、山口二矢をお手本に「ふんばり」と「腰の突っ込み」を手ほどきしてくれた父の真剣な眼差しが忘れられません。

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」(『葉隠』)。死ぬ覚悟は殺す覚悟とセットであろう。我々は微温的な生活の中で「殺される可能性」を見抜く力を失いつつある。DVやいじめなどで殺されるケースや自殺に追い込まれるのもそのためだ。

 少女をさらった時点で相手は一線を踏み越えている。次の一線はもっと容易に踏み越えることだろう。この段階で「命に関わる問題」として受け止める必要がある。パワハラやいじめもそうだが、単に面子を潰されたとか、プライドを傷つけられたという次元を超える瞬間がある。そこを見極めることができないと殺される可能性が高まる。

 オウム真理教などの宗教犯罪にも同じメカニズムが働いている。逆らうことのできない人々が犯罪に加担してしまうのだ。彼らの顔つきはいじめを傍観する者と変わりがないことだろう。

 誘拐された場合、とにかく直ぐに逃げ出す機会を伺うことだ。自動車であれば運転を邪魔したり、いっそのこと飛び降りる。次に軟禁されたとしても相手が単独犯であれば恐れる必要はない。寝込みを襲えばいいのだ。鈍器で思い切り頭部を殴るか、包丁で頸動脈を切るのが手っ取り早いだろう。これを躊躇(ちゅうちょ)すれば殺される。殺されてしまえば相手はまんまと逃げおおせるかもしれない。そして次の被害者が生まれる。閉ざされた環境に身を置くと判断力がどんどん低下してゆく。ゆえに最初の果断が大事なのだ。私に娘がいれば、「殺される可能性を感じたら、迷うことなく殺せ」と教える。また、「仮に強姦されたとしても生きる支障とはならない。ただし相手が罪の発覚を恐れて殺す可能性があるのだ」とも教える。

 ジョナサン・トーゴヴニク著『ルワンダ ジェノサイドから生まれて』には強姦された後、便器のように扱われた女性の声が紹介されている。プーラン・デヴィ著『女盗賊プーラン』やジェーン・エリオット著『囚われの少女ジェーン ドアに閉ざされた17年の叫び』も参考図書として挙げておく。